おじゅんでんべえはやまわし【お順伝兵衛早回し】むだぐち ことば

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江戸時代、酒席でよく使われた洒落。「お順に早く盃を回しましょう」の意味で、浄瑠璃「近頃河原達引」の登場人物「お俊伝兵衛猿回し」をもじったもの。

通称「お俊伝兵衛」は天明2年(1782)ごろ初演で、井筒屋伝兵衛と京都先斗町の近江屋抱えの遊女お俊の心中と、猿回し与次郎の孝行物語をからませています。お俊の「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」の悲痛なセリフは有名で、明治大正までは誰もが知っていました。

昭和初期、衆議院議員の堀切善兵衛が代表質問に立ったとき、小声で聞き取れなかったので、すかさず議場から「そりゃ聞こえませぬ善兵衛さん」とヤジが飛んだという逸話があります。かつては政治家でも粋でした。

【語の読みと注】
近頃河原達引 ちかごろかわらのたっぴき

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おおしょうちのにゅうどう【大承知の入道】むだぐち ことば

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百も承知、と請け合う返事を洒落言葉にしたもの。「おお」は強調語。これはダジャレで、「法性寺の入道」と掛けたものです。

法性寺は、京都市東山区にある浄土宗西山禅林寺派の名刹。法性寺の入道とは、関白藤原忠通(1097-1164)のことで、出家後、この寺に住んだのでこう呼ばれました。

小倉百人一首の歌人の一人ですが、その作者名が「法性寺入道前関白太政大臣藤原忠通」と、百人中もっとも長ったらしいため、後年、やたら長い名前の代名詞になりました。「寿限無」と同じです。そのこととむだぐちとは特に関係なく、ただダジャレのために名前を借りられただけですね。

【語の読みと注】
法性寺の入道 ほっしょうじのにゅうどう ほうしょうじのにゅうどう

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おおいしかったきらまけた【大石勝った吉良負けた】むだぐち ことば

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なんのことはなく、「うまかった牛ゃ負けた」と同じ意味。「おいしかった」と大石内蔵助を掛け、大石が討ち入りで勝利したから「かった=勝った」。そこから敗者の吉良上野介を出したむだぐち。

ただもう一つ、「大石」から漬物石を効かせ、そこから香の物の異称である「きら」を出したというのは、うがち過ぎでしょうか。吉良家の官職の「こうずけ」から「香漬け」という洒落は、古くからありました。もっとも、大石も「昼行灯」で、仇討ちもできない腑抜けとばかにされていた頃は「大石軽うてはりぬき石」と陰口を叩かれていたのですが。

【語の読みと注】
はりぬき石 はりぬきいし:軽石

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おうらやまぶきひかげのもみじ【お浦山吹日陰の紅葉】むだぐち ことば

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「お羨ましい」と「浦(裏)山」を掛け、さらに「やまぶき」と、しりとりのように続けています。「浦山」は日陰の境涯の自分の象徴。最後の「日陰の紅葉」でそれを強調しています。

小判にも例えられる山吹の黄金色と、朽ちてくすんだ紅葉の紅の対比。落ち目のおのれに引き比べ、相手の華やかな人生を羨む愚痴です。

むだぐちなので、これは皮肉。取って付けたようなていねい語の「お」がそれを物語ります。現代でもよく見られますが、はぶりがよくなった同僚に「おい、おうやましいご身分だな。こちとら貧乏人に、少しお恵みいただけませんかね」など、毒を含んだ嘲りを浴びせる、あれですね。

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おいでおいでどじょうのかばやきおはちじる【おいでおいで泥鰌の蒲焼きお鉢汁】むだぐち ことば

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将棋のむだぐちの一つ。相手の指し手を受け、「どうぞどうぞいらっしゃい。すぐどじょうの蒲焼きにして食ってやるから」という挑発です。泥鰌は「三匹目の泥鰌はいない」という言い回しがあるくらい、「カモ」の代名詞。それと「どうぞ」を掛けたひどいだじゃれ。

「おいでおいで」はもともと、子供を手招きするときの言葉なので、それだけ嘲弄の度が強いということでしょう。「お鉢」は女房詞で飯櫃のこと。仕上げにどじょう汁にして煮てやるというだめ押しです。「お鉢が回る」で、「こっちの番」という意味も含んでいるかもしれません。

【語の読みと注】
泥鰌 どじょう
嘲弄 ちょうろう
飯櫃 めしびつ

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いうてもおくれなさよあらし【言うてもおくれな小夜嵐】むだぐち ことば   

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もとは明和年間(1764-72)から文政年間(1804-18)ごろまで、長く歌い継がれた上方の端唄「朝顔の盛り」(別名「かくれんぼ」)。その末尾の一節を、日常の洒落言葉にしたものです。意味は「そんなことを言ってくれるな」で、相手の手厳しい拒絶を受けて少し甘え、なだめるような調子があります。

「さよあらし」は「さような(ことを)」のダジャレ(上方では口合)で、倒置表現で「言うても……」につなげています。

参考までに少し長いですが、元唄を。

※現代的仮名遣いに変えて読みやすくしています。

朝顔の
盛りは憎し迎いかご
夜は松虫ちんちんちろりちろり
見えつ隠れつかくれんぼ
行末は
誰が肌触れん紅の花
案じ過ごしを枕にかたれ
髪結わぬ夜のおみなえし
言うてもおくれな小夜嵐

優艷な三味線の三下がりの音じめで、盛りを過ぎて独り寝を余儀なくされた遊女の、夜ごとの憂悶を唄い上げています。最後の二節で「結わぬ」と「言う」を掛け、さらに「小夜嵐」=夜半に吹き荒れる嵐で、このまま情人との恋が吹き散らされてしまうおびえが表現されています。

