とんちき【とんちき】演目

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「とんちき」とは「まぬけ」の意。奇妙な構成が笑わせます。

【あらすじ】

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月、『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せんでした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見ると、マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目志ん生が、しばしば使っていたネタ。残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳。昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音がひっくり返ったようです。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、またはシャレでひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例でしょう。

深川の岡場所(遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

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つきおとし【突き落とし】演目

★auひかり★

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「居残り佐平次」「付き馬」と合わせて「廓噺の三大悪」の一つ、と言われてます。

別題:棟梁の遊び(上方)

【あらすじ】

町内の若い者が集まって
「ひとつ、今夜は吉原へでも繰り込もう」
という相談。

ところが、そろいもそろって金のない連中ばかり。

兄貴分が悪知恵をめぐらし、一銭もかけずに飲み放題の食い放題、という計画を考え出す。

作戦決行。

兄貴分が大工の棟梁に化け
「いつも大見世でお大尽遊びばかりしているので飽きちまったから、たまには小見世でこぢんまりと遊んでみたい」
などと大声で吹きまくり、客引きの若い衆の気を引いた上、一同そろって上がり込む。

それから後は、ドンチャン騒ぎ。

翌朝になって勘定書が回ってくると、ビールを九ダースも親類へ土産にするわ、かみさんが近く出産予定の赤ん坊用にたらいまで宿の立て替えで届けさせるわで、そのずうずうしさにさすがの「棟梁」も仰天した。

ニセ棟梁が留公に
「勘定を済ますから昨日てめえに預けた紙入れを出せ」
という。

この男、実はこれから殴られたうえ
「バカだマヌケだ」
と言われなくてはならない一番損な役回り。

「てめえは役者の羽左衛門に似ているから、いい役をやるんだ」
とおだてられ、しぶしぶ引き受けたが、頭におできができているので、内心びくびく。

留公が筋書き通り
「実は姐さんに『棟梁は酔うと気が大きくなる人だから、吉原へでも行って明日の上棟式に間に合わないと大変だから、お金は私に預けておくれ』と頼まれたので、金は持っていません」
と答えると、待ってましたとばかりに
「なんだと、てめえ、俺に恥ィかかせやがって」
とポカポカ。

留公、たまらず
「だめだよ兄貴。こっち側をぶってくれって言ったのに」
と口走るのを聞かばこそ、ポカポカポカポカ。

そこでなだめ役が
「この留はドジ野郎ですからお腹も立ちましょうが、ここはわっちらの顔を立てて」
とおさめ、若い衆には
「こういうわけで、これから棟梁の家まで付いてきてくれれば、勘定を払うばかりか、おかみさんは苦労人だから祝儀の五円や十円は必ずくれる」
と、うまく持ちかけて付き馬に連れ出す。

途中、お鉄漿溝で
「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから、ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆、お前さんもつき合いねえ」

渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき、背中をポーンと突いたから、あわれ若い衆はどぶの中へポッチャーン。

その間に全員、風を食らって一目散随徳寺。

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

三木助十八番、決まらないオチ

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から伝わる生粋の江戸廓噺です。大正期には、初代柳家小せんの速記が残り、戦後では三代目桂三木助(1903-61)の十八番。春風亭柳朝も得意にしましたが、ともに速記のみで音源はなく、珍しく六代目三遊亭円生が、昭和41年(1966)5月にTBSラジオで演じた音源が残ります。

オチは、三木助が「泥棒だな、おい」と加えて悪らつさを薄めたり、一人が遅れて戻り、「いい煙草入れだから、惜しくなって抜いてきた」とするものもありますが、どれも決め手を欠き、いまだに決定的なものはありません。本あらすじのは、初代小せんのものを採りました。

上方版「棟梁の遊び」

異色なのは、大阪の六代目笑福亭松鶴が演じた「棟梁の遊び」で、これは、舞台を松島遊郭に移した、東京の「突き落とし」からの移植版。昔から、大阪→東京の移植は無数にはあっても、逆は珍しい例です。移植者や時期は不詳ですが、こちらはオチが東京の「大工調べ」のをいただいて「大工は棟梁、仕上げをご覧じ」という、ダジャレオチになっています。

廓噺の三大悪

飯島友治(落語評論家)は「突き落とし」「居残り佐平治」「付き馬」を後味の悪い「廓噺の三大悪」と呼んでいます。落語に道徳律を持ち込むほど愚かしいことはありません。

「黄金餅」のようなアナーキーな噺を得意にした五代目古今亭志ん生は、この噺だけは「あんな、ひどい噺はやれないね」と言って生涯、手掛けませんでした。志ん生は若き日、初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて、「突き落とし」も当然教わっているはずですが、「ひどい噺」と嫌った理由は今となってはわかりません。

