たかだのばば【高田馬場】落語演目

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  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

落語世界の仇討ち。
おおよそはこんなかんじ。

別題:仇討ち屋

【あらすじ】

春の盛りの浅草奥山。

見世物や大道芸人がずらりと並び、にぎやかな人だかりがしている。

その中で、居合い抜きを演じたあと、蝦蟇の油の口上を述べている若い男がいて、その後ろに美しい娘。これが鎖鎌の芸を見せる。

「その効能はなにかといえば、金創切り傷、出痔いぼ痔、虫歯で弱るお方はないか」

そこへ人を押し分けて、六十過ぎの侍。

蝦蟇の油売りに向かって
「それは二十年ほど前の古傷にも効くか」
と侍が尋ねると、若者は
「ちょっと拝見」
と傷を見るなり
「これは投げ太刀にて受けた傷ですな」
「さよう、お目が高い」

侍が
「身の懺悔だから」
と語るところでは、
「拙者は元福島の家中であったが、二十年前、下役、木村惣右衛門の妻女に横恋慕し、夫の不在をうかがって手ごめにしようとしたところ、立ち帰った夫に見とがめられ、これを抜き打ちに斬り捨てた。妻女が乳児を抱え『夫のかたき』とかかってくるのをやはり返り討ちに斬ったが、女の投げた懐剣が背中に刺さり、それがこの傷だ」
と言う。

若者は聞き終わると、きっと侍をにらみ
「さてこそ、なんじは岩淵伝内。かく言う我は、なんじのために討たれし木村惣右衛門が一子、惣之助。これなるは、姉、あや。いざ尋常に勝負勝負」
と呼ばわったから、周りは騒然となった。

岩淵伝内は静かに
「なるほど、二十年前のことなので油断し口外したは、拙者の天命逃れざるところ、いかにもかたきと名乗り討たれようが、今は主を持つ身。一度立ち返ってお暇をちょうだいしなければならんので、明日正巳の刻までお待ち願いたい」
「よかろう。出会いの場所は」
「牛込、高田馬場」
「相違はないな」
「二言はござらん」

というわけで、仇討ちは日延べになった。

翌日。

高田馬場は押すな押すなの黒山の人だかり。

仇討ち見物を当て込み、よしず張りの掛け茶屋がズラリ。

そのどれもぎゅうぎゅう詰め。

みんな勝手を言いながら待っているが、いっこうに始まらない。

とうとう一刻(二時間)過ぎて、正巳の刻に。

「また日延べじゃないか」
とざわつきだしたころ、ある掛け茶屋で、昨日の侍が悠々と酒を飲んでいるのを見つけた者がいた。

「もし、お侍さん、のんびりしてちゃあ困ります。仇討ちはどうなりました」
「はは、今日はなしだ」
「相手が済みますまい」
「心配いたすな。あれは拙者のせがれと娘」
「なんだって、そんなうそをついたんです」
「ああやって人を集め、掛け茶屋から上がりの二割をもらって、楽に暮らしておるのだ」

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【うんちく】

原作者は死罪に 【RIZAP COOK】

前半の蝦蟇の油売りの口上は「蝦蟇の油」を踏襲しています。この口上については「蝦蟇の油」をお読みください。

原話は、宝暦8年(1758)刊で馬場文耕(講釈師、1718-59)作『当代江都百化物』中の第六話「敵討ノ化物ノ弁」です。

「百化物」は、武士出身で易者から辻講釈師に転じた文耕が、江戸で起こったさまざまな珍談を、風刺を交えて世話講談風にまとめた読み物で、二十二話で中絶しています。

第六話は、この噺の通りヤラセの仇討ち騒動ですが、後半が違っていて、野次馬が二人のやり取りに夢中になっているうちに、片っ端から懐の財布をすり取られてしまう、というオチです。

原作者の文耕は「百化物」を上梓した宝暦8年9月10日、日本橋槫正町の小間物屋文蔵方で「珍説もりの雫」という政治風刺講談を口演中に南町奉行所に検挙されました。

この講談が、当時評定所で吟味中の、美濃郡上八幡藩三万九千石の百姓一揆騒動を風刺したので、お上のおとがめを受けたためです。

文耕は当初は遠島で済むはずでしたが、吟味中も幕府を批判してやまなかったため、ついに死罪獄門に。同年12月25日、小塚原の露と消えました。

その判決を下したのが、文耕が「百化物」中で「罪を軽く取りさばかるる」名奉行とたたえた土屋越前守だったのはなんとも皮肉で、ヨイショが肝心なときにまったく役立たなかったわけです。

金馬のおはこ 【RIZAP COOK】

古い速記はなく、五代目三遊亭円生(村田源治、1884-1940、デブの)の昭和初期のものが残るくらいです。

なんと言っても、戦前から戦後にかけては、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

金馬没後、三笑亭夢楽(渋谷滉、1925-2005)が手掛け、ついで、三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938.3.10-2001.10.1)が演じて以来、若手も高座に掛けるようになりました。

志ん朝が昭和56年(1981)4月12日夜、文京区千石、三百人劇場での「志ん朝七夜」第二夜。

そこで演じた「高田馬場」は、その軽快なテンポと現代的なセンスで、この噺の新たなスタンダードとして語り伝えられています。

浅草奥山 【RIZAP COOK】

奥山は浅草寺裏手の一帯のことで、江戸から明治末期まで、見世物小屋が所狭しと並ぶ、一大歓楽街でした。

享保年間(1716-36)には軍書講釈、ついで宝暦(1751-64)ごろには辻講釈がよく出ました。

文化年間(1804-18)ごろから見世物が盛んになります。

独楽回し、居合い抜き、軽業などの大道芸、女相撲の興行、因果物などのグロテスクな見世物、その他、ほとんどなんでもありの「魔境」と化します。

明治になると、浅草公園五区に区分され、あいかわらず見世物でにぎわいました。

明治末、隣の六区が活動写真や芝居小屋を中心に大歓楽街を形成すると、しだいに人手を奪われ、その役割を終えました。

高田の馬場 【RIZAP COOK】

古くは「たかたのばば」。

地名としては新宿区戸塚1、2丁目から西早稲田、早大正門付近の馬場下町あたりまでのかなり広い範囲を含みました。

家康の側妾で、越後高田藩主となった松平忠輝の実母阿茶局が賜った芝地で、同人が「高田さま」と呼ばれたことに由来します。

その後、寛永13年(1636)に馬場が設けられ、現在の穴八幡神社付近で流鏑馬が催されたといいます。

安兵衛の仇討ち 【RIZAP COOK】

この噺の仇討ち騒動は、もちろん、講談や映画でおなじみの堀部(中山)安兵衛の「高田馬場仇討ち」が元ネタです。

元禄7年(1694)2月11日に起こったこの事件。

講釈師が言う、はでな「十八人斬り」は真っ赤なうそで、安兵衛が斬ったのは、村上三郎右衛門以下三人に過ぎないというのが現在の定説のようです。まあ、伝説は無限に広がるもので。それでも、三人を切り殺したとは、みごとなもんです。

ことばよみいみ
浅草奥山あさくさおくやま
仇討ちあだうち敵討ちと同じ。敵討ちは「かたきうち」と読む
蝦蟇がまのあぶら
身の懺悔 みのざんげ
正巳の刻しょうみのこく午前10時
槫正町 くれまさちょう中央区日本橋3丁目あたり

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  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

がまのあぶら【蝦蟇の油】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

懐かしさがこみ上げるの縁日風景。
大道芸、香具師の極致。
テレメンテエカマンテエカ。
ポルトガル語だったのですね。奥が深い。

あらすじ

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇がまの油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬こうやくが入った容器を手に、刀を差して、白袴しろばかまに鉢巻き、タスキ掛けという、いで立ち。

「さあさ、お立ち会い。ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠め山越やまごし笠のうち、物の文色あいろ理方りかたがわからぬ。山寺の鐘はごーんと鳴るといえども、童子どうじ一人来たって鐘に撞木しゅもくをあてざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色ねいろがわからぬが道理。だが、てまえ持ちいだしたるなつめの中には、一寸八分いっすんはちぶ唐子からこぜんまいの人形。のんどには八枚の歯車を仕掛け、大道だいどうへ棗を据え置く時は、天の光と地のしめりをうけ、陰陽合体おんようがったいして、棗のふたをぱっととる。つかつか進むが虎の小走り虎走り、雀の小間こまどり小間返し、孔雀くじゃく霊鳥れいちょうの舞い、人形の芸当は十二通りある。だがしかし、お立ち合い、投げ銭放り銭はおことわりするよ。では、てまえなにを生業なりわいといたすかといえば、てまえ持ちいだしたるは、蟇蝉噪四六ひきせんそうしろく蝦蟇がまの油だ。そういう蝦蟇は、おれのうち縁の下や流しの下にもいる、というお方がいるが、それは俗に言うおたまがえる、ひきがえるといって、薬力やくりきと効能のたしにはならん」

さまざまに言い立てて、なつめという容器のふたをパッととり、
「てまえ持ちいだしたるは四六の蝦蟇だ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六の蝦蟇。この蝦蟇のめるところは、これより、はーるーか北にあたるつくばさんのふもとにて、おんばこという露草つゆくさを食らう。この蝦蟇のとれるのは五月に八月に十月、これを名づけて五八十ごはっそうは四六の蝦蟇だ、お立ち合い。この蝦蟇の油をとるには、四方しほうに鏡を立て、下に金網かなあみを敷き、その中に蝦蟇を追い込む。蝦蟇はおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと、脂汗あぶらあせを流す。これを下の金網にて、すきとり、柳の小枝をもって、三七二十一日さんしちにじゅういちにちの間、とろーり、とろりと煮詰めたるのが、この蝦蟇の油だ。赤いは辰砂しんしゃ椰子やしの実、テレメンテエカに、マンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔いでじ、イボ痔、はしり痔、横根よこね、がんがさ、その他、れもの一切に効く。まあ、ちょっとお待ち。蝦蟇の油の効能はそればかりではない。まだある。切れものの切れ味を止めて切り傷を治す。てまえ持ちいだしたるは、鈍刀どんとうたりといえども、先が切れて元が切れぬ、なかば切れぬというのではない。ごらんの通り抜けば玉散たまちこおりやいばだ、お立ち合い。お目の前にて白紙はくしを一枚切ってお目にかける。あ、一枚の紙が二枚に切れる。二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、十六枚が三十二枚、三十二枚が六十四枚、六十四枚が一束と二十八枚、春は三月落花の形。比良ひら暮雪ぼせつ雪降ゆきふりの形だ、お立ち合い」
と、あやしげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬こうやくの効能を実証するため、一枚の白紙を刀で次々と切ってみせた。

「かほどに切れる業物でも、差しうら差しおもてへ、蝦蟇の油を塗る時は、白紙一枚容易に切れぬ。さ、このとおり、たたいて切れない。引いても切れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板いっすんいたもまっ二つ。触ったばかりでこれくらい切れる。だが、お立ち会い、こんな傷は何の造作ぞうさもない。蝦蟇の油をひとつけつける時は、痛みが去って血がぴたりと止まる。いつもは一貝ひとかいで百文だが、こんにちはおひろめのため、小貝こがいを添え、二貝ふたかいで百文だ」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くした蝦蟇の油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上を。

ロレツが回らないので支離滅裂しりめつれつ

それでもどうにか、紙を切るところまではきたが、
「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ」
「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通り、蝦蟇の油をひとつけ、つければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二つけ、つければ、今度はピタリと……かくなる上は、もうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立ち会い」
「どうした」
「お立ち会いの中に、血止めはないか」

しりたい

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。

酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路りょうごくひろこうじに連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は三代目金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。

金馬は、蝦蟇の油の口上をそのまま「高田馬場」の中でも使っています。

昭和期では、三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。

大阪では、「東の旅」の一部として、桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版では、ガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「蝦蟇の油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚醒剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレピン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

周達生著『昭和なつかし博物学』(平凡社、2005年)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんね。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ディジー・ガレスピー

上項目から派生して、ここから先は周達生教授も言及していません。さあお立ち合い。

米ジャズの伝道師、ディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はキューバをイメージして彼が作ったものですが、「マンテカ」はこの噺の「マンテエカ」と同語源です。

ポルトガル語、またはスペイン語でラード、豚の脂、転じて膨れた死体(脂肪の塊)をさします。

隠語では大麻を呼ぶときもあります。

かつてスペイン人が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来だそうです。

この作品は1947年につくられましたが、フリューゲルホルンを頬を膨らませて奏でるガレスピーは曲の合間に「もうジョージアには戻らない」と言っているそうで(私には聞こえませんが)、当時の米国内での黒人差別に仮託しているふしがうかがえます。

と同時に、キューバのコンガ奏者(コンゲーロ)チャノ・ポソが編曲。みごとなアフロキューバンジャズのスタンダードにブラッシュアップしています。

その後まもなく、ポソは射殺されました。マンテカになってしまいました。

こんないわくつきの、楽しくもない、むしろ呪われたような曲ながら、不思議な進行と変化にとんだメロディーラインが脳波を心地よく刺激してくれ、まさに大麻のような習慣性を帯びてるものです。何度も何度も聴きたくなるのです。

昭和48年(1973)から昭和60年(1985)まで大阪の朝日放送で放映されていた、お見合いバラエティー番組「プロポーズ大作戦」のメインテーマはキダタローの作曲でしたが、出だしがマンテカとぴったり。パクリですね。

これも習慣性を帯びる番組になっていました。総じて、蝦蟇の油の効用と一脈通じていたのかもしれません。

「manteca」大西順子トリオ

「蝦蟇の油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「蝦蟇の油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

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しょうのうだま【樟脳玉】落語演目

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【どんな?】

これはもう、お笑い版の降霊術ですね。

別題:捻兵衛、源兵衛人玉(上方)

あらすじ

古紙回収をなりわいとする捻兵衛は、正直者で気が弱く愛妻家。

その女房おきんがぽっくりあの世へ。

捻兵衛はショックのあまり、それ以来商売にも出ず、メソメソと泣きながら念仏三昧。

ここに、人の不孝に便乗して、小金の一つも稼ごうという料簡の二人組。

おきんは元武家屋敷に奉公していた関係で、所帯を持った時持参した着物類がどっさりある上、捻兵衛自身も金を相当貯め込んでいるという噂。

二人組の計画はおきんの幽霊をでっち上げた上、動揺した捻兵衛に
「おかみさんが出るのは着物と金に気が残っているせいだから、わっちらが寺へ納めてあげましょう」
とうまく言いくるめて、全部いただいてしまおうというもの。

まず、長太郎玉を用意し、夜そいつに火を着けて青白い火の玉をこしらえ、捻兵衛宅の天井の引き窓から糸を付けて垂らし、仏壇に手を合わせている鼻っ先にユーラユーラと振ってみせる。

案の定、捻兵衛肝をつぶして
「南無阿弥陀仏、ナムアミダブ、あたしも後からすぐ行くから、どうぞ浮かんどくれ」

まずは、序幕成功とほくそえんだ二人、翌朝、弟分の熊が何食わぬ顔で捻兵衛に会い、
「あんなりっぱな葬式をしたから仏さんもきっと成仏したでしょう」
と、水を向けると、「浮かんでいない」と言う。

ここぞと、
「それはおかみさんが着物に気が残っているからですぜ」
と計画通り持ちかけ、まんまとだまして高価な形見の着物を一枚残らずかすめ取ってしまった。

ところが肝心の金は
「あっ、忘れちまったッ」

しかたがないのでもう一幕やることにし、今度はもっと大きいのを用意して、ユーラリ、ユラリ。

見当があやまって、火の玉が捻兵衛の頭に。

「ナムアミダブツ、アチチチチチ」

また翌朝、熊がようすを探りに行く。

「へい、まだウチの奴は浮かんでません。もっと大きな火の玉が出て、あたしは火傷をこさえました」
「そいつはすみません、もとい、そりゃあ、まだお金に気が残っているんでしょう」
「いえ、葬式で使って、もう一文もありません」

熊は未練たらしく、
「でも、なにかあるでしょう」
と押すと、捻兵衛、押入れからお雛さまを出して、しばらく考え込み、
「熊さん、わかりました。女房はこれに気を残しています」
「へーえ、なぜ」
「昨夜の魂の匂いがします」

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うんちく

長太郎玉 【RIZAP COOK】

衣服保存に使う樟脳粉を丸めたもの。

縁日で、子供用のおもちゃとして売っていた、樟脳粉の丸めたものです。掌に乗せても熱くなく、芝居では焼酎火とともに人魂に使われていました。

蛇足ですが、「樟脳玉」の方は、大阪では、主人公の名が源兵衛となっているので、演題も「源兵衛玉」「源兵衛人玉」として演じられます。ストーリーはまったく同じです。

いずれにしても、落語には珍しい愛妻家が登場することから、この噺は民話がルーツだとする説もあります。東京の円遊が強引に結びつけただけで、「源兵衛玉」と「夢八」はもともと別話でしょう。「源兵衛玉」が江戸から大坂に移植されたものなのか、それとも、逆にオリジナルは上方の方なのかは、はっきりしません。

捻兵衛 【RIZAP COOK】

後日談として、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が創作した「捻兵衛」があります。初代円遊は明治の爆笑王として知られます。

上方落語の「夢八」に酷似していて、円遊が「夢八」のストーリーを取って「樟脳玉」の続編としたのではないかといわれます。

あらすじは、以下の通り。

捻兵衛がここ二、三日姿を見せないので、大家に頼まれて八五郎が様子を見に行くと、なんとブランコ往生を遂げている。ところが、魔がさしたのか、死骸がブキミな声でしゃべりだし、八公に、ヨイトコセーを踊れ、さもないと喉笛を食い破ると脅すので、ガタガタ震えながら鉦をたたいて踊ると、振動で帯が切れ、ホトケが八公の上に落下。八五郎、死骸と堅く抱き合ったまま、あえなく気絶。長屋の連中が来て、やっと蘇生させると「おや、いつの間にか首くくりが増えた」

こちらは、東京では現在はやり手がありません。

大阪の「夢八」の方はまだ演じられていて、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)や二代目露の五郎兵衛(明田川一郎、1932-2009)などが手掛けていました。

かつては円生だけ 【RIZAP COOK】

原話は不詳ですが、文化年間(1804-18)から口演されてきた古い江戸落語です。明治末から大正にかけて、二代目古今亭今輔(名見崎栄次郎、1859-98、めっかちの)などがよく演じていましたが、その後すたれていたのを、先の大戦後、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が復活させ、同人以外演じ手のないほど、十八番としていました。

音源も、円生のみで昭和36年(1961)の初録音を手始めに5種類もあります。その没後、しばらくまた後継者がいなかったのを桂歌丸が復活して手掛け、今では、ぼつぼつ中堅も若手も高座に掛けるようになりました。

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評価 :1/3。

かじかざわ【鰍沢】落語演目

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【どんな?】

江戸の商人が身延参詣の帰り。
吹雪で宿を借りたら命狙われた。
毒を盛られいやはや雪中逃避行。
続編は「晦の月の輪」で。円朝噺。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊 参照噺:鰍沢二席目

あらすじ

おやじの骨を甲州こうしゅう身延山みのぶさん久遠寺くおんじに納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。久遠寺は日蓮宗の本山だ。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目だいもくを唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

上総戸かずさどを開けて出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋きぐすりやに売って細々ほそぼそと生計を立てている身。

「おまえはん、後生ごしょうだから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁おいらん、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船しらかわよふね

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省じんじふせいになる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師そしさまのご利益りやく。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)の作。

幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しました。この噺は、円朝がそのような席で「小室山の御封」「玉子酒」「熊の膏薬」の三つのキーワードから即座にまとめたものです。

三題噺からできた落語では、円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。

原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島が危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

というのは、これまでの通説でした。最近の研究ではちょっと違ってきています。以下をお読みください。

文久年間に「粋狂連すいきょうれん」のお仲間、河竹黙阿弥かわたけもくあみ(吉村芳三郎、1816-93)がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。

歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を話材に取り上げることが多々ありました。

黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺げんつうじです。

興行で提携していた四代目市川小団次(栄次郎、1812-66)こそが法華信心(日蓮宗系)の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、異父兄・玄昌げんしょうの住持する日暮里の南泉寺なんせんじ(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮系とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。

ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と法華信心(日蓮、題目系)との信心対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。

円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派を噺に取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。この噺もご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素噺すばなし一本で名人に上り詰めました。

「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬たちばなやえんきょう(柴田清五郎、1865-1912)の迫真の名演は今も伝説的です。

明治22年(1888)6月20日刊『百花園』には四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が「鰍沢雪の酒宴」という題で残してあります。このあらすじでは、これもテキストの一部に使いました。

近年では八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)に正統が伝わり、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、彦六が特別な会で復活したものの、門弟の林家正雀しょうじゃく(井上茂、1951-)に継承されたほかはやり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

志ん生は、自らが円朝→円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、「円朝全集」(春陽堂版)を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたい出来です。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのでしょう。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編らしきものが「鰍沢二席目」です。

正式には「みそかの月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃しなの明神峠みょうじんとうげで追いぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てです。

明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波書店版『円朝全集』別巻2に収められています。

鰍沢とは  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩みなみこま郡鰍沢町。甲州は甲斐国かいのくに(山梨県)。東海道から甲府に至る交通の要衝ようしょうです。

古くから富士川沿いの川港として物資の集積点となり、栄えました。

「鰍沢の流れ」は富士川の上流のことです。

東海道岩淵在は現在の静岡県庵原いはら郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついています。

おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺じょうかんじや亀有の善応寺ぜんのうじなどの投げ込み寺に葬られました。

