【蚤のかっぽれ】のみのかっぽれ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
蚤がかっぽれを踊る、という珍品です。
別題:蚤の歌
【あらすじ】
年中馬の足ばかりやっている、下回り役者の家。
畳の隅っこを、蚤の母子がおそるおそる這いずっている。
おっかさんは元気いっぱいのせがれに手こずり、あのナフタリンという白い玉は毒ガスのようなもので、
「匂いをかぐと脳貧血を起こして死んでしまうから近づくんじゃないよ」
と、注意しているところ。
そこへ、この家の主人が、ご機嫌でかっぽれを踊って、帰宅。
「沖の暗あいのォに白帆が見える。あれは紀伊の国、エーヤレコレオッコレワイサノサ、みィかん船ェ」
蚤のせがれ、見ていておもしろくなり、まねして、ピョンピョンかっぽれを踊り出す。
母蚤はあわてて、あの男はおとうちゃんを親指でつぶして殺した。おまえには親の仇だと言うが、せがれは、もう上の空。
おっかさんの止めるのも聞かず、近くで見物しながら仇討ちにたっぷりと血を吸ってきてやると、畳の上に飛び出した。
「あ、かっぽれかっぽれ、甘茶でかっぽれ」と、男は夢中。
やっと毛脛に取りついたが、足を取られてうまく血が吸えない。
そこで背中に回り、着物の縫い目にしがみつく。
ところが、そのうち男が、どうもシラフでは調子が出ないと、一杯ひっかけに出かけたものだから、蚤のせがれ、逃げ出すこともできず、ベソをかいたまま、居酒屋まで運ばれていく。
こうなったら、覚悟を決めるしかしかたがない。
親の仇が腰を据えてチビリチビリやり出したので、こっちもかっぽれがまた始まるまでチビチビやろうと、縫い目からノソノソ這い出し、背中を歩き回ったから、男はたまらない。
肌脱ぎになって着物を振ったので、たちまち見つかって捕虜になってしまった。
「さあ、ちくしょう、いやがった。恐ろしく小せえ奴だ。さんざっぱらオレの血を吸いやがって。握りつぶすから、そう思え」
「おじさん、かんべんしてよ」
「なんだ、そのおじさんてえのは」
そこで蚤のせがれ、大熱演で命乞い。
おふくろが心配するからと泣き落とし、おまえんちにいるんだから家族の一員、血液型も同じだとやってみたが、まるで効果なし。
そこで、かっぽれを踊れると言うと
「そいつは珍しい。そんな蚤なら銭もうけになるから殺さねえ。踊ってみろ」
「おじさん、一杯ひっかけなくちゃ踊れないよ」
「蚤にしちゃ、粋な野郎だ」
盃をやり取りしているうちに、人間も蚤もすっかりでき上がり、いっしょに
「沖ィのくらいのォにアヨイヨイヨイヨイヨイ」
「うーん、うめえもんだ。小束にからげてちょいと投げたァ……おい、合いの手はどうした。おい、蚤の小僧……しまった、ノミ逃げされたか」
【しりたい】
にわかに蘇った「骨董品」 【RIZAP COOK】
原話は不詳で、本来はマクラ噺でした。
「蚤の歌」と題するときは、のみがかっぽれの代わりに歌を歌い、オチは、
「歌が聞こえなくなったと思ったら、ノミがノミつぶれだ」
と、やはりダジャレで落とします。
「かっぽれ」が滅びつつある現在、まったく演じ手はない……と思いきや、ベテランの吉窓、馬桜をさきがけに、最近、やたらに若手がやり始めたようです。
これは、古今亭志ん朝が八代目雷門助六(1907-91)から教わった住吉踊りはじめ俗曲の数々を、寄席の芸人に呼びかけて大々的かつ定期的に踊っていました。
重鎮の金馬も円菊も参加していました。これが功を奏して、住吉踊りやかっぽれはいまに生き残ったのです。
助六は、寄席での噺を早めに済ませて残りの時間で踊っていました。
「あやつり踊り」「松づくし」「人形ばなし(二人羽織)」「住吉踊り」「かっぽれ」など。粋な芸人さんでした。
甘茶でかっぽれ梅坊主 【RIZAP COOK】
かっぽれは俗曲で、ルーツをたどれば大坂・住吉大社(海がらみの神社)が発祥の「住吉踊り」です。
住吉大社の神宮寺の僧侶たちの発案だったとか。
明治の前までは、大きな神社には神宮寺という寺院が併設されていました。
神社に所属する僧侶を「社僧」「社家僧」と呼んだりしていました。
仏教と神道が混淆している状態。
前近代の日本はなんでもありのごちゃまぜ文化、その実態を知れば知るほど、日本で繰り広げられている文化には驚かなくなるものです。
神宮寺の僧侶とはいっても、限りなく願人坊主に近い格下の坊さん連中だったのかもしれません。
踊りには必ず「クドキ」(口説き、説教に近い形態)と卑猥な振り付けがあったそうです。
それがこの手の踊りの特徴です。
気取って舞うようなものではなかったのでしょう。
それこそが芸態の原初の形だったのでしょう。
上方では「やあとこせ」、江戸に伝わってからは「やあとこさ」と呼ばれていました。
現在使われている、「かっぽれかっぽれ、沖の暗いのに白帆が見える……」の詞章は、江戸にみかんを運んだ紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたといいます。
かっぽれは「活惚れ」と書き、江戸ことばで「かっぽれる」は、最高の称賛です。
ヒラキから寄席へ 【RIZAP COOK】
明治に入って、初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げました。
初代梅坊主(1854-1927)は、のちに「豊年斉」「太平坊」とも号し、大正末年まで活躍。
明治政府高官にも贔屓の多かった人物でした。多くの願人坊主が居住するのは神田橋本町(千代田区東神田)ですが、梅坊主も橋本町住まいでした。
この人は、寄席の形態を変えた人です。
明治初年には寄席とは別に「ヒラキ」という小屋風の簡易な寄席があちこちにありました。
お祭りの見世物小屋のような、あやうくておぼろげなものです。
寄席とヒラキは峻別されていたのですが、ヒラキのほうが人気があったことも多く、寄席側はヒラキの人気芸人を一本釣りして寄席に出入りさせました。
その代表格が梅坊主でした。この手の立体芸が寄席で演じられるようになりました。
劇壇のドン、意地のかっぽれ 【RIZAP COOK】
明治の劇聖にして劇壇の総帥、九代目市川団十郎が、高尚な活歴(歴史劇)ばかり演じるのを批判され、「かっぽれでも踊れ」と言われたことに反発。
河竹黙阿弥に「春霞月住吉」という常磐津舞踊を作ってもらい、梅坊主にも教えを受けて、その中で本式のかっぽれを踊ってみせました。
これが大好評。明治19年(1886)1月、新富座初演でした。
これは、明治初年、浅草仁王門前が舞台。官員の甘井官蔵が芸者連を引き連れて浅草見物に。
そこへ団十郎扮する大道芸人のかっぽれ升坊主が浴衣がけ、ねじり鉢巻き姿で登場。
住吉踊り、深川、かっぽれ、尻取り浄瑠璃、豊年踊りとにぎやかに、こっけいな所作をまじえて踊り分ける、という趣向です。
現在でも大幅カットの上、まれに上演されます。
【読みと語注】
這いずる:はいずる
親の仇:おやのかたき
毛脛:けずね
贔屓:ひいき
春霞月住吉:はるがすみつきもすみよし