おちゃくみ【お茶汲み】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

遊郭を舞台にした艶っぽい噺。

なんだかまぬけなんですがね。

別題:女郎の茶 茶汲み 黒玉つぶし(上方) 涙の茶(改作)

あらすじ

吉原から朝帰りの松っあんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したが、女は松っあんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になった。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨のつぶて。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

しりたい

原作は狂言

大蔵流狂言「墨塗」が原典です。

これは、主人が国許へ帰るので、太郎冠者を連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬深い愛人のところへ暇乞いに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋になすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋かるくちごしきがみ』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里狂いが過ぎて勘当されかかった若だんなが、罰として薩摩の国の親類方に当分預けられるので、なじみの女郎に暇乞いに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶がらに代えた「涙の茶」。

これを初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに活写。

現行の東京版「お茶汲み」が完成しました。

やれやれ、ご苦労さま。

小せんから志ん生へ

廓噺の名手で女遊びが過ぎて失明した上、足が立たなくなったという初代小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が直伝で継承。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(=二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎としていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)のものがCD化されていました。桂歌丸(椎名巌、1936-2018)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939-2021)のものも。

本家の「黒玉つぶし」の方は、先の大戦後に東京で上方落語を演じた二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が得意にしていました。

歌舞伎でも

実は、「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平定文(通称・平中)の逸話中にすでにあるといわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜』の「鮨屋」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903)以来の音羽屋の型です。

これは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょうが、明治末から大正初期で、大見世では揚げ代のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。

これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。

こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
梨の礫 なしのつぶて
田毎 たごと

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くびったけ【首ったけ】落語演目

五代目古今亭志ん生

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【どんな?】

吉原が火事に。いつも袖にされていたお女郎がおはぐろどぶに浸かっている……。

珍しく、遊廓の女がひどい目にあう噺です。

あらすじ

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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しりたい

原話は寄せ集め  五代目古今亭志ん生

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3年(1774)刊「軽口五色帋」中の「女郎の川ながれ」、天明2年(1782)刊の「富久喜多留」中の「迯そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ  五代目古今亭志ん生

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。

おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。

戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売  五代目古今亭志ん生

古い速記では、大正3年(1914)の四代目橘家円蔵(柴田清五郎、1865-1912)のものがあります。死後に出た速記になります。

戦後は、二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)が演じたほかは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、ほぼ一手専売でした。

志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の直伝でしょう。

志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、お女郎さんに、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、長男の十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、次男の三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)に伝わりました。馬生のはレコードもあります。

この噺、最近ではほとんど手掛ける人がいません。

吉原の火事  五代目古今亭志ん生

吉原遊郭は、建て替えを考えていた矢先、都合よくも(?)、明暦の大火(1657年)のあおりで全焼しました。

日本橋から浅草日本堤に移転します。

その後も、明治維新(1868年)まで、平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、6500戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を歓迎していたとか。

おはぐろどぶ  五代目古今亭志ん生

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。

下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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ちぢみあがり【縮みあがり】落語演目

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【どんな?】

堀の内帰りの三人組が新宿で遊ぶ。
一人は行きに見かけたオンナに目星をつけていた。
やっとこ見つけて、すぐにも寝床へと急ぐ。
オンナはものすごい訛でまくしたてるのだが、男は……。

別題:新宿三人遊び

【あらすじ】

堀の内のお祖師さま参詣、その帰り。

新宿のなじみの引き手茶屋に上がった助さん、又さん、梅さんの三人組。

とりわけ助さんは、行きに立ち寄った時に、見初めておいた女がいた。

顔の真ん中に鼻があって、スラリとして目元ぱっちり、受け唇、眉濃く、目の際にホクロあり。

そんなお女郎を捜索してくれ、と注文。

まるで警察のモンタージュ作成のよう。

ホクロが決め手で、豊倉のおやまらしい、と見当がつく。

ところが、いざ対面してみると、おやまというのはえらく顔の長い女で、お目当てのおんなではない。

たまたまその女は近々身請けされることになっていたので、そっちの方に出るというから、そんな女はいらないからさっさと持ってけ、おれは一人で寝る、とすねている。

廊下でお目当てを見つけたので、
「めぐりあった。向こうへ曲がった。それ、抜け裏(抜け道)だ。捕まえろ」
と、にわかに大騒ぎ。

四日前に見世に出たばかりのおくまという女とわかった。

「ぜひとも生け捕ってくれ。鉄柵に入れろ」
と夢中。

まだ酒盛りの最中なのに、助さんは
「もう寝る」
と言ってきかない。

部屋におくまが来ると、
「最前、お参りの途中でおまえを見かけた時、体がぶるぶる震えた。これから毎日通うつもりだから、よろしくお頼み申します」
お、堅苦しく挨拶。

おくまはぷいと横を向き、口もきかない。

「おくまさん、なんとか、ひとこと気休めでも言ってください。おくまさんや」
「よさねえか、このふと(人)は。ヂヤマ(親父)が年貢の金に困ったから売られてきたのだ。江戸というところは気休めばかりだのんし。うら(私)もねぶたくてなんねえから、おめいらもエイかげんにねぶったらよいだろのんし」