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おもしろだぬきのはらつづみ【面白狸の腹鼓】むだぐち ことば

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「おもしろい」を「尾も白い」としゃれ、そこから動物の「狸」と付けたむだぐちです。尾が白い獣はいくらもいるのに、あえてなぜ狸かといえば、やはり腹鼓(狸囃子)の滑稽さからでしょう。あるいは、腹鼓から、腹が破けるほどおかしい意味合いもあるかもしれません。

狸を狐に変えた例もありますが、当然言い捨てで腹鼓はなし。「面白い」を狸に掛けた洒落、むだぐちはけっこうあります。最後の部分だけあげると、「有馬山」「磯にはんべる」「金鍔焼き」など。

「面白い」自体のむだぐちはさらに多く、「面白山」「面白の魚田」「面ちょろし」「尾も白し頭も白し尾長鳥」「おもちょうじちゃぎつねのかかとちゃんきり」など。

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おっとがってんしょうちのすけ【おっと合点承知之助】むだぐち ことば

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「わかってるよー」という意味。「引き受けたよ」ということも。いかにもありそうな人の名のようなものいいをするわけです。ホントにむだぐちですねえ。

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おちゃのこさいさいかっぱのへ【お茶の子さいさい河童の屁】むだぐち ことば

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ものごとがすらすらさらさらスムーズにできるという意味です。

俗謡のはやしことば「のんこさいさい」をもじっていることばです。

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うっとうしいものはまつまえにある【うっとうしいものは松前にある】むだぐち ことば

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気分がうっとうしい、気が晴れないとぼやく相手への、多少の慰めをこめての揚げ足取りです。

「松前」は直接には師走、正月前のこと。節季の支払いや借金に追われる煩わしさに比べたら、今の時期のうっとうしさなど物の数ではないよ、というわけ。ついでに遠い北海道の「松前」と掛け、そこまではるばる旅しなければならない苦しみに比べれば、という意味を含めてダメを押しています。

「うっとうしい」は、気鬱なことと雑事で煩わしいことのほか、地方によってはあつかましい、騒がしいなどの意味も。どちらにせよ、生活を悩ませる愚痴の種全般ですね。

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うっちゃっておけすすはきには出る【うっちゃって置け煤掃きには出る】むだぐち ことば

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「うっちゃって」はラ行五段活用の動詞「打っ棄る」「打っ遣る」の連用形。「かまわないから放っておけ」と突き放す言い方に「すすはきには出る」と付け、ことば遊びにしたもの。

明和7年(1770)の『辰巳之園』にそのまま男の台詞で出ています。

深川遊郭を舞台に男女の色模様が描かれてはいますが、これは洒落本。有名な『春色辰巳園』は天保年間の人情本です。文学史的には、洒落本が通人の文学なら、人情本は「いき」「はり」の文学とされています。互いに50年ほどの時代差もありますから、心の表現に差異が出るのも当然です。時代が下ると「通」もさらに洗練されて「いき」の境地に届くのでしょうか。洒落本『辰巳之園』はいまだ「いき」の洗練まではありません。洒落ことばで遊んでいるだけで。人情本にいたると男女の色恋に妙な意気地や反語が出張ってきまして、やがては円朝や黙阿弥にいたれば、さらに複雑かつ霊妙な男女の心持ちが表現され、維新後は近代主義のがま口にのみこまれていくのです。

参考文献:『洒落本集成』第4巻(中央公論社、1977年)

「煤掃き」は大掃除で、何か大切なものをなくしたとき、「どうせ暮れの大掃除には出てくるから」と慰める形ですが、この場合、大掃除うんぬんは付けたりで、ただ茶化すために付けているだけでしょう。

「柳田格之進」では、武士の客が盗んだ疑いを掛けられた五十両の金包みが、煤掃で本当に見つかって、上へ下への大騒動になります。

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いらぬおせわのかばやき【いらぬお世話の蒲焼き】むだぐち ことば

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「いらねえ世話を焼かずと、放っておけ」という拒否宣言と、鰻の蒲焼きを掛けたもの。洒落になっているくらいなので、もとより本気ではありません。

男女の痴話げんかで、男の方がすねたそぶりを見せている、というところ。これはおそらく『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』あたりが発生源でしょう。天明5年(1785)にベストセラーになった山東京伝の黄表紙です。

「お世話」は同じ意味で「お世世(せせ)」となる例もありますが、もともと「おせせ」はお女中言葉をもじったものなので、これを使うのは女の方になります。

「蒲焼き」は「焼豆腐」と変わることもあります。

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いやならよしゃがれよしべえのこになれ【厭ならよしゃがれ芳兵衛の子になれ】むだぐち ことば

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遊びに誘ったのにはねつけられたときの、子供の悪態です。「よし(=やめ)にする」から人名の「芳兵衛」と続けますが、「よしべえ」はおそらく「由兵衛」で、隠語で詐欺師のこと。同時に相手の「よすべえ」という断りと掛けた洒落にもなっています。

腹立ちが治まらない場合は、さらに後に「ぺんぺん(=三味線)弾きたきゃ芸者の子になれ、車が曳きたきゃ車力の子になれ」と続けます。

類似の悪態では、「嫌ならいやさきとんぼの女房」「嫌ならおけやれ桶屋の褌かぶって寝ろやれ」などが各地に伝わっています。「おけやれ」とは「よしとけ」の意。

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いじわるげんたかげすえ【意地悪源太景季】むだぐち ことば

「いじわるげんだかげすえ」とも。将棋を起源としたむだぐちは、双六起源と並んで数多く、最大の供給源です。これもその一つで、「いじわる」と「かじわら(梶原)」を強引に引っ掛けたダジャレ。

