だいみょうどうぐ【大名道具】落語演目

お願い、金勢さまライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

愉快なバレ噺の最高傑作。大名対大明神の戦いや、いかに。

【あらすじ】

さる殿さま。

男っぷりもなにも申し分ないお方だが、残念ながら男としての道具が相当に小ぶり。

欲求不満で業を煮やした奥方が、その方面にご利益があるという城下外れの金勢大明神に殿さまをむりやり引っ張っていき、モノをもう少し大きくしてもらうよう、祈願することになった。

もちろん、家中総出。

ところが、金勢さまのご神体は男子の一物を型どったもの。

四尺ぐらいのりっぱなものが、黒光りしてそそり立っている。

これを見せつけられた殿さま、カーッとなって
「おのれッ、余にあてつけおるなッ」

槍持ちの可内から槍をひったくると、拝殿にズブリと突き入れて、ご神体をゴロッとひっくり返してしまった。

さあ、怒ったのは大明神。

「いざ、神罰を思い知らせてくれよう」
と、その夜、天にもとどろく雷鳴。

殿さまの股間に冷たい風がスーッと吹いたかと思うと、ただでさえあるかないかだったお道具が、きれいさっぱりなくなった。

殿さまばかりか、家中三千人のモノまで、一夜にして一人残らず大切なものを取られてしまったから、大騒動。

あわててご神体を修理したが、お宝はいっこうに戻らない。

結局、山伏を招いて、秘法「麻羅返し」の祈祷をすることになった。

山伏が汗みどろで
「ノーマクサンマンダー」
とやっているのを見て、神さまも気の毒になったのか、修法三日目の夕刻、一天にわかにかき曇り、津波のような大音響とともに米俵が十俵、大広間にドサッ。

中からなんと、三千人分の道具がザーッとこぼれ出た。

殿さまは涼しい顔で、その中で一番大きなモノをくっつけると、さっさと奥へ入ってしまった。

さあ、それから広間は大混乱。

どれが誰のモノやら、わからない。

取り合いで大げんかになるやら、人のお道具を踏みつけるやらの騒ぎがようやくしずまったあと、まだ一人で大広間をごそごそ捜しているのが、槍持ちの可内で、家中第一の大道具の持ち主。

たった一つ発見したのは、四センチほどにも満たない代物。まさに、殿さまの所有物である。

「三太夫さま、あっしのがありません」
「そこにあるではないか」
「冗談じゃねえ。あっしのは、お城一番八寸銅返しってえ自慢のもんで」
「ああ、あれなら殿が持っていかれた」

可内、泣く泣くあきらめさせられたが、殿さまはめでたく「女殺し」に大変身。

三日三晩、寝所に居続けで、奥方は腰も立たないほど。

そこへバタバタと三太夫がやって来た。

「申し上げますッ」
「何事じゃ」
「ただいま槍持ちの可内めが、腎虚で倒れました」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【うんちく】

艶笑落語の大傑作 【RIZAP COOK】

スケールといい、奇想天外なストーリー展開といい、バレ噺の最高傑作の一つといえるでしょう。

原話は、明和9年(1772=安永元)刊の大坂小咄本『軽口開談儀』中の「大名のお道具紛失」と、安永年間(1772-81)刊の江戸板『豆談語』中の「化もの」。

このうち後者は、殿さま始め家来一同のエテモノを根こそぎさらうのが「化け物」とされているほかは、槍持ちの腎虚というオチまで、大筋はそっくりそのままです。

小島貞二によれば、能見正比古がこれらの原典を脚色、一席にまとめたものとか。能見は血液型による性格分類のパイオニアで知られる人。

当然ながら、口演記録はありません。

金勢大明神 【RIZAP COOK】

通称は金勢さま。金精神、金精大明神、金精さまなどとも呼ばれます。

男根の形をしたご神体をまつった神の一柱をさします。

金清、金生、魂生、根性、根精などとも、さまざまな当て字で表記されています。

男根の形をしたご神体をまつった神であることでひとくくりにされています。

とにかく、ご神体は噺中に出るとおり、巨大でいきり立った男根。これに尽きます。

男の永遠の憧れ、精力絶倫を象徴しているところから、五穀豊穣、安産、子孫繁栄、縁結びなどをつかさどります。

くから信仰を集め、社は日本全国に広く分布しています。

八寸胴返し 【RIZAP COOK】

平常時で24.24cm。いきり立つとどのくらいになるか背筋の寒くなる代物です。

「胴返し」というのは撃剣で、胴を払った太刀先をそのまま返し、反対側の胴、面、小手をなぐ基本技です。

ということは、ピンと反り返った「太刀先」が顔面を直撃……。まさかねえ。

腎虚 【RIZAP COOK】

江戸時代には腎気(精力)の欠乏による病気の総称でした。

狭義では、過度の性行為による衰弱症状です。

これの症例に関しては、「短命」で隠居がわかりやすく解説してくれます。

大名道具 【RIZAP COOK】

題名の「大名道具」とは、大名が持つにふさわしい一流品全般をいいます。

ところで、特に限定していう場合、「大名道具」とは、松の位の太夫のこと。

まさに、大名の権力と財力があって初めてちょうだいできる代物ということです。

太夫にかぎらず、お女郎のことを俗に「寝道具」ともいい、年期が明けてフリーになった遊女をタダで落籍するのを「寝道具をしょってくる」と称しました。

同じ「大名道具」でも、花魁はハード、男のモノはソフトというわけでしょうか。

どんなに特大のソフトを手に入れても肝心のハードがなければ、なんの意味もないわけです。いやはや。

【語の読みと注】
ご利益 ごりやく
金勢大明神 こんせいだいみょうじん
一物 いちもつ
麻羅返し まらがえし
腎虚 じんきょ

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

だんごべえ【団子兵衛】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

現在ではあまりやられることのない、珍しい噺です。

別題:団子兵衛芝居(上方)

あらすじ

七代目市川団十郎の弟子で、下回り役者の団子兵衛。

連日芝居のハネ(終幕)が遅く、その上師匠の雑用もあって帰りが遅い。

長屋では火の用心のため、四ツ(十時過ぎ)には木戸を閉めてしまうので、毎晩大家を起こして開けてもらわねばならず、肩身が狭い。

大家の方も度重なると機嫌が悪くなり、地主がおまえのところを倉庫に使いたいと言っていると、とうとう店だてを食わされる。

困った団子兵衛は、大家の子供に菓子をやったりしてお世辞を使い、その上、自分はこれでも師匠の団十郎と肩を並べる役者で、来月共演するとうそをつき、ようやくかんべんしてもらった。

大家はふだんから芝居など見ない堅物だが、
「そんなにえらい役者なら、どんな役をするのだろう」
と見たくなり、とうとう一張羅の羽織を着込んで見物に出かける。

出し物は、『桜姫東文章』で「清水清玄庵室の場」。

当然、主役だと思うから、清玄か桜姫か釣り鐘権助かと目をこらすが、団子兵衛はいっこうに現れない。

そのうち狂恋の清玄が桜姫を手ごめにしようとし、奴淀平に殺されて化けて出る見せ場。

淀平が花道に行きかかると
「奴め、やらぬ」
と斬られ役の雲助が出てくるが、それがお待たせの団子兵衛。

淀平に投げられて四つんばいになり、背中に足を乗せて踏みつけられる。

ヒョイと顔を上げると、土間の客席に大家。

「おや、団子兵衛さん」
「大家さん、今夜も木戸をお願いします」

【RIZAP COOK】

しりたい

原話は「情けがあだ」  【RIZAP COOK】

六代目桂文治(明治44年没)の、明治31年(1898)9月『百花園』掲載の速記が残っています。

芝居ばなしを得意にした人なので、後半の「清玄庵室の場」は、殺し場と、清玄が化けるシーンの長ゼリフをそっくり再現。本格的な怪談仕立てで演じました。

原話は安永2年(1773)刊『俗談口拍子』中の「雪の中の大家」。これは、落語と少しニュアンスが異なります。

独り者が毎晩遊びに出歩き、その都度深夜に木戸をたたくのを気兼ねして、路地の塀を飛び越えて長屋に入ります。大家は粋なところを見せ、「遠慮して塀など越えずに、何度でもたたくがいい。開けるのは大家の役だ」。男は喜んで調子に乗り、毎夜毎夜ドンドンドン。しまいには大雪の夜、寝入りばなをまたドンドン。大家、頭にきて、「ええい、今夜だけは飛び越えろい」。

きゃいのう  【RIZAP COOK】

下回り役者の悲喜劇を扱った噺には「淀五郎」「武助馬」などがあります。

昭和初期に柳家金語楼(1901-72)が創作した「きゃいのう」は、別題が同じ「団子兵衛」で、この噺をヒントに作られたものです。

下回り役者が、腰元の渡りゼリフ、A「もっとそっちに」B「行」C「きゃいのう」の、Cの「きゃいのう」だけを与えられますが、カツラにたばこの吸い殻が入ったのに気づかず、A「もっとそっちに」B「行」C「うーん、熱いのう」で、オチになります。

現在では、オリジナルの「団子兵衛」ともども、ほとんど聞かれなくなりました。

上方では同じ筋で、「団子兵衛芝居」といいます。

放浪の団十郎  【RIZAP COOK】

七代目市川団十郎(1791-1859)は、江戸後期から幕末にかけての名優です。

芸風は写実に富み、能の様式を歌舞伎に取り入れた「勧進帳」を始めとする市川家の家の芸「歌舞伎十八番」を設定しました。

天保の改革で、生活がぜいたくに過ぎるという理由で江戸を所払いに。長男に八代目を譲って、海老蔵、白猿などの芸名で上方や名古屋の舞台に立ちました。

九代目団十郎(1838-1903)は七代目の妾腹の五男です。明治の名優として名を馳せました。

ペーペー役者の悲哀  【RIZAP COOK】

役者の身分については「中村仲蔵」をお読みください。

この噺の団子兵衛の身分は、明治以後で新相仲、旧幕時代では下立役で、役者の最下級。通称を稲荷町。

楽屋稲荷が祭られる大部屋に雑居するのでこの名がついたといわれますが、諸説あります。

いずれにしても、大歌舞伎にいるかぎり、馬の脚から出発して、生涯せいぜい、この噺のようなその他大勢の斬られ役や、捕り手の役しかつかない下積みで終わります。

桜姫東文章  【RIZAP COOK】

『桜姫東文章』は四世鶴屋南北作の歌舞伎世話狂言で、文化14(1817)年3月、河原崎座初演。

鎌倉新清水寺の僧清玄が、吉田家の息女桜姫に邪恋を抱いて破戒。寺を追放された後、ストーカーとなって執拗に桜姫につきまとい、忠義の奴淀平に殺されても、なおも怨霊と化して姫に取り憑くという筋。

現在でも坂東玉三郎らによって、しばしば上演される人気狂言です。

【語の読みと注】
新相仲 しんあいちゅう
桜姫東文章 さくらひめあずまぶんしょう

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

のみのかっぽれ【蚤のかっぽれ】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

蚤がかっぽれを踊る、という珍品です。

別題:蚤の歌

あらすじ

年中馬の足ばかりやっている、下回り役者の家。

畳の隅っこを、蚤の母子がおそるおそる這いずっている。

おっかさんは元気いっぱいのせがれに手こずり、あのナフタリンという白い玉は毒ガスのようなもので、
「匂いをかぐと脳貧血を起こして死んでしまうから近づくんじゃないよ」
と、注意しているところ。

そこへ、この家の主人が、ご機嫌でかっぽれを踊って、帰宅。

「沖の暗あいのォに白帆が見える。あれは紀伊の国、エーヤレコレオッコレワイサノサ、みィかん船ェ」

蚤のせがれ、見ていておもしろくなり、まねして、ピョンピョンかっぽれを踊り出す。

母蚤はあわてて、あの男はおとうちゃんを親指でつぶして殺した。おまえには親の仇だと言うが、せがれは、もう上の空。

おっかさんの止めるのも聞かず、近くで見物しながら仇討ちにたっぷりと血を吸ってきてやると、畳の上に飛び出した。

「あ、かっぽれかっぽれ、甘茶でかっぽれ」と、男は夢中。

やっと毛脛に取りついたが、足を取られてうまく血が吸えない。

そこで背中に回り、着物の縫い目にしがみつく。

ところが、そのうち男が、どうもシラフでは調子が出ないと、一杯ひっかけに出かけたものだから、蚤のせがれ、逃げ出すこともできず、ベソをかいたまま、居酒屋まで運ばれていく。

こうなったら、覚悟を決めるしかしかたがない。

親の仇が腰を据えてチビリチビリやり出したので、こっちもかっぽれがまた始まるまでチビチビやろうと、縫い目からノソノソ這い出し、背中を歩き回ったから、男はたまらない。

肌脱ぎになって着物を振ったので、たちまち見つかって捕虜になってしまった。

「さあ、ちくしょう、いやがった。恐ろしく小せえ奴だ。さんざっぱらオレの血を吸いやがって。握りつぶすから、そう思え」
「おじさん、かんべんしてよ」
「なんだ、そのおじさんてえのは」

そこで蚤のせがれ、大熱演で命乞い。

おふくろが心配するからと泣き落とし、おまえんちにいるんだから家族の一員、血液型も同じだとやってみたが、まるで効果なし。

そこで、かっぽれを踊れると言うと
「そいつは珍しい。そんな蚤なら銭もうけになるから殺さねえ。踊ってみろ」
「おじさん、一杯ひっかけなくちゃ踊れないよ」
「蚤にしちゃ、粋な野郎だ」

盃をやり取りしているうちに、人間も蚤もすっかりでき上がり、いっしょに
「沖ィのくらいのォにアヨイヨイヨイヨイヨイ」

「うーん、うめえもんだ。小束にからげてちょいと投げたァ……おい、合いの手はどうした。おい、蚤の小僧……しまった、ノミ逃げされたか」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

にわかに蘇った「骨董品」 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、本来はマクラ噺でした。

「蚤の歌」と題するときは、のみがかっぽれの代わりに歌を歌い、オチは、
「歌が聞こえなくなったと思ったら、ノミがノミつぶれだ」
と、やはりダジャレで落とします。

「かっぽれ」が滅びつつある現在、まったく演じ手はない……と思いきや、ベテランの吉窓、馬桜をさきがけに、最近、やたらに若手がやり始めたようです。

これは、古今亭志ん朝が八代目雷門助六(1907-91)から教わった住吉踊りはじめ俗曲の数々を、寄席の芸人に呼びかけて大々的かつ定期的に踊っていました。

重鎮の金馬も円菊も参加していました。これが功を奏して、住吉踊りやかっぽれはいまに生き残ったのです。

助六は、寄席での噺を早めに済ませて残りの時間で踊っていました。

「あやつり踊り」「松づくし」「人形ばなし(二人羽織)」「住吉踊り」「かっぽれ」など。粋な芸人さんでした。

寄席芸の住吉踊り

甘茶でかっぽれ梅坊主  【RIZAP COOK】

かっぽれは俗曲で、ルーツをたどれば大坂・住吉大社(海がらみの神社)が発祥の「住吉踊り」です。

住吉大社の神宮寺の僧侶たちの発案だったとか。

明治の前までは、大きな神社には神宮寺という寺院が併設されていました。

神社に所属する僧侶を「社僧」「社家僧」と呼んだりしていました。

仏教と神道が混淆している状態。

前近代の日本はなんでもありのごちゃまぜ文化、その実態を知れば知るほど、日本で繰り広げられている文化には驚かなくなるものです。

神宮寺の僧侶とはいっても、限りなく願人坊主に近い格下の坊さん連中だったのかもしれません。

踊りには必ず「クドキ」(口説き、説教に近い形態)と卑猥な振り付けがあったそうです。

それがこの手の踊りの特徴です。

気取って舞うようなものではなかったのでしょう。

それこそが芸態の原初の形だったのでしょう。

上方では「やあとこせ」、江戸に伝わってからは「やあとこさ」と呼ばれていました。

現在使われている、「かっぽれかっぽれ、沖の暗いのに白帆が見える……」の詞章は、江戸にみかんを運んだ紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたといいます。

かっぽれは「活惚れ」と書き、江戸ことばで「かっぽれる」は、最高の称賛です。

ヒラキから寄席へ   【RIZAP COOK】

明治に入って、初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げました。

初代梅坊主(1854-1927)は、のちに「豊年斉」「太平坊」とも号し、大正末年まで活躍。

明治政府高官にも贔屓の多かった人物でした。多くの願人坊主が居住するのは神田橋本町(千代田区東神田)ですが、梅坊主も橋本町住まいでした。

この人は、寄席の形態を変えた人です。

明治初年には寄席とは別に「ヒラキ」という小屋風の簡易な寄席があちこちにありました。

お祭りの見世物小屋のような、あやうくておぼろげなものです。

寄席とヒラキは峻別されていたのですが、ヒラキのほうが人気があったことも多く、寄席側はヒラキの人気芸人を一本釣りして寄席に出入りさせました。

その代表格が梅坊主でした。この手の立体芸が寄席で演じられるようになりました。

劇壇のドン、意地のかっぽれ 【RIZAP COOK】

明治の劇聖にして劇壇の総帥、九代目市川団十郎が、高尚な活歴(歴史劇)ばかり演じるのを批判され、「かっぽれでも踊れ」と言われたことに反発。

河竹黙阿弥に「春霞月住吉」という常磐津舞踊を作ってもらい、梅坊主にも教えを受けて、その中で本式のかっぽれを踊ってみせました。

これが大好評。明治19年(1886)1月、新富座初演でした。

これは、明治初年、浅草仁王門前が舞台。官員の甘井官蔵が芸者連を引き連れて浅草見物に。

そこへ団十郎扮する大道芸人のかっぽれ升坊主が浴衣がけ、ねじり鉢巻き姿で登場。

住吉踊り、深川、かっぽれ、尻取り浄瑠璃、豊年踊りとにぎやかに、こっけいな所作をまじえて踊り分ける、という趣向です。

現在でも大幅カットの上、まれに上演されます。

【読みと語注】
這いずる:はいずる
親の仇:おやのかたき
毛脛:けずね
贔屓:ひいき
春霞月住吉:はるがすみつきもすみよし

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

はなよめのへ【花嫁の屁】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

もとは、小咄かマクラ程度の軽い噺だったものです。

【あらすじ】

ある田舎で婚礼があった。

ところが、いよいよ三三九度という時、花嫁が衆人環視の中、「プーッ」と一発。

面目ないと、あっという間に裏の井戸に身を投げた。

すると、花嫁の両親も、娘の不始末のおわびと、同じく井戸にドボン。

今度は婿さんが、嫁の一家だけ死なせては義理が立たないと、これも井戸へ飛び込んだ。

これを見ていた婿さんの両親、せがれと嫁が死ぬならあたしたちもと、これまた井戸底に直行。

最後に残った仲人夫婦、みなさんがお飛び込みなら、あたしたちもこうしてはいられないと、後を追って飛び込もうとしたら、井戸のところに赤い札で「満員」。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

時代を感じさせるオチ

オチは、路面電車に、当時(明治末から大正初期)「満員」の赤札が下がったことからきています。

噺としてはおもしろいのですが、時代色がつき過ぎ、現代の客にはまるで理解できないので、このあたりをうまく改作しないと、とうてい高座には掛けられないでしょう。

当時の東京の市電はやたらに故障し、満員になると、どんなに客が待っていてもあっさり通過してしまうので、評判は最悪だったとか。

大正中期ですが、「東京節」(添田さつき)の一節には、こんなものが。

東京の名物満員電車
いつまで待ってても乗れやしねえ 
乗るにゃケンカ越し命がけ 
やっとこさと空いたのが来やがっても 
ダメ、ダメと手を振って 
そのまま乗せずに行きゃあがる 
なんだ、故障車か
ボロ電車め

誰かやらないか?

