ぼうだら【棒鱈】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「首提灯」「胴取り」と並ぶ痛快珍品。
江戸っ子のタンカが聴きどころです。
オチの「こしょう」は「故障」と「胡椒」を掛けています。

あらすじ

江戸っ子の二人連れ。

料理屋の隣座敷で、鮫塚という田舎侍が大騒ぎする声を、苦々しく聞いている。

ついさっきまで
「琉球へおじゃるなら草履ははいておじゃれ」
などというまぬけな歌をがなっていた。

静かになったと思ったら、芸者が来たようすで、隣の会話が筒抜け。

芸者が
「あなたのお好きなものは?」
と聞くと
「おいどんの好きなのは、エボエボ坊主のそっぱ漬け、赤ベロベロの醤油漬けじゃ」

エボエボ坊主がタコの三杯酢で、赤ベロベロがマグロの刺し身ときた。

「おい、聞いたかい。あの野郎の言いぐさをよ。マグロのサムスだとよ。……なに、聞こえたかってかまうもんか。あのバカッ」

大声を出したから、侍が怒るのをなだめて、
「三味線を弾きますから、なにか聞かせてちょうだい」
と言うと、侍は
「モーズがクーツバシ、サーブロヒョーエ、ナーギナタ、サーセヤ、カーラカサ、タヌキノハラツヅミ、ヤッポコポンノポン」
と歌い出す。

「おい、あれが日本の歌かい」
と、あきれかえっていると、今度は
「鳩に鳶に烏のお犬の声、イッポッポピーヒョロカーカー」
「おしょうがちいが、松飾り、にがちいが、テンテコテン」

気短な方が、もうがまんがならなくなって、隣座敷のテンテコテンがどんなツラぁしてるか、ちょいと見てきてやると、相棒が止めるのも聞かずに出かけていく。

廊下からのぞこうとしたが、酔っているからすべって、障子もろとも突っ込んだ。

驚いたのが田舎侍。

「これはなんじゃ。人間が降ってきた」
「なにォ言ってやがるんでえ。てめえだな。さっきからパアパアいってやがんのは。酒がまずくならあ。マグーロのサスム、おしょうがちいがテンテコテンってやがら。ばかァ」
「こやつ、無礼なやつ」
「無礼ってなあ、こういうんだ」
と、いきなり武士の面体に赤ベロベロをぶっかけたから
「そこへ直れ。真っ二つにいたしてくれる」
「しゃれたたこと言いやがる。さ、斬っつくれ。斬って赤くなかったら銭はとらねえ、西瓜野郎ってんだ。さあ、斬りゃあがれッ」
と大げんか。

ちょうど、そこへ料理人が、客のあつらえの鱈もどきができたので、薬味のこしょうを添えて上がろうとしたところへ、けんかの知らせ。

あわててこしょうを持ったまま
「まあ、だんな、どうかお静かに。ま、ま、親方。後でお話いたしますから」
と、間へ入ってもみ合ううちに、こしょうをぶちまけた。

「ベラボウめ、テンテコテンが、ハックション」
「ま、けがをしてはいけませんから、ハックション」
「無礼なやつめ。真っ二つにいたしてくれる。それへ、ハックション」
「まあまあ、みなさん、ハックション」
とやっていると、侍が
「ハックション、皆の者、このけんかはこれまでじゃ」
「そりゃまた、どうして」
「横合いからこしょう(故障=じゃま)が入った」

【RIZAP COOK】

しりたい

爽快な啖呵  【RIZAP COOK】

原話は不詳ですが、生粋きっすいの江戸落語で、「首提灯」と並んで、江戸っ子のイキのよさとタンカが売り物の噺です。

それだけに、歯切れよく啖呵たんかのきれる演者でないとサマにならず、昨今はあまり口演されません。

昭和34年(1959)9月、ラジオ公開録音中に脳出血で倒れ、翌月亡くなった八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が得意にしていました。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)もよく演じました。門下の十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)も持ちネタにしていました。

あるいは、同じ小さん門下の柳家さん喬なども持ちネタにしています。若き日のさん喬がラジオで演じた「棒鱈」は実にみごとな出来でした。

TBS落語研究会で、橘家円太郎が熱演したこともありました。

棒鱈  【RIZAP COOK】

もとは、鱈を三枚におろしたものを日干しにしたものをさします。それを里芋や海老芋などで煮込んだ料理が、芋棒です。京都の名物ですね。

この噺では、それを呼んでいるのではありません。

俗語として、酔っぱらい、または愚か者、野暮天の意味で使いました。酔っぱらってぐだぐだになっている状態が、棒鱈にあたります。

この噺では鱈もどき(不詳。棒鱈の煮つけのことか?)という、田舎侍のあつらえた料理とひっかけた題名になっています。ここでは、棒鱈は明らかに侍のほうです。

料理とは本来、魚鳥のもののみを指し、野菜などの精進ものが出る場合は「調菜」と呼んで区別していました。

参考:原田信男『江戸の料理史―料理本と料理文化』(中公新書、1989年) 

浅黄裏  【RIZAP COOK】

江戸勤番の諸藩士が、着物の裏に質素な浅黄木綿あさぎもめんをつけて吉原などに出入りしたのをあざ笑って「浅黄裏あさぎうら」とも呼ばれ、野暮やぼの代名詞でした。

「浅黄裏」は諸般の武士をさします。田舎侍といった蔑称です。

この噺の侍は薩摩藩士と思われますが、落語では特にそれらしくは演じません。

ただ、薩摩の芋侍とすると、「首提灯」同様、薩長に対する江戸者の反感がとみに高まっていた幕末の世相を色濃く感じます。

タンカが売り物  【RIZAP COOK】

「浅黄裏」「サンピン」などと江戸っ子に蔑まれた勤番の諸藩士については、「首提灯」「胴取り」などがあります。

この噺の侍は薩摩藩士のようですが、落語では、特にそれらしくは演じません。

首提灯」同様、江戸っ子が痛快なタンカで田舎侍を罵倒するイキのよさが眼目の噺です。

幕府瓦解直後の寄席では、そのばかにしていた「薩摩芋さつまいも」や「長州猿ちょうしゅうざる」が天下を取り、憤懣やるかたない江戸っ子の鬱憤晴らしとして、この手の噺は、さぞ受けたことでしょう。

こしょう

オチの「故障」とは、①さしつかえ、さしさわり②異議、異論、じゃま、文句、抗議。

この故障と胡椒を掛けたわけです。今はすたれてしまいまって、その意味もわかりにくくなっていますが、「故障」は日常的によく使われていました。

【語の読みと注】
浅黄裏 あさぎうら:諸藩の武士



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

ごにんまわし【五人廻し】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

明治の噺。
安い遊びをする客のありさまが。

別題:小夜千鳥

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭のようすを今に伝える、貴重な噺です。

「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられました。

現在では一部の噺を除いてすたれました。

洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。

18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。

若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。

それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。

「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。

そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。

吉原ならではの言葉です。

甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。

①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。

「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。

②とは少々異なります。

「甚助」はほかの噺にも出てきます。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席