ごかんさばき【五貫裁き】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

生業めざす熊を応援する大家と質屋との泥仕合。ケチ噺の典型です。

別題:一文惜しみ

【あらすじ】

四文使しもんづかいという、博打場の下働きをしている熊。

神田三河町かんだみかわちょうの貧乏長屋に住むが、方々に迷惑をかけたので、一念発起して堅気の八百屋になりたいと、大家の太郎兵衛に元手を借りに来た。

ケチな大家は奉賀帳ほうがちょうを作り、
「まず誰か金持ちの知り合いに、多めに金をもらってこい」
と突き放す。

ところが、戻ってきた熊は額が割れて血だらけ。

昔、祖父さんが恩を売ったことのある質屋、徳力屋万右衛門とくりきやまんえもん方へ行ったが、なんとたった一文しか出さないので
「子供が飴買いにきたんじゃねえッ」
と銭を投げつけると、逆に煙管きせるでしたたかぶたれ、たたき出されたというお粗末。

野郎を殺すと息まくのを、大家は
「待て。ことによったらおもしれえことになる」

なにを言い出すのかと思ったら
「事の次第を町奉行、大岡さまに駆け込み直訴じきそしろ」
と知恵をつけた。さすがは因業いんごうな大家、お得意だ。

ところが奉行、最初に銭を投げつけ、天下の通用金を粗略にした罪軽からずと、熊に科料かりょう五貫文、徳力屋はおとがめなし。

まだ後があり、
「貧しいその方ゆえ、日に一文ずつの日掛けを許す」

科料を毎日一文ずつ徳力屋に持参し、徳力屋には中継ぎで奉行所に届けるよう申し渡す。

夜が明けると大家は、
「一文は俺が出すから銭を届けてこい、ただし、必ず半紙に受け取りを書かせ、印鑑ももらえ」
と、念を押す。

徳力屋はせせら笑って、店の者を奉行所にやったが、
「代人は、天下の裁きをなんと心得おる。主人自ら町役人ちょうやくにん、五人組付き添いの上、持ってまいれッ」
と、しかりつけられたから大変。

たった一文のために毎日、膨大な費用を払って奉行所へ日参しなければならない。

奉行の腹がようやく読めて、万右衛門は真っ青。

その上、逆に自分が科料五貫文を申しつけれられてしまった。

それから大家の徳力屋いじめはいやまし、明日の分だといって、夜中に届けさせる。

店の者が怒って、
「奉行もへちまもあるか」
と口走ったのを、熊が町方定回じょうまわり同心に言いつけたので、さんざん油を絞られる羽目に。

大家は
「また行ってこい。明後日の分だと言え。徳力屋を寝かすな」

こうなると熊もカラクリがわかり、欲が出て毎晩毎晩ドンドンドン。

徳力屋、一日一文で五貫文では十三年もかかる上、町役人の費用、半紙五千枚……、これでは店がつぶれる、と降参。

十両で示談に来るが、大家が
「この大ばか野郎め。昔生きるか死ぬかを助けてもらった恩を忘れて、十両ぱかりのはした金を持ってきやがって。くそォ食らって西へ飛べッ」
啖呵たんかを切ったから、ぐうの音も出ない。

改めて熊に五十両払い、八百屋の店を持たせることで話がついた。

これが近所の評判になり、かえって徳力屋の株が上がった。

万右衛門、人助けに目覚め、無利子で貧乏人に金を貸すなど、善を施したから店は繁盛……と思ったら、施しすぎて店はつぶれた。

熊も持ちつけない金に浮かれ、もと木阿弥もくあみで、やがては行方知れず。

【しりたい】

これも講釈ダネ

大岡政談ものの、同題の講談を脚色したもの。講談としては、四代目小金井芦州(松村伝次郎、1888-1949)の速記があります。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は「一文惜しみ」の題で演じました。

七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)のは、五代目一龍斎貞丈(柳下政雄、1906-68)直伝で、設定、演題とも講談通りの「五貫裁き」です。

円生のやり方、談志のやり方

長講で登場人物も多く、筋も入り組んでいるので、並みの力量の演者ではこなせません。そのためか、現役では談志のほかはあまり手掛ける人はいません。

「一文惜しみ」としては、六代目円生以前の速記が見当たらず、落語への改作者や古い演者は不明です。

円生はマクラにケチ噺の「しわいや」を入れ、「強欲は無欲に似たり。一文惜しみの百両損というお噺でございます」と終わりを地の語りで結ぶなど、吝嗇りんしょく(けち)噺の要素を強くし、結末もハッピーエンドです。

談志は、講談の骨格をそのまま踏襲しながら、人間の業を率直にとらえる視点から逆に大家と熊の強欲ぶりを強調し、結末もドンデン返しを創作しています。

四文使い

博打場で客に金がなくなったとき、着物などを預かって換金してくる使い走りで、駄賃に四文銭一枚もらうところから、この名があります。

銭五貫の価値

時代によってレートは変わりますが、銭一貫文=千文で、一朱(一両の1/16)が三百文余りですから、五貫はおよそ五両一両あまりに相当します。

つきおとし【突き落とし】落語演目



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【どんな?】

「居残り佐平次」「付き馬」とともに
「廓噺の三大悪」の一つ。

別題:棟梁の遊び(上方)

【あらすじ】

町内の若い者が集まって
「ひとつ、今夜は吉原へでも繰り込もう」
という相談。

ところが、そろいもそろって金のない連中ばかり。

兄貴分が悪知恵をめぐらし、一銭もかけずに飲み放題の食い放題、という計画を考え出す。

作戦決行。

兄貴分が大工の棟梁に化け
「いつも大見世でお大尽遊びばかりしているので飽きちまったから、たまには小見世でこぢんまりと遊んでみたい」
などと大声で吹きまくり、客引きの若い衆の気を引いた上、一同そろって上がり込む。

それから後は、ドンチャン騒ぎ。

翌朝になって勘定書が回ってくると、ビールを九ダースも親類へ土産にするわ、かみさんが近く出産予定の赤ん坊用にたらいまで宿の立て替えで届けさせるわで、そのずうずうしさにさすがの「棟梁」も仰天した。

ニセ棟梁が留公に
「勘定を済ますから昨日てめえに預けた紙入れを出せ」
という。

この男、実はこれから殴られたうえ
「バカだマヌケだ」
と言われなくてはならない一番損な役回り。

「てめえは役者の羽左衛門に似ているから、いい役をやるんだ」
とおだてられ、しぶしぶ引き受けたが、頭におできができているので、内心びくびく。

留公が筋書き通り
「実は姐さんに『棟梁は酔うと気が大きくなる人だから、吉原へでも行って明日の上棟式に間に合わないと大変だから、お金は私に預けておくれ』と頼まれたので、金は持っていません」
と答えると、待ってましたとばかりに
「なんだと、てめえ、俺に恥ィかかせやがって」
とポカポカ。

留公、たまらず
「だめだよ兄貴。こっち側をぶってくれって言ったのに」
と口走るのを聞かばこそ、ポカポカポカポカ。

そこでなだめ役が
「この留はドジ野郎ですからお腹も立ちましょうが、ここはわっちらの顔を立てて」
とおさめ、若い衆には
「こういうわけで、これから棟梁の家まで付いてきてくれれば、勘定を払うばかりか、おかみさんは苦労人だから祝儀の五円や十円は必ずくれる」
と、うまく持ちかけて付き馬に連れ出す。

途中、お鉄漿溝で
「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから、ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆、お前さんもつき合いねえ」

渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき、背中をポーンと突いたから、あわれ若い衆はどぶの中へポッチャーン。

その間に全員、風を食らって一目散随徳寺。

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

三木助十八番、決まらないオチ   【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から伝わる生粋の江戸廓噺です。

大正期には、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記が残り、先の大戦後では三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)の十八番。

五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)も得意にしましたが、ともに速記のみで音源はなく、珍しく六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、昭和41年(1966)5月にTBSラジオで演じた音源が残っています。

オチは、三木助が「泥棒だな、おい」と加えて悪らつさを薄めたり、一人が遅れて戻り、「いい煙草入れだから、惜しくなって抜いてきた」とするものもありますが、どれも決め手を欠き、いまだに決定的なものはありません。

本あらすじのは、初代小せんのものを採りました。

上方版「棟梁の遊び」   【RIZAP COOK】

異色なのは、大阪の六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が演じた「棟梁の遊び」です。

これは、舞台を松島遊郭に移した、東京の「突き落とし」からの移植版。

昔から、大阪→東京の移植はあまたあっても、逆は珍しい例です。

移植者や時期は不詳ですが、こちらはオチが東京の「大工調べ」のをいただいて「大工は棟梁、仕上げをご覧じ」という、ダジャレオチになっています。

廓噺の三大悪   【RIZAP COOK】

飯島友治(落語評論家)は「突き落とし」「居残り佐平次」「付き馬」を後味の悪い「廓噺の三大悪」と呼んでいます。

覚えやすそうな名数ですが、落語に道徳律を持ち込むほど愚かしいことはありません。

黄金餅」のようなアナーキーな噺を得意にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、この噺だけは「あんな、ひどい噺はやれないね」と言って生涯、手掛けませんでした。

志ん生は若き日、初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて、「突き落とし」も当然教わっているはずですが、「ひどい噺」と嫌った理由は今となってはわかりません。

吉原への愛着から、弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか。

または、小見世の揚げ代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。

さて、どうでしょう。

小見世   【RIZAP COOK】

下級の安女郎屋ですが、一応店構えを持っているところが、さらにひどい「ケコロ」などの私娼窟と違う点です。

大見世と違い、揚代が安い分、必ず前払いで遊ばなければならない慣わしなので、この噺では、苦心してゴマかさなければならないわけです。

お鉄漿溝   【RIZAP COOK】

最後に若い衆が突き落とされる水路ですが、吉原遊郭の外回りを囲むよう掘られた幅二間(約3.6m)のみぞです。

通説では、遊女の逃亡(廓抜け)を防ぐため掘られたといいます。

お女郎が、歯を染めた鉄漿の残りを捨てたので、水が真っ黒になったのが名前の由来ということです。

鉄漿は、鉄片を茶や酢に浸して酸化させた褐色の液体に、五倍子粉というタンニンを含んだ粉末を混ぜたものです。

【語の読みと注】
お鉄漿溝 おはぐろどぶ
鉄漿 かね
五倍子粉 ふしこ



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ほっけながや【法華長屋】落語演目

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【どんな?】

法華とは日蓮宗のこと。江戸の町では、浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴら。

結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となった。

これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)を始め、初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、→二代目円朝)、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)、四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)、八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、先の大戦後は、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)がたまに演じたのを最後で、まったく継承者がいません。

一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。

昭和20年まではもちろんそうでしたが、昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の僧侶や宗教研究者がなにやかやとまじめに寄稿していました。

それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。

そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。

浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華にからんだ噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は、自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。

明治29年(1896)、妻(お幸)の勧めもあって、円朝は臨済宗から日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。

水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。

汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りました。

汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。インドの神です。

バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。

太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。

楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。

「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。

日蓮をさまざまな形で支えた神々、ということです。

摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。

「下谷摩利支天」というのは、寺の俗称です。

正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。

摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。

かつては下総(千葉県北部)の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。

台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。

この寺のすごいことは、上野の戦争(1868年5月15日)でも、震災(1923年9月1日)でも、空襲(1945年3月10にち)でも、焼失しなかったこと。これは奇跡的です。

よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。

現在も厄除けの寺として、信仰を集めています。

つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているわけですね。

江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越だんのつ(信者)が多かったということです。

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じみや【地見屋】落語演目



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【どんな?】

こいつは、今でも通用する、元手いらずのおいしい拾う商売です。

【あらすじ】

どん底生活で失業同然の熊五郎。

きれいな着物を着て、うまいものを食って、女に惚れられて、働かなくても飯がくえるような、いい商売はないものかと思いを巡らすうち、ふと気になったのが、長屋の隣に住んでいる独り者。

ついぞ商売を聞いたことがない。

見るからに羽振りがよさそうなので、ワリのいい仕事をしているに違いないから、ひとつ談判して、腕づくでも仲間にしてもらおうと物騒なことを考え、隣へ出かけていった。

前々からうさん臭いとにらんでいたので
「てめえは昼間はグーグー寝ていて、夜出かけて朝帰ってくるからには、ドのつく商売だろう。さあ白状しねえ」
とカマをかけて脅す。

男は、
「自分の商売は素人には説明しにくい商売だ」
と言う。

熊五郎は
「人殺しと言い立てるぞ」
と脅迫して、ようやく聞き出したところによると、男は地見屋。

つまり、文字通り地面を見て歩き、金目のものを拾って横流しする「拾い屋」。

お上の目がヤバイが、腕によっては元手いらずの上、相当もうかると聞き、熊は喜んで、
「俺もやってみるから一口乗せろ」
と頼むが、「組合」の加入金兼技術の指導料五十銭が前金でいるとのこと。

熊公は一文なしなので、強引に後払いということにさせ、秘訣を無理矢理聞き出す。

男の教えたところでは、現ナマは夜中から夜明けにかけてが一番拾いやすいという。

「仲間うちでは、五銭でも現金を拾うと酒を呑んで祝うんだよ。悪い月でも三、四十円、運がよければ百円以上拾うね。そうすると、仲間に赤飯を配るんだ」

熊は、家のガラクタを残らず売り飛ばした一円をふところに、日が暮れきらないうちから両国、日本橋横山町あたりを地面ばかり見ながら捜索するが、夜中まで足を棒にしても、まるでダメ。

しかたなく、一円を「前祝い」に回して、一杯景気をつけようと屋台のおでん屋に飛び込む。

呑むうちに気が大きくなり、親父相手に大ボラを吹きまくった末、勘定を払おうとすると、なけなしの一円がない。

ばかな話で、あまり下ばかり向いていたから、金を拾わずに落としてしまったらしい。

親父に代金代わりに半纏を召し上げられ、しょんぼりと帰ってみると、例の地見屋が祝杯中。

親父橋の近くで、一円入った汚いがま口を拾ったという。

見ると、まさしく熊が落としたがま口。

「泥棒め、さあ返せ」
「拾うのが商売だから返せねえ」
「返さねえと警察ィ引っ張ってくぞ」
と強引に取り返したが、
「オイオイ、五十銭しかねえぞ」
「へえ、そいつは講習料にさっ引いといた」

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【うんちく】

白樺派ご一行のツアー

『花々と星々と』(犬養道子)によると、大正末期、暇を持て余した白樺派の文士連中が、シャレによく、郊外から銀座まで、地見屋よろしく金拾いに出かけたとか。

「オレは○銭」「僕は×銭」と、「収穫」を互いに披露しては、ゲラゲラ笑いあっていたそうで。

そろいもそろって華族の御曹司で、学習院の同窓生。

貧乏文士を装ってもいざとなれば、金などいつでも無尽蔵に親から搾り取れるこの連中に、どん底、最底辺のかなしみや悲惨さなどわかろうはずはありませんが、それにしてもこれは……愚かしくもサイテイの行為ですな。

あ、白樺派というのは、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、柳宗悦などの連中をさします。ああ、バカラシ。

もう一つの演出

長く途絶えていたのを、四代目三遊亭金馬が復活しましたが、めったにやる人もいないようです。

ほとんど改作に近い別演出もあり、それによると、以下の通り。

長屋の吉兵衛が地見屋という怪しげな商売をやっているというので、大家が、泥棒にちがいないと後をつけますが、くたくたになって、あきらめて帰るハメに。吉兵衛が汚い財布を井戸端で拾ったと喜んで帰ったので、大家がよくよく見ると「あっ、オレの財布だ」と。

まともな大家なら、そんな怪しげな者には店を貸しませんし、それを承知で貸すような大家なら逆にヤボな詮索はするはずもないので、こちらは理屈的には、少し無理があるでしょう。

西鶴ゆかりの噺

原話は、貞享2年(1685)刊の井原西鶴(1642-93)作の『西鶴諸国ばなし』巻五の七「銀がおとしてある」です。浮世草子ですね。

これは、大坂の正直者の男が江戸へ出て、かね拾いすなわち地見屋をやって成功し、金持ちになるという筋です。 

これをもとに、四代目柳家小三治(浦出祭次郎、1875-1927、→二代目柳家つばめ)が明治末年に作ったもので、小三治自身の明治44年(1911)の速記が残ります。

地見屋というお仕事

ここでは、ほとんど金だけを目的に拾って歩くわけですから、今でいう拾得物隠匿で、文字通りの裏稼業です。

もう少し堅気の古紙回収業に近く、合法的な商売に「よなげや」と「残土屋」がありました。

前者は、どぶ川に腰まで浸かってふるいで鉄くずを拾う商売。

後者は庭を掘り返して余った土を、煉瓦の灰やブリキ缶などのゴミごと買い取るものです。

埋立地に持って行って高く売るほか、ゴミの中から慶長小判など、思わぬ宝物を見つけて大もうけすることもままあり、この種の商売は始めればやめられないものだったとか。

「土一升金一升」とか「穴埋めをする」という言葉は、ここからきたとは、三代目三遊亭金馬の説です。

蛇足ながら、地見屋やよなげやに似た商売はビクトリア朝のロンドンにもありました。

地下の下水道に潜り込み,金目の物をさらう「ショア・ワーカー」「トッシャー」と呼ばれた人々や、テムズ河の川底の泥から、石炭や金属片を拾う貧民がそれです。

どこの国でも、都市のどん底暮らしは似たようなものになるのでしょうね。



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うしほめ【牛褒め】落語演目

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【どんな?】

与太郎はバカなのか、稀代の風刺家なのか。いつまでたっても謎のままです。

別題: 新築祝い  池田の牛褒め(上方) 

【あらすじ】

少々たそがれ状態の与太郎。

横町の源兵衛が痔で困っているとこぼすので
「尻に飴の粉をふりかけなさい。アメふって痔かたまるだ」
とやって、カンカンに怒らせた。

万事この調子なので、おやじの頭痛の種。

今度おじの佐兵衛が家を新築したので、その祝いにせがれをやらなければならないが、放っておくと何を口走るかしれないので、家のほめ方の一切合切、-んで含めるように与太郎に教え込む。

「『家は総体檜づくりでございますな。畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺りでございますな。天井は薩摩の鶉杢(うずらもく)で。けっこうなお庭でございますな。お庭は総体御影づくりでございますな』と、こう言うんだ」

まねをして言わせてみると、「家は総体へノコづくり、畳は貧乏でボロボロで、佐兵衛のカカアはひきずりで、天井はサツマイモとウヅラマメ、お庭は総体見かけ倒しで」と、案の定、コブだらけにされそう。