速記、音源はおろか、口演記録もまったくない幻の珍品です。

三代目三遊亭円馬が明治末期、立花家左近時代に作ったという掌編で、マクラにでも使っていたのでしょう。

それにしては、実に皮肉な、カラシがきいた逸品で、埋もれさせるにはちと惜しいブラック落語です。

円馬に前座・二つ目時代に仕込まれた八代目桂文楽が自伝『あばらかべっそん』中で梗概を紹介しています。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かずとり【数取り】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

たまには趣向を変えて、ムフフな噺を。

【あらすじ】

町内の若い衆。

寄るとさわるとどこそこの誰はどこの娘とデキた、と噂をしあっている。

その前を通っていったのが、むちゃくちゃ色っぽい尼さん。

法衣の裾が、歩く度にチラチラとのぞいて、尼にしておくのはもったいないほどのいい女だが、はて、正体がわからない。

大工の留公が、あれは、実は紀州五十五万石のお姫さまで、さる旗本の若殿さまと許婚だったが、その若殿がポックリお亡くなりになったので世をはかなんで、しみひとつない生娘のまま尼になりなすったのだと、得意になって言いふらすと、そりゃア高嶺の花だと、一同よだれを垂らして、ため息ばかり。

ところが、そこに現れた八公が、
「明日きっとあの尼さんをモノにしてくる」
と大見得を切ってみせる。

翌朝、なにを考えたか、八公、ぼろをまとって顔には梅干しの皮で吹き出物をこしらえ、両手で竹の棒を突いて業病人を装い、尼さんの庵室目指して裏山を登っていく。

「そこにいるのは誰じゃ」

八公、あわれっぽい声で、
「自分はどの医者からも見放された重病人だが、ある夜、阿弥陀さまが枕元に立って『そちの病気は、富貴の家に生まれた若き尼僧にしっかり抱かれ、お念仏を唱えればたちまち治る』とのお告げがあったので、ぜひ、ご庵主さまのお情けを乞いたい」
と、とんでもないうそ八百を並べる。

尼さんも、阿弥陀さまの口添えでは簡単に断れない。

しかたなく、庵室に入れたのが運の尽き。

八公は「しめた」とばかり、だんだんと正体を現し、
「お床を敷いて、その中で抱いてください」
と言い出す。

「とんでもない。そのような淫らな」
「これは庵主さまのお言葉とも思えません。心が修行一筋でありなさるなら、邪心など起こらないはず」

こう言われては、しかたがない。

やがて、八公の手が胸のあたりをモゾモゾ。

「これ、何をしやる」
「修行が足りませんぞ」
「これ、そなたの手が、私の股のところへ」

なにをされても、ご修行が足りないの一点張りで、どうにもならない。

そのうちに、妙なものが、尼さんの腰のあたりで動く。

「こ、これ、この棒はなんじゃ」
「へえ、これは数取り棒でございまして、お念仏の数を取りますので」

そういうものかと、尼さんは一心不乱に
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」

やがて、両方とも、息も絶え絶え。

とうとう、尼さん、
「これ、お念仏はもうよい。数取りだけにしてくりゃれ」

【しりたい】

「オリジナル」では婆さんを

原話は安永2(1773)年刊の笑話本『今歳花時』中の「薬喰い」。

これは物乞いの老婆を犯すという設定で、オチは老婆が「病気が治まったらまたおいで」

古くは被害者(?)が旅の比丘尼であったり、戌の年月日そろった生まれの質屋の娘が、良縁がないのを苦に尼になったという設定もありました。

宇井無愁(上方落語研究家)は、この噺のさらに原型になる類話として、鎌倉時代中期に成立した説話集『古今著聞集』巻十六「興言利口」第二十五話を挙げています。

尼さんは蜜の味?

この「興言利口」では、若い僧が尼さんを見そめ、自ら尼に変装して弟子入りをし、三年間修行しますが、とうとうガマンできなくなり、ある晩、襲ってしまいます。

ヤラれて尼は持仏堂に走り、やたらに鉦を打ち鳴らしたあと、戻ってきて、「続き」をやってくれと迫るので、どうしたことかと鉦のわけをただすと、「あんまり気持ちよかったので、仏におすそ分けしてきた」

もっとも、昔からこの種の噺は各地の民話に流布しているようです。

絶品「いろはにほへと」

噺が噺だけに、演者の名が表ざたになることは少なく、現在ある速記のなかでは、五代目三遊亭圓楽(吉河寛海、1932-2009)の名があるだけです。

特筆されるべきは、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が円熟の絶頂期に出した艶笑小咄の名盤「いろはにほへと」の続集にこの噺が収録されていることです。

米朝ならではの粋な味わい、冴えた描写力、流麗で不潔さをみじんも感じさせない語り口は、絶品の一言。

数取り

多くの数を勘定するとき、忘れないために用意するもので、この噺の場合は男が、病気平癒の祈願のため、千遍念仏を唱えると言って尼さんをだますため、五十遍ごとに棒を一本「立てて」数を取るのだと、ごまかします。

もっとも、そのたびごとに「いっぺん、スッとこの中へ入れさしてもらいます」(米朝)と、とんでもない行為に及ぶのですが。

数取りには昔は棒に限らず、串を用いたり、オハジキやこよりを用いることもありました。

平安時代には「数差し」といって、歌合わせなどの際に、勝った数を数えて数取りの串を数立てに差し、今でいうボードゲームの得点表のように使ったとか。

怪しげな「尼さん」も

尼は比丘尼ともいい、梵語の「ビクシュニー」からきています。

尼寺の始めは、崇峻天皇3年(590)年に百済から帰朝した尼僧の善信らを桜井寺に住まわせた時とされます。

8世紀、聖武天皇が諸国に国分尼寺を建立、京都には尼寺五山が設立されました。

高貴な出身の尼僧が住む寺は比丘尼御所と呼ばれ、尊崇を受けたましたが、大部分の尼寺は単に「庵」と呼ばれ、住職を庵主さまと呼びました。

最下級の尼は諸国を放浪し、売春まがいのことも。これらは、歌比丘尼・熊野比丘尼などと呼ばれました。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

いもだわら【芋俵】落語演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

芋食って屁をこいて……。落語にはよくあることです。

別題:芋屁(上方)

あらすじ

泥棒三人組。

ある警戒厳重な店へ押し入るため、一計を案じる。

まず、一人が芋俵の中に入り、仲間二人が
「少しの間、店の前に置かせてください」
と頼み込む。

店の方ではいつまでたっても取りにこないから、迷惑して俵を店の中に入れる。

夜が更けてから、中の一人が俵を破って外に出て、心張り棒を外し、待機していたあとの二人を導き入れる。

とまあ、こんなふうにいけばよかったが、いかない。

小僧が俵を中に入れる時、逆さに立ててしまったから、俵の中の泥棒、身動きが取れず四苦八苦。

しかし、声は立てられない。

そのうち小僧と女中が、俵の芋をちょいと失敬して、蒸かして食べよう、どうせ二つや三つならわからないと示し合わせ、小僧が俵に手を突っ込む。

逆さだから、上の方が股ぐらあたり。

そこをまさぐられたから、泥棒、くすぐったくてがまんできなくなり、思わず
「ブッ」
と一発。

小僧、
「おやおや、気の早いお芋だ」

底本:五代目柳家小さん

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

しりたい

狂言がルーツ

狂言「柑子俵」を基にしたといわれます。笑話としては、明和4年(1767)刊『友達ばなし』中の「赤子」、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「いもや」などが原話として挙げられます。

後者では、だんなと芋売りの会話になっていて、だんなが、芋一升24文を18文に値切っているところへ、隣の男が出てきて、「いくらでお買いですか」と言いながら、屁をプッとひったので、芋売りが「モシ、だんな、商売のじゃまは困ります」と言う、わかったようなわからないような小咄です。

上方落語でも、まったく同じ筋で、題だけがそのものずばり「芋屁」といいます。

芋俵

焼き芋屋、神田多町の市場で川越芋を俵でまとめて買ったものです。

焼き芋は、寛政5年(1793)の暮れに、本郷四丁目の番屋で、番太郎が内職がてらに焙烙で焼いたものを売り出したのが起源とか。

小さん系の滑稽噺

代々の柳家小さんに受け継がれた噺で、五代目小さんも得意にしていました。

軽く、罪のない、たわいない噺なので、よく高座に掛けられます。

戦後のやり手は、五代目柳家小さんと六代目蝶花楼馬楽、五代目古今亭志ん生。小さんと馬楽は四代目柳家小さんから伝えられたわけです。

六代目柳亭小燕枝、柳亭小袁治、四代目柳亭市馬などがやります。

タネ本「柑子俵」

大蔵流の集狂言(主人公やテーマで分類しにくい雑多なジャンル)の一つで、そのあらすじは、以下の通りです。

●年の暮れ、山に住む柑子 みかんの原生種)売りが、季節のものであるので、都で売りさばいて安楽に年を越そうと、柑子を俵に詰めて担ぎ、とある里にさしかかった。ところが、ちょうど日が暮れたので、その里の知人に俵を一晩預け、翌朝取りに来ると言って立ち去る。その家の子供が俵を見つけ、中身の柑子を全部食べてしまう。見つかれば叱られるので、始末に困った子供は、一計を案じて鬼の面をかぶり、柑子の代わりに俵の中に入って一夜を過ごす。さて、夜が明け、柑子売りが戻ってきて、主人に礼を言い、荷を受け取って出発するが、どうも昨日より重い。不審に思って俵を下ろし、中をのぞいたとたん、恐ろしい面をかぶった子供が飛び出し、「さあ、取って食うぞ」と脅したので、柑子売りは肝をつぶし、悲鳴をあげて舞台袖に逃げ出す。「やるまいぞ、やるまいぞ……」で幕。

いつごろから、柑子が芋にすり替わったのかは、よくわかりません。

【語の読みと注】
柑子俵 こうじだわら
神田多町 かんだたちょう

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

せかいいっしゅう【世界一周】落語演目

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

映画「タイタニック」もまっさお。100年ほど前の噺です。

あらすじ

お調子者の秀さん、隠居のところへ訪ねてきた。

「わっちもなにかして名前を上げたい」と思ったが、名案が思いつかないので勧工場をぶらつくと、五厘で古新聞の「やまと新聞」を売っていたから買って読んでみた。

歩いて世界一周をした外国人のことが出ていた。そこで自分も行きたくなって、横浜から船に乗った。

以下、世界珍旅行の模様を得々と語る。

船に乗ってみると、なんと、知っている連中がワンサカ。

髪結床のおやじに薬屋の隠居、清元のお師匠さんに落語家講釈師、相撲幇間官吏、百鬼夜行、森羅万象、神社仏閣、オッペケペーの川上音二郎までいて、にぎやかな旅立ち。

天津まで行くと、船がバラバラ。「テンシンバラバラ」というくらい。

そこで、船を借り換えて、ホンコンからシンガポールへ。

そこで主人と家来がけんかしていて、家来が勝った。

「そういうわけで?」
「それもそのはず。臣が放る(シンガポール)」
「もう尾かえる」

そこからインド洋を渡り、アラビア海からスエズ運河を経てフランスのマルセイユ、パリ見物して英国に渡り、ロンドンは煙突の煙でなにも見えないので、ロンドン(=どんどん)急いでアメリカへ。

大陸を横断して、サンフランシスコから帰りの船。

一時間四十マイルも出る快速船で、じきに帰れると喜んでいると、途中で大嵐。

風雨はだんだん激しくなり、なにやらメリメリいいだしたと思ったら、あっという間に暗礁に乗り上げ、船には大穴。

船長、もはやこれまでと甲板に現れ、申し訳にピストルでいさぎよく自害。

アーメンというのが、この世の別れ。人間をヤーメンて冥土へ出帆。

それを見て、われも冥土のお供と、機関士も客もみな刺し違え、鮮血淋漓、血潮紅葉と取り乱し、無残なりけるありさま。

「はあ、大変だな。お前は助かったのかい」
「折れた帆柱に体をゆわい付け、一生懸命捕まっているうちに、船は千尋の海底に。漂っていると横浜が見えてきたので、やれうれしやと思ううちに、帆柱がズブズブ。ワッチは逆さまに沈んでいく」
「それは困った」
「一世一代の声で『助けてくれえ』とどなると、隣のかみさんが起こしてくれた」

全部夢の話。万国絵図の上で寝ていたというお粗末。冷たいと思ったら、自分のヨダレ。

底本:初代談洲楼燕枝

【RIZAP COOK】

【うんちく】

上方スペクタクル噺の改作 【RIZAP COOK】

初代談洲楼燕枝(1838-1900)の創作ですが、江戸の「ガリバー旅行記」ともいえる「唐茶屋」や上方落語のスペクタクル巨編「島めぐり」を文明開化向きにアレンジ、改作したというのが正確でしょう。燕枝は円朝のライバルで、柳派の人情噺の巨匠でした。

この「世界一周」のあらすじは、燕枝の死の直前、『文藝倶楽部』の明治33年(1900)2月号に掲載された最後の速記をテキストにしました。燕枝没後一世紀以上、やり手はありません。

オリジナルの速記では、隠居が「ドーンという音は?」と聞くと秀さんが「時計を見ましたら、十二時が五分ばかり廻って居ました」とオチています。これは、「ドーン」が明治の風物詩、午砲(ドン)を踏まえたと思われますが、肝心の「ドーン」の伏線が前になく、ただのミスでしょう。あらすじでは省略しました。

それでは、上方落語のスペクタクル巨編「島めぐり」のあらすじをご紹介します。「唐茶屋」については、その項をご参照ください。

「島めぐり」 【RIZAP COOK】

正しくは「万国島めぐり」。

アホの喜六が隠居宅で、「朝比奈島めぐり」の絵本を見せてもらううち、女護が島へ行ってみたくなり、さっそく異国通いの船で密航。小人国に置き去りにされ、殿さまを印籠の中に放り込む。そのまま進むと、やがて巨人国。今度は逆に、巨人の印籠に放り込まれる。息苦しくて印籠を開けて気付け薬をのもうとすると、小人の殿さまが丸薬に腰掛けて切腹していた。

印籠からつまみ出され、巨人の子供のなぶりものにされた喜六。脱走を試みるも、お釈迦さまの掌の孫悟空よろしくすべて失敗。ところが、巨人の竜巻のような屁に吹き上げられ、天空に舞い上がる。

落下したところは、待望の女護が島。この国始まって以来の男の客というので、たちまちVIP待遇。

ここからご想像の通り、露の五郎兵衛好みのポルノ落語に。風呂場で股間のエテモノを、山なす野次馬に観察され、質問責め。

「これは、何に使う棒ですねん?」
「こりゃ、あんたらのヘソ下を掃除する掃除棒やがな」

そこで、掃除希望が殺到。掃除料を取ったあげく、連日連夜の奮戦で棒はすり減る一方。

オチは
「こない仰山掃除してたらオレの命がもたん」
または、女たちが大喜びで、
「値が値だけのものはある」

とうとう逃げ出して「唐茶屋」へ。

世界一周狂奏曲 【RIZAP COOK】

ジュール・ヴェルヌ(1828-1906)がパリの「ル・タン」紙に「八十日間世界一周」を連載したのは1872年(明治5)です。

その奇抜な着想に刺激されてか、1889年(明治22)、米女性記者ネリー・ブライが、この小説のコース通り、ただしニューヨークを出発点に西回りで72日6時間11分の世界一周レコードを樹立。

それに続いて、同国のフィッツモリスらが1890年代を通じて次々と記録を更新し、ちょっとしたブームを巻き起こしました。

1903年(明治36)には、ヘンリー・フレデリックが54日7時間2分、1907年(明治40)にはバーンレイ・キャンベルがシベリア鉄道回りで40日19時間30分と、列車・汽船の発達で、記録は日進月歩という時代でした。

日本では明治維新後、知識階級の間で洋行熱が高まり、早くも明治3年(1870)には、仮名垣魯文(1829-94)が、十返舎一九の「膝栗毛」の主人公・弥次喜多に英国まで旅をさせる戯作「西洋道中膝栗毛」初編を刊行しています。

「八十日間世界一周」を川島忠之助(1853-1938)が初めて邦訳したのが、明治11-13年(1878-1880)でした。噺の中に出る「歩いて世界一周をした外国人」については未詳です。

川上音二郎 【RIZAP COOK】

川上音二郎(1864-1911)は、「マダム貞奴」の夫、新派劇の草分けにして、「オッペケペ節」の書生芝居の創始者として知られます.

