しくじっぴょうごにんぶち【四九十俵五人扶持】むだぐち ことば

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将棋のむだぐちです。

「しくじった」というのを「じった」から「じっぴょう」ともじり、俵取りの御家人の「十俵五人扶持」という安サラリーに掛けています。

意味としてはこれがすべてですが、細かく見ていくと、まだいくつかしゃれが隠れています。

「しく」で「四九」→「四苦八苦」を効かせ、八苦よりもさらに重い「十苦」→「重苦」の心で、最下級の侍、御家人の俸禄「十俵」を出します。

実は「十俵」自体、「失注しっちゅう(受注に失敗する)」または「失敗」のしゃれになっているので、なかなか手が込んでいます。

いずれにせよ、たかがヘボ将棋でおおげさなことで。

「十俵五人扶持」は年間支給蔵米分十俵+扶持米分で、計三十五俵相当。

幕末の相場では、およそ十二両と一分です。

町奉行所同心が三十俵二人扶持で四十俵+袖の下、大工の熊五郎でも、腕がよくて飲む打つ買うさえ控えれば、年間収入十三両くらいはいきます。

まあ、暮らしはなんとかカツカツといったところでしょう。

で、しゃれに戻ります。

最後の「五」はというと、ただの付けたりで済ますよりは、五=悟で、ぶちぎりの負けを悟ったり、とでも考えておきますか。

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きんのしたにはふのくだゆう【金の下には歩の九太夫】むだぐち ことば

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これもまた将棋のむだぐち。「寝返ったな」という意味が込められています。

「歩の」から「斧九太夫」の「おの」に掛け、縁の下から覗く寝返った九太夫のさまを「金の下」に掛けているのですが、忠臣蔵のこの段がわからないと、まったく意味不明な難解むだぐちになって、使いようもありません。

意味そのものはあらかたのむだぐち同様、たいしたものではありません。

『仮名手本忠臣蔵』の「七段目 祇園一力茶屋の場」で、敵の高師直方に寝返った、もと塩冶家の次席家老、斧九太夫。大星由良之助が遊蕩にふけっている祇園の茶屋に、その真意を探るべく潜入してきます。

その九太夫、縁の下に隠れ、大星の手紙を盗み見。その場面で義太夫が語る、「縁の下には九太夫が、くりおろす文、月かげに、すかし読むとは神ならず、ほどけかかりし、おかるがかんざし」という章句のもじりがこれです。

そういうわけなので、この場合、自分の金の後ろにあるのは、敵がパチリと投入した、「寝返った」歩なのでしょう。

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かくなりはつるはりのとうぜん【角なりはつるは理の当然】むだぐち ことば

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「かく=このように」と駒の角を引っ掛けた将棋さしのむだぐち。

「やっぱり、角が龍馬に成ってしまったか」というくらいの意味。

これは成った方か成られた方か、どちらのことばとも取れます。

角に掛けた将棋のむだぐちは多く、「角なるからは是非もなし」「角なり果てる身の因果」「角道の説法屁一つ」など。

最後のは「百日の説法屁一つ」のもじりで、たった一手のミスが命取りという勝負事の怖さ。

もう一つ、「角とだにえやは伊吹のさしも草」。これは藤原実方ふじわらのさねかたの「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」の上の句をそっくりいただいたもの。

「さし=指し」で、相手がそう来るとは知らなかった、という意味でしょうが、これは、和歌の知識がないと言えないかもしれません。

「百人一首」の一首です。

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おおちがいのきしぼじん【大違いの鬼子母神】むだぐち ことば

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将棋で、相手の手を「そいつは大間違いだ」と牽制するときの洒落言葉。

鬼子母神は日蓮宗の名刹、威光山法明寺で、通称、雑司が谷の鬼子母神。豊島区南池袋にあります。

なんのことはなく、「おおちがい」と「ぞうしがや」を強引に掛けてダジャレにしただけ。

なんともひどい代物です。「大違い」には、他人の子供をむさぼり食ったという伝説の鬼子母神の、大いなる料簡違いをも指しているのかもしれません。

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いじわるげんたかげすえ【意地悪源太景季】むだぐち ことば