どちらかが生き残った場合は下手人げしゅにんの刑として処刑されました。

両方とも生き残った場合は、日本橋南詰みなみづめ東側に三日間、さらし刑にされました。

これは悲惨です。

縄や竹などで張られた空き地に、かや棕櫚しゅろなどでいた三方開きに覆いの中にむしろを敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦そでがらみみといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。

物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。

江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋 馬鹿をつくした 差し向かい
江戸のまん中で わかれる情けなさ
死すべき時 死なざれば 日本橋
日本に 死にそこないが 二人なり
日本橋 おしわけてみる 買った奴
四日目は 乞食で通る 日本橋
吉原の 咄をさせる 小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。

吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。

「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。

浅草では車善七くるまぜんしち、品川では松右衛門まつえもんと決まっていました。

吉原で遊女をしていた頃の話を根掘り葉掘り聞こうとする非人頭も、ずいぶんといやらしい了見です。

そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。

彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

上総戸

かずさど。粗末な板戸のこと。上総国は千葉県中部一帯です。「上総」を冠する言葉にはほかに、上総節かずさぶし上総部屋かずさべや上総木綿かずさもめんなどがあります。

上総節は、「上総節のツツテンはさわぎの中にうれひをあらわし」(面美多動身おもいたつみ、郭通交、寛政二)とあって、にぎやかな調子ながらもどこか切なさを感じさせる、今風にいえば、サンバやボサノヴァのような曲調だったようです。

ちなみに、寛政年間は松平定信の改革が厳しくて、吉原が弾圧を受けて閑古鳥だったために深川が新しい遊里として栄えた時期でした。「面美多動身」は「おもいたつみ」と読ませて、その頃の江戸の東南である深川を描いた洒落本です。ここを俗に「たつみ」と呼びます。「郭通交」は文人気取りながら、「くるわがよい」を自認した通人。この時期は「粋」の美意識がばかばかしくも異様なほどに研ぎ澄まされた頃。その頃を代表する作品です。

上総部屋は、大名屋敷に巣食う中間ちゅうげん小者こものがたむろする大部屋のこと。上総出身者が多かったからのようです。小者は武家の雑役をこなす下僕ですが、狭義には中間より格下に、広義には中間と同じくくりで見られています。足軽、若党→中間→小者の順で格が下がっていきます。中間や小者は折助おりすけとも呼ばれました。

上総木綿は、上総国でつくられた木綿のこと。丈が短いのが特徴だったため、「上総木綿で丈なし」「上総木綿で情がない」などと言って、深川遊里のはやりことばでした。

上総戸、上総節、上総部屋、上総木綿と、どれをとっても、粗末、粗品、劣性といったマイナスイメージを抱かせる熟語となっています。もっとも、江戸の人から見た偏見にすぎません。江戸の人からすれば、常陸も上総も相模も同じような低質で俗悪な世界だったわけです。まことのひどいもんですが、ここが理解できないと江戸文化なるものはどうもわかりにくくなります。

ことばよみいみ
浄閑寺 じょうかんじ荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺でした
善応寺ぜんのうじ足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺でした

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

ちきりいせや【ちきり伊勢屋】落語演目

↖この赤いマークが「ちきり」です。

 成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

柳家系の噺ですが、円生や彦六も。
「易」に振り回される若者の物語です。
キメの「積善の家に余慶あり」は心学や儒学のキモ。

別題:白井左近

あらすじ

旧暦きゅうれき七月の暑い盛り。

麹町こうじまち五丁目のちきり伊勢屋という質屋の若主人伝二郎でんじろうが、平河町ひらかわちょうの易の名人白井左近しらいさこんのところに縁談の吉凶を診てもらいに来る。

ところが左近、天眼鏡てんがんきょうでじっと人相を観察すると
「縁談はあきらめなさい。額に黒天こくてんが現れているから、あなたは来年二月十五日九ツ(午前0時)に死ぬ」

さらには、
「あなたの亡父伝右衛門でんえもんは、苦労して一代で財を築いたが、金儲けだけにとりつかれ、人を泣かせることばかりしてきたから、親の因果いんがが子に報い、あなたが短命に生まれついたので、この上は善行ぜんぎょうを積み、来世らいせの安楽を心掛けるがいい」
と言うばかり。

がっかりした伝二郎、家に帰ると忠義の番頭藤兵衛とうべえにこのことを話し、病人や貧民に金を喜捨きしゃし続ける。

ある日。

弁慶橋べんけいばしのたもとに来かかると、母娘が今しも、ぶらさがろうとしている。

わけを尋ねると、
「今すぐ百両なければ死ぬよりほかにない」
というので、自分はこういう事情の者だが、来年二月にはどうせ死ぬ身、その時は線香の一本も供えてほしいと、強引に百両渡して帰る。

伝二郎、それからはこの世の名残なごりと吉原ではでに遊びまくり、二月に入るとさすがに金もおおかた使い尽くしたので、奉公人に暇を出し、十五日の当日には盛大に「葬式」を営むことにして、湯灌ゆかん代わりに一風呂浴び、なじみの芸者や幇間たいこもちを残らず呼んで、仏さまがカッポレを踊るなど大騒ぎ。

ところが、予定の朝九ツも過ぎ、菩提寺の深川浄光寺でいよいよ埋葬となっても、なぜか死なない。

悔やんでも、もう家も人手に渡って一文なし。

しかたなく知人を転々として、物乞い同然の姿で高輪たかなわの通りを来かかると、うらぶれた姿の白井左近にバッタリ。

「どうしてくれる」
とねじ込むが、実は左近、人の寿命を占った咎で江戸追放になり、今ではご府内の外の高輪大木戸たかなわおおきど裏店うらだな住まいをしている、という。

左近がもう一度占うと、不思議や額の黒天が消えている。

「あなたが人助けをしたから、天がそれに報いたので、今度は八十歳以上生きる」
という。

物乞いして長生きしてもしかたがないと、ヤケになる伝二郎に、左近は品川の方角から必ず運が開ける、と励ます。

その品川でばったり出会ったのが、幼なじみで紙問屋福井屋のせがれ伊之助。

これも道楽が過ぎて勘当の身。

伊之助の長屋に転がりこんだ伝二郎、大家のひきで、伊之助と二人で辻駕籠屋を始めた。

札ノ辻でたまたま幇間の一八を乗せたので、もともとオレがやったものだと、強引に着物と一両をふんだくり、翌朝質屋に行った帰りがけ、見知らぬ人に声をかけられる。

ぜひにというので、さるお屋敷に同道すると、中から出てきたのはあの時助けた母娘。

「あなたさまのおかげで命も助かり、この通り家も再興できました」
と礼を述べた母親、
「ついては、どうか娘の婿になってほしい」
というわけで、左近の占い通り品川から運が開け、夫婦で店を再興、八十余歳まで長寿を保った。

「積善の家に余慶あり」という一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

原話や類話は山ほど  【RIZAP COOK】

直接の原話は、安永8年(1779)刊『寿々葉羅井すすはらい』中の「人相見にんそうみ」です。

これは、易者に、明朝八ツ(午後2時)までの命と宣告された男が、家財道具を全部売り払って時計を買い、翌朝それが八ツの鐘を鳴らすと、「こりゃもうだめだ」と尻からげで逃げ出したという、たわいない話です。

易者に死を宣告された者が、人命を救った功徳で命が助かり、長命を保つというパターンの話は、古くからそれこそ山ほどあり、そのすべてがこの噺の原典または類話といえるでしょう。

その大元のタネ本とみられるのが、中国明代の説話集『輟耕録てっこうろく』中の「陰徳延寿いんとくえんじゅ」。

それをアレンジしたのが浮世草子『古今堪忍記ここんかんにんき』(青木鷺水あおきろすい、宝永5=1708年刊)の巻一の中の説話です。

さらにその焼き直しが『耳嚢みみぶくろ』(根岸鎮衛ねぎしやすもり著)の巻一の「相学奇談の事」。

同じパターンでも、主人公が船の遭難を免れるという、細部を変えただけなのが同じ『輟耕録』の「飛雲ひうんの渡し」と『耳嚢』の「陰徳危難いんとくきなんを遁れし事」で、これらも「佃祭」の原話であると同時に「ちきり伊勢屋」の原典でもあります。

円生と彦六が双璧  【RIZAP COOK】

明治27年(1894)1月の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記が残っています。

小さん代々に伝わる噺です。ただ、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)は手掛けていません。

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の預かり弟子だった時期がある、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が、小さん系のもっとも正当な演出を受け継いで演じていました。

系統の違う六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)が、晩年に熱演しました。

円生は二代目禽語楼小さんの速記から覚えたものといいますから、正蔵のとルーツは同じです。

戦後ではこの二人が双璧でした。

白井左近とは  【RIZAP COOK】

白井左近の実録については不詳です。

二代目小さん以来、左近の易断えきだんにより、旗本の中川馬之丞が剣難を逃れる逸話を前に付けるのが本格で、それを入れたフルバージョンで演じると、二時間は要する長編です。

この旗本のくだりだけを独立させる場合は「白井左近」の演題になります。

ちきり  【RIZAP COOK】

「ちきり伊勢屋」の通称の由来です。

「ちきり」はちきり締めといい、真ん中がくびれた木製の円柱で、木や石の割れ目に押し込み、かすがい(鎹)にしました。

同じ形で、機織の部品で縦糸を巻くのに用いたものも「ちきり」と呼びました。

下向きと上向きの△の頂点をつなげた記号で表され、質屋や質両替屋の屋号、シンボルマークによく用いられます。

これは、千木とちきりのシャレであるともいわれます。

ちきりの形は「ちきり清水商店」の社標をご参照ください。

「ああ、あれね」と合点がいくことでしょう。

ちきり清水商店(静岡県焼津市)は鰹節卸の大手老舗です。

弁慶橋  【RIZAP COOK】

弁慶橋は、伝二郎が首くくりを助ける現場です。

六代目三遊亭円生の速記では、こんなふうになっています。

……赤坂の田町たまちへまいりました。一日駕籠に乗っているので腰が痛くてたまらないから、もう歩いたところでいくらもないからというので、駕籠は帰してしまいます。食違い、弁慶橋を渡りましてやってくる。あそこは首くくりの本場といいまして……そんなものに本場というのもないが、あそこはたいそう首くくりが多かったという……

弁慶橋は江戸に三か所ありました。

もっとも有名なのが、千代田区岩本町2丁目にかかっていた橋。

設計した棟梁、弁慶小左衛門の名を取ったものです。

藍染川あいぞめがわに架かり、複雑なその水路に合わせて、橋の途中から向かって右に折れ、その先からまた前方に進む、卍の片方のような妙な架け方でした。

これを「トランク状」とする記述もあります。

「トランク状」とは、直角の狭いカーブが二つ交互につながっている道路形状のもので、日本語にすれば「枡形道路」となります。

この弁慶橋は神田ですから、円生の言う赤坂の弁慶橋(千代田区紀尾井町1丁目)とは方向が違うわけです。

「赤坂の」といってしまえば港区となりますが、ここは港区と千代田区の境となっているのです。住所でいえば「千代田区紀尾井町1丁目」となるんですね。

ではなぜ、円生は、弁慶橋を「神田の」ではなくて「赤坂の」として語ったのでしょうか。

おそらくは、ちきり伊勢屋が麹町5丁目にあることから、伝二郎の地理的感覚からうかがえば、神田よりも赤坂の方に現実味を感じたからなのではないでしょうか。

円生なりの筋作りの深い洞察かと思われます。

本あらすじでは円生の口演速記に従ったため、「弁慶橋」を赤坂の橋として記しました。

千代田区の文化財」(千代田区立日比谷図書文化館の文化財事務室)には、赤坂の弁慶橋について、以下のような記述があります。

この橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた愛染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋に取り付けられていた青銅製の擬宝珠は、『新撰東京名所図会』によれば、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所として親しまれ、絵葉書や版画の題材にもなりました。とりわけ清水谷の桜は美しく、『新撰東京名所図会』には、“爛漫の桜花を見ることができ、橋を渡るとまるで絵の中に入ったようだ”と周辺の美しさが記されています。また、橋の上からは周辺を通行する人々や車馬、付近に建っていた北白川宮邸・閑院宮邸などが見えたそうです。明治以来の橋は1927年(昭和2年)に架け替えられ、さらに1985年(昭和60年)にコンクリート橋に架け替えられました。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。

これを信じれば、江戸時代にはこの場所には弁慶橋はなかったわけですから、円生の創作だということは明白となります。

ちなみに、川瀬巴水(川瀬文治郎、1883-1957)の作品に「赤坂弁慶橋」があります。昭和6年(1931)の頃の、のどかな風情です。

川瀬巴水「赤坂弁慶橋」

食い違い  【RIZAP COOK】

赤坂の「食い違い」は「喰違御門くいちがいごもん」のことで、現在の千代田区紀尾井町、上智大学の校舎の裏側にありました。

その門前に架かっていたのが「食い違い土橋」。石畳が左右から、交互に食い違う形で置かれていたのでその名がありました。

大久保利通が、明治10年(1877)5月14日に惨殺されていますが、正確な場所は紀尾井町清水谷です。

それでも、後世、この事件を「紀尾井坂事件」とか「紀尾井坂の変」とか呼んでいるのは、よほど「紀尾井坂」という名称が人々の興味を引いたのでしょう。

江戸時代には、紀州徳川家の中屋敷、尾張徳川家の中屋敷、彦根井伊家の中屋敷が並んでいた武家町だったことから、各家から1字ずつとって町名としたわけです。

小岩井農場、大田区、国立市、小美玉市、東御市など、日本人好みの命名法なんですね、きっと。

ここは、千代田区としては、東部に平河町、南部に永田町、北部に麹町が、それぞれ接しています。

ホテルニューオータニの向かい側には清水谷公園があります。

都内を練り歩くデモの出発地点でもあり、集会場所としても名所です。

池泉もありますが、40年ほど前までは崖斜面からは湧水が出ていたもので、まさに「清水谷」でした。

さて。

円生が参考にした禽語楼小さんの速記は、明治27年(1894)1月『百花園』です。

これによれば、以下の通り。適宜読みやすく直してあります。

まるでお医者さまを見たようでござります。かくすること七月下旬から八月、九月と来ました。あるときのこと、施しをいたしていづくからの帰りがけか、ただいま食い違いへかかってまいりました。その頃から食い違いは大変な首くくりのあったところで、伝二郎すかして見ると、しかも首をくくるようす。

伝次郎が親子の首くくりに出会わすシーンです。

「食い違い」とありますが、「弁慶橋」とはありません。

小さんがこの噺を語った頃に、食い違いには弁慶橋が掛かってはありましたが、なにせこの噺は江戸時代が舞台ですから、食い違いに弁慶橋を出すわけにはいかなかったのです。

出してしまったら、客からブーイングが飛んだことでしょう。

円生の時代には、その感覚がまったくなくなっているわけですから、食い違いに「弁慶橋」の名を出してしまっても、文句を言う人もいなかったのですね。

札ノ辻  【RIZAP COOK】

港区芝5丁目の三田通りに面した角地で、天和2年(1682)まで高札場があったことからこの名がつきました。

江戸には大高札場が、日本橋南詰、常盤橋門外、筋違橋門内、浅草橋門内、麹町半蔵門外、芝車町札ノ辻、以上6か所にありました。

高札場  【RIZAP COOK】

慶長11年(1606)に「永楽銭通用停止」の高札が日本橋に掲げられたのが第一号でした。

高札の内容は、日常生活にからむ重要事項や重大ニュースが掲示されていたわけではありませんでした。

忠孝の奨励、毒薬売買の禁止、切支丹宗門の禁止、伝馬てんま賃銭の定めなどが主でした。その最も重要な掲示場所は日本橋南詰みなみづめでした。

西側に大高札場だいこうさつばがあり、東側にさらし場がありました。

歌川広重「東海道五拾三次 日本橋朝之景」 赤丸部分のあたりが高札場。南詰の西側になりますね

麹町  【RIZAP COOK】

喜多川歌麿きたがわうたまろ(北川信美、1753-1806)の春画本『艶本えんぽん とこの梅』の第1図には、以下のようなセリフが記されています。

男「こうして二三てふとぼして、また横にいて四五てふ本当に寝て五六てふ茶臼で六七てふ 麹町のお祭りじゃやァねへが、廿てふくれへは続きそうなものだ」

女「まためったには逢われねえから、腰の続くだけとぼしておきな」

男「お屋敷ものの汁だくさんな料理を食べつけちゃ、からっしゃぎな傾城のぼぼはどうもうま味がねえ」

※表記は読みやすく適宜直しました。

女は年増の奥女中、男は奥女中の間男という関係のようです。

奥女中がなにかの代参で出かけた折を見て男とのうたかたの逢瀬を、という場面。

男が「麹町のお祭りじゃねえが」と言いながら何回も交合を楽しめる喜びを表現しています。

麹町のお祭りとは日枝神社ひえじんじゃの大祭のこと。

麹町は1丁目から13町目までありました。

こんなに多いのも珍しい町で、江戸の人々は回数の多さをいつも麹町を引き合いに表現していました。

この絵はそこを言っているわけです。

ちきり伊勢屋は麹町5丁目とのことですが、切絵図を見ると、武家地の番町に対して、麹町は町家地だったのですね。

食い違いからも目と鼻の先で、円生の演出は理にかなっています。

麹町は、半蔵門から1丁目がが始まって、四ッ谷御門の手前が10丁目。麹町11丁目から13丁目まではの三町は四ッ谷御門の外にありました。

寛政年間に外濠そとぼりの工事があって、その代地をもらったからといわれています。

麹町という町名は慶長年間に付けられたそうで、江戸では最も古い地名のひとつとされています。

喜多川歌麿『艶本 床の梅』第一図
ことばよみいみ
咎 とが
寿々葉羅井 すすはらい
輟耕録 てっこうろく
耳嚢 みみぶくろ
鎹 かすがいくさび
千木 ちぎ質店が用いる竿秤
喰違御門 くいちがいごもん

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

かまどろ【釜泥】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

泥棒の噺。
のんきでほのぼのしてますねえ。

別題:釜盗人(上方)

あらすじ

大泥棒、石川五右衛門の手下で、六出無四郎と腹野九郎平という二人組。

親分が釜ゆでになったというので、ほおっておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまう、と心配になった。

そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てた。

さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、そこからとりかかろうと相談がまとまる。

間もなく、豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを盗んでいく盗賊が世間の評判になる。

なにしろ新しい釜を仕入れても、そのそばからかっさらわれるのだから、業界は大騒ぎ。

ある小さな豆腐屋。

じいさんとばあさんの二人きりで、ごく慎ましく商売をしている。

この店でも、のべつ釜を盗まれるので、じいさんは頭を悩ませている。

なにか盗難防止のいい工夫はないかと相談した結果、じいさんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。

ところが、いい心持ちになり過ぎて、すぐに釜の中で高いびき。

ばあさんもとっくに船をこいでいる。

と、そこに現れたのが、例の二人組。

この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。

「ばかに重いな」
「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」

せっせと担ぎ出すと、釜の中の爺さんが目を覚まして
「ばあさん、寝ちゃあいけないよ」

泥棒二人が変に思っていると、また釜の中から
「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」

さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。

釜が大揺れになって、じいさんはびっくりして
「婆さん、地震か」

その声に二人はがまんしきれず、そっと下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。

「ウワァー」
と叫ぶと、なにもかもおっぽり出して、泥棒は一目散。

一方、じいさん。

まだ本当には目が覚めず、相変わらず
「婆さん、オイ、地震だ」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。

やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。

「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」

底本:六代目朝寝坊むらく

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

しりたい

諺を地でいった噺

古くから、油断して失敗する意味で「月夜に釜を抜かれる」という諺があります。

大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

寛延4年(1751)刊『開口新語かいこうしんご』中の漢文体の笑話が原型ですが、直接の原話は安永2年(1773)刊の笑話本『近目貫きんめぬき』中の「大釜」です。

原話では、入られるのは味噌屋で、最初に強盗一人が押し入り、家財はおろか夜具まで一切合財とっていかれて、おやじがしかたなく、大豆を煮る大釜の中で寝ていると、味をしめた盗人がずうずうしくも翌晩、また入ってきて……ということになります。オチは現行と同じです。

上方落語では「釜盗人」と題しますが、東京のものと、大筋で変わりはありません。

明治にできた噺

もともと、小咄やマクラ程度に軽く演じられていたものが、明治後期から一席噺となったものです。

四代目麗々亭柳橋は、明治7年(1874)、父親の三代目麗々亭柳橋をみようみまねでまねた芸のつおもりで、初代春風亭小柳で、神田区新銀町(千代田区神田司町2丁目辺)の寄席豆蒔亭で「釜泥」をやりました。当時14歳。小咄のつもりでやったのでしょうね。

明治34年(1901)8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらく(永瀬徳久、1859-1907)の速記がもっとも古く、現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りです。

同時代の大物では、四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記もあります。

先の大戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)、三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)などが演じ、特に小円朝が得意にしていました。

小円朝は、釜ごと盗まれたじいさんが「おい、ばあさん」と夢うつつで呼ぶ声を、次第に大きくすることを工夫した、という芸談を残しています。

その後は、六代目三遊亭円窓(橋本八郎、1940-2022)がよく手掛けていました。

戦時中は禁演もどき

野村無名庵(野村元雄、1888-1945、落語評論家)の『落語通談』によれば、戦時中、時局に合わない禁演落語を定めた時、自粛検討会議の席で、泥棒噺にランクが付けられました。