梶原源太景季(1162-1200)は源平時代の武将で、『平家物語』の「宇治川の先陣争い」で後世に名を残した人。芝居では「源太勘当」の主人公で、江戸時代には色男の代名詞でした。とんだとばっちりです。

将棋のむだぐちの発生源は、夏の風物詩で、お互いヘボの縁台将棋でしょう。同じ勝負事でもお固い囲碁では、ほとんどこの種のむだぐちは見られません。江戸後期の滑稽本『浮世風呂』では、湯屋の二階の将棋で、壮絶な、むだぐち合戦が闘われます。

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こっちへきなこもち【こっちへきな粉餅】むだぐち ことば

こっちへ来な【RIZAP COOK】

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「来な」と「きな粉」を掛けた駄洒落の語呂合わせ。「こっちへ来な」と言っているだけのことです。「きな粉」は、黄な粉、黄粉、黄金粉などと記されます。

変形に「こっちへ来のめ(=木の芽)田楽」があり、この場合は地方により、「来」は「こ」とも発音します。

「きな粉餅」の用例でもっとも知られているのは、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」。寺の鐘供養で、大勢の僧侶(聞いたか坊主)が集まって騒いでいるところへ、白拍子花子に姿を変えた清姫の怨霊が出現。美貌で坊主たちを籠絡し、女人禁制の寺内へまんまと潜入しますが、その場面の歓迎の言葉が「さあさあ、こっちへきな粉餅きな粉餅」でした。

ほかに、戯作『春色辰巳之園』でも使われています。

【RIZAP COOK】

やなぎやこはん【柳家小はん】噺家

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に入門
【前座】1960年4月、桂木久弥で。1961年3月三木助の死没で五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下、柳家さん弥に
【二ツ目】1964年10月
【真打ち】1973年9月。75年3月、二代目柳家小はん
【出囃子】並木駒形
【定紋】剣片喰
【本名】渡辺研三
【生没年月日】1941年12月18日-2022年4月25日 膵臓がん
【出身地】東京都足立区
【学歴】東京都立上野高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】落語協会HP 柳家小はんWiki 
【蛇足】2022年4月25日、膵臓がんで死去。80歳。初代小はん(鶴見正四郎、1873-1953)は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1853-1930)門下で、大正末期に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976)たちといっしょに革新派を結成した人。二代目登場まで40年以上も空白の名跡でした。またも空白になってしまいました。南無。

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さんゆうていかしょう【三遊亭歌笑】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)に入門
【前座】1958年4月、歌寿美で
【二ツ目】1961年10月、三代目三遊亭歌笑。二代目円歌の死去に伴い、当時は二代目三遊亭歌奴だった三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)門下に
【真打ち】1973年9月
【出囃子】大名行列
【定紋】蔦
【本名】高水勉
【生年月日】1939年5月25日
【出身地】東京都あきる野市五日市
【学歴】東京都立五日市高校
【血液型】A型
【ネタ】純情詩集 馬大家 試し酒 うどんや
【出典】三遊亭歌笑ブログ 落語協会HP 三遊亭歌笑Wiki
【蛇足】二代目三遊亭歌笑(高水治男、1916-50)は叔父

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かつらぶんらく【桂文楽】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)に入門
【前座】1957年4月、桂小益で
【二ツ目】1959年6月。1971年、八代目桂文楽死去に伴い、七代目橘家円蔵(市川虎之助、1902-80)門下に
【真打ち】1973年3月。92年9月、九代目桂文楽
【出囃子】桑名の殿様
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】武井弘一
【生年月日】1938年9月21日
【出身地】東京都台東区
【学歴】葛飾中学校
【血液型】B型
【持ちネタ】試し酒 など
【出典】公式 落語協会 Wiki 
【蛇足】落語協会相談役。趣味はゴルフ。ペヤングソース焼きそば(まるか食品)のCM出演は1975-82年(17年間)。おかみさんに『文楽でございます』(武井加津子著、ゴマブックス、2006)の著作あり。武井加津子さんは1941年台東区生まれの文京区育ち、二代目海老一海老蔵の息女で、誠之小→文京六中→上野鈴本演芸場。二代目海老一海老蔵は太神楽芸人で、海老一染之助・染太郎の師匠。染之助(村井正親、1934-2017)が弟で、染太郎(村井正秀、1932-2002)が兄で、三遊亭円駒(村井正彦、1899-1976、三代目三遊亭小円朝の弟子)の実子。

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さんゆうていえんそう【三遊亭圓窓】噺家

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【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-1959)に入門
【前座】1959年3月、枝女吉で。59年10月、柳枝死去に伴い、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)門下、三遊亭吉生で
【二ツ目】1962年11月
【真打ち】1969年3月、六代目三遊亭円窓。78年6月、円生に従い落語協会を脱会。円生没後の80年2月1日、落語協会に復帰
【出囃子】新曲浦島
【定紋】三ツ組橘
【本名】橋本八郎
【生没年月日】1940年10月3日-2022年9月15日 心不全
【出身地】東京都江東区(当時は深川区)深川生まれ、豊島区育ち
【学歴】東京都立文京高校
【血液型】B型
【持ちネタ】五百噺
【出典】三遊亭圓窓HP 落語協会HP 三遊亭圓窓Wiki 圓窓五百噺全集
【蛇足】落語協会相談役。息子は三遊亭窓輝。1970年6月21日から77年8月21日まで「笑点」の大喜利レギュラー。色紋付きはピンクだったにもかかわらず、地味でした。後任は三笑亭夢之助(佐藤信夫、1949-、2019廃業)。78年6月の落語協会分裂騒動で円生らと脱会。80年2月1日、落語協会に復帰。五百噺は2001年、名古屋市東区の含笑寺(曹洞宗)で完了。仏教知識に造詣の深い人でした。七代目三遊亭円生の襲名にに名乗りを上げましたが、2015年には取り下げました。。著書多数ながら、最初の作品『ふてくされ人生学―古典的生き方のすすめ』(社会思想社現代教養文庫、1972年)が秀逸でした。

