将棋で、相手の手を「そいつは大間違いだ」と牽制するときの洒落言葉。鬼子母神は日蓮宗の名刹、威光山法明寺で、通称、雑司が谷の鬼子母神。豊島区南池袋にあります。なんのことはなく、「おおちがい」と「ぞうしがや」を強引に掛けてダジャレにしただけ。
なんともひどい代物です。「大違い」には、他人の子供をむさぼり食ったという伝説の鬼子母神の、大いなる料簡違いをも指しているのかもしれません。
【語の読みと注】
鬼子母神 きしぼじん きしもじん
500題超。演目ごと1000字にギュッと。どこよりも深くわかりやすく。
百も承知、と請け合う返事を洒落言葉にしたもの。「おお」は強調語。これはダジャレで、「法性寺の入道」と掛けたものです。
法性寺は、京都市東山区にある浄土宗西山禅林寺派の名刹。法性寺の入道とは、関白藤原忠通(1097-1164)のことで、出家後、この寺に住んだのでこう呼ばれました。
小倉百人一首の歌人の一人ですが、その作者名が「法性寺入道前関白太政大臣藤原忠通」と、百人中もっとも長ったらしいため、後年、やたら長い名前の代名詞になりました。「寿限無」と同じです。そのこととむだぐちとは特に関係なく、ただダジャレのために名前を借りられただけですね。
【語の読みと注】
法性寺の入道 ほっしょうじのにゅうどう ほうしょうじのにゅうどう
もとは明和年間(1764-72)から文政年間(1804-18)ごろまで、長く歌い継がれた上方の端唄「朝顔の盛り」(別名「かくれんぼ」)。その末尾の一節を、日常の洒落言葉にしたものです。意味は「そんなことを言ってくれるな」で、相手の手厳しい拒絶を受けて少し甘え、なだめるような調子があります。
「さよあらし」は「さような(ことを)」のダジャレ(上方では口合)で、倒置表現で「言うても……」につなげています。
参考までに少し長いですが、元唄を。
※現代的仮名遣いに変えて読みやすくしています。
朝顔の
盛りは憎し迎いかご
夜は松虫ちんちんちろりちろり
見えつ隠れつかくれんぼ
行末は
誰が肌触れん紅の花
案じ過ごしを枕にかたれ
髪結わぬ夜のおみなえし
言うてもおくれな小夜嵐
優艷な三味線の三下がりの音じめで、盛りを過ぎて独り寝を余儀なくされた遊女の、夜ごとの憂悶を唄い上げています。最後の二節で「結わぬ」と「言う」を掛け、さらに「小夜嵐」=夜半に吹き荒れる嵐で、このまま情人との恋が吹き散らされてしまうおびえが表現されています。
気分がうっとうしい、気が晴れないとぼやく相手への、多少の慰めをこめての揚げ足取りです。
「松前」は直接には師走、正月前のこと。節季の支払いや借金に追われる煩わしさに比べたら、今の時期のうっとうしさなど物の数ではないよ、というわけ。ついでに遠い北海道の「松前」と掛け、そこまではるばる旅しなければならない苦しみに比べれば、という意味を含めてダメを押しています。
「うっとうしい」は、気鬱なことと雑事で煩わしいことのほか、地方によってはあつかましい、騒がしいなどの意味も。どちらにせよ、生活を悩ませる愚痴の種全般ですね。
「うっちゃって」はラ行五段活用の動詞「打っ棄る」「打っ遣る」の連用形。「かまわないから放っておけ」と突き放す言い方に「すすはきには出る」と付け、ことば遊びにしたもの。
明和7年(1770)の『辰巳之園』にそのまま男の台詞で出ています。
深川遊郭を舞台に男女の色模様が描かれてはいますが、これは洒落本。有名な『春色辰巳園』は天保年間の人情本です。文学史的には、洒落本が通人の文学なら、人情本は「いき」「はり」の文学とされています。互いに50年ほどの時代差もありますから、心の表現に差異が出るのも当然です。時代が下ると「通」もさらに洗練されて「いき」の境地に届くのでしょうか。洒落本『辰巳之園』はいまだ「いき」の洗練まではありません。洒落ことばで遊んでいるだけで。人情本にいたると男女の色恋に妙な意気地や反語が出張ってきまして、やがては円朝や黙阿弥にいたれば、さらに複雑かつ霊妙な男女の心持ちが表現され、維新後は近代主義のがま口にのみこまれていくのです。
