狂歌家主 きょうかいえぬし 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

江戸前の噺。これは狂歌噺。全編に洒落がたっぷり効いています。

別題:三百餅

【あらすじ】

ある年の大晦日、正月用の餅つきを頼む金がないので、朝からもめている長屋の夫婦。

隣から分けてもらうのもきまりが悪いので、大声を出して餅をついているように見せかけた挙げ句、三銭(三百文)分、つまりたった三枚だけお供え用に買うことにした。

それはいいのだが、たまりにたまった家賃を、今日こそは払わなくてはならない。

もとより金の当てはないから、大家が狂歌に凝っているのに目を付け、それを言い訳の種にすることで相談がまとまった。

「いいかい、『私も狂歌に懲りまして、ここのところあそこの会ここの会と入っておりまして、ついついごぶさたになりました。いずれ一夜明けまして、松でも取れたら目鼻の明くように致します』というんだよ」

女房に知恵を授けられて、言い訳に出向いたものの、亭主、さあ言葉が出てこない。

「狂歌を忘れたら、千住の先の草加か、金毘羅様の縁日(十日=とうか)で思い出すんだよ」
と教えられてきたので、試してみた。

「えー、大家さん、千住の先は?」
「ばあさん、どうかしやがったなこいつは。竹の塚か」
「そんなんじゃねえんで、金毘羅さまは、いつでした?」
「十日だろう」
「そう、そのトウカに凝って、大家さんは世間で十日家主って」
「ばか野郎、オレのは狂歌だ」

大家が、
「うそでも狂歌に凝ったてえのは感心だ。こんなのはどうだ」
と、詠んでみた。

「玉子屋の 娘切られて 気味悪く 魂飛んで 宙をふわふわ」

「永き屁の とほの眠りの 皆目覚め 並の屁よりも 音のよきかな」

「おまえも詠んでみろ」
と、言われた。

「へえ、大家さんが屁ならあっしは大便」
「汚いな、どうも。どういうんだ」

「尻の穴 曲がりし者は ぜひもなし 直なる者は 中へ垂れべし」

これは、共同便所に大家が張った注意書きそのまま。

「それだから、返歌しました」
「どう」
「心では 中へたれよと 思えども 赤痢病なら ぜひに及ばん」

だんだん汚くなってきた。

「どうだい、あたしが上をやるから、おまえが後をつけな」
と言うと、
「右の手に 巻き納めたる 古暦」
と言って
「どうだい?」
ときた。

「餅を三百 買って食うなり」
「搗かないから三百買いました」

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【しりたい】

原話は元禄ケチ噺

最古の原話は、元禄5年(1692)刊の大坂笑話本『かるくちはなし』巻五中の「買もちはいかい」です。

これは、金持ちなのに正月、自分で餅を搗かず、餅屋で買って済ますケチおやじが、元旦に「立春の 世をゆずり葉の 今年かな」という句をひねると、せがれが、「毎年餅を 買うて食ふなり」と付け句をします。

おやじが、「おまえのは付け句になっていない」と言うと、せがれは「付かない(=搗かない)から買って食うんだろ」

ここではまだ、現行のオチにある「(狂歌が)付く」=「(餅を)搗く」のダジャレが一致するだけです。

狂歌

狂歌は、こっけい味や風刺を織り込んだ和歌です。起源は平安期にまで遡りますが、古い記録はあまり残っていません。これは、内容が内容だけに、歌壇をはばかって「言い捨て」(=記録しない)にされることが多かったためでしょう。

室町から安土桃山時代に好まれ、豊臣秀吉も狂歌を楽しんだといいます。江戸時代につながる近世狂歌は、松永貞徳(1571-1653)によって京都で創始されました。松永貞徳は貞門俳諧の祖です。

江戸の狂歌

江戸ではずっと遅く、明和6年(1769)、唐衣橘洲(からごろも・きっしゅう、1743-1802)が自宅で狂歌の会を催したのが始まりとされます。

初期の狂歌は、古歌のパロディーが主だったので、歌の素質のある御家人や上層町人の間に広まり、狂歌合わせなども安永・天明期(1772-89)にかけて盛んに催されました。なかでも、太田南畝(1749-1823)は「狂歌の神さま」的存在。四方赤良、のちに蜀山人とも称しました。幕末になると、この噺にも見られるようにきわめて卑俗化しました。

狂歌噺としては、ほかに「紫壇楼古木」「蜀山人」「狂歌合わせ」などがあり、「掛取万歳」の前半でも狂歌で家賃を断るくだりがあります。

古くから親しまれた噺

原話は上方のものですが、噺としては純粋な江戸落語です。古い噺で、文化年間(1804-18)に初めにはもう狂歌噺として口演されていたようです。

明治期の速記もけっこう残っています。「三百餅」または「狂歌家主」の題で、四代目橘家円喬(明治29年)、初代春風亭小柳枝(同31年)、三代目蝶花楼馬楽(同41年)のものがあります。

初代小柳枝の速記はかなり長く、大家が「踏み出す山の 横根(ヨコネ=性病)を眺むれば うみ(=海と膿)いっぱいに はれ渡るなり」とやれば、亭主が「『淋病で 難儀の者が あるならば 尋ねてござれ 神田鍛治町』、これは薬屋の広告で」と返したり、大家が蜀山人先生の逸話を長々と披露する場面があります。

別題の「三百餅」はもちろんオチからきた演題ですが、この三百は餅代、三百文のこと。最近は餅の部分までいかず、滑稽な狂歌の応酬で短く切る場合もあります。

【語の読みと注】
唐衣橘洲 からごろもきっしゅう
太田南畝 おおたなんぽ
四方赤良 よものあから
蜀山人 しょくさんじん
横根 よこね:性病

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九州吹き戻し きゅうしゅうふきもどし 演目

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あまりかかることのない、珍しい噺です。粗っぽくて、いや、どうも。

【あらすじ】

放蕩の挙げ句、お決まりで勘当された、元若だんなのきたり喜之助。

それならいっそ、遊びのしみ込んだ体を生かそうと幇間になったが、金を湯水のごとく使った癖が抜けず、増えるのは不義理と借金ばかり。

これでは江戸にいられないと、夜逃げ同然に流れ流れてとうとう肥後の熊本城下へ。

一目で一文なしとわかるみずぼらしい風体になったので、どの宿屋も呼び込んでくれない。

ふと眼についたのが、江戸屋という旅籠の看板。

江戸という名の懐かしさに、
「えい、なんとかなるだろう」
とずうずうしく上がり込み、明日は明日の風が吹くとばかり、その夜は酒をのんでぐっすり寝入ってしまった。

翌朝、
「おや、喜之さんじゃなか」
と誰かが声を掛けるので、ひょいと見ると昔なじみで、湯屋同朋町にいた大和屋のだんな。

このだんなも商売をしくじり、江戸を売ってはるばるこの地へ流れ着き、今ではこの旅籠の主人。

喜之助、地獄に仏とばかり、だんなに頼んで板場を手伝わせてもらい、時には幇間の「本業」を生かして座敷にも出るといったわけで、客の取り持ちはさすがにうまいので、にわかに羽振りがよくなった。

こうして足掛け四年辛抱して、貯まった金が九十六両。

ある日、だんなが、
「おまえさんの辛抱もようやく身を結んできたんだから、あと百両も貯めたらおかみさんをもらい、江戸屋ののれんを分けて末永く兄弟分になろう」
と言ってくれたが、喜之助はここに骨を埋める気はさらさらない。

日ごと夜ごと、江戸恋しさはつのるばかり。

そこでだんなに、
「一人のおふくろが心配で」
と切り出すと、
「おまえさんのおっかさんはもう亡くなっているはずだが」
と、苦笑しながらも、
「まあ、そんなに帰りたければ」
と、親切にも贔屓のだんな衆に奉賀帳を回して二十両余を足し前にし、餞別代わりに渡してくれた。

出発の前夜、夢にまで見た江戸の地が踏めると、もういても立ってもいられない喜之助、夜が明けないうちに江戸屋を飛び出し、浜辺をさまよっていると、折よく千五百石積の江戸行きの元船(荷船)の水手に出会った。

便船(荷船に客を乗せること)は天下のご法度だが、病気のおふくろに会いに行くならいいだろうと、特別に乗せてもらうことになった。

海上に出てしばらくは申し分ないよい天気で、船は追い風をはらんで矢のように進んだが、玄界灘にさしかかるころ、西の空から赤い縞のような雲が出たと思うと、雷鳴とともにたちまち大嵐となった。

帆柱は折れ、荷打ちといって米俵以外の荷は全て海に投げ込み、一同、水天宮さまに祈ったが、嵐は二日二晩荒れ狂う。

三日目の夜明けに打ち上げられたのが、薩摩の桜島。

江戸までは四百里、熊本からは二百八里。

帰りを急ぎ過ぎたため、百二十里も吹き戻されたという話。

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【しりたい】

円朝もサジ投げた噺

原話や成立過程などはいっさい不明です。初代古今亭志ん生(1809-56)が得意にしていました。おそらく、天保年間(1830-44)のことでしょう。その志ん生も、鈴々舎馬風から金千疋(約二両二分)で譲ってもらったというので、起源はかなり古いと思われます。

初代志ん生は、江戸後期の人情噺の名手で、三遊亭円朝の芸の上で伯父分にあたります。その円朝は、若き日に志ん生の「九州吹きもどし」を聴き、とても自分はできないと断念。後年、門下にも口演を禁じたほどでした。

談志や雲助が復活

円朝没後、その「禁」を破って、孫弟子の三代目三遊亭円馬が大正期に高座にかけ、十八番としました。円馬と同時期では他に初代柳家小せんが演じ、戦後では四代目円馬が師匠譲りで持ちネタに。

その後、まったく絶えていたのを、立川談志が復活しました。筋としてはかなり荒っぽい噺ですが、後半はスケールが大きなスペクタクルで、芸格の大きな人が演じると、引き立つ噺でしょう。近年では、五街道雲助の持ちネタです。

きたり喜之助

主人公の名ですが、これは江戸の言葉遊びで、「来たり」(よしきた!)の頭韻を合わせただけの洒落を、そのまま人名にしたものです。「きたり喜の字屋」も同じです。                       
山東京伝作(1761-1816)の黄表紙(絵入り読み物)、「江戸生艶気樺焼」にも使われ、表記では「北里喜之助」とあります。 

奉賀帳

ほうがちょう。もともとは、社寺に寄進する金額を記した帳面で、のちには寄付を募った時、その金額と氏名を記録する台帳の意味で使われました。「奉加帳を回す」といえば、仲間がピンチのとき、有志が友人一同に、義援金を集めて回ること。つまりは、カンパのことですね。

元船

もとぶね。親船ともいい、荷船の中でも特に大船を指します。ここでは薩摩藩の船という設定です。実際、薩摩のものが最も大きく、二千八百石積みと記録にあります。だいたい、400トン積み程度でしょう。幕府の禁制で、軍艦に改造するのを防ぐため、三千石以上の建造は許されませんでした。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
旅籠 はたご
贔屓 ひいき
餞別 せんべつ
水手 かこ:船乗り
江戸生艶気樺焼 えどうまれうわきのかばやき

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きな粉のぼた餅 きなこのぼたもち 演目

【RIZAP COOK】

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明治期にできた落語。小説にでもなりそうな好編です。

【あらすじ】

二人の車屋。

居酒屋で一杯やりながら、同じ車屋仲間だった喜六という男のことを噂しあっている。

なんでも、コツコツためた黄金を同業者に高利で貸し付け、自分は食うものも食わずに倹約して大金をため込んだが、栄養失調で先ごろ、おっ死んでしまったとのこと。

細君はその金を、物好きにもそっくり寺へ寄付するつもりらしいというので、世の中にはもったいないことをする奴があるものだと、二人してため息ばかり。

話変わって、喜六の家。

女房が、義弟の届けてくれたぼた餠を仏壇に供え、お灯明を上げているところへ、菩提寺の谷中瑞林寺の者だと言って、一人の坊さんが訪ねてくる。

坊さんが言うには、
「昨夜、住職の夢枕に喜六が立ち、自分は非道に金を貯めて、施しということをしなかった報いで地獄におち、たいそう苦しんでいるので、なんとか救ってほしいと、泣きながら訴えたから、住職もあわれに思い、法事をしてあげようと言うが、その費用に百円ほどかかるので、奥方から受け取ってこいと言いつけられた」
という。

女房もちょうど寺に金を納めようと思っていたところなので、それで亭主が浮かばれるならと、
「今、金を取ってきますのでそれまでの間」
と、坊さんにきな粉のぼた餠を出す。

これは喜六の弟の錺職人の銀次郎が、兄の好物だったので手作りして届けたもの。

ところが、坊さん、ぼた餠を食べると、急に腹痛で七転八倒。

あわてて長屋の者を呼び、医者が駆けつけたりで大騒ぎ。

中毒だと容易ならぬことだと月番が警察に届け、まもなく関係者一同の尋問が始まる。

ほかの者が食べてもなんともなかったのに、なぜこの坊主だけがあたったのかも不思議。

銀次郎が呼ばれたが、これはシロ。

そもそも、死人が夢枕に立ったという話が怪しいと、オイコラ警官は当たりをつけ、瑞林寺に問い合わせると、そんな話はないというので、病人がニセ坊主だと知れた。

この男、実は縁日の露天商で南京鼠売りで、居酒屋で車引きの話を小耳にはさみ、坊主に化け込んで金をかたり取ろうとしたことを白状したので、これにて一件落着。

「ハァ、鼠売りか。これで、このぼた餠にあたった原因がわかったぞ」
「そりゃ、どういうわけで?」
「今、本官が食べたら、きな粉がみんなネコ(寝粉=古い粉)だったわい」

底本:二代目三遊亭小円朝

【RIZAP COOK】

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の初代三遊亭金馬、のちの二代目小円朝の速記が残るのみで、その後の口演記録はありません。同時期の金馬自身の新作と思われますが、詳細ははっきりしません。