ものすごい訛だから、助さんは仰天して、
「おまえのクニはどこだえ」
「越後の小千谷だがのんし」
「どうりでさっき、体が縮みあがった」

出典:六代目桂文治

【しりたい】

豊倉

四宿の屁」「文違い」にも登場しましたので、そちらをお読みください。

お祖師さま

日円山妙法寺。日蓮宗。「お祖師さま」とは日蓮のこと。「堀の内」にも登場します。

都内では、池上の本門寺に次ぐ重要な寺院です。厄除けで信仰を集めています。

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ごにんまわし【五人廻し】落語演目



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【どんな?】

明治の噺。古典落語とは関東大震災以前の作品のことなんですね。

別題:小夜千鳥

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭のようすを今に伝える、貴重な噺です。

「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられました。

現在では一部の噺を除いてすたれました。

洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。

18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。

若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。

「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。

そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。

吉原ならではの言葉です。

甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。

①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。

「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。

②とは少々異なります。

「甚助」はほかの噺にも出てきます。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

つきおとし【突き落とし】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

「居残り佐平次」「付き馬」と合わせて「廓噺の三大悪」の一つに数えられています。

別題:棟梁の遊び(上方)

【あらすじ】

町内の若い者が集まって
「ひとつ、今夜は吉原へでも繰り込もう」
という相談。

ところが、そろいもそろって金のない連中ばかり。

兄貴分が悪知恵をめぐらし、一銭もかけずに飲み放題の食い放題、という計画を考え出す。

作戦決行。

兄貴分が大工の棟梁に化け
「いつも大見世でお大尽遊びばかりしているので飽きちまったから、たまには小見世でこぢんまりと遊んでみたい」
などと大声で吹きまくり、客引きの若い衆の気を引いた上、一同そろって上がり込む。

それから後は、ドンチャン騒ぎ。

翌朝になって勘定書が回ってくると、ビールを九ダースも親類へ土産にするわ、かみさんが近く出産予定の赤ん坊用にたらいまで宿の立て替えで届けさせるわで、そのずうずうしさにさすがの「棟梁」も仰天した。

ニセ棟梁が留公に
「勘定を済ますから昨日てめえに預けた紙入れを出せ」
という。

この男、実はこれから殴られたうえ
「バカだマヌケだ」
と言われなくてはならない一番損な役回り。

「てめえは役者の羽左衛門に似ているから、いい役をやるんだ」
とおだてられ、しぶしぶ引き受けたが、頭におできができているので、内心びくびく。

留公が筋書き通り
「実は姐さんに『棟梁は酔うと気が大きくなる人だから、吉原へでも行って明日の上棟式に間に合わないと大変だから、お金は私に預けておくれ』と頼まれたので、金は持っていません」
と答えると、待ってましたとばかりに
「なんだと、てめえ、俺に恥ィかかせやがって」
とポカポカ。

留公、たまらず
「だめだよ兄貴。こっち側をぶってくれって言ったのに」
と口走るのを聞かばこそ、ポカポカポカポカ。

そこでなだめ役が
「この留はドジ野郎ですからお腹も立ちましょうが、ここはわっちらの顔を立てて」
とおさめ、若い衆には
「こういうわけで、これから棟梁の家まで付いてきてくれれば、勘定を払うばかりか、おかみさんは苦労人だから祝儀の五円や十円は必ずくれる」
と、うまく持ちかけて付き馬に連れ出す。

途中、お鉄漿溝で
「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから、ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆、お前さんもつき合いねえ」

渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき、背中をポーンと突いたから、あわれ若い衆はどぶの中へポッチャーン。

その間に全員、風を食らって一目散随徳寺。

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

三木助十八番、決まらないオチ   【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から伝わる生粋の江戸廓噺です。

大正期には、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)の速記が残り、先の大戦後では三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)の十八番。

五代目春風亭柳朝(大野和照、1929-1991)も得意にしましたが、ともに速記のみで音源はなく、珍しく六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が、昭和41年(1966)5月にTBSラジオで演じた音源が残っています。

オチは、三木助が「泥棒だな、おい」と加えて悪らつさを薄めたり、一人が遅れて戻り、「いい煙草入れだから、惜しくなって抜いてきた」とするものもありますが、どれも決め手を欠き、いまだに決定的なものはありません。

本あらすじのは、初代小せんのものを採りました。

上方版「棟梁の遊び」   【RIZAP COOK】

異色なのは、大阪の六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)が演じた「棟梁の遊び」です。

これは、舞台を松島遊郭に移した、東京の「突き落とし」からの移植版。

昔から、大阪→東京の移植はあまたあっても、逆は珍しい例です。

移植者や時期は不詳ですが、こちらはオチが東京の「大工調べ」のをいただいて「大工は棟梁、仕上げをご覧じ」という、ダジャレオチになっています。

廓噺の三大悪   【RIZAP COOK】

飯島友治(落語評論家)は「突き落とし」「居残り佐平次」「付き馬」を後味の悪い「廓噺の三大悪」と呼んでいます。

覚えやすそうな名数ですが、落語に道徳律を持ち込むほど愚かしいことはありません。

黄金餅」のようなアナーキーな噺を得意にした五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、この噺だけは「あんな、ひどい噺はやれないね」と言って生涯、手掛けませんでした。

志ん生は若き日、初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて、「突き落とし」も当然教わっているはずですが、「ひどい噺」と嫌った理由は今となってはわかりません。