吉原への愛着から、弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか、または、小見世の揚げ代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。さて、どうでしょう。

小見世

下級の安女郎屋ですが、一応店構えを持っているところが、さらにひどい「ケコロ」などの私娼窟と違う点です。大見世と違い、揚代が安い分、必ず前払いで遊ばなければならない慣わしなので、この噺では、苦心してゴマかさなければならないわけです。

お鉄漿溝

おはぐろどぶ。最後に若い衆が突き落とされる水路ですが、吉原遊郭の外回りを囲むよう掘られた幅二間(約3.6m)のみぞです。通説では、遊女の逃亡(廓抜け)を防ぐため掘られたといいます。お女郎が、歯を染めた鉄漿の残りを捨てたので、水が真っ黒になったのが名前の由来ということです。鉄漿は、鉄片を茶や酢に浸して酸化させた褐色の液体に、五倍子粉というタンニンを含んだ粉末を混ぜたものです。

【語の読みと注】
お鉄漿溝 おはぐろどぶ
鉄漿 かね
五倍子粉 ふしこ

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首ったけ くびったけ 演目

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珍しく、遊廓の女がひどい目にあう噺です。

【あらすじ】

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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【しりたい】

原話は寄せ集め

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3 1774)年刊「軽口五色帋 ごしきがみ)」中の「女郎の川ながれ」、天明2 1782)年刊の「富久喜多留」中の「迯 にげ)そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売

古い速記では、大正3 1914)年の四代目橘家円蔵のものがあります。

戦後は、二代目三遊亭円歌が演じたほかは、五代目古今亭志ん生の、ほぼ一手専売でした。志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せんの直伝でしょう。志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、女郎に、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、息子の十代目馬生、志ん朝に伝わりました。馬生のは、レコードもあります。最近では、ほとんど手掛ける者がいません。

吉原の火事

吉原遊郭は、明暦の大火(1657年)によって全焼。そのため、日本橋から浅草日本堤に移転しますが、その後も、明治維新までに平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、六千五百戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を大歓迎したとか。

おはぐろどぶ

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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親子茶屋 おやこぢゃや 演目

【RIZAP COOK】

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親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

【あらすじ】

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父 おやじ)はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江ノ島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江ノ島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳
「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

【RIZAP COOK】

近江八景 おうみはっけい 演目

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うんちく垂れ流しのはなし。ちょいとオチが苦しいですが、けっこう笑えます。

【あらすじ】

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。上方落語研究家の故・宇井無愁は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」を挙げています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝が手掛け、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西の正蔵、1929年没)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以後では、六代目三遊亭円生が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。三代目三遊亭金馬、五代目三升家小勝もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところですが、じつは古今亭志ん朝がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘
石山の秋月
堅田の落雁
粟津の晴嵐
矢橋の帰帆
比良の暮雪
唐崎の夜雨
瀬田の夕照

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。

「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。

「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。

「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する人情噺「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目円生は『円生全集別巻』の補説で、あるいはこの噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。江戸時代、当時の領主中山信敬が儒者亀里亀章に選ばせたものだそうですが、元ネタがあるのでそれに見合った場所を選定するだけの労力で済みます。

竜子の晴嵐
二本松の秋月
関根の夕照
永田の落雁
能仁寺の晩鐘
天南堂の暮雪
荒崎の夜雨
高戸の帰帆

元祖「瀟湘八景」のパクリです。こんなが日本中いたるところにあり、今では饅頭や最中なんかが販売されています。経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。湖南省長沙市のあたりです。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

【語の読みと注】
算木 さんぎ:易で使う四角の棒。約9cm、6本でセット
筮竹 ぜいちく:易で使う竹ひご状の棒。35cm~55cm、50本でセット
沢火革 たくかかく:易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済 すいかきせい:易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸 くつのかけ
浮御堂 うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景 しょうしょうはっけい

【古今亭志ん朝 近江八景】

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お見立て おみたて 演目

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志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁。

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸が走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽に会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗で」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
「養空食傷信士、天保八年酉年」

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
「天垂童子、安政二年卯年」
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(落語研究家)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』中の「手くだの裏」とのこと。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺ですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の柳家禽語楼(二代目禽語楼小さん)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋はじめ、多くの大看板が手掛けました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼を選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町の全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(1958年、川島雄三監督、日活)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

【語の読みと注】
喜瀬川 きせがわ
花魁 おいらん
杢兵衛 もくべえ
大尽 だいじん
虫酸が走る むしずがはしる
惚れる ほれる
廓 くるわ
敵娼 あいかた

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明烏 あけがらす 演目

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堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門内に監視所があり、俗に四郎兵衛と呼ばれましたが、お上に協力して不審者をチェックする場所。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2(1819)-7年には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。

もてるもてないは、どこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。(古木優)