甲乙丙に分け、甲はまあお目こぼし、丙は最悪で無条件禁止、ということに。

その結果、甲には「釜泥」「眼鏡屋」「穴泥」碁泥」「だくだく」「絵草紙屋」「探偵うどん」「熊坂」が。

不道徳な部分を抹消すれば、という条件付きの乙には「出来心」「しめ込み」「夏泥」「芋俵」「つづら泥」「にかわ泥」「やかん泥」「もぐら泥」「崇禅寺馬場」が。

丙には「転宅」と決まったとか。

泥棒に不道徳もヘチマもないでしょうが。

ところが、実際に設定された結果、「噺塚」に葬られた五十三種には、なんと泥棒噺は一つも入っていません。

この五十三種は、大半がエロ噺か不倫噺でした。

「釜泥」など泥棒噺はエロ噺や不倫噺の次のランクで、事実上「自粛」させられたことは間違いないでしょう。

エロよりドロはまあいいか、てなもんで。

禁演落語なんぞといっても、しょせんはこんな程度のものです。思想や宗教の弾圧などと比べれば、かわいいもんです。

戦時下ではあっても、落語の心映えがまだ許される、のどかな時代だったのかもしれません。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

しりもち【尻餅】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

切羽詰まった大晦日の極貧夫婦。
女房の尻をたたき餅つきにみせる。
苦いバレ噺もどき。

あらすじ

亭主が甲斐性かいしょうなしで、大晦日おおみそかだというのに、餠屋もちやも頼めない貧乏所帯びんぼうじょたい

女房が、せめて近所の手前、音だけでもさせてほしいと文句を言う。

これは、少しでも金を都合してきてくれという心なのだが、能天気な亭主、これを間に受けて、自作自演で景気よく餠屋に餠をかせている芝居をしようと言い出す。

夜、子供が寝たのを見計らい、そっと外に出て、聞こえよがしに大声で
「えー、親方、毎度ありがとうございます」
と叫び、子供にお世辞せじを言ったりする場面も一人二役で大奮闘。

いやがるかみさんに着物をまくらせ、手に水をつけて尻をペッタン、ペッタン。

そのうち、尻は真っ赤になる。

かみさんはしばらくがまんしていたが、とうとう、
「あの、餠屋さん、あと、幾臼いくうすあるの?」
「へい、あと二臼ふたうすです」
「おまえさん、後生ごしょうだから餠屋さんに頼んで、あとの二臼はおこわにしてもらっとくれ」

しりたい

原話は「笑府」から

中国明代みんだいの笑話本『笑府しょうふ』に類話があるといわれています。これは、明和めいわ5年(1768)に抄訳しょうやくが刊行され、それ以降につくられた多くの落語や小咄こばなしのネタ本になっていますが、具体的にどの話が「尻餅」に相当するのか、いまひとつはっきりしません。

「尻をたたく」というシチュエーションでいえば、新婚初夜に派手に「泣き声」が聞こえたので、客が後で冷やかすと、実はそれは花婿が、新婦に尻をたたかれて発した声だったという、『笑府』閨風部けいふうぶ艶笑えんしょう小ばなし「婿呼痛せいこつう」がそれかもしれません。

おこわと白蒸

もとは上方落語で、オチは東京では「お強にしとくれ」ですが、上方は「白蒸しろむしでたべとくれ」です。

白蒸は、糯米もちごめを蒸して、まだいていない状態のもので、なるほど、「もうたたかないどくれ」という意味ではこちらの方が明快でしょう。

上方では笑福亭系の噺です。五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)の十八番でした。東京では、あらすじでもテキストにした八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)のやり方が現行の基本になっています。

可楽はこの前に「掛け取り万歳」の後半部を付け、この夫婦の貧乏と能天気を強調しておくやり方でした。

餅屋

江戸時代、ふつう餅搗もちつきは12月26日から。これを餅搗始もちつきはじめといいました。この日から大晦日おおみそかまで、「引摺ひきずり」といって、餅屋が何人かで道具を持ち、得意先を回って歩きます。

正月の餅はおろか、鏡餅かがみもちも買えない切羽詰せっぱつまった状況というのは、落語では「三百餅」「子ころし」などにも描かれます。

「尻餅」の直接の原話である、享和2年(1802)刊の江戸板笑話本『へそくり金』中の「餅搗もちつき」では、貧乏な医者が下男の三介の尻をたたく設定になっています。

ほのかなエロティシズム

東京でも上方でも、女房の尻をまくって亭主が「白い尻だなあ」と、思わず見とれたように言う(生唾なまつばをのみ込む?)セリフがあります。

江戸時代には、アノ時の「後ろから」の体位は、畜生道ちくしょうどうということで禁断だったわけで、この亭主も、所帯を持って初めて、まじまじとその部分を拝み、新鮮な感動をおぼえたのでしょう。

いずれにしても、この「餅搗」、禁断のセックスの暗喩あんゆと勘ぐれば、エロの色調もより濃厚になってきそうです。とはいうものの、さほどのもんじゃありません。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

くびぢょうちん【首提灯】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

芝の辺で酔っぱらいの町人。
訛りの強い侍を侮った。
えいやあっ。あとは謡を鼻歌で。
サンピンめ。首が横にずれて。
ざらにない傑作です。

別題:上燗屋(上方)

【あらすじ】

芝山内しばさんない

追い剥ぎや辻斬りが毎日のように出没していた、幕末の頃。

これから品川遊廓に繰り込もうという、町人一人。

すでに相当きこしめしていると見え、千鳥足でここを通りかかった。

かなり金回りがいいようで、
「これからお大尽遊びだ」
と言いかけて口を押さえ
「……おい、ここはどこだい。おっそろしく寂しいところだ。……おや、芝の山内さんないだ。物騒な噂のある場所で、大金を持ってるのはまずかったかな……」

さすがに少し酔いが醒めた。

それでも空元気を出し、なんでも逆を言えば反対になるというので
「さあ、辻斬り出やがれ。追いぎ出ろい。出たら塩つけてかじっちまうぞ」
と、でかい声を張り上げる。

増上寺の四ツ(午後十時ごろ)の鐘がゴーン。

あたりは人っ子一人通らない。

「……おい、待て、おい……」

いきなり声をかけられて、
「ぶるっ、もう出たよ。何も頼んだからって、こうすみやかに出なくても……」

こわごわ提灯の灯をかざして顔を見上げると、背の高い侍。

「おじさん、何か用か」
「武士をとらえて、おじさんとはなにを申すか。……これより麻布の方へはどうめえるか、町人」

なまっていやがる……。

ただの道聞きだという安心で、田舎侍だからたいしたことはねえという侮り、脅かされたむかっ腹、それに半分残っていた酒の勢いも手伝った。

「どこィでも勝手にめえっちまえ、この丸太ん棒め。ぼこすり野郎、かんちょうれえ。なにィ? 教えられねえから、教えねえってんだ。変なツラするねえ。このモクゾー蟹。なんだ? 大小が目に入らぬかって? 二本差しが怖くて焼き豆腐は食えねえ。気のきいた鰻は五本も六本も刺してらあ。うぬァ試し斬りか。さあ斬りゃあがれ。斬って赤え血が出なかったら取りけえてやる。このスイカ野郎」

カッと痰をひっかけたから、侍の紋服にベチャッ。

刀の柄に手が掛かる、と見る間に
「えいやあっ」

……侍、刀を拭うと、謡をうたって遠ざかる。

男、
「サンピンめ、つらァ見やがれ」
と言いかけたが、声がおかしい。

歩くと首が横にずれてくる。

手をやると血糊ちのりがベッタリ。

「あッ、斬りゃあがった。ニカワでつけたら、もつかな。えれえことになっちゃった」

あわてて走っていくと、突き当たりが火事で大混雑。

とびの者に突き当たられて、男、自分の首をひょいと差し上げ、
「はい、ごめんよ、はい、ごめんよ」

【しりたい】

原話と演者

安永3年(1774)刊の『軽口五色帋かるくちごしきかみ』中の「盗人ぬすっと頓智とんち」です。

忍び込んだ泥棒が首を斬られたのに気づかず、逃げて外へ出ると暗闇で、思わず首を提灯の代わりにかざします。

もともと小ばなしだったのを、明治期に四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)が、一席にまとめたものです。

円蔵直伝の六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の師匠)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)が得意としました。

現在でもよく演じられます。

オチで、男が火事見舞いに駆けつけ、店先に、「ヘイ、八五郎でございます」と、自分の首を差し出すやり方もあります。

上方の「上燗屋じょうかんや

のみ屋で細かいのがなく、近くの古道具屋で仕込み杖を買って金をくずした男が、その夜入った泥棒を仕込み杖でためし斬り。

泥棒の首がコロコロ……という筋立て。

オチは同じです。

首なしで口をきくという、やや似たパターンの噺に、「館林」「胴取り」があります。

芝の山内

品川遊郭からの帰り道だったため、幕末には辻斬り、追い剥ぎなどが、ひんぱんに出没しました。

「山内」とは寺の境内。ここでいう「山内」は、三縁山広度院増上寺さんえんざんこうどいんぞうじょうじのこと。「芝山内」とは、増上寺の境内、という意味です。

浄土宗鎮西派じょうどしゅうちんぜいはの大本山です。徳川将軍家の菩提寺ぼだいじ(祖先の墓、位牌を置く寺)。徳川家康は熱心な浄土宗の門徒でした。

三代家光の時代に、上野に東叡山寛永寺とうえいざんかんえいじを建て、こちらも将軍家の菩提寺と認定されました。天台宗の寺院です。比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの向こうを張ったわけです。家康と家光の墓は日光にあります。こちらの寺院は輪王寺りんのうじです。神仏習合しんぶつしゅうごうですが、いちおう天台宗です。寛永寺の系統の寺院です。

寛永寺のなにがすごいかといえば、その命名です。「東叡山」とは関東の比叡山という意味。寺号に元号を冠するのは当時の最高の寺院を意味します。

仁和寺、延暦寺、建仁寺、永観堂、建長寺、天龍寺。限られています。これらを「元号寺」と称します。

延暦寺も元号寺ですから、寛永寺は完全に比叡山延暦寺の向こうを張っているわけです。天海の悲願、いやいや執念といえるでしょう。

徳川将軍家は多重信仰の一族でした。徳川家は、多くの宗派のパトロン(後援者)をも兼ねていました。

なんといっても、江戸時代という時代ほど、日本国内の宗教者にとってらくちんな時代はありませんでした。毎年、幕府や藩などから禄(米=給料)をもらえるのですから。なにもしなくても生活できたわけです。

例外的に弾圧されたのは、キリスト教と日蓮宗不受不施派にちれんしゅうふじゅふせはだけだそうです。

武江年表ぶこうねんぴょう』の文久3年(1863)の項にも「此頃、浪士徘徊して辻斬り止まず。両国橋畔に其の輩の内、犯律のよしにて、二人の首級をかけて勇威を示せり。所々闘諍とうじょうありて穏ならず」とあります。

蔵前駕籠」の舞台となった蔵前通りあたりは、まだ人通りがありました。

幕末の芝山内は荒野も同然。こんな、ぶっそうな場所はなかったのでしょう。

江戸っ子の悪態解説

「ぼこすり野郎」の「ぼこすり」は蒲鉾用のすりこぎ。

「デクノボー」「大道臼おおどううす」などと同じく、体の大きい者をののしった言葉です。

「かんちょうれえ(らい)」は弱虫の意味ですが、語源は不明です。

この男もわかっていません。

「モクゾー蟹」は、藻屑蟹ともいい、ハサミに藻屑のような毛が生えている川蟹で、ジストマを媒介します。

要するに、「生きていても役に立たねえ、木ッ葉野郎めッ」くらいの意味でしょう。

サンピン

もとは、渡り中間ちゅうげんや若党をののしる言葉でした。のちには、もっぱら下級武士に対して使われました。

中間の一年間の収入が三両一分だからとも、三両と一人扶持ぶち(日割り計算で五合の玄米を支給)だったからとも、いわれます。「サン」は三、「ピン」は一のこと。

浅黄裏

諸藩の武士、つまり、田舎侍のこと。別に、「浅黄裏あさぎうら(着物の浅黄木綿の裏地から)」「武左ぶざ」「新五左しんござ」などとも呼びました。

「浅黄裏」は野暮の代名詞で通っています。「棒鱈」にも登場しました。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :3/3。

こうふい【甲府い】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

甲州から浅草に出た善吉はすられて無一文に。
法華の豆腐屋に救われた縁で奉公十年。
人柄が見込まれ、入り婿に。
夫婦は家業に精出す。やがて身延山に。
「甲府ぃ、お参り、願ほどきぃ」

別題:お礼まいり 出世豆腐 出世の島台 法華豆腐

【あらすじ】

甲府育ちの善吉ぜんきち

早くから両親をなくし、伯父おじ夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山みのぶさんに断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺せんそうじ境内けいだい巾着きんちゃくをすられ、無一文むいちもんに。

腹を減らして市中しじゅうをさまよったが、これではいけないと葭町よしちょう千束屋ちづかやという口入れ屋をめざすうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆わけえしが袋だたきにしようというのを、主人が止めた。

事情を聞いてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々の法華宗ほっけしゅうで、 「これもお祖師そしさまの引き合わせだ」 と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金きゅうきんは出ないが、商高あきないだかに応じて歩合ぶあいが取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向かげひなたなく懸命に 「豆腐ィ、胡麻ごま入り、がんもどき」 と売って歩いた。

愛想あいそがよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、ほおっておくと虫がつくから、早く婿むこを取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨しゅうしも合うし、まじめな働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し 「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪雑把まきざっぽ持ってこい」 と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分ふぜいが、と遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付いつき地主に。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所ざいしょへは一度も帰っていないので、 「両親の十三回忌じゅうさんかいきと身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」 と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度たびじたくしてやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若旦那、どちらへお出かけで?」 と聞かれて善吉が振り向き 「甲府(=豆腐)ィ」 と言えば、お孝が 「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前の噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、四代目桂文治の息)の速記が残っています。大筋は現行とほとんど変わりません。六代目文治は円朝と同時代の噺家です。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、先の大戦後は、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英、1968-)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。

流罪を許されて身延に隠棲いんせいした日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井はきい氏から寄進を受けて開いたものです。

日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝にっちょう(1422-1500)が、現在の山梨県南巨摩郡みなみこまぐん身延町に移してますます発展させました。

日蓮宗の本拠としては、江戸・池上の本門寺ほんもんじがあるので、江戸の信徒(檀越だんのつ)は通常、ここに参詣すればよいとされました。池上は日蓮の亡くなった地です。

江戸時代には、「日蓮宗」という名称はまだ一般的ではなく、「法華」「法華宗」と呼ぶことが多かったようです。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増したのは、宝永ほうえい年間(1704-11)といわれています。

宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録もあります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語にひんぱんに登場する「大家」は差配さはいともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人のことです。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多かったようです。その場合、地主と大家を兼ねていることになります。

こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋おもてながやです。通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁とうりゅう鳶頭とびのかしらなど、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付き地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵むめいあん(野村元雄、1888-1945)は『落語通談』に記しています。

斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った。

この「古老扇橋」とは、声色こわいろ(声帯模写)の名人としても知られた、八代目入船亭扇橋(宗匠の扇橋、進藤大次郎、1865-1944)のことでしょう。「でっち直す」という言い方もおもしろいですね。

改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりません。『落語通談』によれば、筋は大同小異とのこと。この『落語通談』は、初出が1943年9月刊。中公文庫版(1982年)は品切れですが、古本市場でまだ入手できるかも。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。

主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、しゅうと夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房にまかせてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居にもなった「模範落語」

『落語通談』によれば、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、先の大戦中、報国紙芝居ほうこくかみしばいにもなったとのこと。

いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局(内務省や文部省など)にとって「期待される人間像」の典型であったかがわかろうというもの。でも、泣かせます。

野村無名庵は当時の政府の片棒をかついで、昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度そんたくの人でした。空襲の犠牲となりました。

『落語通談』には、こんなことも記しています。

何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった。

そういう噺、つまりは、悪くない噺なんですね。

日蓮が開いた、鎌倉新仏教のひとつです。最高の教えは「法華経」にある、というのが日蓮の教えです。「南無妙法蓮華経」と唱える宗派です。題目ですね。後醍醐天皇からは、法華宗という名称をいただきました。鎌倉新仏教の特徴は「易行いぎょう」です。修行や教えがわかりやすくてカンタン、ということ。 女性や一般人にも、手を差し伸べたのです。

とはいえ、当時の人々からは胡散臭うさんくさく思われていたようです。信者が増えたのは応仁の乱以降。 死が日常的になった頃からでした。次第に大きくなって、江戸時代にはものすごい勢力となっていました。当時は、法華、法華宗などと呼ばれてたものです。

法華のライバルは、念仏宗。これは、歌舞伎や落語ではお決まりの知識です。念仏宗とは、「南無阿弥陀仏」という、念仏を唱える宗派のこと。浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗などが、念仏宗と呼ばれていました。

江戸の町では、法華と念仏が、信者獲得に必死でした。「宗論」は、両宗派の対立が噺になっています。法華の各宗派が束になって「日蓮宗」となったのは、明治5年(1872)のこと。

その後、紆余曲折あって名称が変更に。「宗教法人・日蓮宗」となるには、昭和16年(1941)まで待たねばなりませんでした。日蓮宗、歴史的には新しい名称だったのですね。日蓮宗の寺格はこんなかんじです。寺格とは、宗派内の寺の等級のこと。宗派最高の寺院は、身延山久遠寺で、総本山とされています。山梨県にあります。

ここの住職は、法主と呼ばれます。その下に、日蓮や日蓮宗に関わりの深い重要な寺院として、大本山があります。 大本山は、以下の七寺院です。誕生寺たんじょうじ(千葉県)、 清澄寺せいちょうじ(千葉県)、 中山法華経寺なかやまほけきょうじ(千葉県) 、北山本門寺(静岡県) 、池上本門寺(東京都) 、妙顕寺みょうけんじ(京都府) 、本圀寺ほんこくじ(京都府) 。

日蓮の出身地が房総半島だったからか、圧倒的に関東に集中しているのがわかります。

大本山の下には由緒寺院があって、これは42寺院あります。「堀の内」で有名な妙法寺は、由緒寺院に入ります。ほかに霊跡寺院があって、これは大本山の7寺院と由緒寺院の7寺院の計14寺院が、そう呼ばれています。

妙法寺のホームページには「本山」とあります。総本山→大本山→本山の序列です。由緒寺院はすべて本山です。霊跡寺院には大本山が7寺院、本山が7寺院あります。ということは、本山は計49寺院ある、ということになります。ややこしいです。

日蓮宗は、いまでは約5200寺、信者は330万人を抱えます。信者を檀越と呼びます。「だんのつ」「だんおつ」と呼びます。

有名な檀越は、ざっと思いついても、以下のような方々があげられます。

狩野永徳(1543-90) 、長谷川等伯(1539-1610)、 葛飾北斎(1760-1849)、 太田南畝(1749-1823)、 橋本雅邦(1835-1908)、 辰野金吾(1854-1920)、 石橋湛山(1884-1973)、 芥川龍之介(1892-1927)、 宮沢賢治(1896-1933)、 美空ひばり(1937-1989) ……。

芸人や芸能稼業には多く、珍しくもありません。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900、※晩年の4年間)、四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)、三代目三遊亭円右(粕谷泰三、1923-2006)、二代目古今亭円菊(藤原淑、1929-2012)、三代目三遊亭円歌(中沢信夫、1932-2017) ……。

とまあ、数え上げたら、きりないほど。もっと、もっと。

【語の読みと注】 薪雑把 まきざっぱ まきざっぽう:切ったり割ったりした薪。まき。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

さいきょうみやげ【西京土産】落語演目



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

御一新で没落した士族。
その悲哀を背にした滑稽譚。

【あらすじ】

長屋に住む、独り者の熊五郎。

隣の元士族で、今は反故屋の作蔵が、女を引き込んでいちゃついているようすなので、おもしろくない。

嫌味を言いに行くと作蔵、実はこれこれこういうわけと、不思議ないきさつを物語る。

母一人子一人の身で、死んだおやじの士族公債も使い果たし、このままでは先の見込みもない。

いずれは道具屋の店でも開こうと一念発起した作蔵。

上方を回って掘り出し物の古道具でも買い集めようと、京から奈良と旅するうち、祇園の芸妓の絵姿が手に入った。

この絵の中の女に一目惚れした作蔵、東京に帰ると、母親が嫁取りを勧めるのも聞かず、朝夕飯や茶を供えて、どうか巡り合えますようと祈っている。

と、その一念が通じたか、ある日、芸妓が絵からスーッと抜け出し
「どうか、あんたのお家はん(=妻)にしてかわいがっとくれやす」

都合のいいことに、女は作蔵がいる時だけ掛け軸の中から出てきて、かいがいしく世話をしてくれる。

この世の者でないから食費もかからず。

しかも絶世の美女ときているので、わが世の春。

毎日、鼻の下を伸ばしている。

母親に見つかってしかられた。

だが、わけを話して許しを得て、今では三人仲良く暮らしている、という次第。

話を聞いてうらやましくてならない熊公、
「こんないい女が手に入るなら、オレも古紙回収業になろう」

熊公は、作蔵からかごを借りる。

鵜の目鷹の目で、抜け出しそうな女の絵を買おうと、近所をうろつきだす。

都合よく、深川の花魁の絵姿の掛け軸が手に入った。

熊は大喜びで毎日毎晩一心に拝んでいる。

その念が通じたか、ある夜、花魁がスーッと絵から抜け出て
「ちょいと、主は本当に粋な人だよ。おまえさんと添い遂げたいけど、ワチキは今まで客を取ってて、体がナマになっているから、鱸の洗いで一杯やりたいねえ。軍鶏が食いたい、牛が食べたい。朝はいつまでも寝てるよ。起きない(=畿内)五か国山城大和」