しかたなくおやじがセリフをかなで書いてやる。

まだ先があって、
「これから、おじさんの土手っ腹をえぐる」
「出刃包丁で」
「ばか野郎。理屈でえぐるんだ。台所の大黒柱の真ん中に、おおきな節穴が空いていて、なんとか穴が隠れる方法はないかとおじさんが気にしている。そこでおめえが、『そんなに気になるなら、穴の隠れるいい方法をお教えましょう』と言うんだ。おじさんが『何を言ってやがる』という顔をしたら、『台所だけに、穴の上に秋葉さまのお札を張りなさい。穴が隠れて火の用心になります』。これを言やあ、感心して小遣いくらいくれる。それから、牛を買ったってえから、それもほめるんだ。『天角、地眼、一黒、鹿頭、耳少、歯合でございます』と、こう言う」

与太郎、早速出掛けて、よせばいいのに暗唱したので
「佐兵衛のカカアはひきずりで」
をそのままやってしまい、雲行きが悪くなって慌ててメモを棒読み。

なんとか牛まで済んだ。

おじさんは喜んで、
「ばかだばかだと心配していたが、よくこれだけ言えるようになった」
とほめ、一円くれる。

そのうち、牛が糞をしたので、おじさんが
「牛もいいが、あの糞には困る。いっそ尻の穴がない方がいい」
とこぼすと与太郎、
「おじさん、穴の上へ秋葉様のお札を張りなさい」
「どうなる?」
「穴が隠れて、屁の用心にならあ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

元祖はバカ婿ばなし

原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一中の「鈍副子第二十話」です。

これは、間抜け亭主(婿)が、かみさんに教えられて舅宅に新築祝いの口上を言いに行き、逐一言われた通りに述べたので無事にやりおおせ、見直されますが舅に腫れ物ができたとき、また同じパターンで「腫れ物の上に、短冊色紙をお貼りなさい」とやって失敗するものです。

各地の民話に「ばか婿ばなし」として広く分布していますが、宇井無愁は、日本の結婚形態が近世初期に婿入り婚から嫁取り婚に代わったとき、民話や笑話で笑いものにされる対象もバカ婿からバカ息子に代わったと指摘しています。

それが落語の与太郎噺になったのでしょうが、なかなかおもしろい見方ですね。

「ばか婿ばなし」の名残は、現行の落語でも「あわびのし」「舟弁慶」などにそのまま残っています。

円喬も手がけた噺

天保4年(1833)刊で初代林屋正蔵編著の噺本『笑富林わらうはやし』中の「牛の講釈」が、現行の噺のもとになりました。なので、九代目正蔵も、本家として大いにやっていいわけです。

一応前座噺の扱いですが、明治の名人・四代目橘家円喬の速記もあります。

円喬のオチは「秋葉さまのお札をお貼りなさい」で止めていて、「穴がかくれて屁の用心」のダジャレは使っていません。さすがに品位を重んじたというわけでしょう。

なお、大阪では「池田の牛ほめ」「新築祝い」の題で演じられ、お札は愛宕山のものとなっています。

東京でも、「新築祝い」で演じるときは、後半の牛ほめは省略されることがほとんどです。

「畳は備後の五分べりで……」

備後は備後畳のことで、五分べりは幅1.5センチのものです。薩摩の鶉杢(=木)は屋久杉で、鶉の羽色の木目があります。

「佐兵衛のカカアはひきずりで」

引きずりはなまけ者のこと。もともと、遊女や芸者、女中などが、すそをひきずっているさまを言いましたが、それになぞらえ、長屋のかみさん連中がだらしなく着物をひきずっているのを非難した言葉です。

秋葉さま

秋葉大権現のことで、総社は現・静岡県周智郡春野町にあります。

秋葉山頂に鎮座し、祭神は防火の神として名高いホノカグツチノカミ。

江戸の分社は現・墨田区向島四丁目の秋葉神社で、同じ向島の長命寺に対抗して、こちらは紅葉の名所としてにぎわいました。

「天角、地眼……」

天角は角が上を向き、地眼は眼が地面をにらんでいることで、どちらも強い牛の条件です。

あとの「一黒、鹿頭、耳小、歯違」は、体毛が黒一色で頭の形が鹿に似て、耳が小さく、歯が乱ぐい歯になっているものがよいということです。

宇井無愁によると、農耕に牛を使ったのは中部・北陸以西で、それ以東は馬だったので、「屁の用心」でお札を貼るのも、民話ではそれを反映して東日本では馬の尻、西日本では牛の尻と分かれるとか。

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ねこきゅう【猫久】落語演目

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【どんな?】

業の見えない長屋噺です。幕末に生まれた生ッ粋の江戸落語。珍品です。

【あらすじ】

長屋に住む行商の八百屋、久六は、性格がおとなしく、怒ったことがないところから「猫久」、それも省略して「猫」「猫」と呼ばれている。 その男がある日、人が変わったように真っ青になって家に飛び込むなり、女房に 「今日という今日はかんべんできねえ。相手を殺しちまうんだから、脇差を出せッ」 と、どなった。 真向かいで熊五郎がどうなるかと見ていると、かみさん、あわてて止めると思いの外、押し入れから刀を出すと、神棚の前で、三べん押しいただき、亭主に渡した。 「おい、かかァ、驚いたねえ。それにしても、あのかみさんも変わってるな」 「変わってるのは、今に始まったことじゃないよ。亭主より早く起きるんだから。井戸端で会ってごらん。『おはようございます』なんて言いやがるんだよ」 「てめえの方がよっぽど変わってらァ」 と熊がつぶやいて床屋に行こうとすると、かみさんが 「今日の昼のお菜はイワシのぬたなんだから、ぐずぐずしとくと腐っちまうから、早く帰っとくれ。イワシイワシッ」 とがなりたてる。 「かかァの悪いのをもらうと六十年の不作だ」 と、ため息をついて床屋に行くと、今日はガラガラ。 親方に猫の話を一気にまくしたてると、そばで聞いていたのが五十二、三の侍。 「ああ、これ町人、今聞くと猫又の妖怪が現れたというが、拙者が退治してとらす」 と、なにか勘違いをしているようす。 熊が、実は猫というのはこれこれの男手、と事情を話すと 「しかと、さようか。笑ったきさまがおかしいぞ」 急にこわい顔になって 「もそっと、これへ出い」 ときたから、熊五郎はビクビク。 「よおっく、うけたまわれ。日ごろ猫とあだ名されるほど人柄のよい男が、血相を変えてわが家に立ち寄り、剣を出せとはよくよく逃れざる場合。また、日ごろ妻なる者は夫の心中をよくはかり、これを神前に三べんいただいてつかわしたるは、先方にけがのなきよう、夫にけがのなきよう神に祈り夫を思う心底。身共にも二十五になるせがれがあるが、ゆくゆくはさような女をめとらしてやりたい。後世おそるべし。貞女なり孝女なり烈女なり賢女なり、あっぱれあっぱれ」 熊、なんだかわからないが、つまり、いただく方が本物なんだと感心して、家に帰る。 とたんに 「どこで油売ってたんだ。イワシイワシッ」 とくるから、 「こいつに一ついただかしてやろう」 と侍の口調をまねる。 「男子……よくよくのがれ……のがれざるやとけんかをすれば」 「ざる屋さんとけんかしたのかい」 「夫はラッキョ食って立ち帰り、日ごろ妻なる者は、夫の真鍮磨きの粉をはかり、けがのあらざらざらざら、身共にも二十五になるせがれが」 「おまえさん、二十七じゃないか」 「あればって話だ。オレがなにか持ってこいって言ったら、てめえなんざ、いただいて持ってこれめえ」 「そんなこと、わけないよ」 言い合っているうち、イワシを本物の猫がくわえていった。 「ちくしょう、おっかあ、そのその摺り粉木でいいから、早く持って来いッ。張り倒してやるから」 「待っといでよう。今あたしゃ、摺り粉木をいただいてるところだ」 志ん朝

【しりたい】

猫又   【RIZAP COOK】

猫が百年以上生きて、妖怪と化したものです。 日本の「原生種」は、尻尾が二つに分かれ、口は耳まで裂けて火を吹き、人を食い殺します。

脇差なら「免許不要」  【RIZAP COOK】

脇差は二尺(60cm)以下の小刀です。 これなら、護身用に町人が差してもさしつかえありませんでした。 実際はれっきとした大刀なのに、「長脇差」という名称で渡世人が差していたことはヤクザ映画などでおなじみです。 いいかげんなもんです。どうとでもなるもんで。

六代目円生の回想  【RIZAP COOK】

「この猫久という噺はあたくしは初めて三代目小さんのを聞いたんです。あんまり聞いておかしいんで、大きな声で楽屋で笑ったんで怒られました。(中略)その(後)『猫久』という噺はまあ、失礼ですがどなたのを聞いてもなンかちっともおしくないんです」

『江戸散歩』六代目三遊亭円生、朝日新聞社、1988年

小さん三代の工夫  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末の嘉永年間(1848-54)ごろから口演されてきた、古い江戸落語です。 明治中期に二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)が完成させ、以後、代々の小さん系の噺として、三代目小さん(豊島銀之助、1857-1930)、四代目小さん(大野菊松、1888-1947)、三代目の高弟だった七代目三笑亭可楽(玉井長之助、1886-1944、玉井の可楽)を経て、五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番として受け継がれてきました。 二代目は、明治初期(つまり同時代)に時代を設定し、晩年の明治27年(1894)12月の速記では、町人も苗字を許されたというので、猫久も清水久六としました。 熊に意見をするのは、せがれの道楽で窮迫した氏族の老人となっています。 三代目小さんは、舞台を江戸時代に戻し、そのため、以後は熊五郎の侍への恐怖心という一種の緊張感が噺に加わっています。 オチは、ずっと地で「いただいていました」と説明していたのを、五代目小さんが今回のあらすじのように、すりこぎを押し戴く仕種オチでオチるよう工夫しました。 「馬に止動の間違いあり、狐にケンコンの誤りあり」とマクラに振り、世の中には間違いが定着してしまっていることがよくあると説明、そこから、猫よりも犬の方が人に忠実なのに、猫にたとえられると喜び、犬と呼ばれると怒るという不合理を風刺してから噺に入るのが、二代目小さん以来の伝統です。 【語の読みと注】 摺粉木 すりこぎ

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らいおん【ライオン】落語演目

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【どんな?】

明治40年(1907)の上方噺「動物園」が原型。
いまや年季の入った古典落語のひとつです。

別題:動物園(上方)

【あらすじ】

失業中の男。

ヤケになって、このところほとんど家にも帰らない。

いよいよ切羽詰まり、知人の家へ相談に行くと、月に二百円(明治の終わりの!)稼げるいい商売があるから、やってみないかと誘われた。

その職場というのが、今度新しくできた動物園。

「へえ、聞いてますが、世にも珍しい白いライオンがいるとかいう」
「実は、そのライオンになってもらいたい」

要するに、これはインチキ。

そんなライオンがいるわけがないから、ぬいぐるみでこしらえたが、実によくできていて、本物のライオンみたいだ。

そこで、その中に人間を入れ、ノッシノッシと歩かせて、客をたぶらかし、呼び物にしてたんまり稼ごうという魂胆。

「勤務」は朝の9時から午後4時までで、うまくいけばボーナス3千円も出るし、ライオンのエサ用に客が買った牛肉も、全部おまえのものになる、という。

もちろん、お上に聞こえれば手が後ろに回るから、女房子供にも絶対に秘密。

こういうヤバい商売でなければ、そんな大金をくれるわけがない。

「ナニ、要領を覚えりゃ簡単さ。ライオンてえのは、猛獣だから落ち着いて歩かなくちゃいけない。胴を左右にひねって、少し右肩を下げて……」

ともかく、歩き方を教わると、イチかバチかやってみる気になり、開場当日の朝、行ってみると、満員の盛況。

この動物園はサーカスと同じ興行方式で、あやしげな弁士が登場。

「ここにご覧に入れまするは、当館の呼び物、世にも珍しい真っ白いライオン……」

口上を述べると、楽隊もろとも緞帳が上がる。

ぬいぐるみの中の先生、次第に興奮してきて、「月200円ならいい商売だ。生涯ライオンで暮らそうか」などと、勝手なことを思いながら、大熱演。

すると、また例の弁士が現れた。

「ええー、こちらにご覧に入れまするは、東洋の猛獣の王、虎でござーい。本来は黒と黄のブチでございますが、ここにおります虎は珍しい黒白のブチでございます」

口上が終わると、「ウオウー」と、ものすごいうなり声。

「えー。今日は特別余興といたしまして、ライオンと虎の戦いをご覧に入れます」

柵を取り外したから、驚いたのはライオン。

虎がノソリノソリと入ってくる。

「うわーッ、話がうますぎると思った」

これがこの世の見納めと、
「南無阿弥陀仏ッ」
と唱えると、虎が耳元で
「心配するな。オレも200円でやとわれた」

【しりたい】

上方の創作落語  【RIZAP COOK】

大阪の二代目桂文之助(1859-1930)が、明治40年ごろ「動物園」と題して自作自演。

ただし、元ネタは英国の笑話とか。オリジナルでは、反対に主人公が虎になります。

どちらにせよ、着想が奇抜でオチも意外性に富むので、古くから人気があり、東京でも八代目春風亭柳枝、七代目雷門助六、六代目春風亭柳橋などが好んで演じました。

現在でも主流は上方落語です。桂米朝一門が若手に至るまで、多くの落語家のレパートリーです。

東京では、七代目助六が「ライオンの見世物」、八代目柳枝と柳橋はオリジナル通り「動物園」。三遊亭金馬は「ライオン」で演じます。

動物園事始  【RIZAP COOK】

動物の見世物は、江戸時代にはおもに両国橋西詰の仮設見世物小屋で公開されました。

大型動物では、虎、豹、象、狒狒、鯨などさまざまありましたが、「唐獅子」として古くから存在を知られていたはずのライオンは旧幕時代の記録はなく、明治以後の輸入です。

虎は江戸初期から公開され、慶安元年(1648)の記録があります。

明治4年(1871)に湯島聖堂で最初の博覧会が催され、サンショウウオと亀を公開。さらに翌々年(1873)、ウィーン万国博出品のため、国内の珍獣が集められ、一般公開されました。

こうしたイベントのたびに、徐々に動物が増え、博覧会場が手狭になった関係で、明治15年3月、日本初の西洋式動物園が上野に開園。

ライオンの上野動物園への初輸入は明治35年(1902)。その後、キリン、カバなども続々お目見えしました。入場料は開園当初、大人1銭、子供5厘。

次いで、明治36年(1903)4月に京都市動物園(岡崎公園内)、大正4年(1915)元旦に大阪・天王寺動物園が、それぞれ開園しています。

【語の読みと注】
弁士 べんし:無声映画などで内容の説明する人

【RIZAP COOK】

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おうぶみいちがでん【応文一雅伝】落語演目

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【どんな?】

お重、巳之助、お縫、一雅。明治初年の東京を舞台に、自立したい女性のうつろい。

円朝噺。

あらすじ

1878年(明治11)春のこと。

旧幕時代に細工所さいくしょ御用達だった芝片門前しばかたもんまえ花房利一はなぶさりいちは、妻と死別、26歳になる一人娘のおじゅうと二人暮らしである。

出遊びがちな父。お重は自分の結婚のことを考えてくれない父に常日頃不満を抱いている。

出入りの行商である、糶呉服屋せりごふくや槙木巳之助まきみのすけ大店おおだなの子息で男振りもよいところから、お重は妻にしてもらおうかと誘惑する。

「人のいない所で話がしたい」と巳之助に持ちかけたところ、巳之助は知人で油絵師、応文一雅おうぶみいちがの下宿を借りることとなった。応文一雅は高橋由一たかはしゆいちの弟子である。

愛宕下あたごしたの木造三階。一雅の下宿で逢い引きする手はずとなった。

早めに行ったお重は、部屋にあった葡萄酒ぶどうしゅでほろ酔い気分となり、その勢いで、まだ見ぬ一雅あての謝辞を墨で壁に落書きして帰った。

二度目の逢い引き。

またも先に来てしまったお重は、一雅の机の中をのぞき見し、一雅あての許婚者からの手紙を読んだり、机にあった女性ものの指輪をはめたり。

一雅という人物の人となりに想像をめぐらす。一雅への興味以上の思いをいっそう募らせていった。

遅れてやってきた巳之助に「もう逢わないことにしましょう」と言って翻弄する。

帰宅して後、自分の指輪を一雅の部屋に置き忘れたのに気づいたお重は、はめたまま帰ってしまった指輪と自分のものとを取り換えてくれるよう、巳之助に頼み込む。

一雅に会いたい思いが募ったお重は、神谷縫かみやぬいに「一雅に肖像を描いてもらいなさい」と説得する。

お縫は、お重の土地を借りる借地人であり、お重の学校朋輩ほうばい(同窓)でもある。今年20歳になる。

お縫は叔父の神谷幸治かみやこうじと頼みに行き、一雅の下宿に数回通うことになった。

その後、お重は、「絵を頼みたい友人がいる」との手紙を書いて、お縫に出させる。に受けた一雅はお重の家を訪れた。お重の指輪を見るや、巳之助の相手と知って腹を立てたまま帰る。

お重は策を練った。お縫に指輪を貸す約束をし、一雅を招くことに。

一雅の面前で、お重はお縫に指輪を返すお芝居をするが、それを見た一雅は、巳之助の相手がお縫だったかと驚く。

東京の人気の悪さに愛想あいその尽きた一雅。郷里の土浦つちうら(茨城県)に帰った。

一雅から、巳之助との関係を記した謂れなき誹謗ひぼうの手紙がお縫に届く。

お重の策略に引っかかったと知ったお縫は、叔父の神谷幸治に返信を書いてもらう。

許嫁者が亡くなった一雅は上京し、再度同じ下宿を借りた。

お縫と幸治といっしょに花房家を訪れた一雅は、お重を責めたてた。

居合わせた花房利一は幸治とは昔からの知り合い。

幸治は「おまえが娘のむこを見つけようともせずに遊び歩っているからだ」と意見する。

巳之助の父親で金貸しの四郎兵衛しろべえが、じつはもとの高木金作たかぎきんさくと知った幸治は、かつて金三千両を貸したことを語り、後日、四郎兵衛を訪ねる。

槙木四郎兵衛まきしろべえのもとを訪ねていった「神幸かみこう」こと神谷幸治は「貸した、借りていない」「訴える、訴えよ」とのやり取りの後、判証文はんじょうもんもなく、たとえあったとしても昔貸した金はあきらめる。