上方落語の桂文之助に入門して「浮世亭○○(マルマル)」の芸名を持つ寄席芸人でもありました。落語はやらなかったようです。

音二郎貞奴夫婦の洋行は、明治31年(1898)から34年(1901)まで足掛け四年に及びました。

やまと新聞 【RIZAP COOK】

明治17年(1884)、「警察新報」として創刊。幕末の戯作者山々亭有人から、維新後にはジャーナリストに転じた条野採菊(1832-1902)によって、2年後、編集方針を一変して「やまと新聞」と改名。

三遊亭円朝の速記が掲載されて人気を得ました。

円朝人気で発行部数を維持するため、円朝晩年のいくつかの作品は条野自らがこさえた作品だといわれています。

やまと新聞は、芸界や花柳界のゴシップ、スキャンダルを暴く大衆紙として長く大衆的人気を保ってきました。

ライバルの「万朝報」が主に政界の醜聞を暴いたのに対し、こちらはもっぱら軟派に徹したため、読者層も分かれました。

円朝の没年である明治33年(1900)あたりを境に、条野自身が経営や編集から退き、紙面は大きく変わりました。

大正期の第一次護憲運動を擁護する御用新聞とみなされて社屋を暴徒に襲撃されたり、大正12年(1923)の関東大震災では社屋を焼失したりして、大きく衰退しました。

昭和前期には右翼国粋主義を主張する新聞と変貌し、昭和18年(1943)には右翼の児玉誉士夫(あの!)に移りました。

太平洋戦争末期、昭和20年(1945)5月、新聞統制などで廃刊となりました。

児玉は昭和21年(1946)10月、児玉は「やまと新聞」を復刊しましたが、その後、「新夕刊」「日本夕刊新聞」「国民タイムズ」「夕刊東京スポーツ」「東京スポーツ」と名称を変更していきました。

経営も児玉から高源重吉、三浦義一、永田雅一などに移っていきました。

警察系の新聞からスタートしたやまと新聞。

時代に翻弄されながらも、つねに政府擁護の姿勢で変遷していったのが、この新聞の特徴といえるでしょう。

【語の読みと注】
山々亭有人 さんさんていありんど
万朝報 よろずちょうほう

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しなんしょ【指南書】落語演目

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

なかなかシャレた小品。こんな便利な書物があるといいんですが。

【あらすじ】

亭主のやきもちが原因で、夫婦げんかが絶えない夫婦。

おやじが心配して、檀那寺の和尚さんにせがれを預け、寺で精神修養させたところ、その甲斐あって、だんだん人間が変わってきた。

その和尚が重病にかかり、いよいよという時、若だんなに
「もう少しだけ、おまえには仕上がっていないところがある。それが心残りだが、これを渡しておくので、腹が立ったりした時は、どこでもこれを開いてみなさい」
と言い残して、息を引き取る。

その本の表紙には『指南書』と書いてあった。

修行のせいか、若だんなの心も練れて、それからは夫婦円満に暮らしていたが、ある時、叔父さんのところへ五十両届ける用事ができる。

大金を持っているから、道中話しかけてくる人間が、みんなうさんくさく見える。

「いっしょにしゃべりながら行きましょう」
と近づいてくる男がいるので、てっきりゴマノハエが金を狙ってきたのだと思って、例の指南書を開いてみると、
「旅は道づれ、世は情け」

船着場から舟に乗ろうという時、あと二人でいっぱいだという。

連れの男はぜひ乗ろうと勧めるが、まだ指南書を開くと、
「急がば回れ」

そこで、無理して遠回りして歩いて行くと、急に激しい雨。

指南書を見ると、
「急がずば 濡れざらましを 旅人の あとより晴るる 野路の村雨」
とあるので、雨宿りしていると、なるほど、間もなく雨は上がった。

叔父さんの家に着くと、びっくりしたように
「どうやって来た」
と聞くので
「歩いてきました」
と答えると
「それがよかった。さっきの夕立で渡し船がひっくり返り、人が大勢死んだらしい」

驚いて浜に行ってみると、最前の道連れの男の死骸も転がっている。

仏のお導きと胸をなで下ろし、叔父さんが
「一晩泊まっていけ」
と言うのを、
「女房が心配しているから」
と断って、急いで家に帰ってみると、もう夜更け。

見ると、かみさんが男と一つ床。

かっとして、重ねておいて四つにと思ったが、気を取り直してまた指南書を開けてみると
「七度尋ねて人を疑え」

女房を起こして
「おい、ここに寝ているのは誰だ」
「兄さんですよ。舟がひっくり返ったと聞いて、心配して来てくれたのさ」

次の朝。

義兄にわびを言って、土産の餅を皆で食べようとすると腐っている。

おかしいと思って、またまた指南書をひもとけば
「うまいものは宵に食え」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【うんちく】

上方創作落語の祖

オリジナルは、大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、寺の法話をヒントに、明治後期にものした新作落語です。この人は、明治・大正における上方の創作落語のパイオニアとでもいうべき存在。

ほかにも、「動物園(ライオン)」「象の足跡」「電話の散在」など、今も高座に掛けられる、質の高い新作を多数残しています。落語家にはまれな品行方正で鳴る人であったらしく、「指南書」にもその生真面目さの一端がかいま見えています。京都の高台寺門前で今も続く甘酒屋「文之助茶屋」の創業者でもあります。

孫弟子が継承するも

東京にも移植されましたが、これといった特定の演者の音源や速記は見られません。

桂米朝も手掛けていましたが、文之助の子息、三代目笑福亭福松の門弟で、いわば孫弟子筋の初代森乃福郎が継承し、しばしば演じていました。この人は、ほかにも「象の足跡」ほか、多くの文之助落語を復活させましたが、惜しまれる早世(1998年、享年63)により、中絶。二代目福郎が師匠の遺志を継いで文之助落語を継承、高座に掛けています。

心理描写に富む上方演出

初代福郎に伝わった本家の上方演出では、東京の速記(三一書房『古典落語大系』収録)に比べて主人公の不安な心理を、リアルにきめ細かく描写しています。

とりわけラストの、愛妻の姦通を疑う場面の懊悩と動揺はあっさりした東京のものに比べ、悲痛といえるほど。このため、全体的にかなり長くなっています。

例えば、この場面では最初、指南書を見ると「ならぬ堪忍するが堪忍」が出てくるので、とても納得できず、いっそ四つ斬りにと思い詰めながら再度思い直して指南書を再びめくり、「七度尋ねて…」を得ることにしてあります。

上方では男が船に誘われるのは、大津から草津へ渡す矢橋船、土産に買うのは草津名物の「姥が餅」で、女房と寝ていたのは義兄でなく義母というのが、東京と異なるところです。

初代福郎がNHKで放送したとき、この「姥が餅」が特定の登録商標だという理由で、名前を出すことができなかったという逸話があります。

ロシア版「指南書」

この噺のパターンとかなりよく似ているのが、ロシア民話「よい言葉」です。そのあらすじは以下の通り。

金持ちの商人の子イワンは、父親の死後放蕩に身を持ち崩し、路頭に迷う身に。それでも美男だったので、賢く美しい妻をめとり、妻が織るじゅうたんを売って生計を立てている。妻はある日、イワンに、市場へ行って金でなく、ためになる「よい言葉」と引き換えにじゅうたんを売るよう言い渡す。そこでイワンはふしぎな老人に最初は「死を恐れるな」二度目は「首斬る前に起こして尋ねろ」という言葉を授かる。やがて、叔父の商用について航海に出たイワンは、海上で海の裁きの女神に招かれ、「死を恐れるな」という第一の箴言を思い出して、勇気を奮って海底にもぐり、女神の悩みをとんちで解決。報酬に、巨万の富を得る。イワンはさらに世界中を回って商いを続け、二十年後、大金持ちになって家路につくと、妻が二人の若者とベッドに横になっていた。思わずかっとなって、剣を引き抜いて姦夫姦婦を成敗しようとするが、ここで二番目の教訓を思い出し、妻を起こして問いただすと、若者二人は、自分の留守中に妻が出産した双子の息子だった、というわけで、めでたしめでたし。

つまるところ、人間が窮地に陥ったときの行動類型や藁にもすがりつきたくなる心理は、洋の東西を問わず変わらないということなのでしょう。

【語の読みと注】
檀那寺 だんなでら:菩提寺

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

さんすけのあそび【三助の遊び】落語演目

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

落語版「影武者」(黒澤明監督の)です。

【あらすじ】

上京して湯屋で釜焚きをしている男。

今日は釜が壊れて店が休みなので、久しぶりにのんびりできると喜んだが、常連客が次から次へとやってきて、その度に
「今日は休みかい」
と聞かれるので、うるさくてしかたがない。

やむなく外をぶらついていると、ばったり会ったのが知り合いの幇間の次郎八。

「どうせ暇なら、吉原でも繰り込もうじゃ、げえせんか」
と誘われるが、どうも気が進まない。

というのも、職業を明かすとお女郎屋ではモテないから、この間、素性を隠して友達と洲崎の遊廓に行ったら、相棒が
「古木集めて 金釘貯めて それが売れたら 豚を食う」
という、妙てけれんな都々逸をうたったため、バレてしまって女郎に振られた苦い経験があるからだ。

それでも次郎八が
「あーたを質両替屋の若だんなという触れ込みで、始終大見世遊びばかりなさっているから『たまには小さな所で洒落に遊んでみたい』とおっしゃっている、とごまかすから大丈夫」
というので、四円の予算だが、半信半疑でついていくことにする。

「あたしのことは家来同然、次郎公と呼んでください」
と念を押されて、さて吉原に来てみると、客引きの牛太郎に
「だんなさまは、明日はお流し(居続け)になりますか」
と聞かれて
「いや、わしは流しはやりません」
と早くもボロが出そうになるので、次郎八はハラハラ。

危なっかしいのを、なんとか次郎八がゴマかしているうち、お引き(就寝)の時間になる。

当人は次郎八以上にハラハラ。

お女郎同士が「あの人はオツな人だけど、白木の三宝でひねりっぱなしはごめんだよ」
と話しているのを聞いて、お女郎屋の通言で、一晩きりはイヤだという意味なのを、銭湯でご祝儀を白木の三宝に乗せて客が出すことと間違え、バレたのではないかと心配したり
「炊き付けたって燃え上がるんじゃないよ」
と言うので、またビクビクしたりの連続。

これは「おだてても調子に乗るな」という意味。

その度に次郎公、次郎公と起こされるので、しまいには次郎八も頭に来て
「さっさと寝ちまいなさいッ」

しかたなく寝ることにして、グーグー高いびきをかいていると花魁が入ってきて
「あら、ちょいと、お休みなの」
「はい、釜が損じて、早じまえでがんす」

【しりたい】

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

「小せん」から志ん生へ

原話は不明です。明治中期までは、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

現在残る古い速記は、明治34年(1901)7月、「文藝倶楽部」に掲載の三代目柳家小さんのもの、大正8年(1919)9月に出版された、初代柳家小せんの遺稿集『廓ばなし小せん十八番』所収のものがあります。

先の大戦後は、おそらく小せん直伝と思われる五代目古今亭志ん生の一手専売でした。

明治の小さんでは、三助が吉原で振られて洲崎遊郭へ行く設定で、したがって舞台は洲崎でした。門下の小せんの演出では、本あらすじで採用したとおり、反対に洲崎で振られて、吉原に行きます。

志ん生は、二度とも吉原で、以前振られた原因となった都都逸の最後を「これが売れたらにごり酒」としていました。

志ん生没後は、三助そのものが死語になり、噺に登場する符丁などの説明が煩わしいためか、演じ手はありません。

三助

湯屋の若い衆の異称でした。使われだしたのは文化年間(1804-18)からです。

別に、下男の「権助」の別称だったこともあり、下働きをするという意味の「おさんどん」から付いた言葉です。やや皮肉と差別意識を含んだ「湯屋の番頭」という別称も使われました。

同じ三助でも、釜焚きと流しははっきりと分かれており、両方を兼ねることありません。

この噺の主人公は釜焚き専門です。

昭和初期に至るまで、東京の銭湯は越後(新潟県)出身の者が多く、第36代横綱・羽黒山政司(1914-69)も、新潟県から出て、両国の銭湯で流しの三助をやっているところを、その体格が評判になり、立浪部屋にスカウトされています。

歌舞伎では、二代目市川猿翁が猿之助時代に家の芸である澤瀉十種の内、オムニバス舞踊「浮世風呂」中の「三助政吉」で三助に扮したことがありした。これは四代目猿之助にも継承されています。

洲崎遊廓

前身の深川遊廓は、江東区深川富岡八幡宮周辺で「七場所」と称する岡場所を形成し、吉原の「北廓」に対して「辰巳」として対抗しました。

文化文政期には、「いなせ」と「きゃん」の本場として通に愛されましたが、遊廓は天保の改革でお取りつぶしとなりました。

明治維新後、現在の江東区東陽一丁目が埋め立て地として整地され、明治21年(1888)7月、根津権現裏の岡場所がここに移転。新たに洲崎の赤線地帯が生まれました。

最盛期には百六十軒の貸座敷、千七百人の娼婦、三十五軒の引手茶屋がありました。

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しんぶつろん【神仏論】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

これは珍しい。
日本にもまれにあったらしいのです。
宗教戦争のお話。

別題:神道の茶碗

【あらすじ】

石町新道で、骨董屋を営む夫婦。

かみさんが一向宗、亭主が神道の熱心な信者。

朝起きると亭主が
「天照皇大神宮、春日大明神、住吉大明神」
と唱えれば、かみさんは
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ」

そんなことだから、家の中はのべつ宗教戦争。

夏に亭主がノミを捕まえ、
「こいつは人の血を盗む憎い奴だから死罪に処するが、ひねりつぶしても生き返るし、火にくべれば神棚を穢すからハリツケにする」
と言うのを、女房がだまして逃がしてしまったから、また一騒動。

「生き物の命を取るのは、殺生戒を破るからいけない」
とかみさんはいう。

「盗みなら、あなたの方がよっぽど」
「オレがなにを盗んだ」
「あなた、二、三日前に女中のお初のところに夜這いに行ったじゃありませんか。ああいうのを豆泥棒といいます」

釈迦が自分の股の肉を削いで鷹に与え鳩を助けたという故事を長々と並べ立て
「このハゲ頭。ちっとはお慎みなさい」
と、やっつけるものだから、亭主は頭にきて、
「日本は神国、このありがたい国に生まれながら天竺の仏を祟めるのはけしからん」
と、反撃開始。

古事記の国生み神話の講釈を並べるうちに、だんだん脱線。

「八百屋お七を見ろ。宗旨が法華だから、七字の題目の頭を取って親がお七と名付けたが、あの通り火あぶりになった。法華の餓鬼は火あぶりになるんだ。梅川忠兵衛の浄瑠璃を聞いたか。忠兵衛は一向宗の門徒で、あの通り引回しの上、獄門だ」

しだいにエスカレートし、ついに亭主が女房の胸ぐらを取って、実力行使。

「アーレー、喉の仏さまが痛い」
「人の体に仏があってたまるか」

ポカポカと殴る。

あわてて女中が止めに入っていったんは収まったが、女房、お茶を一杯飲んで
「あつつつ、これお竹、熱いじゃないか。喉の仏様を火傷したよ」
と言うと、亭主、
「ざまあ見やがれ。喉仏を火傷するはずだ。茶碗が新渡(しんとう=神道)だもの」

底本:四代目春風亭柳枝

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

うんちく

豆泥棒、梅川忠兵衛など 【RIZAP COOK】

夫婦げんかの言い合いに登場する言葉のうち、昔はごく普通の日常語として使われていた言い回しや故事も、現在では外国語のスラング並みに、ほとんど注釈がいるハメになりました。

●「豆泥棒」は、間男または夜這いのこと。

●「釈迦が、自分の股の肉を削いで……」は、「ジャータカ」(釈迦転生説話)が原典。

●「梅川忠兵衛」は、近松門左衛門作の「冥途の飛脚」、菅専助作「けいせい大和飛脚」の主人公。現在でもよく歌舞伎・文楽で上演される、悲劇のカップルです。

骨董屋と道具屋 【RIZAP COOK】

ともに古物商ですが、一般に骨董屋は高級品で古美術品に近いものまで扱いました。

道具屋になると、「火焔太鼓」「道具屋」に登場するようにかなりインチキくさいものまで売っていて、「キリ」の方になると、店舗を持たない露天商も多かったわけです。

新渡 【RIZAP COOK】

この噺の別題でもありますが、オチのダジャレのタネだけに、あらかじめ説明しておかないと、現在ではどうにもなりません。

新渡は古物商の用語で、外国(古くはおもに中国)から江戸時代以後に渡来した品物のこと。

ちなみに、室町時代以前の渡来物を「古渡(ことう、こわたり)」、その中間の室町、戦国、安土桃山時代のものを「中渡」と呼びました。

師弟の因縁 【RIZAP COOK】

この四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)は、のち隠居名・華柳を名乗りましたが、昭和2年(1927)4月20日、NHKのラジオ出演中に脳卒中で倒れ、そのままなくなりました。享年58歳。

ところが、32年後の昭和34年(1959)9月23日、この人の弟子でだった八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が、やはり同じようにラジオ放送中に、師匠とまったく同じ脳出血で人事不省に陥り、同年10月8日に死去。

オカルトめいたことを連想させる、因縁話です。

原話は不詳 【RIZAP COOK】

原話はまったく不祥で、明治以後は口演記録もなく、まったくすたれた噺です。別題を「神道の茶碗」「新渡の茶碗」とも。

四代目春風亭柳枝が小柳枝時代の明治31年(1898)3月、雑誌『百花園』に載せた速記が、現存する唯一の記録です。

柳枝は明治中期から昭和の初めにかけて、品格のある芸風で一家をなした人です。

演者がマクラで、「腹の中へ大事に仕舞って置きましたのを、お勧めに委(まか)して申し上げます」と断っているので、あるいはこの人の若いころの創作かもしれません。

明治の初めはいわゆる「廃仏毀釈」の嵐が吹きすさび、神道が「ハバをきかせていた」時代なので、それを揶揄するような噺も多く生まれたと思われ、この噺も、何らかの実話をもとにしているのかも知れませんが、推測の域を出ません。

古色蒼然とはしていますが、宗教上のいがみあいというのは現在でもいたるところにあり、アレンジ次第では復活してもおもしろそうです。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

しばいずきのどろぼう【芝居好きの泥棒】落語演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

泥棒が婚礼宴の後に忍び込む、という設定自体が奇妙ですね。

別題:二番目

【あらすじ】

芝居好きの泥棒が犬に吠えたてられて、さるお屋敷に入り込む。

ちょうど婚礼の後らしく、入ってみると酒宴の後のごちそうや酒がまだ片付けられずに散らばり、使用人たちも全員酔いつぶれて白川夜船。

これ幸い、と徳利に残った酒を失敬して、グビリグビリ。

そのうち酔っぱらってきて、まぬけにも自分で
「お泥棒さまがへえったぞ。酒を持ってこい」
と、大声でオダをあげたから、寝ていた奴が目を覚ました。

庖丁を持っているかも知れないから怖いし、どうせ取られても自分の金ではないので、皆そのまま寝たふりをしていると、調子に乗った泥棒、
「さあ、お嫁さんを拝見しよう。二階だな。ミシリミシリ揺れている。ウーン、二階へ上がっていくべえ。さあ、石川五右衛門が競り上がっていくぜ」