参考文献:『洒落本集成』第4巻(中央公論社、1977年)
「煤掃き」は大掃除で、何か大切なものをなくしたとき、「どうせ暮れの大掃除には出てくるから」と慰める形ですが、この場合、大掃除うんぬんは付けたりで、ただ茶化すために付けているだけでしょう。
「柳田格之進」では、武士の客が盗んだ疑いを掛けられた五十両の金包みが、煤掃で本当に見つかって、上へ下への大騒動になります。
「恐れ入りました」という無条件降伏宣言。
その言葉尻の「なし」と「梨」を掛けただけのダジャレです。
洒落だけにまじめに謝っているわけはなく、「恐れ入谷の鬼子母神」同様、おちゃらけですね。
「梨の木」の後に続けた二種類の木のつながりは、よくわかりません。
「さいかち」「猿」ともに「甲虫、兜虫(かぶとむし)」の異称であることから、あるいは「かぶとを脱いだ」の意味を含んでいるのかもしれません。
「百日紅」は「猿滑り」で、猿が木から落ちるようにしくじった、というニュアンスもあるでしょう。
類似のむだぐちに、江戸東京限定で「一言も内藤新宿」というのもあります。
「いじわるげんだかげすえ」とも。将棋を起源としたむだぐちは、双六起源と並んで数多く、最大の供給源です。これもその一つで、「いじわる」と「かじわら(梶原)」を強引に引っ掛けたダジャレ。
梶原源太景季(1162-1200)は源平時代の武将で、『平家物語』の「宇治川の先陣争い」で後世に名を残した人。芝居では「源太勘当」の主人公で、江戸時代には色男の代名詞でした。とんだとばっちりです。
将棋のむだぐちの発生源は、夏の風物詩で、お互いヘボの縁台将棋でしょう。同じ勝負事でもお固い囲碁では、ほとんどこの種のむだぐちは見られません。江戸後期の滑稽本『浮世風呂』では、湯屋の二階の将棋で、壮絶な、むだぐち合戦が闘われます。
こっちへ来な【RIZAP COOK】
「来な」と「きな粉」を掛けた駄洒落の語呂合わせ。「こっちへ来な」と言っているだけのことです。「きな粉」は、黄な粉、黄粉、黄金粉などと記されます。
変形に「こっちへ来のめ(=木の芽)田楽」があり、この場合は地方により、「来」は「こ」とも発音します。
「きな粉餅」の用例でもっとも知られているのは、歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」。寺の鐘供養で、大勢の僧侶(聞いたか坊主)が集まって騒いでいるところへ、白拍子花子に姿を変えた清姫の怨霊が出現。美貌で坊主たちを籠絡し、女人禁制の寺内へまんまと潜入しますが、その場面の歓迎の言葉が「さあさあ、こっちへきな粉餅きな粉餅」でした。
ほかに、戯作『春色辰巳之園』でも使われています。
権助芝居 桂宮治
★★
初手から幇間顔負けの愛嬌全開。出るなり、メクリの陰でもうお辞儀する噺家も、昨今珍しい。これに当てられたか、疫病騒ぎで閑古鳥とまでいかずとも、その雛鳥がぴいぴいの客席が、やんやの大拍手。マクラからもうハイテンション。高座で新劇のハムレットの真似やらで大熱演。ところが不思議や、噺が進むにつれ、マスクの海はたちまち波静か。まるで閑古鳥の雛があっという間に成鳥になったよう。権助が農協ケースから飛び出すギャグはけっこうなれど、早口がなかなか聞き取れない難あり。権ちゃんがおだてられるたび、いちいち口笛を吹くくすぐりも、なんだか空回り。芝居の場面。ほとんど間がなくしゃべり続けなので、せっかく笑いの多い見せ場もいま一つ塩が利かず、故矢来町の師匠ご贔屓の某行列卵炒飯のよう。「曲者待った」のセリフの後、唐突に間延びするのが、かえって妙に新鮮だった。
巌流島 柳亭小痴楽
★★★
芸協自虐ネタでスタート。笑えるどころか、数年に一度しか出してもらえない悲哀に、思わず一掬同情の涙。人物一人一人の描写は丁寧で、ちゃんとお勉強なさっているのが好感持てる。ただ、型通りのくすぐりが今ひとつ徹底せず、それほど受けない。どうせなら志ん生流に、「なんだ町人のくせに。生意気に人間の形をしてやがる」くらいやってもよいのでは。じいさん侍の智謀と古狸ぶり、なかなかのもの。後半の野次馬どものやりとりは、もう少しメリハリを付けてスピーディーにすれば、もう少し面白くなるだろう。それにしてもこちとら年寄りは、コチラクと聞くとどうしてもあのアル中のお人をイメージしてしまう。死んでもう36年もたつというのに、ほんに罪作りな人ではある。