人力車事始

和泉要助ら三人が官許を得て、明治3年(1870)に製造に取りかかり、改良を加えて明治8年(1875)ごろ、完成品ができました。車輪は当初は木製、のち鉄製、さらにゴム製に。そのころから、早くも東南アジア方面に「リキシャ」の名で輸出され始めました。全盛期には全国で3万台以上を数えましたが、関東大震災を境に、ほとんど姿を消しました。

明治大正時代には、落語家も大看板ともなると、それぞれお抱えの車引きを雇います。売れっ子の初代三遊亭(鼻の)円遊の抱え車屋があまりのハードスケジュールに、血を吐いて倒れたというエピソードまであります。

南京鼠売り

中国産の二十日鼠をペット用に売るもので、明治中期から後期にはけっこうはやりました。南京鼠は体長は6-7cmで、独楽鼠もその一品種です。

谷中瑞林寺

台東区谷中4丁目にあります。日蓮宗の古刹です。天正19年(1591)、身延山第十世・滋雲院日新が日本橋馬喰町に開基しました。慶安2年(1649)、現在地に移転。明治の元勲、井上毅の墓所があります。

安政ぼた餅殺人事件

岡本綺堂(1872-1939)は「半七捕物帳」の作者としてよく知られていますが、「二十九日の牡丹餅」というサスペンス短編があります。

この作品は、ペリー艦隊再来航直後の安政元年(1854)旧暦7月、江戸市中に実際に飛び交った流言を題材にしたものです。安政元年は7月の翌月が閏7月。その流言とは、夏の閏月は残暑が厳しく、疫病も発生しやすいところから、晦日の7月29日にきな粉のぼた餅を食えば、暑気あたりを防げるというものでした。

ただし、それを他家に配ってはならず、家族や親類、奉公人などの身内で残らずその日のうちに食べつくすべし、という、ご親切な尾ひれ付き。

これを人々が真に受け、ぼた餅パニックが発生。

米屋ではもち米が品切れ、粉屋からはきな粉が消えました。自家で作れなくなった市民がぼた餅屋に殺到し、江戸中捜し歩いても、ことごとく売り切れ。

この、まじないめいた流言が、なにかの俗信に基づくものか、また、なんらかの根拠があったのかはわかりません。

小説では当日、清元の女師匠の家で食べたぼた餅で、パトロンのだんなが中毒死。そこから発生する連続殺人事件を、綺堂は落日の江戸を背景に、情味濃く描いています。

殺人事件その後

原作者の綺堂も作中で「安政元年」と言っているのですが、実は、安政改元はその年の旧暦11月27日(1855年1月15日)で、厳密に言えば7月、閏7月の時点では、まだ嘉永7年です。

文中の7月29日は、1854年8月22日に当たりますが、調べてみると、この月はもう一日、30日があり、29日で終わっているのは、翌月の「閏7月」です。したがって、29日を「晦日」としたのは誤りでした。失礼いたしました。トリビアルにいえばこのタイトルも「嘉永ぼた餅殺人事件」と変えなければなりません。

岡本綺堂でさえ誤るのですから、旧暦と新暦の換算、西暦との整合はややこしく、たとえば機械的に「安政元年=1854年」とやると、同年旧暦11月13日から、もう西暦では1855年に入っているため、場合によって、とんだ間違いを生じることになります。

さらにいえば、もうひとつ。

これも文中で、「夏の閏月」と書きましたが、旧暦の季節で言うと7月はもう秋、ということになります。現代感覚から言いますと、盛夏のさ中に変わりなく、秋とするとかえってややこしくなりますので、あえて「夏」で通したことをお断りします。

【語の読みと注】
錺職人 かざりしょくにん
独楽鼠 こまねずみ

【RIZAP COOK】

汽車の白浪 きしゃのしらなみ 演目

スヴェンソンの増毛ネット

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明治期の、しかも汽車を舞台にした珍談です。

【あらすじ】

時は明治の初め。

大阪は船場の商人の小林という男。

東京に支店を出そうというので、両国の宿屋に仮住まい中だが、ある日、商用で横浜へ行った帰り、ステンショから、終汽車に乗った。

相客は女が一人。

官員か誰かの細君らしく、なかなかオツな年増なので、小林君、すっかりうれしくなって、話しかけてみると、未亡人で年始の帰りだという。

自分もこれこれこういう者だと打ち明けると、ぜひお近づきになりたいと、思わせぶりなそぶり。

ところがそこへ、目つきの悪い男が入ってきて、女の方をじろじろ見ている。

きっと泥棒だから、汽車を降りたら気をつけなければいけないと、二人は品川駅に着くと、手に手を取って急いで人力車溜まりへ急ぐ。

相乗りで両国まで行こうと、車屋に声をかけようとすると、暗がりから、さきほどの男が
「ちょいと待ちなさい」
と婦人のたもとを押さえる。

「女に用があるから」
と連れていこうとするので、小林は、てっきり強盗か誘拐犯だと、止めようとするが突き倒され、女はそのまま連れ去られてしまう。

小林君、宿に帰って、腰をさすりながらふと懐中を見ると、紙幣で二百円入った財布がない。

「やはり、あいつは泥棒」

明日、警察に届けようとその夜は寝てしまう。

翌朝、これから警察に行こうとしている時、客だというので出てみると、なんと昨夜の男。

「あなたは小林礼蔵さんか、これに見覚えは」

男が出したのは、紛れもなく盗まれた財布。

男は、実は刑事で、あの女は、黒雲のお波という女賊だったと知らされて、二度びっくり。

「へー、あれが黒雲、道理で私の紙幣を巻き上げようとした」

底本:六代目桂文治

スヴェンソンの増毛ネット

【しりたい】

明治後期の新作

明治32年(1899)の六代目桂文治の新作で、翌年の正月発行の雑誌『百花園』に掲載されました。

文治は明治の落語界に独自の地位を占め、「下谷上野の山かつら、かつら文治は噺家で」と子供の尻取り歌にまで歌われた道具入り芝居噺の名人でした。

文治当人も冒頭で「愚作ではございますが」と断っていて、その通りあまり芳しい出来とはいえないのですが、人物の会話などはリアルでうまく、さすがと思わせるところはあります。

もちろんその時代のキワモノなので、文治以後の口演記録はまったくありません。

白浪

語源は後漢書の「白浪賊」。

三国志で名高い黄巾の乱の残党が、白浪谷に立て籠もって山賊を働いた故事から、盗賊の異称となりました。

歌舞伎の外題によく使われ、黙阿弥作の「弁天娘女男白浪」、通称「白浪五人男」はよく知られた泥棒狂言です。

文治は芝居噺を専門にしていたので、内容は明治新時代の盗賊であっても、この古風な呼称を使ったのでしょう。

賊も世につれ

この噺で、女が語っています。

「手前のつれあいは、先達っての日清の戦争で亡くなりました」と語っていることでもわかるのですが、日清戦争が終結してすでに五年目。

日清戦争は、明治維新以後初めての対外戦争です。

兵員や軍需物資輸送の必要から、日本の鉄道網はこれを契機に、飛躍的に整備・拡大されました。

新橋(汐留)-横浜(桜木町)間の鉄道開通から二十数年、明治22年(1889)7月の東海道本線の新橋-神戸間開通からも十年余。

旅客輸送量も、草創期とは比較にならないほど伸びましたが、まだ夜間は利用客は少なく、実際にもこのように、金のありそうな客を狙った「密室」を利用した色仕掛けの女スリが出没していたとみえます。

当時の横浜までの所要時間は53分。室内は暗く、終電で相客はほとんどないとあれば、この小林君、格好のカモだったでしょう。

「汽車の大賊」

この速記の翌々年、明治35年(1902)に、やはり汽車賊を扱った「汽車の大賊」という江見水蔭(1869-1934)のサスペンス小説が発表されました。水蔭は、日本の探偵小説のパイオニア。そのバタくさい作風が受け、当時のベストセラー作家でした。

この作品中でも、女賊が東海道線の列車中で、九州の炭鉱主を色仕掛けで誘惑し、金品を奪うという場面があります。筋や設定がそっくりなところを見ると、江見センセイ、ちょいと「いただいて」しまったのかも。

【語の読みと注】
ステンショ すてんしょ:駅
終汽車 しゅうきしゃ:終電
官員 公務員
弁天娘女男白浪 べんてんむすめめおのしらなみ

スヴェンソンの増毛ネット

志ん生にはどんな弟子がいたのか?

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NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。(高田裕史)

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菊江の仏壇 きくえのぶつだん 演目

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上方噺の傑作です。東京ではあまり聴きませんが。大ネタです。

別題:白ざつま(上方噺)

【あらすじ】

ある大店のだんな。

奉公人にはろくなものも食わせないほどケチなくせに、信心だけには金を使う。

その反動か、せがれの若だんなは、お花という貞淑な新妻がいるというのに、外に菊江という芸者を囲い、ほとんど家に居つかない。

そのせいか、気を病んだお花は重病になり、実家に帰ってしまった。

そのお花がいよいよ危ないという知らせが来たので、だんなは若だんなを見舞いに行かせようとするが、番頭に、もしお花がその場で死にでもしたら、若だんなが矢面に立たされて責められると意見され、ふしょうぶしょう、自分が出かけていく。

実はこれ、番頭の策略。

ケチなだんながいないうちに、たまには奉公人一同にうまいものでもくわしてやり、気晴らしにぱっと騒ごう、というわけ。

若だんな、親父にまんまと嫌な役を押しつけたので、さっそく、菊江のところに行こうとすると番頭が止める。

「大だんなを嫁の病気の見舞いにやっておいて、若だんなをそのすきに囲い者のところへ行かせたと知れたら、あたしの立場がありません、どうせなら、相手は芸者で三味線のひとつもやれるんだから、家に呼びなさい」
と言う。

それもご趣向だと若だんなも賛成して、店ではのめや歌えのドンチャン騒ぎ。

そこへ丁稚の定吉が菊江を引っ張ってくるが、夕方、髪を洗っている最中に呼びに来られたので、散らし髪に白薩摩の単衣という、幽霊のようなかっこう。

菊江の三味線で場が盛り上がったころ、突然だんなが戻ってきたので、一同大あわて。

取りあえず、菊江を、この間、だんなが二百円という大金を出して作らせた、人の二、三人は入れるというばかでかい仏壇に隠した。

だんな、
「とうとうお花はダメだった」
と言い、かわいそうに、せがれのような不実な奴でも生涯連れ添う夫と思えば、一目会うまでは死に切れずにいたものを、会いに来たのが親父とわかって、にわかにがっくりしてそのままだ。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と、番頭がしどろもどろで止めるのも聞かず、例の仏壇の扉をパッと開けたとたん、白薩摩でザンバラ髪の女。

「それを見ろ、言わないこっちゃない。お花や、せがれも私も出家してわびるから、どうか浮かんどくれ、浮かんどくれ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」
「私も消えとうございます」

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【しりたい】

源流は男色もの

直接の原話は文化5年(1808)刊『浪花みやげ』中の「ゆうれい」で、すでに現行の落語と筋はほとんど同じです。

これにはさらに原型と思われる笑話があり、享保16年(1731)ごろ刊の『男色山路露』中の「謡による恋」がそれです。これは、出典の書名から見てもわかるとおり、今でいうハードゲイのたぐい。

ある男が野郎(役者で男娼)を自宅に引き込み、よろしくお楽しみの最中、おやじが突然帰宅。あわてて男娼を仏壇に押し込みますが、「風呂敷」よろしく、おやじがその前に居座るので、出るに出られない男娼、そのうち小便がしたくなって……という、あまり趣味のよくないお笑いです。

上方の大ネタ

本家は上方落語で、大阪では桂米朝初め、三代目桂春団治、先代桂文枝など、上方を代表する実力者しかこなせない切りネタ(大ネタ)です。上方の舞台は船場の淀屋小路で、菊江はキタの新地の芸妓という設定になります。

東京版は馬生が復活

東京には明治20年代に初代三遊亭円右が「白ざつま」の演題で東京に移植したといわれます。明治29年(1896)に、円右と同門の円朝門下で、当時上方で活躍していた二代目三遊亭円馬(1918年没)が「白ざつま」の題で口演した速記が残ります。

東京ではその後あまり演じ手はなく、途絶えていたのを十代目金原亭馬生が元の「白ざつま」の題で復活しました。桂歌丸も手掛けていました。

白薩摩

薩摩がすりは本来は琉球(沖縄)産。

薄い木綿織物で、白地のものは夏の浴衣などに用いられます。「佃祭」の次郎兵衛もこれを着ていたのが原因で、幽霊に見違えられました。

死人の経帷子は、普通、絹もしくは麻で作るので材質は違いますが、同じ単衣で白地ということで、その上ザンバラ髪なので、幽霊と間違えるのは無理もありません。

【語の読みと注】
経帷子 きょうかたびら

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祇園会 ぎおんえ 演目

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京都を舞台にした噺です。

別題:東男 およく 祇園祭 京見物 京阪見物 京阪土産の下

【あらすじ】

江戸っ子の熊五郎、友達三人で、京都の知人を頼って都見物にやってきた。

あいにくの旅疲れか、患ってしまい、長引いたので、友達二人は先に江戸に帰り、一人残って養生するうち、三月ほどしてようやく動けるようになった。

折しも夏にかかり、祇園祭が近づくころ、いっぺん、話の種に見たいと思っていたので、当日、知人の案内で、祇園新地の揚屋の二階を借りて見物することに。

連れは京者が二人、大坂者が一人と江戸っ子の熊、つごう四人。

ところが、江戸の祭と違い、山車の出が遅くて、四ツ(夜十時)を過ぎてもまだ来ないので、熊五郎はイライラ。

ようやくコンチキチンと鉦の音が聞こえ、山鉾、薙刀鉾、錦鉾とにぎやかに繰り出してきたが、京者の源兵衛が、早くも自慢タラタラ。

やれ、
「あの鉾は太閤秀吉はんが緞帳に使いなはった」
とか、
「森蘭丸はんが蘭奢待の名香をたきつめなはって、一たき千両」
とか、講釈を始めたから、熊さんはおもしろくない。