ふみちがい【文違い】演目

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淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」という病です。

【あらすじ】

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

【しりたい】

六代目三遊亭円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・三遊亭円生

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。

それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。

「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。

芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。

だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭メモ

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。

飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。

正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。

甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

落語演目の索引

【文違い 三遊亭円生】

ごにんまわし【五人廻し】演目

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明治の噺。古典落語は関東大震災以前の作品のことなんですね。

【あらすじ】

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁(おいらん)が一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁。

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にも一向に現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいい方で、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎の喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履の音がする度に今度こそはと身を乗り出しても、哀れ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

喜助に散々毒づいた挙げ句、モモンガ-、チンケント-、脚気衝心、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョ、まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうからそう思えと言いたい放題。

ほうほうの体で逃げだすと、次は官員らしい野暮天男。

四隣沈沈、空空寂寂、閨中寂寞とやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウじゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだとまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、何と田舎大尽の杢兵衛だんなの部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれと文句を言うと「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフになるだからっちゅうてオラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」と、いい気にノロケて、玉代をけえせっちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれと言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が「もう一円はずみなさいよ」

あたしに一円くれというので、出してやると喜瀬川が「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」「オラがもらってどうするんだ」「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

【しりたい】

みどころ

明治初期の吉原遊郭の様子を今に伝える、貴重な噺です。「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

特に、六代目円生のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題に振舞っていたことがわかります。

廓噺と盲小せん

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本(しゃれぼん)の流れを汲み、かつては数多く作られ演じられましたが、現在では一部の噺を除いてすたれました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、薄幸の天才落語家・初代柳家小せん(1883-1919)です。

歌人の吉井勇にも愛された小せんは、若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺を伝え残しました。

「五人廻し」の演出 その1

現行のものは初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通、田舎大尽(だいじん=金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫ということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。本サイト「千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れてみました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

「五人廻し」の演出 その2

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日(いっか)に解放(注:娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。その他、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管を突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目小さんの古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽が振られた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

【五人廻し 古今亭志ん朝】

いのこりさへいじ【居残り佐平次】演目

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映画『幕末太陽傳』元ネタ。痛快な廓噺。佐平治とも記し嫌がられ役の代名詞。

【あらすじ】

仲間が集まり、今夜は品川遊廓で大見世遊びをして散在しようということになったが、みんな金がない。

そこで一座の兄貴分の佐平次が、俺に任せろと胸をたたく。

大見世では一晩十五円はかかるが、のみ放題食い放題で一円で済まそうという。

一同半信半疑だが、ともかく繰り込んだのが「土蔵相模」という有名な見世。

その晩は芸者総揚げで乱痴気騒ぎ。

さて寝る段になると、佐平次は仲間を集めて割り前をもらい、この金をお袋に届けてほしい、と頼んだ。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「どうせ胸を患っていて、医者にも転地療養を勧められている矢先当分品川でのんびりするつもりなので、おまえたちは朝立ちして先に帰ってくれ」と言う。

翌朝若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次、早速舌先三寸で煙にまき始める。

まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。

心配になってまた催促すると、帰った四人が夜、裏を返しにきて、そろって二日連続で騒ぐから、きれいに明朝に精算すると言う。

いっこうに仲間など現れないから、三日目の朝またせっつくと、しゃあしゃあと「金はねえ」。

帳場はパニックになるが、当人少しも騒がず、蒲団部屋に籠城して居残りを決め込む。

だけでなく、夜になり見世が忙しくなると、お運びから客の取り持ちまで、チョコマカ手伝いだした。

無銭飲食の分働くというのだから、文句も言えない。

器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい気持ちにさせた上、幇間(たいこもち)顔負けの座敷芸まで披露するのだから、たちまちどの部屋からも「居残りはまだか」と引っ張りだこ。

面白くないのが他の若い衆で、「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだからたたき出せ」と主人に直談判する。

だんなも放ってはおけず、佐平次を呼び、勘定は待つからひとまず帰れと言う。

ところがこの男、自分は悪事に悪事を重ね、お上に捕まると、三尺高い木の空でドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれととんでもないことを言いだし、だんなは仰天。

金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いしたが、それでも心配で、あいつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじり。

驚いて問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次てんだ、よく覚えておけ」と捨てぜりふ。

聞いただんな、
「ひでえ奴だ。あたしをおこわにかけた」
「へえ、あなたのおツムがごま塩です」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

居残り

居残りは遊興費に足が出て、一人が人質として残ることですが、そんな商売はありません。ところで、「佐平次」も元々は普通名詞だったのです。古くから芸界で「図々しい人間」を意味する隠語でした。