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かつらしゅんちょう【桂春蝶】噺家

【芸種】落語
【所属】上方落語協会
【入門】1994年8月、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)に三代目春蝶で
【出囃子】神田祭
【定紋】中陰花菱
【本名】浜田大助
【生年月日】1975年1月14日
【出身地】大阪府吹田市
【学歴】北陽高校
【血液型】0型
【出典】馬風一門HP 落語協会HP 鈴々舎馬風Wiki
【蛇足】2009年、繁昌亭大賞爆笑賞 2013年、咲くやこの花賞 父は二代目桂春蝶(浜田憲彦、1941-93)

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「落語ディーパー!~東出・一之輔の噺のはなし~」は、落語マニアの俳優、東出昌大の名ゼリフ「これを知らなきゃもったいない」で始まる落語番組。Eテレで。

彼と一之輔、さらに若手落語家たちが、名人上手の映像や音源から一つのネタについて語り合う、芸談中心で構成されている、一風変わったプログラムです。管見ながら、入門、初級コースをうろうろしている落語ファンのために、Eテレが放った「落語中級ファン促成番組」といえる福音です。

これまでの放送は不定期で気まぐれなのでゲリラっぽくて。これからの放送時間もよくわかりません。2019年は「いだてん」のからみで、あるいは、円朝生誕180年もからんで、ちょっと変わったスペシャルもありました。これまでの放送分は以下の通りです。

2017年
7月31日(月) 目黒のさんま
8月7日(月) あたま山 柳家花緑
8月21日(月) お菊の皿
8月28日(月) 大工調べ
2018年
5月6日(日) 地獄八景亡者戯 五代目桂米団治 上方SP
9月3日(月) 明烏
9月10日(月) 鼠穴
9月17日(月) 粗忽長屋
9月24日(月) 居残り佐平次
2019年
1月2日(水) 春風亭昇太 新作SP 吉笑も
3月4日(月) 長屋の花見
3月11日(月) 真田小僧
3月25日(月) 風呂敷 古今亭菊之丞 志ん生SP
3月26日(火) 火焔太鼓 古今亭菊之丞 志ん生SP
9月2日(月) 牡丹燈籠お札さがし 柳家喬太郎 円朝SP
9月9日(月) 死神 柳家喬太郎 円朝SP
9月16日(月) 船徳 
9月23日(月) 時そば
9月30日(月) わさび、小痴楽真打ち昇進SP(古木優)

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志ん生が大陸体験で見たものは?

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五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭円生。気質も芸風もまるで水と油です。

この二人が戦争末期、連れ立って大陸慰問団に加わり、命からがらの苦難をなめたことは、落語ファンにはよく知られています。中国東北部(旧満洲)での大陸体験は、二人ともに自伝にも語り残し、座談会や雑誌記事などでもさまざまな逸話が紹介されています。ただ、双方の言い分にはかなりの食い違いがあります。

志ん生がどちらかというと、弥次喜多道中よろしくおもしろおかしく語っているのに対して、円生の方は、十歳年上の志ん生の度外れた身勝手さに、どれだけヒドい目にあったかという、むしろ恨みつらみをぶちまけている感があります。いずれにせよ、真相はもはや闇の中です。

そこに割って入るのが森繁久彌。彼も当時の体験を記しています。二人を脇で見ていた男の目は微笑みながらも辛辣でした。

なかばフィクションにもかかわらず、まるでタイムマシンで見ているかのように、この大陸道中、出発のきっかけから志ん生帰国までのあらましがすべてわかってしまう、いや、わかった気にさせられてしまう、摩訶不思議な一冊があります。

それは、井上ひさし『円生と志ん生』(集英社刊)。

同人の演出で、劇団こまつ座第75回公演として2005年2月~3月に東京・紀伊国屋ホールほかで上演された、同名ミュージカルの台本をそっくり収録したものです。

ソ連軍侵攻前後の中国東北部を舞台に、松尾こと円生(角野卓造)と孝蔵こと志ん生(辻萬長)を中心に、さまざまな人物が織り成す人間模様が描かれます。

この戯曲(本)の画期的なところは、生死の縁を病葉のようにさまよう中、二人がどのように「芸」に開眼していくかという物語なのです。

当時、55歳にしてようやく売れ出して、後年のシャープな芸風を確立しつつあった志ん生。敗色濃厚になるにつれ、禁演落語とやらで廓噺もダメ泥棒噺もご法度。

おまけに、開口一番で二人が国民服姿で登場することでわかるように、噺家の象徴であるトバ(着物)まで、空襲で逃げるときに引きずって走れないという、わけのわからない理由で事実上禁止され、フラストレーション爆発寸前。

そこへ、満州へ渡れば白飯も食い放題酒も呑み放題、軍属の少佐待遇でアゴアシ付き月150円という結構ずくめの話だから、たちまち飛びついて、いきなり楽屋で一声。

「松ちゃん、明日行こう」

重苦しい内地を離れると、芸に関しては志ん生は水を得た魚。十歳年下ながら、三遊の総帥、五代目円生の御曹司で豆落語家から順風満帆、真打ちも一年早かった円生に、たちまち遠慮もコンプも雲散霧消、万事師匠気取りの上から目線。あまつさえ、芸の「指導」までおっぱじめる。

一方、円生。

会計係を任されたのに、相方の志ん生は、日本に帰る資金作りと称して、片っ端からなけなしの金を強奪、あげくに博打でスッテンテン。怒り心頭でも、すっぱり別れられないなにかがあるのは、劇中に当人が告白するように、当時、四十半ばにして芸に行き詰まっていたから。