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「いじわるげんだかげすえ」とも。将棋を起源としたむだぐちは、双六起源と並んで数多く、最大の供給源です。

これもその一つで、「いじわる」と「かじわら(梶原)」を強引に引っ掛けたダジャレ。

梶原源太景季(1162-1200)は源平時代の武将で、『平家物語』の「宇治川の先陣争い」で後世に名を残した人。芝居では「源太勘当」の主人公で、江戸時代には色男の代名詞でした。とんだとばっちりです。

将棋のむだぐちの発生源は、夏の風物詩で、お互いヘボの縁台将棋でしょう。同じ勝負事でもお固い囲碁では、ほとんどこの種のむだぐちは見られません。

江戸後期の滑稽本『浮世風呂』では、湯屋の二階の将棋で、壮絶な、むだぐち合戦が闘われます。


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けいまのふんどしはずされぬ【桂馬の褌はずされぬ】むだぐち ことば


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将棋の対局中に、桂馬が前方の二枚の敵駒に両取り、両天秤をかけることを、しゃれて言ったもの。

両取りは二股、両脚を開いて掛けているのといっしょで、どちらかの駒を捨てないかぎり、これは外せません。

そこで「股」「脚」から褌としゃれたわけです。別名「吊り褌」とも。

で、結局大駒をタダ取りされた上に、次はいきり立った馬に成られて本当に褌が外れ、「金」が出てしまったりするわけで。

こうなると、踏んだり蹴ったり。


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しょうぎのとのさま【将棋の殿様】落語演目

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【どんな?】

主君にはさからえない時代の話。
とどのつまりは暇なんですかね。

あらすじ

ある殿さま、ふとしたことから将棋に懲り、家来を相手に毎日熱中する。

それはいいが、自分が負けそうになると決まって「お取り払い」、つまり、王手の駒を強制的に除かせたり、「お飛び越し」、飛車が金銀を飛び越えて成ってしまったりと、やりたい放題。

文句を言うと、
「主の命に背くか」
と居直るので始末に負えない。

これでは連戦連勝は当たり前で
「うーん、その方たちは弱いのう。鍛えてつかわさんため、今日からは負けたる者は、この鉄扇で頭を打つからさよう心得よ」

始まれば、お取り払いにお飛び越しで、殿さまは負ける気遣いはないから、家来の頭はたちまちコブだらけ。

そこへ現れたのが御意見番の三太夫という、骨のある爺さん。

しばらく病気で出仕しなかったが、お飛び越しの一件を聞くと、これは怪しからんと憤慨し、さっそく殿さまの前へ。

殿さま、子供の頃から育てられているので、三太夫は大の苦手。

いやな爺が来た、と渋い顔をするが、三太夫はいっこうにかまわず
「将棋は畳の上の戦、軍学の修練にもなり、武士の嗜みとしては大いにけっこう。このじいも、年は取ってもまだまだお上のごときナマクラには負け申さん。たちまち、お上のおつむりをコブだらけにしてお目にかけるが、もしお上がお勝ち遊ばし、それがしの白髪頭をお打ちになっても、戦場で鍛えし鋼のごとき頭、ご遠慮は無用」
と挑発した。

それで殿さまも熱くなり、このくそ爺、ほえヅラをかくなと、試合開始。

家臣一同、あのうるさいのがコブだらけになるところを見たいと、ワクワクして見守る中、みるみる殿さまの形勢悪くなり、案の定
「これ、その歩で桂馬を取ってはならん。主命じゃ。控えよ」
「これはけしからん。戦場においては、君臣の区別はござらん。桂馬は侍、歩は雑兵。それが一騎当千の侍を討ち取るときは、末頼もしき奴。帰城の折りは取り立てつかわしたく存じますに、敵の大将がとやかく申したからとて、その言葉に従えましょうや」