「いくら古いか知らないが、あっしゃあこんなまだるっこい山車はたくさんだ」
とタンカを切り、
「それより芸妓を一人買ってみてえ」
と要求した。

ところが年一度の祭礼のこと、
「こんな日に茶屋に残っている芸妓にはろくなのがおまへん」
という。

それでも、
「たった一人いるにはいるが、その女、欲が深くて、来る客来る客に商売に応じてあれが欲しい、それが欲しいとねだりごとばかりするので評判悪く、とても座敷に出せない」
と茶屋の女将が渋るのを、熊五郎が、「ねだってもとてもやれないような商売を言うことにしよう」
と提案したので、
「それはおもろい」
とみんな賛成する。

現れたのが、亀吉という芸妓。

年増だが、鴨川の水で洗いあげ、なかなかいい女。

ところが、案の定、いきなり、
「お客はん商売はなんどす」
ときたから、一同呆れた。

源兵衛が
「飛脚屋だ」
と言うと、
「わての客が名古屋にいるよって、手紙を届けておくれんか」
ときた。

もう一人が
「石屋だ」
と言うと、
「父親の七回忌だから、石碑を一本タダで」
というずうずうしい願い。

「江戸はん、あんた商売はなんどす」
「聞いて驚くな。オレは死人を焼く商売だ」
「そうどすか。おんぼうはんにご無心がおます」
「おんぼうに無心とはなんだ」
「あてが死んだらな、タダで焼いとくれやす」

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【しりたい】

連作長編の完結編

「三人旅(発端・神奈川)」の古くからある江戸落語の連作長編、「三人旅」シリーズの終わりの部分です。

昔は、東海道五十三次の宿場一つ一つについて噺が作られていたといわれますが、現在では「発端(神奈川)」、「鶴屋善兵衛(小田原)」とこの「祇園会(京見物)」しか残っていません。

この噺は別題が多く、「祇園祭」「京見物」「東男」「京阪見物」「京阪土産の下」「およく」などとも呼ばれます。

三つのエピソードで構成

部分によって原話が異なり、前半の京見物のくだりは、天保年間(1830-44)刊の笑話『如是我聞』中の「都人」がルーツとみられます。

あらすじでは略しましたが、三人組が祇園の茶屋に入る前に見せ物小屋見物などで失敗する場面がつくことがあり、そこだけ演じる場合は「東男」と題されます。

最後の部分が「およく」(お欲か)の題名で独立して演じられることもありました。

京の宿屋で江戸っ子が絵師になりすまして京者、大坂者の二人をへこます「三都三人絵師」も元はこの噺の一部で、「東男」と「祇園祭」の間にきたといいます。

いや、ややこしいことですが、上方落語の「東の旅」「西の旅」シリーズと同じく、本来、筋のつながりの薄い別々のエピソードを寄せ集めたオムニバスと考えていいでしょう。

さまざまなやり方

長い噺のため、演じ手によってやり方や切り取り方が異なります。

のち二代目柳家つばめになった明治の四代目柳家小三治は、「京見物」の題で普通はほとんど演じられない「東男」の部分だけを皮肉にも速記に残しました。

三代目春風亭柳枝(1900年没)は「東男」と「三都三人絵師」を「京阪見物」、「祇園祭」と「およく」を「京阪見物・下」と分けていました。

柳枝の「東男」では、四条河原のインチキ見世物見物の後、堺に行って妙国寺の大蘇鉄を見せられ、「東京へ帰んなはったら土産話にしなはれ。これが名代の妙国寺の蘇鉄だす」「なんだ、オレはまたワサビかと思った」とオチています。

名人の四代目橘家円喬は「およく」の部分が特にうまかったとか。

昭和期では八代目春風亭柳枝が十八番とし、「祇園祭の」と一つ名でうたわれました。

祇園新地

寛文10年(1670)、鴨川の改修にともなって祇園新地外六町が開かれ、芝居町と祇園町が結ばれて煮売り茶屋、旅籠屋、茶屋などの名目で、公許遊郭の島原と違い、気楽に遊べる遊興地として発展しました。

享保17年(1732)、正式に茶屋渡世が公認され、旧祇園町、新地を併せて現在の「祇園」が成立しています。

【語の読みと注】
揚屋 あげや
山車 だし
鉦 かね
山鉾 やまぼこ
長刀鉾 なぎなたぼこ
錦鉾 にしきぼこ
緞帳 どんちょう
蘭奢待 らんじゃたい

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雁風呂 がんぶろ 演目

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これは珍しい、水戸黄門も落語に。ご一行漫遊の一席です。

別題:天人の松(上方噺)

【あらすじ】

かの有名な黄門、水戸光圀公。

ご隠居の身の気軽さで、供そろいわずか八人を引き連れて諸国を漫遊中、東海道は掛川の宿に来かかった。

ある質素な、老夫婦二人だけでやっている立場で休憩し、昼食をとっていると、田舎のことで庭に肥桶が置いてあると見え、プーンと臭い匂いが漂ってくる。

さりとて、障子を閉めてしまうと陰気臭くなるので、屏風か衝立を持ってくるようにおやじに言いつける。

恐縮したおやじが運んできた屏風の絵を見て、驚いた。

こんな粗末な立場にあるとは思えないような、土佐光信の屏風絵。

ただ、図柄が変わっていて、松の枝に雁。

屏風は一対だから、別のには松の大木が描かれてあろうと思われる。

松には鶴、雁には月を描くのが普通。

「ははあ、光信の奴、名声におごって、なにを描いてもよいと増長したか」
と光圀公、不快になって、帰館のあかつきには光信の絵はすべて取り捨てると言い出す。

そこへ相客。

上方者らしい、人品卑しからぬ町人の、主従二人連れ。

主人の方は屏風絵を見て感嘆し、
「さすがに光信さんや、松に雁とは、風流の奥義を極めた絵やなァ。これは秋の雁やのうて、春の帰雁や。なにも知らん奴が見たら、雁頼まれたら月を描き、鶴なら松を描くと思い込むやろが、そんな奴は眼あって節穴同然や。もう、他に二人とない名人やなァ」

聞いた光圀公、自分の不明を思い知らされ、町人ながら風流なる者と感心して、近習に命じて男を呼ばせ、松と雁の取り合わせの由来を尋ねた。

初めは、えらいことがお武家さまのお耳に入ったと恐縮していた町人、たってと乞われて語り出したところによると、
「雁は海の向こうの常盤の国という暖国から渡ってきて、冬を函館の海岸で過ごし、春にまた帰っていくが、大きく体が重い鳥だから、海を渡る途中に墜落して命を落とすこともたびたびある。海上で体がくたびれると、常盤の国を出る時くわえてきた枝を海に落として、それを止まり木にして羽を休め、またくわえて、ようやく函館の松までたどり着く。松に止まると、枝をその下に落として、春まで日本全国を飛び回るが、その間に函館の猟師たちが、枝の数を数えて束にし、雁が南に帰る季節になると、また松の下に、その数だけ置いてやる。雁は自分の枝がわかるので、帰る時に各々それをくわえていく。猟師は残った枝を数え、ああ、またこれだけの雁が日本で命を落としたか、あわれなことだと、その枝を薪にして風呂を炊き、追善のため、金のない旅人や巡礼を入れて一晩泊め、なにがしかの金を渡して立たせてやる。これはその時の、帰雁が枝をくわえようとしている光景だ」
という。

すっかり感心した光圀公、身分を明かし、
「そちの姓名はなんと申す」
とご下問になる。

町人、びっくり仰天して、額を畳にこすりつけながら、おそるおそる
「私は大坂淀屋橋の町人で、分に過ぎたぜいたくとのおとがめを受け、家財没収の上、大坂三郷お構いに相なりましたる、淀屋辰五郎と申す者にござります」
と言上。

昔、柳沢美濃守さまに三千両お貸ししたが、ずっとお返しがなく、今日破産し浪々の身となったので、なんとかお返しを願おうと、供を連れてはるばる江戸までくだる途中、と聞いて、光圀公、雁風呂の話の礼にと、柳沢に、この者に三千両返しつかわすようにという手紙を書いてやり、その金でめでたく家業の再興がなったという、一席三千両のめでたい噺。

底本:初代談洲楼燕枝

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【しりたい】

上方版はオチ付き

「水戸黄門漫遊記」を題材にした講談をもとに作られた噺のようですが、はっきりしたネタ元は不明です。

もともとは上方噺で、別題を「天人の松」ともいいますが、上方版ではオチがついていて、「雁風呂の話一つで三千両とは、高い雁(かりがね=借り金)ですな」「そのはずじゃ。貸し金を取りにいく」とオチます。

現在、この噺を得意にしていた桂米朝は「雁風呂の講釈をしたおかげで、借金(しゃっきん)が取れますがな」「そらそうや、かりがね(雁=借り金)の話をしたんじゃ」としています。

このオチの部分の原話は、最古の噺本として知られる『醒睡笑』(安楽庵策伝著、寛永5年=1628年成立)巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」とみられ、「借り金」=「雁がね」の、まったく同じダジャレオチがみられます。

東京では円生

明治の落語界で三遊亭円朝と並び称された初代談洲楼燕枝の速記では、このあらすじの通り講談に近い形をとり、オチはついていません。

戦後は、六代目三遊亭円生が大阪の二代目桂三木助直伝で、オチのある上方系のやり方で演じました。

速記、音源とも、残されているのは上方の米朝版を除けば、円生のもののみです。

円生の芸談

「この噺でむずかしいところというと、副将軍である光圀公の描写、また辰五郎というのは大阪では有名な金持ちの息子ですから、言葉つきから何から品が悪くてはいけません。これを第一に心がけるということが大事だと思います」

雁風呂

噺に出てくる伝説の正確な出自は不明ですが、雁風呂もしくは雁供養の習慣は、本来、青森県・津軽の外ケ浜のものです。

したがって、函館としているこの噺とは食い違いますが、函館にもそんな習俗があっても不思議はありません。

このエピソード、昭和の終わりごろに、某洋酒メーカーのコマーシャルにも使われていました。

「雁風呂」は春の季語にもなり、「雁風呂の 燃ゆるままなる 淋しさよ」(一樹)ほか、多くの句があります。

函館の松

歌枕として著名で、六代目円生は淀屋の説明の中で、
「秋は来て 春かえり行く かりがねの はがい休めむ 函館の松」
という紀貫之の歌を出していました。

淀屋辰五郎

生没年は不詳です。鴻池と並ぶ大坂の豪商でしたが、この噺のとおり、あまりに金の使いっぷりがよすぎて公儀ににらまれ、資産没収のうえ大坂追放処分になったのが宝永2年(1705)。したがって、野暮をいえば、その五年前の元禄13年(1700)に没した水戸光圀と、ここで出会うことはないはずです。

上方では辰五郎の息子で演じるのが普通で、円生もこれにならっていました。

【語の読みと注】
肥桶 こえおけ
屏風 びょうぶ
衝立 ついたて

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癇癪 かんしゃく 演目

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近代人の小言幸兵衛。他人に当たり散らす、怒りんぼうの噺です。

【あらすじ】

大正のころ。

ある大金持ちのだんなは、有名な癇癪持ち。

暇さえあれば家中点検して回り、
「あそこが悪い、ここが悪い」
と小言ばかり言うので、奥方始め家の者は戦々恐々。

今日も、その時分にはまだ珍しい自家用車で御帰宅遊ばされるや、書生や女中をつかまえて、やれ庭に水が撒いていないの、天井にクモの巣が張っているのと、微に入り細をうがって文句の言い通し。

奥方には、
「茶が出ていない、おまえは妻としての心掛けがなっていない」
と、ガミガミ。

おかげで、待っていた客がおそれをなして、退散してしまった。

それにまた癇癪を起こし、
「主人が帰ったのに逃げるとは無礼な奴、首に縄付けて引き戻してこい」
と言うに及んで、さすがに辛抱強い奥方も愛想をつかした。

「妻を妻とも思わない、こんな家にはいられません」
と、とうとう実家へ帰ってしまう。

実家の父親は、出戻ってきた娘のグチを聞いて、そこは堅い人柄。

「いったん嫁いだ上は、どんなことでも辛抱して、亭主に気に入られるようにするのが女の道だ、『けむくとも 末に寝やすき 蚊遣かな』と雑俳にもある通り、辛抱すれば、そのうちに情けが通ってきて、万事うまくいくのが夫婦だから、短気を起こしてはいけない」
と、さとす。

「いっぺん、書生や女中を総動員して、亭主がどこをどうつついても文句が出せないぐらい、家の中をちゃんと整えてごらん」
と助言し、娘を送り返す。

奥方、父親に言われた通り、家中総出で大掃除。

そこへだんなが帰ってきて、例の通り
「おい、いかんじゃないか。入り口に箒が立てかけて」
と見ると、きれいに片づいている。

「おい、帽子かけが曲がって、いないか。庭に水が、撒いてある。ウン、今日は大変によろしい。おいッ」
「まだなにかありますか」
「けしからん。これではオレが怒ることができんではないか」

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作者は若だんな

益田太郎冠者(本名・太郎、1875-1953)が明治末に、初代三遊亭円左(1911没)のためにつくった落語です。

作者の父親は三井財閥の大番頭として明治大正の財界に重きをなした男爵益田孝(1848-1938)。

せがれの方は帝劇の重役兼座付作者で、主に軽喜劇と女優劇のための台本を執筆しました。

「女天下」「心機一転」「ラブ哲学」「新オセロ」などの作品がありますが、特に大正9年(1920)、森律子主演のオペレッタ「ドッチャダンネ」の劇中歌として作詞作曲した「コロッケの唄」は流行歌となり、今にその名を残しています。

落語も多数書いていますが、現在演じられるのはこの「かんしゃく」くらいです。

富豪の日常を描写

明治末から大正期に運転手付きの自家用車を持ち、豪壮な大邸宅で大勢の書生や女中にかしづかれ、そのころはまだ珍しい扇風機まで持っているこのだんなの生活は、そのまま作者の父親のそれを模写したものと見ていいでしょう。現代的感覚からすると、もはや古色蒼然。さほどおもしろくもありませんが、わずかに主人公の横暴ぶりを、演者の腕によって誇張されたカリカチュアとして生かせると、掘り出し物になるかもしれません。