吉原への愛着から、弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか。

または、小見世の揚げ代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。

さて、どうでしょう。

小見世   【RIZAP COOK】

下級の安女郎屋ですが、一応店構えを持っているところが、さらにひどい「ケコロ」などの私娼窟と違う点です。

大見世と違い、揚代が安い分、必ず前払いで遊ばなければならない慣わしなので、この噺では、苦心してゴマかさなければならないわけです。

お鉄漿溝   【RIZAP COOK】

最後に若い衆が突き落とされる水路ですが、吉原遊郭の外回りを囲むよう掘られた幅二間(約3.6m)のみぞです。

通説では、遊女の逃亡(廓抜け)を防ぐため掘られたといいます。

お女郎が、歯を染めた鉄漿の残りを捨てたので、水が真っ黒になったのが名前の由来ということです。

鉄漿は、鉄片を茶や酢に浸して酸化させた褐色の液体に、五倍子粉というタンニンを含んだ粉末を混ぜたものです。

【語の読みと注】
お鉄漿溝 おはぐろどぶ
鉄漿 かね
五倍子粉 ふしこ



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ふみちがい【文違い】落語演目



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【どんな?】

淋菌のついた指で目をこすると。当時は「風眼ふうがん」と呼ばれていました。

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

かつての新宿を語った、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)の回顧談が残っています。

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(お女郎さんのいる店)がずいぶんありましたもので」

円生は豊竹節の母親に連れられて、大阪から東京へ。

東京の最初の夜は新宿角筈の芸人宿でした。

その後、さまざまな変転の後、昭和32年(1957)3月、新宿区柏木町(北新宿)に転居。

それ以降、昭和54年(1979)9月に亡くなるまで「柏木の師匠」と呼ばれていました。

東京人生の初めと終わりが新宿で、六代目円生は新宿に縁のある人でした。

「なかでも覚えておりますのは、新金しんかねといううち、それから大万おおよろず、そういうとこは新宿でも大見世おおみせとしてあります」

詳しいものです。

明治末年のころ

円生回顧の「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井のあたりにあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど。

客にどうかは知らず、お女郎さんには過酷な見世だったようです。

芸談・円生

さらに。

六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、「女殺し」。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋きょうじや、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。

蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。

どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿ししゅく(非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。

明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

 

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 

【文違い 三遊亭円生】

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つきやむけん【搗屋無間】落語演目

 

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【どんな?】

搗き米屋の男が花魁にぞっこん。通い倒したその果ては。褒められない廓噺。

「無間」とは無間地獄の略。「無間」そのものは「たえまない」「終わりなし」の意。

あらすじ

信濃者の徳兵衛。

江戸は日本橋の搗き米屋・越前屋は十三年も奉公しているが、まじめで堅い一方で、休みでも遊びひとつしたことがない。

その堅物が、ある日、絵草紙屋でたまたま目に映った、

今、吉原で全盛を誇る松葉楼の花魁、宵山の絵姿にぞっこん。

たちまち、まだ見ぬ宵山に恋煩い。

心配しただんなが、気晴らしに一日好きなことをしてこいと送り出したが、どこをどう歩いているかわからない。

さまよっているうち、出会ったのが知り合いの幇間・寿楽。

事情を聞くとおもしろがって、なんとか花魁に会わせてやろう、と請け合う。

大見世にあがるのに、
「米搗き男ではまずいから、徳兵衛を木更津のお大尽という触れ込みにし、指にタコができているのを見破られるとまずいから、聞かれたら鼓に凝っていると言え」
など、細々と注意。

「あたしの言うとおりにしていればいい」
と太鼓判を押すが、先立つものは金。

十三年間の給金二十五両を、そっくりだんなに預けてあるが、まさか女郎買いに行くから出してくれとも言えないので、店の金を十五両ほど隙を見て持ち出し、バレたら、預けてある二十五両と相殺してくれと頼めばいいと知恵をつける。

さて当日。

徳兵衛はビクビクもので、吉原の大門でさえくぐったことがないから、廓の常夜灯を見て腰を抜かしたり、見世にあがる時、ふだんの癖で雪駄を懐に入れてしまったりと、あやうく出自が割れそうになるので、介添えの寿楽の方がハラハラ。

なんとかかんとか花魁の興味をひき、めでたくお床入り。

翌朝。

徳兵衛はいつまた宵山に会えるか知れないと思うと、ボロボロ泣き出し、挙げ句に、正直に自分の身分をしゃべってしまった。

宵山、怒ると思いのほか、
「この偽りの世の中に、あなたほど実のある人はいない」
と、逆に徳兵衛に岡惚れ。

瓢箪から独楽。

それから二年半というもの、費用は全部宵山の持ち出しで、二人は逢瀬を続けたが、いかにせん宵山ももう資金が尽き、思うように会えなくなった。

そうなると、いよいよ情がつのった徳兵衛。

ある夜、思い詰めて月を眺めながら、昔梅ケ枝という女郎は、無間の鐘をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、庭にあった大道臼を杵でぶっぱたく。

その一心が通じたか、バラバラと天から金が降ってきて、数えてみると二百七十両。

「三百両には三十両不足。ああ、一割の搗き減りがした」

しりたい

わかりにくいオチ  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)7月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

ただ、小さんのやり方では、金がどこから降ったかはっきりしないので、戦後、この噺を得意にした八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)は、だんなが隠しておいた金とし、金額も現実的な三十両としました。

八代目柳枝は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022、春風亭枝女吉→三遊亭吉生)や三遊亭圓彌(林光男、1936-2006、春風亭枝吉→舌生)の最初の師匠です。

「搗き減り」の割合は、現行では二割とするのが普通になっています。

「搗き減り」というのは、江戸時代の搗き米屋が、代金のうち、玄米を搗いて目減りした二割分を、損料としてそのまま頂戴したことによります。

実際は普通に精米した場合、一割程度が米の損耗になりますが、それではもうけがないため、二割と言い立てたわけです。

オチは、したがって普通なら利益のはずの「搗き減り」が、文字通りの損の意味に転化する皮肉ですが、これが現代ではまったく通じません。

そこで、「仕込み」と呼ぶあらかじめの説明が必要になり、現在ではあまり演じられません。

三遊亭円窓が春風亭柳枝のやり方を継承しました。

原話は親孝行、落語はバチあたり  【RIZAP COOK】

原話は、現在知られているものに三種類あります。

まず、安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「台からうす」、ついで、『春笑一刻』中の無題の小咄。『春笑一刻』は、狂歌で名高い大田蜀山人(南畝、1749-1823)がものした笑話本です。安永7年(1778)刊。