品川遊郭

いわゆる四宿(ししゅく=品川、新宿、千住、板橋)の筆頭。吉原のように公許の遊廓ではないものの、海の近くで魚はうまいし、佐平次が噺の中で言うように、結核患者の転地療養に最適の地でした。

おこわ

オチの「おこわにかける」は古い江戸ことばで、すでに明治末年には死後になっていたでしょう。

語源は「おおこわい」で、人を陥れる意味でした。

それを赤飯のおこわと掛けたものですが、もちろん今では通じないため、立川談志が「あんな奴にウラを返されたら、後が恐い」とするなど、各師匠が工夫しています。

昔から多くの名人・上手が手がけましたが、戦後ではやはり六代目円生のものだったでしょう。

【居残り佐平次 古今亭志ん朝】

おなおし【お直し】演目

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廓噺。吉原育ちの男女が切羽詰まって商売を。辛くて悲しいのになぜかガハハ。

【あらすじ】

盛りを過ぎた花魁(おいらん)と客引きの若い衆が、いつしか深い仲に。

廓では「同業者」同志の色恋はきついご法度。

そこで隠れて忍び逢っていたが、いつまでも隠し通せない。

主人に呼ばれ、
「困るじゃないか。おまえたちだって廓の仁義を知らないわけじゃなし。ええ、どうするんだい」

結局、主人の情けで、女は女郎を引退、取り持ち役の「やり手」になり、晴れて夫婦となって仲良く稼ぐことになった。

そのうち、小さな家も借り、夫婦通いで、食事は見世の方でさせてもらうから、金はたまる一方。

ところが、好事魔多し。

亭主が岡場所通いを始めて仕事を休みがちになり、さらに博打に手を染め、とうとう一文なしになってしまった。

女房も、主人の手前、見世に顔を出しづらい。

「ええ、どうするつもりだい、いったい」
「どうするって……しようがねえや」

亭主は、友達から「ケコロ」をやるように勧められていて、もうそれしか手がない、と言う。

吉原の外れ、羅生門河岸で強引に誰彼なく客を引っ張り込む、最下級の女郎の異称。

女が二畳一間で「営業」中、ころ合いを見て、客引きが「お直し」と叫ぶと、その度に二百が四百、六百と花代がはねあがる。

捕まえたら死んでも離さない。

で、
「ケコロはおまえ、客引きがオレ」

女房も、今はしかたがないと覚悟するが、
「おまえさん、焼き餠を焼かずに辛抱できるのかい」
「できなくてどうするもんか」

亭主はさすがに気がとがめ
「おまえはあんなとこに出れば、ハキダメに鶴だ」
などとおだてを言うが、女房の方が割り切りが早い。

早速、一日目に酔っぱらいの左官を捕まえ、腕によりをかけてたらし込む。

亭主、タンカを切ったのはいいが、やはり客と女房の会話を聞くと、たまらなくなってきた。

「夫婦になってくれるかい?」
「お直し」
「おまえさんのためには、命はいらないよ」
「お直し」
「いくら借金がある? 三十両? オレが払ってやるよ」
「直してもらいな」

客が帰ると、亭主は我慢しきれず、
「てめえ、本当にあの野郎に気があるんだろ。えい、やめたやめた、こんな商売」
「そう、あたしもいやだよ。……人に辛い思いばかりさせて。……なんだい、こん畜生」
「怒っちゃいけねえやな。何もおまえと嫌いで一緒になったんじゃねえ。おらァ生涯、おめえと離れねえ」
「そうかい、うれしいよ」
とまあ、仲直り。

むつまじくやっていると、さっきの酔っぱらいがのぞき込んで、
「おい、直してもらいねえ」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

ケコロ

ケコロというのは、もともと吉原に限らず、江戸の各所に出没していた最下級の私娼の総称です。

ただし、吉原のケコロは、江戸の寛政年間(1789-1801)にはもう絶えていたようです。

羅生門河岸

つまり吉原の京町2丁目南側、お歯黒どぶといわれた真っ黒な溝に沿った一角を「本拠」にしていました。

「羅生門」とは、ケコロの女が客の腕を強引に捕まえ、放さなかったことから、源頼光四天王の一人・渡辺綱が鬼女の片腕を斬り落とした伝説の地名になぞらえてつけられた名称とか。なんだか、こわごわとしたかんじがしますね。

表向きは、ロウソクの灯が消えるまで二百文が相場ですが、それで納まるはずはありません。

この噺のように、「お直し、お直しお直しィッ」と、立て続けに二百文ずつアップさせ、結局、素っ裸にむいてしまうというオソロシい魔窟だったわけです。

志ん生のおはこ

この噺は、五代目古今亭志ん生が復活させ、昭和31年度(1956年)の芸術祭賞を受賞しました。志ん生亡き後は、次男の志ん朝のものだったでしょう。

【お直し 古今亭志ん朝】