いっそ廃業して、とダンスホールや雀荘経営に手を出しても、借金の山が残るだけ。こちらもやけのやん八で大陸行きに乗ったものの、早くも追い立てを食いそうな大連の宿で、来るんじゃなかったと泣き言。

そこで、志ん生の一言がぐいっと胸を抉ります。

「おまえさんにはなんかある」

続いて、辛辣きわまるご託宣。

「松ちゃんはあいかわらずのそのそのそ、四角四面で行儀正しいだけで、ちっともおもしろくならねえ」

ごもっともと図星をつかれた松ちゃんですが、続けて、志ん生の言う円生の「なんか」というのが、ぶっ飛んでいます(第一幕第三場)。

「松ちゃんは、毎朝毎晩、歯をごしごし磨いている。それが、つまり、そのなんかなんだな」

噺家の商売道具は口と歯。歯なしでは噺はできない。だから、この人は死ぬまで噺家をやろうと心を決めているんだと。その後も志ん生の稽古は続きます。

場は進んで、吹雪の昭和20年暮れ。

ソ連軍に追われ追われて、大連遊郭街、逢坂町の娼妓置屋に居候している二人。

フグ雑炊の鍋を前に、「松ちゃんの上下の移り替えは大きすぎる」とやっつける志ん生。

テンポよく実演付きで「移り替えが大きいとその分、間が空くだろ」。

パパッと語ってストンと落とすから落とし噺、という志ん生。

今話しているのは誰か、客にはっきりわからせるために身振りをゆっくり大きく、という円生の言い分。

「客」の二人の娼妓の感想は、完全に志ん生に軍配が上がります。このやりとりは、おそらく作者の創作でしょうが、晩年に至るまでの二人の芸風の違いが、実によくわかります。

結局、円生は大家となってからも、テンポが遅くてくどい、という欠点を払拭できませんでしたが、志ん生の、当人の自負する落とし噺の切れ味にある種の憧れとコンプレックスを、生涯抱いていたのではないでしょうか。

ただ、自分にはとうてい志ん生のまねはできないと思い定めたとき、向こうが短距離走者ならこちらはマラソンランナーと、じっくり本格的に語り込む人情噺で芸を開花させていったわけです。

もう一つ。

この物語の買いは、志ん生、美濃部孝蔵のふだんの肉声が、よりリアルに「再現」されていること。

それも、ほとんどは作者が創作した可能性が高いにもかかわらず、あたかも生きた志ん生に傍で話を聴いているように、いや笑えること。

「あたしァね、朝めしを抜くと座り小便が出てしまうってえ病気持ちなんだ」

「とんちきおかみめ、はなし家の丸干しでもこさえようてえんだな」

「やーい、いきなり攻め込んできやがって。スターリンのヒキョーモン」

「おまえの髭は毛虫髭」

「その髭に柄をすげて歯ブラシにしてやるぞ」

これは「岸柳島」の船中の町人や「たがや」の弥次馬よろしくですが、まだまだいくらも堪能できます。

井上ひさしがいかに落語に造詣が深く、落語を愛し、自らの劇作の大きな源にしていたか、とりわけ志ん生の諧謔と江戸前の洒脱さを、この東北人が誰よりも深く理解していたことがうかがわれるのです。

もちろん、避難民の悲惨な体験を通しての戦争への告発も、作者の重要な意図であることは確かで、それは場の変わり目ごとに、二人を交えて霊の声のように唱和される歌に象徴されます。

筆者にはあくまで、落語という芸のデーモンに取り憑かれた二人、とりわけ志ん生が、どんな地獄の最中でも、最後の最後まで噺をしゃべり通しているということが印象的でした。

大団円近く、大連のとある修道院で、落語のラの字も知らない院長と三人の修道女を相手に、志ん生が必死に、「元日に坊さんが二人、すれちがって、これが本当の和尚がツー」……と三平並みの小咄を連発するくだりは鬼気迫るものがありました。

第一に腑に落ちたのは、円生と志ん生は、戦後どれほどいがみあいをしようと、原点は大陸で、命のきわを共にした戦友にしてケンカ友達だったということ。その二人の、どんな緻密な伝記作者でも描ききれない心の襞が、この「井上ひさしによる珍道中」で、垣間見せてもらった気がします。(高田裕史)

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志ん生とオリンピックとはどんな関係か?

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NHK大河ドラマ「いだてん」では志ん生が裏の主人公のような役回りをしています。どう考えても志ん生とオリンピックは関係なさそうなのに、宮藤官九郎の手になると、まるで志ん生が東京五輪を推進していたかのような錯覚に陥るものです。落語好きには、それはそれでおもしろいドラマになっていますね。

神木隆之介演じる古今亭五りんという落語家は架空の人物です。

もともと日本には宮本武蔵の『五輪書』という剣の奥義書があります。オリンピックの和訳語としての「五輪」は読売新聞記者だった川本信正の造語でした。川本の発想では『五輪書』を踏まえていたそうです。その五輪とは、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻をさすそうです。まあ、それはともかく。

昭和11年(1936)7月25日付の読売の見出しに「五輪」が登場したのが初めてのことでした。登場したばっかりの頃は「五厘に通じて安っぽく感じる」という意見もあったそうです。

そうなんです。「五厘」とは、明治の落語界ではつねに問題をはらんでいた寄席ブローカーの連中をさします。席亭(寄席の社長)と芸人の間で出演を仲介する人(ブローカー)のことです。割のうち、五厘を天引きしたために、そう呼ばれました。一銭にもならない安っぽい連中という意味合いも込められていて、おしなべて芸人世界の嫌われ者でした。円朝たち重鎮が五厘の一掃に苦心していたのが、明治演芸の一貫した道程だったのです。

