にじゅうしこう【二十四孝】落語演目 



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【どんな?】

『の・ようなもの』で志ん魚が女子高生の家でこの噺をやっていました。ウケず。

あらすじ】  

長屋の乱暴者の職人、三日にあけずにけんか騒ぎをやらかすので、差配さはい(=大家)も頭が痛い。

今日もはでな夫婦げんかを演じたので、呼びつけて問いただすと、朝、一杯やっていると折よく魚屋が来てあじを置いていったので、それを肴にしようと思ったら、隣の猫が全部くわえていったのが始まり。

「てめえんとこじゃ、オカズは猫が稼いでくるんだろッ、泥棒めッ」
とどなると、女房が
「たかが猫のしたことじゃないか」
と、いやに猫の肩を持つので、
「さてはてめえ、隣の猫とあやしいなッ」
と、ポカポカポカポカ。

見かねた母親が止めに入ると
「今度はばばあ、うぬの番だ」
と、げんこつを振り上げたが、はたと考え、改めて蹴とばした、という騒ぎ。

大家はあきれて、
「てめえみたいな親不孝者は長屋に置けないから店を空けろ」
と怒る。

嫌だと言えば、「これでも若いころには自身番に勤めて、柔の一手も習ったから」
と脅すと、さすがの乱暴者も降参。

「ぜんてえ、てめえは、親父が食う道は教えても人間の道を教えねえから、こんなベラボウができあがっちまったんだ。『孝行のしたい時には親はなし』ぐらいのことは知ってそうなもんだ。昔は青緡五貫文あおざしごかんもんといって、親孝行すると、ごほうびがいただけたもんだ」「へえ、なにかくれるんなら、あっしもその親孝行をやっつけようかな。どんなことをすりゃいいんです」

そこで大家、
「昔、唐国に二十四孝というものがあって……」
と、故事を引いて講釈を始める。

例えば、秦の王祥おうしょうは、義理の母親が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏暮らしで買う金がない。そこで氷の張った裏の沼に出かけ、着物を脱いで氷の上に突っ伏したところ、体の温かみで溶け、穴があいて鯉が二、三匹跳ね出した。

「まぬけじゃねえか。氷が融けたら、そいつの方が沼に落っこちて往生(=王祥)だ」
「てめえのような親不孝ものなら命を落としたろうが、王祥は親孝行。その威徳を天が感じて落っこちない」

もう一つ。

孟宗もうそうという方も親孝行で、寒中におっかさんがたけのこを食べたいとおっしゃる。

「唐国のばばあってものは食い意地が張ってるね。めんどう見きれねえから踏み殺せ」
「なにを言ってるんだ」

孟宗、くわを担いで裏山へ。冬でも雪が積もっていて、筍などない。一人の親へ孝行ができないと泣いていると、足元の雪が盛り上がり、地面からぬっと筍が二本。

呉孟ごもうという人は、母親が蚊に食われないように、自分の体に酒を塗って蚊を引きつけようとしたが、その孝心にまた天が感じ、まったく蚊が寄りつかなかった、などなど。

感心した親不孝男、さっそくまねしようと家に帰ったが、母親は鯉は嫌いだし、筍は歯がなくてかめないというので、それなら一つ蚊でやっつけようと、酒を買う。

ところが、
「体に塗るのはもったいねえ」
とグビリグビリやってしまい、とうとう白河夜船しらかわよふね

朝起きると蚊の食った跡がないので、喜んで
「ばあさん見ねえ。天が感ずった」
「当たり前さ。あたしが夜っぴて(一晩中)あおいでいたんだ」

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しりたい】  

二十四孝な人たち  【RIZAP COOK】

『二十四孝』は中国の書。後世の模範となり得る、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた事跡をまとめています。元代の郭居敬が編集。

日本へは室町時代に伝わり、和訳の御伽草子で広まり、その影響は大きいものでした。江戸時代に入るとさらに大きく、四字熟語、関連物品の名称として一般化したもの、仏閣の建築物、人物図などが描かれたりしました。御伽草子や寺子屋の教材にも採られていました。

幕末には草双紙の『絵本二十四孝』も出ました。これは江戸時代を通してのベストセラーとなったほど。江戸時代には、二十四孝を知らない人はいなかったといえるでしょう。

ただ、この24人の事績はどこか逸脱しており、江戸人の茶化しのタネにはおあつらえ向きとなりました。落語で笑う題材にはなるべくしてなったといえるでしょう。

マクラなどで随時採り上げられる、その他の感心な方々に、王褒おうほう郭巨かっきょ黄山谷こうざんこくなどがいます。

「王褒と雷」は、雷嫌いの母親が死んで、王褒がその墓を雷から守るという、忠犬ハチ公か忠犬ボビーのようなお話。

「郭巨の釜掘り」では、母親に嫁の乳をのませるため、子供を犠牲にして生き埋めにしようとすると、金塊を掘り当てるという猟奇的な話。

黄山谷は、父親の下の世話をするというもので、現代の介護問題の先取りのような話。名前からしてクサイものに縁がありそうな男ですが。

このうち郭巨の逸話は、戦前の日本ではかなりポピュラーで、明治の「珍芸四天王」の一人、四代目立川談志(中森定吉、生年不明-1889)がパントマイムのネタにし、「この子があっては孝行ができない、テケレッツノパ、天から金釜郭巨にあたえるテケレッツノパ」とやって大当たりしたことで有名です。人気があったことからこの人を初代談志とする向きもあります。