胴乱の幸助 桂吉弥
★★★★
たまに上方の師匠連をこうした席で拝聴すると、つくづくその過不足ないサービス精神、芸のレベルの高さに驚かされる。この師匠もそうだが、少なくとも東京では、失礼ながらほとんど知名度がないにもかかわらず、誰が出てきても客に、それなり以上の満足と笑いを置いていってくれる。東京に比べ、寄席の出番にも恵まれない中、五代目、六代目松鶴以来の上方落語への情熱が、変わらずに継承されているのだろう。で、この胴乱幸助。今となってはあまりに古風すぎるネタだが、手を抜かずきちんと仕上げていて、十分に楽しめた。ことに、後半の京都のお師匠さんの描写が秀逸。明治初年の市井の人物が、今そこにいるようにリアルに息づいているから、古臭さをまったく感じない。あえて言わせてもらえば、前半の、主人公がこちらに歩いてくるまでの清八喜六コンビの長い「漫才」が少々間延びして、あれでは相談がまとまらないうちに、親父が通り過ぎてしまうと思わせること。これは落語の「嘘」に違いないが、当人の大師匠の米朝や六代目松鶴なら、たとえ同じ時間を費やしても、決して客にそんなことを意識させなかったはず。そこだけ☆を一つ減らさせていただいた。さらに欲を言えば、「胴乱」(革製の煙草入れの袋)の意味は、やはり説明しておいたほうがよかっただろう。
ひなつば 桂やまと
★★★★
この人、昔どこかで見た誰かに似ていると思ったら、思い出した。あの森川信。風貌もそうだが、セリフのすっとぼけた物言い、微妙な間の外し方など、中年のころの同優を彷彿とさせる。まあ、当人は「男はつらいよ」くらいは見ていたとしても、年代的に森川信など知らないはずだから、単なる偶然だろうが、なんだか懐かしかった。そういう頭で「ひなつば」の植木屋夫婦のやり取りを聴いていると、会話のテンポもよく、爆笑といえるくすぐりはなくとも、あたかも森川がこの役を演じているような飄逸なおかしみが感じられ、好感が持てる。落語を先入観で聴くのも、そう悪いことではない。お八歳の悪たれ小僧の描写も、作られた不自然な誇張がなく、苦笑いを誘う。ただ、お店の大だんな自らが、自らケツをまくって辞めた植木屋の長屋にわざわざ訪ねてくるのは、当時の絶対的な上下関係からして異例。にしては、それまでの亭主の様子に、伏線としての後悔の念が感じられない。かといってまだ意地づくで突っ張っている様子もあまりなく、そのあたりの腹のうちを、もう少し明確にしてほしかった。
夢の酒 柳家喬太郎
★★★★★
しばらく見ないうちに、この人もすっかり真っ白けになったが、いまや押しも押されもせぬ大看板。その名にふさわしく、マクラから息をもつかせぬ大熱演。いや、☆をもう二つ献上したいくらいに堪能させていただいた。ネタは、昭和10年(1935)ごろ「夢の瀬川」を八代目桂文楽が改作したもの。今となっては古風に過ぎ、噺自体もあまり面白いとは言えないだけに、ちょいと心配したが、なかなかどうして。まずマクラで池袋演芸場の礼賛から始まり、その池袋の怪しげな雑居ビル。迷い込んだはエロDVD屋……という夢の顛末で、もうすっかり客をつかんでしまう。本題に入って、寝言を言っている亭主の顔を覗き込む若妻。むりやり起こして夫婦で夢の話。ここで、ワイフの言葉がどうにも山の手のお嬢さま風なのは、昭和初期の世相を反映している。時代背景の説明を飛ばしたため、亭主の、いかにも江戸の大店のあるじ然としたもっともらしい口調と水と油。違和感ありありで、「若だんな」というには老成し過ぎと文句をたれようと思ったが、後の、夢の女の圧倒的な色気にむせて圧倒され、そんなこたァどうでもよくなっちまう。とにかく、この女の色気と、それを笑いのオブラート、というより、ほんのり塩の利いた桜の葉で包んだような絶妙のコンビネーションこそ、この方の持ち味。座って立ってクネクネと、歌舞伎の「三千歳」のカリカチュアのように、抱腹絶倒の連続。しまいに、筋やサゲなどもうどうでもいいんじゃないの。いや、ごちそうさまでした。蛇足ながら、本日の出演者全員が口を揃えた「コロナネタ」の中で、この師匠の「本日のわれわれのギャラは……マスクです」がやはり秀逸でした。