現行により近いのが、天保15(1844)年刊『往古噺の魁』中の「搗屋むけん」です。

前二者は、貧乏のどん底の搗き米屋が、破れかぶれで商売道具の臼を無間の鐘に見立て、きねでつくと奇跡が起こって小判が三両。

大喜びで何度もつくと、そのたびに出てくる小判が減り、しまいには一分金だけ。「はあ、つき減りがした」というもの。

天保の小咄になると、金が欲しい動機が、女郎じょうろ買いの資金調達ではなく、年貢の滞りで三十両の金を無心してきている父親への孝心という、まじめなものである以外は、ほぼ現行通りです。

この動機が女郎買いに変わったのは、前記の俗曲「梅ヶ枝の…」が流行した明治前期からといわれます。

搗屋  【RIZAP COOK】

つきや。搗き米屋のことです。普通にいう米屋で、足踏み式の米つき臼で精米してから量り売りしました。

それとは別に、出職(得意先回り)専門の搗屋があり、杵と臼を持ち運んで、呼び込まれた先で精米しました。

「小言幸兵衛」のオリジナルの形は、搗き米屋が店を借りにきて一騒動持ち上がるので、別題を「搗屋幸兵衛」といいます。

無間の鐘  【RIZAP COOK】

むげんのかね。東海道は日坂宿に近い、文字さやの中山峠の無間山観音寺にあったという、伝説の鐘です。撞けば現世で大金を得られるものの、来世では無間地獄に堕ちると言い伝えられていました。

この伝説を基にして、浄瑠璃・歌舞伎の『ひらかな盛衰記』四段目「無間の鐘」の場が作られました。

主人である源氏方の武将・梶原源太と駆け落ちした腰元・千鳥が、身を売って遊女・梅ケ枝となりますが、源太のためになんとか出陣の資金・三百両を調達したいと願い、手水鉢を無間の鐘に見立ててたたきます。するとアーラ不思議、天から小判の雨あられ。

これは実は、源太の母・延寿が情けで楼上からまいたもの、というオチです。明治期にはやった、「梅ヶ枝の 手水鉢 たたいてお金が出るならば……」という俗曲は、この場面を当て込んだものです。

絵草紙屋  【RIZAP COOK】

えぞうしや。江戸のブティックといったところです。「権助魚」参照。絵草紙屋の店番には、たいてい看板娘や美人の女房がいたので、女性や子供の行く店にもかかわらず、なぜか日参する、鼻の下の長い連中が多かったとか。

そのせいか、風紀紊乱のかどで文化元年(1804)、お上から絵草紙屋の取り締まり令が出されています。なかには、枕絵など、いかがわしいものを売る店も当然あったのでしょう。

大道臼  【RIZAP COOK】

おおどううす。搗き米屋が店の前に転がしておく、米搗き用の大臼です。

からだの大きな者、特に相撲取りをあざけり、罵って言う場合もあります。

「ハンショウドロボー」「ウドノタイボク」をもっと強めたニュアンスでしょう。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『め組の喧嘩』では、頭の辰五郎以下、とびの面々が、相撲取りとの出入りで、この言葉を連発します。

信濃者は大食い  【RIZAP COOK】

しなのもの。信州人、信濃人、信州者とも。

信濃=信州は長野県のことですが、あそこの人々はいまだに長野県といわずに「信州」と言ったりしています。

旅行者も「信州に行ってきました」などと言うことがあります。奇妙です。

旧国名から命名した国立大学は、ここにしかありません。信州大学。不思議です。

福島県西部、会津地方の人も自分の出身地を「福島県です」といわずに「会津です」というのは、これまた不思議です。

こちらにも会津大学とかいうのがありますね。

「会津です」をくさす作品に『けんかえれじい』があります。

鈴木隆(1919-98)が昭和41年(1966)発表した小説(理論社→TBS出版会→角川文庫→岩波現代文庫)で、この作品は、鈴木清順(1923-2017)の監督、高橋英樹の主演で映画(日活配給、1966年)にもなりました。

鈴木は童話作家ですが、旧制岡山中学(岡山県立岡山朝日高校)から旧制喜多方中学(福島県立喜多方高校)に転校した自らの体験をもとに、自伝的長編小説として『けんかえれじい』を発表しました。小説も映画も痛快です。

それはともかく。

俗説では、信濃者は大食いなんだそうです。落語や川柳でのお約束です。

喰ふが大きいと 信濃を百ねぎり   十六2

大食いだから給金を値切った、というわけ。

小所で 信濃を置いて 喰ぬかれ   七9

「小所」は小規模の店。

冬の間中、力仕事用に信濃から来た男を安い給金で雇ったのに大食いのため、結局高くついてしまった、というわけ。

冬の内 月三斗づゝ くいこまれ   二十19

こちらも冬の間中、大食いの信濃者に食い込まれてしまった、という句。ずいぶんな言われようです。

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こうやたかお【紺屋高尾】落語演目

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【どんな?】

「幾代餅」は志ん生系。映画「の・ようなもの」のプロットに使われていました。

別題:幾代餅 かめのぞき 紺屋の思い染め 駄染高尾

あらすじ

神田紺屋町の染め物職人、久蔵。

親方のところに十一の年から奉公して、今年二十六にもなるが、いまだに遊びひとつ知らず、まじめ一途の男。

その久蔵がこの間から患って寝ついているので、親方の吉兵衛は心配して、出入りの、お玉が池の竹内蘭石という医者に診てもらうことにした。

この先生、腕の方は藪だが、遊び込んでいて、なかなか粋な人物。

蘭石先生、久蔵の顔を見るなり
「おまえは恋患いをしているな。相手は今吉原で全盛の三浦屋の高尾太夫。違うか」

ズバリと見抜かれたので、久蔵は仰天。

これは不思議でもなんでもなく、高尾が花魁道中している錦絵を涎を垂らして眺めているのだから、誰にでもわかること。

久蔵はあっさり、
「この間、友達に、話の種だからと、初めて吉原の花魁道中を見に連れていかれたのですが、その時、目にした高尾太夫の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それ以来、なにを見ても高尾に見えるんです」
と告白。