その代わり、どこで逢っても拳骨げんこつ一個うたれても苦情は言わないとの証文を「洒落だ」と言いつつもらうことになった。

その後、幸治は、銀座でも、横浜でも、四郎兵衛を見かけるたびに頭を殴るのだった。

一雅は、いったん故郷に戻ったが油絵の依頼人もなく、再度上京するが、困窮していた。

すると、一雅のもとに、使いを介して油絵の注文が続く。

ある時、池上本門寺まで参詣するので「先生も図取りかたがたお出でください」との注文。

一雅が池上に向かうと、お高祖頭巾こそずきんの女がいた。合乗りの車で家まで送られ、金を渡された。

翌日、その女から恋文が届いた。女の正体はお重だった。一雅はそこで初めて気づいた。

一雅は部屋の壁の落書き、を見るたびに、お重をいとう気持ちが強くなってきた。一雅は土浦に帰る。母が亡くなり、葬儀を済ます。その後、上京したのは明治十二年九月十三日であった。

神谷幸治は墓参で、小石川全生庵ぜんしょうあんを訪れた。

住職と話をしていると、出家志望の女がやってきた。幸治は隣の間に移される。住職は「あなたのような美しい人には道心は通じません」と言って、了然尼りょうねんにの故事を聴かせる。女はあきらめて立ち去った。

帰り際、幸治が寺の井戸に飛び込もうとしていた女を助けた。

出家志望の女で、お重だった。

お重は、お縫と一雅、廃嫡はいちゃくとなった巳之助への詫び言を述べた。

巳之助と添う気があるならと、神谷幸治は一計を案じ、お重に書き置きをしたためさせた。四郎兵衛を訪ねた幸治は、書き置きを見せた。

四郎兵衛が巳之助の廃嫡を許してお重と結ばせるなら、先の証文は返し、お縫と一雅とを夫婦にしてやりたい、と言う。

得心とくしんする四郎兵衛。幸治に金を返して仲人を頼んだ。

巳之助とお重、一雅とお縫、二組が婚礼を挙げた。

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しりたい

了然尼

りょうねんに。そういう名前の尼さんが、江戸時代にいたそうです。有名な故事が伝わっています。以下の通り。

 了然尼は正保3年(1646)に葛山長次郎くずやまちょうじろうの娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京しもぎょう泉涌寺せんにゅうじ前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌しいか、書に優れたふさは宮中の東福門院とうふくもんいんに仕え、宿木やどりぎと称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆まつだばんすいと結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪ていはつ、名を了然尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁はくおう和尚に入門を懇請こんじょうしたが、美貌びぼうのゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮めんぴ(漢詩)をし、和歌「いける世に すててやく身や うからまし ついまきと おもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病にすようになり、天和てんな2年(1682)7月3日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま入寂にゅうじゃくした。4年後、47歳で上落合村に泰雲寺たいうんじを創建。正徳元年(1711)7月3日、白翁道泰はくおうどうたい和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は2か月後の9月18日66歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌が安置され、寺宝として朱塗しゅぬりの牡丹模様のある飯櫃ましびつあおいの紋が画かれた杓子しゃくし、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持ながもちがあった。そして、宝暦12年(1762)3月、十代将軍家治いえはるのこのあたりへの鷹狩りに御膳所ごぜんじょとなり、以後しばしば御膳所になったという。明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台3丁目の瑞聖寺ずいしょうじに併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。寺の門および額「泰 雲」は現在目黒区下目黒3丁目の海福寺かいふくじにあり、特に四脚門しきゃくもんは目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺がりっぱな寺であったことがわかる。
 では泰雲寺は上落合のどのあたりにあったのか。所在を示す正確な地図は見つかっていない。そこで『明治四十三年地籍図』(寺域は分譲)を頼りに推定した。戦後、下水処理場が設けられたために八幡通り(下落合駅から早稲田通りへの道))が大幅に西側に寄せられ、旧地形をとどめていないが、上落合1、竜海寺りゅうかいじあたりを西北角とし、南は野球場に通じる高架道、東は落合中央公園高台西端にあたり、境内2700坪の3分の2以上が八幡通りと下水処理場になっている。

(新宿区教育委員会から引用)

平安時代までの仏教では、仏が救いの対象にしていたのは男でした。

しかも、身分のある人ばかり。

どうもこれはヘンだと気づいたのが、鎌倉時代の革新的な立宗者たち。

法華経には女性の救済が記されているそうで、男女差別もないといわれています。

法華経を唯一の経典としたのが日蓮。

日蓮宗は早い時期から女性の救済をうたってました。

了然尼も日蓮宗に赴けばよかったのかもしれません。

スタートの選択を誤るととんでもないことになる、という教訓でしょうか。

この話は、本人の強い決意を表現しているわけでして、そうなると、落語家を志した青年が何度断られてもめざす師匠の楽屋入り口にかそけくたたずむ風情に似ています。

仏門ではよくある話です。

身体を傷つけることに軸足があるのではなく、二度と戻らないぞ、という強くて激しい本人の志に軸足があるのです。

となると、慧可えかが出てきます。

インド僧の達磨だるまを知って尋ねたのですが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、自身のひじを切断してその強い思いを示しました。

達磨は入門を許可。これはのちに水墨画での「慧可断臂えかだんぴ」という画題となりました。

座禅している達磨におのれの切り取った左ひじを見せる絵をどこかで見かけたことはありませんか。

それです。

了然尼の故事もこれに似ています。

焼き直しの故事でしょう。

故事は複製されるものです。

物語はそんなところから醸成されるのでしょう。

雪舟  慧可断臂 図

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

かじかざわにせきめ【鰍沢二席目】落語演目

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【どんな?】

円朝噺。「鰍沢」の後日談のつもり。お題は、花火、後家、峠茶屋だったそうです。

【あらすじ】

新潟の荒物屋、加賀屋の息子ながら、江戸で育った宗次郎そうじろう

年の頃は二十七、八。

宗次郎の相手はお花。

年の頃、見たところは二十三、四だが、じつは二十六、七の中年増ちゅうどしまで「八百八後家はっぴゃくやごけ」のあだ名をもつ。

深い仲となって身の詰まり、新潟から信濃しなの善光寺ぜんこうじへ駆け落ち。

途中、越後と信濃の境にある明神峠みょうじんとうげで、お花がしゃくを起こした。

宗次郎は、駕籠かごに忘れてきた荷物を取り戻そうと、峠の茶屋の亭主から火縄をもらって駕籠きを追う。

茶屋の亭主、年の頃は三十四、五。

こいつが火縄を目印に鉄砲で狙い撃ち、宗次郎は落命。

亭主の正体は、「鰍沢」の伝三郎でんざぶろうで、お花もじつは、つきのお熊だった。

二人は同じ手口で七人の男をえじきにしていた。

その夜、遅く。

宗次郎の亡霊が出て、徳利とっくりを投げつければ、消えた。

そこへ旅人が入ってきた。

旅「あー、ひどい降りでぐっすりになった」
伝「おまえは旅人かえ」
旅「越後へ行く旅人さ」
熊「わっちや、亡者かと思った」
旅「や、そういう声は」

囲炉裏いろりを挟み、火明ほあかりに見合わす顔と顔。

伝「わりや、いつぞや甲州で流れも早き早川はやかわを」
熊「いかだで逃げた旅人か」
旅「さてこそ、お熊に伝三郎」
伝「死んだとばかり思ったが」
熊「そんならこなたは死なずにいたか」
旅「玉子酒のごちそうにすでに命も御符ごふう祖師そし利益りやくで助かり、兄が越後にいるゆえに、それをたよって旅から旅、かたきがここにいようとは知らずに信濃の須坂すざかから夜道をかけて明神越え、思わぬ雨に駆け込んだたのむ木陰の峠茶屋、ここではからず出会ったはうぬらの運も月の輪のお熊伝三でんざ二人とも命はもらった、覚悟しろ」

伝三郎が「こいつはたまらねえ」と、囲炉裏の薬缶やかんを打ち返し、パッと立った灰神楽はいかぐらに火は消えて暗闇に。

だんまりの後に、挑み合い、雨のぬかりに踏み滑って、お熊と伝三郎の二人いっしょにに谷底へ落ちた。

旅人は「南無三なむさん」と岩に足を踏みかけて谷底をきっと見る。

噺家は「ここが噺の峠で、二人は落ちでございます」
とはなすと、聴客が
「おいおい、お株で落ちのない噺か、しめり切った花火を見てるようにいつでも中途で立ち消えだ。そうして趣向と題と別々で不釣り合いな話だ」
と言えば、
「不取り合わせなところが後家ごけでございます」

出典:岩波版円朝全集別巻1、初代三遊亭円右口演による

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きんたまいしゃ【金玉医者】落語演目

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【どんな?】

「娘がアゴを」「そりゃ、薬が効きすぎた」 。バレ噺の軽めなやつですね。

別題:顔の医者 すが目 皺め 頓智の医者 娘の病気 藪医者(改作)

あらすじ

甘井ようかんという医者。

飯炊き兼助手の権助と二人暮らしだが、腕の方はまるっきりヤブだということが知れ渡ってしまっているので、近所ではかかりに来る患者は一人もいない。

権助にも
「誰でも命は惜しかんべえ」
とばかにされる始末。

これでは干上がってしまうと一計を案じ、権助に毎日玄関で
「日本橋の越後屋ですが、先生のご高名を承ってお願いに」
などと、景気のいい芝居をさせ、はやっているふりをして近所の気を引こうとするのだが、口の減らない権助が、人殺しの手伝いをするようで気が引けるのだの
「越後屋ですが、先月の勘定をまだもらわねえ」
などと大きな声で言うので、先生、頭を抱えている。

そんなある日。

八丁堀の大店・伊勢屋方から、娘が病気なので往診をお願いしたいと使いが来る。

今度は正真正銘本物、礼金はたんまりと、ようかん先生勇み立ち、権助を連れて、もったいぶった顔で伊勢屋に乗り込む。

ところが、いざ脈を取る段になると、娘の手と猫の手を間違えたりするので、だんなも眉に唾を付け始める。

娘は気鬱の病で、十八という、箸が転んでもおかしい年頃なのに、ふさぎこんで寝ているばかり。

ところが不思議や、ようかん先生が毎日通い出してからというもの、はじめに怪しげな薬を一服与えて、後は脈をみるとさっさと帰ってしまうだけなのに、娘の容体が日に日によくなってきたようす。

だんなは不思議に思って、どんな治療をしているのか尋ねてみると、答えがふるっている。

「病人は、薬ばかり与えてもしかたがない。ことにお宅の娘さんは気の病。これには、おかしがらせて気を引き立てる。これが一番」

なんと、立て膝をして、女がふだん見慣れない金玉をチラチラ見せるという。

だんな、仰天したが、現に治りかけているので、それでは仕上げはおやじの自分がと、帰るとさっそく
「これ、娘や、ちょっと下を見てごらん」

ひょいと見ると、ふだん先生は半分しか見せないのに、今日はおとっつぁんがブラリと丸ごとさらけ出しているから、娘は笑った拍子にアゴを外してしまった。

「先生、大変です。これこれで、娘がアゴを」
「なに、全部出した? そりゃ、薬が効きすぎた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

エロ味を消した改作  【RIZAP COOK】

今でこそ、この程度はたわいない部類ですが、戦前は検閲も厳しく、師匠方はアブナい部分をごまかそうと四苦八苦したようです。

たとえば、四代目柳家小さんは前半の権助とのやり取りで切って「藪医者」と題しました。五代目小さんもこれにならっています。

その他、「顔の医者」と題して百面相をしてみせるやり方もよくあり、現在でもこの演出が多くなっています。

無筆!? ようかん先生  【RIZAP COOK】

明治の三代目小さんは「皺め」の題名で演じましたが、その前に、源さんなる患者がやってきて、医者と滑稽なやり取りをする場面を付けています。

ようかん先生は按摩上がりで字が読めないので、絵で薬の上書きを付けているという設定で、チンが焚火を見てほえている絵だから「陳皮」、蚊が十匹いて、狐がいるから「葛根湯(かっこんとう)という具合。

明治9年(1876)1月、医師が免許制になるまで、いかにひどい代物が横行していたかがわかります。五代目小さんもこのネタを短くし、マクラに使っていました。

落語の藪医者  【RIZAP COOK】

落語に登場の医者で、まともなのはほとんどいません。そろいもそろって、「子ゆえの 闇に医者を 呼ぶ医者」と川柳でばかにされる手合いばかりです。

名前もそれ相応に珍妙なのばかりで、今回登場の「甘井ようかん」は、さじ加減(見立て)が羊羹のように甘いというのと、あまりお呼びがかからないので黒の羽織が脱色して羊羹色(小豆色)になっているのをかけたもので、落語のやぶ医者では最もポピュラーです。

ただ、名前は演者によって適当に変わり、この噺でも明治の三代目柳家小さんの速記では「長崎交易」先生となっています。

「山井養仙(=病よう治せんのシャレ)」や「藪井竹庵」などもありますが、ケッサクなのは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が「姫かたり」で使っていた「武見太郎庵」でした。

いまどき、これを使ったところで誰が笑うのかは心もとないかぎりですが、談志はうまいところを突きます。藪井と武見の等価交換とは。

武見太郎(1904-83)なる人物は慶応出の医師、熱心な日蓮宗の信者にして、25年にわたり日本医師会の会長(1957-82)をつとめました。防衛医大や東海大医学部の創設ばかりか、早稲田医学部の阻止でも知られます。法華だけに祖師(=阻止)には篤かった。

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すうこく【崇谷】落語演目

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【どんな?】

今となっては聴くこともできない噺。

崇谷は実在の画家で、18世紀が舞台。

あらすじ

水戸藩に仕えていた、英林斎藤原崇谷という名高い絵師。

今は浪人で、本所の中之郷原庭町で気ままな暮らしをしている。

この先生、浅草観音堂の奉納額に「源三位頼政、鵺退治」の絵を書いたことで有名な天下の名人だが、気まぐれの変人で大酒呑み。

諸侯からの依頼が引きもきらないが、気が向かないと千両積まれてもダメ。

かと思えば、近所の子供に頼まれれば気さくに書いてやる、という具合。

弟子志願者も大勢いたが、絵はさっぱり教えないわ、弟子から小遣いは取り上げるわ、酔いつぶれているのを起こせばゲンコツを飛ばしてコブだらけにするわで、一人去り二人去り、今では虚仮の一念の内弟子二人だけ。

ある夜。

雲州候松平出羽守の命で、近習の中村数馬という若侍が、崇谷に絵の依頼に来る。

若殿の初節句なので、墨絵の鍾馗を描いてほしいという望み。

ところが、先生、例の通り朝から五升酒をくらって気持ちよさそうに寝ていたのをたたき起こされたからヘソを曲げ、数馬をコブだらけにした上、
「頼みたければ、出羽守じきじきに来い」
だのと、言いたい放題。

数馬はかっとして切り捨てようと思ったが、ぐっと堪えてその日は帰り、主君に復命すると、出羽守少しも怒らず、
「今一度頼んでまいれ」
と命じたので、数馬は翌日また中之郷原庭町を訪ねる。

崇谷は相変わらずのんだくれていて、
「大名は嫌いだ」
とごねるので、数馬が、
「どうしてもダメなら切腹する」
と脅すと、崇谷は二人の弟子に、
「武士の切腹が実地で見られるのだから、修行には願ってもない機会だ」
と言いだす始末。

これには数馬も降参して、再度懇願すると、その忠心に動かされたか、崇谷もやっと承知。

駕籠に酒を持ち込んでグビグビやりながら、赤坂の上屋敷へとやってきた。

先生、殿さまの前に出ても、あいさつの途中で寝てしまう体たらくだが、出羽守が礼儀正しくことを分けて頼んだので気をよくしたか、茶坊主に墨をすらせ、その顔をパレット代わり。

筆の代わりに半紙の反故紙で無造作に書きなぐったものを三間離れて見ると、鍾馗が右手に剣、左手に鬼の首をつかんでにらみつけた絵が生きて飛び出さんばかり。

「さすがに英林斎先生」
と感服した殿さま、今度は
「草木なき裸山を四季に分けて描いてほしい」
と注文。

崇谷、これも見事に描いてみせたので、
「さすがに名人」
と、浴びるほど酒をふるまって
「素人は山を描くのが難しいと申すが、画工といえどやはり描きにくいか」
「私はなにを描いても同じことだが、私の家の裏の、七十七歳の爺はそう申しております」
「して、その者も画工か」
「いえ、駕籠かきです」

底本:二代目禽語楼小さん

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【しりたい】

「蕎麦の殿さま」雲州候 【RIZAP COOK】

松江藩第七代藩主、松平治郷はるさと(1751-1818)は、明和4(1767)年に襲封。石高は十八万五千石。

藩財政の建て直しに努め、農政を改革、飢饉対策として、領国に信州からそばを移植、これが現在の出雲そばの始まりです。

不昧公ふまいこうと号され、風流人で茶道を好み、大名茶を大成しました。

この噺にもみられるとおり、芸術にも理解と造詣が深かったことで有名です。「蕎麦の殿さま」のあの方です。

どこかで聴いたオチ 【RIZAP COOK】

講釈(講談)を基に作られたと思われますが、はっきりしません。

明治23年(1890)11月、『百花園』に掲載された二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記がありますが、その後の後継者はいないようです。

オチの部分の原話は、元禄16年(1703)刊『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』(初代米沢彦八・編著)中の「山水の掛物」とみられます。

これは、須磨という腰元が給仕をしていて雪舟の掛け軸の絵を見て涙をこぼすので、客が不審に思い、わけを尋ねると、「私の父親も山道をかいて死にました」。「そなたの父も絵師か」と聞くと、「いえ、駕籠かきでした」というもの。

このオチは「抜け雀」と同じです。

崇谷という人 【RIZAP COOK】

本姓は高崇谷こうすうこく(高嵩谷、1730-1804)で、別号は屠龍翁、楽只斎、湖蓮舎、曲江、翆雲堂などさまざま。英派はなぶさはの画家です。

噺中の英林斎というのは不詳です。

江戸中期の絵師で、佐脇嵩之さわきすうし(1707-72)の門人でした。佐脇嵩之は英一蝶いっちょう(1652-1724)の晩年の弟子です。

ということは、狩野安信(中橋狩野家の祖)→英一蝶→佐脇嵩之→高崇谷、という流れになります。

この噺に登場する額については、『武江年表』の天明7年(1787)の項に、「五月、屠龍翁高崇谷、浅草寺観音堂へ頼政猪早太鵺退治の図を画きたる額を納む。(中略)人物の活動、普通の画匠の及ぶ所にあらず」と記録されています。