「五厘」のイメージをとうに忘れてしまっていた昭和になって、オリンピックの五大陸を輪でむすぶという発想からオリンピックの精神を、川本は「五輪」と訳したわけです。川本は織田幹雄の弟子筋の人ですから、その身はしがない読売の記者とはいえ、並みの記者ではありませんでした。発信力が違います。まもなく、朝日も中外商業日報(日経)も「五輪」を使うようになって、あっというまに日本中に定着しました。

その五輪と五厘を掛けているところが、クドカンの凄味だなあと、私(古木優)は感心しています。

五輪の五色とは、旗の左側から青、黄、黒、緑、赤。輪を重ねて連結した形です。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸とその相互の結合と連帯を意味しているそうです。

五りんは想像の人物でも、隣にいつもいる、むかし家今松(荒川良々)はのちの古今亭円菊のこと。本名は藤原淑。昭和4年(1929)、静岡県島田市生まれ。地元の工場労働に見切りをつけて上京、志ん生に弟子入りしました。とちるしかむし覚えは悪いしで、悲惨な弟子でした。それでも、倒れた志ん生を背負って、銭湯に行ったり寄席に行ったり。苦労して真打ちになります。当時の周囲は「おんぶ真打ち」などとさげすんでいましたが、いずれは独特のアクションを伴った「円菊落語」を創造していくのです。手話やレフェリーのかたわら、アクションに磨きをかけていきました。

小泉今日子が演じるのは美濃部美津子。志ん生の長女で、大正14年(1925)生まれで、四人の子供の中で唯一のご存命。志ん生を脇から後ろから眺めてきたマネジャー役でした。こんな人がいらっしゃるのはファンとしては心強いかぎりです。著作も多く、すべてがすばらしい。

その昔、お宅にうかがってしばし志ん生師匠の思い出話を拝聴したことがありました。いい年したおばさんが志ん生師を「おとうさん」と呼んでいたのが印象的でした。この人の心の中には今でも志ん生=美濃孝蔵=おとうさんが生きているんだなあ、と。心のあったかさがしみじみ伝わる人でした。

古木優

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志ん生と孫

【RIZAP COOK】

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「中央公論」1964年の新年特大号。

「うちの三代目」というグラビア特集で、志ん生が三人の孫娘に囲まれ、いかにも幸福そうにニコニコ笑っている写真があります。

いずれも長男十代目馬生の娘たちで、キャプションには当人の弁として「志津子は八つ、由起子は五つ、寿美子は三つである……名前は私と(馬生が)相談してつけた。……今が可愛いね。もう手がかからなくて一番いい頃。朝にはかならず飛び込むようにして私に会いに来る。おじいちゃん、おじいちゃんと言われると、全くたまらないね」という、孫のろけ。

志ん生は当時、病魔をやっと克服して、寄席に復帰したばかり。

その年の秋には紫綬褒章を受章します。

自伝(らしい)『びんぼう自慢』で紹介している通り、志ん生夫妻には「清のところに三人、喜美子のところに二人」で、後に次男志ん朝にも二人誕生して、都合七人の孫。

『びんぼう自慢』の巻頭には、昭和38年ごろの、その五人の孫を含む一家三代の集合写真も掲載されていました。

ところで、「志ん生の孫」でいちばん有名なのは女優の池波志乃。中尾彬夫人で、おしどり夫婦として知られていますね。

十代目馬生の長女で、本名は志津子。その志津子がずっと後、「文藝春秋」1989年9月号誌上に、祖父の回想を寄せています。

そのタイトルはかなり辛辣で「貧乏したのは家族だけだった『勝手な人』」。

で、彼女いわく、「私は初孫ですし、珍しいもんだから、おもちゃみたいに可愛がるんです。でも、元来子供の好きな人ではないので孫と遊ぶのは私であきてしまい、もう子供はうっとうしいと思ったのか、二人の妹のことは全くかまいませんでした」

そういえば、末っ子の志ん朝以外は、馬生を含む上の三人にはほとんどかまいつけず、そもそも、一年中ほとんど家にいなかったというワイルドな親父だった志ん生が、いくら功成り名遂げて金もできたところで、そう簡単に子供好きになるはずもなく、前記の、いかにも孫たちが目に入れても痛くないという風なコメントも、多分に外面の営業用に思えてきます。

「もう手がかからなくて」一番いい、というのは、当時の年齢からして、志津子だけのことでだったのでしょう。

そのほか、彼女の祖父批判は留まるところを知らず、家族がほとんど餓死寸前の極貧生活で、祖母りん夫人の内職だけで辛うじて食いつないでいるのに、祖父志ん生はどこ吹く風、毎日、酒だバクチだお女郎買いだと「別の次元にいるようだった」と、実に手厳しいものです。よほど、幼時に父や祖母から、散々愚痴や恨みつらみを聞かされていたのでしょうね。

この手記でおもしろいのは、批判が祖父だけではなく、後年貞女の鏡、聖女のように讃えられた祖母りんにまで及んでいること。

後年、テレビの志ん生貧乏譚の再現ドラマで、その祖母を演じていましたし、「いだてん」でも同様に演じていたほど、若い頃のりん刀自に瓜二つな池波志乃ですが、いわく「おじいちゃんが売れっ子になって生活がよくなってきたら、かつての貧乏生活の反動か、祖母の金の遣い方が派手になりました」。