昔はしゃれた奴があったもので、「競り上がる」というからには、この泥棒は芝居好きに違いないと見抜いて、台所にこっそり行って金だらいをたたき、三味線で「楼門」の下座を弾き始めた。

泥棒は嬉しくなった。

「ありがてえかっちけねえ。同類が増えた」

はしご段の真ん中で
「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金と小せえ小せえ、この五右衛門の目からは価万両、はや日も西に傾き、まことに春の夕暮れに花の盛りもまた一しお、ハテ、うららかなァ、眺めじゃなあ」

うなりながら二階へ上がっていくので、あわてたのが、奉公人。

金どんが
「よし、オレが久吉になって止めてやる」
と、負い鶴の代わりに袖なしを着て、頭巾を手ぬぐいでこさえ
「石川や浜の真砂尽きるとも」
「なんと」
「世に盗人の種は尽きまじ」
「エイッ」

泥棒が手裏剣を打つと、ひしゃくで受け
「婚礼(巡礼)に、ご報謝」

底本:六代目桂文治

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

原話はバレ噺

この噺、明治31年(1898)6月の『百花園』に掲載された、六代目桂文治の速記が唯一の口演記録です。

文治は、明治初期から中期にかけての、芝居噺の名手でした。

原話は不詳ですが、もともと艶笑落語で、バレで演じるときは「二番目」と題しました。

この場合は、泥棒が二階へ上がっていくと、もう若夫婦が夜の大熱戦の真っ最中で、「二番目じゃ、二番目じゃ」と、オチになります。これも、芝居用語がわからないと理解困難です。

最初、泥棒が階下で、「一番目もの」と呼ばれた時代物狂言の「楼門」の石川五右衛門のセリフをうなっていて、続いて上で若夫婦が「二番目狂言」、つまり男女の濡れ場が付き物の「世話物狂言」を、床の上でおっぱじめることから、このオチ、別題になるというわけです。

楼門

さんもん。本来の外題を「金門五三桐」(きんもんごさんのきり)といい、のち「楼門五三桐」と改題されました。初演は安永7年(1778)4月、大坂道頓堀中の芝居(のち中座)で、初代並木五瓶の作です。

全五幕の長編ですが、二幕目返し(第二場)の「楼門の場」が特に有名になり、現在ではほとんどこの場面だけが、歌舞伎の様式美の極致としてしばしば上演されます。

桜花がけんらんと咲き誇る、京都南禅寺の楼門の上で、大盗賊石川五右衛門が、ゆうゆうと夕日を眺めながら「絶景かな、絶景かな」の名セリフを大音声でうなります。

そこへ、真柴久吉(豊臣秀吉)に滅ぼされた五右衛門の父、此村大炊助こと、実は大明国の遺臣宋蘇卿の遺書を脚に結びつけた鷹が飛来。

それを読んだ五右衛門が、父の仇久吉を討って日本国を征服することを決心したとき、楼門の下から「石川や浜の真砂は尽きるとも」と、朗々と詠む声がして、巡礼姿の久吉がせり上がってくるという名場面です。

【語の読みと注】
金門五三桐 きんもんごさんのきり

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

なつのいしゃ【夏の医者】落語演目

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

上方噺。機転がきくようで、その実、おまぬけな。愛すべき人物です。

【あらすじ】

夏の真っ盛り。

鹿島村の勘太が患って食欲がなく、飯を茶碗七、八杯しか食えない。

年だし、もういけないかもしれないと、せがれが思っていると、見舞いに来たおじさんが、
「隣の一本松村の玄伯先生に往診してもらえばよかんべえ」
と言う。

せがれ、さっそく留守を頼んで、ばっちょう笠に襦袢一枚、山すそを回って六里の道を呼びに行く。

尋ね当てると、玄伯先生が褌一つで草取りをしていたので、さっそく頼み込み、せがれが薬籠を持って、二人で隣村を出た。

山越えの方が近道だと先生が言うので、あえぎあえぎ登ったが、頂上まで来ると二人とも滝を浴びたような汗。

休憩して汗が引っ込んだところで、さあ出かけべえと立ったとたん、
「先生、先生」
「はいはい、ここだよ」
「あんか、いっぺんに暗くなったでねえか」

急に日が暮れたわけでもなし、はておかしい、と思ううち、周囲がなにやら温かくなってきた。

両手で手探りして先生はたと思い当たり
「あっ、こりゃいかねえ。この山に年古く住むうわばみがいるてえことは聞いちゃいたが、こりゃ、のまれたか」
「どうするだ、先生」
「どうするだっちって、こうしていると、じわじわ溶けていくべえ」

脇差を忘れてきて、腹を裂いて出ることもできないので、先生しばらく思案して、せがれに預けた薬籠の中から下剤を出させ、それをまいてみると、効果はてきめん。

うわばみは七転八倒。

苦しいからあっちへばたり、こっとへばたりと左右に揺れる。

「薬効いてきたなこりゃ。向こうに灯が見えべえ。尻の穴に違えねえから、もちっとだ」

ようやく二人は下されて、草の中に放り出された。

転がるように山を下り、先生、さっそく診察すると、ただの食あたりとわかった。

「なんぞ、えかく食ったじゃねえけ?」
「あ、そうだ。チシャの胡麻よごし食いました。とっつぁま、えかく好物だで」
「それはいかねえ。夏のチシャは腹へ障ることあるだで」

薬を調合しようとすると、薬籠はうわばみの腹の中に忘れてきて、ない。

困った先生、もう一度のまれて取ってこようと、再び山の上へ。

うわばみ、土用のさ中に下剤をかけられたので、すっかり弱って頬の肉がこけ、松の大木に首をだらんと掛けてあえいでいる。

「あんたにのまれた医者だがな、腹ん中へ忘れ物をしたで、もういっぺんのんでもれえてえがな」
「いやあ、もういやだ。夏の医者は腹へ障る」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方起源の医者ばなし

明和2年(1765)、京都で出版された『軽口独狂言』中の「うわばみの毒あたり」、ついで安永5年(1776)、大坂刊の『立春噺大集』中の「医者の才覚」が主な原話です。

前者はオチが「夏坊主は腹の毒じゃ」となっていて、当時の医者の多くが僧形だったことに掛けています。

内容から想像されるように、さらに遡れば、全国に広く流布した民話がもとになっているようです。

上方では古くは、フカが婆さんをのみ込む「兵庫船」と混同されて医者がウワバミならぬフカにのまれ、「こんな臭え医者のんだことねえ」とオチることもあったそうですが、現在は用いられません。

巧妙円生、爆笑枝雀

東京でもかなり古くから演じられ、四代目橘家円蔵から六代目三遊亭円生に直伝で継承されました。

円蔵はちしゃには触れず、単に「夏の医者にはこりた」とオチていましたが、その伏線の不備を円生が上方の演出を加味して現行に改め、巧妙な田舎ことばで十八番にしました。

大阪では、桂枝雀のものが、はでなオーバーアクションで、これまた当り芸でした。

チシャの胡麻よごし

チシャは「萵苣」と書き、萵苣筍と葉萵苣があります。この噺ではたぶん葉萵苣で、西洋ではレタス、日本では小松菜が同族の品種です。上方落語に「ちしゃ医者」という噺がありますが、まったく別話です。

ばっちょう笠

「番匠笠」のなまったことばです。竹の皮を張った、浅く大きな笠で、延宝年間(1673-81)から作られました。江戸では駕籠屋がよくかぶりました。

下剤

江戸時代には、普通、大黄の粉末を用いました。桂米朝の十八番「地獄八景亡者の戯れ」では「大王(=大黄、閻魔大王と掛けた)のんで下してしまう」と、ダジャレオチに用いられています。

薬籠

やくろう。医者の携帯用の薬箱です。桐の小箱で、引き出しがあり、その中は細かく仕切られていました。普通、往診の際は供に持たせます。

「自家薬籠中のもの」という慣用句は、医者は自分の薬籠中のどこにどんな薬がしまってあるかわからないと商売にならないことから、物事を完全に知り尽くしていること、狭義ではある分野の知識や技術を完璧に自分のものとして使いこなせていることをいいます。

六代目円生の芸談

「ここに出てくる玄伯老は、医者といっても、山頂で休むときも作物の話をしているようなお医者様で、本職は百姓なのですから、そういう気分を出すことが大切でしょう」

【語の注】
薬籠 やくろう
番匠笠 ばんじょうがさ→ばっちょうがさ
萵苣筍 ちしゃとう
葉萵苣 はちしゃ
大黄 だいおう

五代目古今亭志ん生

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

きしゃのしらなみ【汽車の白浪】落語演目

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

明治時代。
汽車が舞台の珍談。
白浪=盗賊。
それがらみの噺かもねむ。

【あらすじ】

時は明治の初め。

大阪は船場の商人の小林という男。

東京に支店を出そうというので、両国の宿屋に仮住まい中だが、ある日、商用で横浜へ行った帰り、ステンショから、終汽車に乗った。

相客は女が一人。

官員か誰かの細君らしく、なかなかオツな年増なので、小林君、すっかりうれしくなって、話しかけてみると、未亡人で年始の帰りだという。

自分もこれこれこういう者だと打ち明けると、ぜひお近づきになりたいと、思わせぶりなそぶり。

ところがそこへ、目つきの悪い男が入ってきて、女の方をじろじろ見ている。

きっと泥棒だから、汽車を降りたら気をつけなければいけないと、二人は品川駅に着くと、手に手を取って急いで人力車溜まりへ急ぐ。

相乗りで両国まで行こうと、車屋に声をかけようとすると、暗がりから、さきほどの男が
「ちょいと待ちなさい」
と婦人のたもとを押さえる。

「女に用があるから」
と連れていこうとするので、小林は、てっきり強盗か誘拐犯だと、止めようとするが突き倒され、女はそのまま連れ去られてしまう。

小林君、宿に帰って、腰をさすりながらふと懐中を見ると、紙幣で二百円入った財布がない。

「やはり、あいつは泥棒」

明日、警察に届けようとその夜は寝てしまう。

翌朝、これから警察に行こうとしている時、客だというので出てみると、なんと昨夜の男。

「あなたは小林礼蔵さんか、これに見覚えは」

男が出したのは、紛れもなく盗まれた財布。

男は、実は刑事で、あの女は、黒雲のお波という女賊だったと知らされて、二度びっくり。

「へー、あれが黒雲、道理で私の紙幣を巻き上げようとした」

底本:六代目桂文治

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の新作で、翌年の正月発行の雑誌『百花園』に掲載されました。

文治は明治の落語界に独自の地位を占め、「下谷上野の山かつら、かつら文治は噺家で」と子供の尻取り歌にまで歌われた道具入り芝居噺の名人でした。

文治当人も冒頭で「愚作ではございますが」と断っていて、その通りあまり芳しい出来とはいえないのですが、人物の会話などはリアルでうまく、さすがと思わせるところはあります。

もちろんその時代のキワモノなので、文治以後の口演記録はまったくありません。

白浪

語源は『後漢書』の「白浪賊」。

三国志で名高い黄巾の乱の残党が、白浪谷に立て籠もって山賊を働いた故事から、盗賊の異称となりました。

歌舞伎の外題によく使われ、河竹黙阿弥作の「弁天娘女男白浪」(白浪五人男)はよく知られた泥棒狂言です。

文治は芝居噺を専門にしていたので、内容は明治新時代の盗賊であっても、この古風な呼称を使ったのでしょう。

賊も世につれ

この噺で、女が語っています。

「手前のつれあいは、先達っての日清の戦争で亡くなりました」と語っていることでもわかるのですが、日清戦争が終結してすでに五年目。

日清戦争は、明治維新以後初めての対外戦争です。

兵員や軍需物資輸送の必要から、日本の鉄道網はこれを契機に、飛躍的に整備・拡大されました。

新橋(汐留)-横浜(桜木町)間の鉄道開通から二十数年、明治22年(1889)7月の東海道本線の新橋-神戸間開通からも十年余。

旅客輸送量も、草創期とは比較にならないほど伸びましたが、まだ夜間は利用客は少なく、実際にもこのように、金のありそうな客を狙った「密室」を利用した色仕掛けの女スリが出没していたとみえます。

当時の横浜までの所要時間は53分。室内は暗く、終電で相客はほとんどないとあれば、この小林君、格好のカモだったでしょう。

「汽車の大賊」

この速記の翌々年、明治35年(1902)に、やはり汽車賊を扱った「汽車の大賊」という江見水蔭(江見忠功、1869-1934)のサスペンス小説が発表されました。

水蔭は、日本の探偵小説のパイオニア。そのバタくさい作風が受け、当時のベストセラー作家でした。

この作品中でも、女賊が東海道線の列車中で、九州の炭鉱主を色仕掛けで誘惑し、金品を奪うという場面があります。

筋や設定がそっくりなところを見ると、江見センセイ、ちょいと「いただいて」しまったのかも。

【語の読みと注】
ステンショ すてんしょ:駅
終汽車 しゅうきしゃ:終電
官員 公務員
弁天娘女男白浪 べんてんむすめめおのしらなみ

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ぎおんえ【祇園会】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

スヴェンソンの増毛ネット

【どんな?】

京都を舞台にした噺です。

別題:東男 およく 祇園祭 京見物 京阪見物

あらすじ

江戸っ子の熊五郎、友達三人で、京都の知人を頼って都見物にやってきた。

あいにくの旅疲れか、患ってしまい、長引いたので、友達二人は先に江戸に帰り、一人残って養生するうち、三月ほどしてようやく動けるようになった。

折しも夏にかかり、祇園祭が近づくころ、いっぺん、話の種に見たいと思っていたので、当日、知人の案内で、祇園新地ぎおんしんち揚屋あげやの二階を借りて見物することに。

連れは京者が二人、大坂者が一人と江戸っ子の熊、つごう四人。

ところが、江戸の祭と違い、山車だしの出が遅くて、四ツ(夜十時)を過ぎてもまだ来ないので、熊五郎はイライラ。

ようやくコンチキチンとかねの音が聞こえ、山鉾やまぼこ薙刀鉾なぎなたぼこ錦鉾にしきぼことにぎやかに繰り出してきたが、京者の源兵衛が、早くも自慢タラタラ。

やれ、
「あの鉾は太閤秀吉はんが緞帳どんちょうに使いなはった」
とか、
森蘭丸もりらんまるはんが蘭奢待らんじゃたいの名香をたきつめなはって、一たき千両」
とか、講釈を始めたから、熊さんはおもしろくない。

「いくら古いか知らないが、あっしゃあこんなまだるっこい山車はたくさんだ」
とタンカを切り、
「それより芸妓を一人買ってみてえ」
と要求した。

ところが年一度の祭礼のこと、
「こんな日に茶屋に残っている芸妓にはろくなのがおまへん」
という。

それでも、
「たった一人いるにはいるが、その女、欲が深くて、来る客来る客に商売に応じてあれが欲しい、それが欲しいとねだりごとばかりするので評判悪く、とても座敷に出せない」
と茶屋の女将が渋るのを、熊五郎が、「ねだってもとてもやれないような商売を言うことにしよう」
と提案したので、
「それはおもろい」
とみんな賛成する。

現れたのが、亀吉という芸妓。

年増としまだが、鴨川の水で洗いあげ、なかなかいい女。

ところが、案の定、いきなり、
「お客はん商売はなんどす」
ときたから、一同あきれた。

源兵衛が
「飛脚屋だ」
と言うと、
「わての客が名古屋にいるよって、手紙を届けておくれんか」
ときた。

もう一人が
「石屋だ」
と言うと、
「父親の七回忌だから、石碑を一本タダで」
というずうずうしい願い。

「江戸はん、あんた商売はなんどす」
「聞いて驚くな。オレは死人を焼く商売だ」
「そうどすか。おんぼうはんにご無心がおます」
「おんぼうに無心とはなんだ」
「あてが死んだらな、タダで焼いとくれやす」

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい

連作長編の完結編

「三人旅(発端・神奈川)」の古くからある江戸落語の連作長編、「三人旅」シリーズの終わりの部分です。

昔は、東海道五十三次の宿場一つ一つについて噺が作られていたといわれますが、現在では「発端(神奈川)」、「鶴屋善兵衛(小田原)」とこの「祇園会(京見物)」しか残っていません。

この噺は別題が多く、「祇園祭」「京見物」「東男」「京阪見物」「京阪土産の下」「およく」などとも呼ばれます。

三つのエピソードで構成

部分によって原話が異なり、前半の京見物のくだりは、天保年間(1830-44)刊の笑話『如是我聞にょぜがもん』中の「都人」がルーツとみられます。

あらすじでは略しましたが、三人組が祇園の茶屋に入る前に見せ物小屋見物などで失敗する場面がつくことがあり、そこだけ演じる場合は「東男」と題されます。

最後の部分が「およく」(お欲か)の題名で独立して演じられることもありました。

京の宿屋で江戸っ子が絵師になりすまして京者、大坂者の二人をへこます「三都三人絵師」も元はこの噺の一部で、「東男」と「祇園祭」の間にきたといいます。

いや、ややこしいことですが、上方落語の「東の旅」「西の旅」シリーズと同じく、本来、筋のつながりの薄い別々のエピソードを寄せ集めたオムニバスと考えていいでしょう。

さまざまなやり方

長い噺のため、演じ手によってやり方や切り取り方が異なります。

のち二代目柳家つばめになった明治の四代目柳家小三治は、「京見物」の題で普通はほとんど演じられない「東男」の部分だけを皮肉にも速記に残しました。

三代目春風亭柳枝(1900年没)は「東男」と「三都三人絵師」を「京阪見物」、「祇園祭」と「およく」を「京阪見物・下」と分けていました。

柳枝の「東男」では、四条河原のインチキ見世物見物の後、堺に行って妙国寺の大蘇鉄を見せられ、「東京へ帰んなはったら土産話にしなはれ。これが名代の妙国寺の蘇鉄だす」「なんだ、オレはまたワサビかと思った」とオチています。

名人の四代目橘家円喬は「およく」の部分が特にうまかったとか。

昭和期では八代目春風亭柳枝が十八番とし、「祇園祭の」と一つ名でうたわれました。

祇園新地

寛文10年(1670)、鴨川の改修にともなって祇園新地外六町が開かれ、芝居町と祇園町が結ばれて煮売り茶屋、旅籠屋、茶屋などの名目で、公許遊郭の島原と違い、気楽に遊べる遊興地として発展しました。