隣とはえらい違いで、本当に寝ているだけでなにもしない。
「これは、ひどい奴を女房にした」
とぐちる。

ある朝。

熊さんが自分で朝飯をこしらえて花魁の枕元に置き、夕方、仕事から帰ると、もぬけのカラ。

ほうぼう探したが、行方がわからない。

しかたなく、易に凝っている大家に卦を立ててもらうと「清風」と出た。

「セイは清し、フウは風だから。神隠しにあったんだろう」
「そりゃあ、違いましょう。実は柱隠しでございます」

底本:初代三遊亭円遊

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【しりたい】

「鼻の円遊」の創作  【RIZAP COOK】

明治25年(1892)10月、『百花園』掲載の初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の速記が、唯一の記録です。

いわゆる没落士族の悲哀を背景にした噺です。

筋自体は「野ざらし」と「応挙の幽霊」を継ぎ足した感じで、後半の花魁のずうずうしさだけが、笑いのタネです。

円遊は、その年の5月末から8月いっぱい、西京(京都)から関西、東海地方を旅興行で回っているので、噺の題名はその土産話という、ニュアンスなのでしょう。

「西京」は、明治以後に使われた名称です。

江戸が「東京」と改名して首都とされたため、それと区別するために用いたものです。

士族公債

明治2年(1869)の版籍奉還に伴い、同10年(1877)に政府から士族に発行された秩禄(=金禄)公債証書。

明治政府が武士に渡した手切れ金です。1人当たり、平均40円にも満たないケースがほとんどでした。

そのため、士族の多くは生活に困窮。子女が身売りしたり、落語でよく登場するように慣れない商売に手を出して失敗する悲劇が明治初期、いたるところで見られました。

神隠し  【RIZAP COOK】

いわゆる「蒸発」です。

その当時、子供の「蒸発」はほとんどが人さらいでした。

柱隠し  【RIZAP COOK】

オチが今ではわかりにくくなっていますが、柱隠しは、柱の表面に掛けた装飾のことです。

「たがや」にも登場する「柱暦」もその一つですが、多くは、細長い紙に書画を描いたもので、柱掛け、柱聯ともいいました。

この噺の場合は、柱隠しに使った掛け軸の中から花魁が出現したことを言ったものです。

つまり、神隠しではなく、掛け軸の中にまた戻っていったのだろう、ということでしょう。

江戸時代には、柱隠しを利用した、「聯合わせ」という優雅な遊びがありました。

柱に木製や竹製の聯を掛け、単に飾って自慢しあうだけでなく、その上に手拭い、扇面、短冊、花などをあしらい歌舞伎の下題に見立てて、洒落るなどしたものです。

明治期には、ハンカチを使うこともありました。

のちには、祭礼の神酒所の飾りにしか、見られなくなりました。

清風  【RIZAP COOK】

せいふう。江戸時代、神隠しは天狗の仕業と考えられ、天狗の羽うちわが起こす風をこう呼びました。

ここでは、冗談半分にそれとしゃれたものです。



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評価 :0/3。

てんたく【転宅】落語演目



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【どんな?】

泥棒より数枚上手な女の話。
この泥棒のお人よしぶりには口あんぐり。

あらすじ

おめかけさんが「権妻ごんさい」と呼ばれていた明治の頃。

船板塀に見越みこしの松の妾宅しょうたくに、だんなが五十円届けて帰った後、これを聞きつけて忍び込んだのが間抜けな泥棒。

お膳の残りものをムシャムシャ食っているところを、おめかけさんのお梅に見つかり、
「さあ、ダンツクが置いてった五十円、蛇が見込んだ雨蛙。四の五の言わずに出せばよし、いやだ応だと抜かしゃがると、伊達には差さねえこの大だんびら、うぬがどてっ腹へズブリズブリとお見舞い申すぞ」
と居直ったが、このおめかけさん、いっこうに動じないばかりか、
「あたしも実は元はご同業で、とうにだんなには愛想が尽きているから、あたしみたいな女でよかったら、連れて逃げておくれ」
と言い出したから、泥棒は仰天。

「五十円はおろか、この家にはあたしの蓄えも入れて千円あるから、この金を持って駆け落ちし、世界一周した後、おまえさんに芸者屋でもやってもらう」
と色仕掛けで迫る。

泥棒、でれでれになって、とうとう、めおとの約束を。

「そう決まったら今夜は泊まっていく」
と泥棒がずうずうしく言い出すと、
「あら、今夜はいけないよ。二階にはだんなの友達でえらく強いのが、酔っぱらって寝てるんだから」

明日の朝に忍んでいく約束をしたが、
「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」
と稼いだなけなしの二十円を巻き上げられる始末。

で、その翌朝。

うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんや、もぬけのカラ。

あわてて隣の煙草屋のおやじに聞くと、
「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑いつづけなんです」

女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。ほうぼうで遊んできた人だから、人間がすれている。間抜け野郎の泥棒を口先でコロッとだまし、あの後、だんなをすぐに呼びにやったところ、あとでなにか不都合があるといけないというので、泥棒から巻き上げた金は警察に届け、明け方のうちに急に転宅(=引っ越し)した、とか。

「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(=だまされた)」

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しりたい

たちのぼる明治の匂い

「権妻」「転宅」ともに明治初期から使われだした言葉。まぎれもなく明治の新時代につくられた噺です。

初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)が得意にしました。

この円遊は明治を代表する噺家で、大きい鼻のために「鼻の円遊」とも、落語の後の余興として奇妙な踊りを披露したため「ステテコの圓遊」とも呼ばれていました。

円遊は、文明開化の新風俗を当て込み、鉄道馬車を登場させたり、オチも「あそこにシャボンが出ています」と変えるなどとしていました。

同時代で音曲の弾き語りや声色などで人気のあった二代目古今亭今輔(見崎栄次郎、1859-1898)は、女が「目印にタライを置いておく」と言い、オチは「転宅(=洗濯)なさいましたか。道理でタライが出ています」としています。

ちなみに、二代目今輔は右目が不自由だったことから「めっかちの今輔」と当時の資料には出てきます。

やはり、ひとつの時代の風俗に密着しているだけに、いつまでも生き残るには難しい噺かもしれません。

三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)も得意ネタにしていました。こちらのネタでも同じような運命をたどっています。

権妻

本妻に対しての愛人、妾、おめかけさんをいいます。

「権」を「けん」ではなく「ごん」と読みます。

「ごん」と読む場合は、「権大納言ごんだいなごん」「権禰宜ごんねぎ」というように、「次の」「二番目の」をさす敬称となります。

愛人に対してわざとしゃれて使ったものです。明治時代の特徴です。

船板塀に見越しの松

「黒板塀に……」ともいいます。当時の典型的な妾宅しょうたくの象徴として、三代目瀬川如皐じょこう(六三郎、1806-81)の代表的な歌舞伎世話狂言『源氏店げんじだな』(お富与三郎)にも使われました。

瀬川如皐は歌舞伎作者です。

船板塀は、廃船となった船底板をはめた塀で、ふつう「忍び返し」という、とがった竹や木を連ねた泥棒よけが上部に付いていました。

見越みこしの松は、目印も兼ねて塀際に植え、外から見えるようにしてあります。

いずれも芸者屋の造りをまね、主に風情を楽しむために置かれたものです。

「ドウスル!」女義太夫

「娘義太夫」「タレギダ」ともいいます。これも幕末に衰えていたのが、明治初年に復活したものです。

明治中期になると全盛期を迎え、取り巻きの書生連が義太夫の山場にかかると、「ドウスル、ドウスル」と声をかけたので、「ドウスル連」と呼ばれました。

ちなみに、「タレギダ」の「タレ」は女性の隠語、「ギダ」は義太夫のことで、娘義太夫を意味しています。内訳を知るとばかばかしいだけ。

娘義太夫は、今でいうアイドルのはしりで、その人気のほどは、木下杢太郎(1885-1945)の詩「街頭初夏」(明治43年)にも。

濃いお納戸の肩衣の
花の「昇菊、昇之助」
義太夫節のびら札の
藍の匹田しったもすずしげに

この噺のおめかけさんのように旅回りの女芸人となると、泥水もさんざんのみ、売春まがいのこともするような、かなり凄絶な境遇だったのでしょう。

そこから這い上がってきたのですから、したたかにもなるわけです。

それにしても

この噺、男女の愛欲を貫くよりも、泥棒を犯罪者とみなして追及するほうを優先しています。

明治期の世俗価値観が強く出ていて、いまいちどうも、とびきりのおもしろさはありません。

とはいえ、妾囲いを是とする風潮は許容しているわけです。

落語は、社会の不備や政治の不正に物申す、発信元の役割を果たしたわけではなかったようです。

自由民権運動では、講談や浪曲が媒体として使われはしても、落語は使われませんでした。

現代でも、聴者はそんなところを落語に求めていません。ただげらげら笑いたいだけなんですよね。私(古木)もです。



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評価 :2/3。

ひとりさかもり【一人酒盛】落語演目



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【どんな?】

上方噺。
酒好きにはこたえられません。

別題:一人酒

【あらすじ】

これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留公。

無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。

造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らない、いい酒とか。

本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。

「のみ友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだ」
とお世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。

いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。

熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬け物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。

今か今かと、「のめ」と言ってくれるのを待っているのだが、熊は一人でガブガブのみ、勝手なご託ばかり並べ立てるだけ。

ついにがまんしかねて、留が
「うまいかい?」
とせいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから
「のんでるときに、なにか言っちゃいけねえ」
と、熊の耳にも入らない。

「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」

「いっしょにのみてえのは留さんだけだ」
と繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。

そのうち刺し身をムシャムシャ食い出し、これも独り占め。

そろそろ完全にベロベロになってきて、なにかうたえと、からむからぶつくさ言うと、
「なに、もそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持ちになんなきゃいけないよォ」

留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。

熊、
「どじ助のまぬけ、こんなに煮っくりかえしちまって」
と毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。

そこで五合はおつもり。

「無冠の太夫おつもり」
などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」
などと言うに及び、留の怒りが爆発。

「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがればか野郎ッ」

畳をけり立てて、帰ってしまう。

隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

六代目松鶴の酒乱噺

上方の噺で、酒のみの地を生かした六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)の十八番でした。

東京でこの噺を得意にした六代目三遊亭円生がどちらかといえば、根は好人物という人物造形だったのに対し、松鶴の主人公は酒乱そのものでした。

大阪では、もともと、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年、83歳で没)が得意にし、そのやり方は桂米朝が直伝で継承していました。

南天や米朝のでは、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入ります。

円朝の名人芸

『明治世相百話』には、明治28年(1895)秋、すでに引退していた三遊亭円朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「円朝会」に出席、トリにこの「一人酒盛」を演じたことが記されています。

著者は山本笑月(1873-1936)。明治を代表するジャーナリストの一人。浅草花やしきの創設者、山本金蔵の長男で、長谷川如是閑や大野静方は実弟です。条野採菊が経営するやまと新聞から朝日新聞に移り、文芸部長、社会部長などをつとめました。病を得て退社した後は、療養生活と江戸明治文化の研究に励みました。

『明治世相百話』は昭和58年(1983)に中公文庫から復刊されました。これさえも今では絶版ですが、古本でまだ入手できます。この本には円朝の意外な面が活写されてあります。

山本笑月によると、円朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、円朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えた、ということです。名人芸のきわみでしょうか。

東京では円朝の高弟、二代目三遊亭円橘が最も得意にしました。六代目円生は、子供のころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとに構成したそうです。

七十五日どころか

七十五日は「ほんのわずかな期間」という意味。「人のうわさも七十五日」「初物を食えば七十五日生き延びる」などと、江戸ではよく「七十五日」を使いますが、この数字の根拠は不明です。六代目円生も「よくわかりません」と言っています。

この噺に関しては、酒はすぐ醒めるから、命が延びてもほんのわずか、と逆説的な意味を含むのかもしれません。

おつもり

正確には「積もりっこ」で、杯を納めることです。酒席で、その酌を最後に終わりにするときに「おつもりで」と使います。ここではさらに、『平家物語』の登場人物、無官太夫の平敦盛を掛けたダジャレでもあります。

ことばよみいみ
留公とめこう「とめの野郎」くらいの意
ご託ごたくご託宣の略。くどくど。「ごた」とも
平敦盛たいらのあつもり源平合戦時の平家の武将



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評価 :2/3。

だいしょや【代書屋】落語演目

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【どんな?】

代書屋は今の行政書士や司法書士のこと。
大正時代の、のんきでのどかなお話です。

別題:代書

【あらすじ】

色街の箱屋に応募するので、履歴書の代書を頼みに来た男。

長男かと聞くと、兄貴が死んだので長男になったとトンチンカンな答えで、一字訂正・判。

生年月日を聞けば旅順陥落提灯行列の日を答えるし、職歴では、大正三年九月饅頭屋を開業しようとしたが、家賃が高いからやめた、で二行抹消。

同十二月露天商は二時間でやめた。

また二行抹消と、メチャクチャ。

署名しろ、と言うと無筆。

自署不能ニ付キ代書・判。

次に来たのは、六十がらみの上品な老人。

結納の受取を毛筆でという注文。

墨が悪い、と摺り直させ、代書事務所の看板を見て、やれ字の右肩が下がっている、心棒が歪んでいると難癖をつけたあげく、
「また今度」。

お次は、妹の渡航証明を頼みに来た外国人。

言葉がかみ合わず、四苦八苦。

よく聞いてみると、戸籍証明がメチャクチャなので、これでは受理されないと、死亡届、死亡届失期理由書、出生届、同じく失期理由書と、書類の山。

戸籍の再作成は(当時は)科料十円取られると聞いて、怒って行ってしまう。

骨折り損のくたびれもうけ。

最後は十二、三の丁稚。

今の老人宅からおじゃま料を届けに来たので、受け取りに署名と判がほしいという。

老人は中気で引退したが、滴堂という有名な書家とか。

書家の奉公人だけあって、この小僧もうるさい。

「それで『中』の心棒が歪んでます」

降参して小僧に代筆させると、これが見事な筆。

判だけお願いしますと言うので押そうとしたら、名前の横に「自署不能ニ付キ代書」。

底本:四代目桂米団治

【しりたい】

大阪の新作

四代目桂米団治(中濱賢三、1896-1951)が昭和13年(1938)頃に創作した新作落語です。

当時は二代目桂米之助だった頃で、原題は「代書」でした。米団治は三代目桂米朝(中川清、1925-2015)の師匠で、キリスト教徒、行政書士の資格を持つ噺家でした。

大阪では、非常にポピュラーで息の長い人気作です。

米朝始め、三代目桂春団治(河合一、1930-2016)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)ほか多くの演者が手がけていますが、東京ではやり手がなかったのを七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)が米朝直伝のものを東京風に改作して演じていました。

このあらすじでは、米団治のオリジナルの速記を参考にしました。

談志が改作

七代目立川談志のやり方がおもしろかったので、記しておきます。

最初の男を日本橋人形町に住む「小板橋喜八郎」とし、「旅順陥落」の珍問答などはおおむね原作通りですが、二人目の客を、親に見せるため女学校の卒業証書を「偽造」してくれと頼みに来る娘、三人目を、両親にけんかしないように書いてくれという子供に代えていました。オリジナルより掛け合いのくすぐりを多くして、より現代に通じる、笑いの多いものにしているのが特徴です。四人目の外国人との珍妙なやり取りの末、しまいに代書屋が混乱して「なんだか、ワカンナクなっちゃった」というオチにしています。

代書屋とは

代書人ともいいます。

大正9年(1920)、「代書人規則」として法制化されました。

普通にいう代書人は、おもに官公庁に提出する公文書の作成を業務としますが、それとは別に、前年の大正8年(1919)に定められた「司法代書人」があり、こちらは裁判所や検事局あての書類を作成します。戦後、前者が「行政書士」、後者が「司法書士」となったわけです。

まだ識字者の少なかった大正末期から昭和初期にかけては、この噺のように単なる履歴書や受取証の代筆をする零細な文字通りの「代書人」も多かったと思われます。

談志のくすぐり

(客と代書屋の問答で)
男「大正10年10月10日」
代「あ、そう。場所は?」
男「品川」
代「あ、そう。品川でと。なにをやったの?」
男「留と二人で女郎買いに行った日だ」

ことばよみいみ
丁稚でっち
中気ちゅうき

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評価 :1/3。

ぎがん【義眼】落語演目

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 【どんな?】

目がらみの噺。
江戸では眼病の男が多かったとか。

別題:入れ目 のぞき医者(上方)

あらすじ

ある男、目の具合がどうもよくないので、医者に相談するが、ますます見えなくなるばかり。


眼科の先生もしまいには面倒くさくなり、えいとばかり悪い方の目をスッポリ抜き取り、代わりに義眼をはめ込んでごまかしてしまった。

「あー、どうです具合は?……そりゃよかった。それから、入れた方の目は夜は必要ないンだから、取りましてね、枕元に水を置いて、浮かべときなさい。そうすりゃ長持ちするから」

入れ歯と間違えているようだが、当人すっかり喜んで、その夜、吉原のなじみの女郎のところへ見せびらかしに行く。

男前が上がったというので、その晩は大変なモテよう。

さて、こちらは隣部屋の客。

反対に相方の女が、まるっきり来ない。

女房とけんかした腹いせのお女郎買いなのに、こっちも完璧に振られ、ヤケ酒ばかり喰らい、クダを巻いている。


「なんでえ、えー、あの女郎は……長えぞオシッコが。牛の年じゃあねえのか?それにしても、隣はうるさいねえ。え、『こないだと顔が変わった』ってやがる。七面鳥のケツじゃあるめえし、え、そんなにツラが変わるかいッ!こんちくしょうめ!」


焼き餠とヤケ酒でのどがかわき、ついでにどんなツラの野郎か見てやろうと隣をのぞくと、枕元に例の義眼を浮かべた水。


色男が寝ついたのを幸いにしのびこんで、酔い覚めの水千両とばかり、ぐいっとのみ干したからたまらない。


翌日からお通じはなくなるわ、熱は出るわで、どうにもしようがなくなって、医者に駆け込んだ。


さて……「あー、奥さん、お宅のご主人のお通じがないのは、肛門の奥の方に、なにかさまたげてるものがありますな」

サルマタを取って、双眼鏡で肛門をのぞくなり、先生、「ぎゃん」と叫んで表へにげだした。

男の女房が後を追いかけてきて、
「先生、いったいどうなさったんです」
「いやあ驚いた。今、お宅のご主人の尻の穴をのぞいたら、向こうからも誰かにらんでた」

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

「いれめ」とも  【RIZAP COOK】

「義眼」と記して「いれめ」と読んだりもします。

短いけれども、楽しいナンセンスにあふれた展開、オチの秀逸さで、落とし噺としては、最もすぐれたもののひとつといえるでしょう。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が時々、心から楽しそうに演じていた噺で、速記を読んだだけで吹き出してしまうほど。

意外にも、初代三遊亭円左えんざ(小泉熊山、1853-1909、狸の)が得意にしていました。明治の大看板で人情噺の大家です。それを、初代柳家三語楼さんごろう(山口慶三、1875-1938)がさらにギャグを加え、オチも円左の「尻の穴ににらまれたのは初めてだ」から、よりシュールな現行のものに変えました。

三語楼は大正、昭和初期の爆笑王でした。五代目志ん生の最後の師匠でも有名です。

三語楼から志ん生に、さらに、初代柳家権太楼ごんたろう(北村市兵衛、1897-1955)に継承されました。

権太楼も、昭和初期に「猫と金魚」などの爆笑落語で売れた人です。

権太楼のレコードは、尻をメガネでのぞく場面が、なんと効果音入りという凝ったものだったとか。

志ん生の音源発掘!  【RIZAP COOK】

志ん生の、未公表のきわめて貴重な音源・映像・写真を多数含む『講談社DVDBOOK・志ん生復活!落語大全集』(2004-05)全13巻が発売されました。

第5巻に「義眼」が収録されています。

カセットテープ版として、日本クラウンから発売されたものを改めて収録したものです。

この巻には長男の馬生とのリレー落語「宿屋の富」(初公開)も収録。志ん生フリークには楽しめる一冊です。

【義眼 古今亭志ん生】



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評価 :1/3。

しちだんめ【七段目】落語演目

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どんな?