土佐、狩野両派の手法を採り入れ、町絵師ながら、次代の浮世絵師に大きな影響を与えました。

要は、狩野派の品格をもって街場の風俗を題材に描くのが英派でした。

彼らが「町狩野」と呼ばれていたことからもわかるように、町人に親しまれてきた画風だったのですね。

高崇谷は多くの門弟を育て、明和年間(1764-72)から寛政年間(1789-1801)にかけて活躍しました。

それはちょうど、日本中が文化で膨張したした時代でもありました。都鄙も含めてあまた輩出した奇才や天才の一員だったといえるでしょう。

墓所は、浅草西福寺内の智光院にあります。

【語の読みと注】
中之郷原庭町 なかのごうはらにわちょう
鵺 ぬえ
虚仮 こけ:うそ、絵空事
鍾馗 しょうき
松平治郷 まつだいらはるさと
不昧公 ふまいこう

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おまつりさしち【お祭り佐七】落語演目

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【どんな?】

古くから江戸に伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺。

【あらすじ】

元久留米藩士の飯島佐七郎という浪人。

生まれついての美男子で、武芸は天神真揚流柔術の免許皆伝。

その上、頭がよく如才ないときているから、家中の女たちがほおっておかず、あまりのもて方に嫉妬を買って讒言を受け、藩は追放、親父には勘当されて、今は、芝神明、め組の鳶頭、清五郎の家に転がり込んで、居候の身。

もともと火事が飯より好きで、どうせ侍として二君に仕える気はないから、火消しになろうと清五郎にたびたびせがむが、そこは元侍。

「あっしが手づるをこしらえてあげるから、ちゃんと仕官なさい」
と言うばかりで、いっこうに色よい返事がもらえない。

ある日、鳶の若い衆と品川遊廓に乗り込んだ佐七郎。

もとより金がないので仲間を帰し、居残りをし、退屈まぎれに見よう見まねで雑巾掛けをしながら、身についた早業で、そのままツーッと裸足で脱走、雑巾一本手土産に芝まで帰ってきたと得意気に話すので、清五郎は、め組の顔にかかわると渋い顔。

め組の連中は、この間、二十五人力と自慢するならず者の四紋龍という男を、この若さまが牛若丸のような軽業で翻弄し、手もなくやっつけたのを見て、そのきっぷと力にぞっこん。

「ぜひとも鳶にしてやっておくんなせえ」
と、頭にせっつく始末。

あれやこれやで、今はもう一日も早くめ組の纏を持ってみたい一心の佐七郎だが、相変わらず清五郎は煮え切らない。

火事でもあって一手柄立てれば、頭もその気になってくれるだろうと、一日千秋の思いで江戸中が火の海になるのを待ちわびているが、あいにくその年は火の用心が行き届き過ぎているのか、九月十月になっても、半鐘はジャンともドンとも鳴らない。

そんなある日、退屈まぎれに仲間とガラッポンと博打をしている最中、ジャンジャンジャン、鳴った鳴った鳴った。

神田の三河町あたりで大火事だという。

久しぶりの働き場なので、め組の連中は殺気だち、佐七郎ももみくちゃにされて、いつしか褌一つの素っ裸。

それでも、チャンス到来とばかり飛び出そうとするが、清五郎はガンとして許さない。

「そんなに火事が好きなら、今度、昼間の一軒焼けかなにかの、煙が真っ直ぐ立って座敷から見物できるようなのがあったら見せるが、今夜のはお成り火事といって、玄人でも用意に近づけるような代物でないのに、素人が裸で行こうなどとはとんでもない」
という。

そう意見されてもガマンしきれず、たった一人取り残されて二階でウロウロしながら外をのぞいていた佐七郎、なんとか脱出して、とあせるうち、いい具合に窓格子が緩んでいたのかそっくり外れたので、これを幸い、屋根に出た。

ところが下は芋を洗うような騒ぎで飛び下りられない。

しかたなく、猫のような早業でするすると屋根から屋根へと飛び移り、一番激しく燃え盛っている龍閑町の鰌屋まで来た。

ここはちょうど、め組の持ち場。

奉行以下総出役で、まるで戦場だ。

さすがに煙と火の粉にあおられ、真っ黒になった佐七郎だが、屋根にしがみついて頑張り通すうちにようやく火が消え、め組の消し口を取ることになった。

事情を聞いて、清五郎は渋い顔。

奉行は
「武士の帯刀を捨て、鳶になっての感心な働き。感服いたした」
「へえ、今度は火をのんでみせます」

めでたく奉行の取り持ちで清五郎の子分となり、後に「お祭り佐七」として名をとどろかせた、という一席。

底本:二代目柳家小さん

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【しりたい】

長編のダイジェスト版か

江戸に古くから伝わる「お祭り佐七伝説」「小糸佐七情話」を踏まえた人情噺です。原話や作者は不明ですが、講釈種とも推測されます。

佐七は果たして実在したか、実録などはまったくわかりませんが、江戸前のいなせでいい男の典型として語り継がれました。

本編のあらすじは、明治23年(1890)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記を基にしました。

小さんの噺は、おそらく、講談や伝説を踏まえた長編人情噺の切り取りと考えられます。

そのためか、佐七ものに付き物の芸者小糸との恋のくだりはなく、この前後に小糸との色模様があったのでしょうが、伝わっていません。

速記のマクラで、小さんは、佐七の異名「お祭り」は、彼が火事師(=鳶)で木遣りをよくしたことから、方々の祭りに招かれるうち、ついたものではないかと述べています。

劇化された佐七伝説

人形浄瑠璃では安永6年(1777)初演「絲桜本町育」が初めての本格的な佐七ものです。

ここでは、実は侍の佐七が、主家の重宝・小倉の色紙詮議のため幇間に身をやつしているという設定。

ついで、四世鶴屋南北が文化7年(1810)正月、市村座に書き下ろした「心謎解色糸」、時代は飛んで明治31年(1898)5月、歌舞伎座初演の三世河竹新七作「江戸育於祭佐七」が、佐七ものの劇化しては双璧で、現在でもときどき上演されます。

前者は無頼漢の鳶の者佐七と深川芸者小糸の破滅的な恋が中心。

後者は、小糸と佐七の悲恋を、江戸前の意気といなせで洗い上げた歌舞伎生世話物の傑作ですが、落語の筋とは直接かかわりはありません。

六代目円生が復活

戦後、六代目三遊亭円生が復活して演じました。

円生は、四紋龍との喧嘩のくだりまでで切り、四紋龍が投げられて砂糖まみれになったのを、「相手が乱暴者だから、砂糖漬けにしたのは精糖(=正当)防衛だ」と地口でオチていました。

二代目小さんのは、人情噺だけに、オチはついていません。

「雪とん」は別の噺

同題で別名「雪とん」と呼ばれる噺があります。

これは佐野の大尽、兵右衛門と小糸と佐七の三角関係を中心にした情話です。

小糸と佐七の名を借りただけで、これは全くの別話です。

【語の読みと注】
鳶 とび
木遣り きやり
心謎解色糸 こころのなぞとけたいろいと

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つくだまつり【佃祭】落語演目

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【どんな?】

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

あらすじ

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、折れ口だから一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

しりたい

佃島渡船転覆事件  【RIZAP COOK】

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲てっぽうず船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入せんじゅしおいりの渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

さかのぼれば実話  【RIZAP COOK】

中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛やすもり(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢みみぶくろ』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬しきていさんば(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

円喬、志ん生、金馬  【RIZAP COOK】

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残っています。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ上げ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

竜神は梨好き  【RIZAP COOK】

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭まさやす(淙庵そうあん、?-1806)は随筆『譚海たんかい』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりません。でも、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨が好物なことだけは確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

佃祭  【RIZAP COOK】

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

歌川広重「江戸名所佃まつり」

本所一ツ目橋  【RIZAP COOK】

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

【語の読みと注】
輟耕録 てっこうろく
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:江戸町奉行、肥前守
折敷 おしき
折れ口 おれくち:人の死、とむらい

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くらまえかご【蔵前駕籠】落語演目

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【どんな?】

維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。すさんだ世情も落語にかかれば、ほら。

あらすじ

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追いぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠かご客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、蔵前茅町くらまえかやちょう江戸勘えどかんのような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁おいらんから、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうにきゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋てんのうばしを渡り、前方に榧寺かやでら門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

しりたい

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町にほんばしはしもとちょう赤岩あかいわ芝神明しばしんめい初音屋はつねやを、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠しゅくかごといい、個人営業の辻駕籠つじかごとは駕籠そのものも駕籠舁かごかきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺ほうせんじ、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味こあじな一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語こんじゃくものがたり』巻二十八中の「阿蘇あそさかん、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。

ちなみに、「史」は令制りょうせい四等官しとうかんの最下位「主典さかん」をさします。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥おいはぎ」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺かやでらは現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山盈満院正覚寺じちゅうざんようまんいんしょうがくじのことです。

浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれます。

その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。

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まめや【豆屋】落語演目

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【どんな?】

商いの噺。物売りの豆屋、売れても売れなくても客に怒られる始末。

【あらすじ】

ある、ぼんくらな男。

何の商売をやっても長続きせず、今度は近所の八百屋の世話で豆売りをやることにして、知り合いの隠居のところへ元手をせびりに行く。

隠居からなんとか二円借りたにわか豆屋、出発する時、八百屋に、物を売る時には何でも掛け値をし、一升十三銭なら二十銭と言った後、だんだんまけていくもんだと教えられたので、それだけが頭にこびりついている。

この前は売り物の名を忘れたが、今度は大丈夫そうで
「ええ、豆、そら豆の上等でございッ」
と教えられた通にがなって歩いていると、とある裏路地で
「おい、豆屋」
「豆屋はどちらで」
「豆屋はてめえだ」
「一升いくらだ」
と聞くので
「二十銭でございます」
と答えると
「おい、お松、逃げねえように戸を閉めて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうを一本持ってこいッ」

豆屋はなんのことかと思っていたら、
「この貧乏長屋へ来て、こんな豆を一升二十銭で売ろうとは、てめえ、命が惜しくねえか」
と脅かされ、二銭に値切られてしまった。

その上、山盛りにさせられ、こぼれたのまでかっさらわれて、さんざん。

泣く泣く、また別の場所で
「豆、豆ッ」
とやっていると、再び
「豆屋ァ」
の声。

前よりもっとこわそうな顔。

「一升いくらだ」
と聞かれ、
「へい、二…十」
を危うくのみ込んで
「へえ、二…銭で」
「おい、お竹、逃げねえように戸を閉めて、しんばり棒をかっちまえ。薪ざっぽうを一本持ってこいッ。一升二銭なんぞで買っちゃ、仲間うちにツラ出しができねえ」
と言う。

もう観念して
「それじゃ、あの一銭五厘に」
「ばか野郎。だれがまけろと言った。もっと高くするんだ」

豆屋がおそるおそる値を上げると
「十五銭? ケチなことを言いやがるな」
「二十銭? それっぱかりのはした銭で豆ェ買ったと言われちゃ、仲間うちに…」
というわけで、とうとう五十銭に。

いい客が付いたと喜んで、盛りをよくしようとすると
「やいやいッ、なにをしやがるんだ。商売人は中をふんわり、たくさん詰めたように見せかけるのが当たり前だ。真ん中を少しへこませろ。ぐっと減らせ、ぐっと。薪ざっぽうが見えねえか。よし、すくいにくくなったら、升を逆さにして、ポンとたたけ」
「親方、升がからっぽです」
「おれんとこじゃ、買わねえんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

江戸の野菜売り  【RIZAP COOK】

江戸時代、この豆屋のように一種類の野菜を行商で売り歩く八百屋を「前栽売せんざいうり」と呼びました。

落語ではほかに「唐茄子屋政談」「かぼちゃ屋」の主人公も同じです。いずれも天秤棒に「前栽籠」という浅底の竹籠をつるして担ぎ歩きます。

同じ豆屋でも枝豆売りは子持ちの貧しい女性が多かったといいます。

十代目文治のおはこ  【RIZAP COOK】

かつては「えへへの柳枝」と呼ばれた七代目春風亭柳枝(1893-1941)がよく演じましたが、その後は、十代目桂文治(1924-2004)が伸治時代から売り物にしていました。

評逸なおかしみは無類で、あのカン高い声の「まめやァー!」は今も耳に残っています。

立川談志(松岡克由、1935-2011)は、豆屋を与太郎としていました。

逃げ噺の代表格  【RIZAP COOK】

「豆屋」は短い噺ですが、オチもなかなか塩が効いていて、捨てがたい味があります。

持ち時間が少ないとき、早く高座を下りる必要のあるときなどにさらっと演じる「逃げ噺」の代表格です。

古くは、六代目三升家小勝(1908-71)の「味噌豆」、八代目桂文楽(1892-1971)の「馬のす」、五代目古今亭志ん生(1890-1973)の「義眼」、六代目三遊亭円生(1900-79)の「四宿の屁」「おかふい」「悔やみ」など、一流の演者はそれぞれ自分の逃げ噺を持っていました。

薪ざっぽう  【RIZAP COOK】

「真木撮棒」と書きます。すでに伐ったり割ったりしてある薪で、十分に殺傷能力のある、コワイ代物です。

「まきざっぽ」とも言います。

ちなみに、「真木」はひのきの美称。

「真木割く」という枕詞がありますが、「檜」に掛かります。

たんに「まき」と言った場合、「ま」は「き」の美称となります。

「まき」は「立派な木」くらいの意味。

古来、杉や檜をさします。

古語に「真木立つ山」という言葉がありますが、これは、杉や檜が生い茂った山で、神の気配を感じさせる山のことです。

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

ねずみ【鼠】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

主人公は左甚五郎。
胸のすく匠の噺です。

別題:甚五郎 甚五郎の鼠

【あらすじ】

名工・左甚五郎は、十年も江戸・日本橋橘町の棟梁・政五郎の家に居候の身。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年。

まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下・仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、
「ぜひ家に泊まってほしい」
と頼むので承知すると、
「うちの旅籠はたご鼠屋ねずみやといって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料そんりょうを払って借りてくるから、二十文前金でほしい」
と、言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前に虎屋という大きな旅籠があり、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいめせんので、申し訳ありませんが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでください」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞いた。

このおやじ、卯兵衛うへえといい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置に押し込め、店を乗っ取った。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋いこまやの世話になっていたが、子供の卯之吉が健気けなげにも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置を二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳から、日本一の彫り物名人と知って、卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊まりを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の農民が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほど。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人・丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまう。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人、飯田丹下いいだたんげに大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴ってはるばる仙台に駆けつけ、虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎が恐いかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

三木助人情噺  【RIZAP COOK】

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、浪曲師の二代目広沢菊春(佐々木勇、1914-1964)に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらったのが「左甚五郎」で、これを脚色して落語化したものが「鼠」です。

「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工・甚五郎の逸話ものですが、録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。

お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところが、この人のよさでしょう。

左甚五郎(1594-1651)については「三井の大黒」をお読みください。

日本橋橘町  【RIZAP COOK】

東京都中央区東日本橋三丁目にあたります。

甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。

「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われています。

飯田丹下  【RIZAP COOK】

実在の彫工で、仙台藩・伊達家のお抱え。

ということになっていますが、生没年など、詳しい伝記は不詳です。怪しい。

三代将軍家光(1604-51)の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話もあります。これも怪しい。

内需旺盛(高度経済成長期と同じ現象)だった17世紀の日本で、勝ち組名工たちの象徴的存在「左甚五郎」と競って、対立、挫折、敗北の果てに第一線から消えていった負け組職人たちの象徴的存在が、「飯田丹下」というキャラクターに造形されたのだと思います。

安倍晴明と蘆屋道満との関係に似ていますね。

飯田丹下、現在のところは、実在も詳細も不明です。

こぼれ噺  【RIZAP COOK】

三代目三木助(小林七郎、1902-61)による、この噺のマクラです。

「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァ、いろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたら、お向かいの猫が飛びついてきたってえン」

そのねずみ男のモデルは、安藤鶴夫(1908-69)だったということです。

安藤当人が「巷談本牧亭」((1962年読売新聞連載,1963年刊行、直木賞受賞作)に書いています。

安藤鶴夫は演劇評論家や作家で当時のマスコミで活躍していました。

三木助の熱烈な支持者でも有名でした。

好みの偏りが過ぎる人で、落語界に残した功罪はなかなかです。

現在も  【RIZAP COOK】

三木助没後は、五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)が得意にしました。

三木助門下だった九代目入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)などを経て、若手にも伝わっています。演じ手の多い噺ですね。

志ん朝



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

たけのすいせん【竹の水仙】落語演目

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【どんな?】

三島に投宿して酒びたりの左甚五郎は、宿の主人から追い立てを食らう。

甚五郎、中庭の竹を一本切って、竹造りの水仙に仕上げてみた。

翌朝、見事な花を咲かせた。竹なのに。これを長州公が百両でお買い上げ。

旅立つ甚五郎に、主人は「もう少しご逗留になったら」。

講談の「甚語郎もの」を借用した一席。オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎は言い渡した。

「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」

これはただ者ではないと、佐平が感嘆。

なんとその翌朝。

水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になった。

このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公は言った。

「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然とひとこと。

「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

甚五郎がいよいよ出発という時。

甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平はゲンキンなもの。

「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

【しりたい】

小さんの人情噺  

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。

古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸(椎名巌、1936-2018)がやっていました。

柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚 

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一節を落語化したものとみられます。

黄金の大黒」「」など、落語の「甚五郎もの」はいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「黄金の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があるんだそうです。

三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)は、「鼠」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご:宿屋、旅館

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ごんすけぢょうちん【権助提灯】落語演目

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【どんな?】

短い噺。マクラに振る噺家もいますね。素っ気ないほどにおかしみが。

【あらすじ】

さるご大家たいけのだんな。

おめかけさんを囲っているが、おかみさんがいたってものわかりがよく、またおめかけさんの方も本妻を立てるので、家内は円満、だんなは本宅と妾宅しょうたくに交互にお泊まりという、大変にうらやましい境涯。

ある夜、だんなが本宅に帰ると、おかみさんが、
「今夜は火のもとが心配だから、あちらに行っておやりなさい」
と言うので、だんなはその言葉に甘えて、飯炊きの権助に提灯を付けさせて供をさせ、妾宅に引き返した。