文楽の十八番

初演の円左の速記は残っていません。円左没後は、三代目三遊亭円馬を経て戦後、八代目文楽が一手専売、十八番のひとつにしました。ひところはよく、客席から「かんしゃく!」と、リクエストされたとか。作られたのは明治期ですが、文楽が作者の許可と監修のもとに細部を整え、大正ロマン華やかなりしころに時代設定したものでしょう。

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べらぼう【便乱坊、可坊、箆棒】ことば

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ばかな、異常な。

定説となっている語源は、寛文年間(1661-73)に大評判になった見世物から。当時の随筆『本朝世事談綺』に「寛文十二年の春、大坂道頓堀に、異形の人を見す。其貌醜き事たとふべきもなし。頭するどくとがり、眼まん丸にあかく、おとがひ猿のごとし」とあるように、後世に伝えられるほどのインパクトだったのでしょう。

井原西鶴も、その十六年後の貞享5=元禄元年(1688)出版の『日本永代蔵』巻四の三で「ある年は形のおかしげなるを便乱坊と名付、毎日銭の山をなして」と書いています。

ごく普通の人間にこうした粉飾を施したインチキだった可能性は十分ありますが。この「人物」、全身真っ黒で、愚鈍なしぐさを見せて客の笑いを取ったことから、後年、江戸で「阿呆、愚か者」という意味の普通名詞として定着。「あたりまえ」と語呂合わせで結びついて「あたぼう」という造語も生まれました。「べらんめえ」も、「べらぼうめ」が崩れた形です。

その他、形容動詞化して(悪い意味の)「はなはだしい」「むやみな」「法外な」という意味が加わりました。

「箆棒」と書くのは、ペラペラの箆で穀(ごく=雑穀)を押しつぶすような愚か者の意味であと付けしたもので、「ごくつぶし」と同義語です。「やんま久次」で、胸のすくようなオチに使われていますね。

俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ。                  

やんま久次

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あたぼう【あた坊】ことば

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あたりまえだ、当然だ。

悪態やタンカによく使われる、「当たり前だ」「当然だ」を意味する江戸語ですが、これ、高座の噺家始め一般の解釈では「当たり前(あたりめえ)だ、べらぼうめ」が縮まった形とよく言われます。

「べらぼう」は別項の通り、寛文年間(1661-73)に評判になった見世物に由来し、「ばか」の意味ですから、「当たり前」の後に江戸下町の職人特有の、罵言の形の強調表現が付いた形。この説明にはいささか、補足が必要です。言葉の変化としては以下の順番になります。

「当たり前」→「あたりき」→「あた」
とどんどん縮まり、もっとも短くなった「あた」に、擬人化の接尾語「坊」が付いた形ですね。

「坊」は親しみをこめた表現で、「あわてん坊」などと同じです。

これは文政2年(1819)にものされた随筆『ききのまにまに』に「当り前といふ俗言を、あた坊と云ことはやり」とありますから、そう古い造語ではなさそうです。

本来「べらぼう」とは別語源なので、誤解されやすいのですが、「坊」という語尾が同じなので、語呂合わせでいつの間にか結びついたのでしょう。

原型の「当たり前」は労働報酬、それこそもらってアタリメエ、という分け前のこと。

「あたりき」は、少し乱暴な職人言葉で、「あたりきしゃりき」とも。これは、擂粉木の意味の「あたりぎ(当たり木)」と掛けて洒落たものです。

蛇足ですが、江戸初期に兵法家にして新当流槍術の達人、阿多棒庵(あた ぼうあん)なる者あり、この人は剣豪・柳生兵庫助利厳に槍術の印可を授けた、いわば師匠ですが、この名を最初に耳にしたとき、これはてっきり「あたぼうあんが強えのは、あったぼうだべら棒め」という洒落が語源ではないかと思い、ほうぼう調べてはみたものの、残念ながらいまだ、そんな資料は探し出せていません。

「八百ぐれえあたぼうてんだ」
「なんだい、あたぼうてえなあ」
「江戸っ子でえ。あたりめえだ、べらぼうめなんかいってりゃあ、日のみじけえ時分にゃあ日が暮れちまうぜ。だから、つめてあたぼうでえ」

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唐茶屋 からぢゃや 演目

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ガリバーのような稀有壮大な作り話です。

【あらすじ】

お調子者の総兵衛が隠居の家で「朝比奈島巡り」という絵草子を見せられる。

小人国、大人国、一つ目の国など、珍しい国が数ある中で、女島というのは、女ばかり産まれて男は一人もいないというので、総兵衛にわかに身を乗り出し
「でも、男と女が蒸さなけりゃ、子ができないでしょう」
「それができる。女島の女は朝、浜辺に立って『日本の男風日本の男風』と三べん招くと東風が吹いてきて、それが女の前に入って子ができる。子供は風の子といって」

からかわれているようだが、総兵衛、それでも女島に行ってみたくてたまらなくなり、つてを頼って外国船に乗せてもらい、密航同然に航海に出発。

途中、小人国で殿さまをつまみ上げてからかったり、大人国では逆につまみ上げられて宿屋に着くとそこの子供にキーホルダーにされかかったりしながら、着いたところが、唐人の国。

向こうから髭を生やした人が来るので、聞いてみると、日本人だという。

十年前、嵐でここに漂流してきて、今では商人となっているとやら。

同国人は懐かしいと大歓迎し、なんと吉原に連れていってくれた。

大門から仲の町から全部あって、案内されたのが碧妙館という引手茶屋。

芸者を呼ぶが、中国語なので言葉が通じない。

男に通訳してもらいながら、いよいよお陽気に騒ごうということになり、お座付きに端唄に三下がり、幇間が
「チューチューペイウンホンチョイベー」
と踊る。

そのうち芸者が酔っぱらいだし、総兵衛が河東節をうなりだすと、女はみんな逃げた。

「それもそのはすだ。トラは河東(=加藤清正)が天敵だから」

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【しりたい】

長編冒険活劇の後半

後半の唐人国の部分が、本来の「唐茶屋」で、上方落語の長編スペクタクル「万国島めぐり」の後半です。「世界一周」参照。

あらすじは、六代目桂文治の明治30年(1897)9月の速記を基にしていますが、大人(巨人)国までは「島めぐり」そのものです。

「島めぐり」をひっくるめての原話は、小人国と大人国の部分が延宝8年(1680)刊『噺物語』中の「大風に逢し舟の咄し」で安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「島」も類話です。

それ以前にも、室町時代の『お伽草子』に「御曹司島わたり」のような島めぐりものが広く存在しました。

このテーマで、平賀源内(=風来山人)が辻講釈師が女護が島へ渡る「風流志道軒伝」(宝暦13年=1763)を執筆。

これも原話の一つと見られます。

実録・朝比奈

ここにいう朝比奈は、朝比奈義秀(生没年不詳)がモデルです。

義秀は鎌倉期の武将で、和田義盛の四男。豪遊をもって知られ、建暦3年(1213)、父にしたがって反乱(和田合戦)に従軍。

獅子奮迅の働きを見せたあと、行方知れずになりました。一説には朝鮮に渡ったともいいます。

豪傑の典型として、狂言「朝比奈」のほか、歌舞伎(「寿曽我対面」ほか)や浄瑠璃などにその架空の冒険が描かれました。

トラと加藤

加藤清正の虎退治伝説をオチにしたものです。清正は神(清正公=セイショウコウ)に祀られ、江戸時代には最も親しまれた英雄でした。「清正公酒屋」参照。

清正は豊臣恩顧の武将で、徳川幕府にとっては目の上のタンコブだったはず。事実、その死後、嫡男忠広の代、寛永9年(1632)に加藤家は肥後五十二万石からなんと出羽庄内一万石に飛ばされ、事実上のお取りつぶしです。清正自身は最後まで表面上は家康に忠実で、関が原役にも東軍として参戦の事実がありますから、幕府もその神格化を黙認するほかなかったのでしょう。

清正公信仰

清正は母親の影響で日蓮宗の熱心な信者でした。高輪の清正公さま=禅林寺も日蓮宗の寺院です。日蓮宗の寺院で加藤清正を祀っていたりしていました。祀るということは、加藤清正を神さまにして祈ることです。明治の神仏分離令で、日蓮宗の宗旨と加藤清正を神さまにあがめることとは分けなくてはならなくなりました。寺院と加藤神社に分けたのです。

そうはいっても、日蓮宗寺院でも清正公信仰は連綿と生きています。

浜町の清正公寺。ここも日蓮宗の寺です。ここは、熊本細川藩の下屋敷跡で、熊本本妙寺の別院です。文久元年(1861)に、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、清正公を祀っていましたが、維新後には一時加藤神社と称したとのことです。明治18年(1885)には仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺(日蓮宗)に委託して本妙寺別院となりました。

トージン

江戸時代にはヨーロッパ人も中国人も韓人も日本人以外はひっくるめてすべて唐人。これは当時、「唐、天竺」が外国のすべてを象徴していたのと同じ理屈です。唐人のケツで「空っケツ」という下らない洒落も残っています。

映画『幕末太陽伝』(日活、1957年)で、品川遊郭へエロ本のセールスに来た貸本屋の金蔵(小沢昭一)が「今度は唐人のアレをね」と、いやらしそうな笑みを浮かべていたのが印象的です。

東西の演者

東京の「唐茶屋」は昭和初期に八代目桂文治と三代目三遊亭金馬が演じ、それぞれSPレコードに吹き込んでいます。上方の方は、「島巡り」と題した桂文紅が唯一CD化されました。艶笑落語のオムニバスの一編として、小咄的に女護島のくだりを演じた程度です。

朝比奈島めぐり

「実録・朝比奈」と前後してしまいましたが、総兵衛の憧れをかきたてる「朝比奈島巡り」とは、滝沢(曲亭)馬琴(1767-1848)作の読本「朝夷奈巡島記」のことです。

文化12年(1815)から文政10年(1827)まで、12年かけて刊行されました。未完に終わったのを、のちに松亭金水が書き継いで完成させましたが、結局題名とは裏腹に島めぐりの場面まで書かれずに終わっています。

これの種本は古浄瑠璃の「あさいなしまめぐり」。島めぐりのくだりがないのに、この噺で女護島や航海の場面があるのは変ですが、ナニ、落語なんぞ元からいい加減なものです。

あるいは、隠居はこの種本を含め、そういう場面がある浄瑠璃本を見せたのかも知れません。

まさか、「ガリバー」を読んだわけではないでしょうが。

【語の読みと注】
朝夷奈巡島記 あさいなしまめぐりのき

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「落語ディーパー!~東出・一之輔の噺のはなし~」は、落語マニアの俳優、東出昌大の名ゼリフ「これを知らなきゃもったいない」で始まる落語番組。Eテレで。

彼と一之輔、さらに若手落語家たちが、名人上手の映像や音源から一つのネタについて語り合う、芸談中心で構成されている、一風変わったプログラムです。管見ながら、入門、初級コースをうろうろしている落語ファンのために、Eテレが放った「落語中級ファン促成番組」といえる福音です。

これまでの放送は不定期で気まぐれなのでゲリラっぽくて。これからの放送時間もよくわかりません。2019年は「いだてん」のからみで、あるいは、円朝生誕180年もからんで、ちょっと変わったスペシャルもありました。これまでの放送分は以下の通りです。

2017年
7月31日(月) 目黒のさんま
8月7日(月) あたま山 柳家花緑
8月21日(月) お菊の皿
8月28日(月) 大工調べ
2018年
5月6日(日) 地獄八景亡者戯 五代目桂米団治 上方SP
9月3日(月) 明烏
9月10日(月) 鼠穴
9月17日(月) 粗忽長屋
9月24日(月) 居残り佐平次
2019年
1月2日(水) 春風亭昇太 新作SP 吉笑も
3月4日(月) 長屋の花見
3月11日(月) 真田小僧
3月25日(月) 風呂敷 古今亭菊之丞 志ん生SP
3月26日(火) 火焔太鼓 古今亭菊之丞 志ん生SP
9月2日(月) 牡丹燈籠お札さがし 柳家喬太郎 円朝SP
9月9日(月) 死神 柳家喬太郎 円朝SP
9月16日(月) 船徳 
9月23日(月) 時そば
9月30日(月) わさび、小痴楽真打ち昇進SP(古木優)

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雷飛行 かみなりひこう 演目

★auひかり★

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

今のところ二代目今輔しかやってない、奇妙奇天烈な珍品です。

【あらすじ】

ころは大正。

なじみの芸者を連れて日光へ遊びにきた男。

ふと好奇心がわいて、芸者を先に東京に帰すと、一人で山奥まで足を踏み入れた。

ところが、慣れない山奥で案の定道に迷い、日も暮れたので困っていると、遠くに人家の灯。

「これはありがたい、一晩泊めてもらおう」
と近づくと、なんと、りっぱなお屋敷。

「はて、こんな所に」
といぶかしがりながら案内を乞うと、取り次ぎに出てきた男
「きさま人間か」

よくよく見ると、素っ裸の虎の革の褌。

ここは日光屋雷右衛門という、雷の元締めの屋敷だったから、男は仰天。

とにかく、中に入れてもらうと、貫禄十分の雷が、座敷で酒をのんでいる。

横を見ると、天人のように美しい娘が一人。

雷右衛門の一人娘で、名前は稲妻とか。

一目惚れした男、娘に酌をしてもらい、あれこれお世辞を並べているうちに、娘もまんざらでなさそうで、いつしか二人は深い仲になった。

実は、例の芸者とも、もう夫婦約束をしてあるのだが、そんなことはきれいに忘れ、ずるずると娘といちゃついて二日、三日と過ぎるうち、とうに二人の仲を悟った雷親父
「オレも野暮なこたあ言わねえ。ただ、こうなったら、家の養子になってもらおう」

もとより惚れた仲、二つ返事で承知したが、先方にはまだ条件がある。

「養子になるんなら、やっぱり雷にならなくちゃあいけねえ」
「へえ、人間でも雷になれますか?」
「そりゃあ、修業しだいよ」

というわけで、雷学校に入って勉強する羽目になった。

東京から来たから、東雷と名を変えて、一心に修行に励むうち、まだ成績が足りないが、元締めの養子だから卒業させてやってよかろうということになり、いよいよ卒業飛行の日。

