おわかいのすけ【お若伊之助】落語演目

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【どんな?】

日本橋生薬屋の娘お若は評判の美人で一中節の稽古に通う。
心配する母は鳶頭に相談して伊之助にも稽古に通わせた。
二人の妙なようすを見て、母は伊之助をお払い箱に。
お若はボテレンとなるが、相手は伊之助ではなかった。
全集にも収載、円朝晩年の作品らしき因果譚。

別題:因果塚の由来 離魂病

あらすじ

日本橋横山町三丁目に、栄屋という生薬屋があった。

だんなはもう亡くなって、お内儀かみさん一人で店を切り盛りしているが、そこの娘はお若といって、年は18、近所でも評判の美人。

この娘がある日、一中節を稽古したいと、母親にねだる。

習わせてやりたいが、年ごろの娘だから問題があってはならないとお内儀さんは思案して、に組の初五郎という、店に出入りの鳶頭に相談する。

ちょうど、初五郎が弟同様に世話している、元侍の菅野伊之助というのが、年は若いが人間も堅くて、芸もしっかりしているということなので、それならと鳶頭の世話で、伊之助が毎日稽古に通ってくることになった。

話は決めたものの、そこは母親の本能。

だんだん心配になってくる。

なにしろ堅いといっても芸人で、しかも年は26、男っぷりはよし、それが18の娘と毎日さし向かいでは、猫に鰹節。

ある日、お若の部屋でぷっつり三味線の音が途切れたものだから、お内儀さん、胸騒ぎがしてそっとのぞくと、案の定。

これは放っておけないと、今のうちに仲を割くことにして、すぐに鳶頭を迎えにやり、30両の手切れ金で伊之助はお払い箱。

それでもまだ心配で、結局、お若は根岸で町道場を開いている、伯父の長尾一角という侍の家に預けられる身となった。

さあ、お若は生木を割かれて、伊之助への思い詰め、とうとう恋煩いになってしまった。

ある日、
「伊之さんにこれきり会えないくらいなら、いっそ死んで……」
と庭に出ようとすると、垣根の向こうに男の影。

ひょっとしたら、と駆け寄ると、まごうことなき恋しい伊之助。

再び、狂恋の火は燃えて、それから毎晩、監視の目を盗んで二人は忍び会う。

そのうち、お若の腹がボテレンになったので、これでは、いやでもバレる。

一角は、ある夜、現場を見つけ、いっそこの場でたたっ斬って、と思ったが、間に鳶頭が入っていることもあり、一応話をと、翌日、初五郎を呼びつける。

話を聞いて初五郎は仰天。

「手切れ金を渡してある以上、2人が忍び会っては妹に義理が立たん、伊之助の素っ首を引っこ抜いて参れ」
とねじこまれ、初五郎はおっとり刀で家に戻る。

「野郎、さあ、首を出せっ。てめえ、昨夜も行ってたってえじゃねえか。え、はらましちまって、いってえどうするんだ」
「なに言ってるんです。昨夜は鳶頭と吉原じゃないですか」

言われてみれば、確かに覚えがある。

道場に戻って、
「昨夜はどこにいたかはわかってる。なにかの間違いでしょう」
と言ったが、一角、
「おまえを酔いつぶさせておけば、密会するのはわけもない」
と受け付けない。

結局、2人で張り込んでラチを開けることになった。

その夜更け、東叡山寛永寺で打ち出す四ツの鐘がゴーンと響くと、お若の部屋で、なにやら怪しい影が浮かぶ。

いつの間にか、お若がきれいに化粧し、うれしそうに男に寄り添っている。

一角、やにわに種子島に弾丸をこめると、伊之助の胸元めがけてズドーン。

男はその場へ音を立てて倒れる。

お若は気絶した。

駆け寄ってみると、なんとそこには、針のようにびっしりと毛の生えた大狸の死骸。

さてはこいつがお若をたぶらかしていた、と知れたが、気になるのはお若の腹。

月満ちて産んだのが狸の双子。

これを殺して根岸の御行の松の根方に葬ったという、因果塚由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

円朝作なのか

別題を「一名因果塚の由来」といいます。

「円朝全集」(春陽堂)に速記が掲載されていることから、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)がつくった長編人情噺の発端とみなされてきました。

でも、結末が作品として荒唐無稽すぎて不出来なことと、円朝作と断定できるほかの速記がないことで、誰かが円朝の名を語った偽作ではないかという疑いも、昔からもたれています。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「円生全集」の解題で、「私ァどうかと思いますね」と述べています。

しかし、そんなこと言ったら、「円朝作」と伝えられるものには、たとえば「鰍沢」のように、じつは河竹黙阿弥がつくったものとか、条野採菊がこっそりつくった噺を「円朝作」として条野自身が経営する「やまと新聞」に連載した作品群とか、いくつもあります。