祝儀の切り方も手当りた次第、千疋屋から高級メロンをあつらえると、使いの者にまで祝儀の大盤振る舞い。

若い頃はおじいちゃんがすっからかんすっからかんに使い、年取ってからは祖母が浪費して最後には何も残らず、だったよし。

まあ、それだけ長年貧窮を見てきた人だから、そのくらいは、とも思いますが、とかく女の子の家族を見る目というのはシビアなもの。

というより、そういう客観的で怜悧な観察力を、幼時から持ち合わせていたことが、池波志乃の女優としての類まれな資質で、これもまた、りっぱな「名人の系統」なのでしょうね。

高田裕史

【RIZAP COOK】

かみなりもんすけろく(はちだいめ)【雷門助六(八代目)】高田裕史

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八代目 雷門助六(1907-1991)

終生落語会の彗星のようにあっち行ったりこっち行ったり。悠然と非主流を歩み、時折忘れかけた頃合い、ひょこっと現れて自由闊達、しかも練れた芸を披露して、またすっといなくなっちまうという印象の人でした。

なんといっても、師の芸の魅力は仕方噺にありました。

つまり、長編の人情噺をしみじみ聴かせるたぐいの名人ではなく、短い噺を得意とし、実に巧みな仕草で笑わせ、うならせました。

いわば元祖「ビジュアル落語」。例えば、マクラの小咄で人それぞれの癖を演じるのが、この方の独壇場。

ある人はやたらに訪問先の畳のケバをむしる。挨拶をしてしゃべりながらでも、もう目線はさりげなく下に向いて、虎視眈々と畳を狙っている。その目の動きと指の動き、むしったケバをフッと吹くコンビネーションの見事さ。

「七段目」などの軽い芝居噺では、本格に歌舞伎の型を演じ、また、飄々とした踊りのうまさにも定評がありました。

晩年は足が悪く、常に高座に釈台を置いていましたが、いつもにこやかに明るい語り口で、名人気取りなど微塵もなく、客を気持ちよく帰す、という節度の効いたサービス精神に徹底していました。

こういう地味で古風ながら決して陰気にならず、「ゲラゲラ」ではなく「ニヤリ」と笑わせてくれる味な芸。二度とはお目にかかれないでしょう。

高田裕史

らくごきょうかい【落語協会】

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1923年9月の関東大震災以後、東京で、落語家が大同団結して落語協会を結成しました。

五代目柳亭左楽が会長となりましたが、翌年5月、協会が分裂し、なんと、会長の五代目を含む多くが脱退して「睦会」(震災前にもあった)を再興しました。

その3年後、今度は落語協会が分裂しまして、人気の頂点にあった初代柳家三語楼が一門ごと退会して、全く同名の「落語協会」を設立しました。

話がややこしくなるので、これ以後、旧来の落語協会を「東京落語協会」、三語楼一門の協会を「三語楼協会」と俗称するようになりました。

その後、1978年5月にはまたまた大きな脱退騒動が起こりましたが、これについては、いずれ記します。

要は、この団体というか、落語家という人たちは、なかなか一筋縄にはいかなくて、細胞分裂を繰り返すのが定めのようです。すべては芸のため、とは名ばかりで、金、名声、好悪によるものです。