先生が、
「おい東雷。うっかりすると雲を踏み外して落っこちるから注意しろよ。太鼓のたたき方でスピードが変わるから、むやみにたたいたり低空飛行をするな。それから、てめえは助平だから、飛行中に下界の女なんぞ見ちゃあならねえ。必ず墜落するから」

こまごまと注意され、いよいよ雲に乗って出発。

針路を南に取って、ピカリピカリと稲妻を光らせながら進むうち、いつしか東京上空へ。

浅草あたりに来かかると、実によく下界が見える。

ひょいと見ると、前の婚約者の芸者が、やらずの雷というやつで、男としっかり抱きあっている。

「こら、あんまりそばへ寄るな。私は雷は虫が好かないんです、だって。ばかにしてやがる。一番脅かしてやろう」

焼き餅半分、ゴロゴロガラガラとあんまり電気を強くしたものだから、東雷、あえなく雲を踏み外して墜落。

「あー、恥ずかしい。落第(=落雷)だ」

底本:三代目古今亭今輔

★auひかり★

【しりたい】

大正後期の新作

大正10年(1921)3月の『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1924年没)の速記が、唯一の資料です。

もちろん、ネタ元と思われる笑話などもなく、第一次世界大戦前後の「飛行機ブーム」を当て込んだ新作と思われます。

今輔自身の創作かもしれませんが、これもはっきりしません。

同じ月の『文藝倶楽部』には、これもやがて文明の花形となる自動車を題材にした「自動車の蒲団」(二代目三遊亭金馬・演)の速記もあり、科学文明の時代に突入していく「大正新時代」の世相がしのばれます。

「際物」の宿命として、当然ながら今輔以来、今日まで手掛けた演者はありません。

雷の登場する噺

雷の噺としては「雷の子」「へその下(艶笑)」「雷夕立」などがありますが、いずれも小咄程度で、古典落語では長編は見当たりません。

雷学校

昇学校から宙学、雷学校と、もちろんすべてダジャレ。くすぐりもほとんどダジャレを並べただけです。

たとえば、雷学校で、東雷が教授に質問。

「あそこで勉強しないで遊んでいるのは?」
「フーライ(=風来坊)だ」
「頭を抑えていやな顔をしているのがいます」
「あれはキライ(=嫌い)じゃ」
「雲に乗って行ったり来たりしているのは?」
「オーライ(=往来)」

こんな調子です。東雷先生の本名は中山行夫。本職は会社員としてありますが、これだけはダジャレではなさそうです。

【語の読みと注】
褌 ふんどし

★auひかり★

【おおあくび 001.2019/08/03】 古木優

中世といいますか、戦国時代といいますか、そこらへんがおもしろくて。

たとえば、斎藤道三。

この人は、僧侶から油売りを経て美濃を奪った梟雄であるかのように語られてきました。司馬遼太郎の『国盗り物語』でもそんなふうに描かれています。

最近の研究では、僧侶から油売りを経て美濃の守護、土岐家の家臣になったところまでは道三の父親で、土岐家を追い出して一国一城の主にのし上がったのが息子の道三だった、とのこと。二世代にわたる異業績だったわけなんですね。

「まむし」とあだ名された人物のイメージもちょっと変わります。乗っ取りの英才教育を授かったお坊ちゃん、というところでしょうか。

もひとつ、鉄砲伝来も。

1543年(天文12)に種子島に漂着したポルトガル人が持ってきて、領主の種子島時堯に2丁売った。これが鉄砲伝来だ。なんていうような話に納得していました。

でも、鉄砲は、その前すでに倭寇なんかが九州地方に持ち込んでいたことが最新の研究でわかっているそうです。

南蛮船と呼ばれていたポルトガル人の船(じつはマラッカやルソンの人たちのほうが多かった)も、当時の日本は別に鎖国していたわけでもないし中央のコントロールが機能していなかったので、日本のどこに寄港しても不思議ではありませんでした。関東や奥州の国人・地侍などが鉄砲を手にすることだってありだったのです。

鉄砲が軍制に組み込まれたのは、関東以北では1570年(元亀元)以降とされているのですが、いずれ新事実が明らかとなって、この通説も覆されるかもしれません。いやいや、もうすでに。

さらに、落ち武者の流亡。

西国の某城で忠勤に励みながらも戦いに敗れて、命からがら逃れた果てが東国、またはみちのく。

この地方は元来穏やかで、いろんな面で遅れていました。だから、落ち武者たちはなにかと有用だったのです。鉄砲の扱い方を伝えたのはこの手の人たちでした。

と、この人たちが東国やみちのくで増えていくと、いくさはまるで西国落ち武者同士の傭兵戦争となって、次第に激しさを増していくのです。これまで見たこともない戦法なんか使ったりして。あるいは、西国では見果てぬ夢だった思いが東国で実現できたりしたわけ。東漸です。

日本国内には「〇〇千軒」という古地名がいくつか残されています。

広島県福山市の「草戸千軒」がもっとも有名でしょうか。ここでいう「千軒」とは「栄えた町」くらいの意味なのでしょう。今はさびれてしまったけれど、昔は栄えていたのだ、というようなニュアンスが込められているようです。滅びてしまった理由はたいてい洪水や津波など天変地異によるもの。今となってはふるさと自慢の素材のひとつというのが物悲しさを漂わせます。

ただ、「〇〇千軒」に共通するものがいくつかあります。

鉱山と港。近くの山で採れた金銀を海上交通を使ってどこかに運んだ、ということなのでしょうか。買い手がいたのですね。どこの誰にでしょうか。モノばかりか、ヒトも運ばれていったのかもしれません。毎日必ずどこかで殺し合いがあった戦国時代も、ちょっと見方を変えると別な世界がみえてくるかもしれません。夢はふくらみますね。千軒と千字寄席。これはただの偶然ですが。

こんなふうに、これまで戦国時代の常識とされてきたことが少しずつ剥がされていきなんでもありなのが戦国時代だ、という認識が今日広まりつつあるようです。

ひるがえって、落語。これはどうでしょうか。

落語史は戦国史と違って、ごく一部の真摯で優れた方々を除けば、いまだにまともな研究者や評論家がいません。戦国史は多くの大学で学べても、落語史を学べる大学はあまりありません。あったとしても、なにかの片手間か気まぐれです。

落語評論なる文章も、先学諸兄の孫引きが目立って、当人は元が間違っていることにも気づかずにさらしたりしているようで。それを誰もなにも言わずに放置の状態、なんていうことを見かけます。われわれもその過ちを犯してきたのかもしれません。

どうにも曖昧模糊、なんだかなあ、いまだ霧の中にたたずんでいるのが落語史の研究。千鳥足の風情です。

いずれ誰かが全体を明らかにしてくれるのだろうと心待ちにしていましたが、いつまで待ってもあまり変わり映えしそうもありません。

そんなこんなで、こちらの持ち時間もじわじわとさびしくなってきた昨今、ここはもう知りたいことは自分でやるしかないかとばかり、心を入れ替え気合を込めてじわじわがつがつと落語について読み込んでいこうと覚悟を決めたというところです。落語も戦国時代のような状態なのかもしれません。

われわれは、落語というものを、芸能史の流れ、つまり、口承、唱導、説教、話芸といった一連のたゆたい、舌耕芸態として見つめていきたいのです。

落語は聴いて笑うもので調べるものではない、などと言っている人がいます。たしかに、落語研究などとは野暮の骨頂なのかもしれません。ある種の人たちには「笑い」を肩ひじ張って「研究」するなんてこっぱずかしいなりわいなのでしょう。

それでも、たとえば、三遊亭円朝が晩年、臨済宗から日蓮宗に改宗したことの意味を、われわれはやはりもう少し深く知りたいものです。そうすれば、いま残された42の作品の位置づけや意味づけも少し変わってくるかもしれませんし。

世間もわれわれも、なんであんなに「円朝」なるものを仰ぎ見ているのか。その不思議のわけを知りたいものです。

もひとつ。明治時代の寄席のありさま。

「寄席改良案」といったものが当時、しょっちゅう新聞ダネになっています。

「町内ごとに寄席はあったもんだ」なんて、まるで見てきたようなことを言っている人がいますが、どうなんでしょうか。

あるにはあったようですが、場末の端席と一流どころの定席では同じ「寄席」でくくるにはあまりにも不釣り合いなほどに異空間だったように思えます。それはもちろん、今日、私たちが知る鈴本演芸場や新宿末広亭のようなあしらいの寄席とはおそろしく異なるイメージの空間でもあったようなのです。

寄席で終日待ってても落語家が一人も来なかった、なんていう端席は普通にあったようです。同席する客は褌一丁で上ははだけたかっこうの酒臭い車引きやひげもじゃ博労の連中がごろごろにょろにょろ。床にひっくるかえっては時間をつぶし、あたら品ない世間話に花が咲く町内の集会所のようなものだったのでしょう。

これでは、良家の子女は近づきません。まともな東京人は来ないわけです。

歌舞伎に客を取られてはならじと、寄席や落語家の幹部連中はなんとかせねばとうずうずしていたのが、明治中期頃までの寄席の実態だったようです。

だからなんだ、と言われればそれまでなんですが。

うーん、それでも、やっぱり、どうしてもそういうところを深く知りたい。

たとえば「藪入り」。なんであんなヘンな噺が残っているのだろう。そこには、当時の寄席の雰囲気を知ると見えてくるものがあるんじゃないだろうか、なんて思うわけです。

見たり聴いたり、五感を刺激される体験をしてみると、それをまた違った形でもいちど味わってみたいという欲求にかられるのも人のさが。そんな人種もたまにはいるのです。

これを機会に、おぼろげでかそけき落語研究の世界について、テキストをしっかり読み込むことで、くっきり視界をさだめていこうと思っています。

いまとなっては、われわれには仰ぐべき師匠も依るべとなる先達もいません。だから時間がかかります。それでも、手探りながらも地道に少しずつ前に進んでいきたいと思います。ご叱正、ご助言あれば、すこぶる幸い。お暇な方は、どうぞおつきあいください。

なげし【長押】ことば

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

柱と柱を水平方向にむすぶ横材。

鴨居の上、敷居の下などで使われます。日本建築特有のものです。

長押の槍を小脇にかいこみ、ツカツカツカッ。

野ざらし

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もやう【舫う】ことば

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船を岸につなぎとめておくこと。

おい、なにやってんだよ。船がまだ舫ってあるじゃねえか。

船徳

「舫い」という名詞の場合は、「船と船、船と岸をつなぐ綱」をいいます。

そこから、「舫い遣い」ということばが生じて、「二人で一人をつかう」、「共用する」意味に。となると、「舫う」も「共用する」意に。「船縄」を「もやい」と読んだりもします。

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剃刀 かみそり 演目

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めったに聴けない珍品です。

別題:坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上経った「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵、俗に品川の円蔵の大正4年(1915)の速記が残されています。

戦後では「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌が時々演じ、特に志ん生は短い郭噺として好んで取り上げたようです。本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。ただし、こちらの吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、江戸でいうと「お直し」に登場する羅生門河岸の「蹴転」というところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌して帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようで。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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釜泥 かまどろ 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

泥棒の噺。なんだかのんきでほのぼのしてますねえ。

別題:釜盗人(上方噺)

【あらすじ】

大泥棒、石川五右衛門の手下で、六出無四郎と腹野九郎平という二人組。

親分が釜ゆでになったというので、放っておけば今に捕まって、こちとらも天ぷらにされてしまう、と心配になった。

そこで、親分の追善と将来の予防を兼ね、世の中にある釜という釜を全部盗み出し、片っ端からぶちこわしちまおうと妙な計画を立てた。

さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋だから、そこからとりかかろうと相談がまとまる。

間もなく、豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを盗んでいく盗賊が世間の評判になる。

なにしろ新しい釜を仕入れても、そのそばからかっさらわれるのだから、業界は大騒ぎ。

ある小さな豆腐屋。

じいさんとばあさんの二人きりで、ごく慎ましく商売をしている。

この店でも、のべつ釜を盗まれるので、じいさんは頭を悩ませている。

なにか盗難防止のいい工夫はないかと相談した結果、じいさんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。

ところが、いい心持ちになり過ぎて、すぐに釜の中で高いびき。

ばあさんもとっくに船をこいでいる。

と、そこに現れたのが、例の二人組。

この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。

「ばかに重いな」
「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」

せっせと担ぎ出すと、釜の中の爺さんが目を覚まして
「ばあさん、寝ちゃあいけないよ」

泥棒二人が変に思っていると、また釜の中から
「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」

さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。

釜が大揺れになって、じいさんはびっくりして
「婆さん、地震か」

その声に二人はがまんしきれず、そっと下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。

「ウワァー」
と叫ぶと、なにもかもおっぽり出して、泥棒は一目散。

一方、じいさん。

まだ本当には目が覚めず、相変わらず
「婆さん、オイ、地震だ」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。

やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。

「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」

底本:六代目朝寝坊むらく

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【しりたい】

諺を地でいった噺

古くから、油断して失敗する意味で「月夜に釜を抜かれる」という諺があります。大元をたどれば、この噺は、この諺を前提に作られたと思われます。

寛延4年(1751)刊『開口新語』中の漢文体の笑話が原型ですが、直接の原話は安永2年(1773)刊の笑話本『近目貫』中の「大釜」です。

原話では、入られるのは味噌屋で、最初に強盗一人が押し入り、家財はおろか夜具まで一切合財とっていかれて、おやじがしかたなく、大豆を煮る大釜の中で寝ていると、味をしめた盗人が図々しくも翌晩、また入ってきて……ということになります。オチは現行と同じです。

