せんきのむし【疝気の虫】落語演目

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【どんな?】

虫の夢を見た医者。命乞いしている疝気の虫は、蕎麦が好物でトウガラシが苦手とか。

疝気とは泌尿器科全般の病。そこに虫がいて悪さする果てに、女体ではどうなる?

あらすじ

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦そばが大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気せんきで苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天ぎょうてんした虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散いちもくさんに腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

しりたい

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎にょうどうえん胆石たんせき膀胱炎ぼうこうえん睾丸炎こうがんえんなどをひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女のしゃくに相当するもので、

悋気りんきは女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは、落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、しゃく、恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形わらにんぎょう」「万病円まんびょうえん」「夢金ゆめきん」ほか、あげればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫が蕎麦が好物というのは、蕎麦は腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

先の大戦後では、五代目古今亭志ん(美濃部孝蔵、1890-1973)生の独壇場どくだんじょうで、四代目三遊亭円遊えんゆう(伊藤金三、1878-1945)も得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑しんしょうに扮した五代目古今亭志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古けいこする場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、蕎麦をたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロあたりを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

根岸鎮衛やすもり著『耳嚢みみぶくろ』巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

阿蘭陀オランダ法の書を翻訳 する者有て其の説を聞くに、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一もんめを酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】

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【どんなはなし?】

淋菌のついた指でこするとこんな具合に。「風眼」と呼ばれていました。

あらすじ

新宿遊廓のお杉は、今日もなじみ客の半七に金の無心をしている。

父親が、「もうこれが最後でこれ以降親子の縁を切ってもいいから、三十両用立ててほしい」と手紙をよこしたというのだ。

といって、半七に十両ほどしかアテはない。

そこへ、お杉に岡惚れの田舎者・角蔵が来たという知らせ。

何せ、「年季が明けたらなんじと夫婦になるべェ」というのが口癖の芋大尽で、お杉はツラを見るのも嫌なのだが、背に腹は替えられない。

あいつをひとつたらし込んで、残りの二十両をせしめてこようというわけで、待ち受ける角蔵の部屋へ出かけていく。

こちらはおっかさんが病気で、高い人参をのまさなければ命が危ないからとうまく言って、金を出させようと色仕掛けで迫るが、さしもの角蔵も二十両となると渋る。

十五両持っているが、これは村の辰松から馬を買う代金として預かったものなので、渡せないと言う。

「そんな薄情な人とは、夫婦約束なんて反故(ほご)だよ」と脅かして、強引に十五両ふんだくったお杉だが、それと半七にたかった七両、合わせて二十二両を持っていそいそとお杉が入っていった座敷には年のころなら三十二、三、色の浅黒い、苦味走ったいい男。

ところが目が悪いらしく、紅絹の布でしきりに目を押さえている。

この男、芳次郎といい、お杉の本物の間夫だ。

お杉は芳次郎の治療代のため、半七と角蔵を手玉に取って、絞った金をせっせと貢いでいたわけだが、金を受け取ると芳次郎は妙に急いで眼医者に行くと言い出す。

引き止めるが聞かないので、しかたなく男を見送った後、お杉が座敷に戻ってみると、置き忘れたのか、何やら怪しい手紙が一通。

「芳次郎さま参る。小筆より」

女の字である。

「わたくし兄の欲心より田舎大尽へ妾にゆけと言われ、いやなら五十両よこせとの難題。三十両はこしらえ申せども、後の二十両にさしつかえ、おまえさまに申せしところ、新宿の女郎、お杉とやらを眼病といつわり……ちくしょう、あたしをだましたんだね」

ちょうどその時、半七も、お杉が落としていった芳次郎のラブレターを見つけてカンカン。

頭に来た二人が鉢合わせ。

「ちきしょう、このアマッ。よくも七両かたりゃアがって」
「ふん、あたしゃ、二十両かたられたよ」

つかみあいの大げんか。

角蔵大尽、騒ぎを聞きつけて
「喜助、早く行って止めてやれ。『かかさまが塩梅わりいちゅうから十五両恵んでやりました。あれは色でも欲でもごぜえません』ちゅうてな。あ、ちょっくら待て。そう言ったら、おらが間夫だちゅうことがあらわれるでねえか」

しりたい

六代目円生の回顧

「……あたくしのご幼少の折には、この新宿には、今の日活館(注:もうありません)、その前が伊勢丹、あの辺から一丁目の御苑の手前のところまで両側に、残らずではございませんが、貸座敷(女郎屋)がずいぶんありましたもので」

「なかでも覚えておりますのは、新金(しんかね)という楼(うち)、それから大万(おおよろず)、そういうとこは新宿でも大見世(おおみせ)としてあります」

明治末年のころ

この中に出てくる「新金」は、今の伊勢丹向かい、丸井の場所にあり、「鬼の新金、鬼神の丸岡、情知らずの大万」とうたわれたほど、女郎に過酷な見世だったといいます。

芸談・円生

以下は、六代目三遊亭円生の芸談です。

芳次郎は女が女郎になる前か、あるいはなって間もなく惚れた男で、女殺し。半公は、たまには派手に金も使う客情人。角蔵にいたっては、嫌なやつだが金を持ってきてくれる。それで一人一人、女の態度から言葉まで違える……芳次郎には女がたえずはらはらしている惚れた弱みという、その心理を出すのが一番難しい。「五人廻し」と違い、女郎が次々と客をだましていく噺ですが、それだけに、最後のドンデン返しに至るまで、化かしあいの心理戦、サスペンスの気分がちょっと味わえます。芳次郎は博打打ち、男っぷりがよくて女が惚れて、女から金をしぼって小遣いにしようという良くないやつ。半七は堅気の職人で経師屋か建具屋、ちょっとはねっかえりで人がよくって少しのっぺりしている。俺なら女が惚れるだろうという男。だから、半七はすべて情人あつかいになっていたし、自分もそう思っていたやつが、がらっと変わったから怒る訳で。

角蔵は新宿近辺のあんちゃん

落語では、なぜか「半公」といえば経師屋(きょうじや)、「はねっ返りの半公」略して「はね半」ということに決まっています。「蛙茶番」「汲み立て」にも登場します。どんなドジをしでかすか、請うご期待。

新宿遊郭

新宿は、品川、千住、板橋と並び、四宿(ししゅく=非公認の遊郭)の一。飯盛女の名目で遊女を置くことが許された「岡場所」でした。正式には「内藤新宿」で、信濃高遠三万三千石・内藤駿河守の下屋敷があったことからこう呼ばれました。甲州街道の起点、親宿(最初の宿場)で、女郎屋は、名目上は旅籠屋。元禄11年(1698)に設置され、享保3年(1718)に一度お取りつぶし。明和9年(1772)に復興しました。

新宿を舞台にした噺は少なく、ほかに「四宿の屁」「縮みあがり」くらいです。

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【文違い 三遊亭円生】