享保17年(1732)、正式に茶屋渡世が公認され、旧祇園町、新地を併せて現在の「祇園」が成立しています。

【語の読みと注】
揚屋 あげや
山車 だし
鉦 かね
山鉾 やまぼこ
長刀鉾 なぎなたぼこ
錦鉾 にしきぼこ
緞帳 どんちょう
蘭奢待 らんじゃたい

スヴェンソンの増毛ネット

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

じどうしゃのふとん【自動車の布団】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

大正期のお笑い。自動車が出てくる古典落語です。驚きです。

【あらすじ】

大正時代の中頃。

自動車があちこちで走り出し、八人乗りバスも登場した頃の話。

日曜日でも天気がよく、新しい着物ができてきたばかりなので、奥方は町に出て見せびらかしたくてたまらない。

そこで、亭主に、しつこく芝居に行こう、上野か浅草に連れて行ってくれと、せがむが、この亭主、大変に嫉妬深いタチなので、女房をほかの男が見るだけでもがまんならないから、ああだこうだと言って渋る。

そこをむりやりに連れ出して、乗合自動車(=バス)に乗ると、満席だったが、色白の役者のような男が、親切に席を譲ってくれた。

それを見て、亭主の顔がさっと青ざめる。

まだ乗ったばかりなのに、車掌に無理に言って、奥方の手をひっつかむと降りてしまう。

家に戻ると
「おまえはけしからん女だ。今日限りおまえを離縁する」
と申し渡したから、奥方は驚いた。

なにも悪いことはしていないと抗議すると
「なに、悪いことはしてない? ずうずうしい奴だ。おまえ、さっき乗合自動車で会った若い男と間男しとるじゃないか」
「いったになにを証拠にそんなことをおっしゃいます」
「証拠はある。わからなければ、自動車の布団に聞いてみろ」

スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

自動車ことはじめ

日本に最初にクルマが入ったのは、明治33年(1900)、皇太子(のちの大正天皇)の成婚祝いにサンフランシスコ日本人会から献上したときとか。

国産車となると、同43年(1910)、陸軍東京工廠でトラックを、大正3年(1914)、快進社が小型自動車「脱兎号」を試作。これが「ダットサン」のはしりです。

本格的な国産品の生産は、昭和に入って軍用規格でトラック、バスが生産されたものの、乗用車となると、戦後まで待たねばなりませんでした。

大正新時代の花形

大正中ごろから少しずつ、上流階級や富豪などがT型フォード、シボレー、パッカードなどの輸入車を購入しはじめました。

この噺や「かんしゃく」(益田太郎冠者作)などは、そうしたハイカラな大正新時代を当て込んだ新作落語です。

乗合バスは、東京では大正8年(1919)、新橋-上野間に、この噺に登場する十六人乗りの乗合自動車が開通したのが始め。

関東大震災後の同13年(1924)1月、架線をずたずたにされた市電や省線(山手線)の代替輸送手段として、東京市営乗合自動車、通称「青バス」がお目見え。本格的なバス時代を迎えます。

創業当時の初乗り運賃は、一区券十銭でした。昭和に入ると、いよいよタクシー(円タク)が登場します。

「間男」から「姦通罪」へ

間男、不義密通→姦通、不貞→不倫と、時代と呼び名は変われど、やっていることは相変わらずお変わりないのが人のさが。

江戸時代には、密通は表向きは女房・間男共々死罪。実際は、七両二分の示談金で済まされることが多かったとか。

明治に入っても「姦通罪」は厳然と生きていて、北原白秋がこれに引っかかり、監獄に食らい込んだのは有名な話です。

岡倉天心と九鬼男爵夫人のスキャンダルも当時、巷間をにぎわせました。九鬼周造はこの夫人の息子です。

周造は若い天心がよく家に来るので、この人が自分の父親ならよいのにとあこがれていたそうです。実際の父親である九鬼隆一はさほどの人ではなかったのでしょうか。

二代目金馬の新作

大正10年(1921)2月、『文藝倶楽部』掲載の二代目三遊亭金馬(1867-1926)の速記が、唯一の口演資料です。金馬の当時の新作と思われます。

オチは「間男」と「布団」の連想だけの陳腐なもので、内容も取るに足らないものですが、大正初-中期の風俗資料としては貴重でしょう。

二代目金馬は、本名が碓井米吉。本名を取って「碓井の金馬」、若年のころ本所亀沢町のお盆店に奉公していたため「お盆屋の金馬」の異名があります。

若いころは実力のわりに不遇で、旅興行ばかりでしたが、晩年は「落語会の策士」といわれ、関東大震災後の「睦会」の設立など、ヤマっ気の多い人だったようです。喜劇王となった柳家金語楼の師匠でもあります。得意な噺は「花見酒」「死神」などでした。

名優がしでかした人身事故

明治大正の名興行師、田村成義(1851-1920)が著した『無線電話』は、冥土に電話して、故人になった名優や劇界関係者と対話をするという、ユニークな内容です。雑誌『歌舞伎』大正3年(1914)9月号に掲載されたものは、五代目尾上菊五郎(1903年没)の霊との会話を通して、当時最新流行の自動車について、なかなか愉快な問答が展開します。

自動車の存在を知らずに死んだ菊五郎に、田村が、上野から品川まで20分かからないとか、値段は当時(大正初期)一台安くて3000-4000円、高いので9000円、宮様が乗る最高級車は15000円など、得意になってこの「文明の利器」についてひけらかします。役者も競ってクルマを購入、得意になって走らせたはいいものの……。

田村:時々は往来の子供を引き倒したり、怪我をさせることも度々あります。(中略)君んとこの息子(六代目尾上菊五郎)なんざ、学校へかよう余所の息子の足を折って詫び事に行ったり、費用を払ったりした事もあるのですもの。

という次第。物騒な交通事故は、このころからということがわかります。

そのほか、これも名優の十五代目市村羽左衛門の車が、肥たごを載せた大八車に追突、あたりが糞だらけになったというエピソードや、当時すでに蝶々印の貸し自動車もあって、ハイヤーのはしりが現れていたことも記されています。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

さんとさんにんえし【三都三人絵師】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

志ん生も時折。愉快なネタです。

ヘンな関西弁も聞こえてきます。

別題:三人絵かき 京阪見物かみがたけんぶつ

あらすじ】  

江戸っ子の三人組が上方見物に来て、京の宿屋に泊まった。

その一人が寝過ごしているうちに、ほかの二人はさっさと市中見物に出かけてしまって、目覚めると誰もいない。

不実な奴らだと怒っていると、隣から声が聞こえる。

大坂の者と京者らしい。

よく聞いてみると、やれ鴨川かもがわの水は日本一で、江戸の水道はどぶ水だの、関東の屁毛垂へげたれだの、人種が下等だのと、江戸の悪口ばかり。

さあ頭にきた江戸の兄さん、威勢よく隣室へ乗り込む。

さんざん悪態をついたあと
「やい黒ん坊、てめえの商売はなんだ」
「名前があるわ。わたいは大坂の絵師で、武斎ちゅうもんで」
「ムサイだあ? きたねえ面だからムサイたあよく付けた。やい青ンゾー、出ろ」
「うちは許してや」
「出ねえと引きずり出すぞ。てめえは何者だ」
「うちは西京の画工で俊斎」
「ジュンサイだあ? 道理でヌルヌルした面だ」
「それであんたは?」
「オレか? オレも絵師よ」

もちろん、大ウソ。

こうなればヤケクソで、
「姓は日本、名は第一、江戸の日本第一大画伯たあ、俺のことだ」
と大見得を切る。

そこで、三都の絵師がせっかく一所にそろったのだから、ひとつ絵比べをしようじゃねえか、ということになった。

一人一両ずつ出し、一番いい絵を描いた者が三両取るという寸法。

俊斎が先に、木こりがノコを持って木を挽く絵を描いた。

「やい青ンゾー、てめえとても絵師じゃあメシがくえねえから死んじまえ」
「どこが悪い」
「木こりが持つのはノコじゃねえ。ガガリってえもんだ。それは勘弁してやるが、おが屑が描いてねえ」

これで、まず一両。

続いて武斎。

母親が子供に飯をくわせている図。

「やい、黒ん坊。てめえも絵師じゃ飯がくえねえが、二人並んで首ィくくるのもみっともねえから、てめえは身を投げろ。俺が後ろから突き飛ばしてやろう」

「これは、継子ならともかく、本当の子ならおっかさんが口をアーンと開いてやってこそ子供も安心して食べられる。それなのに、母親が気取って口を結んでいるとはどういうわけだ」

なるほどもっともなご託宣なので、武斎も、しかたなく一両出す。

いよいよ今度は、江戸っ子の番。

日本第一先生、もったいぶった顔で刷毛はけにたっぷり墨を含ませる。

ついでに二人の顔をパレット代わりに使い、真っ黒けにしてから、画箋を隅から隅まで黒く塗りつぶし、
「さあわかったか」
「さっぱりわからん」
「てめえたちのようなトンマにゃわかるめえ。こいつはな、暗闇から牛を引きずり出すところだ」

スヴェンソンの増毛ネット

しりたい】  

志ん生が復活した旅噺 【RIZAP COOK】

この噺自体の原話は不明ですが、長編の「三人旅」シリーズの終わりの部分、「京見物(京阪見物)」の一部になっています。

三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)の明治26年(1893)の速記では「京阪見物かみがたけんぶつ」として、「東男」と称する市内見物の部分の後、「祇園会(祭)」の前にこの噺が挿入されています。

明治期にはほとんど「東男」や「祇園会」にくっつけて演じられましたが、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)は一席噺として速記を残しています。『百花園』明治24年(1891)8月20日号。

その後すたれていたのを、先の大戦後、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が復活。志ん生の没後、やり手はほとんどいません。

青ンゾー 【RIZAP COOK】

「青ん蔵」とも書きます。ヒョロヒョロで顔が青いという印象で、京都人をののしっているわけです。

上方落語「三十石」でも、船の中で大坂人が京都人をばかにして、「京は青物ばかり食ろうて往生(王城)の地や」と言う場面があります。

語源は北関東訛りの「アオンゾ」もしくは「アオンベイ」だといいます。

五代目志ん生は、「てめえはつらが長えから、あご僧だ」と言っていますが、これが志ん生の工夫なのか単なる勘違いかはわかりません。

同じく大坂の絵師をののしる「黒ん坊」は、芝居で舞台の介添えをする「黒子」のことです。

屁毛垂れ 【RIZAP COOK】

へげたれ。江戸っ子をののしる言葉ですが、甲斐性なし、阿呆あほうを指す上方言葉です。

江戸者に使う時は、屁ばかり垂れている関東の野蛮人の意味と思われます。

ガガリ 【RIZAP COOK】

大型のノコギリのことで、ガカリとも呼びます。用具に詳しいところから、この「江戸はん」は大工と見られます。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

いしがえし【石返し】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

ここの松公は与太郎。番町を夜なきそばで。江戸から上方へ移った珍しいはなし。

別題:鍋屋敷

【あらすじ】

少しばかり頭が薄暮状態の松公は、夜なきそば屋のせがれ。

親父の屋台の後を、いつもヘラヘラして付いて回っているだけ。

今夜は親父が
「疝気が起こって商売に出られないから、代わりにおまえがそばを売って来い」
と言い渡す。

そばのこしらえ方や「お寒うございます」というお愛想の言い方を一通りおさらいし、屋台のそば屋はなるたけさびしい場所の方が客が捕まる、火事場の傍だと野次馬が大勢集まっているからもうかりやすい、などといった秘訣を、いちいち教えられた。

「じゃ、お父っつぁん、道具ゥ置いといて火ィつけてまわろうか」
「ばか野郎ッ」

頼りないながらも、最後に「そばあうううい」という売り声をなんとか親父が教え込み、松公は商売に出かけた。

さあ、それからが大変。

なかなか「そばあうううい」と出てこないので、暗い所で練習しておけば明るい所でも大丈夫だろうと、立ち小便の真っ最中の職人にいきなり
「(そ)ばあー」
とやってケンツクを食わされたり、客が
「一杯くれ」
と言うのに、
「明るいとこじゃ売れない、オレのそばが食いたきゃ墓場へ来い」
とやったりして、相変わらず頭のネジは緩みっぱなし。

そのうちに、ばかにさびしい所に出たので、いちだんと声を張り上げると、片側が石垣、片側がどぶとなっている大きな屋敷の上の方から侍が声を掛けてきた。

「総仕舞いにしてやるから、そばと汁を別々に、残らずここに入れろ」
と、上から鍋と徳利が下がってきたので、松公喜んで全部入れ、
「お鍋の宙乗りだ、スチャラかチャンチャン」
と囃すうちに、そばは屋敷の中に消える。

「代金をくれ」
と言うと、
「石垣に沿って回ると門番の爺がいるから、それにもらえ」
とのこと。

ところがその門番、
「あそこには人は住んでいない、それは狸で、鍋は金玉。きさまは化かされたのだからあきらめろ」
という。

「狸がたぶん引っ越しそばでもあつらえたんだろうから、そんな代金を人間が払う義理はない、帰れ帰れ」
と六尺棒で追い立てられ、松公は泣きべそで戻って報告した。

親父は
「あすこは番町鍋屋敷という所だ」
と屋台の看板を汁粉屋に書き換え、松公と一緒に現場へ急行。

「しるこォ」
と声を張り上げると、案の定呼び止められ、鍋が下がってきたので、親父、そいつに石を入れて
「お待ち遠さま」

侍、引き上げて驚き
「おいっ、この石はなんだッ」
「さっきの石返し(意趣返し)」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

小さん系の与太郎噺

古い江戸落語ですが、原話は不詳です。武士の横暴に仕返しする、町人のレジスタンス精神があふれ、なかなかおもしろい噺ながら、オチがダジャレ、つまり、石=イシと仕返しの意味の意趣=イシュを掛けた、くだらないせいか、最近はあまり演じられていないようです。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の)、そして五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)に継承されました。与太郎(松公)の商売を、始めに汁粉屋、報復の時にうどん屋になって行く演出もあります。

江戸から上方へ

多くの滑稽噺とは逆に、これは江戸から大坂に移植されたものです。上方では戦後、最長老として重きをなした橘ノ円都(池田豊次郎、1883-1972)から門弟の橘家円三えんざ(土居成、1947-2021)に継承されました。

ここでのあらすじは、五代目小さんの速記をもとにしました。

夜鷹そば、風鈴そば

夜鷹そばともいい、風鈴が屋台に付いていたので、風鈴そばともいいました。ただし、元来、この二つは別で、夜鷹そばは二八そばのかけ、風鈴そばはしっぽく(そばの上に焼き玉子、蒲鉾などの種物をあしらったもの)。しっぽくの登場は文化年間(1804-18)と言われますから、後者の方が遅く、夜鷹そばの方は宝暦年間(1751-63)の文献には、もう名が出ています。

『論集江戸の食―くらしを通して』(石川寛子編著、弘学出版刊、2007年)によれば、貞享3年(1686)11月に、うどん、そば切りなどの夜間の行商が禁止になったとあるので、さらに起源は古いことになりますが、このころは蒸しそばだったと思われます。

夜鷹そばは二八そばともいいました。一杯の値段はずっと二八の十六文で通してきたものの、不潔なため、同じ夜間の行商人には「夜たかそば などと見くびる 甘酒屋」という川柳の通り、下に見られていたようです。幕末の慶応2年(1866)9月、二八そばの値段が二十文から二十四文に値上げされたという記録が残ています。

番町鍋屋敷表長屋、曰窓、笊

怪談「番町皿屋敷」をもじったもの。特に幕末には、直参・陪臣を問わず、このような侍の食い逃げがまかり通っていました。

表長屋と呼ぶ江戸詰めの勤番侍の住居は、この噺の通り二階建てで、下は仲間・小者、二階に主人の住居でした。

上から笊を下ろして品物を買う場面は「井戸の茶碗」にも登場しますが、出口は屋敷側に向いていて、表通りに面しているのは曰窓だけだったので、室内から手軽に買い物をするにはこうするよりほかなく、したがって、これを利用した悪事が横行したわけです。

【語の読みと注】
疝気 せんき
夜鷹 よたか
曰窓 いわくまど 横桟一本だけの窓。字に見立ててこう呼ぶ



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

にせきん【贋金】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

廃れた噺ですが、おもしろいですね。珍品落語です。

別題:酒の癖 錦屋の火事(上方)

あらすじ

ころは明治。

大酒飲みで名の通った某士族の家に、出入りの道具屋、金兵衛が、先日売った書画の残金三円を掛け取りにやってくる。

この殿さま、酔うと誰彼かまわずからむ癖があるやっかいな代物で、今日も朝からぐでんぐでんになった挙げ句、奥方や女中を悩ませている。

さっそく標的になった金兵衛、おそるおそる催促するが、殿さまは聞かばこそ。

三円ばかりの金をもらうという料簡だからきさまは大商人になれん、俺はきさまをひいきに思えばこそ金はやれんと、酔いに任せて吹き放題。

のまされるうちに金さんにも酔いが回ってきて、殿さまのためならご恩返しに首でも命でも捨てまさァ、と、言ってしまう。

「その一言に相違なければ、その方にちと頼みがある」
「だからさァ、首でも命でもあげますってのに」

その頼みというのが、実にとんでもないことで、友達が今度、おのおのが珍しいものを持ち寄って楽しむ会を催すことになり、そこで自分も珍物を出品したいが、それについて思い出したのがきさまの金玉。

「きさまのがタヌキ並みであることを知っておるによって、ぜひ切り取って譲ってもらいたい。明朝八時までに持ってくれば、代金五十円やる。いやなら即刻お出入り禁止にする」
ときた。

すっかり酔いが醒めた金兵衛、しどろもどろになったがもう遅い。

泣く泣く、チン物提供を約束させられてしまった。

翌日。

飲み明かして二日酔いの殿さま。

これが昨日のことはすっかり忘れてしまっている。

そこへ、青い顔をした金兵衛がやって来て
「お約束通り、金を切ってきました」

さあ、困ったのは、殿さま。

なにしろ、そんな約束はキレイさっぱり忘れているうえ、こんなものを持ちこまれても外聞が悪い。

しかたがないので、治療代五十円に、借金分兼口止め料三円も付けてようやく帰ってもらったが、そこでつくづく自分の酒乱を反省し、酒をのむたびに五十円の金玉を買ったのではたまらないので、すっぱりと酒を止めると、言いだす。