理屈でくるから、どうにもならない。

お飛び越しを命じると
「飛車は軍師、その軍師が陣法に従わず、卑怯未練にも道なき所を飛び越して参るとは言語道断。首をはねて梟木に掛けますから、お引き渡しを」と、くる。

とどのつまり、殿さまは実力通り雪隠詰め。

剣の心得のある三太夫に思い切り打たれて、殿さま、涙ポロポロ。

「うーん、一同の者、盤を焼き捨てい。明日より将棋を指す者は、切腹申しつける」

テキスト:二代目禽語楼小さん

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うんちく

上さまの御前で 【RIZAP COOK】

講談の「大久保彦左衛門将棋の意見」を落語化したものといわれます。

異説には「江戸寄席落語の祖」初代三笑亭可楽(1777-1833、京屋又五郎)の作とも。

可楽は、こともあろうにこの噺を十一代将軍家斉の御前で口演したとか。

やる方も命知らずなら、聴く上さまの方もなかなかシャレがわかる……とほめたくなりますが、いくらなんでもこれは伝説です。

落語界にはこんな不確か情報が意外に漂っています。円歌が昭和天皇の御前でとか、円朝が明治天皇の御前でとか。誤情報です。

それはともかく。

寄席草創期の化政期からある古い噺です。

明治期では、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の明治22年(1889)9月刊『百花園』の速記があります。

禽語楼小さんは、自身も延岡藩(日向、宮崎県)の藩士だったこともあり、この噺を含めて殿さま噺を得意にしていました。

ほかには、昭和9年(1934)の八代目桂文治(1883-1955、山路梅吉)の速記も残っています。

上方では「落語の殿さま」 【RIZAP COOK】

上方の「大名将棋」では、殿さまが「紀州侯」と特定されているほかは、東京のやり方と変わりませんが、この後があります。

将棋に懲りた殿さま、今度はこともあろうに落語に凝りだしたから、一難去ってまた一難。その場が氷河期と化すようなダジャレの連発に一同が凍り付いていると「みなの者笑え」と、例によって無理難題。笑わないとまた鉄扇だと、仕方なく無理にワキの下をくすぐりあって笑うと、殿さま、いい気になって、「鶴がいて亀がいて、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳……」と、締めのダジャレがいつの間にか厄払い(「厄払い」参照)のセリフに。そこで家来一同「笑いまひょ、笑いまひょ」。

最後はやはり「払いまひょ」の地口で、厄払いでオチます。

大名のサディズム 【RIZAP COOK】

家来をあらぬ趣味で苦しめる殿さま噺に「蕎麦の殿さま」がありますが、異色なのが三遊亭円朝「華族の医者」です。

医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。

明治維新を迎えても、「殿さま、ご乱心」はいっこうに変わりがなかったようです。もっとも、無茶苦茶の度合は、「幇間腹」の若だんなの方が上を行きますが。

幕府の将棋保護 【RIZAP COOK】

幕府が寺社奉行管轄下に「将棋所」を設けたのが慶長12年(1607)。大橋宗桂(1555-1634)をその司としました。

禄高は五十石二人扶持で、以来、大橋家は将棋の宗家として代々宗桂を名乗り、明治まで十二代を数えました。

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おもおもともとのところへおなおりそうらえ【重々と元の所へお直り候え】むだぐち ことば



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これは将棋で、王手に対しての相手の「待った」を許すときのむだぐちです。

元ネタは能楽の三番叟で、後半の狂言方のセリフ「元の座敷へ重々とお直り候え」をもじったもの。

「落ち着いて元の場所に駒を戻しなさい」といったところ。

「待った」というものは、本来許されるものではありません。

それをあえて許し、妙に仰々しい文句でうながすところに、勝者の余裕と鼻持ちならない侮蔑の念がうかがわれます。



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