するとおめかけさんの方でも、本妻に義理を立てて、
「おかみさんに済まないから、今夜はお帰りください」
と言う。

またも本宅へ引き返すと、おかみさんが承知せず、こうして何度も本宅と妾宅を行ったり来たりするうち、提灯の火が消えた。

「おい、権助、提灯に火を入れな」
「それには及ばねえ。もう夜が明けちまっただ」

底本:三代目柳家小さん、三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

権助

もともと、個人名というより、地方出身ながら商家の使用人、特に飯炊き専門に雇われた男の総称。

職業名を示す普通名詞です。

権七とも呼ばれました。

落語では「権助芝居」「権助魚」「かつぎや」「王子の幇間」ほか、多数の噺に狂言回しとして登場、笑いをふりまきます。

時に「清蔵」「久蔵」「百兵衛」など、実名で呼ばれることもありますが、みな同じで、「ゴンスケの○兵衛」というのが正確なところです。

上方では久三といいますが、落語にはほとんど登場しません。

代わりに「おもよ」という、大和言葉らしい田舎言葉を使う女性が、「貝野村」その他に登場します。

こちらはよくある名前というだけで、個人名です。

どんな呼び方をされても落語における「権助」の条件は、田舎言葉を使うことです。

落語世界の田舎言葉

権助のお国なまりは、六代目三遊亭円生によると下総しもうさ(千葉県北部)なまりに近いということですが、やはり落語独特の架空のものです。

このなまりは、権助のほかに「お見立て」や「五人回し」に登場する田舎大尽だいじん(大金持ち)の杢兵衛もくべえも使います。

江戸を支えた権助の群れ

19世紀初頭の文化・文政年間以後、江戸では越後を始め、地方から出てきた人々が急増。

わけあり水呑の次・三男が大多数でしたが、庄屋や本百姓の子息で、江戸遊学で来ていた人々もけっこういたようです。

逃散ちょうさんなどにおける幕府の禁令がゆるんだこともあります。

これも、そんなことを言っていられない時代の流れでした。

江戸っ子がいくら「椋鳥むくどり」などと小ばかにしても、実際にはこうした労働力なしには、すでに江戸の経済は成り立ちませんでした。大坂も同じことです。

寛政元年(1789)刊『廻し枕』には、「今宵のだんなも明朝にはたちまち権七さんになる」とあります。

飯炊き男や下男のすべてが、田舎者ではなかったはずです。

職業としてのおめかけさん

享保年間(1716-36)から、江戸でも武士、町人、僧侶など、階層を問わず富裕な者はおめかけさんを持つことが一般化しました。

安政大地震(1855)以後、下級武士や町家の娘が、生活の助けにおめかけさんとして身を売るケースが増え、今で言う契約愛人がドライな「商売」として成り立つようになったのです。

複数のだんなと、別個に契約を結ぶおめかけさんも現れ、共同妾宅しょうたくに二、三人で住むこともありました。

安囲いと半囲い

「安囲い」という、おめかけさんの商売がありました。

一月または二月契約で、月2-5両の手当の者は、だんなが通ってくる日数まで契約で決まっていたとか。

「半囲い」と呼ばれる形態は、商家の番頭や僧侶がパトロンとなって、女に船宿、茶屋などの店を出させるものです。作家の永井荷風もこの「半囲い」をやっていました。

小便組

明和年間(1764-72)から文化年間(1804-18)にかけ、「小便組」と呼ばれる詐欺が横行しました。

これは、美女をおめかけさん業に斡旋するものです。

初夜に、その美女が寝小便して、わざと追い出されるよう仕組みます。

支度金(契約金)をだまし取る手口でした。

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あたまやま【あたま山】落語演目

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

花見あとのさくらんぼを食べたら頭から。何度聴いてもはぐらかされる不思議。

  別題:頭が池 さくらんぼ

あらすじ

春は花見の季節

周りはみな趣向をこらして桜の下でのみ放題食い放題のドンチャン騒ぎをやらかすのが常だが、ここに登場の吝兵衛けちべえという男、名前通りのしみったれ。

そんなことに一文も使えないというので、朝から晩までのまず食わずで、ただ花をぼんやり見ながらさまよい歩いているだけ。

しかし、さすがに腹が減ってきた。

地べたをひょいと見ると、ちょうど遅咲きの桜が、もうサクランボになって落ちているのに気づき、「こりゃ、いいものを見つけた」と、泥の付いているのもかまわず、一粒残さずむさぼり食った。

翌朝。どういうわけか頭がひどく痛んできて、はて、おかしいと思っているうちに、昨日泥の付いたサクランボを食ったものだから、頭の上にチェリーの木の芽が吹いた。

さあ大変なことになったと、女房に芽をハサミで切らせたが、時すでに遅く、幹がにょきにょきっと伸び出し、みるみる太くなって、気がついた時は周りが七、八尺もある桜の大木に成長。

さあ、これが世間の大評判になる。

野次馬が大勢押しかけて、吝兵衛の頭の上で花見をやらかす。

茶店を出す奴があると思うと、酔っぱらってすべり落ち、耳のところにハシゴを掛けて登ってくる奴もいる。

しまいには、頭の隅に穴を開けて、火を燃やして酒の燗をするのも出てくる始末。

さすがに吝兵衛、閉口して、「いっそ花を散らしてしまえ」というので、ひとふり頭を振ったからたまらない。

頭の上の連中、一人残らず転がり落ちた。

これから毎年毎年、頭の上で花が咲くたびにこんな騒ぎを起こされた日にはかなわないと、吝兵衛、町中の人を頼んで、桜の木をエンヤラヤのドッコイと引っこ抜いた。

ところが、あまり根が深く張っていたため、後にぽっかりと大きな穴が開き、表で夕立ちに逢うと、その穴に満々と水がたまる。

よせばいいのに、この水で行水すれば湯銭が浮くとばかりに、そのままためておいたのがたたって、だんだんこれが腐ってきて、ボウフラがわく、鮒がわく、鯰がわく、鰻がわく、鯉がわく……とうとう、今度は頭の池に養魚場ができあがった。

こうなると釣り師がどっと押しよせ、吝兵衛の鼻の穴に針を引っかけるかと思えば、釣り舟まで出て、芸者を連れてのめや歌えの大騒ぎ。

吝兵衛、つくづくイヤになり、こんな苦労をするよりは、いっそ一思いに死んでしまおうと、南無阿弥陀仏と唱えて、自分の頭の池にドボーン。

底本:八代目林家正蔵(彦六)

しりたい

昔はケチの小咄だった   【RIZAP COOK】

昔は、ちょっと毛色の変わったケチの小咄程度としか見られていませんでした。

マクラ噺として扱われていたのですが、なかなかどうして。

その奇想といい、シュールこの上ないオチの見事さといい、屈指の傑作落語といっていいでしょう。

八代目林家正蔵(彦六=岡本義、1895-1982)が、頭池に釣り舟が出るくだりを加えるなどして、一席の噺にまとめあげました。

その正蔵も、それでもまだ短いので、最初に、河童の子が逆に人間に尻子玉を抜かれ、親が「素人にしちゃ上出来だ」と感心する小咄を振ったりもしていました。五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は「もう半分」のマクラに、この噺を用いています。

「頭の池に身を投げた」というオチは、「考えオチ」といいます。

客をケムに巻くものですが、両師匠の芸風については次の項目をお読みください。

ケチ兵衛の投身自殺   【RIZAP COOK】

どうやって自分の頭の池にざんぶり飛び込んだか。彦六、志ん生両師匠の見解は?

●彦六

年寄りに聞くってえと、細長いひもをぬう場合、最初は糸目を上にしてぬって、ぬいあがると物差しをあてがって、一つ宙返りをさせる。すると完全な細ひもになる。理屈はあれと同じで、頭に池があれば、人間がめくれめくれて、みんな池の中にへえっちまう。

●志ん生

おかァさまが、赤ちゃんの付けひもなどをぬうときに、スーッとぬっといて、クルッとこうひっくり返します。煙草入れの筒も、そうなんで、ぬっといて、キュッとやって、クルクルクルッとひっくりかえす。で、まァ、ケチ兵衛さんが、自分で自分で自分の頭の池に身を投げたのは、やっぱりその型でな、グルグルグルグルッと(指先で三つばかり円を描いて)こうなって、えー、そうして、えー、身を投げた。

これでおわかりでしょうか?

ほらふき男爵の冒険    【RIZAP COOK】

泥のついた桜の実を種ごとかじったのが、ケチ兵衛の災厄の始まり。

ところが、世界中には似たような話もあるもの。

ドイツのゴットフリート・アウグスト・ビュルガーが18世紀に残した「ミュンヒハウゼン物語(ほらふき男爵の冒険)」にこんな話があります。

主人公のミュンヒハウゼン男爵が鹿撃ちに出かけ、猟銃に弾丸とまちがえてサクランボの種をこめて撃ったところ、見事命中。一年後に同じ場所に行ってみると、出会った大鹿の頭に桜の枝が生い茂っていたというホラ話。

ビュルガーはゲッティンゲン派の詩人です。18世紀に勃興した民俗学、口承文芸、神話学、伝説学などの影響を受け、これらを題材にパロディーやホラ話をさかんに創作しました。大学をりっぱに出ながらも、無給、薄給、不倫、重婚など、不遇な人生の繰り返しでした。

志ん朝

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

たてばやし【館林】落語演目

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 【どんな?】

町人が剣術を。
江戸後期ではふつうの光景。
実態は武士と町人(百姓)の二層でした。
士農工商なんてなかったそうです。

別題:上州館林

あらすじ

町人の半さん。

剣術を少しばかり稽古してすっかり夢中になり、もう道場の先生の右腕にでもなったつもりでいる。

そこである日。

半さん、諸国を修業してまわり、腕を上げてきたい、と先生に申し出る。

本気で、商売をやめて剣術遣いになるつもりらしい。

先生心配になって、自分の武者修行の時の体験談をひとくさり。

ある時、上州館林のご城下を歩いていると、一軒の造り酒屋の前に人だかりがし、何やら騒いでいる。

聞いてみると、まだ夕方なのに泥棒が入り、そいつが抜き身を振り回して店の者を脅し、土蔵に入り込んだ。

外から鍵をかけ、雪隠詰めにしたものの、入ってくる奴がいれば斬り殺そうと待っているので、誰でも首が惜しいから、召し捕ろうとする者もいない、とのこと。

先生、
「しからば拙者が」
と。

そこが武芸者。

飯六杯に味噌汁三杯も食って、腹ごしらえの上、生け捕りにしてくれようと、主人を呼んで、空き俵二俵を用意させ、左手で戸を開ける。

右手で俵を中に放り込んだ。

向こうは腹が減って気が立っているから、俵にぱっと斬りつけるところを、小手をつかんで肩に担いで岩石落とし、みごと退治した、という一席。

しかし、泥棒の腕がナマクラだったから幸いしたが、腕が立っていたらどうなったかわからない。

「おまえも、もう少し腕を磨いた上で」
と先生がさとすので、半さんもそんなものかと思い直して、帰っていく。

しかし。

「オレも先生のような目にあってみたい」
と、未練たらたらな半さん。

独り言をいいながら歩いていくと、ちょうど夕方。

町の居酒屋の前に人だかり。

聞いてみると、侍に酔っぱらいがからんでけんかを吹っかけた。

「斬るほどのこともない」
と峰打ちを食わせたが、酔っぱらいがまだしつこくむしゃぶりつくから、侍は
「めんどうくさい」
と酒屋の土蔵に逃げ込んでしまった、という。

さあ、ここが腕の見せどころ、と半さん。

「あのお侍は悪くはないんだから、おまえが出て騒ぎを大きくすることはない」
と止められても聞かばこそ、先生のまねをして
「しからば拙者が生け捕りにいたしてくれる。所は上州館林。そやつを捨ておけば数日の妨げ。主人、炊き立ての飯を出せ」

腹ごしらえまでそっくりまねて、いよいよ生け捕りの計略。

俵を持ってこさせると、土蔵の戸を右手で開け、左手で俵を放り込む。

向こうは血迷っているから、ぱっと斬りつけ……て、こない。

もう一俵放り込んでも中は、しーん。

こりゃ約束が違う。

「中でどうしているんだろう」
と言いながら、首をにゅっと入れた。

とたん、侍の刀が鞘走り、半公の首がゴロゴロ。

「先生、うそばっかり」

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うんちく

切れのいいシュール落語

首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴取り」があります。オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。

原話は不詳で、別題を「上州館林」。

昭和初期には八代目桂文治(山路梅吉、1883-1955)が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(今西久吉、1888-1929、居残りの)も演じました。

先の大戦後、文治の没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。

六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、半公はたたきつけられるだけにしていました。演者自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまった悪例です。

ヤットウヤットウ

江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営は苦しかったようです。

背に腹はかえられず、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にした道場が多く出てきました。

武士と町人の身分差のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じました。

ただ、江戸は武士の町です。武士の感化で、町人にも尚武の気風が強くなっています。

さらには、当時の江戸は、治安も悪かったのです。

自衛の意味で柔や剣術を身につけたい、という町人が江戸中期ごろから増え始めていました。

町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわしていました。

幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸には四大道場には志願者が殺到でした。

四大道場とは。

士学館 鏡新明智流 桃井春蔵(沼津藩、1825-85) 日本橋南茅場町→南八丁堀大富町
玄武館 北辰一刀流 千葉周作(陸奥馬医者、1793-1856) 日本橋品川町→神田於玉ヶ池
練兵館 神道無念流 斎藤弥九郎(越中農民、1798-1871) 九段坂下俎橋付近→九段坂上
練武館 心形刀流 伊庭秀業(幕臣、1810-1858) 下谷和泉橋通

練武館を除いて、三大道場と称することもありました。練武館は佐幕系だったので、明治期にはずされたようです。

明治という時代は、けっこう作為的で恣意的だったのですね。

これらの道場の勃興で、「町人は原則だめ」のたてまえは、次第に怪しくなってきました。

ちなみに、町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。

「士農工商」

道場の先生も武士でない出身も多く、習う者も町内の若い衆で、幕末に新選組が登場する素地は、江戸中期から次第につくられていったようです。

江戸時代とはいっても、18世紀を境に前期と後期に区別できるほど、社会史、経済史、文化史といった方面で明らかな断裂が生じています。

江戸前期までの日本は銀の輸出国でしたが、18世紀半ば以降には銀の輸入が始まります。

その頃には、石見銀山から採掘できなくなってくるのです。銀の枯渇です。

近頃の教科書では「士農工商」の用語が載らなくなり始めたようです。

この言葉、『漢書』(班固編著、BC70年頃)には「士農工商、四民に業あり」と載っています。

とはいえ、ただ昔からあった言葉というだけであって、江戸時代に使われていたわけでもありません。「士農工商」という四階層の身分制度があったわけではありません。

この噺のように、江戸中期以降、町人が剣術の心得を持つのは決して珍しくはないのです。

身分制があったのは、あえていえば、「武士」と「その他」(農工商が入る)という区分です。

都市部では、「武士」と「町人」
農山漁村では、「武士」と「百姓」(農工商が含まれる)。

それでさえ、消費しかしない(生産活動をしない)武士階層が困窮の果てに、自らの武士の利権を「その他」の人々に売ることは、ときにある現象でした。

こうなると、四民は入り交じり状態。こんな社会のまま幕末になだれ込んだわけです。

全国の「志士」と称する輩を見ると、足軽どころか、農民、神主、商人、漁民など、まさに草莽の連中でした。

この時点で、すでに身分制は崩壊状態だったのでしょう。

問題は、四民とは別に扱われていた穢多、非人などの人々です。この人たちを明治という社会に組み込むかが、政府の大きな課題だったようです。これはあちこちで問題が勃発。看過できない問題でした。

話を戻します。

「士農工商」という言葉。

これはもう、明治時代に日本の歴史を編纂する際、蒙昧な国民に江戸時代を説明しやすくするため、歴史学者がちゃっかり使ったものなんだそうです。

その伝でいくと、「幕府」も「藩」も同様です。そう、「鎖国」も。

「鎖国」は志筑忠雄しずきただお(1760-1806)が使った、と言われています。長崎の商人出身の蘭学者です。

当時の日本人が「今の日本は鎖国なんだぜ」なんて、日常生活で使っていたわけでもありません。

「鎖国」は、明治の学者が教科書用に転用した、ご都合主義の日本史用語です。

1990年代以降、このような「明治の呪縛」から私たちを少しずつ解放しようという研究が、歴史学の世界で進んでいます。遠からず、教科書から「鎖国」の二文字が消える日、来るようです。

【語の読みと注】
雪隠詰め せっちんづめ
伊庭秀業 いばひでなり
桃井道場 もものいどうじょう



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いえみまい【家見舞】落語演目

【RIZAP COOK】

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【どんな?】

物語を知れば、そっちのほうがしっくりくるかもしれません。

別題:祝いがめ 肥瓶 祝いの壷(上方) 雪隠壷(上方)

【あらすじ】

借金をしても義理だけは欠かないのが、江戸っ子。

兄貴分の竹さんが引っ越した。

日ごろ世話になっている手前、祝いの一つも贈らなくてはならないと考えた、二人組。

ところが、なにを買っていいか見当がつかない。

直接、本人に聞きに行く。

竹兄イが
「そんな無理をしなくてもいい」
と断るのに、
箪笥たんす長持ながもち一式はどうです?」
なんぞと大きなことを言う相棒に、
「どこにそんな金があるんだ」
と片一方はハラハラ。

ところが、ふと台所を見ると、昔はどこの家でも必需品の水瓶がなく、バケツで代用しているようす。

「さあ、これだ」
と二人。

兄イが止めるのも聞かず、脱兎だっとのごとく外に飛び出した。

さっそく、ある道具屋に飛び込んで物色すると、手ごろなのがあった。

値段を聞けば二十八円。

少しばかり、いや大いに高い。

一番安いのを見ると、四円。

ところが、ばかなことに、所持金額は一人が一銭、相棒は一文なし。

お互いに相手の懐を当てにしていたわけ。

しかたなく消え入りそうな声で、
「あの、もう少しまかりませんか?」
「へえ、どのくらいに?」
「あの一銭」
「ははあ、一銭お引きするんで?」
「一銭はそのまま。後の方をずーっと……」

これでは怒らない方がおかしい。

「顔を洗って出直してこい。来世になったら売ってやる」
と、おやじにケンツクを食わされた。

別の道具屋をのぞくと、またよさそうなのがある。

当たって砕けろと、おそるおそる一銭と切り出すと、
「一銭? そんな金はいらない。タダで持っていきなさい」

大喜びの二人。

さっそく、差し担いで運ぼうとすると道具屋、
「あんた方、それをなにに使いなさる?」
「水瓶だよ」
「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがってるでしょう」

ん……? 毎朝またがる? 