それにしても気の毒なのは金兵衛、と改めて包みの中をのぞいてみると、これが金玉とは真っ赤ないつわりで、蛸の頭を二つ生ゆでにして毛を刺しただけ。

「あいつめ、五十円ごまかしたな」

それから三日とたたないうちに、金兵衛はお召し捕り。「贋金づかい」というので、お仕置きになった。

底本:二代目(禽語楼)小さん

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【しりたい】

貨幣贋造は厳罰   【RIZAP COOK】

江戸時代の「公事方御定書」ではもちろん死罪。

それが緩和され、死刑の適用範囲が減った明治3年(1870)の「新律綱領」、明治15年(1882)の刑法でも死刑。

ビクトリア朝英国でも、アメリカでも縛り首。

かつてはどこの国でも死刑を科していたものですが、いまは死刑廃止の趨勢です。

柳家の噺を三遊宗家が復活か  【RIZAP COOK】

オチの部分は文化4年(1807)刊の笑話本『按古落当世』中の小咄が原話です。

古くから柳家小さん系の噺で、明治24年6月の『百花園』に二代目(禽語楼)小さんが「酒の癖」と題して速記を載せています。

上方では「錦屋の火事」の題で演じられていました。

二代目小さん以後、三代目小さん、三代目蝶花楼馬楽と弟子、孫弟子に継承されました。

三遊系の三代目三遊亭円馬らも演じ、戦後、二代目小さんの速記をもとに六代目円生が復活しました。

禁演落語の一  【RIZAP COOK】

昭和16年(1941)10月31日、長瀧山本法寺(日蓮宗、台東区寿町2-9-7)の「はなし塚」に葬られた53種の禁演落語の一つでした。

落語家たちが忖度して、自ら高座に掛けるのを止めていた落語のことです。

モノがモノなので、艶笑落語という理由ではなく、この非常時に不謹慎な、という自粛もあったでしょう。

【語の読みと注】
公事方御定書 くじかたおさだめがき
按古落当世 あごおとせ



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ちょうじゃばんづけ【長者番付】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

これも古い上方噺。「東の旅」シリーズの一話です。

別題:うんつく酒(上方)

【あらすじ】

江戸っ子の二人組。

旅の途中、街道筋の茶店でひどい酒をのまされたので、頭はくらくら、胸はムカムカ。

迎え酒に一杯いい酒をひっかけたいと思っていると、山道の向こうに白壁で土蔵造りの家が見えてきた。

兄貴分が、あれは造り酒屋に違いないから、あそこでうんとのましてやると励まし、おやじに一升ばかり売ってほしいと交渉すると
「一升や二升のはした酒は売らねえ」
と断られる。

どのくらいならいいのかと聞くと、
「そうさな。馬に一駄、船で一艘ぐれえかな」

一駄は四斗樽が二丁、船一艘なら五、六十丁というから、兄貴分の怒ったの怒らないの。

「人をばかにするのもいい加減にしろッ。こちとらァ江戸っ子だ。馬に一駄も酒ェ買い込ん道中ができるかッ。うんつくめのどんつくめッ」

その勢いにおそれをなしたか、おやじは謝り、酒は売るから腰掛けて待っていてくれと言っておいて、こっそり大戸を下ろしてしまった。

気づいたときは遅く、薪ざっぽうを持った男たちが乱入。

さては袋だたきかと身がまえると、おやじ
「さっきおまえさまの言った『うんつくのどんつく』というなあ、どういうことか、聞かしてもれえてえ」
と大変な鼻息。

兄貴分、これはまずいと思いながら、後ろに張ってある長者番付に目を止め、
「江戸ではそれを運つく番付という」
と口から出まかせ。

「江戸の三井と大坂の鴻池は東西の長者の大関だが」
と前置きして、ウンツクのウンチクをひとくさり。

「鴻池の先祖は伊丹で造り酒屋をしていたが、そのころはまだ清酒というものがなかった。あるとき、雇った酒造りの親方があまり金をせびるので、断ると、腹いせに火鉢を酒樽に放り込んで逃げた。ところが、運は不思議で、灰でよどみが下に沈み、澄んだ酒ができた」

これを売って大もうけ、運に運がついて大身代ができたから、大運つくのど運つく。

一方、三井の先祖は越後新発田の浪人で、六部で諸国を廻っていたとき、荒れ寺に泊まると、夜中に井戸から火の玉が三つ。

調べると、井戸底に千両箱が三つ沈んでいた。

これをもとに松坂で木綿を薄利多売し、これも大もうけして、やがて江戸駿河町に呉服屋を開き、運に運に運がついて今では大長者。

おまえのところも今に長者になるから、運つくのど運つくとほめたのがわからねえかと、居直る。

暖簾から顔を出したかみさんは、女ウンツク、青っぱなを垂らした孫は孫運つくで、今に大運つくになると与太を並べると、おやじは大喜び。

酒をふるまった上、
「今度造り酒屋で酒を買いたいときは、利き酒をしたいと言えばいい」
と教える。

江戸では大ばか野郎をウンツクというが、まんまとだまされやがったとペロリと下を出した二人、ご機嫌で街道筋に出ると、後ろから親父が追いかけてくる。

「おめえさまがたをほめるのを忘れていただ。江戸へ帰ったら、りっぱな大ウンツクのどウンツクになってくだせえ」
「なにを抜かしゃあがる。オレたちはウンツクなんぞ大嫌えだ」
「えっ、嫌えか? 生まれついての貧乏人はしようがねえ」

【しりたい】

上方種長編の一部

古くから親しまれた上方落語の連作長編シリーズ「東の旅」の一話です。

清八と喜六の極楽コンビが伊勢参宮の途中、狐に化かされる「七度狐」に続く部分です。

「うんつく」「うんつく酒」の題で演じられてきました。

上方では、悪態の意気で六代目笑福亭松鶴が優れていました。

東京への移植者とその時期は不明ですが、戦後は三代目桂三木助、八代目春風亭柳枝が得意とし、五代目小さんもたまに演じました。

原話は、安永5年(1776)刊の笑話本『鳥の町』中の「金物見世」。

皮肉にもこれは江戸板なので、東→西→東とキャッチボールされたことになります。

この小咄では「うんつく」でなく「とうへんぼく」がキーワードであることでも、ルーツが江戸であることがうかがわれます。

演出の異同

噺中の三井と鴻池のエピソードは、時間の関係でどちらかを切ることもあります。

東京風の演出では、上方の「煮売屋」を改作した「二人旅」のオチ近くのくだりを圧縮して「長者番付」の前に付け、続けて演じることもあります。

「二人旅」については、その項をご参照ください。

「東の旅」の順番

「東の旅」の順番では、伊勢路に入り、「野辺歌」「法会」「もぎとり」「軽業」「煮売屋」「七度狐」に続いて、この「うんつく」(長者番付)になり、この後、連れがもう一人増えて「三人旅」で、伊勢参宮のくだりは一応完結します。

うんつく

この噺の、上方落語の演題でもあります。

うんつくは運尽と書き、「運尽くれば知恵の鏡も曇る」ということわざから、上方言葉で「阿呆」「野暮」の意味が付きました。

したがって、「ど運尽く」は「大ばか」。「ど」は上方の罵言なので、本来は江戸落語にない語彙です。上方落語のものがそのまま残ったのでしょう。

ところが、後にはこれをもじって、本当に「運付く」で幸運の意味が加わったからややこしくなりました。同音異義語のいたずら悪戯です。

造り酒屋

造り酒屋は本酒屋ともいい、醸造元で、卸専門の店ではこの噺のように小売はしない建前でしたが、地方には、小売酒屋を兼ねている店も多く見られました。

清酒事始め

噺の中で、鴻池が作ったというのはヨタです。

実は享保年間(1716-36)、灘の山邑太左衛門が苦心の末発明し、「政宗」として売り出したのが最初。

全国に普及したのは、その1世紀も後の文化年間(1804-18)なので、江戸時代も終わり近くなるまで、一部の地方では濁り酒しか知らなかったことになります。

【語の読みと注】
暖簾 のれん
煮売屋 にうりや
山邑太左衛門 やまむらたざえもん



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

ちぢみあがり【縮みあがり】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

堀の内帰りの三人組が新宿で遊ぶ。
一人は行きに見かけたオンナに目星をつけていた。
やっとこ見つけて、すぐにも寝床へと急ぐ。
オンナはものすごい訛でまくしたてるのだが、男は……。

別題:新宿三人遊び

【あらすじ】

堀の内のお祖師さま参詣、その帰り。

新宿のなじみの引き手茶屋に上がった助さん、又さん、梅さんの三人組。

とりわけ助さんは、行きに立ち寄った時に、見初めておいた女がいた。

顔の真ん中に鼻があって、スラリとして目元ぱっちり、受け唇、眉濃く、目の際にホクロあり。

そんなお女郎を捜索してくれ、と注文。

まるで警察のモンタージュ作成のよう。

ホクロが決め手で、豊倉のおやまらしい、と見当がつく。

ところが、いざ対面してみると、おやまというのはえらく顔の長い女で、お目当てのおんなではない。

たまたまその女は近々身請けされることになっていたので、そっちの方に出るというから、そんな女はいらないからさっさと持ってけ、おれは一人で寝る、とすねている。

廊下でお目当てを見つけたので、
「めぐりあった。向こうへ曲がった。それ、抜け裏(抜け道)だ。捕まえろ」
と、にわかに大騒ぎ。

四日前に見世に出たばかりのおくまという女とわかった。

「ぜひとも生け捕ってくれ。鉄柵に入れろ」
と夢中。

まだ酒盛りの最中なのに、助さんは
「もう寝る」
と言ってきかない。

部屋におくまが来ると、
「最前、お参りの途中でおまえを見かけた時、体がぶるぶる震えた。これから毎日通うつもりだから、よろしくお頼み申します」
お、堅苦しく挨拶。

おくまはぷいと横を向き、口もきかない。

「おくまさん、なんとか、ひとこと気休めでも言ってください。おくまさんや」
「よさねえか、このふと(人)は。ヂヤマ(親父)が年貢の金に困ったから売られてきたのだ。江戸というところは気休めばかりだのんし。うら(私)もねぶたくてなんねえから、おめいらもエイかげんにねぶったらよいだろのんし」

ものすごい訛だから、助さんは仰天して、
「おまえのクニはどこだえ」
「越後の小千谷だがのんし」
「どうりでさっき、体が縮みあがった」

出典:六代目桂文治

【しりたい】

豊倉

四宿の屁」「文違い」にも登場しましたので、そちらをお読みください。

お祖師さま

日円山妙法寺。日蓮宗。「お祖師さま」とは日蓮のこと。「堀の内」にも登場します。

都内では、池上の本門寺に次ぐ重要な寺院です。厄除けで信仰を集めています。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

せっちゅうばい【雪中梅】落語演目

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

うーん、こんな人情噺もあってもよいかも。たまには乙なおもむきで。

あらすじ

音羽桜木町に住む、日雇い稼ぎの多吉。

二十三歳になるが、母一人子一人で大変な孝行者。

その母が病気で寝付き、おまけに雨天続きで仕事がなく、年も越せないありさま。

かといって、気が小さく、知人の家を回っても金を貸してくれと、言い出せない。

そうこうするうちの大晦日の夜も更けて、牛込の改代町あたりに差しかかると、ふと目についたのが穂積利助という手習いの師匠の屋敷。

酒宴の後らしく、裏口が開いているので、多吉はつい出来心で忍び込み、たちまち捕まってしまう。

泣いてわび、素性を残らず話したので、利助も同情し、親孝行はいいが、以後、決して盗みはならぬ、おまえは愚かなる者で、読み書きもできぬからそのような料簡も起こすのだから、今後は字も習えと、厳しくさとし、一両くれた上、餠や料理もどっさり持たせて帰す。

ところが、多吉が喜んで帰ってみると、母親が死んでいる。

今度は泣きの涙、その日のうちに葬式を出し、年が明けて四十九日まで、欠かさず墓参を続ける。

四十九日の日、帰ろうと隣の石塔を見ると、何か置いてあるので手に取ると大金が入った紙入れ。

本郷二丁目、絹谷彦右衛門という豪商の名刺が入っていたので、あわてて届けたところ、彦右衛門はその正直に感心して使用人に雇い、やがてめでたく一人娘の婿に納まるという出世話。

出典:三代目春風亭柳枝

【RIZAP COOK】

うんちく

明治の人情噺 【RIZAP COOK】

三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の)が作ったらしい、「おかめ団子」にも似た、とはいえ、あまり人の心を動かさないできばえの人情噺です。

明治26年(1893)1月、柳枝自身の速記があるほかは口演記録はなく、今となっては風俗資料としてのみ、貴重なものでしょう。

ちなみに、柳枝の没年は円朝のそれと同年でした。意外に早逝です。

こういう噺はあらすじではなく、掲載記録そのものを紹介したほうがよいでしょう。

題名の雪中梅は、冬の寒さに耐え、雪中に花を咲かせる梅ですが、内容との関連は不明。

主人公が不孝な境遇に耐えて、やがて花を咲かせる寓意とも考えられますが、あるいはこの柳枝の速記が正月に掲載されたので、単にめでたい意味で梅の一字を入れただけかもしれません。

同タイトルで末広鉄腸(1849-96)作の政治小説が、この七年前に出版されていますが、関連はなさそうです。

音羽桜木町 【RIZAP COOK】

おとわさくらぎちょう。文京区音羽1丁目、関口2丁目、小日向2丁目にまたがっていました。

護国寺の門前町で、元は寺領でしたが、元禄10年(1697)に町が開かれた際、大奥の中老桜木に町地が下賜されたところから、この地名がついたといわれます。

桜木町の路地を入ったところに私娼窟があり、揚げ代は「ちょんの間二百文」だったとか。

志ん生の「お直し」で有名な「ケコロ」がせいぜい百文でしたから、えらく高いですね。

参考文献:『江戸文学地名辞典』(浜田義一郎編、東京堂出版、1997年)ほか

牛込改代町 【RIZAP COOK】

うしごめかいたいちょう。新宿区改代町。

江戸川橋の東南200mほどで、音羽桜木町とは目と鼻の先です。

落語では「ちきり伊勢屋」にもちょっと登場します。

改代町の南側一帯、神楽坂にかけては、旧幕時代にはぎっしりと武家屋敷、旗本屋敷が並んでいました。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おぼん【お盆】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

明治期につくられた珍品です。

別題:巣鴨の狐

【あらすじ】

目白の近くの鼠山という、人跡まれな山中。

怪しげな祈祷で人をたぶらかすのをなりわいにしている、法印と呼ばれる行者が、飯炊きの権助と二人で住んでいた。

ある日、王子に使いに出した権助が夕方にやっと帰ってきて、狐の子でも捕まえて狐汁にでもしてくってやろうと、遅くまで見張っていたと言い訳する。

「法印の家来が王子権現のお使いの狐を殺してどうする」
と説教しているところへ、商人風の男が尋ねてくる。

「実は、自分は、巣鴨の傾城が窪の商家の者だが、主人の娘が狐憑きになって困っているので、ぜひ行者さまに祈祷で狐を退散させてほしい」
という頼み。

このところ客足が鈍って懐がピイピイなので、渡りに船と喜んだ法印、
「自分が引き受けるからには立ちどころに追い払ってやる」
と大見得。

「ウチのだんなは字が読めねえから祈祷なんかできねえ」
と余計なことを言いだす権助を必死で黙らせ、七両二分で手を打った。

前金一両を盆に乗せて、しかつめらしく受け取ろうとするが、持っていないのでぼろぼろの膳の蓋で代用。

男は喜んで帰っていく。

さて、どうゴマかそうかと考えた法印、先ほどの狐汁の話を思い出し、一計を思いついた。

権助に狐を一匹捕まえ、後から背負ってこさせる。

自分が線香をたいて、ムニャムニャと唱え始め、座敷中煙で真っ暗になった時分に、合図で権助がそっと忍び込み、風呂敷をほどいて狐を出し、そいつを追っぱなして生け捕るか、ぶち殺して差し出せばいいというわけ。

飯炊き以外の超過労働はしたくねえ、お使いの狐を殺しちゃなんねえ、といったのは誰だとごねる権助を、一両やるからと、ようやく言い含め、準備を整えて、いよいよ巣鴨に乗り込んだ法印。

線香を百本用意させ、さあこれからという時に、権助が狐を入れた箱をさげて座敷に押し入ってきたので大あわて。

まだ早いと小言を言いながら、
「マカハンニャハラミッタシンギョウ、カンジーザイボーサツ、ギョウジン」
これ一つしか知らない般若心経を、もっともらしくうなりだす。

「そろそろ出すか」
「ばか野郎、声が大きい。フーショウフーメツフクーフージョウ……そろそろ出せ」
「ムーゲンニービーゼツシン……死んでもいいから出せ」
「よし台所へ行って、お盆を借りてこよう」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

江戸のインチキ霊能者

法印とは、本来は「まともな」山伏修験者をいいますが、この噺に登場するのは、江戸末期にはびこったインチキ行者で、怪しげな加持祈祷を行い、金銭をだまし取る手合いです。

山伏は役小角を祖とし、過酷な修行を通して真言密教の奥義に達し、超人的な法力を会得した者が少なくないと言われます。

その「破邪の法」は、歌舞伎十八番「勧進帳」で弁慶が再現していますが、臨兵闘者皆陳列在前という九字の真言を唱え、歯を三十六度叩き、さらに「急急如律令」と唱えるのが定法です。

それさえ知らず、般若心経でゴマかしているところにこの主人公のインチキ振りがうかがえます。

天保改革の際、こうした輩を郊外に追放したという記事が『武江年表』に見え、目白の鼠山もその配流地の一つでした。

黙阿弥の「三人吉三」の発端で、法印と浪人がグルになって狂言のケンカをやらかし、法印が不動金縛りの術を見せるというので見物人が集まったところを、その隙に、一味のスリが、全員の財布を失敬してしまうという場面がありますが、現在ではカットされます。

明治の新作落語か

この噺、別題を「巣鴨の狐」といい、明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残っています。

同時代では二代目三遊亭小円朝もよく演じたらしく、続いて大正から昭和初期までは五代目三升家小勝(1939年没)が一手専売にしましたが、それ以後、現在までやり手はありません。

円橘は、円朝門下の「四天王」の一人として明治後期まで重きをなした人で、人情噺、落とし噺ともに優れていました。

明治39年(1906)7月11日、谷中全生庵での師円朝の七回忌法要の席で、本堂での読経中に倒れ、そのまま亡くなったという因縁めいた最期で知られます。

この速記のマクラで、円橘は「当世風には参りませぬが、何かおあたらしい落語を」と述べていて、この噺が自身の新作であることを匂わせていますが、詳細ははっきりしません。

傾城が窪

傾城が窪は鶏声が窪とも書き、元の文京区駒込曙町、現在の同区本駒込1、2丁目にあたります。

下総古河八万石、土井大炊頭の下屋敷の南西部一帯で、地名の起こりは、土井屋敷で毎晩、怪しい鶏の鳴き声がするので、その声のあたりを掘ってみると、金銀でつくられた鶏が出てきたため、その故事にちなんだといわれます。