忠臣蔵噺の一。
生活すべてが芝居の調子。
マニアっていうのは、いつの世も……。

あらすじ

若だんなが常軌を逸した芝居マニアで、家業そっちのけ。

四六時中しろくじちゅう、芝居小屋に入りびたり、何をやっても芝居のセリフになってしまう。

今日も朝から帰らないので、だんなが番頭に愚痴ぐちをこぼしている。

「今日という今日はみっちり小言を言います」とカンカンに怒るのを番頭がなだめているところへ、当の若だんなが意気揚々とご帰還。

しかっても蛙のツラに何とやらで、「遅なわりしは、拙者せっしゃ不調法ぶちょうほう((遅くなりましたのは私の誤ち)」と『忠臣蔵』「三段目」の判官ほうがん気取り。

あきれ果てて二階へ追い払うと、さっそく「とざい、とーざーい」と金切かなきり声を張り上げる。

閉口しただんな、小僧の定吉さだきちに止めてこいと命じたが、定吉も悪のりして「やあやあ若だんな、芝居のまねをやめればよし、いやだなんぞとじくねると、とっつかめえて……」と『忠臣蔵』「道行みちゆき」の鷺坂伴内さぎさかばんないのパロディー。

これが逆効果で、若だんなは仲間ができたと大喜び。

いっしょに芝居をやろうと、聞かない。

定吉ももとは芝居マニアなので、とうとう乗せられ、『忠臣蔵』「七段目」の茶屋場ちゃやば(遊興場面)の寺岡平右衛門てらおかへいえもんとおかるの場面を二人でやる羽目はめに。

やるからには衣装を整えようと若だんな、赤い長襦袢ながじゅばんと帯のしごき(腰ひも)、手ぬぐいのあねさんかぶりで定吉に女装させたのはいいが、平右衛門の自分が丸腰ではと、床の間の本身ほんみの刀を持ち出したから、定吉は驚いた。やめると言うのを、決して抜かないからと、刀の鯉口こいくちをコヨリで結んでやっとなだめすかす。

足軽の平右衛門が、妹のおかるが仇討あだうちの大事を知ったことを悟り、秘密がバレるのを恐れて、自分の手で始末しようと決心するところで、だんだん若だんなの目がすわってきたので、定吉はびくびく。

とうとう、恐れていた事態が。

「あなた、抜いちゃいけませんったらッ」

もう何も耳に入らない若だんな、コヨリをあっという間にぶっちぎり「妹、こんたの命ァ、兄がもらったッ」

抜き身を振り回すからたまらない。

定吉、逃げる拍子に階段からゴロゴロゴロ。

「おい、定吉、しっかりしろ」
「ハア、私には勘平さんという夫のある身」
「ばか野郎ッ。小僧に夫があってたまるか。変なかっこうをして。さては、二階であのばかと芝居ごっこをして、てっぺんから落ちたか」
「いえ、七段目」

しりたい

忠臣蔵噺、濃厚なパロディー

全編、人形浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』のパロディー。忠臣蔵噺ちゅうしんぐらばなしのひとつです。

江戸、大坂のような都市部の人々なら、特に、この若だんなのような芝居マニアでなくとも、『忠臣蔵』のセリフや登場人物くらいは隅々まで頭に入っていて、日常会話の一部にさえなっていました。

「とざい、とーざい」は「東西声」といいます。『仮名手本忠臣蔵』開幕の前にからくり人形が観客に挨拶する掛け声です。

定吉の「芝居のまねを……」は「四段目よだんめ」のきり(終わり=段切だんぎれ)、舞踊『道行旅路花婿みちゆきたびじのはなむこ』の道化敵・鷺坂伴内のセリフ、「やあやあ勘平、お軽をこっちへ渡さばよし、いやだなんぞとじくねると……」のもじりです。

騒動の元になる後半の大立ち回りは、「七段目」祇園一力茶屋ぎおんいちりきぢゃやの場で、密書を読んで仇討ちの計画を知った遊女・おかるを、身請けの後に殺そうという大星由良之助おおぼしゆらのすけ(大石内蔵之助)の腹を、おかるの兄・寺岡平右衛門てらおかへいえもんが察し、妹を手に掛けた(殺した)手柄で、同志に加えてもらおうとする見せ場です。

ほかに登場する芝居

この噺でパロディーギャグに使われる芝居は、『忠臣蔵』以外は演者によって変わります。

若だんなが『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』「車引くるまびき(三段目の通称)」の「そのくるまァ、やァらァぬゥー」という決めゼリフで人力車を止めたり、おやじにぶたれて、「こりゃこのおとこの、生きィづらァをー」と、『夏祭浪花鑑なつまつりなにわかがみ(通称は夏祭なつまつり)』の団七だんしちのセリフでうなったりするギャグは、おおかたの落語家が入れますが、観客が歌舞伎をよく理解していないとウケません。

東西とも、芝居のクライマックスは、下座の鳴り物を使って、にぎやかに演じます。

「七段目」の演者と演出

芝居ばなしの素養がないとできない噺です。二代目三遊亭円歌(田中利助、1890-1964)、八代目雷門助六(岩田喜多二、1907-1991、六さん)などが軽妙に演じていました。春風亭小朝、林家正雀などのレパートリーにもなっています。

大阪でも古くから演じられています。二代目立花家花橘(菱川一太郎、1884-1951)が得意にしていたのを三代目桂米朝(中川清、1925-2015)が継承し、桂吉朝(上田浩久、1954-2005)、桂文珍など後進に伝えました。

最後のオチは、古い型では「七段目から落ちたか」「いえ、てっぺんから」と逆です。米朝は、この型でサゲていました。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

ぼうだら【棒鱈】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「首提灯」「胴取り」と並ぶ痛快珍品。
江戸っ子のタンカが聴きどころです。
オチの「こしょう」は「故障」と「胡椒」を掛けています。

あらすじ

江戸っ子の二人連れ。

料理屋の隣座敷で、鮫塚という田舎侍が大騒ぎする声を、苦々しく聞いている。

ついさっきまで
「琉球へおじゃるなら草履ははいておじゃれ」
などというまぬけな歌をがなっていた。

静かになったと思ったら、芸者が来たようすで、隣の会話が筒抜け。

芸者が
「あなたのお好きなものは?」
と聞くと
「おいどんの好きなのは、エボエボ坊主のそっぱ漬け、赤ベロベロの醤油漬けじゃ」

エボエボ坊主がタコの三杯酢で、赤ベロベロがマグロの刺し身ときた。

「おい、聞いたかい。あの野郎の言いぐさをよ。マグロのサムスだとよ。……なに、聞こえたかってかまうもんか。あのバカッ」

大声を出したから、侍が怒るのをなだめて、
「三味線を弾きますから、なにか聞かせてちょうだい」
と言うと、侍は
「モーズがクーツバシ、サーブロヒョーエ、ナーギナタ、サーセヤ、カーラカサ、タヌキノハラツヅミ、ヤッポコポンノポン」
と歌い出す。

「おい、あれが日本の歌かい」
と、あきれかえっていると、今度は
「鳩に鳶に烏のお犬の声、イッポッポピーヒョロカーカー」
「おしょうがちいが、松飾り、にがちいが、テンテコテン」

気短な方が、もうがまんがならなくなって、隣座敷のテンテコテンがどんなツラぁしてるか、ちょいと見てきてやると、相棒が止めるのも聞かずに出かけていく。

廊下からのぞこうとしたが、酔っているからすべって、障子もろとも突っ込んだ。

驚いたのが田舎侍。

「これはなんじゃ。人間が降ってきた」
「なにォ言ってやがるんでえ。てめえだな。さっきからパアパアいってやがんのは。酒がまずくならあ。マグーロのサスム、おしょうがちいがテンテコテンってやがら。ばかァ」
「こやつ、無礼なやつ」
「無礼ってなあ、こういうんだ」
と、いきなり武士の面体に赤ベロベロをぶっかけたから
「そこへ直れ。真っ二つにいたしてくれる」
「しゃれたたこと言いやがる。さ、斬っつくれ。斬って赤くなかったら銭はとらねえ、西瓜野郎ってんだ。さあ、斬りゃあがれッ」
と大げんか。

ちょうど、そこへ料理人が、客のあつらえの鱈もどきができたので、薬味のこしょうを添えて上がろうとしたところへ、けんかの知らせ。

あわててこしょうを持ったまま
「まあ、だんな、どうかお静かに。ま、ま、親方。後でお話いたしますから」
と、間へ入ってもみ合ううちに、こしょうをぶちまけた。

「ベラボウめ、テンテコテンが、ハックション」
「ま、けがをしてはいけませんから、ハックション」
「無礼なやつめ。真っ二つにいたしてくれる。それへ、ハックション」
「まあまあ、みなさん、ハックション」
とやっていると、侍が
「ハックション、皆の者、このけんかはこれまでじゃ」
「そりゃまた、どうして」
「横合いからこしょう(故障=じゃま)が入った」

【RIZAP COOK】

しりたい

爽快な啖呵  【RIZAP COOK】

原話は不詳ですが、生粋きっすいの江戸落語で、「首提灯」と並んで、江戸っ子のイキのよさとタンカが売り物の噺です。

それだけに、歯切れよく啖呵たんかのきれる演者でないとサマにならず、昨今はあまり口演されません。

昭和34年(1959)9月、ラジオ公開録音中に脳出血で倒れ、翌月亡くなった八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)が得意にしていました。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)もよく演じました。門下の十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)も持ちネタにしていました。

あるいは、同じ小さん門下の柳家さん喬なども持ちネタにしています。若き日のさん喬がラジオで演じた「棒鱈」は実にみごとな出来でした。

TBS落語研究会で、橘家円太郎が熱演したこともありました。

棒鱈  【RIZAP COOK】

もとは、鱈を三枚におろしたものを日干しにしたものをさします。それを里芋や海老芋などで煮込んだ料理が、芋棒です。京都の名物ですね。

この噺では、それを呼んでいるのではありません。

俗語として、酔っぱらい、または愚か者、野暮天の意味で使いました。酔っぱらってぐだぐだになっている状態が、棒鱈にあたります。

この噺では鱈もどき(不詳。棒鱈の煮つけのことか?)という、田舎侍のあつらえた料理とひっかけた題名になっています。ここでは、棒鱈は明らかに侍のほうです。

料理とは本来、魚鳥のもののみを指し、野菜などの精進ものが出る場合は「調菜」と呼んで区別していました。

参考:原田信男『江戸の料理史―料理本と料理文化』(中公新書、1989年) 

浅黄裏  【RIZAP COOK】

江戸勤番の諸藩士が、着物の裏に質素な浅黄木綿あさぎもめんをつけて吉原などに出入りしたのをあざ笑って「浅黄裏あさぎうら」とも呼ばれ、野暮やぼの代名詞でした。

「浅黄裏」は諸般の武士をさします。田舎侍といった蔑称です。

この噺の侍は薩摩藩士と思われますが、落語では特にそれらしくは演じません。

ただ、薩摩の芋侍とすると、「首提灯」同様、薩長に対する江戸者の反感がとみに高まっていた幕末の世相を色濃く感じます。

タンカが売り物  【RIZAP COOK】

「浅黄裏」「サンピン」などと江戸っ子に蔑まれた勤番の諸藩士については、「首提灯」「胴取り」などがあります。

この噺の侍は薩摩藩士のようですが、落語では、特にそれらしくは演じません。

首提灯」同様、江戸っ子が痛快なタンカで田舎侍を罵倒するイキのよさが眼目の噺です。

幕府瓦解直後の寄席では、そのばかにしていた「薩摩芋さつまいも」や「長州猿ちょうしゅうざる」が天下を取り、憤懣やるかたない江戸っ子の鬱憤晴らしとして、この手の噺は、さぞ受けたことでしょう。

こしょう

オチの「故障」とは、①さしつかえ、さしさわり②異議、異論、じゃま、文句、抗議。

この故障と胡椒を掛けたわけです。今はすたれてしまいまって、その意味もわかりにくくなっていますが、「故障」は日常的によく使われていました。

【語の読みと注】
浅黄裏 あさぎうら:諸藩の武士



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

評価 :1/3。

かわずちゃばん【蛙茶番】落語演目

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【どんな?】

町内で繰り広げられる素人の芝居。
腹を抱えて笑っちゃいます。

別題:素人芝居 舞台番

【あらすじ】

町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の「忍術ゆずり場」を出すことになった。

大盗賊の徳兵衛が、赤松満祐の幽霊から忍術の極意を伝授され、ドロンドロンとガマに化ける場面である。

ところが、そのガマの役にくじ引きで当たってしまったのが、伊勢屋の若だんな。

やりたくないから、当然、仮病を使って出てこない。

困った世話役の番頭、しかたなく芝居好きの丁稚の定吉をなだめすかし、ガマ賃をやる約束で、ようやく代役を承知させる。

安心したのもつかの間、今度は、舞台のソデで客の騒ぎを鎮める役である舞台番をつとめる建具屋の半公が来ない。

この男、通称バカ半、ハネ半と呼ばれるほどお調子者。

とにかく舞台番がいないと幕が開かないので、定吉に呼びに行かせると、この前、だんなに
「今度、化物芝居の座頭に頼む」
と言われたのがしゃくで、
「誰が行ってやるもんか」
と大変な剣幕。

困った番頭、一計を案じて定吉に、
「半公が岡惚れしている小間物屋のみい坊が、『役者なんかしないで舞台番と逃げたところが半さんらしくていい』と誉めていたと言って、だまして連れてこい」
と言いつける。

これを聞いて有頂天になった半公、どうせならと、自慢の緋縮緬のフンドシを質屋から急いで請け出し、湯屋で入念に「男」を磨く。

ところが、催促に来た定吉に
「早く来ないとみいちゃんが帰っちまう」
とせかされ、あわてて湯から上がって外へ飛び出したのはいいが、肝心のフンドシを締め忘れ、マル出しのまま気づかずに……。

さて、半公が息せききって駆けつけ、ようやく開幕。

客はもちろん、舞台番なんぞに目もくれない。

半公、ソデからみいちゃんをキョロキョロ探すが、いるワケがない。

しかたなく、フンドシの趣向だけでも見せようと
「しょっしょっ、騒いじゃいけねえ」
と客が静かに芝居を見ているのに、一人で騒ぎ立てる。

あまりのうるささに一同ひょいと舞台番を見ると、半公の股間から妙なものがカマ首をもたげている。

「あれは作り物じゃない」
と場内騒然。

「ようよう、半公、日本一! 大道具!」

誉められた半公、喜んでいっそうはでに尻をまくり、客席の方に乗り出した……。

この間にも芝居は進んで、いよいよ見せ場の忍術ゆずり場。

ドロンドロンと大どろになるが、ガマの定吉が出てこない。

「おいおい、ガマはどうした。おい、定、早く出なきゃあだめだよ」
「へへっ、出られません」
「なぜ」
「あすこで、青大将がねらってます」

底本:三代目三遊亭金馬ほか

しりたい

茶番

もとは歌舞伎のの大部屋の役者が、毎年5月29日の曽我祭の日に酒宴を催し、その席で、当番がおもしろおかしく口上をのべたのが始まりです。

それを「酒番」といいましたが、享保年間(1716-36)の末に、下戸の初代澤村宗十郎が酒席を茶席に代えたので、酒番も茶番になったわけです。

宝暦年間(1751-64)になると、遊里や戯作者仲間、一般町人の間にもこの「口上茶番」が広まり、いろいろな道具を並べてシャレながら口上を言う「見立て茶番」、素人芝居に口上茶番の趣向を加味した「素人茶番」も生まれました。

この噺のイベントはその「素人茶番」、別名「立茶番」です。

「芝居」と銘打つとお上がうるさいので、あくまでタテマエは茶番とし、商家の祝い事や町内の催しものに、アトラクションとして盛んに行われました。

落語では、ほかに「権助芝居」があります。

天竺徳兵衛

ここに登場する芝居は、正式な外題を「天竺徳兵衛韓噺てんじくとくべえいこくばなし」といいます。現在も市川猿之助一座のレパートリーになっています。

四代目鶴屋南北(1755-1829)が、文化元年(1804)七月の河原崎座に書き下ろした作品です。

日本がまだ海外渡航できた寛永10年(1633)の頃。インド(天竺)に渡航して「天竺聞書」を出版した徳兵衛。徳兵衛が天下をねらい、ガマの妖術をあやつる大盗賊に仕立てた、壮大な歌舞伎狂言です。

19世紀初頭の南北にとって、それより200年も前に海外で活躍した徳兵衛の生涯は奇異に映ったはず。

「昔は外海に勝手に出かけられたのに、今といったらもう……」という心持ちでしょうか。

ご時勢のめぐりあわせを通して、徳兵衛のような勝手気ままな生き方にあこがれたのかもしれません。

金馬の「サクラ」作戦

この噺は、「素人芝居」という長い噺の後半が独立したものです。

オリジナルは、明治29年(1896)の四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)。円喬の速記が残っています。

先の大戦後は、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番でした。

その金馬がまだ円洲といった大正末期のこと。神田・立花亭の独演会でこの噺を演じたとき。客席に潜ませた子分の春風亭小柳、のちの三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)に「ガマが出ないじゃないか」と叫ばせ、待ってましたとばかり、「あそこで青大将がねらってます」とサゲて下りるという、派手な演出をしたそうです。

初代談洲楼燕枝

この噺、バレ噺の色が濃いのが特徴です。

明治のころ、これを口演した初代談洲楼燕枝(長島傳次、1837-1900)を始め、昭和20年まで、かなりの落語家が警察署に呼ばれて油をしぼられたそうです。

燕枝は、三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)のライバルとして有名な人で、柳派の頭目でした。

明治33年(1900)という年は、燕枝が2月に、円朝が8月に逝って、柳派も三遊派もともに巨星堕つの感が当時の新聞各紙からうかがえます。

円朝は語り起こしの速記で自作を数多く残していますが、燕枝は自ら執筆して自作を残しています。

島鵆沖白浪しまちどりおきつしらなみ」「天保奇談孝行車」「西海屋騒動」「御所車花五郎」といったオリジナル作ばかりか、翻案の「侠客小金井桜」「岡山奇聞筆之命毛」「善悪草園生咲分」も残っています。

「島鵆沖白浪」だけは、十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)が一部を、柳家三三が全編を通しでやったこともあります。

円朝のように全集もなく、燕枝は現在では、きわめて疎遠な存在とみなされています。

これほどポテンシャルの高い噺家も珍しいですし、円朝との対比と考察するのでも興味津々の存在です。研究者がもっとアプローチしてもいいのでしょうが。

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たらちね【垂乳根】落語演目

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【どんな?】

長屋の八五郎に京の名家の娘が。 お育ちの違いがちぐはぐ。 笑いを誘う上方噺。

別題:延陽伯(上方)

【あらすじ】

長屋でただ一人の独り者の八五郎のところに、大家が縁談を持ちかけてきた。 年は十九で、近所の医者の姪だという。 器量は十人並み以上、夏冬の着物もそろえているという、まことに結構な話。 結構すぎて眉唾なくらい。 「そんな女が、あっしのような男のところへ来るわけがない。なんか、キズでもあるんじゃないですか」 「ないと言いたいが、たった一つだけある」 もとは京の名家の出で、言葉が女房言葉。 馬鹿丁寧すぎてまるきりわからないという。 この間も、目に小石が入った時「ケサハドフウハゲシュウシテ、ショウシャガンニュウス」つまり「今朝は怒風激しゅうして、小砂眼入す」と、のたもうたそうな。 そんなことはなんでもないと八五郎が承諾したので、その日のうちに祝言となった。 なるほど美人なので、八五郎は大喜びだが、いざ話す段になると、これが相当なもの。 名を聞くと 「そも我が父は京都の産にして姓は安藤名は慶三あざなを五光、母は千代女と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴の夢を見てはらめるがゆえに、たらちねの胎内を出でしときは鶴女と申せしがそれは幼名、成長の後これを改め清女と申しはべるなぁりいー」 「ナアムミョウ、チーン、ご親類の方からご焼香を」 これではかみ合わない。 ネギが一文字草、米はしらげと、通訳がいるくらい。 朝起きれば起きたで 「アーラ、わが君、しらげのありかはいずこなりや」 頼むから、そのアーラワガキミてえのはやめてくれと言っているところへ、葱屋がやって来た。 「こーれ、門前に市をなすあきんど、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」 「へへへー」 ようやく味噌汁ができたが、 「アーラわが君。日も東天に出御ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」 「飯を食うのが恐惶謹言なら、酒ならよって(=酔って)くだんの如しか」

【しりたい】

女房言葉

宮中の女官が用いた言葉です。 代表的な女房言葉には、 かもじ =髪 いしいし =団子 おすもじ =寿司 あも =餅 うちまき =米 あか =小豆 こもじ =鯉 しゃもじ =杓子 ごふじょう(御不浄) =便所 おみおつけ(御御御つけ) =味噌汁 などがあります。 「しゃもじ」「おみおつけ」などは、すでにわれわれの日常語になってしまっているかんじですね。

たらちね

垂乳根と書き、「母」に掛かる枕詞です。父の枕詞は「たらちを(垂乳男)」です。

東西の演出

大阪の「延陽伯」が東京に移されたものです。 大阪では、女は武家娘という設定なので、漢語をやたらに使いますが、東京では京女ということで、女房ことばや京ことばを使うことになっています。

「せんにせんだんにあって」

明治27年(1884)4月の「百花園」誌上に掲載された四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)の速記では、女の珍言葉の部分がさらに長く、「天は梵天地は奈落比翼連理とどこまでも……」などとあります。 まったく解読不能なのが、「せんにせんだんにあって是を学ばざれば 金たらんと欲す」(原文通り、ふつうは「賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す」とやるところ) というフレーズです。 「落ちこぼれ古典教師」さんが「正解」案を提供してくださいました。深謝。

続編「つる女」

大阪では、「つる女」という「たらちね」の後日談があります。 今はもう、誰も演じ手はないようですが。 なかなか言葉が普通にならない細君が、大家の夫婦喧嘩の仲裁に入り、「御内儀には白髪秋風になびかせたまう御身にて、嫉妬に狂乱したまうは、省みて恥ずかしゅうは思し召されずや。早々にお静まりあってしかるべく存じたてまつる」とケムに巻き、火を消します。 「どないして急にピタリと治まったんやろ?」 「つる(鶴女=東京の清女)の一声」

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しゅんじゅうさしでんのことば【春秋左氏伝のことば】故事成語 ことば