高田裕史
紙入れ 三遊亭わん丈 ★★
姦婦姦夫の濡れ場を、羽織の裏を布団に見立ててマイクにかぶせる新演出?が、かなりウケた。当人は落語史上記念すべき金字塔と自画自賛していたが、それほどのもんじゃなし。その他、笑ってくれないと楽屋うちで評判らしい研究会の客を、何とか攻略しようと、師匠譲りの劣化版枝雀、あの手この手奇声連発の涙ぐましい大奮闘。だんなに会う前に鳴り物入で夢の場を作り、うなされるくだりを入れるなど、努力を買って★一つ増し。ただし、「じいさんだから、けんかすりゃ勝てる」のサゲは思い切りスカ。
松竹梅 柳家小志ん ★
いや、こんな惨めな高座をこの席で初めて目撃した。それこそ、マクラからサゲまでたった一度、苦笑(?)らしきしわぶきが聞こえたのみ。完全に蹴られて、当人はこれから自棄酒じゃあるめえかと心配したほど。それもそのはずで、くすぐりは滑りっぱなし。それで焦ったか、字が読めない、ムヒツ、読めない読めないの連呼。後には婆さん婆さん納豆納豆の繰り返し。こういう悪あがきはかえって客を不快にさせるだけだから、やめた方がよろしい。だいいち、こんな古色蒼然たるネタを、いまどきウケさせようとする方が無理。しかも聴いたところ、謡も義太夫も素養はまったくなさそうだから、居直って古風に徹することもできない自縄自縛。お疲れサマ。
寝床 桃月庵白酒 ★★★★★
本日の白眉。終始客をダレさせず、確かな技量に裏付けされた、サービス満点の大熱演。何よりもいいのは、この噺にありがちなだんなのパワハラ的な暴君ぶりを、まったく感じさせなかった点。駄々っ子の幼稚園児のような、だんなの憎めないキャラクターを中心に、幇間じみたお相手の重蔵も、迷惑を被る長屋の面々も鳶頭も、みな承知で「寝床ごっこ」で遊んでいるような雰囲気。そのおおらかで洒落気たっぷりの気分が何ともいい。改めてこの噺には、そういう江戸の遊びの精神が不可欠なのを思い出させてくれる。ギャグとしては、冒頭の壊れたクラリネットのような「発声練習」、神さんが妊娠して来られないはずが豹変して「想像妊娠」、現実を突きつけられても諦めきれずに、今は語らないけど、そこを何とかと繰り返すおかしみ。最後は志ん生型で、義太夫を蔵から語り込む演出も付き、前二席の憂さが雲散霧消。
大工調べ 三遊亭遊馬 ★★★★
噺の前半、客席がほとんどくすりともしなかったのは、「松竹梅」の時と同じ。ただし、決定的に違うのは、この演者が決して変なウケ狙いのくすぐりを使わず、淡々と噺を進めていたこと。その内に溜め込んでいたエネルギーが、棟梁政五郎の胸のすくようなタンカで一気に爆発。前後およそ一分半はあろうかという、早口ながら、言葉はちゃんと粒立ち、まさにお江戸伝統の悪態。あまり惚れ惚れし、速記ができれば残らず書き取って置きたかったほど。もちろん、そこで火が付いたように客席はやんやの大喝采。それも、噺の力の配分が絶妙だからで、与太郎、棟梁、家主のそれぞれの描写も過不足なく見事。ただ惜しむらくは後半のお白洲で、大岡越前に貫目がいま一つ。通常の演出だと、奉行が叱りつけて一度政五郎に残り八百を払わせてから、改めてお呼び出しの手順だが、今回は続けて大家をへこましたので、インパクトに少々掛ける印象。ということで竜頭蛇尾とまではいかないが、惜しみつつ★マイナス1。
柳田格之進 三遊亭歌武蔵 ★★★