「ああいうのを一生一度でも買ってみたいものですが、相手は大名道具と言われる松の位の太夫、とても無理です」
とため息をつくと、先生、
「なに、いくら太夫でも売り物買い物のこと、わしに任せておけば会わせてやるが、初会に座敷に呼ぶだけでも十両かかるぞ」
と言う。

久蔵の三年分の給料だ。

しかし、それを聞くと、希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。

それから三年というもの、男の一念で一心不乱に働いた結果たまった金が九両。

これに親方が足し増してくれて、合わせて十両持って、いよいよ夢にまで見た高尾に会いに行くことになったが、いくら金を積んでも紺屋職人では相手にしてくれない。

流山のお大尽ということにして、蘭石先生がその取り巻き。

帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。

さて、吉原。

下手なことを口走ると紺屋がバレるから、久蔵、感激を必至で押さえ、先生に言われた通り、なんでも
「あいよ、あいよ」

茶屋に掛け合ってみると、折よく高尾太夫の体が空いていたので、いよいよご対面。

太夫だから個室。

その部屋の豪華さに呆気にとられていると、高尾太夫がしずしずと登場。

傾城座りといい、少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると
「お大尽、一服のみなんし」
「へへーっ」

久蔵、思わず平伏。

太夫ともなると、初会では客に肌身は許さないから、今日はこれで終わり。

花魁が型通り
「ぬし(主)は、よう来なました。今度はいつ来てくんなます」
と聞くと、久蔵、なにせこれだけで三年分の十両がすっ飛び、今度といったらまた三年後。その間に高尾が身請けされてしまったら、これが今生の別れだと思うと感極まり、思わず正直に自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまう。

ところが、それを聞いて怒るどころか、感激したのは高尾太夫。

「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か……わちきは来年の二月十五日に年季が明けるから、女房にしてくんなますか」
と言われ、久蔵、感激のあまりり泣きだした。

この高尾が、紺屋のかみさんとなって繁盛するという、「紺屋高尾」の由来話。

底本:四代目柳亭左楽、六代目三遊亭円生

しりたい

藍染め   【RIZAP COOK】

布染めや糸染めを手がける職業を紺屋といいました。

糸染めだけを商売とするのは青屋といいました。

紺でも青でも、それ以外の色を染め出しても、染め物業は紺屋、青屋といっていました。

防虫防蛇の効果がある藍が染め物の代表格だったからです。

藍は色あせにくく、作業衣に向き、庶民衣装の基本の色だったからです。

発酵させた葉藍(蒅=すくも)を臼でつき、藍玉にして瓶に注ぎ、水と石灰を付け足して藍汁をとつくります。

瓶に添えた火壷で加熱しながら、ゆででつぶした甘藷(または水)で溶かした黒砂糖を添加して蓋をし、蓋をとってはかき回したりして、藍汁に光沢が出て泡(これを花と呼びます)が立つまで。しめて八日間かかる藍染め作業です。

作業場(染め場)には愛染明王を祀り(「愛染」を「あいぞめ」と読める音から)、四六時中、藍汁をなめてその具合を確認しながらの忍耐強い作業から、藍は生まれていきます。

職人の指は藍がしみついているのです。

高尾太夫代々   【RIZAP COOK】

高尾は代々吉原の名妓で、歌舞伎十八番「助六」でおなじみの三浦屋の抱え女郎です。

詳しい年代は不詳ですが、宝永(1704-11)から正徳(1711-16)にかけてが全盛といわれます。

紺屋の名は、実際は九郎兵衛とも伝わっています。

九郎兵衛の妻となった紺屋高尾または駄染め高尾は、三代目、または五代目ともいわれています。確証はありません。

高尾太夫は、吉原の三浦屋の抱え遊女の源氏名です。

これは複雑で、しかのも不詳や異説が多く、記すのもはばかられます。

七代、九代、十一代で混乱しているため、通称で呼んだりしています。

あえて整理してみましょう。

一般的な流布説をまとめました。

初代 通称なし。元吉原時代(1617-57)
二代 万治高尾、仙台高尾。伊達綱宗との巷説で。ここから新吉原時代に
三代 紺屋高尾、駄染め高尾。水谷高尾の一説も
四代 浅野高尾。浅野紀伊守(壱岐守とも)が身請けした巷説で
五代 紺屋高尾の異説も
六代 榊原高尾、越後高尾。姫路藩主榊原政岑が身請けし巷説で。越後高田に移封
七代 六つ指高尾。足の指が六本あったことで例外的に足袋を履いていた巷説で
八代 浅野高尾とも
九代 水茶屋高尾。采女が原(中央区東銀座)の水茶屋女になった巷説で
十代 榊原高尾とも
十一代 榊原高尾とも

