つくだまつり【佃祭】演目

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実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

【あらすじ】

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

【しりたい】

佃島渡船転覆事件

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入の渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

さかのぼれば実話

中国明代の説話集『輟耕録』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

円喬、志ん生、金馬

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残ります。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

竜神は梨好き

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野県長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭(淙庵、?-1806)は随筆『譚海』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりませんが、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨に目がないことだけは、確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

佃祭

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

本所一ツ目橋

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

【語の読みと注】
輟耕録 てっこうろく
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:江戸町奉行、肥前守
折敷 おしき

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宗漢 そうかん 演目

【RIZAP COOK】

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古代中国が舞台のバレ噺。戦国七雄を題材にしてもしょせんはね。

別題:薬籠持ち

【あらすじ】

中国は、魏の国の宗漢という医者。

この先生、名医だが大変に貧乏で、日本でいうと裏長屋住まい。

ある雨の日、玄関先で
「お頼み申します」
という声がするので出てみると、
「楚の国からはるばるやってきたものだが、主家のお嬢さまが長い病で難渋しているので、先生にぜひお見舞いを願いたい」
と言う。

先生大喜びで、二つ返事で引き受けたものの、金がないのでお供の者も雇えない。

そこで、やむなく細君を連れていくことにしたが、医者が女の供を連れていては外聞が悪いので、細君を男装させ、長旅をして楚までやってきた。

先方に着くと、下へも置かない大歓迎。

お茶を出されても、細君の方は返事をするとバレるので、おっかなびっくり下を向いているばかり。

見舞ってみると、さほどたいしたことはないので、薬を与えて帰ろうとすると、日はとっぷりと暮れなずみ、折しも大雨が降りり出した。

いくら待っても、やむ気配がない。

恐縮した主人が、一晩泊まっていくようにすすめるので、宗漢先生もその気になったものの、この家ではあいにく、夜具を洗濯に出してしまって余分なものが今ない、という。

そこで、
「まことに申し訳ないことながら、先生は十一歳になる息子と寝ていただき、お供の方は、手前の家の下男とかじりついて、肌と肌とを押しつけて寝ていただくと温かでございます」
ときたので、先生は仰天した。

今さら自分の女房だと言うわけにもいかず、とうとうその晩は心配のあまり、まんじりともせず夜を明かした。

翌朝。

宗漢夫婦が帰ったあと、例の十一歳の息子が
「お父さん、昨夜ボク、あのお医者さんと寝たでしょ。あのオジサン、貧乏だね」
「なぜ」
「フンドシしてなかったよ」

それを聞いていた下男が
「そりゃそうだろう。あのお供なんか、金玉がなかったからな」

【RIZAP COOK】

【うんちく】

戦国七雄

魏、楚ともに紀元前4-3世紀に割拠した戦国七雄。

魏は山西省南部から河南の北部一帯にかけて、楚は揚子江中流一帯を占めていました。隣国とはいえ、日帰りなどとてもできませんが、時空間をものともしないのが落語の落語たるところです。

細君に男装

なんのことはなく、簪を抜かせただけです。

昔、中国では男女とも、服装から髪型からまったく同じで、これでは困るというので、女には目印として簪を付けさせたというのがこの噺の前提ですが、もちろん、噺家のヨタを真に受けられては困ります。

少年愛も潜んだ噺

原話は不詳。四代目橘家円喬が明治28年(1895)8月、『百花園』に寄せた速記以後、内容が内容だけに演者の記録はもちろんありません。

「薬籠持ち」と題して、バレ小咄として演じるときは、宗漢を日本の医者にし、薬籠(=薬箱)持ちの下男をクビにしたばかりなので、しかたなくかみさんを男装させて出かけることにしています。

その場合、中国のようにはいかないので、ちゃんと男の着物を着せ、頭には頭巾をかぶせて、下男に化けさせています。

往診先は山向こうの村の金持ちで、医者は診察したばかりの子供といっしょに寝かされます。

オチは、貧乏医者で「金がない」というダジャレを含んでいますが、勘ぐれば少年愛のにおいまでするアブない噺ではあります。

【語の読みと注】
魏 ぎ
楚 そ

【RIZAP COOK】

心中の心中 しんじゅうのしんじゅう 演目

心中の前にスヴェンソンの増毛ネット

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悲劇の温床「心中」も落語の手にかかっては……。

別題:情死の情死 花見心中

【あらすじ】

明治元年、夏。

京から江戸に出て呉服の行商をしている善次郎。

土地慣れないから得意先もつかず、七月の暑い最中で、母親と二人暮らしだから、どうにも立ちいかない。

京へ帰ろうにも路銀もないありさまなので、恥を忍んで借金に行った先でも、すげなく断られたばかりか、
「生きていたって甲斐性がない奴は豆腐の角へ頭をぶつけて死んでしまった方がいい」
と、ののしられる。

とぼとぼと向島の土手に来かかり、いっそ首をくくろうと桜の枝に帯を結んで手を掛けると、枕橋の方からバタバタと足音。

見とがめられてはと、あわてて桜の木に登って隠れていると、若い男と女。

親の許さぬ仲とかで、しょせん生きてはいられないと話がまとまり、男の方が、死骸の始末金にと家から持ち出してきたという百両の金を桜の木下に置くと
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
と、刀をスパッと引き抜く。