孟宗の筍掘りは、歌舞伎時代狂言『本朝二十四孝』の重要なプロットになっているほか、かつて、三木のり平が声の出演をしていた「桃屋」のテレビCMでも、パロディー化して使われました。魯迅ろじん(周樹人、1881-1936)はこのばかばかしさを批判的に描いてはいますが。

差配  【RIZAP COOK】

明治以後、大家が町役でなく、単なる「管理人」となってから、この名で呼ばれるようになりました。「差配する」とは、文字通り、土地や建物を管理する意です。

オチの工夫  【RIZAP COOK】

古い速記は、明治24年(1891)7月の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)、ついで同27年(1894)7月、二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)のものが残っています。

現在でも、多くの落語家が手掛けていますが、「道灌」と同様、前座噺の扱いで、どこでも切れるため演者によってオチが異なります。

たとえば、呉孟をまねるくだりでも「オレなら、二階の壁に酒を吹っかけて、蚊が集まったところで梯子をはずす」というもの、母親が「甘酒がのみたい」と言うのを「二十四孝に酒はねえ」とオチるものなど、さまざまです。

孟宗のくだりで切って、母親が筍のおかわりを求めるので、「もう、そうはねえ」と地口で落とす場合もあります。

現行は、今回あらすじに記載した形が、もっとも一般的です。

八代目林家正蔵(=彦六、岡本義、1895-1982)は、大家が「孟宗の親孝行を」と言いかけたのを「おっと、天が感じたね」と先取りしてオチにし、時代を明治初期としていました。

中国の説話から構成  【RIZAP COOK】

原話は、安永9年(1780)刊の笑話本『初登はつのぼり』中の「親不孝」。これは、先述の通り、中国・元代(1271-1368)にまとめられた儒教臭ぷんぷんの教訓的説話をもとにしたものです。王祥や孟宗の逸話を採ったものを主にして、それらに呉孟のくだりなどいくつかの話を付け加えて、新たにつくられました。



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てっかい【鉄拐】落語演目

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【どんな?】

北京の上海屋。奥地から呼ばれてものすごい芸を見せた仙人。人生が変わりまして。

中国大陸が舞台、底抜けにきてれつで壮大な噺です。

あらすじ

北京の横町に、上海屋唐左衛門という大貿易商がいた。

中国はもちろんのこと、ロンドンやニューヨークにも支店を持つという大金持ち。

毎年正月には世界中から知人、友人、幹部社員などを集めて大宴会を催し、珍しい芸人を集めて余興をやらせることにしていた。

毎年のこととて、余興の種が尽き、いい芸人が集められなくなった。

そこで、番頭の金兵衛が各地を巡り、募ることにした。

金兵衛は山また山を越え、とある山中で道に迷っていると、大きな岩の上にボロボロの着物を着て杖をつき、ヒゲぼうぼうの老人がぼんやり座っている。

聞いてみると、鉄拐と名乗る仙人。

何か変わったことができるかと尋ねると、腹の中からもう一人の自分を吐き出してみせたから、これは使えると金兵衛は大喜び。

渋るのを無理に承知させ、鉄拐の雲に便乗して北京に帰った。

鉄拐の芸は大受けで大評判となり、お座敷や寄席の出演依頼がどっと押し寄せた。

今では当人もすっかりその気になり、上海屋に豪邸をもらい、厄貝、モッ貝、シジミッ貝という三人の弟子を取り、近ごろは女を物色するというありさま。

評判がよくなると、ねたむ者も出る。

「このごろ昔のおんぼろななりを忘れてぜいたく三昧、お高くとまってやたらに寄席を抜きゃあがる。どうでえ、あの野郎をへこますために、鉄拐の向こうを張るような仙人を連れてこようじゃねえか」