それでも落語協会は、現在、国内に存在する落語家5団体のうちでは最大手です。他はまったく相手になりません。現在の会長は山口那津男、いやまちがえた、柳亭市馬師です。

しかし、そんなものも全部ひっくるめて、彼らのなりふりすべては人間臭くて憎めなくて、落語の世界そのものではありませんか。たまりません。

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らくごかのかず【落語家の数】

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先日、五反田のとあるビルで、落語を聴きました。

立川半四楼立川談慶の、です。

半四楼は45歳の前座だというのがウリでした。

しかも。

東大出てて、間組や三菱商事なんかで海外駐在経験があって、スペイン語ができるんだそうです。

なんだか、すごいです。

前座ですから、噺そのものはうまいわけではありませんでした。

でも、一生懸命やってて、なんの噺か忘れましたが、頭から湯気が出てる雰囲気でした。

その気迫というか一途な熱演に、近頃見ない風景だったのか、心動かされてしまいました。

落語家はたんにはなしの巧拙ばかりではなくて、このような「余芸」も芸の内で、これをも含めたすべてが「落語家」なのでしょう。

明治から、そんな落語家はうじゃうじゃいたもんです。

変わり種、というやつですね。

落語家って、われわれが抱くイメージとはおよそ異なる出自だったりするもんです。

そこがまたうれしいとこだし、楽しめるひとあじなんです。

会では、談慶師が「文七元結」を熱演したのですが、私はよく覚えておらず、この45歳の前座さんに強烈な印象を受けた次第。

談慶師も慶應義塾大学経済学部卒の元ワコール社員ですから、これはこれでお見事です。

「お互い学歴の無駄遣いをしているね、と楽屋なんかよく言うんです」とは、談慶師のひとこと。自慢でしょうかね。乙な土産話となりました。

立川半四楼、前座、45歳、東大卒。

このかましかたは、落語家の船出としては、とりあえず大成功かもしれません。

ところで、現在、日本には落語家と称する人たちは何人いるのでしょうか。数えてみました。

落語協会   305人
落語芸術協会 180人
三遊一門会  58人
落語立川流  58人
上方落語協会 280人
総計  881人

 2019年11月23日現在

ざっと900人弱、というところですね。日本相撲協会所属のお相撲さんは900人弱だそうですから、いい勝負です。

東京の落語家がざっと600人、関西の落語家がざっと300人、という具合です。

ほかに、名古屋、仙台、金沢もの若干名いるそうですが、「ざっと900人」の中に入れ込める人数です。

ただいま、落語家は900人、です。すごいなあ。

古木優

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らくご【落語】



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人の心を動かす話芸、とでもいうのでしょうか。

「小説」の始まりは『荘子』内編が初出だと、駒田信二が言っていました。

ある村に三本足の烏がいた。

これだけでもう小説なのだ、という例でした。

これを聴いたり読んだりすると、人は「え!」と驚くわけです。そんな烏はいないに決まっているからです。

人の心が動く。

それが小説なんだ、ということです。

ならば、落語だって同じでしょう。

小説の読者は作家の目の前にはいませんから、紙面を通しての交流というか伝達でしょうが、落語のような話芸は、客は目の前にいるわけです。

この人たちの心を動かすのは、笑いと涙にもっていかせたほうが手っ取り早いに決まっています。

涙よりも笑いのほうがにぎやかで儲かりそうだから、というようなわけで、落語は笑い中心の芸になっていったのでしょう。

おおざっぱですが、正解はこんなところにあるのだと思うのです。

ごちゃごちゃ考証してもおもしろいのですが、それでも、とどのつまりはここに行きつくものです。

もとより「落語」ということばは、そんなに古くありません。

ことばそのものは江戸期には生まれていましたが、定着したのは明治に入ってから、というかんじですね。

明治初期の寄席では「はなし」「むかしばなし」などと番付に記しています。

噺家の芸を、なんと称して当局に届け出ていいのか迷ったほどなのですから。

なんとも、こころもとない芸であり、職業です。

でも、それが落語なのでしょう。私はそこが好きです。

「落語」は「おとしばなし」から来た漢語表現ですし、つづめて言うのを好む日本人には「らくご」の語感が向いていたでしょうから、こちらが定着した、ということですね。

「オチ」があるのが落語、とかいわれていますが、別に、落語ばかりの専売特許でもありません。

小説にだって、映画にだって、オチがあるものです。ときに、どんでんがえしのなんていう、ものすごいオチもありますが。

『荘子』での「小説」の意味は「とるにたりない話」ということだそうですから、落語と同じくくりですね。

ということは、「三本足の烏」は小説でも落語でも使えるわけで、出元は同じといえるでしょう。

今では、高座でかかるもの全般、つまり、怪談、人情噺、滑稽噺などをひっくるめて、「落語」と呼んでいますね。

明治初期の、つまり、三遊亭円朝(1839-1900)がいたころの人たちには福音のことばだったんじゃないですかね。いちいち区別している向きもあったようです。

円朝なんか、番付には「新作」と記されています。今となっては笑える表記です。

落語といっても、始まりはなにも特別なものではありません。

われわれの心の中から湧き出てきた思いやおもしろさ、日常生活の中から長い時間をかけて生まれてきたもの、といえるのではないでしょうか。

古木優

【語の読みと注】
荘子 そうじ:荘周が編んだ道家のテキスト。内編は荘周、外編と雑編は偽書
駒田信二 こまだしんじ:中国文学者、作家。1914-1994



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つきていはっぽう【月亭八方】噺家

【芸種】落語 
【所属】上方落語協会 月亭一門 吉本興行
【入門】1968年12月、初代月亭可朝(鈴木すずき、1938-2018)に入門 八方で
【出囃子】夫婦万歳
【定紋】月、結び柏
【本名】寺脇清三
【生年月日】1948年2月23日
【出身地】大阪市福島区
【学歴】浪商高校(現大坂体育大学浪商高校)→関西学院大学経済学部オープンカレッジコース
【血液型】O型
【出典】上方落語家名鑑 吉本興行 月亭八方Wiki 月亭八方twitter
【蛇足】上方落語協会顧問 息子は月亭八光 「竹の水仙」NHK日本の話芸2022年9月18日放送(2022年7月7日NHK大阪ホール収録)。※浪曲の広沢菊春に基づくものと本人自身がことわっている。大名は細川越中守

まさおかしきふでまかせえんちょうのはなし【正岡子規『筆まかせ』円朝の話】

【RIZAP COOK】

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正岡子規(正岡常規、1867-1902)の『筆まかせ』第1編にある「圓朝の話」。明治17~22年(1884~89)に書かれた、子規の身辺雑記です。

〇 円朝の話
ある時円朝の話しに、ある画師がある寺の本堂にて画をかきいるに、天人の処に至りしかば小菊という芸妓の顔を写したり。その時仏壇の下より一ヶ所の好男子現れ出で、実は小菊の兄にて故ありて世を憚る身なるが、何とぞかくまいくれまじくやといえば、画師承知して彼の男に小菊の着物をきせ頭を頭巾にて包み水桶と花とを持たしめ、墓参りの如くにいでたたせて出しやりたり。それと引き違えて入り来りしは女房にて、女房は天人の顔が小菊に似たりとてそろそろやきはじめければ、さにあらずと弁解しけるに女房「そんなこといったッてだめです、今此門口を出ていったのは誰です、あれはだれです。あれが小菊ではありませんか」。とさもねたましそうにいえば画師「ムムあれが小菊と見えたか」。女房「見えたかッて小菊はどう見たって小菊に」。画師「ムムそうか、とんだいい」トうれしそうにいうた処は女房の嫉妬に反映していかにも面白く。円朝の妙味ここにありと思えり。女房「何がとんだいいです、ほんとうにあなたは……小菊がきたならきたと、はっきりいっておしまいまさいヨ。……あなたもほんとうに……女房に……トくやしそうになきながらいう。画師「そう疑ぐっては困るじゃないか。小菊は何ですヨ。あの墓参りにきたのですヨ。水桶も花も持てたじゃないか。女房「墓参りなら花も持て来ましょうが、寺から花を持て出ることはありません……」トここらの具合を聞きて余は小説の趣向もかくこそありたけれと悟りたり。

底本:『子規全集』第10巻初期随筆集(講談社、1975年)「筆まか勢」 適宜直しました。

円朝の物語運びの妙に、子規はうなっています。かくや。

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