よくよく見ると、はたしてそれは紛れもなく、便器用の肥瓶こいがめ

タダなわけだ。

と言って、今さらどうしようもない。

洗ってみても、猛烈な悪臭で鼻が曲がりそう。

しかたなく水を張ってゴマかし、引っ越し祝いに届けると、兄イは大喜び。

飯を食っていけと言われて、出てきたのが湯豆腐。

うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。

「豆腐を洗った水はどこから汲んだ?」
「へえ、その、豆腐は断ってまして」
と言うと、
「それじゃ香の物はどうだ」
と出され
「そりゃいい、古漬はかくやに刻んで水に……あの、コウコも断ってます」
「なんでも断ってやがる。それじゃ焼き海苔で飯を食え」
「その飯はどこの水で炊きました?」
「決まってるじゃねえか。てめえたちがくれたあの水瓶よ」
「さいならツ」
「おい、待ちな。あの瓶が……おい、こりゃひでえおりだ。こんだ来る時、ふなァ二、三匹持ってきてくれ。鮒は澱を食うというから」
「なに、それにゃあ及ばねえ。今までコイ(肥=鯉)が入ってた」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

水瓶と肥瓶

水瓶は、明治31年(1898)に近代的な水道が敷設され始めてからも、その普及がなかなか進まなかったため、昭和に入るまでは家庭の必需品でした。

特に長屋では、共同井戸から汲んでくるにしても水道の溜枡からにしても、水をためておく容器としては欠かせません。

素焼きの陶磁器で、二回火といって二度焼きしてある頑丈なものは値が張りました。

噺に最初に出てくる28円のものがそれで、備前焼です。

水がめより低く、口が広いのが肥がめです。五人用、三人用など、人数によって横幅・容量が異なりました。 

江戸の裏長屋では、総後架そうごうかと呼ばれた共同便所に、大型のものを埋めて使用し、トイレが各戸別になっているところでは、それぞれの裏口の突き出しに置かれました。

上方の「雪隠壺」

雪隠せんち」は東京では「せっちん」と読みますが、関西の言葉です。

上方のやり方は、東京のものとはかなり異なり、家相を見てもらって、ここに雪隠を立てて、肥壺(肥瓶)は一回だけ使えとアドバイスされた男がもったいないと、使用後道具屋に売る場面が前に付きます。

それを水がめ用に買っていった男が、新築祝いにしますが、宴会でバアサン芸者が浮かれたので、「ババ(=糞)も浮くわけや。雪隠壺へ水張った」と汚いオチになります。

それをはばかってか、桂米朝は「祝いの壺」として演じました。

東京では小さん系

明治期に三代目柳家小さんが東京に移植、改作しましたが、速記は残されていません。

八代目春風亭柳枝しゅんぷうていりゅうしを経て、五代目小さんが十八番にしていました。

今回のあらすじのテキストも小さんのものです。

小さんは高座では「こいがめ」で演じても、後年、レコードやCDでは「家見舞」「祝いがめ」の題名で入れていました。

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あわびのし【鮑のし】落語演目

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【どんな?】

与太郎系の噺。賢い女房が金をこさえる手立てにご祝儀をレバレッジする知恵。

別題:鮑貝(上方)

あらすじ

ついでに生きているような、おめでたい男。

今日も仕事を怠けたので、銭が一銭もなく、飯が食えない。

すきっ腹を抱えて、かみさんに
「なにか食わしてくれ」
とせがむと、
「おまんまが食いたかったら田中さんちで五十銭借りてきな」
と言われる。

いつ行っても貸してくれたためしがない家だが、かみさんが
「あたしからだっていえば、貸してくれるから」

その通りになった。つまりは信用の問題。

所帯は全部、しっかり者のかみさんが切り盛りしているのを、みんな知っている。

借りた五十銭持って帰り、
「さあ、飯を」
と催促するとかみさんは、
「まだダメだよ」

今度は
「この五十銭を持って魚屋で尾頭付きを買っておいで」
と命じる。

「今度大家のところの息子が嫁を迎えるので、そのお祝いだと言って尾頭付きを持っていけば、祝儀に一円くれるから、その金で米を買って飯を食わせてやるよ」
と言うのだ。

ところが、行ってみると鯛は五円するので、しかたがないから、あわび三杯、十銭まけてもらい、買って帰るとかみさん、渋い顔をしたが、まあ、この亭主の脳味噌では、と諦め、今度は口上を教える。

「こんちはいいお天気でございます。うけたまりますれば、お宅さまの若だんなさまにお嫁御さまがおいでになるそうで、おめでとうございます。いずれ長屋からつなぎ(長屋全体からの祝儀)がまいりますけれど、これはつなぎのほか(個人としての祝い)でございます」

長くて覚えられないので、かみさんの前で練習するが、どうしても若だんなを「バカだんな」、嫁御を「おにょにょご」、つなぎを「つなみ」と言ってしまう。

それでも
「ちゃんと一円もらってこないと飯を食わせずに干し殺すよ」
と脅かされ、極楽亭主、のこのこと出かけていく。

大家に会うといきなりあわびをどさっと投げ出し、
「さあ、一円くれ」

早速、口上を始めたはいいが、案の定、「バカだんな」に、「おにょにょご」「津波」を全部やってしまった。

腹を立てた大家、
「あわびは『磯のあわびの片思い』で縁起が悪いから、こんなものは受け取れねえ」
と突っ返す。

これでいよいよ干し殺しかとしょげていると、長屋の吉兵衛に出会ったので、これこれと話すと、吉兵衛は
「『あわびのどこが縁起が悪いんだ。おめえんとこに祝い物で、ノシが付いてくるだろう。そのノシを剥がして返すのか。あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ。それをなんだって受け取らねえんだ。ちきしょーめ、一円じゃ安い。五円よこせ』って、尻をまくって言ってやれ」
とそそのかす。

「尻まくれねえ」
「なぜ」
「サルマタしてねえから」

そこで大家の家に引き返し、今度は言われた通り威勢よく、
「一円じゃ安いや。五円よこせ五円。いやなら十円にまけてやる……ここで尻をまくるとこだけど、事情があってまくらねえ」

しりたい

五代目志ん生が得意に   【RIZAP COOK】

原話は不詳。上方落語「鮑貝」を明治中期に東京に移植したものです。

五代目志ん生が得意とした噺です。亭主が口上を言えずにもどかしいところが笑いを誘いますね。

古いオチは、大家が「丸い『の』の字ではなく、つえを突いたような形の『乃』の字があるが、あれはどういうわけだ?」と聞くと、ぼんくら亭主が「あれはアワビのおじいさんです」というもの。

大阪では、「生貝をひっくり返してみなはれ。裏はつえ突きのしの形になってある」となりますが、「つえ突きのし」という言葉が、戦後、わかりにくくなったので、志ん生が「サルマタしてねえ」という前のセリフを生かして、多少シモがかったオチに改めたのでしょう。

大阪では、さらに「カタカナの『シ』の字のしは?」と聞かれ、「あれは生貝がぼやいているところや」「アワビがぼやくかい」「アワビやさかい、ぼやく。ほかの貝なら、口を開きます」と落とす場合がありますが、なんだか要領を得ません。

磯の鮑の片思い   【RIZAP COOK】

鮑の貝殻が片面だけ、つまり巻き貝なので「片思い」と掛けた洒落です。それだけのことです。「磯の鮑の片思い」「鮑の貝の片思い」と、片思いのたとえに今でも使われます。鮑は古来、食料や儀式にの肴、進物などに用いられました。「鮑玉」「鮑白玉」は、真珠をさします。「鮑結び」は、ひもの飾り結びのひとつで、中央に一つ、左右に二つの輪を作る結び方です。輪は真珠の形状からの発想で和にも通じました。貝殻は猫がえさを食べる、猫の皿になるのが通り相場でした。

昔は「現物」使用   【RIZAP COOK】

熨斗は元来、「あわびのし」だけを指しました。というのも、昔は生のアワビの一片を方形の紙に包み、祝いののしにしたからで、婚礼の引き出物としてあわびのしを贈る習慣は16世紀ごろからあったそうです。

不祝儀の場合は、のしを付けないのが古くからの習わしでした。この噺で語られる通り、あわびのしは志州特産で生産量も少ないため、時代が下るにつれ、簡略なものとして「の」「乃」「のし」などと書いたものが代用されるようになりました。

現在では品物の包みに水引きを掛け、その右肩に小さな黄色い紙を四角い紙で包んだのが本格で高級品。水引きとは、進物用の包み紙などを結ぶのに使う紙糸で、細いこよりに水のりを引いて干し固めたもの。今はほとんどその形を印刷したもので済ますので、あの形がなにを表すのか忘れられているかもしれません。

この噺でのポイントは、仲のよい夫婦が一晩かけてのしをつくる、というところ。

「 あわびってものは、志州鳥羽浦で海女が採るんだ。そのアワビを鮑のしにするには、仲のいい夫婦が布団に鮑を敷いて一晩かかって伸ばさなきゃできねえんだ 」と吉兵衛は言っています。

鮑を下に敷いた布団の上で一晩中睦事をいたした果てのあわびのし、ということです。

現代人から見ればずいぶんエロいことしてるなと思えますが、古い日本人はそんなことをふつうにわきまえていて、それ自体、縁起よいと祝う感覚を持ち合わせていました。

生産→豊穣→子孫繁栄といった具合にです。

明治より以前の日本人が性に対しておおらかだったのですね。

かなりおおざっぱですが、日本人の美風でしょう。

のし(右肩の部分)と水引き(中央の紅白糸)

「あわびのし」も「のしあわび」も   【RIZAP COOK】

「あわびのし」も「のしあわび」も同じ意味です。

鮑の肉を薄く削るように切って(リンゴの皮をむくように長く伸ばして)、それを引き伸ばして干したものです。

初めは食用でしたが、儀式用の肴(引き出物、おまけ、つまみ。「さか」は酒、「な」は副食物の意)に使ったり、祝いごとの贈り物に添えたりしました。

「打ち鮑」とも。「のし」は「熨斗」で「のす(「伸ばす」の古代語)」の意がありました。

【語の読みと注】
尾頭付き おかしらつき
熨斗 のし
志州 ししゅう:志摩国。三重県の一部
鳥羽 とば:志摩の海岸。鳥羽浦
鮑玉 あわびたま:真珠のこと
鮑白玉 あわびしらたま:真珠のこと

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まんびょうえん【万病円】落語演目

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【どんな?】

ろくでもない奴の脅しテクニック集
とも、いえなくもない小咄の連続ものです。

別題:侍の素見 ないもん買い(上方)

【あらすじ】

悪侍の行状記。

その一 湯屋にて

湯船の中で、自分の褌ばかりか、女房の下袴まで堂々と洗濯。

ほかの客から番台に苦情が出て、湯銭をみんな返させられるので、困った親父がおそるおそる抗議すると、
「きさまは番台で男客の○○や××を預かるか」
と逆襲。

「アレは切り離せないから預かれない」
と言うと、
「正物は平気で湯につけているのに、それを包む風呂敷である褌を洗うのが、なぜいけない」
と屁理屈で逆ネジ。

帰りしなに、わざと五両中判を出し、釣りを出せと無理難題。

まんまと湯銭を踏み倒す。

その二 居酒屋にて

肴をいろいろ聞いて、番頭が
「あとは、蟹のようなもの」
と答えると
「じゃ、その『ようなもの』をくれ」

蛸も海老もゆでると赤くなると聞いて
「それじゃ、稲荷の鳥居はゆでたのか」
などとからかった挙げ句、
「どうだ、蟹代あんこう代鱈の四文なりというのは」
と、しゃれでケムにまき、番頭がだまされて承知したのをタテに、支払った代金は三品取って、酒代と合わせてたった八文。

文句を言うと
「値段を決めておいてそれが成らんとあれば主人を出せ。刀の手前、容赦はできん」
とすごんだ上、
「町奉行所に訴え出る」
と脅して、まんまと飲食代を踏み倒す。

その三 菓子屋にて

小僧をつかまえて、
「饅頭の蒸籠の上で褌を干させろ」
と無理難題。

金鍔を猫の糞、餡ころ餠を馬糞などと汚いことを言ってからかい、小僧が、一つ四文の積もりで
「餡ころ餠はいくつ召しても四文で」
と言ったのを、あちこち食い散らして、都合十個食い、
「いくつ食っても、と言ったのだから全部で四文だ」
と強弁。

「一つ四文ならなぜそう申さん。フラチな奴だ。主人を出せ。らちが明かなければ裁判を」
とコワモテ。

まんまと饅頭代を踏み倒す。

その四 古着屋にて

袷の綿入れの値段を聞くと、掛け値なしの三両二分。

これを一分一朱に負けさせようとしたが、失敗。

サンピン、盗ッ人、団子、屁でもかげと、親父の悪態を背に退散。

これで三勝一敗。

その五 神屋にて

例によって疫病神はあるが、疱瘡神はどうだと攻撃をしかけ、風の神は、と聞くと「ございます」

扇を出され、「開かねば 扇も風の 蕾かな」という句で、切り返される。

ここは薬も売っているのに目をつけ、もう一勝負。

万病の薬と張り紙があるので、
「病の数は四百四病と心得るが、万病とは大変に増えているな」
「子供の百日咳を入れると五百四病で」
「算盤を貸せ。五百四病だな」
「殿方の病で疝気を入れると千五百四病」
「なるほど」
「ご婦人の産前産後もあれば、脚気肥満(=四万)もあります」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

「居酒屋」と共通の原話も  【RIZAP COOK】

昭和から戦後では、三代目三遊亭金馬、六代目三升家小勝がよく演じましたが、最近はあまり高座に掛けられません。

各部分で原話が異なります。

湯屋と菓子屋のくだりは不明ですが、居酒屋の部分は文化3年(1806)年刊の咄本『噺の見世開』(十返舎一九)中の「酒呑の横着」。この部分は昭和期に、三代目三遊亭金馬が「居酒屋」として独立、改作し、大ヒットを飛ばしました。

次の古着屋くだりは、上方落語「ないもん買い」の踏襲で、原話は安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「通り一遍」、紙屋の方は同2年(1773)刊『千年艸』中の「紙屋」です。このうち、前者の原話では古着屋の代わりに道具屋と竹細工屋がなぶられ、後者の紙屋のオチは「風の神なら、おくりやれさ(=送れ)」と言って踏み倒します。

この噺の核になる、最後の薬屋のくだりは、貞享4年(1687)刊の笑話本『正直咄大鑑』中の「万病錦袋円」が最も古い形です。

これは、下谷・池の端の「くわ(か)んがくや(屋)だいすけ」という江戸名代の薬屋で、「錦袋円(きんたいえん)」なる万病に効く霊薬を売り出したところ、浪人がゆすりにやってくるという設定。

「四百四病」の言いがかりはそのままで、機知のある店の若い者が、「あなたのような御浪人さまにも『臆病』という病はあるはず」と、切り返すところが異なります。

宝暦5年(1755)刊の『口合恵宝袋』中の「万病円」では、京都二条の薬屋で「十三味地黄丸」の看板を見た男が「地黄丸 造血・強精剤)は六味か八味のはず」と、因縁をつけるところから始まり、主人が「あまり売れないので五味(=ゴミ)がかって十三味」と、撃退されます。その後、やはり「万病円」と四百四病の問答から、疝(千)気→腸満(=万)でオチになります。

文化4年(1807)刊『按古於当世』中の「もがりいいの侍」を経て天保15年(1844)刊の『往古噺の魁』中の「ねぢ上戸」では、さらにシャレが豊富になり、「百日咳」「産前産後」「脚気肥満」と、より現行に近くなっています。

いずれにしても、たわいないダジャレの応酬の繰り返し。「一目あがり」同様、だんだん数が増えていくだけのものなので、落語家がそれぞれシャレを工夫して、付け加えていったものなのでしょう。

類話といえる上方の「ないもん買い」が幕末の桂松光の楽屋ネタ帳「風流昔噺」に記載されているところから、この噺も、やはり幕末から明治初期に、最終的にまとめられたと思われます。

オチから古びた噺  【RIZAP COOK】

明治29年(1896)3月、「侍の素見」と題した四代目橘家円喬の速記がありますが、大筋は現行のものと変わりません。オチはいくつかのバージョンがあり、近代のやり方では「一つで腸満(=兆万)」とする方が一般的。ただ、「腸満」という病名そのものが古めかしく、通じなくなっているので、どっちもどっちでしょう。

万病円  【RIZAP COOK】

実在した薬です。解毒剤で、京都室町の御香具所、植村和泉掾が本家発売元。江戸では、浅草茅町と京橋尾張町の虎屋甚右衛門が委託販売していました。

五両中判  【RIZAP COOK】

正しくは天保五両判金といい、天保8年(1837)から安政2年(1855)までの18年間通用しました。大判十両と小判一両の間です。幕府の財政難から、貨幣「お吹き替え」の一環として天保小判と同時に鋳造され、翌年には天保大判も発行されました。これらは粗悪な貨幣で、特に中判は純金の含有割合が少なく、評判が悪かったため、ほとんど流通しないまま終りました。

なぜこんな大金を浪人風情が持っていたのかはわかりません。ゆすった金か、さもなければ、ニセ金かも知れませんね。もし、金に困っていないのなら、この男、純然たる「愉快犯」ということになります。

金馬以後はやり手なし  【RIZAP COOK】

「侍の素見(ひやかし)」と題した、四代目橘家円喬の速記(明治29=1896年)が最古です。短い噺なので円喬は、昔は侍がどれだけいばっていたか、というテーマの小咄を、マクラに二題振っています。オチの「脚気肥満」は、江戸っ子が「ヒ」を「シ」と発音することから、「ヒマン」→「シマン(=四万)」としたダジャレで、円喬の工夫かもしれません。

戦後では三代目三遊亭金馬と六代目三升家小勝が得意とし、速記は両者、音源は金馬のもののみが残ります。金馬は、この噺に居酒屋が登場するため、同題の自身のヒット作との縁で、よくこちらも高座に掛けていました。東京では最近は、ほとんど聞かれません。金馬は、原話の「万病円」や、上方のオチにならって「一つで腸満(=兆万)があります」と、オチていました。

あらすじは、前述、円喬の速記を参考にしましたが、五両判のくだりがあることで、古い型を踏襲していることがわかり、この噺の成立時期がおよそ見当がつきます。

上方噺「ないもん買い」  【RIZAP COOK】

現在でも、笑福亭仁鶴などが得意とするネタです。

東京と異なり、なぶりに来るのは、タチの悪い町人です。最初に古着屋で、三角の布団や袷の蚊帳を出せと無理難題を言ったあと、魚屋で「『めで鯛』をくれ」。けんかになったところで仲裁が入り、「おまえもたいない(=たわいない、大阪弁)やっちゃな」「いや、タイがあったさかいに、こんな目におうた」と、オチになります。古くはこのあと、「万病円」につなげることも。その場合、オチはやはり「たった一つで腸満」でした。

【語の読みと注】
褌 ふんどし
四文なり しもんんなり:「紙代判行代でただの四文なり」という読売瓦版の売り立て
饅頭 まんじゅう
蒸籠 じょうろう
金鍔 きんつば
袷 あわせ
疝気 せんき
脚気肥満 かっけしまん:肥満を四万にかける
腸満 ちょうまん:腹腔内に液体やガスがたまって腹部膨満感を起こす症状