明治期とはいえ、今の時代と違って、作家としての個人がまだ確立していない頃の話です。

岩波書店版「円朝全集」第11巻には「離魂病」の名で「お若伊之助」が収載されています。

白といえなくても黒ともいえない、なにがしか円朝の脳裏を通過した作品という判断で載っているのでしょう。灰色です。

いまのところは、そんなところで肯ずるしかありますまい。

それはともかく。

この噺には、このあと続編があって、お若と伊之助が神奈川宿に駆け落ちし、生まれた岩松という男児と、お若が狸に犯されて生んだ男女の双子(原作では殺さず、養子に出したことになっている)のからむ因果噺となります。

ただ、この続編は筋立てとしては残るものの、実際は口演記録は明治以来、まったくありません。

前半は名人連が競演

実際に高座で演じられる前半は、サスペンスに富んで演者の力量しだいで、けっこうおもしろく聴かせることができる噺です。

円朝の口演記録こそないものの、三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900、蔵前の柳枝)、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)、五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)と、明治から昭和、先の大戦後の大看板が手掛けています。

なかでも、五代目円生はこの噺を十八番にし、戦後は六代目円生が継承して磨きをかけ、第一人者でした。

いろいろなやり方

前半の噺のディテール、人名、筋の設定は演者によってかなり異なります。

例えば、古く三代目柳枝のものは、男嫌いのお若が縁談を苦にしてうつ病になり、それを紛らすために伊之助が雇われることになっています。

お若が預けられた先は実の伯父であるところも、現在演じられる円生のやり方とは異なっています。

円朝の速記では、物語は2人が引き離されたくだりから始まります。

六代目円生は、お若の腰がほっそりしているという描写に「幽霊尻の幻尻、ああいうお尻から出るおならはどんな匂いがするか、かいでみようと一週間後をつけた男がいたな」などのくすぐりを用いて、因果噺の古色蒼然とした印象を弱めるよう工夫していました。

一中節

初世都太夫一中みやこだゆういっちゅう(恵俊、1650-1724、千賀千朴→)が、京都で始めた浄瑠璃(三味線の伴奏での語り物)です。

都一中は、京都の妙福寺(浄土真宗本願寺派)の三代目住職の次男で住職を務めた僧侶でした。

音曲が好きだったので還俗して、幇間などを経て浄瑠璃太夫となり、一中節の創始者に。

一中節は元禄元年(1685)の前後から人気を得てきたようです。

都一中は、近松門左衛門、竹本義太夫、尾形光琳といった元禄文化を牽引した人々の一人ととらえてよいでしょう。

はじめは、上方歌舞伎に伴奏音楽として出て、次第に知られるようになっていきました。

その頃、上方で人気だった義太夫節とは対照的な音調でした。

義太夫節は、大仰で、派手で、緩急交わって、聴いていてドキリとするような音調。三味線は太棹ふとざおを使います。

対する一中節は、温雅で、柔和で、品がよくてさりげなく、洗練された音調。三味線は中棹ちゅうざおを使います。

三味線は、棹の幅からおおざっぱに、太棹、中棹、細棹と分けています。

太棹は義太夫三味線のほかには、浪曲三味線、津軽三味線に使われます。棹ばかりか、胴も糸も撥も大振りです。中棹は中間で、清元三味線、常磐津三味線、地歌三味線(爪ではじく)などに使われます。細竿は長唄三味線です。歌舞伎音楽はこちらです。ほかに、柳川三味線(京三味線)があって、細棹よりもさらに細い形状で、三味線の古型を示すものです。

18世紀早々、一中が江戸に下ると一中節は、そのやさしい上方風からたちまち大評判となりました。商家などの富裕層や上流階級に限られたことに過ぎませんが。

門弟の中には江戸に残って江戸歌舞伎で伴奏したことから、やがては江戸でも広く知られる浄瑠璃となっていきました。

その後はすたれ、ふたたび幕末期に復活しました。

河東節かとうぶし(十寸見河東ますみかとう)、宮薗節みやぞのぶし(宮古路薗八みやこじそのはち)、荻江節おぎえぶし(荻江露友おぎえろゆう)、一中節(都一中)の4者を「古曲こきょく」とまとめて呼びます。極端に衰微した大正期に名づけられました。室内音楽です。

現在の一中節は、都派、菅野派すがのは、宇治派の3派に分かれているそうです。

深窓の令嬢であるお若が一中節にあこがれて習うのですから、この噺は幕末頃の設定と考えてよいでしょう。

十二世 都一中による一中節「辰巳の四季」。辰巳は宇治で、極楽浄土の見立て。一中節の本懐です

根岸御行の松

ねぎしおぎょうのまつ。「御行」というのは、高貴な人の行いのあとかたを後世の人が記憶にとどめるために付ける尊称です。「ありがたい」ニュアンスが漂います。

もとは、根岸の時雨しぐれおかにあった名松で、そのため別称を「しぐれの松」とも呼ばれまています。

御行おぎょう」の名の由来は、寛永寺(天台宗)の門主もんしゅ輪王寺宮りんのうじのみやがこの松の下で勤行ごんぎょう(修行)したことによるものです。これが「御行」のいわれです。