そんなわけで引っ張ってきてのが、張果老という仙人。

こちらは、徳利から馬を出す。

新し物好きの世間のこと、鉄拐はあっと言う間に飽きられ、お座敷ひとつかからない。

逆に張果老は大人気。

面白くない鉄拐、どんな芸か見てやろうと、ある晩ライバルの家に潜入してみると、張果老は大酒をのんで高いびき。

この徳利からどうやって馬が出るのかしらんと、口に当てて息を吸い込んだから、たちまち中の馬は徳利から鉄拐の腹の中へ。

虎の子の馬が盗まれて、今度は張果老があっと言う間に落ち目に。

しかし悪いことはできないもので、いつの間にか、犯人は鉄拐だという噂が立った。

「先生、あんたが馬泥棒てえ評判ですが」
「とんでもねえ、ヒヒーン」

腹の馬がいなないて、あっさりバレた。

「それならそれで、今度はあんたの分身を馬に乗せて吐き出すという新趣向を出したらどうだ」

そんな悪知恵を授けた者がいる。

ところが、鉄拐は馬を吐き出せないので、客を腹の中に入れて見物させる。

これが大当たりで、たちまち満員札を口と肛門に張る騒ぎに。

そのうち、酔っぱらった客二人が大げんかを始め、さすがの鉄拐もたまらず吐き出す。

それがなんと、李白と陶淵明。

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しりたい

原話は慈悲成本

原話は、桜川慈悲成さくらがわじひなり(八尾大助、1762-1833)が作成した『落噺常々草おとしばなしつねつねぐさ』の中の「腹曲馬はらのきょくば」といわれています。

『落噺常々草』は文化年間(1804-18)に刊行された笑話本です。

江戸後期の戯作者げさくしゃ。親の慈悲成、芝楽亭しばらくてい暫亭しばらくていなどとも号しました。

本業は芝宇田川町に住んだといわれている鞘師さやしで、杉浦如泉すぎうらじょせん門の金工でした。陶器の販売もしていたようです。

ちなみに、杉浦如泉は金工で、杉浦如竹じょちくの高弟でした。

師にならった高彫りに加え、平象嵌ひらぞうがんを得意としたそうです。

慈悲成は、桜川杜芳とほう(岸田杜芳)に師事して、戯作を始めました。

杜芳は、寛政年間に活躍した狂歌師、戯作者です。

慈悲成の残した作品には、黄表紙きびょうし天筆阿房楽てんひつあほうらく』『作者根元江戸錦さくしゃこんげんえどにしき』、噺本はなしぼん滑稽好こっけいこう』『軽口噺かるくちはなし』などがあります。

滑稽本こっけいぼん合巻ごうかんにも挑んだそうですが、現在の評価としては、長い作者生活のわりには佳作に乏しい、とされています。

どうでしょうか。いずれ、見直される日が来るかもしれません。

慈悲成はまた、多芸でも知られています。

茶道、狂歌、絵画など。噺家でもありました。

烏亭焉馬うていえんばとともに、落語中興の祖とされています。

焉馬は同好者を集めて噺の会を催しました。

慈悲成は、おはこの茶道や茶番狂言などを利用して富裕層の屋敷に出入りし、噺芸や幇間のような座敷芸を行っていました。

慈悲成のこのような芸風は、後世の落語界に少なからぬ影響を与えています。

慈悲成の座敷芸は他方で、幇間をも育成しました。

慈悲成の門下には、桜川甚好じんこう、桜川善好ぜんこうらの幇間が輩出しています。

古今亭志ん生もマクラで、この二人の系統を例に出して幇間芸をたたえていました。

現在も引き継がれる幇間の名代「桜川」が、雄弁に物語っています。

「腹曲馬」 国立国会図書館所蔵

鉄拐仙人

道教の八仙の一人で、李鉄拐といいます。

伝説によると、自宅に肉体を置いたまま魂で華山まで飛び、太上老君(道教の神・老子)に会いましたが、帰ってみると、弟子が肉体を火葬してしまった後で、戻るべきところがなくなり、困りました。

そこで、近所に行き倒れの物乞いがいたのを幸い、その屍骸を乗っ取って蘇生したとか。

鉄拐がボロをまとった姿で登場するのは、この故事に由来します。

李鉄拐

張果老

同じく、八仙の一人。

白いロバに乗っているのが特徴です。

このロバ、用のないときは紙のように折りたたんで行李に納められ、水を吹きかけると、たちまち、一日何万里も歩くロバになります。

噺の中の馬は、このロバのことでしょう。

北京の大富豪の「番頭」が金兵衛というのが笑わせるじゃないですか。

この噺が得意だった立川談志は、「上海は新横町2の2上海屋唐右衛門」で演じていました。

談志なりのリアリティーなのでしょうが、目くそ鼻くそを笑うがごときこざかしさ。リアリティーもへったくれもない設定です。

ま、そこがいいのですがね。

李白と陶淵明が最後に出てきますが、両者とも酔いどれ詩人で有名です。

だからこそ、オチの意味がああるわけで。

談志は、大島渚と野坂昭如に代えたりもしています。

だからといって、まあ、さしたるおかしさがかもしだされるわけでもないでしょう。

張果老

【鉄拐 立川談志】

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そうかん【宗漢】演目

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【どんなはなし?】

古代中国が舞台のバレ噺。戦国七雄を題材にしてもしょせんはね。

別題:薬籠持ち

宝泉華

あらすじ

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

うんちく

戦国七雄 【RIZAP COOK】

魏、楚ともに、紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装 【RIZAP COOK】

なんのことはなく、かんざしを抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も隠れている噺 【RIZAP COOK】

原話は不詳。四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

薬籠やくろう持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者で、前田宗漢とかなんとかもっともらしい名前にし、薬籠(薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾ずきんをかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでする噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ

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