【ぞろぞろ】ぞろぞろ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。
【あらすじ】
浅草田圃の真ん中にある、太郎稲荷という小さな社。
今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。
老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物や飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。
じいさんもばあさんも貧しい中で信心深く、稲荷社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。
ある日のこと。
夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。
雨がやむまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。
こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。
一度飛び出していった客が、また戻ってきた。
外がつるつる滑って危なくてしかたがない、という。
ふと天井からつるした草鞋を見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」
一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。
夫婦で、太郎稲荷さまのご利益だと喜び合っていると、近所の源さんが現れ、鳥越までこれから行くから草鞋を売ってくれと頼む。
「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」
言われて見上げると、確かに一足ある。
源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。
それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。
これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験だと、この茶屋はたちまち名所に。
浅草田町あたりの、はやらない髪床の親方。
客が来ないので、しかたなく自分の髭ばかり抜いている。
知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。
行ってみると、押すな押すなの大盛況。
茶店のおかげで稲荷も繁盛し、幟、供え物ともに、以前がうそのよう。
爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念に草鞋を買う人が引きも切らない。
親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参りをする。
満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。
親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀をあてがってすっと剃ると、後から新しい髭が、ぞろぞろっ。
【しりたい】
彦六ゆかりの稲荷綺譚
もとは上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ円都(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷(大阪市浪速区稲荷2-6-26)でした。
東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)が手がけ、その演出を継承した八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。
四代目円蔵とは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の師匠で「品川の師匠」といわれた人です。
戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。
笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。
太郎稲荷盛衰記
太郎稲荷は、浅草田圃の立花家(筑後柳川藩、11万9600石)下屋敷の敷地内にありました。
当時の年代記『武江年表』(斎藤月岑著)の享和3年(1803)の項に、その年2月中旬から、利生があらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。
あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日(1日)、15日、28日および午の日と制限したほどでした。
文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。
この噺にある通り、さびれていた祠がりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。
ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝車町から発した大火で灰燼に帰し、それから二度と復興されませんでした。
太郎稲荷のおもかげ
井上安治(1864-89)が、明治初期の太郎稲荷を描いています。満月が照らす荒涼とした風景はぐっとくる懐かしさをこみ上げさせます。井上は小林清親(1847-1915)の一番弟子で、浮世絵師、版画家として優れた作品を残しています。
樋口一葉(1872-96)の「たけくらべ」でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。