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『春秋左氏伝』はいまでもかなり楽しめる書です。紀元前722年から前481年までの古代中国、魯の国のできごとを記した『春秋』(歴史を意味します)という書の注釈本のひとつ。「なんだ、注釈書か」と思われるかもしれません。でも、これがすごい。よく読むと、素っ気ない文体に豊かな含蓄。あまた味わい深くて。酒見賢一、宮城谷昌光、安能務なんかが描く世界ですね。現代でもおなじみのことばがたくさん登場します。故事名言の宝庫です。そこで、気になることばを一覧にしてみました。
故事成語初出年意味
挙国一致隠公元年(前722)国民全体が一致して同じ態度をとる
菟裘ときゅう隠公十一年世を退いて余生を送る場所。官を辞して隠棲する地
德を度り力を量る隱公十一年為政者が人々に信頼される人格と行政能力をもっているかどうかを推し量る
大義滅親隠公十四年君主や国家のためには親子の情をもかえりみない
玉を懐いて罪あり桓公十年分不相応のものを持つとわざわいを招く
城下の盟桓公十二年城下まで敵に攻め寄せられ講和を結ぶ
ほぞを噛む荘公六年後悔する
長享荘公十年日本の元号。1487-89年
禍に臨みて憂いを忘れば憂い必ずこれに及ばん荘公二十年災禍に臨みながらもそのつらい思いを忘れてしまうようではあとでとんでもない心配ごとが起こる
酖毒閔公元年猛毒
風馬牛僖公四年自分とは関係ない
一薫一蕕いっくんいちゆう僖公四年善人が悪人にやられてわざわいが長く残る
唇亡びて歯寒し僖公五年助け合う仲の一方が滅びると他方も危なくなる
唇歯輔車僖公五年持ちつ持たれつ
善敗己に由る僖公二十年良いも悪いも自分次第
蒙塵僖公二十四年天子が都から逃げ
玉趾を挙ぐ僖公二十六年貴人が来る
東道の主僖公三十年主人として来客の世話をする
墓木已に拱す僖公三十二年この死にぞこないめ!
帰元僖公三十三年
敵愾文公四年君主の憤りをはらそうとする
愛日文公七年冬の日
畏日文公七年夏の日
言葉なお耳にあり文公七年以前に聞いたことばが今でも耳に残る
八愷はちがい文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八元に同じ
八元文公十八年心が清く正しく徳の高い人。八愷に同じ
済美文公十八年よいことをする
董狐の筆宣公二年権力を恐れずに真実を発表する
魑魅魍魎宣公三年化け物いろいろ
かなえ軽重けいちょうを問う宣公三年その人の価値や能力を疑う→足元を見る
食指が動く宣公四年人差し指→食欲がわく
染指宣公四年ものごとを始める
野心宣公四年分不相応の大きな望み
肉袒宣公十二年降伏
七徳宣公十二年軍事の七つの徳→平和で繁栄のいいことづくめ
草を結ぶ宣公十五年恩に報いる
楚囚成公九年(前582年)囚人
二豎にじゅ成公十年(前581)病気
病膏肓やまいこうこう成公十年(前581)不治の病
勧善懲悪成公十四年悪は亡びる
菽麦しゅくばくを弁ぜず成公十八年愚かでものの区別がつかない
百年河清を襄公八年いくら待ってもむだ
杖るは信に如くはなし襄公八年たよれるのは信義だけ
安に居て危を思う襄公十一年いつでも危機に備えるのが大切だ
推輓すいばん襄公十四年おすすめ
貪らざるを以て宝となす襄公十五年無欲が自分の宝
南風競わず襄公十八年南方の勢力が弱い→威勢がない
禍福は門なし襄公二十三年幸不幸は自分が招く
慎始敬終襄公二十五年手抜きせずにやり抜く
太史の簡襄公二十五年記録
抜本塞源昭公四年根本原因を抜きとって弊害を元からなくす
興国昭公四年国の勢いを盛んにする
尾大掉わず昭公十一年上司が弱く部下が強いと仕事の発展はむり
末大必ず折る昭公十一年部下が強大になると上司は必ず滅びる
三墳五典昭公十二年古代の書
八索九丘昭公十二年こちらも、古代の書
善に従うこと流るるがごとし昭公十三年よいと思ったらすぐやる
寛政昭公二十年寛大な政治
牛耳を執る定公八年同盟の盟主となる
藩屏はんぺい定公四年垣根
三度肘を折って良医となる定公十三年苦しい体験を積んで味のある人になる
良禽択木哀公十一年賢い部下は親分を選んで仕える
心腹の疾哀公十一年強敵
獲麟かくりん哀公十四年(前481)終わり

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しょうちくばい【松竹梅】落語演目



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【どんな?】

めでたい噺。
礼儀知らずの長屋三人組。
婚礼に招かれた。
忌み言葉めぐり一騒動。

あらすじ

長屋の松五郎、梅吉、竹蔵の三人組。

そろって名前がおめでたいというので、出入り先のお店のお嬢さまの婚礼に招かれた。

ところがこの三人、名前だけでなく、心持ちもおめでたいので、席上どうしたらいいか、隠居に相談に行く。

隠居は、ついでなら鯨飲馬食してくるだけが能でないから、何か余興をやってあげたらどうかと勧め、「なったあ、なったあ、蛇(じゃ)になった、当家の婿殿蛇になった、何の蛇になあられた、長者になぁられた」という言い立てを謡(うたい)の調子で割りゼリフで言えばいいと、教えてくれる。

終わりに「お開きにいたしましょう」と締めるというわけ。

いざ練習してみると、松五郎は
「な、な、納豆」
「豆腐ーい」
と全部物売りになってしまうし、竹蔵は竹蔵で
「デデンデデン、なあんのおおおう」と義太夫調子。

危なっかしいが、道々練習しながらお店に着く。

いきなり「まことにご愁傷さま」とやりかけて肝を冷やすが、だんなは、おめでたい余興と聞いて大喜び。

親戚一同も一斉に手をたたくものだから、三人、あがってボーッとなる。

それでも、松と竹はどうやら無事に切り抜けたが、梅吉が
「長者になられた」
を忘れ、
「風邪……いや番茶……大蛇……」
と、とんでもないことを言いだし、その都度やり直し。

最後に
「なんの蛇になあられた」
「亡者になあられた」

……これで座はメチャクチャ。

三人が隠居に報告に来て
「これこれで、開き損なっちまいまして」
「ふーん、えらいことを言ったな。それで梅さんはどうしてる」
「決まり悪そうにグルグル回って、床の間に飛び込んで、隅の方で小さくなってしおれてました」
「ああ、それは心配ない。梅さんのことだ、今ごろは一人で開いて(帰って)いるだろう」

しりたい

作者は出自不明

上方の笑福亭系の落語家の祖とされる初代・松富久亭松竹が作ったといわれている噺です。

この松竹という人、生没年や詳細な伝記はもちろん、そもそも存在したかどうかもよくわかりません。

したがって、松竹が「松竹梅」の作者だというのも伝説の域を出ないわけです。

まさか、演題と芸名にゴロを合わせたヨタではないでしょうが。

ただ、オチの部分のネタ元になったとみられる小ばなしはあって、文政6年(1823)に江戸で刊行された、初代三笑亭可楽(1777-1833)『江戸自慢』中の「春の花むこ」がそれです。

これは、植物仲間で「仙人」と尊称される梅の古木が、庭の隅の桃の木に「老いらくの恋」をし、姫ゆりを仲人に頼んで、キンセンカを持参金代わりにめでたく婿入り。

ところが婚礼の夜、突然植木屋が(もちろん人間)庭に乱入し、花々が恐怖におののいて小さくなってしまいます。

これを見た植木屋、「ははあ、これは今夜、花婿が来るのだな。こういうときに切っては無情というものだ」と帰っていったので、仲人の姫ゆりがほっとして顔を持ち上げ、「さあさあ皆さん、お開きなさい」という、童話的でほほえましいお話です。

東京移植は「オットセイ」

古くから上方落語としてはポピュラーな噺でしたが、これを明治30年ごろ、四代目柳亭左楽が東京に移しました。

左楽はぼおっとした容貌と、ふだんの少々間の抜けた言動で、「オットセイ」とあだ名され、奇談がたくさんあります。

ちょうどこの噺の東京初演と思われる、明治31年(1898)の速記が残っています。

よほど気に入ったとみえ、もともと持ちネタが少ないこともあって、一時期「松竹梅」ばかりやっていたとか。

この人の、師匠の談洲楼燕枝が亡くなった(明治33年2月)ときの追悼句がふるっていてます。

悲しさや 師匠も亡者に なあられた

当の「オットセイ」ご本人が「亡者になあられた」のは、明治44年(1911)11月4日、享年55でした。

「あっちの会長」柳橋十八番

謡の調子で、割ゼリフにしてご祝儀の言い立てをやり、「亡者になあられた」で失敗するのがこの噺の笑わせどころです。

このあらすじの参考にした、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)は、戦後この噺をよく高座にかけ、特に謡を稽古する場面でのくすぐりを充実させ、飄々とした中にもより笑いの多い噺に仕上げました。

六代目柳橋は、かつて落語芸術協会(日本芸術協会の後身)に会長として君臨した人です。

その意味で十八番といってよいのですが、残念ながら音源は残されていません。

「なったなった……」は北海道?

「なったなった」のお囃子は、関西地方の婚礼の習俗と思われますが、はっきりわかりません。

前項の左楽の速記では、隠居が「北海道から八十里ばかり入った小さな村で」もっぱら行なっていると説明しています。

左楽は自分のあだ名を逆手にとって、やたらに「北海道」を連発してウケをねらったそうですから、もちろんこれは嘘八百でしょう。

忌み言葉

「開く」は今でもよく使われる、結婚式の忌み言葉です。

「忌み言葉」というのは、使用を避ける言葉と、代わりにめでたく言い換える言葉の両方を意味します。

言い換えられる場合と、それもできず、禁止されるだけの場合があり、どちらかというと後の方が多いようです。

いずれにしても、太古から言霊信仰が根強く、何か不吉な言葉を吐くとそれが現実になってしまうという病的な恐怖心を先祖代々に受け継いできたわれわれ特有の習慣です。

日本文化の一端でもあります。

以下、婚礼のタブーの語をいくつか。

「帰る」
「戻る」
「出て行く」
「死ぬ」
「引く」
「別れる」
「出る」
「割る」
「割く」
「出かける」
「欠ける」
「犬」(=「去ぬ」)
「猿」(=「去る」)
「殺す」
「離れる」
「話す」
「放す」
「まかる」
「落ちる」
「悲しい」……

これじゃ、うっかり舌禍を起こしちまいそうですねえ。



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

やじろう【弥次郎】落語演目

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【どんな?】

日本にもいた、ほら吹き男。
抱腹絶倒、痛快無比、冒険譚!

別題:うそつき弥次郎 革袋 日高川

あらすじ

うそつき弥次郎と異名をとるホラ吹き男。

久しぶりに隠居の家にやってくると、さっそく吹き始めた。

一年ばかり北海道に行っていたが、あまり寒いので、あちらでは凍ったお茶をかじっている。

雨も凍って降るので、一本二本と数え、雨払いの棒を持って外出する。

「おはよう」の挨拶まで凍って、それを一本いくらで買い、溶かして旅館の目覚まし用に使う……。

次から次に言いたい放題。

火事が凍ったのを見て、見世物にしようと買い取り、牛方と牛五、六頭を雇って運ばせ、奥州南部へ。

山中で火事が溶け、牛が丸焼け。

水をかけても消えないから、これが本当の焼け牛に水。

牛方が怒って追いかけてくるので、あわてて逃げ出し、気がつくととっぷり日が暮れ、灯が見えたので近づくと山賊の隠れ家。

山賊と大立ち回りになり、三間四方の大岩を小脇に抱え……。

「おい、三間四方の岩が、小脇に抱えられるかい」
「まん中がくびれたひょうたん岩」
「ふざけちゃいけない」

岩をちぎっては投げ。

「岩がちぎれるかい」
「できたてで柔らかい」

山賊を追っ払って、安心して眠りこけると山鳴りのような音。

目を覚ましてみると大猪。

逃げ出して杉の木にかけ登ると、先客がいて、これが天狗。

上に天狗、下に猪で、進退極まった。

猪が鼻面で木の根を掘りはじめ、グラグラ揺れる。

そこで、ヒラリと猪の背中に飛び下りた。

振り落とそうと跳ね回るので、股ぐらをさぐると、大きな金玉。

押しいただいてギュッと握りつぶすと引っくり返ったので、止めを刺そうと腹を裂くと、中から子猪が十六匹。

シシの十六。

「ばかばかしいや。おまえ、どこを握って殺した」
「金玉で」
「金玉ならオスだろう。オスの腹から子供が出るかい」
「そこが畜生の浅ましさ」
「冗談言っちゃいけねえ」

すると、松明をかざした四、五十人の男に取り巻かれ、連れていかれたのが庄屋の家。

よくぞ悪猪を退治してくださったと、下にも置かぬ大歓迎。

いい気持ちで寝ていると、庄屋の娘が言い寄ってくる。

めんどうくさいので逃げ出して、いつしか南部から紀州の白浜へ一足飛び。

船頭に祝儀をやって渡してもらい、若い娘が来ても渡さないように頼むと、道成寺という荒れ寺に飛び込み、台所の水瓶の中でブルブル震えていた。

娘は、さては別に女がいるかと、嫉妬で後を追いかけ、たちまち日高川の渡し場。

船頭は買収されているからいくら頼んでも渡さない。

娘はザンブと水に飛び込み、二十尋(ひろ)の大蛇といいたいが、不景気だから一尺五寸の蛇に変身。

道成寺にたどり着き、この水瓶が怪しいと、周りをグルグルと七巻き半。

「一尺五寸の蛇が、大きな水がめを七巻き半巻けるかい」
「それが伸びた」
「飴細工だね」
「ところが、しばらくたつと、その蛇が溶けちまった」
「どういうわけで?」
「寺男が無精で掃除をしないから、ナメクジが水瓶の底に張りついていた」
「虫拳だね」
「その時、中啓を持ってスッと立ったなりは、実にいい男」
「弥次さん、おまえさん、武士だったのかい」
「いえ、安珍という山伏で」
「道理で、ホラを吹きっぱなしだ」

底本:六代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

道成寺伝説のパロディー

弥次郎が逃げ込む道成寺は、和歌山県日高郡にある古刹で、天音山道成寺といいます。

大宝元年(701)、文武天皇の勅願で紀道成が創建したことから、この名があります。

名高い道成寺伝説は、延長6年(928)、奥州の僧安珍が、熊野参詣の途中、紀伊国の真砂庄司清次の家に泊まり、その娘清姫に言い寄られます。

夫婦約束までしながら逃げ出したので、嫉妬が高じ、清姫が大蛇となって後を追います。

安珍は道成寺に逃げ込んで鐘の中に隠れますが、大蛇が鐘を七巻半巻くと火が出て、安珍は鐘の中で白骨になったというものです。

これが能の「道成寺」や歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」に脚色されました。

噺の後半は、完全にその伝説のパロディーです。

小ばなしの寄せ集め

どの箇所でも切れるので、前座噺としても重宝で、現在でもよく演じられています。

安永2年(1773)刊の笑話本『口拍子』中の「角力取」ほか、多数の小ばなしを継ぎはぎしてできたものです。

歴代巨匠がくすぐり工夫

古くは、明治期の三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、前半の北海道のくだりなどを創作したといわれます。

当時、北海道は開拓の緒についたばかりで、新開地として、たいへんなブームだったのです。

四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)のものは、天狗につかまって空中旅行するくだりがあり、その後、改めて十九のときに武者修行の旅に出たという設定で、山賊の部分につなげています。

いずれにしても、武士だったということをどこかで言っておかないと、最後の隠居の問いがわかりにくくなりますね。

先の大戦後では、六代目円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が意外なほど多く演じました。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三升家小勝(吉田邦重、1908-1971、右女助の、糀谷の)なども、それぞれくすぐりを加えて演じました。

ふつう、長くなるので猪のくだりの「そこが畜生の浅ましさ」で切ることが多いようです。

類話「うそつき村」

同趣向のホラ噺に、千のうち三つしか本当のことを言わないので神田の千三ツと異名を取った男が、子供とホラ合戦をして負ける「嘘つき村」があります。

三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)は、「弥次郎」とつなげて演じました。

うそつき弥次郎

古い江戸ことばで、そのまま、うそつきやホラ吹きへの囃し文句です。

「うそつき弥次郎、藪の中で屁をひった」と続けます。

人前でうそをつく者は、隠れて陰でも(「藪の中で」)悪事をするという意味で、子供たちがうそをついた仲間をからかい、囃したてて唱和しました。



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うきよどこ【浮世床】落語演目

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【どんな?】

日がな一日、髪結い床でごろごろ。
こんな人生も悪くない。

別題:片側町(上方)

あらすじ

髪結い床。

若い衆が集まってワイワイばか話の最中に、留さん一人、講談本に読みふけっている。

すぐ目を付けられて、退屈しているから読んで聞かせてくれと頼まれ、
「オレは読み出すと立て板に水で、止まらなくなるから、同じところは二度と読まねえ」
と豪語して始めたのはいいが、本当はカナもろくに読めないから、
「えー、ひとつ、ひ、ひとつ、ひとつ、あねがわかっ、せんのことなり……真柄、まからからから、しふろふざへもん」
「真柄十郎左衛門か?」
「そう、その十郎左衛門が、敵にむかむかむか……」
「金たらいを持ってきてやれ。むかつくとさ」
「敵にむ、向かって一尺八寸の大太刀を……まつこう」
「呼んだか?」
「なんだよ」
「今、松公って呼んだだろ」
「違う。真っ向だ」

一尺八寸は長くないから、大太刀は変だと言われ、これは横幅だとこじつけているうちに、向こうでは将棋が始まる。

一人が、王さまがないないと騒ぐので
「ああ、それならオレがさっきいただいた。王手飛車取りの時、『そうはいかねえ』って、てめえの飛車が逃げたから」
「おめえの王さまは、取られてないのにねえな」
「うん、さっき隠しておいた」
というインチキ将棋。

かと思うと、半公がグウグウいびきをかいている。

起こすと、
「女に惚れられるのは疲れてしょうがねえ」
と、オツなことを抜かしたと思うと、
「芝居で知り合ったあだな年増と、さしつさされつイチャついた挙げ句、口説の末にしっぽり濡れて、一つ床に女の赤い襦袢がチラチラ……」
と、えんえんとノロケ始める。

「女が帯を解き、いよいよ布団の中へ……」
「こんちくしょう、入ってきたのか」
「という時に、起こしゃあがったのは誰だ」

床屋の親方が、あんまり騒がしいので、
「少しは静かにしてくれ。気を取られているすきに、銭を置かずに帰っちまった奴がいる。印半纏のやせた……」
「それなら、畳屋の職人だ」
「道理で、床を踏み(=踏み倒し)に来やがったか」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

意外にも上方ダネ  【RIZAP COOK】

一尺八寸の大太刀の部分の原話は安永2年(1773)刊『聞上手』中の「大太刀」、夢のくだりは同4年(1775)刊『春遊機嫌袋』中の「うたゝね」、オチの畳屋の部分は同2年刊『芳野山』中の「髪結床」と、いくつかの小ばなしが合体して、できた噺です。

これらの原話はいずれも江戸で出版されているのに、意外なことに落語そのものは上方で発達し、明治末期に初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が東京に「逆輸入」しました。

演題の「浮世床」は、式亭三馬(1776-1822)と滝亭鯉丈(池田八右衛門→八蔵、?-1841)の合作の同名の滑稽本(初編、文化10年=1813年刊)から採られているとみられます。

無筆(=非識字)に近い者が見栄を張ってでたらめ読みし、からかわれるくだりの原型は『浮世床』にあり、これも原典の一つといえるでしょう。

先代三平の音源も  【RIZAP COOK】

先の大戦後は六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)と三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が得意としました。その他数多くの落語家によって手掛けられています。

初代林家三平(海老名榮三郎→泰一郎、1925-80)のレコードも昭和56年(1981)にビクターから発売されましたが、CD化はされず、レコードは現在廃盤です。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

六代目円生はこの噺について、「テンポと呼吸をくずさないこと」という貴重な芸談を残しています。

片側町  【RIZAP COOK】

床屋の親方が客の片鬢かたびんを剃り落とし、「これじゃ表を歩かれねえ」と文句を言われると、「なーに、片側をお歩きなさい」とオチる、「片側町」という小ばなしを含むこともあります。

これは、現在は同じ床屋ばなしの「無精床」に入れることが多くなっています。

オチの「床を踏む」というのは、畳屋が新畳のへりを踏んでならして落ち着かせること。

そのことばと、髪結い賃の「踏み倒し」を掛けたものですが、これも、今ではかなりわかりにくくなっているでしょう。

髪結い床の歴史  【RIZAP COOK】

起源は古く、応仁の乱(1467-77)後、男がかぶりものを常時着けない習慣ができたので、月代(さかやき)を剃って髪を整える必要が生じ、職業的な髪結いが生まれました。

天正年間(1573-92)にはもう記録があり、一人一文で結髪したため、別名「一銭職」「一銭剃り」と呼ばれました。

黙阿弥の世話狂言「髪結新三かみゆいしんざ」の「一銭職と昔から、下がった稼業の世渡りに……」というよく知られたセリフは、ここからきています。

万治元年(1658)から、髪結い床は江戸で一町内に一軒と定められました。

享保年間(1716-36)には1000軒あまり、幕末の嘉永年間(1848-54)になると2400軒に増えたといわれています。

この噺の中でも詳しく説明されるのですが、江戸の髪結い床は、通常は親方1人に中床(下剃り=助手)、小僧の計3人です。

中床を置かず、小僧1人の床屋もありました。

二階は噺に出てくるように社交場になっていて、順番を待つ間、碁将棋、ばか話などで息抜きをする場でもありました。

髪結い賃は、大人32文、子供24文が幕末の相場です。

明治になっても「かみいどこ」「かみどこ」という呼び名と、江戸以来の古い床屋の面影や性格は、下町ではまだ色濃く残っていて、町内のゴシップの発信地でもありました。

髪結い床が登場する噺は「無精床」「十徳」「お釣りの間男」「崇徳院」など、多数あります。



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やすべえぎつね【安兵衛狐】落語演目

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【どんな?】

上方噺。
明治の中頃。
三代目柳家小さんが伝えました。

別題:道灌山 墓見 天神山(上方)