いやはや長い。特に後半はダラダラと変な思い入れの間まで置くから、打ち出しが21:15予定なのに、20分ほどもオーバーした。もともとこのお人、ガタイの大きさとガラガラ声が売りで、噺によってはそれがハマるのだが、こういう講釈種の古格な人情噺では、もろに力量が出る。特にこの噺、急に帰参がかなったり、帰参したらしたでなぜ父親が自分で請け出さないのかなど、不自然な設定が多いので、それを忘れさせる圧倒的な芸の力が必要なのだが。全体の演出は故人志ん朝そのまま、くすぐりに至るまでまったく同じで、志ん朝のビデオだと約45分だから、時間的にはそう違わないはず。ではどうしてこうまでダレが残るのか。やはり、親子の情感の表現、人物の動作や人間像の明確さ、畳み掛けるところで一気に畳み掛ける緩急の巧みさ、まあ、比べたら気の毒ながら、すべてが段違いなのだろう。それと、この演者にはどうあがいても、武家の17歳のお嬢様は無理。歌舞伎「妹背山」のいじめの官女のようなどら声では、楚々たる色気も女の情感もあったものでなし。結局、客の疲労感や眠気は、その全てが相俟ってのこと。新宿からの終バスに間に合って、本当によかった。
高田裕史
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】二代目三遊亭百生(小河真之助、1895-1964)に入門
【前座】1963年6月、三遊亭百助で。1964年百生逝去に伴い、五代目柳家つばめ(木村 栄次郎、1928-1974)門下、柳家とんぼ
【二ツ目】1967年5月。つばめ逝去に伴い、74年9月五代目柳家小さん門下
【真打ち】1979年3月、初代柳亭風枝
【出囃子】男はつらいよらしき曲
【定紋】風神 ※オリジナル
【本名】佐藤治
【生年月日】1945年7月27日
【出身地】東京都葛飾区生まれ、浅草育ち
【学歴】東京都立葛󠄀飾野高校
【血液型】A型
【ネタ】竹の水仙 宗論 など
【出典】落語協会HP 柳亭風枝Wiki
【蛇足】口上芸、居合抜き。すさまじい芸達者
【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】三代目三遊亭金馬に入門
【前座】1963年1月、三遊亭ゆたかで。金馬死去に伴い、1965年、二代目桂小南門下、桂ゆたか
【二ツ目】1967年10月、桂南笑
【真打ち】1977年4月、桂南喬。85年1月、落語芸術協会から落語協会に移籍。五代目柳家小さん門下に
【出囃子】吉原雀
【定紋】丸に剣片喰
【本名】末吉豊比古
【生年月日】1947年8月7日
【出身地】東京都中野区
【学歴】中野区立中野第三中学校
【血液型】AB型
【持ちネタ】牛ほめ 大工調べ 粗忽長屋 など
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】1984年、桂文朝(田上孝明、1942-2005)、桂文生らと落語芸術協会を脱退。その後、落語協会の五代目柳家小さん門下へ移籍。自転車が趣味。三遊亭円窓、柳家つば女らと落車会を結成
【芸種】落語
【所属】落語芸術協会→落語協会
【入門】二代目桂枝太郎(池田芳次郎、1895-1978)に入門
【前座】1962年9月、桂枝平
【二ツ目】1966年4月、桂欣治
【真打ち】1974年10月、三代目桂文生
【出囃子】あほだら経
【定紋】違い鷹の羽
【本名】平稔
【生年月日】1939年8月23日
【出身地】宮城県石巻市
【学歴】宮城県立小牛田農林高校
【血液型】O型
【持ちネタ】本膳 ずっこけ 馬の田楽 権助提灯 佐の山 お見立て 猿後家 民謡家主 王子の狐 位牌屋 棒鱈 蒟蒻問答 など
【出典】落語協会HP 桂文生Wiki
【蛇足】1984年、桂文朝(田上孝明、1942-2005)、桂南喬、弟子の桂きん治(→桂扇生)と落語芸術協会を脱退。その後、落語協会の五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下へ移籍。84年は落語芸術協会と上野鈴本演芸場とが軋轢を生じさせていた頃でした。2006年、文化庁芸術祭優秀賞受賞。都々逸しぐれ吟社同人。過去に7人の「文生」がいたといわれますが、当代は三代目を称しています。上方に同音の桂文昇がいます。