上方落語では「釜盗人」と題しますが、東京のものと、大筋で変わりはありません。

明治にできた噺

もともと、小咄やマクラ程度に軽く演じられていたものが、明治後期から一席噺となったものです。

明治34年(1901)8月、「文藝倶楽部」所載の六代目朝寝坊むらくの速記がもっとも古く、現行のやり方は、オチも含めてほとんど、むらくの通りです。

同時代の大物では、四代目橘家円蔵の速記もあります。

戦後は、六代目春風亭柳橋、三代目三遊亭小円朝などが演じ、特に小円朝が得意にしていました。

小円朝は、釜ごと盗まれたじいさんが「おい、ばあさん」と夢うつつで呼ぶ声を、次第に大きくすることを工夫したという芸談を残しています。

現役では三遊亭円窓がよく手掛けています。

戦時中は禁演もどき

野村無名庵(1888-1945)の『落語通談』によれば、戦時中、時局に合わない禁演落語を定めた時、自粛検討会議の席で、泥棒噺にランクが付けられました。甲乙丙に分け、甲はまあお目こぼし、丙は最悪で無条件禁止。その結果、甲に「釜泥」「眼鏡屋」「穴泥」碁泥」「だくだく」「絵草紙屋」「探偵うどん」「熊坂」。

不道徳な部分を抹消すれば、という条件付きの乙に「出来心」「しめ込み」「夏泥」「芋俵」「つづら泥」「にかわ泥」「やかん泥」「もぐら泥」「崇禅寺馬場」、丙が「転宅」と決まったとか。泥棒に「不道徳」もヘチマもないでしょうが。

ところが、実際に設定され、「噺塚」に葬られた五十三種に、なんと泥棒噺は一つも入っていません。といっても、この五十三種は大半がエロ噺か不倫噺。「釜泥」など泥棒噺がその次のランクで、事実上「自粛」させられたことは間違いないでしょう。

禁演落語なんぞといっても、いいかげんなものです。

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金の味 かねのあじ 演目 

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

金属をなめる。緑青の、あの味。奇妙な嗜好をもった人の噺です。

別題:擬宝珠

【あらすじ】

日本橋あたりのご大家の若だんなが、三年越しの大病。跡取り息子なので両親も頭が痛い。

診てもらっても、医者は
「なにか心に思い詰めたことがかなえられれば治る」
と言うばかり。

そこでだんな、たまたまご機嫌伺いにまかり出た幇間の桜川長光に、
「礼ははずむから、せがれが思い悩んでいることを聞き出してほしい」
と頼んだ。

こいつはうまいと、さっそく若だんなにヨイショして聞き出そうとすると
「おまえ、あたしの願いをもし当てて見せたら、土地八百坪やるよ」
「へえ、鳥も通わぬ山奥で、三日目に虎に食われて死んじまうような所じゃあないでげしょうね」
「ばかァ言え、ちゃんとした神田の土地だよ」
「それじゃ、招魂社の鳥居を盗んでみたいとか」
「違うっ」

若だんなはおもむろに
「あたしの考えは深いことだから、おまえにはわかるまい、一緒においで」
と連れ出されのが、浅草寺の境内。

「おまえ、この二百円をやるから、頼みたいことがある。もし聞いて笑ったら、おまえと刺し違えて相果てるよ」
「物騒だね、こりゃ。なんです?」
「五重塔のてっぺんの、擬宝珠の青いところをなめてみたい」

思わず吹き出しかけた長光、若だんながピストルを出しかけたのであわてて、住職にこれこれと願い出ると、
「ウーン、唐土の莫耶という人が鉄の気を好んで、名剣を鍛えたという例もあるから、まんざらない話でもなかろう」
ということで許しが出た。

さっそく、鳶頭が出張して足場を組むという騒ぎで、境内は黒山の人だかり。

若だんな、勇んでてっぺんに登ると、ベロベロベロベロとうまそうになめるわ、なめるわ。

そこへ心配して駆けつけた両親、
「せがれは?」
「なめてらっしゃいます」
「こいつは驚いた。実はオレもばあさんも、擬宝珠が大好物なんだ。やっぱり血は争えねえなあ、ばあさん」
「あたしは、ニコライ堂のが一番おいしかったよ」
「神田橋のも京橋のもいけたなあ。めいめい味が変わっていて、いいや」

大変な一家があるものと、一同あきれていると、さすがに堪能したのか、若だんなが元気いっぱいになって下りてくる。

「おい、うまかったか」
「タクアンの味がしました」
「塩っ気が強かったか。タクアンの塩ならどのくらいだ。四升か五升か」
「いえ、六升(=緑青)の味がしました」

底本:初代三遊亭円遊

【RIZAP COOK】

【しりたい】

鋭い嗅覚 

もっとも古い原話は、元禄16年(1703)、大坂で刊行された初代米沢彦八の編著『軽口御前男』巻一「鼻自慢」という笑話です。くしくもこの年は赤穂浪士切腹の年です。

彦八(?-1714)は、初めて大坂生玉神社境内に葦簾ばりの小屋掛けで一席うかがった伝説の人で、上方落語の祖ともいえる存在です。

この「鼻自慢」は、題名からも推測されるようになめるのでなく、金物の匂いを嗅ぐのが好きな男の話。

男が四天王寺の塔の九輪を投石で打ち落とし、匂いをかいで、「三具足(仏前に置く花瓶、燭台、香炉)と同じ匂いだ」という、ごく当たり前なオチ。今なら文化財保護法違反で即御用です。

観音さま塩気足りず

その後、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「ねぶり好き」では、現行にだいぶ近づき、東寺の塔の九輪をなめたあと、「三条大橋の擬宝珠と同じ味だ」というご託宣。

さらに、安永2年(1773)刊『聞上手』中の「金物」になると、舞台は江戸になります。

現行通り、浅草五重塔の擬宝珠を味わって、「思ったほどうまくない。橋の擬宝珠から塩気を抜いたようなもんだな」という、ソムリエ顔負けの厳しい判定。これが、オチを除けば、東京版の直接の原型でしょう。上方落語の演出では、古くから東寺の塔をなめるのが普通です。

金属嗜好症

実態は不明です。類話に、お嬢さんが癪の薬にとヤカンをなめたがる「梅見の薬罐」がありますが、銅(もしくは鉄、錫)に一種の麻薬的効果があるのかどうか疑問です。

鉄なら、あるいはミネラル不足のため、体が無意識に要求するのかもしれませんが、銅に空気中の水分と二酸化炭素が付着して生じる「緑青」は明らかに猛毒のはずです。

毒と知って「逆療法」として用いたか、または、醤油の飲み比べなども行われた幕末デカダンの名残りなのでしょうか。

擬宝珠

ぎぼうしゅ。ぎぼうし。もともとはネギの花の別名であるため、これに似た形の、欄干の柱に付ける飾りをいいました。

擬宝珠のある橋は大橋で、日本橋など市街の中心部にしかないため、明治大正までは、東京の繁華街の寄席に出演できる一流の芸人を「擬宝珠の芸人」と称しました。

莫耶

古代中国、呉の刀工干将とその妻莫耶が、呉王(一説に楚王)の妃が鉄の精を宿して産んだ鉄塊を、夫婦協力して名剣に鍛えたという故事から「干将莫耶の剣」といいます。

この故事は、歌舞伎の時代狂言にはたびたび登場します。

たとえば「実盛物語」では、平清盛の魔手から源氏の源義賢の室・葵御前と遺児を守るため、実盛が、葵御前が人の腕を産んだと強弁。その先例として、長々とこの莫耶の剣の講釈をし、鉄の塊を出産したためしがあるのだから、腕が産まれるのも不思議ではないとマカフシギな論証で、敵方をケムに巻きます。

喬太郎の芸

この噺、明治期は初代三遊亭円遊(鼻の円遊)、大正に入って初代柳家小せんが得意としました。今回のあらすじでは、明治25年(1892)の円遊の速記を参考にしましたが、円遊はテリガラフ(テレグラフ=電信)、ステンショ、鹿鳴館など、文明開化の風俗をふんだんに取り入れています。

戦後は三代目三遊亭小円朝が演じました。

あまりやり手がありませんでしたが、2005年7月の「落語研究会」で柳家喬太郎が好演。主人公を思い切りヘンタイ的に演じ、この噺の新境地を開く、画期的な高座でした。今では「擬宝珠」といえば、喬太郎を連想してしまいます。

【語の読みと注】
幇間 たいこもち
招魂社 しょうこんしゃ:靖国神社
擬宝珠 ぎぼうしゅ
唐土 もろこし
莫耶 ばくや
癪 しゃく:胃けいれん

【RIZAP COOK】

落語の演目はいくつあるのか

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落語の演目数はいくつあるのか。

二千。

難しいですね。

東大落語会の『増補 落語事典』には八百超席でしたかね。

一般には五百ほどある、といわれていますが、誰も正確な数字を出せません。

千字寄席は四百五十席。これだけ。

志ん生の音源は百二十五ほどありましたかね。意外に多いんです。でも、ほんとにすごいのは二十ほどでしょう。その二十の中に入るかどうかは知りませんが、「後生鰻」なんか最高ですね。あとは、なんだかよくわかりません。でも、それはそれでおもしろかったりして。

文楽が六十八でしたっけ。高名になってからは三十席を死守してました。少ない。でも、どれもいつでもうならせられる珠玉の演目。これはこれですごい。磨き上げた芸です。とびきりおいしい中華料理店(たとえば六本木の中国飯店)は品数がそんなにありません。でも、その中のどれを頼んでもおいしい。文楽の芸はそんなかんじです。

志ん生と文楽ではスタンスが、まったく違ってました。

円生は三百席。どうでもよいですか。

スタジオ録音は資料にはあるでしょうが、あれは聴いててあんまりおもしろくありませんね。お客を前にして作った料理と試食の違い、みたいなもんでしょうかね。魂が入っていないし、落語はライブ感がどうしても必須です。芸なんですね。客が必要なんです。

円朝は四十二席こさえてます。

これは長講も入れての数です。しかも、やってるばかりか、つくってるわけです、この人は。誰もがこうべを垂れてしまいます。

晩年は、支離滅裂なのもあるし、はりまぜみたいなのもあるし。円朝作の名で世に出ていながら、そのじつ、条野採菊がつくったものだったり、河竹黙阿弥からもらったものだったりで。「心中時雨傘」はあやしい、なんていわれてますね。これはもう、近代における作り手と個人のありようと関係してきますね。ややこしいから、ここではやめときます。

まあ、落語は二百も知ったら、周りは仰天。マニアの域です。みなさん、そんなに知らない。せいぜい二十くらいでしょうか。

千字寄席をしっかり読み込んでいただければ、それはそうとうな落語通になれます。そこらへんの落語評論家が知らないことも記してたりしてますし。ほかのどこでも語られてない説も、たまには記してあります。これは保証できますよ。(古木優)

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絶品です。

応文一雅伝 おうぶみいちがでん 円朝

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【あらすじ】

1878年(明治11)春のこと。

旧幕時代に細工所御用達だった芝片門前の花房利一は、妻と死別、26歳になる一人娘のお重と二人暮らしである。

出遊びがちな父。お重は自分の結婚のことを考えてくれない父に常日頃不満を抱いている。

出入りの行商である、せり呉服屋の槙木巳之助が大店の子息で男振りもよいところから、お重は妻にしてもらおうかと誘惑する。

「人のいない所で話がしたい」と巳之助に持ちかけたところ、巳之助は知人で油絵師、応文一雅の下宿を借りることとなった。

愛宕下の木造三階。一雅の下宿で逢い引きする手はずとなった。

早めに行ったお重は、部屋にあった葡萄酒でほろ酔い気分となり、その勢いで、まだ見ぬ一雅あての謝辞を墨で壁に落書きして帰った。

二度目の逢い引き。

またも先に来てしまったお重は、一雅の机の中をのぞき見し、一雅あての許婚者からの手紙を読んだり、机にあった女性ものの指輪をはめたり。

一雅という人物の人となりに想像をめぐらす。一雅への興味以上の思いをいっそう募らせていった。

遅れてやってきた巳之助に「もう逢わないことにしましょう」と言って翻弄する。

帰宅して後、自分の指輪を一雅の部屋に置き忘れたのに気づいたお重は、はめたまま帰ってしまった指輪と自分のものとを取り換えてくれるよう、巳之助に頼み込む。

一雅に会いたい思いが募ったお重は、神谷縫に「一雅に肖像を描いてもらいなさい」と説得する。

お縫は、お重の土地を借りる借地人であり、お重の学校朋輩でもある。今年20歳になる。

お縫は叔父の神谷幸治と頼みに行き、一雅の下宿に数回通うことになった。

その後、お重は、「絵を頼みたい友人がいる」との手紙を書いて、お縫に出させる。真に受けた一雅はお重の家を訪れた。お重の指輪を見るや、巳之助の相手と知って腹を立てたまま帰る。

お重は策を練った。お縫に指輪を貸す約束をし、一雅を招くことに。

一雅の面前で、お重はお縫に指輪を返すお芝居をするが、それを見た一雅は、巳之助の相手がお縫だったかと驚く。

東京の人気の悪さに愛想の尽きた一雅。郷里の土浦に帰った。一雅から、巳之助との関係を記した謂れなき誹謗の手紙がお縫に届く。

お重の策略に引っかかったと知ったお縫は、叔父の神谷幸治に返信を書いてもらう。許嫁者が亡くなった一雅は上京し、再度同じ下宿を借りた。

お縫と幸治といっしょに花房家を訪れた一雅は、お重を責めたてた。

居合わせた花房利一は幸治とは昔からの知り合い。

幸治は「おまえが娘の聟を見つけようともせずに遊び歩っているからだ」と意見する。巳之助の父親で金貸しの四郎兵衛が、じつはもとの高木金作と知った幸治は、かつて金三千両を貸したことを語り、後日、四郎兵衛を訪ねる。

槙木四郎兵衛のもとを訪ねていった「神幸」こと神谷幸治は「貸した、借りていない」「訴える、訴えよ」とのやり取りの後、判証文もなく、たとえあったとしても昔貸した金はあきらめるが、その代わり、どこで逢っても拳骨一個うたれても苦情は言わないとの証文を「洒落だ」と言いつつもらうことになった。

その後、幸治は、銀座でも、横浜でも、四郎兵衛を見かけるたびに頭を殴るのだった。

一雅は、いったん故郷に戻ったが油絵の依頼人もなく、再度上京するが、困窮していた。

すると、一雅のもとに、使いを介して油絵の注文が続く。ある時、池上まで参詣するので「先生も図取りかたがたお出でください」との注文。

一雅が池上に向かうと、お高祖頭巾の女がいた。合乗の車で家まで送られ、金を渡された。翌日、その女から恋文が届いた。女の正体はお重だった。一雅はそこで初めて気づいた。