高尾の素性も履歴も、まるでわかっていないことがわかります。

これが現状です。

わざわざこんなものを調査する、まともな研究者がいないのですね。

残念です。紺屋高尾は三代、五代でダブっています。

浅野高尾は四代、八代でダブり。

榊原高尾にいたっては、六代、十代、十一代で。こうなると、ほとんどあやしいとしかいえません。

高尾太夫を史実で探るのはナンセンス。伝説や物語でしか通用しません。

落語の世界でたっぷり楽しみましょう。

三代目の「水谷高尾」   【RIZAP COOK】

三代目高尾には異説があります。その名を水谷高尾という、もう一人の高尾像が伝えられています。

この人、もっともドラマチックな人生を経めぐったのではないでしょうか。

これだって、史実かどうかといわれれば、はなはだあやしいかぎりですが。

ただ、おもしろい人生です。

いろいろ着色したくなりますね。

新吉原の三浦屋で三代目高尾太夫を名乗っていた遊女が、水戸家の為替御用達、水谷六兵衛(水谷庄左衛門とも)に身請けされました。

この人は武士ではなく商人です。六兵衛の下人、当時六十八歳だった平右衛門と不義に陥って出奔。

その後、浄瑠璃語りの半太夫の妻となるも、家を出て牧野駿河守の側女に。

中小姓の河野平馬と通じて出奔。

めぐりめぐって深川の髪結いの女房となりながらも、やがては役者の袖岡政之助とつながったそうです。

最後には、神田三崎町の元結売りの妻となったそうですが、ここも落ち着かず。いつの日か、下谷大音寺前の茶屋、鎌倉屋の前で倒死していたといいます。

すごい人生です。

この女性は「三九高尾」とも呼ばたとか。達筆だったそうで、「ん」の字に特徴があったので、「はね字高尾」とも呼ばれたそうです。

万事こんな調子で尾ひれが付いていくのです。

さらには、島田重三郎(「反魂香」参照)とも恋仲だったという巷説まで付いて、盛り盛り高尾です。

花魁   【RIZAP COOK】

おいらん。吉原の遊女、女郎の別称です。最高位の「太夫」となれたのは二百人に一人といわれます。

享保(1716-36)ごろまでは、吉原では遊女のランクは、
(1)太夫
(2)格子
(3)散茶
(4)梅茶
(5)局
の順で、太夫と格子がトップクラスでした。

この(1)と(2)を合わせて、部屋持ち女郎の意味で「おいらん」(花魁は中国語の当て字)という名称が付きました。

語源は「おいら(自分)のもの」からとか。だいたい明和年間(1764-72)から使われ出したものです。

のちに、単に姉女郎に対する呼びかけ、さらには下級女郎に対しても平気で使われるようになりました。

これは、早く宝暦年間(1751-64)にトップ2の太夫と格子が絶えたのを端緒に、なし崩しに呼び名が下へ下がっていったためです。

ただし、どんな時代でも「おいらん」は吉原の女郎に限られました。

花魁については「盃の殿さま」の「吉原花魁盛衰記」にも記しておきました。

落語よりも浪曲で   【RIZAP COOK】

遊女は客にほれたといい
客はきもせでまたくるという
うそとうそとの色里で
恥もかまわず身分まで
よう打ち明けてくんなました
金のある人わしゃきらい
あなたのような正直な方を捨ておいて
ほかに男をもったなら
女冥利に尽きまする
いやしい稼業はしていても
わしもやっぱり人の子じゃ
情けに変わりがあるものか
義理という字は墨で書く

これは初代篠田実(1898-1985)の「紺屋高尾」です。

大正から昭和にかけての浪曲師。本名です。

京都府福知山市の出身。

大正12年(1923)9月、埋め草にかつて録音してあった「紺屋高尾」が、傾いたレコード会社が震災後のどさくさに苦し紛れに発売。

それが空前の大ヒットとなりました。

ヒコーキレコードという会社(その後日蓄と合併)が起死回生、V字回復をを演じました。

昭和初期には全国津々浦々でこの一節がうなられていたわけです。

というか、「紺屋高尾」といえば、落語よりも浪曲で知られていました。

ありんす言葉   【RIZAP COOK】

吉原では、古くから独特の廓(さと)言葉が使われていました。

この噺の高尾が使う「なます」「ありんす」「わちき」などの語彙がそれで、「ありんす」言葉ともいいました。

起源ははっきりしませんが、京の島原遊廓で諸国から集められた女たちが、里心がついて逃走しないよう、吉原の帰属意識をもたせるために考え出されたものといわれます。

エスペラント同様の人工語であるわけです。

したがって、島原(京)や新町(大坂)の遊女も当然同じような言葉を使っていたわけです。

江戸が18世紀後半以後、文化の中心になると「吉原詞」として全国に知れ渡り、独自の表現や言い回しが生まれていきました。

「行きまほう(=行きましょう)」「くんなまし」「そうざます」などもそうです。

昭和30年代に東京山の手の奥サマが使う「ざあます言葉」というのがさかんに揶揄されました。

実は、女郎言葉の名残だったわけです。

なんともいやはや、お皮肉なことでありんす。

極めつけ円生十八番   【RIZAP COOK】

この噺、実話をもとにしたものとされますが、詳細は不詳です。

戦後では六代目三遊亭円生の独壇場でした。

「かめのぞき」のくだりは、高尾が瓶にまたがるため、水に「隠しどころ」が映るというので、客が争ってのぞき込む、というエロチックな演出がとられることが昔はありました。

円生はその味を生かしつつ、ストレートな表現を避け、「ことによると……映るんじゃないかと」と、思わせぶりで演じるところが、なんとも粋でした。

この噺はふつう、オチらしいオチはありません。

四代目柳亭左楽(オットセイの左楽、「松竹梅」)は、与三という男が高尾の顔を見に行きたいが、染めてもらうものがないため、長屋のばあさんに手拭いを借りにいくものの、みな次から次へと持っていくからもうないと断られ、たまたま黒猫が通ったので「おばさん、これ借りるよ」「なんだって黒猫を持っていくんだ」「なに、色揚げ(色の褪めた布を染め直す)してくる」とオチていました。円生もときにこれを踏襲して落としていました。