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】1963年4月、五代目柳家小さん五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)に入門、柳家小太郎で
【前座】1963年9月
【二ツ目】1967年3月、小ゑん
【真打ち】1976年9月、三代目柳家三語楼。2002年、小さんの死去に伴い、四代目鈴々舎馬風門下に。2006年9月、六代目柳家小さん
【出囃子】楠公
【定紋】八ツ車
【本名】小堀義弘
【生年月日】1947年7月21日
【出身地】東京都豊島区
【学歴】豊島区立高田中学校
【血液型】B型
【ネタ】真二つ(山田洋次) 頓馬の使者 目玉 ひとり酒盛 紺屋高尾
【出典】公式 落語協会 Wiki
【蛇足】五代目柳家小さん(小林則夫、1915-2002)は父、柳家花緑と小林十市は甥
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)に入門
【前座】1961年5月、小勇で
【二ツ目】1965年3月。71年12月、文楽死去に伴い、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)門下に
【真打ち】1975年9月、三代目柳家小満ん
【出囃子】酔猩猩
【定紋】三ツ割桔梗
【本名】栗原理
【生年月日】1942年2月17日
【出身地】神奈川県横浜市
【学歴】横浜市立金沢高校→東京農工大学繊維工学部中退
【血液型】A型
【ネタ】居残り佐平次 本膳 宮戸川 など
【出典】落語協会 Wiki 柳家小満ん口演用「てきすと」
【蛇足】1973年、NHK新人演芸コンクール最優秀賞受賞。著書多数。『べけんや わが師、桂文楽』 (河出文庫、2005年)が参考になる。川田順造『人類学者の落語論』(青土社、2020年)に登場する。
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に入門
【前座】1960年4月、桂木久弥で。1961年3月三木助の死没で五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)門下、柳家さん弥に
【二ツ目】1964年10月
【真打ち】1973年9月。75年3月、二代目柳家小はん
【出囃子】並木駒形
【定紋】剣片喰
【本名】渡辺研三
【生没年月日】1941年12月18日-2022年4月25日 膵臓がん
【出身地】東京都足立区
【学歴】東京都立上野高校
【血液型】A型
【ネタ】
【出典】落語協会HP 柳家小はんWiki
【蛇足】2022年4月25日、膵臓がんで死去。80歳。初代小はん(鶴見正四郎、1873-1953)は三代目柳家小さん(豊島銀之助、1853-1930)門下で、大正末期に八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982)、五代目古今亭今輔(鈴木五郎、1898-1976)たちといっしょに革新派を結成した人。二代目登場まで40年以上も空白の名跡でした。またも空白になってしまいました。南無。
【芸種】落語
【所属】落語協会
【入門】二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)に入門
【前座】1958年4月、歌寿美で
【二ツ目】1961年10月、三代目三遊亭歌笑。二代目円歌の死去に伴い、当時は二代目三遊亭歌奴だった三代目三遊亭円歌(中澤信夫、1932-2017)門下に
【真打ち】1973年9月
【出囃子】大名行列
【定紋】蔦
【本名】高水勉
【生年月日】1939年5月25日
【出身地】東京都あきる野市五日市
【学歴】東京都立五日市高校
【血液型】A型
【ネタ】純情詩集 馬大家 試し酒 うどんや
【出典】三遊亭歌笑ブログ 落語協会HP 三遊亭歌笑Wiki
【蛇足】二代目三遊亭歌笑(高水治男、1916-50)は叔父