一雅は部屋の壁の落書を見るたびに、お重をいとう気持ちが強くなってきた。一雅は土浦に帰る。母が亡くなり葬儀を済ます。その後、上京したのは明治十二年九月十三日であった。

神谷幸治は墓参で、小石川全生庵を訪れた。

住職と話をしていると、出家志望の女がやってきた。幸治は隣の間に移される。住職は「あなたのような美しい人には道心は通じません」と言って、了然尼の故事を聴かせる。女はあきらめて立ち去った。

帰り際、幸治が寺の井戸に飛び込もうとしていた女を助けた。出家志望の女で、お重だった。

お重は、お縫と一雅、廃嫡となった巳之助への詫び言を述べた。

巳之助と添う気があるならと、神谷幸治は一計を案じ、お重に書き置きをしたためさせた。四郎兵衛を訪ねた幸治は、書き置きを見せた。

四郎兵衛が巳之助の廃嫡を許してお重と結ばせるなら、先の証文は返し、お縫と一雅とを夫婦にしてやりたい、と言う。

得心する四郎兵衛。幸治に金を返して仲人を頼んだ。

巳之助とお重、一雅とお縫、二組が婚礼を挙げた。

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【しりたい】

了然尼

りょうねんに。そういう名前の尼さんが、江戸時代にいたそうです。有名な故事が伝わっています。以下の通り。

 了然尼は正保3年(1646)に葛山長次郎の娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京の泉涌寺前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌、書に優れたふさは宮中の東福門院に仕え、宿木と称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆と結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪、名を了然元総尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁和尚に入門を懇請したが、美貌のゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮の偈(漢詩)を賦し、和歌「いける世に すててやく身や うからまし 終の薪と おもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病に臥すようになり、天和2年(1682)7月3日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま入寂した。4年後、47歳で上落合村に泰雲寺を創建。正徳元年(1711)7月3日、白翁道泰和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は2か月後の9月18日66歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌が安置され、寺宝として朱塗の牡丹模様のある飯櫃、葵の紋が画かれた杓子、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持があった。そして、宝暦12年(1762)3月、十代将軍家治のこのあたりへの鷹狩りに御膳所となり、以後しばしば御膳所になったという。明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台3丁目の瑞聖寺に併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。寺の門および額「泰 雲」は現在目黒区下目黒3丁目の海福寺にあり、特に四脚門は目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺がりっぱな寺であったことがわかる。
 では泰雲寺は上落合のどのあたりにあったのか。所在を示す正確な地図は見つかっていない。そこで『明治四十三年地籍図』(寺域は分譲)を頼りに推定した。戦後、下水処理場が設けられたために八幡通り(下落合駅から早稲田通りへの道))が大幅に西側に寄せられ、旧地形をとどめていないが、上落合1、竜海寺あたりを西北角とし、南は野球場に通じる高架道、東は落合中央公園高台西端にあたり、境内2700坪の3分の2以上が八幡通りと下水処理場になっている。(新宿区教育委員会から引用)

平安時代までの仏教では、仏が救いの対象にしていたのは男でした。しかも、身分のある。どうも、これはヘンだと気づいたのが、鎌倉時代の革新的な立宗者たち。法華経には女性の救済が記されているそうで、男女差別もないといわれています。法華経を唯一の経典としたのが日蓮。日蓮宗は早い時期から女性の救済をうたってました。了然尼も日蓮宗に赴けばよかったのかもしれません。スタートの選択を誤るととんでもないことになる、という教訓でしょうか。

この話は、本人の強い決意を表現しているわけでして、そうなると、落語家を志した青年が何度断られてもめざす師匠の楽屋入り口にかそけくたたずむ風情に似ています。仏門ではよくある話です。身体を傷つけることに軸足があるのではなく、二度と戻らないぞ、という強くて激しい本人の志に軸足があるのです。

となると、慧可が出てきます。 インド僧の達磨を知って尋ねたのですが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、自身のひじを切断してその強い思いを示しました。達磨は入門を許可。これはのちに水墨画での「慧可断臂」という画題となりました。座禅している達磨におのれの切り取った左ひじを見せる絵をどこかで見かけたことはありませんか。それです。 了然尼の故事もこれに似ています。故事は繰り返されます。物語はそんなところから醸成されるのでしょう。

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正月ネタの噺ですが、縁起でもないことばばっかりが出てきます。

【あらすじ】

呉服屋の五兵衛だんなは、大変な縁起かつぎ。

元旦早々、番頭始め店の者に、
「元旦から仏頂面をしていては縁起がよくない」
「二日の掃き初めが済まないうちに、箒に触るのはゲンが悪い」
などと、うるさく説教してまわるうち、飯炊きの作蔵がのっそりと現れた。

「魔除けのまじないになるから、井戸神さまに橙を供えてこい」
と、言いつける。

「ただ供えるんじゃない。歌を添えるんだ。『新玉の 年立ち返る あしたには 若柳水を 汲みそめにけり、これはわざとお年玉』。いいか」

間もなく、店中で雑煮を祝う。

そこへ作蔵が戻ってきた。

「ご苦労。橙を供えてきたか」
「りっぱにやってきたでがす」
「なんと言った」
「目の玉の でんぐりげえる 明日には 末期の水を 汲みそめにけり、これはわざとお入魂」
「ばか野郎」

ケチを付けられて、だんなはカンカン。

そこで手代が、餅の中から折れ釘が出てきたのは、金物だけに金がたまるしるしと、おべんちゃら。

作蔵が、またしゃしゃり出た。

「そうでねえ。身上を持ちかねるというこんだ」

そうこうするうち、年始客が来だしたので、だんな自ら、書き初めのつもりで記帳する。

伊勢屋の久兵衛というと長いからイセキュウというように、縮めて読み上げるよう言いつけたはいいが、アブク、シブト(=死人)、ユカンなど、縁起でもない名ばかり。

それぞれ、油屋久兵衛、渋屋藤兵衛、湯屋勘兵衛を縮めたものだから、怒るに怒れない。

そこへ現れたのが、町内の皮肉屋、次郎兵衛。

ここのだんながゲンかつぎだから、一つ縁起の悪いことを並べ立て、嫌がらせをしてやろうという趣向。

案の定、友達が首をくくって死んだので弔いの帰りだの、だんながいないようだが、元旦早々おかくれになったのは気の毒だだのと、好き放題に言った挙げ句、
「いずれ湯灌場で会いましょう。はい、さようなら」

だんなはとうとう寝込んでしまう。

なお悪いことに、ゲン直しに呼んだはずの宝船絵売りが、値段を聞くと一枚シ文、百枚シ百文と、シばかりを並べるので、いらないと断ると、
「あなたの所で買ってくれなきゃ、一家で路頭に迷うから、今夜こちらの軒先を借りて首をくくるから、そう思いねえ」
と脅かされて、踏んだり蹴ったり。

次に、また別の宝船屋。

今度は、いろいろ聞くと家が長者町、名は鶴吉、子供の名は松次郎にお竹と、うって変わって縁起がいいので、だんなは大喜び。

たっぷり祝儀をはずむ。

「えー、ごちそうに相なりまして、お礼におめでたい洒落を」
「うん、それは?」
「ご当家を七福神に見立てましょう。だんなのあなたが大黒柱で大黒様、お嬢さまはお美しいので弁天さま」
「うまいねえ、それから?」
「それで七福神で」
「なぜ?」
「あとは、お店が呉服(五福)屋さんですから」

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【しりたい】

原話は多数

極端な縁起かつぎをからかった笑話は、各地の民話にも数多く残されていますが、笑話集で最古とみられる原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一の「祝ひ過ぎるも異なもの」と題した一連の小咄とみられます。

この章は23話からなり、ほとんどがこの噺のプロット通り、主人公がせっかく縁起をかついでいるのに、無神経な連中に逆に縁起の悪いことばかり並べられて全部ぶち壊しになってしまうパターンです。

古くは、三遊亭円朝の速記もあります。

明治22年(1889)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記では「かつぎや五平」と題していますが、これは、「御幣かつぎ(=縁起かつぎ)」のシャレでしょう。

上方では丁稚が悪役

上方版の「正月丁稚」では、丁稚の定吉が不吉なことを並べる役で、後半は、番頭始め店の者がゲン直しに「裏を閉めて、裏閉め(=浦島)太郎は八千歳」など、厄払いのダジャレを並べます。

オチは定吉が、布団を出して「夜具(=厄)払いましょう」と言うもので、古い江戸落語の「厄払い」の類話にもなっています。

上方落語では、だんなが愛人にしている芸者の縁起かつぎをからかって、正月早々不吉なことばかり並べる「けんげしゃ茶屋」もあります。

古風な噺で、先代の桂文枝が絶品でしたが、「けんげしゃ」は京ことばで「かつぎや」と同じです。

元日は掃除は禁物?

江戸には古くから、元旦には箒を持たない(=掃除をしない)慣習がありました。

明和2年(1765)刊の『川柳評万句合勝句刷』に「箒持つ 下女は叱られ はじめをし」とあります。

このタブーのいわれはは不明確ですが、箒を逆さに立てて手拭いを被せ、客を早く帰らせるまじないがあったので、あるいは箒の呪力により、福の神を追い払ってしまうことを恐れたからかもしれません。

若柳水

わかやぎみず。若水ともいい、旧年の邪気を取り除き、人を若返らせる願いをこめた習慣です。

虫除け

むしよけ。腹痛を防ぐまじない。「わざと」は「心ばかりの」の意味です。

宝船の絵

正月になると、宝船売りが、七福神の乗った船の図に、廻文歌「長き夜の とをのねぶりの 皆目覚め 波のりぶねの 音のよきかな」を書き添えた刷り物を売り歩きました。上から読んでも下から読んでも同じですね。

正月二日の夜、これを枕の下に引き、吉夢の初夢を見るようにとのまじないでした。

歌舞伎「松浦の太鼓」で、吉良邸討ち入り前夜、すす竹売りに身をやつした大高源吾(俳名子葉)が俳句の師宝井其角に出会い、其角の「年の瀬や 水の流れと 人の身は」という前句に「明日待たるる その宝船」と付け、密かに決意を披露する場があります。

類話「しの字ぎらい」

同じ題材を扱った噺に、隠居が、「死」につながるというので「し」のつく言葉を使うことを下男に禁止する類話「しの字ぎらい」がありますが、これは、「かつぎや」の噺のマクラ及び最初の宝船屋とのくだりを独立、ふくらませたものと考えられます。

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でんぽう【伝法】ことば

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江戸っ子の美学の一つで、粋、いなせ、勇み肌と似たニュアンスですが、実際は鉄火と同じく、もう少し荒々しいイメージです。

明治初期では、江戸っ子の権化のような名優・五代目尾上菊五郎の芸風・セリフ廻しがそのお手本とされました。普通に「伝法」と言う場合は、主に口調を指す場合が多く、男女を問わず「伝法な言い回し」といえば、かなり乱暴で、なおかつ早口なタンカをまくし立てること。

女の場合は、一人称に「おれ」を用い、男言葉を使う鳶の者の女房などが典型です。

以上までは、まあまあ肯定的な意味合いですが、「伝法」の元の意は、浅草の伝法院の寺男たちが、寺の権威をかさに着て乱暴狼藉、境内の飲食店で無銭飲食し放題、芝居小屋も強引に木戸を破って片っ端からタダ見と、悪事のかぎりを尽くしたことから、アウトロー、無法者の代名詞となったもの。

間違っても美学のかけらもない語彙でした。それが幕末になって、この「伝法者」の粗暴な言葉遣いが、芝居などでちょっと粋がって使われるようになってから、語のイメージがかなり変質したのでしょう。

いずれにしても、歴史ある名刹にとっては、迷惑このうえない言葉ですね。

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どさくさ【どさくさ】ことば

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「どさくさまぎれ」と、連語でもよく使います。

場が混乱し、てんやわんやの状態を指し、それに紛れて悪事を行うニュアンスが、現代では定着しています。

語源としては、「どさ」は「咄嗟(とっさ)」の転訛とされます。

瞬間的に混乱状態が持ち上がる、という意味でしょうか。その場合「くさ」は意味がなく、ただの語呂合わせでしょう。

「どさ」は、江戸時代に佐渡金山の強制労働に送り込むため、博徒や無宿人狩りを頻繁に行ったため、その騒ぎと混乱から、「さど」を倒語にして「どさ」と使われたという説もありますが、どうもこじつけめいて、しっくりきません。

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てつめんぴ【鉄面皮】ことば 

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文字通り鉄でできた仮面(武具)を着けたように、ずうずうしく、恥を恥とも思わず平然としていることです。

形容動詞化してよく使われ、「鉄面皮な」「鉄面皮だ」と、もっぱら悪口に使われます。

「面の皮が厚い」とも。

人からどんなに非難の目を向けられようと、兜の面をかぶったように、平気で跳ね返してしまう人間はよくいます。

江戸時代からあった表現ですが、面白いのは、かつては「鉄面だ」という形で、剛直、権威や権力を恐れないという、肯定的な意味があったこと。

こちらの方はもうとっくに死語ですが、昭和の末期ごろまでは普通に使われていた「鉄面皮」も、いつの間にかあまり聞かれなくなったようです。

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とどのつまり【とどのつまり】ことば

【RIZAP COOK】

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「とど」というのは、ボラ(魚)の成魚のこと。

ボラはいわゆる出世魚で、オボコ、イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと名が変わり、トドが最後の「留め名」です。

噺家でいえば円生、役者なら團十郎というところ。つまり、人間にとっては、太ってもっとも食べごろになった状態です。そこから派生して、それ以上はない、ぎりぎり、限度という意味が付きました。

「つまり」も同義語で、「最終的に」「結局は」という意味ですから、「とどのつまり」は言葉の重複、というより、「とど」が「つまり」をより強調した形になります。別の語源説では「とど」は「到頭(とうとう)」が短縮されたものとも言います。