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まつだかが【松田加賀】落語演目

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【どんな?】

一見歌舞伎の世話物かと思いきや、やっぱり落語でした。

別題:頓智の藤兵衛

【あらすじ】

本郷も 兼安かねやすまでは 江戸のうち

その本郷通りの雑踏で、年端もいかない小僧按摩あんまが、同じ盲人に突き当たった。

こういう場合の常で、互いに杖をまさぐり合い、相手は按摩の最高位である検校けんぎょうとわかったから、さあ大変。

相手は、公家や大名とも対等に話ができる身分。

がたがた震えて、
「ごめんくださいまし。ご無礼いたしました」
という謝罪の言葉が出てこず、ひたすらペコペコ頭を下げるだけ。

こやつ、平の按摩の分際であいさつもしないと、検校は怒って杖で小僧をめった打ち。

これから惣録屋敷そうろくやしきに連れていき、
「おまえの師匠に掛け合う」
と大変な剣幕。

周りは十重二十重とえはたえの野次馬。

「おい、年寄りの按摩さん。かわいそうじゃねえか。よしなよッ」
「なに、わしはただの按摩ではない。検校だ」
「それなら、家に帰ってボウフラでも食え」
「なんだ?」
「金魚」
「金魚じゃない。けんぎょお」

大変な騒ぎになった。

そこへ通り合わせたのが、神道者で長年このあたりに住む、松田加賀という男。

話を聞いて、自分が一つ口を聞いてやろうと、
「もしもし、そこな検校どの。あなたに突き当たった小僧、年がいかないから度を失って、わびの言葉が出てこない。仲人なこうどは時の氏神うじがみ、と申します。ここは私に任して、まるく納まってはくださいますまいか」
と丁重に持ちかけた。

検校は
「これはこれは、あなたはもののよくおわかりになる。お任せはしましょうが、ご覧の通り、わたくしは晴眼の方とは違います。あなたのお顔、なり形などは皆目わからない。仲人をなさいますあなたさまの、お所お名前ぐらいは承りたい」
と言うので、加賀は、
「これは失礼いたしました。私はこの本郷に住んでいる、松田加賀と申します」
と正直に返事をした。

興奮が冷めない検校、本郷のマツダをマエダと聞き違えて、これはすぐ近くに上屋敷がある、加賀百万石のご太守と勘違い。

「加賀さま……うへえッ」
と、杖を放り捨てて、その場に平伏。

加賀も、もう引っ込みがつかないから、威厳を作って
「いかにも加賀である」
「うへえーッ」
「検校、そちは身分のある者じゃな。下々しもじもの者はあわれんでやれ。けんか口論は見苦しいぞ」
「へへー。前田侯のお通り先とも存じませず、ご無礼の段はひらにお許しを」

検校がまだ這いつくばっている間に、加賀はさっさと先へ行くと、
「高天原に神留まりまします」
と、門付けの御祓おはらいをやりはじめた。

そうとは知らない検校、
「ええ、以後は決して喧嘩口論はいたしません。ご重役方にも、よろしくお取りなしのほどを」
と、さっきとは大違いで、ひたすらペコペコ。

野次馬連中、喜んでわっと笑った。

検校、膝をたたき
「さすがは百万石のお大名だ、たいしたお供揃え」

出典:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

もとは「とんち噺」  【RIZAP COOK】

原話は、安永4年(1775)刊の笑話本『新落ばなし一のもり』中の「乗打のりうち」です。

これは、身分の低い盲人の勾当こうとうが、最高位の検校けんぎょう乗打のりうち、つまり駕籠かごに乗ったまま挨拶せずに行き過ぎたのをとがめられ、難渋しているのを、通りすがりの神道者が機転をきかせ、大名と偽って助けるというもので、オチは現行と同じです。

これが落語化され、仲裁者を「頓知の藤兵衛」という知恵者にし、藤兵衛が人助けでなく、大名に化けて盲人二人をからかうという、演じ方によってはあざとい内容になりました。

彦六が改題、洗練  【RIZAP COOK】

明治から大正にかけて「頓智の藤兵衛」の題で三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が得意にしていました。

戦後、しばらくすたれていたのを、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が原話に近い形に戻した上、人情味を加味して、重厚な内容に仕上げました。

演題を「松田加賀」と変えたのも正蔵です。

正蔵はこの噺を若き日、師と仰いだ三遊一朝翁(倉片省吾、1846[1847]-1930、円朝門下)に教わっています。

「頓智の藤兵衛」で演じるときは、「前田加賀」との洒落ができないため、当然、演出が大きく変わりますが、現在、このやり方は継承されません。

速記、音源とも、残るのは正蔵のもののみです。

正蔵の没後、昭和58年(1983)に六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)が復活して高座に掛けました。

按摩は杖にも階級  【RIZAP COOK】

衆分(平按摩)は普通の木の杖、座頭は杖の上端に丸い把手が一つ、匂頭は上端に横木が半分渡してある片撞木。

検校になると、完全に横木を渡したT字型の撞木の塗り杖を用いました。

検校  【RIZAP COOK】

盲人(按摩)の位は、衆分(平按摩)→座頭→匂頭→別当→検校→総検校の順で、検校の位を得るには千両の金が必要でした。

衆分(平按摩)は上納金がまったく払えない者のこと。

「一」や「城」の名を名乗り、公式にはもみ療治、鍼医、琵琶法師などの営業を許可されませんでした。

座頭になって初めて最下級の位がもらえ、「一」か「城」の名を付けることができます。

勝新太郎やビートたけしの「座頭市」は厳密には誤りです。「座頭一」でなければならないわけ。

検校に出世すると、紫衣を着て撞木杖を持ち、高利貸などを営むことを許されました。

総検校  【RIZAP COOK】

検校の上が総検校です。

江戸中期までは、総検校は京都にいましたが、元禄6年(1693)に鍼医はりいの検校杉山和一わいち(1610-94)が五代将軍綱吉(1646-1709)の病を治したほうびに、総検校の位と、本所に屋敷を拝領。

検校から衆分(平按摩)まで、すべての盲人の支配権を握りました。この時が、総録屋敷の始まりです。

官位のための上納金は「三味線栗毛」にも出てくるように、座頭が十両、匂頭で百両、検校で千両でした。

それらの上に立つ総検校は、十万石の大名と同等の格式があったそうです。

江戸の総検校→京都の公家・久我こが家→京都の総検校の順に上納金が渡り、それぞれで中間搾取される仕組みになっていたわけです。

神道者については「人形買い」をご参照ください。

兼安  【RIZAP COOK】

本郷は二、三丁目までは江戸御府内、四丁目から先は郡部とされていました。

本郷三丁目の四丁目ギリギリにある兼安小間物店は、売り物の赤い歯磨き粉と堀部安兵衛自筆とされる看板で、界隈の名物でした。現在も健在です。

【語の読みと注】
兼安 かねやす
検校 けんぎょう
座頭 ざとう
匂頭 こうとう
片撞木 かたしゅもく
衆分 しゅうぶん
神道者 しんとうしゃ しんとうじゃ しんどうじゃ

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はやしながや【囃子長屋】落語演目

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【どんな?】

人心をかき立てる祭りにちなんだ噺。
あらすじじゃつまらない。

【あらすじ】

ころは明治。

本所林町のある長屋、大家が祭り囃子大好きなので、人呼んで「囃子長屋」。

なにしろこの大家、十五の歳からあちらこちらの祭で、頼まれて太鼓をたたき、そのご祝儀がたまりにたまって長屋が建ったと自慢話しているくらい。

自然に囃子好きの人間しか越してこず、年がら年中長屋中で囃子の話をしているほど。

大家の自慢は、この名が矢に越してくる人は、商人なら表通りに見世を出す、大工なら棟梁になるという具合に、みな出世すること。

神田祭が近づいたある日。

ここ七日間も囃子の練習と称して家に帰っていない八五郎が、大家と祭り談義をしている。

「昔の(江戸時代の)祭りはりっぱだった。今と心がけが違う。江戸を繁華な町にするために、町民からは税金を取らなかった。その代わり、にぎやかな祭りをやって将軍家を喜ばせようという……丸の内に将軍家の上覧場があって」
と、大家の回想は尽きない。

「山車を引き出して、ご上覧場へ繰り込む時は屋台だ。スケテンテンテン、ステンガテンスケテケテン」

囃子の口まねをすると、止まらない。

「踊りの間は鎌倉。ヒャイトーロ、ヒャトヒャララ、チャンドンドンチャンドドドチャン……スケテンテンテンテテツクツ」
「くたびれるでしょう」
「大きなお世話だ。祭りの話になると、口まねでも一囃子やらなきゃ、気がすまねえ」

すっかり当てられて家に帰った八五郎だが、かみさんが
「いやんなっちまう。文明開化の明治ですよ。古くさい祭り囃子のけいこするなんてトンチキはいませんよ」
と腹立ちまぎれに神聖な祭りを侮辱したから、さあ納まらない。

「亭主をつかまえてトンチキとはなんだ。てめえはドンツクだ」
「何を言ってやがる。ドンチキメ、トンチキメ」

「何をッ」
と十能を振り上げ
「ドンツクドンツクメ、ドンドンドロツク、ドンツクメ」

せがれが
「父ちゃん、あぶない。七厘につまずくと火事になるよ。父ちゃんちゃん、七輪。チャンシチリン、チャンシチリン」
「トンチキメトンチキメ、トントントロチキトンチキメ」
「ドンツクメドンツクメ、ドンドンドロツクドンツクメ」

これを聞いた大家、
「ありがてえ、祭りが近づくと夫婦喧嘩まで囃子だ」
とご満悦。

トンチキメトンチキメ、ドンツクドンツクと太鼓も囃子もそろっているから、ひとつこっちは笛で仲裁してやろうと、障子を開けて
「まあいいやったら、まあいいやッ、マアイーマアイーマアイイヤッ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今輔二代の十八番  【RIZAP COOK】

噺の内容から、明治初期に創作(または改作)されたことは間違いありません。

原話はもちろん作者、江戸時代に先行作があったかどうかなど、詳しい出自はまったくわかっていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から「代地の今輔」と呼ばれ、音曲噺が得意だった三代目古今亭今輔(1869-1924)が継承して十八番にしました。

三代目今輔は、三代目小さんの預かり弟子でした。

その没後、しばらく途絶えていたのを、若き日に三代目小さんに師事した五代目今輔(鈴木五郎、1898-1976)が、昭和16年(1941)の襲名時に復活。

以来、没するまで、しばしば高座に掛けました。

この人こそ新作派の闘将。

「ラーメン屋」「青空おばあさん」などの創作落語で一世を風靡しました。

独特のだみ声、味がありました。

本所林町  【RIZAP COOK】

墨田区立川一~三丁目。「正直清兵衛」にも登場しました。

むろんこの噺では「囃子」と掛けたダジャレです。

歌舞伎の囃子方の控室を「囃子町」と呼び、さらに囃子そのものも指すようになりました。ただし、本所の方が「はやしちょう」なのに対し、芝居のそれは「はやしまち」と読みます。

神田囃子  【RIZAP COOK】

宝暦13年(1763)、軽快なテンポの葛西のばか囃子が山王祭に登場してから、しばらくはその「チャンチキチン」のリズムが江戸の祭を席巻。

のち、それをより都会的に洗練した「スッテンテレツクツ」の神田囃子が生まれました。

「宿屋の仇討」で仲間二人が「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛」と囃したてるのがそれです。

歌舞伎十八番「暫」  【RIZAP COOK】

「腹出し」の敵役四人が鎌倉権五郎を撃退しようと押し出すとき、

天王さまは囃すがお好き、ワイワイと囃せ、ワイワイと囃せ

と「合唱」するおかしげな場面は、神田囃子を当て込んだものです。

神田祭  【RIZAP COOK】

山王祭と並んで「天下祭」と呼ばれ、山車は江戸城内までくり込むことを許されました。

延宝年間(1673-81)に幕府の命により、両者交互に本祭、陰祭を隔年に行うようになりました。

神田祭は、旧幕時代は陰暦9月15日、現在は5月12-16日です。

夫婦げんかはお神楽で  【RIZAP COOK】

五代目今輔は『聞書き 五代目古今亭今輔』(山口正二著、青蛙房、1979年)の解説で、この噺は六代目橘家円太郎(鈴木定太郎、1861-?)に教わった、と語っています。

さらに、自分の祭囃子は鏡味小松から習ったため、神田囃子で通した先々代(三代目)や円太郎と違って太神楽になっている、と断っています。

もっとも、太神楽は江戸時代から現在まで神田祭には先触れとして参加していますから調子がお神楽でも、いっこうに不自然ではないでしょう。

太神楽の祭囃子は「打ち込み」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「返り屋台」と続きます。

こちらは、神田囃子より一時代前の葛西囃子の系統を引いているとか。

六代目円太郎は音曲師でしたが、昭和初期には落ちぶれて消息不明に。

円太郎の始まりは初代橘屋円太郎(出淵長蔵、?-1879)です。

円朝の実父で、二代目三遊亭円生(尾形清治郎、1806-62)の弟子で最初は噺をやっていたのですが、音曲師に。

そのせいか、円太郎を継ぐ人は音曲を技とする人が輩出しています。

四代目は「ラッパの円太郎」と呼ばれ、明治の珍芸四天王の一人です。

伊藤整が『日本文壇史』第1巻で、円朝の父親をこのラッパの円太郎に取り違えて記しています。

その間違いを知りながらも永井啓夫は、生前の伊藤に言えずじまいだったと悔いたそぶりを、なにかに抒情的に記していました。

伊藤のこの大作は、文芸誌「群像」(講談社)に昭和27年(1952)から連載が始まったものです。

ただ、資料を渉猟したのは講談社の編集者たちで、伊藤はそれを書斎で読みつつつむいでいったという、わりとらくちん仕事でした。

小樽出身の、とても落語好きとは思えない伊藤整には、初代橘屋円太郎も四代目橘家円太郎も区別がつかなかったのでしょう。

まあ、素人の伊藤がまちがえたのは詮ないこととしても、落語研究のプロである永井が公に指摘しなかったのはちょっとした罪だったかもしれません。

伊藤に言う勇気がなかったのなら、せめて講談社の編集部に一報すべきだったのではないでしょうか。

そのせいで、いまだに直ってはいないのですから。講談社もずいぶんです。

さてと。

したがって、今輔がこの人六代目円太郎に神田囃子を教わったとすれば、大正から昭和の始めのあたり、今輔が四代目柳家小山三(1919年3月-31年12月)だったころのことでしょう。

【語の読みと注】
山車 だし
暫 しばらく



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ぶしょうどこ【無精床】落語演目



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【どんな?】

髪結い床が舞台。こんな店があったら、行ってみたいもんです。怖いもの見たさで。

別題:ずぼら床屋  無性床

【あらすじ】

「無精床」と異名をとる髪結い床の親方。

大変にズボラな上、客を客と思わないので、誰も相手にせず、いつも店はガラガラ。

なにも知らず、空いてるからいいと迷い込んできた不運な客、元結いを切ってくれと言えば
「自分でほどきねえな。てめえでできるこたァ、てめえでやれ」

頭を湿すのに湯をくれと頼む。

「頭ァしめすゥゥ? 水でたくだんだい。うちじゃ、水のねえときは唾だ」
「きたねえな。水はどこだい?」
「自分で探しねえ」

隅にたががはじけた汚い樽があったが、中は苔で青々。水はボウフラがわいている。

親方が、きれいな水がよかったら横町の井戸で汲んでこいと言うので、小僧を頼もうとすると
「うちの小僧は水汲みに置いてるんじゃねえ。自分で汲んでこい」

「権助じゃねえや」
とぼやいて、泣く泣く樽の水で湿す。

その上、
「おい、小僧。生きた頭につかまりな」
と、焙烙のケツと、親方の向こう脛の毛しかやったことのない、十歳の小僧の稽古台にされてしまう。

小僧が高下駄をはいて剃刀を振り回すので、生きた心地がない。

痛いと思ったら、下駄の歯を削って、あがった(ナマクラ)剃刀。

飴屋が来るとよそ見し、しまいには居眠りするので、親方が怒ってポカリ。

「おい、親方、オレの頭だ」
「向こうまで手がとどかねえから、おまえで間に合わせた」

なんだかえらくしみるので、頭に手をやると
「あー、血がでてきたッ。どうしてくれる」
「小僧、紙と糊を持ってこいッ」
「どうすんだい?」
「張っとくんだ」

そのとき、入ってきた犬を親方が追い払おうとするので、わけを聞くと
「オレがこの前、よそ見して客の耳を片っぽ落っことすと、こいつが入ってきてペロっと食っちまった。それから人間の耳はうめえって考えやがったか、いつもよだれ垂らして入ってきやがる。おまえさん、かわいそうだから、片っぽおやり」

【しりたい】

大看板も好んだ噺  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、古い江戸落語です。

かなり暴力的でサディスティックなので、よほど愛嬌たっぷりに演じないと、現代では反感を買うかもしれません。

戦前は、初代柳家権太楼が「ずぼら床屋」の演題で得意にしていました。

権太楼は昭和初期の爆笑王といわれていました。

七代目林家正蔵の昭和5年(1930)のレコードも残っています。

当時36歳。当代より若いのですが、テンポ軽快、円転洒脱。何事も精進が肝心です。

先代三平もやっていました。親父譲りですね。

戦後は、五代目古今亭志ん生のがなんといっても秀逸。六代目円生、五代目小さんも「逃げ噺」的に重宝に演じました。

オチは、円生と小さんは血が出たところで切り、「冗談じゃねえ。どれくれえ切った」「なに、縫うほどじゃねえ」としています。

大江戸のスウィーニー・トッドたち  【RIZAP COOK】

客の耳まで斬り落とすとなると、かの有名なロンドンの殺人狂理髪師並みですが、それほどでなくとも「営業停止処分」の店はまだこんなに。

床屋の失敗噺はほかに「片側町」と「根上がり」があります。

前者は、芝居好きの親方が、立ち回りのつもりで剃刀を振り回し、客の片鬢を剃り落とします。

これでは表が歩けないと怒ると、「当分片側町(路の片側だけ町屋になっている)をお歩きなさい」

オチるもので、短いので「無精床」とオムニバスでつなげて演じることもあります。

後者の「根上がり」の親方は音曲、特に二上がり新内の熱狂的なオタク。

これだけでオチはわかったようなもの。

二上がり新内をうなりつつ髪を結い上げ、後で客が鏡を見ると、まげの根元が上に上がり、はけ先が前にブラブラ。

「へい、根上がり(=二上がり)でございます」

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

無精が集まって無精会を作ろうと誰かが提案すると、「うーん、よそうじゃねえか。面倒くせえ」

ごもっともです。これは三代目桂三木助も「長短」のマクラに使っていました。

火事を消すのが面倒で、焼け死んだ親子。地獄で閻魔に、今度は獣に生まれ変わらせると言われ、親父が、全身真っ黒で鼻の頭だけ白い猫になりたいと希望。

なぜかってえと、「鼻をおマンマ粒と思ってネズミが食いにくるとこを、寝てェてこっちが食う」

両国名物「並び床」  【RIZAP COOK】

髪結い床については、くわしくは「浮世床」をお読みください。

なお、江戸時代には両国に「並び床」というのがあり、土地の名物になっていました。

バラックのような、客一人しか入れない狭い店が何軒も並んでいたもので、昼間のみの営業でした。

案外この噺の床屋も、そうした並び床の一軒かも。

江戸の床屋が頭をあたる光景は、今も歌舞伎世話狂言「髪結新三」の序幕で、リアルに再現されます。

「髪結い」は「かみい」と発音します。

床屋が西洋式理髪店に変わった明治期にも、下町では「かみどこ」と呼んでいました。

月代  【RIZAP COOK】

さかやき。外国人が日本人と接したとき、いちばん奇妙に映ったものはこれだったんじゃないでしょうか。

成人男性が前額部を除毛する慣習。

もとは、冠や烏帽子を四六時中かぶっていることから生じた合理的な風俗といえるでしょう。

はじまりは、暑い季節に兜なんかをかぶっていると、熱が頭部にこもって具合が悪いので、放熱のために髪を剃ったということです。

江戸時代になると、支配者階級のこの風習が町民や百姓にも伝播していったのです。

貴族でもないのにネクタイをする風習のようなものでしょうか。

月形に剃ったので「月代」という漢字で当てたといわれていますが、そればかりではありません。

逆明、冠明、境毛、逆気、栄気など、さまざまな表記がありました。

この噺でわかりにくいのは、「頭を湿す」ということ。

「頭を揉む」ともいうそうですが、床屋のおやじが肌に剃刀を当てると肌が荒れて痛いので、剃られる前に、客たちが腰高のたらいに汲んだお湯で頭皮をやわらげるのが、髪結い床での常識だった、ということです。