寛永寺のトップである門主は代々、法親王ほうしんのう(出家した天皇の子)が就いたため、勤行とはいってもただの「行」ではなく「御行」である、ということなのですね。

天皇や将軍など、とりわけ高貴で神秘的な人には「御」をつけて区別するのは、日本文化の特徴のひとつですね。

根岸御行の松 広重『絵本江戸土産』

江戸期、御行の松の根本近くに、岡田左衛門という人が、先祖から伝わる襟掛けと文覚上人の作と伝わる不動像を石櫃に納めて埋め、その上に石造不動像を安置したのが、そもそもの始まりでした。

子孫の岡田安兵衛は、宝暦年間(1751-64)に、さらに遺書などを納めて、その上に大きな石造不動尊を建立したそうです。

この地中には昔から、なにか霊的な力が宿るいわれがあって、特別な場所だったということですね。

その後、理由はわかりませんが、破却されてしまいました。

文化3年(1806)、貞照尼が願主となって、新たに不動堂を建立したそうです。

ここの松は「根岸の大松」と呼ばれるほどで、全盛期には周囲が4m、高さが13m余というお化け松でした。

時雨岡不動堂 『江戸名所図会』

大正15年(1926)に東京市の天然記念物に指定されましたが、2年後の昭和3年(1928)に枯死。惜しい。

昭和31年(1956)に新たに植樹されて二代目となりましたが、すぐに枯れました。

昭和51年(1976)8月に植えられた三代目は盆栽のような形状だったので、これでは具合が芳しくなく、地元の講中の人々が初代のような大樹をと、隣に四代目を植えました。

不動堂に祀られた不動明王像は初代の松の根を掘り起こして彫られたものだそうです。霊的ですね。樋口一葉の「琴の音」(1893年12月、『文學界』)にも登場します。どこかはかなげで霊的です。

江戸期にはここに福生院ふくしょういんがあったのですが、いまはなく、現在は、松とお堂がセットで時雨岡不動堂(台東区根岸4-9-5)と呼ばれています。

明治維新後は円明山西蔵院宝福寺(真言宗智山派、台東区根岸3-12-38)の境外仏堂となって、宝福寺が管理しています。

寛永寺の手を離れているのですね。

松の隣には、正岡子規(正岡常規、1867-1902)の「薄緑 お行の松は 霞みけり」の句碑があります。

「根岸の里のわび住まい」と一句ひねりたくなる土地だったことが、よくわかりますね。

根岸の里 広重『絵本江戸土産』

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評価 :3/3。

ぞろぞろ【ぞろぞろ】落語演目



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【どんな?】

「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。

【あらすじ】

浅草田圃たんぼの真ん中にある、太郎稲荷たろういなりという小さな社。

今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。

老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物あらものや飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。

じいさんもばあさんも貧しい中で信心深く、稲荷社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。

ある日のこと。

夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。

雨がやむまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。

こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。

一度飛び出していった客が、また戻ってきた。

外がつるつる滑って危なくてしかたがない、という。

ふと天井からつるした草鞋わらじを見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」

一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。

夫婦で、太郎稲荷さまのご利益りやくだと喜び合っていると、近所のげんさんが現れ、鳥越とりこえまでこれから行くから草鞋を売ってくれと頼む。

「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」

言われて見上げると、確かに一足ある。

源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。

それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。

これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験れいげんだと、この茶屋はたちまち名所に。

浅草田町あさくさたまちあたりの、はやらない髪床かみどこの親方。

客が来ないので、しかたなく自分のひげばかり抜いている。

知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。

行ってみると、押すな押すなの大盛況。

茶店のおかげで稲荷も繁盛し、のぼり、供え物ともに、以前がうそのよう。

爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念に草鞋を買う人が引きも切らない。

親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参はだしまいりをする。

満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。

親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀かみそりをあてがってすっと剃ると、後から新しい髭が、ぞろぞろっ。

【しりたい】

彦六ゆかりの稲荷綺譚

もとは上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ円都たちばなのえんと(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷あかてぬぐいいなり(大阪市浪速区稲荷2-6-26)でした。

東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922)が手がけ、その演出を継承した八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。

四代目円蔵とは、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の師匠で「品川の師匠」といわれた人です。

戦後では三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。

笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。

太郎稲荷盛衰記 

太郎稲荷は、浅草田圃の立花家(筑後柳川藩、11万9600石)下屋敷の敷地内にありました。

当時の年代記『武江年表』(斎藤月岑著)の享和3年(1803)の項に、その年2月中旬から、利生りしょうがあらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。

あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日さくじつ(1日)、15日、28日およびうまの日と制限したほどでした。

文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。

この噺にある通り、さびれていたほこらがりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。

ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝車町しばくるまちょうから発した大火で灰燼かいじんし、それから二度と復興されませんでした。

太郎稲荷のおもかげ

井上安治いのうえやすじ(1864-89)が、明治初期の太郎稲荷を描いています。満月が照らす荒涼とした風景はぐっとくる懐かしさをこみ上げさせます。井上は小林清親(1847-1915)の一番弟子で、浮世絵師、版画家として優れた作品を残しています。

樋口一葉(1872-96)の「たけくらべ」でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。

浅草田圃太郎稲荷 井上安治 東京都立中央図書館所蔵



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