したがって、鶏声が窪が古い表記とみられます。

「傾城」は遊女の古称ですが、同音の転化でしょう。 

鼠山

鼠山は、現在のJR目白駅西側一帯の台地。

かなり範囲は広く、豊島区目白4丁目付近から西武池袋線・椎名町駅を越え、同区長崎四丁目あたりまで広がっていたようです。

古くは子ツミ山、また櫟の大木があったことから櫟山ともいいました。

享保12年(1727)、幕府直轄地になり、将軍家調馬場、お狩場となりました。

「大江戸の尻尾のあたり鼠山」という雑俳が残っていますが、文字通り、江戸の尻尾、最西端でした。

まずかった狐汁

寛永年間(1624-44)に書かれた、料理書の先駆け「料理物語」にも、鹿・狸・かわうそ・犬などの調理法はあるものの、狐はなし。

よほど、まずかったのでしょうね。

【語の読みと注】
鼠山 ねずみやま



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ほしのや【星野屋】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

心中を切り札に、だんなと水茶屋女とその他の駆け引きやだましあいが絶妙。

【あらすじ】

星野屋平蔵という、金持ちのだんな。

近頃、水茶屋の女お花に入れあげ囲っていることを、女房付きのお京にかぎつけられてしまった。

お京は飯炊きの清蔵をうまく釣って囲い宅まで白状させたあげく、奥方をあおるので、焼き餠に火が付き騒動に。

平蔵は養子の身で、こうなると立場が弱い。

やむなく、五十両の金をお花にやって手切れにすることを約束させられてしまう。

お花に因果を含めようとするが、女の方は
「だんなに捨てられたら生きている甲斐がない」
と剃刀で自殺しようとする騒ぎ。

困った平蔵、しばらく考えた末
「そんならおまえ、どうでも死ぬ気か。実はおれも今度悪いことがあって、お上のご用にならなけりゃならない。そうなれば家も離縁になり、とても生きてはいられない」
と意外な打ち明け話。

「それならいっそのことおまえと心中したいが、どうだ、いっしょに死んでくれるか」
と言われると、お花も嫌とは言えない。

母親に書き置きして、その夜、二人が手に手を取って行く先は、身投げの名所、吾妻橋あずまばし

だんなが先に飛び込むと、大川(墨田川)に浮かぶ屋根船から
「さりとは狭いご料簡、死んで花実が咲くかいなァ」
一中節いっちゅうぶしの「小春こはる」のひとふしが聞こえてきた。

お花、とたんに死ぬのが嫌になってしまった。

「もし、だんな、お気の毒。はい、さようなら」

ひどい奴があるもので、さっさと家に帰ってしまう。

そこへ鳶頭とびのかしらの忠七が現れ
「たった今、星野屋のだんなが血だらけで夢枕に立ち、『お花に殺されたから、これからあの女を取り殺す』と言いなすったので告げに来やした」
と脅かす。

お花は恐ろしくなって、心中くずれの一件を白状してしまう。

忠七が
「だんなを成仏させるには、てめえが尼になって詫びるほかねえ」
と言うので、しかたなくみどりの黒髪をブッツリ切って渡したとたん、入ってきたのはほかならぬ星野屋平蔵。

この心中は、お花の心底を試すための芝居だったのだ。

ちなみに平蔵は川育ちで、泳ぎは河童流。

「ざまあ見やがれ。てめえともこれで縁切りだ。坊主になって当分見世へも出られやしめえ」
「おあいにく。かもじを切っただけさ」
「ちくしょう、だんな、ふてえ女でございます。やい、さっきてめえがもらった五十両はな、贋金にせがねだ。後ろに手が回るぜ」

お花がびっくりして返すと、
「まただまされやがったな。だんなが贋金を使うか。本物だい」
「えー、くやしい」

そばでおふくろが
「あー、三枚くすねておいてよかった」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

女を坊主にする噺  【RIZAP COOK】

剃刀」「大山詣り」「品川心中」の下、「三年目」とあります。もっとも、この噺のお花はしたたかですから、かもじまでしか切っていませんが。

かもじ  【RIZAP COOK】

かもじは「そえ髪」で、日本髪に結うとき、地髪が薄い人が補いに植える、自然毛の鬘です。江戸後期、特に安永年間(1772-81)に専門店ができるなど、大流行しました。

水茶屋  【RIZAP COOK】

表向きは、道端で湯茶などを提供する茶屋ですが、実は酒も出し、美女の茶酌女は、今でいうコンパニオンで、心づけしだいで売春もすれば、月いくらで囲われ者にもなります。

笠森お仙、湊屋おろくなど、後世に名を残す美女は、浮世絵の一枚絵や美人番付の「役力士」になりました。

桜木のお花もその一人で、実在しました。芝居でも黙阿弥が「加賀鳶」に登場させています。

一中節  【RIZAP COOK】

初世都一中が創始した、京浄瑠璃の一派です。上方では元禄期、江戸ではずっと遅れて文化年間以後に流行・定着しました。「小春」は通称「黒髪」で、「小春髪結の段」のことです。

この部分、ほとんどの演者を入れますが、戦後、この「星野屋」を得意とした八代目春風亭柳枝の節回しが、ことによかったそうです。

屋根船  【RIZAP COOK】

屋形船より小さく、一人ないし二人でこぎました。日よけのため、すだれや障子で仕切っています。就航数は文化年間(1804-18)には500-600艘にのぼったそうです。

もちろん、障子を締め切って、中でしっぽりと……という用途もありました。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

うぐいすのほろよい【鴬のほろ酔い】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

スター気取りの鴬が登場する、明治の頃につくられたはなしです。

【あらすじ】

ある男が人語を話す、世にも珍しい鴬を飼っている。

それは世間に秘密だが、鳴き声は評判になり、
「聴かせてほしい」
という人が大勢いるので、
「それでは」と、自宅に人を集めて披露することになった。

書画骨董、鴬宿梅の掛け軸などを用意して、いよいよ鴬に
「いい声で鳴けよ」
と言いつけると
「ここ二、三日夜寒がきつかったので、喉の具合が悪く、それに冬のような心持ちがして、気が浮き立たないから鳴けません」
と鴬が言うので、困る。

そこで景気付けに、鴬に一杯飲ませ、ほろ酔いかげんで鳴かせようとすると、
「酒で喉がかわいたからお茶を一杯くれ」
とも言う。

茶は冷めてしまったからと、酒の燗をした湯を飲ませると
「アチチ、こりゃ熱湯。舌をやけどした」

鴬が縁側の手水鉢の方へフラフラ飛んで行くから、驚いた主人、
「これこれ、どこへ行く」
「はい、あんまり熱いので埋め(=梅)に行きます」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

風雅な明治のマクラ

この噺、原話はまったく不詳です。

鴬の擬人化が珍しいだけで、オチも地口(湯を埋め=梅→鴬の連想)で平凡なので、今ではまったくすたれ、演じ手はありません。

資料としても、本格的芝居噺の名手だった六代目桂文治が明治33年(1900)3月、「百花園」に載せた速記があるのみで、文治(明治44年没)以後、口演されたかどうかもわからないほどなのですが、その速記を読んで感心させられるのは、噺そのものよりも、そのマクラにみる風雅さ、故事や古典への造詣の深さです。

いささかキザなひけらかしが目立ったと言われる文治ですが、

鶉鶉(うつらうつら)と世を暮らし、心鶺鴒(こころせく)やる瀬なき、胸の孔雀がさし込んで、くすり雲雀も日に千度、はや隼に身を堅め、それ鳳凰(相応)な商売して、二人仲よう鴛鴦と、君の心は白鷺で……

という洒落た鳥尽くしの色文(ラブレター)から始まり、鳥の鳴き声を聞き分けたという中国の公冶長の逸話をひとくさり、蜀の皇帝が死んでホトトギスに生まれ変わったという「蜀魂」の故事、有名な古今集の紀貫之の序から、「人来鳥」「経よみ鳥」「月日星」などの鴬の別称を並べ、という風に、いかにも粋に典雅に、さりげなく本題に入ります。

おそらく、穏やかで、流麗な語り口だったでしょう。寄席が浮世学問のみならず、大切な教養の源だった古きよき明治の御世がうかがえます。

鴬宿梅の故事

11世紀に成立した歴史物語『大鏡』の中で、村上天皇の命で家の庭の梅の木を運び去られた紀貫之の娘が天皇に託す、

勅なれば いともかしこし 鴬の 宿はと問はば いかが答へん
(天皇のご命令なので、たいへん名誉なことですが、もし庭の鴬が「私の家である梅の木はどこへ行ったのでしょう」と尋ねたら、どう答えればよろしいのでしょう)

という歌から採ったもので、昔から梅と鴬は付きものとして、掛け軸の画賛によく用いられる題材です。

もちろん、これがオチの伏線になっています。

【語の読みと注】
鴬宿梅 おうしゅくばい
鶉 うずら
鶺鴒 せきれい
孔雀 くじゃく
雲雀 ひばり
千度 ちたび
隼 はやぶさ
鳳凰 ほうおう
鴛鴦 おしどり
白鷺 しらさぎ
大鏡 おおかがみ
勅 ちょく:天皇の命令



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ごんべえだぬき【権兵衛狸】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

狸が人を化かす噺。
名人がこぞってやっています。

別題:とんとん権兵衛(上方) 化け物

【あらすじ】

権兵衛という、渡し守を兼ねているお百姓。

夜になると寝酒を一杯飲んで寝るだけが何よりの楽しみという、慎ましい暮らしをしている。

最近、毎晩決まってトントンと戸をたたく音がし、
「権兵衛、権兵衛」
と呼ぶ声がするので、外に出てみると誰もいない。

おおかた、狸のいたずらだろうと見当がついたが、これがあまり続くため、権兵衛、だんだん腹が立ってきた。

「野郎、明日の晩来てみやがれ。ひどい目に逢わしてやる」

刻限を見計い、戸の陰に立って見張っているのだが、なかなかどうして、捕まらない。

狸はますます調子に乗ったのか、三日目の晩も四日目の晩も相変わらず、
「トントン、トントン、権兵衛、権兵衛」

ある晩、来たなと思って戸口で出し抜けに
「なんだァ?」
と返事をして急にガラリと戸を開けると、不意を食らった狸はびっくりして家の中に転がり込み、目を回した。

権兵衛は狸を細引きでグルグル巻にふん縛って土間に転がしておく。

「さあ、どうしてくれべえか」
といろいろ考えたが、狸汁にして食ってみたところで、あまりうまいとは思えない。

それよりも、二度とこんな悪さをする気を起こさないように、こらしめて放してやることにして、仲間に手伝ってもらい、剃刀かみそりで狸の頭を寄ってたかってくりくり坊主にした上で追い払う。

さすがに、これにはこたえたと見え、それから八日ほどはやってこない。

ヤレヤレと安心していると、九日目の晩、
「トントントン、権兵衛さん」
「野郎、また来やがって。今度はさん付けだ。たぶらかそうったって、そうは問屋がおろさねえだぞ。この間のように痛い目にあいてえか」

外で狸が、
「もう決していたずらはしないからちょっと開けてください」
と、いやにしおらしく頼むので、権兵衛、しかたなしに戸をガラリと開けた。

「何の用だ」
「ええ、先日はまことにどうも」
「あんだ、まだ不服があるだか」
「春先でのぼせていけませんから、すいませんが、もういっぺん剃ってくださいな」

【しりたい】

大看板が好んで競演

あまりおもしろい噺とも思えませんが、明治の昔には四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、初代三遊亭円左(小泉熊山、1853-1909、狸の)、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の)など、円朝門下の錚々とうとうたる名人連が手掛けました。

昭和以後も、円蔵直伝の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)ほか、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)から七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)にいたるまで、名だたる大看板はほとんどレパートリーに入れています。

四代目円喬の「化物」

明治の四代目橘家円喬は「化け物」と題し、「権兵衛狸」の後に、狐が人を化かす小ばなしを付け、オムニバスで演じた速記を残しています。

そのあらすじは……。

浅茅あさじはら(台東区石浜二、三丁目にあった原野)に悪狐が出没し、いきなり金玉を蹴飛ばして悶絶させ、食物を奪うので、馬方うまかたの九郎兵衛が退治しようと見張っていると、狐が現れて馬糞の団子をこしらえ、近所の娘に化けて九郎兵衛の家に行く。かみさんがころりとだまされたので、あわてて戻った九郎兵衛が、それは馬糞だと言おうとしたとたんに、金玉を蹴られる。気がつけば蹴ったのは自分の馬、のぞいていた家の戸の節穴は馬の尻の穴。

「権兵衛狸」そのものが小ばなしとして扱われていたのがわかります。

権兵衛

地方出身者の代名詞ですが、『江戸語の辞典』(前田勇編、講談社学術文庫)に、「男女児の生後七日に産髪を全部剃り落とし、盆窪ぼんのくぼのみに剃り残した毛髪」とあります。

狸がクリクリ坊主にされることと掛けて、演題が付けられたものと思われます。

オチ

「髭もついでにあたってくんねえ」と、狸が伝法でんぽうに言うやり方もあります。

これだと、タヌ公の「性格」が変わり、すご味が出ますね。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

あんざん【安産】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

ここでは熊五郎が、とんでもない粗忽者として登場する、短いおはなしです。

【あらすじ】

粗忽者の熊五郎。

湯に行ったら尻がかゆいのでかこうとして、隣の金さんの尻をつねってけんかになり、金さんがとっくに出てしまっているのに、まだあやまっていたというほど。

それが、かみさんの臨月ともなると、ふだんにも増してソワソワ落ちつかない。

いよいよ産気づき、八十歳の産婆を頼んだが、産婆は潮時を心得ていて、なかなかやってこないのにじれて、湯を沸かすのに薪の代わりにゴボウをくべてしまった。

やっと婆さんが到着。

ご利益があるからと、塩釜さまの安産のお札、梅の宮さまのお砂、水天宮さまの戌の日戌の月戌の日のお札から、どういうわけか寄席の半札まで、やたらと札ばかり並べる。

当人も、ふだんは神さまに手のひとつも合わせたことがないのに、この時ばかりは
「南無天照皇太神宮さま、南無塩釜大明神、水天宮さま、粂野平内濡仏、地蔵菩薩観音さま、カカアが安産しましたら、お礼に金無垢の鳥居一本ずつ納めます」

これを聞いて、うなっているはずのかみさんが驚いた。

「この貧乏所帯で額一つ上げられないのに」
と文句を言うと
「心配するねえ。神さまだって金無垢の鳥居と聞きゃあ、面食らってご利益を授けらあ。出るものが出ちまえば、後は尻食らえ観音だ」

その甲斐あってか、赤ん坊が無事誕生。

「お喜びなさい。男の子ですよ」
「そいつは豪儀だ。ひとつ歩かしてみせてくれ」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

【しりたい】

塩釜大明神

宮城県塩釜市の塩竃神社。

航海安全・安産の神です。

梅の宮さま

京都市右京区の梅宮神社。安産の神。お砂はお土砂のことで、加持祈祷で清めた砂。

生命を蘇らせる力があるとされます。

久米平内濡れ仏

三代将軍家光の頃、首斬り役人を務めていた(一説には辻斬り)久米(粂野)平内(?-1683)は、のち、鈴木正三(1579-1655)に師事して仏道に入りました。

罪業障滅のため、往来に石像を立て、諸人に踏みつけてもらいたいと遺言したので、始めは浅草駒形堂前、のちに浅草寺境内に像を立て、平内堂としました。

踏みつけと文(恋文)付けを掛け、文を奉納して縁結びを祈願する男女が後を絶たなかったとか。

濡れ仏は、そのそばにある雨ざらしの観音、勢至両菩薩像です。

久米平内は兵藤長守という名の武道者で、肥後(熊本県)の生まれながら、三河挙母藩で武道師範をつとめ、そのとに、赤坂の道場をもち、どうしたことか、千人斬りの願掛けで辻斬りに及んだ輩でした。

明治大正期に大阪から発信された立川文庫に登場して人気を博しました。

その前には、曲亭馬琴が『巷談坡堤庵』という敵討ちの小説に登場させています。

大正昭和の戦前期には9本の映画にもなり、三代目小金井蘆洲も講談『粂平内』(大正9年=1918、博文館)を残しています。

三代目蘆洲は志ん生が5か月ほど蘆風の名で門下にいたことでも知られています。

尻食らえ観音

困った時は観音を頼み、窮地を脱すると「尻食らえ」と恩を仇で返す意味の俗語。

ふつう「尻を食らえ!」と言う場合は、「糞食らえ」と同義で、痛烈な罵言、捨てゼリフです。

司馬遼太郎が『週刊読売』に小説「尻啖え孫市」を連載すると、このスラングがいっときはやったことがありました。

昭和38年(1963)7月-39年(1964)7月の頃のことです。

一音違って「しりくらい観音」となると、陰間の尻、もしくはお女郎の尻の意味となります。

日蓮大士道徳話

三遊亭円朝の晩年の作品に「日蓮大士道徳話」というのがあります。

明治29年(1896)10月、日蓮宗の週刊新聞に7回で連載したもの。

9月には麻布鬼子母神(日蓮宗の道場でした)の磯村松太郎行者の導きでで日蓮宗の信者となったことから、日蓮宗側が宣伝の意味も込めて、円朝による日蓮上人の一代記を語ってもらおう、という企画だったようです。

当然、長尺の大作の予定だったのでしょうが、結局は7回で終わってしまいました。なんとも消化不良です。

岩波版「円朝全集」第11巻に初めて収録されました。

話は日蓮の遠祖、中臣鎌足に始まって、浜松井伊谷の貫名氏となり、鎌倉期には安房に移り住み、貫名次郎重忠が土地の大野氏の娘梅菊との間には子を成し、それが長じて日蓮となった、という流れです。

第7回では誕生で、その後は残念ながら紙資料がありません。

その誕生場面には「安産」に似た描写があります

円朝は落語的な滑稽描写にしていました。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
久米平内 くめのへいない
巷談坡堤庵 こうだんつつみのいほ
挙母藩 ころもはん



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ぞろぞろ【ぞろぞろ】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。

【あらすじ】

浅草田圃たんぼの真ん中にある、太郎稲荷たろういなりという小さな社。

今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。

老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物あらものや飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。