後日談   【RIZAP COOK】

この後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろってなんとか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案し、客がまた高尾の顔見たさに殺到したので、たちまち江戸の名物になったという後日談を付けることがあります。

高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを客が待ちます。

高尾が下を向いていて顔が見えないので、客が争って瓶の中をのぞき込んだことから染め物に「かめのぞき」という名がついたという由来話で締めくくります。

前項のエロ演出は、もちろんこれの「悪のり」です。

類話に「幾代餅」   【RIZAP COOK】

まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。

「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。

五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。

志ん生の弟子、古今亭円菊も、その弟子の古今亭菊之丞も。十代目金原亭馬生の弟子、五街道雲助もご多分に漏れず「幾代餅」です。雲助の弟子、桃月庵白酒も。志ん朝は「幾代餅」でも「紺屋高尾」でもやっていました。

志ん朝の弟子、古今亭志ん輔も。別系統ながら、柳家さん喬柳家権太楼もよい味わいです。

類話はもう一つ。「搗屋無間」も同工異曲の噺といってよいかもしれません。

「幾代餅」のあらすじ   【RIZAP COOK】

日本橋馬喰町一丁目の搗き米屋の奉公人、清蔵。人形町の絵草紙屋で見た、吉原の姿海老屋の幾代太夫の一枚絵に恋患いし、仕事も手につかない。

親方六右衛門の助言で一念発起、一年とおして必死に働いた。

こさえた金が十三両二分。ちょっと足りない。そこに六右衛門が心づけて、しめて十五両に。

六右衛門は近所の幇間医者、籔井竹庵に事情を話して、吉原への手引きを頼んだ。

竹庵、蹴転のあそびから大籬のあそびまでの通人だ。

竹庵の手引きで、野田の醤油問屋の若旦那という触れ込みで清蔵は吉原に。

初会ながらも情にほだされた幾代太夫は、年季明けに清蔵の元に、という約束。

明けた三月、幾代は清蔵に嫁いだ。

親方の六右衛門は清蔵を独立させ、両国広小路に店を持たせた。

店のうまい米を使って二人が考案した「幾代餅」が大評判となり名物となった。

二人は幸せに暮らし天寿を全うした、というめでたい一席。

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にしきのけさ【錦の袈裟】落語演目

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【どんな?】

町内の若い衆がこぞって、錦の褌を締めて吉原に繰り出すことを考えた。

質流れの錦を仕立てて褌をつくったが、一人分足りない。

あぶれた与太郎は、お寺の坊さんから錦の袈裟を借りて乗り込む。

そのせいか、与太郎ばかりがもててしまった。

もとは上方の噺。これも廓噺なんでしょうかね。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

【あらすじ】

町内の若い衆わけえし
「久しぶりに今夜吉原なかに繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。

やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦のふんどしをそろいであつらえ、相撲甚句じんくに合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。

ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎は、女郎じょおろ買いに行きたい一心。

鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこで、かみさんの入れ知恵を。

与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。

なんとか、これで全員そろった。

一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。

驚いたのは、廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪けさわという白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは、全部きれいに振られた。

こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。

翌朝。

ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。

当人は花魁おいらんとしっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。

与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。

東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンです。

上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。

東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。

先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。

江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称・住吉踊り。

明治初期に東京で豊年斎梅坊主ほうねんさいうめぼうず(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。

新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。

尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。

尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。

この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。

紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。

なんだか、わかったようなわからないような。

インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。

中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。

これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。

大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。

こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。

与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。

これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。

貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。

緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。

七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足のコラム】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。

若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。

落語の格好の題材となる。

海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。

この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。

大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。

会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。

円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。

円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。

どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものなんだなあ。

古木優

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くるわだいがく【廓大学】落語演目

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【どんな?】

廓中毒の若だんなのばかぶり、儒学のばからしさをも笑います。

【あらすじ】

若だんなが吉原に入り浸り。

もう堪忍袋の緒が切れたと、親だんなが勘当しようとする。

それを番頭が止める。

「若だんなは反省して、今二階に閉じこもって『大学』の素読をしているので今度だけは勘弁してやってほしい」と取りなす。

親だんなも、「まじめになってくれるのなら言うことはない」と、二、三日ようすを見ることにした。

初めは、改心を装っていた若だんな。

時がたつと、だんだん本性を現し、がまんすればするほど吉原が恋しくなる。

「俺くらいになると、吉原中の人間に顔を知られている」
と、モテにモテた日々を回想し、
「吉原の車屋は威勢がよかった」
とか、
「山谷から船で芸者を連れて遊びに出たら、帰りが遅いと見番(廓の出入りの管理者)に文句を言われたが、廓の世話人の久兵衛に取りなしてもらった」
とか、
「吉原では番頭新造が花魁の懐を握っている」
とか、
「禿は居眠りすると相場が決まっている」
などと、次から次へと思い出すたびに、矢もたてもたまらなくなって、思わず大声を張り上げてしまう。

それを聞きつけたおやじ、二階に上がってきて
「このばか野郎。番頭が、おまえは『大学』の素読をしていると言うから覗いてみれば、とんでもないことをしゃべってやがる」
「えー、おとっつぁん、私はこれで『大学』の素読をしてましたんで」
「なんだい、これは。大変小さい本だねえ」
「へえ、『廓大学』と申します」