【あらすじ】

六軒長屋があり、四軒と二軒に分かれている。

四軒の方は互いに隣同士で仲がよく、二軒の方に住んでいる「偏屈の源兵衛」と「ぐずの安兵衛」、通称グズ安も仲がいい。

ところが、二つのグループは犬猿の仲。

ある日、四軒の方の連中が、亀戸に萩を見に繰り出そうと相談する。

同じ長屋だし、グズ安と源兵衛にも一応声をかけようと誘いにいくが、グズ安は留守で、源兵衛の家へ。

この男、独り者であだ名の通りのへそ曲がり。

人が黒と言えば白。

案の定、
「萩なんぞ見たってつまらねえ。オレはこれから墓見に行く」
と、にべもない。

四人はあきれて行ってしまう。

源兵衛、本当は墓などおもしろくないが、口に出した以上しかたがないと、瓢の酒をぶら下げて、谷中天王寺の墓地までやってきた。

どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「安孟養空信女」と戒名が書かれた塔婆の前で、チビリチビリ。

急に塔婆が倒れ、後ろに回ってみると穴があいている。塔婆で突っ付くと、コツンと音がするので、見ると骨。

気の毒になって、何かの縁と、酒をかけて回向してやった。

その晩。

真夜中に
「ごめんくださいまし」
と女の声。

はておかしい、と出てみると、じつにいい女。

実は昼間のコツで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたからご恩返しにきました、と言う。

あとはなりゆきで、源兵衛、能天気にもこの世ならぬ者を女房にした。

この幽霊女房、まめに働くが、夜明けとともにスーッと消えてしまう。

さて、グズ安。

ゆうべ源兵衛の家の前を通ったら、女の酌でご機嫌に一杯やっていたので、翌朝、嫌みを言いに行くと、実はこれこれだという。

ノロケを聞かされ、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って天王寺へ。

なかなか手頃な墓が見当たらず、奥まで行くと、猟師が罠で狐をとったところ。

グズ安、皮をむいちまうと聞いて、かわいそうだと無理に頼み、一円出して狐を逃がしてやる。

その帰り、若い娘が声をかけるので、グズ安はびっくり。

聞いてみると、昔なじみのお里という女の忘れ形見で、おコンと名乗る。

実はこれがさっきの狐の化身。

身寄りがないというので、家に連れていき、女房にした。

騒ぎだしたのが、長屋の四人。

最近、偏屈とグズが揃って女房をもらったのはいいが、片方は昼間見たことがない。もう片方は、口がこうとんがって、言葉のしまいに必ず「コン」。

これはどう見ても魔性の者だと、安兵衛が留守の間に家に押しかける。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」

やっぱり変。

思い切って
「あなたはいい女だけど、ひょっとして何かの身では」
と、言いも果てず、狐女房、グルグル回って、引き窓から飛んでいってしまった。

こうなると、亭主の安兵衛も狐じゃねえかと疑わしい。

そこで、近所のグズ安の伯父さんに尋ねるが、耳が遠くていっこうにラチがあかない。

思い切り大きな声で
「あのね、安兵衛さんは来ませんかね」
「なに、安兵衛? 安兵衛はコン」
「あ、伯父さんも狐だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、極めつけの爆笑編  【RIZAP COOK】

上方落語の切りネタ(大ネタ)「天神山」を、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、東京に移植したものです。

前半は「野ざらし」にそっくりで、実際、上方の「天神山」は、「骨つり」(野ざらし)に、「葛の葉子別れ」「保名」の芝居噺を即席に付けたものという、宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究)の説がありますが、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)はこれを否定しています。

先の大戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の極めつけ。志ん生がどこからこの噺を仕込んだのかは不明です。

三代目小さんの「墓見」と題した明治40年の速記では最後に登場するのが、安兵衛の父親となっているほかはほぼ志ん生のものと変わらない演出です。

考えてみると、前半と後半がまったく別の話で、全体としてまとまりを欠く噺ですが、さすがに志ん生。

速いテンポとくすぐりにつぐくすぐりの連続で、いささかもダレさせないみごとな手練です。  

現役では、滝川鯉昇ほかが手掛けていますが、まあ、志ん生を超える気遣いはないでしょう。

志ん生が「葛の葉」の題で演じたことがあるという説がありますが、いつごろのことなのかわかりません。

「天神山」はオチが三か所  【RIZAP COOK】

本家・大阪の「天神山」は、桂米朝門下の二代目桂枝雀(前田達、1939-1999)、または三代目笑福亭仁鶴(1937-2021、岡本武士)などが手掛けました。今も多くの噺家が演じています。

舞台は大坂・天王寺門前の安居の天神と、その向かいの一心寺の墓地。

主要キャストの「ヘンチキの源兵衛」の偏屈ぶりは、東京よりはるかに徹底的。

頭は半分伸ばして半分坊主、しびんに酒を入れ、おまるに飯を入れるえげつなさ。

上方は、そのヘンチキがシャレコウベを持ち帰り、夜中に現れた幽霊と夫婦になる段取りです。

オチは、演者がどの部分で切るかによって三通りに分かれます。

まず、東京同様、長屋の者が押しかけて正体がバレ、狐女房が「もうコンコン」と姿を消す部分。

ついで、こちらは東京にはない部分です。

女房に去られた保平(東京の安兵衛)が、障子に書き残された「恋しくば尋ねきてみよ南なる天神山の森の中まで」の歌を見て、狂乱して後を追うくだりで切ります。

ここは、浄瑠璃の『蘆屋道満大内鑑』「保名狂乱」のパロディー仕立ての芝居噺になります。

昔は、このくだりで「保名」の振りで立ち踊りする噺家も多かったとか。

オチは地口で、「蘆屋道満」「葛の葉」をもじり、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶ほったらかし」。

最後は「安兵衛狐」と同じ、長屋の者と保平の伯父のトンチンカンな会話で「あ、叔父さんも狐や」でオチ。

江戸名所、亀戸の萩  【RIZAP COOK】

亀戸天神は江東区亀戸3丁目にあります。春は梅、藤、秋は萩の名所としてにぎわいました。

狐釣り  【RIZAP COOK】

罠を仕掛けて狐を捕獲するのを狐釣りともいいました。

皮をはいで胴服、つまり狐皮の下着用に売るわけですが、西洋だとスポーツなのに対し、こちらはれっきとしたお仕事です。

「狐ェ捕ってどうすんです?」
「皮ァむくんだよォ」
「狐が痛がるでしょ」

そんな志ん生のやり取りが笑わせました。

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

(長屋の某がグズ安の伯父さんに)
某「あこら、ほんとに聞こえねえんだ。やいじじい、ひとつなぐってやろうか」
伯「ふふーん、ありがとう」
某「あり……おめえみてえなものはね、あの、もうね、くたばっちゃえ」
伯「そう言ってくれんのはおまいばかりだ」
某「あ、しょうがないよこりゃ……自分で死ね」
伯「あは、それもいいや」

【語の読みと注】
塔婆 とうば
回向 えこう
嬶 かか

【RIZAP COOK】

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みそぐら【味噌蔵】落語演目

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【どんな?】

驚くべきしみったれが主人公。
ここまでくればおみごとです。

あらすじ】 

驚異的なしみったれで名高い、味噌屋みそやの主人の吝嗇屋しわいや吝兵衛けちべえ

嫁などもらって、まして子供ができれば経費がかかってしかたがないと、いまだに独り身。

心配した親類一同が、どうしてもお内儀かみさんを持たないなら、今後一切付き合いを断る、商売の取引もしないと脅したので、泣く泣く嫁を取った。

赤ん坊ができるのが嫌さに、婚礼の晩から新妻にいづまを二階に上げっぱなしで、自分は冬の最中だというのに、薄っぺらい掛け蒲団一枚で震えながら寝る。

が、どうにもがまんできなくなり、二階の嫁さんのところに温まりに通ったのが運の尽き。

たちまち腹の中に、その温まりの塊ができてしまった。

振りかかった災難に頭を抱えた吝兵衛、番頭に相談すると、臨月が来たらかみさんを腹の赤ん坊ごと実家に押しつけてしまえばいいと言う。

そうすれば費用はみなあちら持ちだと聞いて、ケチなだんなはやっと一安心。

十月十日がたって、無事男子を安産の知らせが届いたので、吝兵衛、小僧の定吉さだきちをお供に出かけることにする。

重箱を定吉に持たせるが、これは、宴席のごちそうをこっそり詰めてくる算段。

出掛けに、もし近所から火事が出たら、商売物の味噌で蔵の目塗めぬりをするよう番頭に言いつける。

これは焼けたのをはがして、奉公人のおかずにするため。

だんなが出かけると、奉公人一同、この機会にのみ放題食い放題、日ごろのうっぷんを晴らそうと番頭に申し出る。

なにしろ、この家では、朝飯の味噌汁が薄くて実なし。

自分の目玉が映っているのを田螺と間違えるほどだから、むりもない。

番頭が、勘定かんじょうは帳面をドガチャカごまかすことに決め、寿司に刺身、鯛の塩焼きに酢の物と、ごちそうをあつらえる。

最後に木の芽田楽をどんどん届けさせることにし、相撲甚句すもうじんく磯節いそぶしと、陽気などんちゃん騒ぎ。

こちらはだんな。定吉が重箱を忘れたので、小言を言いながら戻ってみると、大騒ぎをしている家がある。

ああいうのはだんなの心がけが悪いと言いながらも胸騒ぎがして、節穴からのぞいてみると案の定自分の家。

手代の甚助が、ウチのだんなは外から下駄を拾ってこさせ、焚き付けに使うだの、ドガチャカだのと言いたい放題。

番頭が
「だんながもし途中で帰ったら、鯛の塩焼きを見せれば、だんなは塩焼きはイワシしか知らないから、たまげて人事不省じんじふせいに陥る。寝かせちまって、あとは夢を見たんでしょうとゴマかせばいい」
と言うのが聞こえたから、吝兵衛はカンカン。

ドンドンと戸をたたき
「おい、あたしだ」

一同、酔いもいっぺんに醒め、急いで膳を片づけたがもう遅い。

「この入費は給金からさっ引くから、生涯ただ働きを覚悟しろ。ドガチャカなんぞさせてたまるか」
と怒っているところへ戸をたたく音。

「ええ、焼けてまいりました」

さては火事だと驚き
「どこから焼けました」
「横町の豆腐屋から焼けてまいりました」
「よっぽど焼けましたか」
「二、三丁焼けました。これからどんどん焼けてきます」

これは火足が速いと、慌てて戸を開けると、プーンと田楽でんがく味噌の匂い。

「いけねえ。味噌蔵ィ火が入った」

しりたい】 

ケチ兵衛再び登場

あたま山」についで「しわい屋風雲録」ともいえるケチ噺。同類には「吝嗇屋」「片棒」「死ぬなら今」「位牌屋」などがあります。

田楽

名前の由来は、中世の田楽法師が、サオの上で踊る形に似ているところから。武士が大小を差した姿を「田楽串」、槍でくし刺しになるのを「田楽刺し」といいました。どちらもその形状からです。

室町時代からあったといわれ、朝廷では、大晦日のすす払いの日に田楽を酒のさかなにする習慣がありました。

木の芽田楽は、山椒の香をきかせたものです。

両国の川開きには、橋の両詰めに田楽売りが屋台を並べました。

ほかの噺では「寄合酒」にも登場します。

演者など

戦後では三代目桂三木助かつらみきすけ(小林七郎、1902-61)のが有名でした。

三木助はギャグを現代風につくりかえて大ウケ。「あらすじ」にも取り入れた、
「鯛の塩焼きで人事不省におちいる」
などは、漢語をモダンに使う同師ならではのものです。

門下の入船亭扇橋いりふねていせんきょう(橋本光永、光石、1931-2015)が継承しました。

落語通の支持が大きかった八代目三笑亭可楽さんしょうていからく(麹池元吉、1898-1964)も、だんなが帰ったとき番頭が「幻滅の悲哀を感じる」、責められると「心境の変化で……」など、妙に哲学的なギャグを連発し、どんちゃん騒ぎの場面で三界節の鳴り物を入れて美声を聞かせるなど、全体に地味な演出をカバーして好評でした。

目塗り

火事息子」「鼠穴」にも登場しますが、蔵を防火用に土などで塗り固めることです。

目塗り用に粘土を樽に詰めたものを「用心土」といい、火事の多い江戸ではどこの商店でも必ず常備していました。

味噌で目塗りというのも、非常の場合は実際にあったそうです。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

ぬけすずめ【抜け雀】落語演目

 成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

旅籠に泊まった男、実は無一文。
宿代代わりに衝立に雀の絵を描いた。
「売るな」と言って去る。
その雀が衝立から飛び出す。
評判となり旅籠は大繁盛。
宿泊の老人が「雀は死ぬ」と。
この老人、何者?

別題:雀旅籠(上方)

あらすじ

小田原宿おだわらしゅくに現れた若い男。

色白で肥えているが、風体ふうていはというと、黒羽二重くろはぶたえは日に焼けて赤羽二重。紋付きも紋の白いところが真っ黒。

袖を引いたのが、夫婦二人だけの小さな旅籠はたごの主人。

男は悠然と
「泊まってやる。内金に百両も預けておこうか」
と大きなことを言う。

案内すると、男は、
「おれは朝昼晩一升ずつのむ」
と宣言。

その通り、七日の間、一日中大酒を食らって寝ているだけ。

こうなると、そろそろ、かみさんが文句を言い出した。

「危ないから、ここらで内金を入れてほしいと催促してきな」
と気弱な亭主の尻をたたく。

ところが男は
「金はない」
「だってあなた、百両預けようと言った」
と亭主が泣きつくと
「そうしたらいい気持ちだろう、と」

男の商売は絵師。

「抵当に絵を描いてやろうか」
と言い出し、新しい衝立ついたてに目を止めて、
「あれに描いてやろう」

それは、江戸の経師きょうじ屋の職人が抵当に置いていったもの。

亭主をアゴで使って墨をすらせ、一気に描き上げた。

「どうだ」
「へえ、なんです?」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ?」
「目です」
「見えないならくり抜いて銀紙でも張っとけ。雀が五羽描いてある。一羽一両だ」

これは抵当に置くだけで、帰りに寄って金を払うまで売ってはならないと言い置き、男は出発。

とんだ客を泊めたと夫婦でぼやいていると、二階で雀の鳴き声がする。

はて変だ、とヒョイと見ると、例の衝立が真っ白。

どこからか雀が現れ、何と絵の中に飛び込んだ。

これが宿場中の評判を呼び、見物人がひっきりなし。

ある日、六十すぎの品のいい老人が泊まり、絵を見ると
「描いたのは二十五、六の小太りの男であろう。この雀はな、死ぬぞ」

亭主が驚いてわけを聞くと、止まり木が描いていないから、自然に疲れて落ちるという。

「書き足してやろう」
すずりを持ってこさせ、さっと描いた。

「あれは、なんです」
「おまえの眉の下にピカピカッと光っているのはなんだ」
「目です」
「見えないならくり抜いて、銀紙でも張っとけ。これは鳥籠とりかごだ」

なるほど、雀が飛んでくると、鳥籠に入り、止まり木にとまった。

老人、
「世話になったな」
と行ってしまう。

それからますます絵の評判が高くなり、とうとう藩主、大久保加賀守まで現れて感嘆し、この絵を二千両で買うとの仰せ。

亭主は腰を抜かしたが、律儀に、絵師が帰ってくるまで待ってくれ、と売らない。

それからしばらくして、仙台平の袴に黒羽二重というりっぱな身なりの侍が
「あー、許せ。一晩やっかいになるぞ」

見ると、あの時の絵師だから、亭主はあわてて下にも置かずにごちそう攻め。

老人が鳥籠を描いていった次第を話すと、絵師は二階に上がり、屏風の前にひれ伏すと
「いつもながらご壮健で。不幸の段、お許しください」

聞いてみると、あの老人は絵師の父親。

「へええっ、ご城主さんも、雀を描いたのも名人だが、鳥籠を描いたのも名人だと言ってました。親子二代で名人てえなあ、めでたい」
「なにが、めでたい。あー、おれは親不孝をした」
「どうして?」
「衝立を見ろ。親を籠書かごかき(=駕籠舁かごかき)にした」

しりたい

知恩院抜け雀伝説  【RIZAP COOK】

この噺、どうも出自がはっきりしません。

講釈ダネだという説もあり、はたまた中国の黄鶴楼伝説が元だと主張なさる先生もあり、誰それの有名な絵師の逸話じゃとの説もありで、百家争鳴、どの解説文を見てもまちまちです。

その中で、ネタ元として多分確かだろうと思われるのが、京都・知恩院七不思議の一で、襖絵から朝、雀が抜け出して餌をついばむという伝説です。

六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)の「子別れ・上」の中で熊五郎が、「知恩院の雀ァ抜け雀」と、俗謡めいて言っていますから、有名だったのでしょう。

襖絵のある知恩院の大方丈は寛永18年(1641)の創建ですから、描いたのはおそらく京都狩野派の中興の祖・狩野山雪かのうさんせつ(1590-1651)でしょうが、不詳です。

志ん生は父子相伝  【RIZAP COOK】

落語として発達したのは上方で、したがって、上方では後述のように昔から多くの師匠が手掛けています。

東京では五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の、文字通りワンマンショーです。

なにしろ、明治以後、志ん生以前の速記は事実上ありません。

わずかに「明治末期から大正初期の『文芸倶楽部』に速記がある」といったいいかげんな記述を複数の落語評論家がしていますが、明治何年何月号で、何という師匠のものなのかは、誰も知らないようです。

つまり、上方からいつごろ伝わり、志ん生がいつ、誰から教わったのか、ご当人も忘れたのか、言い残していない以上、永遠の謎なのです。

要は志ん生が発掘し、育て、得意の芸道ものの一つとして一手専売にした、「志ん生作」といっていいほどの噺といえます。

東京の噺家では十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)、古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の兄弟が「家の芸」として手掛けたくらいです。まさに父子相伝。

志ん生の「抜け雀」の特色は、芸道ものや名人噺によくある説教臭がなく、「顔の真ん中にぴかっと」というセリフが、絵師、かみさん、老人と三度繰り返される「反復ギャグ」を始め、笑いの多い、明るく楽しい噺に仕上げていることでしょう。

特に「火焔太鼓」を思わせる、ガラガラのかみさんと恐妻家の亭主の人物造形が絶妙です。

志ん朝は『志ん朝の落語・6』(ちくま文庫)の解説で京須偕充きょうすともみつ氏も述べている通り、父親(志ん生)のやり方(演出)を踏まえながら、より人物描写の彫りを深くし、さらに近代的で爽やかな印象の「抜け雀」をつくっています。

上方の「雀旅籠」  【RIZAP COOK】

上方の「雀旅籠すずめはたご」は、舞台も同じ小田原宿ということも含め、筋や設定は東京の「抜け雀」とほとんど違いはありません。

特に桂文枝代々の持ちネタで、三代目桂文枝(橋本亀吉、1864-1910)のほか、二代目立花家花橘(菱川一太郎、1884-1951)、二代目桂三木助(松尾福松、1884-1943)も、得意にしていたといいます。

五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)ももちろん手掛けましたが、特に米朝のは、四代目桂文枝(瀬崎米三郎、1891-1958)譲りでした。

私が教わったのでは、雀は室内を飛びまわるだけで、障子を開けるとバタバタと絵へ納ってしまうのですが、私は東京式に一ぺん戸外へ飛び出すことにしました。

米朝はこんな芸談を残しています。ギャグも含めて東京の、つまり志ん生の影響が多分にあるようです。題も「抜け雀」で演じます。

「親にかごかかせ……」  【RIZAP COOK】

「親をかごかきにした」というオチの部分の原話は、上方落語の祖・初代米沢彦八よねざわひこはち(?-1714)が元禄16年(1703)に刊行した『軽口御前男かるくちごぜんおとこ』巻二中の「山水の掛物」といわれます。

これは、ある屋敷で客の接待に出た腰元が、床の間の雪舟の絵の掛け軸を見て涙を流し、「私の父もかきましたが、山道をかいている最中に亡くなりました」と言うので、客が「そなたの父も絵かきか」と尋ねると、「いえ、駕籠かきです」と地口(=ダジャレ)オチになるものです。

寛延2年(1749)7月。大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃『双蝶蝶曲輪日記ふたつちょうちょうくるわにっき』六段目の「橋本・治部右衛門住家」。ここに、傾城吾妻のくどき「現在親にかごかかせ」というセリフがあることから、これが直接のオチの原型であると同時に、この噺の発想そのものになったのでは、という説があります。ほんま、ややっこしいことで。お退屈さま。

駕籠舁き  【RIZAP COOK】

普通、街道筋にたむろする雲助、つまり宿場や立て場で客待ちをする駕籠かごのことです。

「親に駕籠を担がせた」と相当に悪く言われ、職業的差別を受けていることで、この連中がどれだけ剣呑けんのんで、評判のよくない輩だったかがうかがえます。

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

しかのぶざえもん【鹿野武左衛門】噺家

志ん朝

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【芸種】はなし
【所属】江戸
【入門】
【前座】
【二ツ目】
【真打ち】
【定紋】
【本名】安次郎
【生没年月日】慶安2年(1649)-元禄12年8月13日(1699.9.6)
【出身地】大坂または京
【前歴】塗師 漆塗りの職人
【ネタ】新作
【出典】Wiki
【蛇足】以下の通り。

慶安2年(1649)-元禄12年(1699)。江戸落語の祖。江戸で初めて、座敷仕方咄を演じた人とされています。

出身は大坂とも京ともいわれていますが、よくわかりません。上方から江戸に下ってきた人のようです。

野武左衛門とは武士っぽい名ですが、これは咄の席での名前。本名は安次郎とかで、職業は塗師。漆塗りの職人でした。

日本橋の堺町や長谷川町(日本橋堀留)あたりの職人町に住んでいました。

人前でのおしゃべりがうまかったようで、座敷仕方咄を演じてはいつしか人気者に。身ぶり手ぶりでおもしろおかしく聴かせることを、仕方咄と言います。

そして、元禄6年(1693)。その4月下旬のこと。江戸中でソロリコロリ(コレラ)が蔓延まんえんし、1万人余りが亡くなりました。当時の江戸は80万人ほどだったそうですから、ものすごい致死率でした。

そのさなか。

「この病いには南天の実と梅干しを煎じて飲めば効くと、とある馬が言っていた」

そんな噂がまことしやかに広まったのでした。もちろん馬鹿な。馬がしゃべるなんて。エドじゃあるめえし。ここは江戸だぜ。でも、そのあおりで、南天の実と梅干しは、いつもの値段の20~30倍に高騰。ついでに出た『梅干まじないの書』なる本、これがまた大ベストセラーに。頃は、平和ボケをよしとする、五代将軍綱吉の時代です。人心をかき乱すのは、ともかくご法度なんです。

忖度そんたくまじりでいぶかしんだ南町奉行の能勢頼相のせよりすけ(出雲守いずものかみ)は、配下に探索させます。

そしたら、出てきた。浪人者の筑紫団右衛門ちくしだんえもんと、神田須田町すだちょうの八百屋惣右衛門そうえもんの共同謀議だったことが。主犯とされた筑紫団右衛門は、市中引き回しの上、斬罪。ひっえー。従犯の八百屋惣右衛門は流罪に。ざざざッ。厳しいお裁きでした。

これで一件落着かと思いきや、残された謎がありました。しゃべる馬の件です。取り調べで二人は、こんなことを言っていました。

咄本はなしぼん『鹿の巻筆まきふで』の中の「堺町馬の顔見世」を読んで、ヒントを得たんだ、と。

咄本というのは、軽口かるくち(しゃれ)や落語などを記した本のこと。笑うための本ですね。だから、まともに受け取らないのが世間の常識でしょうに。え、これが?