「とど」単独では、主に歌舞伎台本で、セリフの応酬から場面が転換する切れ目に、締めくくりをつけて新たな展開を準備するため、地で説明する部分がよくあります。それが「ト書き」で、「ト」は「トド」の略。

古くは日常でも「結局」の意味で使われ、芝居の影響で人情噺、芝居噺でもよく用いられましたが、昭和57年(1982)に亡くなった八代目林家正蔵(彦六)を最後に、もう高座でも死語と化したようです。

【RIZAP COOK】

日蓮大士道徳話 にちれんだいしどうとくばなし 円朝

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【あらすじ】

日蓮の直接の先祖である貫名家の系譜と日蓮の誕生までを描く。

全七回中、最初の二回分は本題には入らない。円朝が自身の身辺を語る。麻布鬼子母神堂の行者、磯村松太郎の手引きで日蓮宗に入信したことを語る。

円朝自身が日蓮宗に改宗した事実を披露するのは、現在残っている作品中、これを見るだけである。

ついで、在家が守るべき「五戒」(殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、妄語戒、飲酒戒)を話題に、仏教の基本の考えを述べる。

立宗して後、「念仏無間」と鎌倉で流行していた念仏の宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)をそしるようす、念仏系がたたく鉦は陰気で法華(日蓮宗系)がたたく太鼓は陽気だ、といった落語でよく聞くたとえ話をまぜて語る。

第三回からは本題「大士系譜及び誕生話」に入る。日蓮の遠祖は藤原鎌足に始まり、鎌足から十二代の藤原共資の代に一族は遠江に移った。

子が次々と夭逝し継嗣がいないことを苦にして、井谷明神に月に三度の願掛けを続けた1010年(寛弘7)、地元の井谷明神境内の橘の木の根方に白い綾のきれに包んで捨てられていた赤子を拾った。

これが日蓮の直接の先祖となる人で、井伊家の祖、共保となる。井桁のそばの橘の大樹に捨てられてあったことから、紋所は「井桁に橘」が定紋となった。日蓮宗の紋所でもある。

共資から五代目の四男が四郎政直が山名郡貫名に移り住んだので貫名姓となる。その後、貫名次郎重忠は岡本次郎の娘花鳥と結婚して一子をもうけたが、まもなく三浦泰村合戦に巻き込まれた。

重忠は安房へ流されて、在地の大野吉清の娘梅菊と結婚した。妙の浦に蓮華が生じ泉が湧出する奇瑞、老翁が手の上に抱いた玉のような子を授ける霊夢などを経て、日蓮が誕生した。

【しりたい】

入信後に

日蓮宗では「8」のつく日をよしとするそうです。円朝が麻布鬼子母神堂の磯村松太郎行者の導きで入信したのは、明治29年(1896)7月28日のことです。その後、10月28日から、日蓮宗の週刊新聞「日宗新報」に連載されたのが、この噺です。一般向けではなく、日蓮宗の信者に向けて円朝がふるってかたった噺ですが、7回で終わってしまいました。日蓮が生まれるところで終わりです。なんとも、いやはや。

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志ん生が大陸体験で見たものは?

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五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭円生。気質も芸風もまるで水と油です。

この二人が戦争末期、連れ立って大陸慰問団に加わり、命からがらの苦難をなめたことは、落語ファンにはよく知られています。中国東北部(旧満洲)での大陸体験は、二人ともに自伝にも語り残し、座談会や雑誌記事などでもさまざまな逸話が紹介されています。ただ、双方の言い分にはかなりの食い違いがあります。

志ん生がどちらかというと、弥次喜多道中よろしくおもしろおかしく語っているのに対して、円生の方は、十歳年上の志ん生の度外れた身勝手さに、どれだけヒドい目にあったかという、むしろ恨みつらみをぶちまけている感があります。いずれにせよ、真相はもはや闇の中です。

そこに割って入るのが森繁久彌。彼も当時の体験を記しています。二人を脇で見ていた男の目は微笑みながらも辛辣でした。

なかばフィクションにもかかわらず、まるでタイムマシンで見ているかのように、この大陸道中、出発のきっかけから志ん生帰国までのあらましがすべてわかってしまう、いや、わかった気にさせられてしまう、摩訶不思議な一冊があります。

それは、井上ひさし『円生と志ん生』(集英社刊)。

同人の演出で、劇団こまつ座第75回公演として2005年2月~3月に東京・紀伊国屋ホールほかで上演された、同名ミュージカルの台本をそっくり収録したものです。

ソ連軍侵攻前後の中国東北部を舞台に、松尾こと円生(角野卓造)と孝蔵こと志ん生(辻萬長)を中心に、さまざまな人物が織り成す人間模様が描かれます。

この戯曲(本)の画期的なところは、生死の縁を病葉のようにさまよう中、二人がどのように「芸」に開眼していくかという物語なのです。

当時、55歳にしてようやく売れ出して、後年のシャープな芸風を確立しつつあった志ん生。敗色濃厚になるにつれ、禁演落語とやらで廓噺もダメ泥棒噺もご法度。

おまけに、開口一番で二人が国民服姿で登場することでわかるように、噺家の象徴であるトバ(着物)まで、空襲で逃げるときに引きずって走れないという、わけのわからない理由で事実上禁止され、フラストレーション爆発寸前。

そこへ、満州へ渡れば白飯も食い放題酒も呑み放題、軍属の少佐待遇でアゴアシ付き月150円という結構ずくめの話だから、たちまち飛びついて、いきなり楽屋で一声。

「松ちゃん、明日行こう」

重苦しい内地を離れると、芸に関しては志ん生は水を得た魚。十歳年下ながら、三遊の総帥、五代目円生の御曹司で豆落語家から順風満帆、真打ちも一年早かった円生に、たちまち遠慮もコンプも雲散霧消、万事師匠気取りの上から目線。あまつさえ、芸の「指導」までおっぱじめる。

一方、円生。

会計係を任されたのに、相方の志ん生は、日本に帰る資金作りと称して、片っ端からなけなしの金を強奪、あげくに博打でスッテンテン。怒り心頭でも、すっぱり別れられないなにかがあるのは、劇中に当人が告白するように、当時、四十半ばにして芸に行き詰まっていたから。

いっそ廃業して、とダンスホールや雀荘経営に手を出しても、借金の山が残るだけ。こちらもやけのやん八で大陸行きに乗ったものの、早くも追い立てを食いそうな大連の宿で、来るんじゃなかったと泣き言。

そこで、志ん生の一言がぐいっと胸を抉ります。

「おまえさんにはなんかある」

続いて、辛辣きわまるご託宣。

「松ちゃんはあいかわらずのそのそのそ、四角四面で行儀正しいだけで、ちっともおもしろくならねえ」

ごもっともと図星をつかれた松ちゃんですが、続けて、志ん生の言う円生の「なんか」というのが、ぶっ飛んでいます(第一幕第三場)。

「松ちゃんは、毎朝毎晩、歯をごしごし磨いている。それが、つまり、そのなんかなんだな」

噺家の商売道具は口と歯。歯なしでは噺はできない。だから、この人は死ぬまで噺家をやろうと心を決めているんだと。その後も志ん生の稽古は続きます。

場は進んで、吹雪の昭和20年暮れ。

ソ連軍に追われ追われて、大連遊郭街、逢坂町の娼妓置屋に居候している二人。

フグ雑炊の鍋を前に、「松ちゃんの上下の移り替えは大きすぎる」とやっつける志ん生。

テンポよく実演付きで「移り替えが大きいとその分、間が空くだろ」。

パパッと語ってストンと落とすから落とし噺、という志ん生。

今話しているのは誰か、客にはっきりわからせるために身振りをゆっくり大きく、という円生の言い分。

「客」の二人の娼妓の感想は、完全に志ん生に軍配が上がります。このやりとりは、おそらく作者の創作でしょうが、晩年に至るまでの二人の芸風の違いが、実によくわかります。

結局、円生は大家となってからも、テンポが遅くてくどい、という欠点を払拭できませんでしたが、志ん生の、当人の自負する落とし噺の切れ味にある種の憧れとコンプレックスを、生涯抱いていたのではないでしょうか。

ただ、自分にはとうてい志ん生のまねはできないと思い定めたとき、向こうが短距離走者ならこちらはマラソンランナーと、じっくり本格的に語り込む人情噺で芸を開花させていったわけです。

もう一つ。

この物語の買いは、志ん生、美濃部孝蔵のふだんの肉声が、よりリアルに「再現」されていること。

それも、ほとんどは作者が創作した可能性が高いにもかかわらず、あたかも生きた志ん生に傍で話を聴いているように、いや笑えること。

「あたしァね、朝めしを抜くと座り小便が出てしまうってえ病気持ちなんだ」

「とんちきおかみめ、はなし家の丸干しでもこさえようてえんだな」

「やーい、いきなり攻め込んできやがって。スターリンのヒキョーモン」

「おまえの髭は毛虫髭」

「その髭に柄をすげて歯ブラシにしてやるぞ」

これは「岸柳島」の船中の町人や「たがや」の弥次馬よろしくですが、まだまだいくらも堪能できます。

井上ひさしがいかに落語に造詣が深く、落語を愛し、自らの劇作の大きな源にしていたか、とりわけ志ん生の諧謔と江戸前の洒脱さを、この東北人が誰よりも深く理解していたことがうかがわれるのです。

もちろん、避難民の悲惨な体験を通しての戦争への告発も、作者の重要な意図であることは確かで、それは場の変わり目ごとに、二人を交えて霊の声のように唱和される歌に象徴されます。

筆者にはあくまで、落語という芸のデーモンに取り憑かれた二人、とりわけ志ん生が、どんな地獄の最中でも、最後の最後まで噺をしゃべり通しているということが印象的でした。

大団円近く、大連のとある修道院で、落語のラの字も知らない院長と三人の修道女を相手に、志ん生が必死に、「元日に坊さんが二人、すれちがって、これが本当の和尚がツー」……と三平並みの小咄を連発するくだりは鬼気迫るものがありました。

第一に腑に落ちたのは、円生と志ん生は、戦後どれほどいがみあいをしようと、原点は大陸で、命のきわを共にした戦友にしてケンカ友達だったということ。その二人の、どんな緻密な伝記作者でも描ききれない心の襞が、この「井上ひさしによる珍道中」で、垣間見せてもらった気がします。(高田裕史)

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風の神送り かぜのかみおくり 演目

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なあんだ、だじゃれが言いたくて作った噺、かな。

【あらすじ】

町内に悪い風邪が流行したので、まじないに「風(=風邪)の神送り」をすることになった。

奉加帳を回し、その夜、町内総出でにぎやかに掛け声。

鳴り物に合わせて
「そーれ、かーぜのかーみ、送れ、どんどん送れ」
「送れ、送れ、かあぜのかあみ送れ」
という具合に、一人一人順番に送りながら最後の人間で風の神を川に放り込むという趣向。

ところが、
「かーぜのかーみー、おくれ」
と言うと、
「おなごりィ、おーしい」
と誰かが引き止めてしまったから、みんなカンカン。

寄ってたかって引きずり出すと、覆面をしているので、むしり取ったら薬屋の若だんな。

「とんでもねえ野郎だ」

やっとこ、若だんなが改心して、ようやく風の神を川の中へ。

ちょうどその時、大川で夜網をしている二人が大物を釣り上げた。

引き上げると人間。

「おい、てめえは何だ」
「オレは風の神だ」
「あァ、夜網(=弱み)につけ込んだな」

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【しりたい】

原話は藪医者ばなし

安永5年(1776)、大坂で刊行の落語本『夕涼新話集』中の「風の神」が原話です。

あらすじは、以下の通り。

新春早々患者が寄り付かず、食うや食わずで悲鳴をあげている藪医者が、風邪が流行りだしたと聞いて大喜び。これで借金とおさらばできると、同じ境遇の藪仲間二、三人と陽気にお祝いをしていると、外で鉦や太鼓の音。聞いてみると、「これは風の神送り(=追放)の行事です」と言うので藪医者はくやしがり「ええ、いらんことを。無益な殺生だ」

米朝、彦六が復活

本来、上方落語としてポピュラーな噺でしたが、上方では長くすたれていたのを、桂米朝が昭和42年(1967)に復活。

東京では、二代目桂三木助の直伝で八代目林家正蔵(彦六)が専売特許としました。

それ以前にも、前半の薬屋の若だんなまでのくだりは、小咄程度の軽い噺として、明治期に二代目談洲楼燕枝、三代目蝶花楼馬楽などが演じていました。

オチについては、正蔵(彦六)が、昔は「風の神が弱みにつけこむ」といった俚言があり、それを踏まえたのではないかと述べていますが、出典ははっきりしません。

風の神

風の神は風邪をはやらせる疫病神です。

江戸の頃、悪性のインフルエンザによる死亡率は、特に幼児や老人といった抵抗力の弱い者にとって、コレラ、赤痢、ジフテリアに劣らぬ高さだったでした。個々人による祈祷や魔除けのまじないのほかに、この噺のような町内単位の行事が行われたのは、無理もないところでした。

『武江年表』で「風邪」を検索すれば、幕末の嘉永3年(1850)、4年(1851)、安政元年(1854)、4年(1857)、万延元年(1860)、慶応3年(1867)と、立て続けに流行の記事が見えます。この際、幕府から「お助け米」が出ています。

風の神送れ

「風の神送り」のならわしは、本来は物乞いを雇って、灰墨を顔に塗って風の神に見立てたり、鬼や人形を作って町中で練り歩き、鉦太鼓でにぎやかに「風の神送れ」(上方では「送ろ」)と隣の町内に追い払うもの。

そうして、順送りにし、最後は川に流してしまうわけです。

江戸末期になると、しだいに簡略化され、明治初期には完全にすたれたといいます。

音曲噺「風の神」

風の神の新入りが義太夫語りの家に忍び込み、失敗するという音曲噺「風の神」がありましたが、現在は演じ手がありません。

【語の読みと注】
奉加帳 ほうがちょう
藪医者 やぶいしゃ
鉦 かね
談洲楼燕枝 だんしゅうろうえんし
蝶花楼馬楽 ちょうかろうばらく

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