実は、「吉原細見」という案内書。

若だんな、ここで勧進帳よろしく、「大学」と見せかけて読み上げる。

「大学、朱憙章句、ご亭主のいわく、大学の道は道楽を明らかにするにあり、金を使わすにあり、自然に止まるにあり、と」

大学のパロディーを展開して、おやじをケムにまく。

親だんなが、なんだか怪しいと本を取り上げてみると、「松山・玉章」(花魁の名)。

「なんだ、マツヤマタマズサってえのは」
「おとっつぁん、そうお読みになっちゃいけません。ショウザンギョクショウ。ともに儒者の名です」
「変な先生方だねえ。どこにいるんだ」
「行ってみなさい。ズラリと格子の内に並んでます」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

大学

「廓大学」の「大学」は、儒教の経典で四書五経のうち、四書の一つ。書名です。

五経のうちの「礼記」の一編で、朱熹が注釈、改訂しました。

四書は儒学の根本経典である五経を学ぶための補助教材です。「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書。

政治の理想と士太夫のあるべき姿を示すもので、朱子学一辺倒の旧幕時代には、支配階級である武士の必修テキストでした。

若だんなの読み上げるのは、そのパロディー。

儒教道徳の要であるガチガチの学術書を軟派の極みのお女郎買い指南にすり替えたあたり、この噺の「作者」の並みでない反骨精神が感じられます。

吉原細見

正しくは「新吉原細見記」。吉原廓内の娼家、揚家、茶屋と遊女名が詳細に記された、絵図つき案内書です。ガイドブックです。

毎年タイトルを変えて改訂され、延宝年間(1673-81)から大正5年(1916)まで、二百三十余年にわたって発行され続けました。

安永4年(1775)版の『籬の花』、天明3年(1783)版の『五葉松』などが有名です。

初代小せんの十八番

明治中期まで、二代目柳家(禽語楼)小さんが得意にし、そのうまさは折り紙つきだったといいますが、速記は残されていません。

小さんは士族出身で、武張った噺がうまかった人。

もちろん幼時には、「大学」の素読くらいさせられたでしょうから、こういうパロディーは、お手のものだったでしょう。

大正期には、初代柳家小せんの十八番でした。廓噺の完成者。

二代目小さんの孫弟子です。

現存する小せんの速記は、大正8年(1919)9月に、小せんの遺著として出版された、『廓ばなし小せん十八番』に収録されています。

貴重な文献資料

若だんなが吉原の回想をする、小せんの次のようなくだりは、今では貴重な文化的資料(?)といえます。

「昔は花魁がお客に無心をする、積み夜具(客がお女郎となじみになったしるしに、新調の夜具を積み重ねて飾る)をあつらえることも出来ないから、本床をあつらえてやらうてえんで床をあつらえてくれると、ふだんはどんなにに振られているお客でも、その晩だけは大切にされたもんだとかいうね、実に吉原というところは不思議なところだねえ」

「車と言えば、吉原の車と町車とは違うね、堤(吉原の日本堤という土手)の車なんと来た日には威勢がいいんだからなア」

「車」は人力車のことです。

今じゃ聴けない噺

原話は寛政8年(1796)刊の創作小咄本『喜美談語』中の「学者」です。

吉原に入りびたりのせがれをおやじが心配し、儒者の先生に意見を頼みます。ところが、若だんなもさるもので、自分のなじみの女郎は博学の秀才で「和漢の書はおろか、客の鼻毛まで読みます」などと先生をケムにまくものです。

初代小せん没後、後継者はありません。

日本の現代社会はすでに儒学の基本がすたれているため、今では誰も笑えないでしょう。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
禿 かむろ
細見 さいけん
勧進帳 かんじんちょう
朱憙 しゅき:朱子。1130-1200年
籬の花 まがきのはな
本床 ほんどこ

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おみたて【お見立て】落語演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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【どんな?】

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸むしずが走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽もくべえだいじんに会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗ぜんでらしゅうで」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
養空食傷信士ようくうしょくしょうしんじ天保八年酉年てんぽうはちねんとりどし

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
天垂童子てんすいどうじ安政二年卯年あんせいにねんうどし
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしません。

武藤禎夫(1926-)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』に収載の「手くだの裏」とのこと。

武藤禎夫は朝日新聞在職中、「日本古典文学全書」を企画担当した編集者です。

その後、共立女子短大教授に転じました。専門はいちおう近世の舌耕芸。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺くるわばなしです。

現存でもっとも古いのは、「墓違い」と題した明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記。

ここでは、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。

林家彦いちなんかもそうやっていました。

現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)はじめ、多くの大看板が手がけました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼あいかたを選ぶことと掛けたものです。

「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎ぎゅうたろう)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町すみちょうの全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽傳』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。

杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸(石川清之助、1920-83)。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

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いのこりさへいじ【居残り佐平次】落語演目

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【どんな?】

『幕末太陽傳』の元ネタ。痛快な廓噺。「佐平治」とも記し嫌がられ役の代名詞。

   世界遺産になってもちっとも不思議でない落語映画の最高峰!☞

あらすじ

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散在しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺に任せろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

居残り  【RIZAP COOK】

「居残り」は遊興費に足が出て、一人が人質として残ることです。もとより、そんな商売があるわけではありません。

「佐平次」ももともとは普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

映画『幕末太陽傳』(川島雄三監督、日活、1957年)では、「居残り佐平次」を中心に、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」などが挿入されています。

こんなすばらしい作品が生まれた日本は、これだけで世界に誇れます。

品川遊郭  【RIZAP COOK】

品川は、いわゆる四宿ししゅく(=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。

吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、労咳ろうがい(結核)患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ  【RIZAP COOK】

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、立川談志(松岡克由、1935-2011)が「あんな奴にウラを返されたら、後がこわい」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)のものだったでしょう。

【RIZAP COOK】

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