じいさんもばあさんも貧しい中で信心深く、稲荷社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。

ある日のこと。

夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。

雨がやむまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。

こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。

一度飛び出していった客が、また戻ってきた。

外がつるつる滑って危なくてしかたがない、という。

ふと天井からつるした草鞋わらじを見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」

一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。

夫婦で、太郎稲荷さまのご利益りやくだと喜び合っていると、近所のげんさんが現れ、鳥越とりこえまでこれから行くから草鞋を売ってくれと頼む。

「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」

言われて見上げると、確かに一足ある。

源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。

それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。

これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験れいげんだと、この茶屋はたちまち名所に。

浅草田町あさくさたまちあたりの、はやらない髪床かみどこの親方。

客が来ないので、しかたなく自分のひげばかり抜いている。

知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。

行ってみると、押すな押すなの大盛況。

茶店のおかげで稲荷も繁盛し、のぼり、供え物ともに、以前がうそのよう。

爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念に草鞋を買う人が引きも切らない。

親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参はだしまいりをする。

満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。

親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀かみそりをあてがってすっと剃ると、後から新しい髭が、ぞろぞろっ。

【しりたい】

彦六ゆかりの稲荷綺譚

もとは上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ円都たちばなのえんと(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷あかてぬぐいいなり(大阪市浪速区稲荷2-6-26)でした。

東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)が手がけ、その演出を継承した八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。

四代目円蔵とは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の師匠で「品川の師匠」といわれた人です。

戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。

笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。

太郎稲荷盛衰記 

太郎稲荷は、浅草田圃の立花家(筑後柳川藩、11万9600石)下屋敷の敷地内にありました。

当時の年代記『武江年表』(斎藤月岑著)の享和3年(1803)の項に、その年2月中旬から、利生りしょうがあらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。

あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日さくじつ(1日)、15日、28日およびうまの日と制限したほどでした。

文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。

この噺にある通り、さびれていたほこらがりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。

ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝車町しばくるまちょうから発した大火で灰燼かいじんし、それから二度と復興されませんでした。

太郎稲荷のおもかげ

井上安治いのうえやすじ(1864-89)が、明治初期の太郎稲荷を描いています。満月が照らす荒涼とした風景はぐっとくる懐かしさをこみ上げさせます。井上は小林清親(1847-1915)の一番弟子で、浮世絵師、版画家として優れた作品を残しています。

樋口一葉(1872-96)の「たけくらべ」でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。

浅草田圃太郎稲荷 井上安治 東京都立中央図書館所蔵



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しちやぐら【質屋蔵】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

質屋が生活と密接だった時代なら、こんな想像力も沸こうというものです。

別題:ひちやぐら(上方) 質屋庫

あらすじ

ある大きな質屋の三番蔵に、夜な夜な化け物がでるという町内の噂を、当のだんなが朝湯で聞いてきた。

「これは信用にかかわるから捨ててはおけない」

早速番頭に寝ずの番で見届けるよう言いつける。

だんなの考えでは、「これはきっと大切な品物を心ならずも質物にした人の、その物に対する執着が蔵に残り、妖怪と化したものだろう」という。

番頭は臆病なので、「とても一人では怖くていけない」と、普段から腕に龍の刺青をして強そうなことばかり言っている出入りの熊五郎に応援を頼みたいと申し出る。

突然だんなが呼んでいると聞いた熊、さてはしくじったかとびくびくして、だんなの前に出ると、言われもしないうちから、台所から酒とタクアン樽、それに下駄を三足盗んだことをぺらぺら白状してしまう。

だんなが渋い顔をしながらも、「今日呼んだのはそんなことじゃない。おまえは強いと聞いているが本当か」と尋ねると、熊五郎、途端に威勢がよくなり、木曽で虎退治をしたとホラを吹くが、化け物のことを聞かされると、急にぶるぶる震えだす。

しかたがないので、逃がさないように店に禁足し、夜になると番頭ともども、真っ暗な土蔵の中にほっぽり込まれる。

二人がガタガタ震えていると、やがて草木も眠る丑三ツ時。

蔵の奥で何かがピカリと光り、ガラガラガラと大きな音。

生きた心地もない番頭と熊、それでも怖いもの見たさでそっとのぞいてみると、何と誰かが相撲を取っている。

行司の声で「片やァ、竜紋、竜紋、こなたァ、小柳、小柳ィ、ハッケヨイ、ノコッタノコッタ……」

「番頭さん、ありゃなんです」
「だんなの言う通り、質物の気が残ったんだ。羽織の竜紋と小柳の帯が相撲を取ったんだ」
「あっ、また出た」

棚の掛け軸がすーっと開く。

よく見ると、横町の藤原さんの質物の、天神さま、つまりは菅原道真公の画像の掛け軸。

仰天していると、衣冠束帯、梅の花を持った天神が現れて、「こちふかばあー、においおこせようめのはなー」と、朗々と詠み上げた。

「こりゃ番頭。藤原方に利上げせよと申し伝えよ。あァあ、また流されそうだ」

しりたい

伊勢屋稲荷に……

落語には、質屋は「伊勢屋」という屋号でたびたび登場します。これは、質商は伊勢出身の者がほとんどだったからです。「伊勢屋稲荷に犬の糞」と江戸名物の一つに挙げられるくらい、江戸にはやたらに質屋が多かったのです。

大工調べ」で、因業大家の源六が奉行に、「その方、質屋の株を持っておるのか?」と脅かされたように、旧幕時代は質屋は株売買による許可制でした。

大きく分けて本質・脇質があり、本質は規模の大きな、正規の質屋。

入質には本人のほかに請け人(連帯保証人)の判が必要でした。

脇質の方は今でいう消費者金融で、請け人がいらない代わりに質流れの期限は一か月。

この噺のオチ(サゲ)にある「利下げ」とは、期限が来たとき、利子を今までより多く払って、質流れを食い止めることです。対語は「利上げ」。詳しくは「おもと違い」をお読みください。

天保年間(1830-44)以後は、期限は八か月に延ばされました。

元は江戸で

安永2年(1773)に江戸で刊行された『近目貫(きんめぬき)』収載の「天神」という小咄が元のようです。

それが上方噺となって「ひちやぐら」に。これが古くから江戸に移されて演じられていました。宇井無愁の『落語の根多』(角川文庫、1976、絶版)でこの噺を検索すると、「し」の項ではなく「ひ」の項にあります。びっくりです。

宇井は東京落語を評価しない人で有名でした。

平成5年(1993)、宇井のこの本を私(古木)は上野の古書店で5000円で購入しました。なけなしで。

今ではAmazonのマーケットプレイスで100円台で求められます。びっくりです。

演者と演出

熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。

六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。

桂歌丸のほか、円生一門に継承され、三遊亭円弥、三遊亭生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものでした。

上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。

【質屋蔵 三遊亭円生】



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

じっとく【十徳】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

噺の全編、これ駄洒落の全員集合。ばかばかしいだけ。落語のおたのしみです。

あらすじ

ふだん物知り顔な男。

髪結床かみゆいどこで仲間に「このごろ隠居の着ている妙ちくりんな着物は何と言う」と聞かれたが、答えられず、恥をかいたのがくやしいと、さっそく隠居のところへ聞きに言った。

隠居は「これを十徳という。そのいわれは、立てば衣のごとく、座れば羽織のごとく、ごとくごとくで十徳だ」と教え、「一石橋という橋は、呉服町の呉服屋の後藤と、金吹かねふきちょうの金座御用の後藤が金を出し合って掛けたから、ゴトとゴトで一石だ」とウンチクをひとくさり。

「さあ、今度は見やがれ」と床屋に引き返したはいいが、着いた時にはきれいに忘れてしまって大弱り。

「ええと、立てば衣のようだ、座れば羽織のようだ、ヨウだヨウだで、やだ」
「いやならよしにしねえ」
「そうじゃねえ、立てば衣みてえ、座れば羽織みてえ、みてえみてえでむてえ」
「眠たけりゃ寝ちまいな」
「違った、立てば衣に似たり、座れば羽織に似たり、ニタリニタリで、うーん、これはしたり」

【無料カウンセリング】ライザップがTOEICにコミット!

しりたい

遊び心に富むダジャレ噺  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、安永2年(1773)刊『御伽草おとぎぞうし』中の「十徳のいわれ」で、そっくりそのままです。

江戸にはシャレ小咄が多く、ばかばかしいようで遊び心とウイットに富み、楽しいものです。

落語の「一目上がり」などもそうですが、数でシャレるものがあります。たとえば。

屋島やしまいくさで、平教経たいらののりつねが源義経を見て、勝負をしそうになった。義経は臆して、『よそうよそう』で八艘はっそう飛び」
「西と書いて産前産後と解く。その心は、二四は三前三後」

いろいろあります。

本来、前座噺ですが、大看板では八代目春風亭柳枝りゅうし(1959年没)がよく演じました。

上方ではこの後、「ごとくごとくで十徳やろ」と先回りされ、困って、「いや、たたんでとっとくのや」と落とします。

これはしたり  【RIZAP COOK】

オチに使われていますが、今ではどうでしょう。

「これはしき(=悪い)ことしたり」の真ん中が取れた言葉といわれ、「しまった」と「驚いた」の両義に使われます。

この噺では前者でしょうが、ダジャレなので、あまり詮索しても意味はありません。

仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら」五段目・山崎街道鉄砲渡しの場で、狩人となっている早野勘平はやのかんぺいが、かつての同僚の千崎弥五郎せんざきやごろうに偶然出会い、両人膝をたたいて「これはしたり」と言います。この場合は後者の意味で、歌舞伎ではこのパターンは紋切り型で繰り返し使われます。

十徳  【RIZAP COOK】

脇を縫いつけた、羽織に似た着物です。おもに儒者、絵師、医者らが礼服として用いました。

本当の語源は、「直綴じきとつ」からの転訛てんかで、脇をじてある意味でしょう。

鎌倉時代末期に始まるといわれ、古くは武士も着用しました。

江戸時代には腰から下にひだを付け、普段着にもなりますが、はかまは履かないのが普通でした。

そもそもは、鎌倉末期に素襖すおうより下級の小素襖こずおうのことです。

高貴な人が外出する時に輿こしきやともざむらいが上着の上から掛けて、腰回りを帯で締めて四幅袴よのばかまを履くようになりました。

室町時代には上下ともに侍の旅行用衣服に転じ、江戸時代には袴が省略されて、儒者、医師、俳諧師、絵師、茶人など、剃髪ていはつした人の外出着や礼服と変化していきました。

黒無紋くろむもん精好せいごうしゃといった布地で仕立て、脇を縫い綴じ、ともれのひらぐけの短い紐を付けて、腰から下にひだをこしらえています。

見るからに浮世離れした風流人の上品な風情です。これが変化していって、羽織はおりとなっていきます。

後藤は江戸の「造幣局」  【RIZAP COOK】

金座は勘定奉行に直属です。

家康が貨幣制度の整備を企てて日本橋に金座を設け、新両替町しんりょうがえちょう(中央区銀座一~四丁目)に駿府すんぷから銀座を移転。

家臣の後藤庄三郎光次に両方を統括させ、金貨・銀貨を鋳造・鑑定させたのが始まりです。

金座の設置は文禄4年(1595)、銀座は慶長17年(1612)とされます。

後藤庄三郎は代々世襲で、大判小判を俗に「光次みつつぐ」と呼んだのはそのためです。

金座は当初、日本橋金吹かねふきちょう(「長崎の赤飯こわめし」参照)に設けられ、後藤の配下で、実際に貨幣に金を吹きつける役目の業者を「金吹き」と呼びましたが、元禄8(1695)年にこれを廃止。

新たに鋳造所を本郷に移転・新築しましたが、間もなく火事で全焼。

元禄11年(1698)、後藤の官宅があった、金吹かねふきちょうのすぐ真向かい、日本橋本石町二丁目の現日銀本店敷地内へ再移転しました。

一石橋  【RIZAP COOK】

もとは「いちこくばし」でしたが、いまは「いっこくばし」と言い慣わしています。

中央区日本橋本石町ほんこくちょう一丁目から、同八重洲やえす一丁目までの外堀そとぼり通りを南北に渡し、北詰きたづめに日本銀行本店、その東側に日本橋三越があります。

この橋上から自身と常磐ときわ橋、呉服橋、鍛冶かじ橋、銭亀ぜにかめ橋、日本橋、江戸橋、道三どうさん橋と、隅田川を代表する八つの橋を一望する名所で、別名を「八ツ橋」「八つ見の橋」といったゆえんですが、現在は高速道路の真下です。

噺の中の「ゴトとゴトで一石」は俗説です。このダジャレ説のほか、橋のたもとに米俵を積み上げ、銭一貫文と米一石を交換する業者がいたからとする説も。

どちらも信用されていなかったらしく、「屁のような由来一石橋いっこくばしのなり」と、川柳で嘲笑される始末でした。

もう一つの「呉服屋の後藤」は、幕府御用を承る後藤縫之助で、「北は金 南は絹で 橋をかけ」と、これまた川柳に詠まれました。

一石橋の南の呉服橋はこの後藤の官宅に由来し、橋自体、元は「後藤橋」と呼ばれていたとか。

一石橋の南詰に安政4年(1857)、迷子札に代わる「まひごのしるべ石」が置かれ、現存しています。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

さんにんたび ほったん かながわ【三人旅 発端 神奈川】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

落語きっての壮大な叙事詩。そのさわりです。

別題:朝這い 神奈川宿 旅日記

【あらすじ】

ある男が無尽に当たった。

ボロ儲けして喜んでいると、
「てめえがその金をため込む料簡なら、江戸っ子のツラ汚しだから勘当する」
と、おやじに脅かされた。

なにか使い道はないものかといろいろ相談して、結局、仲のいい二人の友達と上方見物と洒落込むことにし、世話になっている親分ほか、大勢の仲間と品川宿で涙の水杯を交わして、めでたく東海道を西に下ることとなる。

鈴が森の刑場、和中散で名高い大森を馬鹿話をしながら通り過ぎ、六郷の渡しを越え、川崎で茶屋の女をからかったりしながら、ようやく神奈川宿の棒鼻に着いたころには、そろそろ夕暮れも近くなっている。

今夜はここで泊まりである。

花沢屋という旅籠(はたご)の若い者に声をかけられ、それではそこにするかと決まりかけたとたん、一人が、俺はこの宿場に義理ある旅籠があって、どうしても泊まらなくてはならないから、てめえ達二人で花沢屋に泊まってくれと、言いだす。

別れて泊まるぐれえなら、初めから三人いっしょに来やしねえと二人が文句を言うと、「それじゃあまあ、日没にはまだ間があるから、少々長くなるが、そのいわく因縁を聞いてくんねえ」

兄いの話によると、去年大山詣りの帰りに泊まった旅籠で、五人のところを四人にしか飯盛女が来ない。

というのも、宿場で最高の女を集めてくれと注文を付けたからで、ランクが落ちてもいいのならまだいくらでもいるが、最高クラスとなるとこの四人しかいないと宿屋側の説明。

なるほど、そろっていい女。

しかたがないので、四人をズラリと廊下に並べ、女の方から相方を選ばせようということになった。

で、一人があぶれたのが、言いだしっぺのこの兄さん。

悔し紛れに掛け軸を破ったりして大暴れしていると、止めに入ったのが色の浅黒い、年は二十四、五の小意気な年増。

必ずあなたの顔の立つようにするからというので癇癪を納め、皆でのむうちに、他の連中は部屋に引き上げて、残ったのはその年増と二人きり。

改めて顔をよく見ると、七、八年前に深川の櫓下の鳶頭の家にいたお梅。

思いがけない再会に女もびっくりし、その場で、夜ふけに忍んでいくお約束ができた。

ところが、酔いつぶれているうちに夜が明け、遅刻したと慌ててお梅の部屋に駆け込んでみると、あっちはにっこり笑い、こっちもにこり。

にこりにこりでヨコリ……という、下らないノロケ話。

「こんちくしょう、それで夜這いを遂げたか」「いや、夜が明けたから朝這いだ」

底本:三代目蝶花楼馬楽 四代目橘家円喬

【しりたい】

連作長編

上方落語の「東の旅」「西の旅」シリーズに匹敵する、江戸っ子の「三人旅」シリーズの発端部分です。

「野次喜多」の二人連れに対して、もう一人加えたのがミソですが、あまり成功した噺とは言えません。

神奈川のくだりを「神奈川宿」「朝這い」と称します。

従来は、東海道五十三次すべての宿場について噺ができていたといわれますが、現存しているのは発端・神奈川(本編)と小田原(「鶴家善兵衛」)、京見物(「東男」「三都三人絵師」「祇園祭」「およく」)のみです。

「京見物」は、現在は「三人旅」とは別話として、四部作バラバラに演じられます。

明治期の演出

今回のあらすじは、明治の三代目蝶花楼馬楽と四代目橘家円喬の速記をテキストにしました。

大筋では、現行のやり方と変わりませんが、馬楽は、出発の相談をする場面(発端)を詳しく演じ、三人が伊勢参りに行くのに、行きは中仙道を、帰りは東海道を経由するという設定で、「発端」から「神奈川」を飛ばして、すぐに「小田原」に入りました。

これだと、小田原から中山道に入るというのは不自然なので、行きの相談からいきなり帰りの道中ということになり、無理は隠せません。

円喬のは、「旅日記」と題し、これはほぼ現行通りと言ってよいでしょう。

和中散

わちゅうさん。風邪薬の粉薬。

近江国(滋賀県)栗太郡梅の木村に本舗があり、関東では大森に三軒の支店を出していたので、「大森の和中散」として名高いものでした。

神奈川宿

東海道四番目の宿場で、現在の横浜市神奈川区新町から同青木町にかけての高速道路沿いに広がっていました。

江戸から約七里(28km)で、この噺の通り、男の足でゆっくり行けば、ほぼ最初の泊まりはここになります。「棒鼻」は宿場の入り口です。

飯盛女

このあたりの方言では、「八兵衛」といいました。

つまり、シベエ(○○しよう)、シベエで合わせてハチベエ。

小田原宿では「押しっくら」と名が変わります。

表向きは宿屋の女中が半ば公然と売春行為をしていたわけですが、幕府公認の遊郭である吉原以外は、表向き遊女屋の看板は上げられないので、品川宿を始め、すべてタテマエはあくまで宿場。

お女郎さんは「飯盛女(給仕人)」の名目で、宿屋が本業の宿泊のほかに、夜のサービスを行う、という体裁でした。

夜這い

よばい。古くは、平安期に男が求婚することを「呼ばふ」と言ったのが始まりです。

つまり、当初から「求婚」というのは即、夜中に女の寝所へ忍んでいくことを意味しました。

江戸期には、いなかに行けばさほど珍しい風習でもないのですが、江戸人からは好奇の目で見られました。

たとえば、薩摩国(鹿児島県)の夜這いでは、ほとんどの場合、女のオヤジに見つかったら即結婚という極めてキビシイものだったようです。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席