『鹿の巻筆』の著者は、なんと鹿野武左衛門でした。武左衛門は伊豆大島に流罪。版元の本屋弥吉も江戸追放に。本は焼き捨てられました。焚書流落。落語本を焼き落語家を流す、というかんじですね。とんだとばっちりです。

武左衛門が島から帰ってきたのは元禄12年(1699)4月でしたが、まもなくの8月には51歳で亡くなってしまいました。いやあ、もったいない。武左衛門は落語界初の殉職者となりました。かわいそう。

若い頃の武左衛門は、石川流宣いしかわりゅうせん小咄こばなしの会なんかをつくって、人気を得ました。中橋広小路なかばしひろこうじ(八重洲やえす)あたりで、小屋掛け興行をやったりもして。人気がついて、うなぎのぼりとなって、ファンが庶民から富裕層へと移ります。お武家や豪商に呼ばれて、お屋敷内で仕方咄を演じるようになっていったようです。町奉行が切歯扼腕せっしやくわんしたのは、ここのところでした。な、なんでェ?

宇井無愁ういむしゅう氏は、こんなふうに解釈しています。

街頭を辻咄を取締る与力同心も、武家屋敷内では取締れない。いわんや武士たる者が笑話などに興じて、他愛もなくあごの紐をゆるめるのは、幕府当局のもっとも忌むところであった。さりとて、表立った実害がないかぎり、取締る理由がない。そこでこの事件を奇貨として流言に結びつけ、「実害」をデッチあげたのが当局の本心ではなかったか。

宇井無愁『落語のみなもと』(中公新書、1983年)

なるほど。当局の考えそうなことですね。

ついでに座敷咄ざしきばなしなる珍芸も壊してしまえ、というお奉行の陰湿で粘着質な思いも。存外、町民はしたたかで、当局のきな臭い下心を先回りにかぎ取りました。その証拠に、この事件以降、江戸では武左衛門のような落語家は登場しません。暗黙のご法度となったのです。江戸って、けっこうな恐怖政治だったのですね。

その後、寛政かんせい10年(1798)になって、やっとこ寄席が登場します。岡本万作おかもとまんさく神田豊島町藁店かんだとしまちょうわらだなの寄席。それに対抗して、三笑亭可楽(山生亭花楽さんしょうていからく)による下谷柳したややなぎ稲荷社いなりしゃ境内にも寄席が。二つの寄席が立つまでに、なんと100年もの間、沈黙の季節が続いていたことに。

ほとぼりが冷めるのに、1世紀かかったのですね。江戸時代おそるべし、です。

【蛇足】

「堺町馬の顔見世」

『鹿の巻筆』所収の「堺町馬の顔見世」は、「武助馬」のもとになった咄といわれています。以下、引用しましょう。

市村芝居へ去る霜月より出る斎藤甚五兵衛といふ役者、まへ方は米河岸にて刻み烟草売なり、とっと軽口縹緻もよき男なれば、兎角役者よかるべしと人もいふ、我も思ふなれば、竹之丞太夫元へ伝手を頼み出けり、明日より顔見世に出るといふて、米河岸の若き者ども頼み申しけるは、初めてなるに何とぞ花を出して下されかしと頼みける、目をかけし人々二三十人いひ合せて、蒸籠四十また一間の台に唐辛子をつみて、上に三尺ほどなる造りものの蛸を載せ甚五兵衛どのへと貼紙して、芝居の前に積みけるぞ夥し、甚五兵衛大きに喜び、さてさて恐らくは伊藤正太夫と私、一番なり、とてもの事に見物に御出と申しければ、大勢見物に参りける。されど初めての役者なれば人らしき芸はならず、切狂言の馬になりて、それもかしらは働くなれば尻の方になり、彼の馬出るより甚五兵衛といふほどに、芝居一統に、いよ馬さま馬さまと暫く鳴りも静まらずほめたり、甚五兵衛すこすこともならじと思ひ、いゝんいいながら舞台うちを跳ね廻った。

伊藤正太夫は、一座の座頭ざがしら、あるいは人気役者なのでしょう。甚五兵衛も人気で、積みもの(ご祝儀、プレゼント)も多かったようすが記されています。

『鹿の巻筆』には39の話が載っています。貞享3年(1686)頃の刊行です。当時の実在の人物が多く登場しているのが特徴だとか。市村竹之丞もその一人。ほかには、出来島吉之丞、松本尾上、中村善五郎など。役者が多いんですね。ということは、伊藤正太夫も斎藤甚五兵衛実在だったのかもしれませんね。

鹿野武左衛門と同様に、江戸落語の祖として、西東太郎左衛門にしひがしたろうざえもんという人が『本朝話者系図ほんちょうわしゃけいず』(全亭武生こと三世三笑亭可楽著)に載っています。天和年間(1681-84)の人だったということですから、武左衛門と同じ頃に活躍していたようです。あまり聞きませんがね。

ちなみに、国立劇場調査養成部編のシリーズ本として、『本朝話者系図』(日本芸術振興会、2015年)は、今ではたやすく読めるようになっています。便利な世の中です。

「~の祖」について、関山和夫氏がきっぱり言っていることがありますね。この表現は江戸後期になってよく使われたのだそうです。それぞれのジャンルに大きな業績を残した人の尊称をさします。重要なのは、「~の祖」が「まったくその人から始まった」という意味ではない、ということなんだそうです。たしかに。そりゃ、そうですね。いましめます。

参考文献:関山和夫「随筆・落語史上の人々 5 鹿野武左衛門」

塗師

「ぬりし」が訛って「ぬし」になったようですが、古くから「ぬし」と言っていました。塗るといっても、漆塗りのことです。塗師は漆塗りの職人、今は漆芸家と呼んだりしている職業の人です。

七十一番職人歌合しちじゅういちばんしょくにんうたあわせ』という歌集があります。明応めいおう9年(1500)頃につくられたものです。室町時代というか、戦国時代のどさくさの頃の歌集です。

べつに、職人が詠んだわけではありません。彼らは忙しくてそんなことなどできません。

天皇や公家たちが、職人たちに自らを仮託して、「月」と「恋」を歌題に左右に分かれて歌を競って優劣を下す、物合ものあわせという形式の歌集です。やんごとない人たちというのは、すさまじいほどに暇だったのですね。その歌集の三番に「塗士」が載っています。塗師のことです。

以下は、「画中詞」と呼ばれる、詞画きです。絵のちょっとした解説じみた文をさします。

よげにそうろう 木掻きがきのうるしげに候 今すこし火どるべきか

よさそうです。掻き取ったばかりの新しい漆のようです。いま少々、火にあぶって、漆の水分を蒸発させるべきだろうか。

そんな意味合いです。いつまでも蛤刃はまぐりばなるこがたなのあふべきことのかなはざるらん

しぼれども油がちなるふるうるしひることもなき袖をみせばや

このように二首載って、競っているわけです。歌集は全体、あまり高い文学性は感じられません。ただ、職業尽くしで構成された、奇異で珍奇なおもしろさがあります。

それが、いまとなっては楽しいし、当時のさまざまな職号を垣間見ることができる、史料の宝庫でもあるのです。

最後に、以下のような判が下っています。

左右、ともに心詞こころことばきゝて面白く聞こゆ よきにこそはべるめれ

どうということもない文言です。歌集には絵が挟まれています。それが下のもの。

「七十一番職人歌合」の第三番「塗士」の図

右の男は侍烏帽子さむらいえぼしをかぶっています。職人が侍烏帽子をかぶっているのは珍しいことではありません。小袖にはかま。腕をまくっています。

右手には、漆刷毛うるしはけを持った坊主頭の男。雇われ人でしょうか。小袖に袴、片肌ぬぎです。二人が行っているのは、吉野紙の漆し紙で漆を漉しているところ。下には受け鉢があって、手前に曲げ物の漆桶などが見えます。

漆の作業工程には「やなし」と「くろめ」の二工程があるそうです。「やなし」は漆を均質にする作業。「くろめ」は生漆の水分を除く作業です。塗師の作業のポイントは、塗ることと乾かすことだそうです。これを何回も繰り返すことで、上質の漆工芸品が生まれるのですね。単純のようですが、作業のていねいぶりが必須で、めんどうで辛抱強い仕事のようです。

さて、鹿野武左衛門。

これらの作業中もぺちゃくちゃおしゃべりなんかして、師匠や兄貴から「おまえがいると、このなりわいも飽きずでにできるなあ」などと、喜ばれていたのかもしれませんね。

参考文献:新日本古典文学大系61『七十一番職人歌合 新撰狂歌集 古今夷曲集』

志ん朝

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

くもかご【蜘蛛駕籠】落語演目

 

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

「駕籠は足が八本ある」
「本当の蜘蛛駕籠だ」
せこい客のおかしな道中話。

別題:雀駕籠 住吉駕籠(上方)

あらすじ

鈴が森で客待ちをしている駕籠屋の二人組。

ところが、昨日ここに流れてきた前棒がおめでたい野郎で、相棒がかわやに行っている間に、ほんの数メートル先から、塵取りを持ってゴミ捨てに来た茶店のおやじをつかまえて
「だんな、へい駕籠」

屁で死んだ亡者のように付きまとい、むりやり駕籠に乗せようとして
「まごまごしてやがると、二度とここで商売させねえからそう思え」
とどなられて、さんざん。

次に来たのが身分のありそうな侍で、
「ああ駕籠屋、お駕籠が二丁じゃ」
「へい、ありがとう存じます」

前の駕籠がお姫さま、後ろがお乳母どの、両掛けが二丁、お供まわりが四、五人付き添って、と言うから、てっきり上客と、喜び勇んで仲間を呼びに行きかけたら、
「そのような駕籠が通らなかったか」

またギャフン。

その次は酔っぱらい。

女と茶屋に上がり、銚子十五本空にして、肴の残りを竹の皮に包んで持ってきたことや、女房のノロケをえんえんと繰り返し、おまけにいちいち包みを懐から出して開いてみせるので、駕籠屋は閉口。

やっと開放されたと思うと、今度は金を持っていそうなだんなが呼び止めるので、二人は一安心。

酒手もなにもひっくるめて二分で折り合いがつき、天保銭一枚別にくれて、出発前にこれで一杯やってこいといってくれた。

駕籠屋が大喜びで姿を消したすきに、なんともう一人が現れて、一丁の駕籠に二人が乗り込んだ。

この二人、江戸に帰るのに話をしながら行きたいが、歩くのはめんどうと、駕籠屋をペテンに掛けたというわけ。

帰ってきた駕籠屋、やせただんなと見えたのにいやに重く、なかなか棒が持ち上がらないので変だと思っているところへ、中からヒソヒソ話し声が聞こえるから、簾をめくるとやっぱり二人。

文句を言うと、
「江戸に着いたらなんとでもしてやるから」
と頼むので、しかたなくまたヨロヨロと担ぎ出す。

ところが、駕籠の中の二人、興が乗って相撲の話になり、とうとうドタンバタンと取っ組み合いを始めたからたまららない。

たちまち底が抜け、駕籠がすっと軽くなった。

下りてくれと言っても、
「修繕代は出すからこのままやれ、オレたちも中でかついで歩くから」
と、とうとう世にも不思議な珍道中が出現。

これを見ていた子供が、
「おとっつぁん、駕籠は足何本ある?」
「おかしなことォ聞くな。前と後で足は四本に決まってる」
「でも、あの駕籠は足が八本あるよ」
「うーん、あれが本当の蜘蛛駕籠だ」

底本:五代目柳家小さん、三代目桂米朝

しりたい

盛りだくさん

駕籠の底が抜けて、客が歩く部分の原話は享保12年(1727)刊の笑話本『軽口初賣買』中の「乗手の頓作」ですが、実在した大坂船場の豪商で奇人として有名だった河内屋太郎兵衛の逸話をもとにしたものともいわれます。河内屋太郎兵衛は「河太郎」の略称で人口に膾炙され、「河太郎物」と呼ばれる一連の噺が残っています。18世紀後半、大坂の人です。

上方では「住吉駕籠」として有名です。住吉街道を舞台にしていることからの銘々です。東京には、おそらく明治期に三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が移したものでしょう。

上方の演出ははでで、登場人物も東京より多彩です。

夫婦連れが駕籠屋をからかったりはいいとしても、酔っ払いが吐いて駕籠に「小間物」を広げるシーンなどはあざとく、潔癖な江戸っ子は顔をしかめるものでしょう。

雀駕籠

上方のやり方では、駕籠に客を乗せてからの筋は二つに分かれます。

一つは現行の、駕籠の底が抜けるものです。

別筋で、今はすたれましたが、「雀駕籠」と題するものがあります。

スピードがあまりに速いので、宙を飛ぶようだから宙=チュンで雀駕籠、という駕籠屋の自慢を聞いた客が、無理やり駕籠屋にいろいろな鳥の鳴きまねをさせ、「今度はウグイスでやってくれ」「いえ、ウグイスはまだ籠(=駕籠)慣れまへん」とオチるものがありました。

東京では小さん系

三代目小さんの速記は残されていません。その門弟の初代柳家小はん(鶴見正四郎、1873-1953)が高座に掛けていたのを、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)が継承して演じていました。

大阪よりかなりあっさりとはしているものの、酔っ払いがしつこく同じセリフを繰り返してからむくだりなどは「うどんや」と同じく、そのままなので、カットしない場合は、かなりねちっこくなっていたのは否めません。

上方はもとより本家で、五代目笑福亭松鶴(竹内梅之助、1884-1950)、六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)、五代目桂文枝(長谷川多持、1930-2005)、三代目桂米朝(中川清、1925-2015)ほか、多くの演者が手掛けました。

雲助

流れ者の駕籠かきのことで、そのいわれは雲のように居所が定まらないからとも、蜘蛛のように網を張って客をつかまえるから、また、雲に乗るように速く爽快だからとも、いろいろな説があります

「蜘蛛駕籠」は雲助の駕籠の意味で、「雲駕籠」とも書きました。

歌舞伎「鈴が森」で白井権八にバッタバッタと斬られるゴロツキの雲助どものイメージがあったため、今日にいたるまで悪い印象が定着していますが、落語では東西どちらでも、いたって善良に描かれています。

むしろそれが実態だったらしく、桂米朝も噺の中で、「こういう(住吉街道のような人通りの多い)ところの駕籠屋は、街中の辻駕籠同様、いたってタチがよかったもので」と弁護しています。

両掛けが二丁

両掛けは武士の旅行用の柳行李やなぎごうり(衣類籠)で、天秤棒の両端に掛けて、供の者にかつがせるのでこの名があります。

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

おうみはっけい【近江八景】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

うんちく垂れ流しのはなし。
ちょいとオチが苦しいですが、
けっこう笑えます。

あらすじ

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

★auひかり★

しりたい

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。

宇井無愁(宮本鉱一郎、1909-92、上方落語研究家)は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」をあげています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。

要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝(飯森和平、1868-1927)が手掛けていますので、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西久吉、1888-1929、居残りの)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以降では、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、五代目三升家小勝(加藤金之助、1858-1939)もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところです。

じつは三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘  みいでらのばんしょう
石山の秋月   いしやまのしゅうげつ
堅田の落雁   かただのらくがん
粟津の晴嵐   あわづのせいらん
矢橋の帰帆   やばせのきはん
比良の暮雪   ひらのぼせつ
唐崎の夜雨   からさきのやう
瀬田の夕照   せたのせきしょう

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続き絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)は『円生全集別巻』の補説で、この噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛け取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。

これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。

文化年間(1804-17)、当地の領主中山信敬(1765-1820、水戸藩付け家老)が亀里亀章(儒者)に選ばせたものだそうです。

元ネタがあるので、指定の風景に見合った場所を選ぶだけのこと。あんまりアタマを使わなくてもパターンで選べます。安直です。

竜子の晴嵐   たつごのせいらん
二本松の秋月  にほんまつのしゅうげつ
関根の夕照   せきねのせきしょう
永田の落雁   ながたのらくがん
能仁寺の晩鐘  のうにんじのばんしょう
天南堂の暮雪  てんなんどうのぼせつ
荒崎の夜雨   あらさきのやう
高戸の帰帆   たかどのきはん

元祖「瀟湘八景」のパクリです。

こんなのが日本中にあり、今ではそれにちなんだマンジュウやモナカなんかが名物で売られています。底の浅い金太郎飴文化というべきか、複製文化の最たるものというべきか。非常に特徴的なサンプルです。

経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。

瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。

古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。今の湖南省長沙市のあたり、毛沢東の故郷です。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)晩年の作品にも、「八景隅田川」というのがあります。

ことばよみいみ
算木さんぎ易で使う四角の棒。1本が約9cm。6本で1セット
筮竹ぜいちく易で使う竹ひご状の棒。1本が35~55cm。50本で1セット
沢火革たくかかく易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済すいかきせい易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸くつのかけ
浮御堂うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景しょうしょうはっけい



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なかむらなかぞう【中村仲蔵】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック  

【どんな?】

役者が主人公の噺。
法華信仰がほの見えます。
芝居と信仰の濃い関係が。

別題:蛇の目傘

あらすじ

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。

山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、
「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」
と、女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。

めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

1736-90年。江戸中期の名優です。

屋号は栄屋、俳号は秀鶴しゅうかく。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。

器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎きねやきさぶろうの娘おきしと結婚。

努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園りえんの身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。

実録では、立作者の金井三笑かないさんしょうに憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。

仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。

特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。

その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。

つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下どうかんやました通り稲荷森とうかもり(とうかもり)とあります。

仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧あさお山岡頭巾やまおかずきん脚絆草鞋きゃはんわらじの従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時このときより始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎だんじゅうろうとの人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾しそうする(けしかける)設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんながおもしろそうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺れんじゃく(背につけて物を担ぐ道具)で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(浪上義三郎、1866-1944)の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社、1998年)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

当時の役者は、下立役したたちやく/rt>(=稲荷町いなりまち)→中通り→相中あいちゅう相中上分あいちゅうかみぶん名題下なだいした名題なだいと、かなり細かく身分が分かれ、芝居系統のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

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えじまやそうどう【江島屋騒動】落語演目

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【どんな?】

三遊亭円朝の怪談。
舞台は江戸、下総、さらに江戸。
イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

あらすじ

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

円朝の怪談噺  【RIZAP COOK】

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

先の大戦後、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)がよくやりました。

並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔(中島市太郎、1886-1935)と六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900.9.3-79.9.3、柏木の)。

円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生(立岩勝次郎、1846-1904)が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵  【RIZAP COOK】

円朝の最初の妻はお里といいます。その父親は倉岡元庵といいました。

御徒町に住むお同朋だったそうです。

お同朋、同朋衆にはいろいろの職種がありましたが、倉岡自身は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。

権力をかさに着た人々の一人だったのですね。

円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は晩年、朝太郎のために苦しめられました。

五代目志ん生が復活  【RIZAP COOK】

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記か「円朝全集」(春陽堂、1926年)で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町  【RIZAP COOK】

しばひかげちょう。港区新橋二~六丁目にあたります。

日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。

江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。

語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の身分の低い御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

値段をごまかす隠語で「げそる」というのがあります。

烏賊の足は「げそ」。「いか」と「げそ」。

値段や品物をごまかすことに、烏賊がなにかかかわりあるのでしょうか。

江島屋の「その後」  【RIZAP COOK】

大正末期頃まで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座二~八丁目)で質屋をしていたとのこと。

木挽町といえば、通称は東銀座、歌舞伎座あたり。

芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。

怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

ことばよみいみ
深川佐賀町ふかがわさがちょう
倉岡元庵くらおかげんあん
下総しもうさ
大貫村おおぬきむら
檀那寺だんなでら
幸福寺こうふくじ
芝日陰町しばひかげちょう
神崎川こうさきがわ
あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

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