これがあらかじめわかっていれば、この噺はおもしろくなりますね。

なんと不衛生な床屋だということで。

【語の読みと注】
髪結 かみい
焙烙 ほうろく
向こう脛 むこうずね
月代 さかやき



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ひとつあな【一つ穴】落語演目

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【どんな?】

主人と細君、権妻、権助の登場する噺。

古い江戸落語です。

【あらすじ】

ある金持ちのだんな。

ケチな上に口が悪いので、奉公人には評判がよろしくない。

そのだんなにお決まりで、外に女ができたという噂。

お内儀さんは心穏やかでない。

飯炊きの権助を五十銭で口説き落とし、今度だんなが夜外出するとき、跡をつけて女の所在と素性を突き止めてくるよう、言いつける。

まもなく、二、三日ぶりに帰宅しただんなが、また本所の知人宅へ出かけると言いだした。

さああやしいと、細君は強引に権助をお供に押しつける。

だんなが途中でうまく言い繕い、帰そうとする。

権助は
「人間は老少不定、いつどこで行き倒れになるかわからねえ」
などと屁理屈をこね、どこまでもついてくる。

ところがその権助の姿がふいに見えなくなったので、だんなは安心して、両国の広小路から、本所とは反対方向に清澄通りを左折していく……。

巻かれたふりをして、こっそり尾行する権助に気づかず、だんなは、大橋という大きな茶屋の横町を曲がり、角から二軒目で抜け裏のある、格子造りの小粋な家に入っていった。

権助が黒塀の節穴からのぞくと、二十一、二で色白のいい女。

だんながでれでれになり、細君の顔を見ると飯を食うのもイヤだの、ウチの飯炊きのツラは鍋のケツだのと、言いたい放題のあげ句、昼間だというのにぴしゃっと障子を閉めてしまったのを見て、権助はカンカン。

さっそく、ご本宅に駆け込んで、ご注進に及んだ。

もちろん、お内儀さんも権助以上にカンカン。

現場を押さえるため、今すぐに先方に乗り込むと息巻く。

権助はさすがに心配になったが、下手に止めるとおまえも一つ穴の狐だと言われ、しかたなくお供をして妾宅に乗り込んでいく。

一方、こちらはだんな。

一杯機嫌でグウグウ寝込んでいるところへ、お妾さんの金切り声でたたき起こされる。

寝ぼけ眼でひょいと枕元を見上げると、紛れもない細君が恨めしそうな顔でにらんでいるので仰天したが、もう後の祭り。

初めはしどろもどろ言い訳し、なんとかこの場を逃れようとするが、お内儀は聞かばこそ。

ネチネチと嫌みを言うので、しまいにはこちらの方も頭にきて、居直った挙げ句、ポカリとやったから、さあ大変。

大げんかになる。

見かねて仲裁に権助が飛び込んできたからだんな、ますます怒って、
「てめえは裏切り者だ、犬畜生だ」
と、ののしる。

こうなると、売り言葉に買い言葉。

「おらあ国に帰ると、天下のお百姓だ。どこが犬だ」
「なにを言いやがる。あっちでもこっちでも尻尾ォ振ってるから犬だ」
「ああそれで、おめえは犬といい、おかみさんは一つ穴の狐だと言った」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今は昔、名人綺羅星のごと 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末にはもう口演されていた生粋の江戸噺。

ことわざからでっちあげられた噺は、ほかには「大どこの犬」「長崎の強飯」「みいらとり」くらいで、案外、あるようでないものです。

この噺、古い速記がやたらに多く、明治28年(1895)12月の四代目橘家円喬を始め、四代目円蔵、初代円右、二代目小円朝と、明治・大正の名人がずらり。

昭和から戦後でも、八代目桂文治、八代目春風亭柳枝、六代目三遊亭円生が得意にしましたが、今は見る影もなし。

わずかに、柳枝、円生両人に師事した三遊亭円窓、本法寺で禁演落語の会を開いていた「ロイド眼鏡の円遊」くらいでしょうか。

噺にも、はやりすたりがあるということでしょう。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

円生は、この噺のカンどころとして、権助が塀から濡れ場を覗いて独白するくだりを挙げ、「向こうの言っている言葉を、いちいち復唱するように」と芸談を残している通り、描写が写実的で詳細でした。

そういえば、お内儀が権助に、だんなの尾行を強要する前半部は「権助魚」「悋気の独楽」などと共通しているので、噺として独自色を出すためには、後半の濃密なエロ描写を眼目にするほかないのでしょう。

円喬以来、演出はさほど変わっていませんが、二代目小円朝のように、発端部分をばっさり切って、権助が帰ってきた場面から入る演者もありました。

名誉の禁演落語  【RIZAP COOK】

当然ながらこの噺、戦時中の「禁演落語」の内で、昭和16年(1941)10月30日、浅草・本法寺の噺塚に「祭られた」栄えある53演目の一つ(穴?)です。

もっとも、これほど濃密なエロ具合では、禁演になる以前に、昭和10年代には「問題外」だったでしょうね。

一つ穴の狐  【RIZAP COOK】

もはや死語と言っていいでしょう。現在は「同じ穴のむじな」として、辛うじて生き残っている慣用句です。

同腹、同類、共謀者を指す古い江戸ことばですが、動物が替わって「一つ穴の古狸」「一つ穴のむじな」となる場合もあり、いずれも意味は同じです。

これらは、巣穴を掘る習性のあることと、古くから人を化かすといわれるのが共通点です。

「一つ」にも、独立して同じ共犯の意味があり、歌舞伎でよく「○○と一つでない証拠をお目にかけん」などと力んで、腹に刀を突き立てたりします。

【語の読みと注】

お内儀 おかみ
大橋 たいきょう
妾宅 しょうたく

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さなだこぞう【真田小僧】落語演目



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【どんな?】

悪ガキの話題を。このがき、こすからくこざかしげなやつです。

別題:六文銭

あらすじ

ああ言えばこう言うで、親をへこましてばかりの子供。

今日もおとっつぁんに小遣いをせびり、ダメだと言われると、隣の吉兵衛さんがおとっつぁんの留守に家に上がり込んで、おっかさんと差し向かいで……と気を持たせる話をするので、おやじはついつい気になり、話がとぎれる度に、もう一銭、もう一銭と情報量を追加で取られた上、オチは
「おならをしました」。

子供が逃げていってしまうと、夫婦で、
「末恐ろしいガキだ、今に盗賊になるかもしれない」
と嘆くこと、しきり。

「それに引き換え、あの真田幸村公は、栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳し、十四歳の時、父真幸に付いて、天目山の戦いに初陣、多勢に取り囲まれて真幸が切腹の覚悟をした時、せがれの幸村が、自分に策がありますと申し出て、敵の松田尾張守の旗印である永楽通宝の六文銭の旗を立てて、敵陣に夜襲をかけ、混乱させて同士討ちを誘い、見事に勝利を納めた。それ以来、真田の定紋は二ツ雁から六文銭になった」
という故事をおやじがおふくろに話し、
「あんな奴は幸村どころか、よくいって石川五右衛門だ」
と言っているところへ若さまがご帰城。

いつの間にか盗み聞きしていて、
「おとっつぁん、六文銭ってどんな紋?」
「うるせえガキだ。いいか、こういうふうに二列に並んでいるんだ」
「あたいにもちょっと貸して」

銭を数えるふりをして
「わーい、もーらった、もらった」
とかすめ取って逃げていく。

「あっ、また親をだましぁあがった。やい、それを持ってどこへ行くんだ」
「今度は焼きイモを買ってくるんだ」
「うーん、ウチの真田も薩摩へ落ちたか」

底本:三代目柳家小さん

しりたい

巨匠が愛した悪童ばなし

上方落語の「六文銭」を、おそらく三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に移したもので、筋や演出は、東西ともほぼ同じです。

作中の大坂夏の陣の逸話は、大坂で人気のあった講釈演目の「難波戦記なにわせんき」から。

当然この噺も、それにこじつけられてつくられたと思われます。

前座噺に近い扱いですが、それでも明治期では三代目小さん、その門下の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)、先の大戦後では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)ほか、意外に超大物が好んで手掛けています。

シャレにならない仕方噺

この噺では、子供のこすからさが相当なものなので、昔は眉をひそめる識者もいたとか。それでも、一心に自分に尽くしてくれる継母をいびりにいびり抜く「双蝶々」の長吉などに比べれば、かわいいものです。

前半の、隣のおやじに、母親の不倫をにおわせる仕方噺(シャレになりません!)で気をもたせ、金をせびり取るくだりは、「アンマさんでした!」と逃げるやり方もあります。

焼きイモ事始

江戸市中に初めて焼き芋屋が現れたのは寛政12年(1800)のことで、神田弁慶橋東の甚兵衛橋際で、初めて売り出されました。

甘藷かんしょ(サツマイモの原種)が小石川農園で試験的に植えられたのは、その65年前の享保20年(1735)3月。江戸ではまず、間食用として蒸しイモで売られました。

ウチの真田も

オチの「ウチの真田も薩摩へ落ちたか」は、豊臣秀頼が大坂城で自害せず、真田幸村ともども薩摩に落ちのびたという伝説を採り入れたものです。

ただし、講釈の「難波戦記」では、史実通り、秀頼はじめ大坂方はすべて戦死します。



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なかざわどうに【中沢道二】落語演目 

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【どんな?】

全編これ心学しんがく。今はすたれたべたべたのご教訓も落語で聴いてみると味わいあります。

あらすじ

江戸名物に「火事とけんかとちゅうぱら」とあるぐらい、江戸の職人は短気で、縁日などで足を踏んだ踏まれたで始終けんかばかりしている。

これを伝え聞き、少しは気を和らげてやりたいと、中沢道二という心学の先生が、はるばると京から下向してきた。

中橋なかばし寒菊かんぎくという貸席かしせきを道場に借り、「木戸銭、中銭、一切なし」というビラをまいたので、物見高い江戸者のこと、なかには、京都の田楽屋でんがくやが開店祝いにタダで食わせると勘違いする輩もいて、我も我もと押しかける。

下足番の爺さんに
「おまえさんとこの田楽はうまいかい?」
と早くも舌なめずり。

「手前どもの先生は、田楽じゃござんせん。心学でござんす」
「へえ、おい、田楽は売り切れちまって、しぎ焼きになっちまったとよ」

なんでも食えれば、後はそば屋で口直ししようと、二階へ通る。

当然、なにも食わせない。

高座へ上がってきた、頭がピカピカ光って十徳を着込んだ道二先生、ていねいにおじぎをして講義にとりかかる。

金平糖こんぺいとうの壺へ手を突っ込んで抜けなくなり、高価な壺だがしかたがないと割ってみたら、金平糖を手にいっぱい握っていたという話や、手と足が喧嘩して足がぶたれ、
「覚えてろよ。今度湯ィ入ったら、てめえに洗わせる」
という、落とし噺などで雰囲気を和らげ、本来の儒教の道徳を説こうとするが、おもしろくもなんともないので、みんな腹ぺこのまま、ぶうぶう言って帰ってしまう。

一人残された道二先生、
「どうしてこうも江戸っ子は気が短いのか」
と嘆いていると、客席にたった一人もじもじしながら残っている職人がいた。

先生喜んで
「あなたさま、年がお若いのに恐れ入りました。未熟なる私の心学が、おわかりですか」
「てやんでえ、しびれが切れて立てねえんだい」

【RIZAP COOK】

しりたい

中沢道二  【RIZAP COOK】

なかざわどうに。享保10年(1725)-享和3年(1803)、江戸中期、後期に活躍した人です。京都、西陣織元の家の出身。

40歳頃に手島堵庵てじまとあんに師事し、石門心学せきもんしんがくを修め、安永8年(1779)、江戸にくだって日本橋塩町に「参前舎さんぜんしゃ」という心学道場を開き、その普及に努めました。

手島は石門心学の祖、石田梅岩いしだばいがんの弟子です。ということは、中沢は石田梅岩の孫弟子。

のちに老中松平定信まつだいらさだのぶの後援を受け、全国に道場を建設、わかりやすい表現で天地の自然の理を説きました。

心学については「天災」のその項をお読みください。

実話を基に創作  【RIZAP COOK】

この噺は中沢道二の逸話を基に作ったとみられます。

本来は短いマクラ噺で、ここから「二十四孝」や「天災」につなげることが多くなっています。一席にして演じたのは八代目林家正蔵(彦六)くらいでしょう。

【語の読みと注】
中っ腹 ちゅうっぱら:むかむか。いらいら
鴫焼き しぎやき:ナスのみそ田楽の別名

【RIZAP COOK】

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だいみゃく【代脈】落語演目

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【どんな?】

寄席草創期の古い噺。昨今のパンデミック風潮に好機の医療ものかも。

【あらすじ】

江戸中橋の古法家である尾台良玄は名医として知られていた。

弟子の銀南は師に似つかわぬ愚者で色情者。

ある日のこと。

良玄が、病に伏せている蔵前の大店、伊勢屋のお嬢さまのもとに代脈に行くよう、銀南に命じた。

銀南は、代脈を材木と聞き違え
「かついでまいりますか、しょってまいりますか」
と尋ねるほどのまぬけぶり。

良玄「この間のこと、お嬢さまはどういう具合かひどく下っ腹が堅くなっておった。しきりに腹をさすって、下腹をひとつグウと押すと、なにしろ年が十七で」
銀南「へえ」
良玄「プイとおならをなすった。お嬢さまがみるみるうちに顔が赤くなって恥ずかしそうだ。そこは医者のとんちだ。そばの母親に『陽気のかげんか年のせいで、この四、五日のぼせて、わしは耳が遠くなっていかんから、おっしゃることはなるたけ大きな声でいってくださいまし』と話しかけて、お嬢さまを安心させた。そんなことにならぬよう、下腹などさわるでないぞ」

良玄は十分に注意を与え、銀南を若先生ということにして、代脈に行かせた。

銀南は伊勢屋でしくじりを重ねたあげく、手、舌などを見る。

しまいには、お嬢さまの下腹を押してしまう。

「プイッ」

お嬢さまが、みるみる赤い顔に。

銀南は良玄をまねて
「どうも年のせいか四、五日耳が遠くなって」
とやったはいいが、手代に
「大先生も二、三日前にお耳が遠いとおっしゃってましたが、若先生も」
といわれ、銀南は
「いけないとも。ちっとも聞こえない。いまのおならさえ聞こえなかった」

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【うんちく】

大看板好み与太郎噺 【RIZAP COOK】

文化年間(1804-18)、寄席の草創期から口演されてきたらしい、古い噺です。

銀南は医者見習いというものの、実態は与太郎そのもの。

昔から、ごく軽い与太郎物として扱われ、前座・二つ目の修行噺でもあるのですが、受けるネタだからか、大看板も多く好み、現在もよく高座に掛けられます。

古くは、明治45年(1912)の四代目柳家小三治(のち二代目柳家つばめ)や初代柳家小せんの速記があります。

戦後では、六代目三遊亭円生、五代目柳家小さんの大立者が音源を残しています。

昭和56年(1981)4月、文京区千石にあった三百人劇場での「志ん朝七夜」で演じた「代脈」は圧倒的な技量でした。

もちろん、古今亭志ん朝のこと。どの師匠のよりも、吹っ切れた明るさとスピード感、冴えた舌耕で、客席を笑いの渦に巻き込んでいました。

実話、屁の功名 【RIZAP COOK】

後半の屁の部分の原話は、室町後期の名医、曲直瀬道三まなせどうさん(1507-94)の逸話を脚色した寛文2年(1662)刊『為愚癡物語いぐちものがたり』巻三の「翠竹道三物語りの事」、さらにそれを笑話化した元禄10年(1697)刊『露鹿懸合咄つゆとしかかけあいばなし』巻二の「祝言」です。

後者は、道三がさるうつ病の姫君を診察した際、姫が一発やらかしたので、音が自分の耳に入ったと知ればいよいよ落ち込んで薬効もなくなると機転を利かせ、耳が遠くなったので筆談で症状を言うように仕向けて見事精神的ケアに成功、本復させたというものです。

良玄の自慢話そのものですが、してみると、これは実話を基にしていることになります。

銀南が代脈に行かされる前半の原話は、安永2年(1773)刊『聞上手』二編中の「代脈」です。

これは、あらすじでは略しましたが、銀南が駕籠の中で寝込んでいるところを、病家の門口で駕籠屋に起こされ、寝ぼけて「ドーレ」と言うくすぐりがあり、その部分のほぼそのままの原型です。

古法家 【RIZAP COOK】

概して漢方医のことですが、特に、漢や隋代の古い医学書に基づいて治療を行う、保守的な学派の医者を指します。

これに対し、元代に起こった、比較的新しい漢方医学を標榜する医者を後世家と呼びました。

中橋 【RIZAP COOK】

いまの東京駅八重洲中央口あたりです。昔はこのあたりに楓川かえでがわ掘割ほりわりがあり、日本橋の大通りと交差するところに中橋が架かっていました。

掘割が安永3年(1774)に埋め立てられると同時に橋も廃され、一帯の埋立地に中橋広小路町が形成されました。

中橋の橋詰は、寛永元年(1624)、猿若勘三郎が初めて芝居の興行を許された、江戸歌舞伎発祥の地でもあります。

【語の読みと注】
古法家 こほうか:漢方医
曲直瀬道三 まなせどうさん
後世家 こうせいか

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