上にいる善次郎、驚いた拍子に、二人の頭の上にドサッと落っこちた。

びっくりした二人は、金をそのまま置いて逃げてしまう。

しかたなくその金を持って、大家の所に相談に行ったが、頃はご維新のさ中。

奉行所も解体同然だから、
「どうでもしたらよかろう」
と取りあってくれない。

善次郎はためらいながらもその金で借金を返し、残りを元手に懸命に働いた甲斐あって、数年後には蔵付きの立派な呉服屋を開店することができた。

月日は流れて、明治7年。

善次郎が帳場に座っていると、年の頃、三十四、五、黒の山高帽子に南部の糸織のお召しという、りっぱななりの紳士が、似合いの奥方といっしょに店先で反物を見ている。

その顔を見て善次郎は、はっと驚く。

それもそのはず、その夫婦はあの時の心中者。

飛び出して行ってあの時の話をし
「そういうわけで、あんたはんらは私にとっては命の親。あのお金は利息を添えてお返しせななりまへん」
と言うと、だんなの方も、
「実はあの時、人が上から降ってきたのに仰天し、二人で枕崎まで逃げたが、親戚の者の取りなしで無事夫婦になり、今では子供もいる身」
と語る。

「それではあなたが、あの時の。よく落ちてくだすった。私たちの命の親」
「あほらしい。あんたの方が親や」
「いいや、おまえさん親」
「なに、あんた親」
とやっていると、奥から母親が
「してみると、あたしのためには継子かしらん」

底本:四代目橘家円喬

生きてるうちが花スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

明治の名人が創作

別題「花見心中」。四代目橘家円喬がものした新作とみられます。明治29年(1996)2月の『百花園』に速記が掲載されましたが、原題表記は「情死の情死」となっています。

榎本滋民が指摘しているとおり、速記をよく読むと、細かい年代のミスが多いのですが、そこは落語で、言うだけヤボでしょう。

わかりにくいオチ

現在ではすたれ、高座にかかることはありません。明治維新前後の世相がよく描写されていて、今となっては貴重な資料です。

オチは、「命の恩人」という意味で「命の親」と言ったのを、ばあさんが取り違え、「客がせがれの親なら、あたしはママハハか」と頭をひねるマヌケオチ。

最後の「-のためには」は、「-にとっては」という意味の、古風な江戸ことばです。

奉行所も解体同然

二人が大家に相談に行き、世が世なら、さっそくお白洲で、名奉行のお裁きという場面ですが、あいにくもう幕府は崩壊。奉行所もあってなきがごとしという、情けない無政府状態です。

最後の江戸町奉行は、北が石川河内守、南が佐久間ばん(ばんは金偏に番)五郎。南北両奉行所を官軍に引き渡したのは、慶応4年(1868)5月22日で、明治改元はこの年の10月23日。折しも江戸は、彰義隊騒ぎで大混乱の最中。この一週間前、5月17日に上野の戦争が勃発し、5日前に片づいたばかり。

円喬は「明治元年夏」と説明していますが、実際はまだ慶応4年。町人みな小さくなって家に隠れ住み、多くの者が大八車に家財を積んで江戸を逃げ出そうとして時に、心中騒ぎを起こすとはのんきな野郎があったものです。

このころの奉行所与力や同心の乱れぶりは相当なもの。幕府も、万一、彰義隊に駆け込む者があっては大変と気を使ったものの、そんな心配は無用。『戊辰物語』(岩波文庫)によると、満足に馬に乗れる者などほとんどなく、十手を振って、房が顔の前で、いかにかっこよく開くかのコンクールをやっていたというテイタラク。こりゃあ、負けるわな。

南部の糸織

かつての心中者が、維新の騒ぎを切り抜け、7年後、さっそうと登場。南部の糸織は、南部紬のお召しで、『壬生義士伝』(浅田次郎)で主人公の故郷、旧南部藩領(岩手県)特産の、よった絹糸で作る織物です。「お召し」は、その中で練り糸で表面にしわを寄せた最高級品で、お召し縮緬とも呼びます。

枕橋

旧名は源森橋。墨田区吾妻橋1丁目から向島1丁目の墨田公園までを渡しています。源森川(のち北十軒堀)を寛文3年(1663)に掘削する際、関東奉行伊奈半十郎の監督で架けられました。

のちに、橋向こうに水戸藩下屋敷まで新橋が架かり、源森橋の名を譲って枕橋と改名。その「新・源森橋」の方は、その後、新小梅橋と改称されましたが、二つ合わせて枕橋と呼ぶ習慣もあったとか。なにやらややこしい話です。対岸の山の宿から、枕橋詰の桟橋まで、渡し舟が出ていました。

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三味線栗毛 しゃみせんくりげ 演目

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講釈ネタなので、オチがいまいち。志ん生がやってました。

【あらすじ】

老中筆頭、酒井雅楽頭の次男坊、角三郎。

ちょくちょく下々に出入りするのでおやじからうとんじられ、五十石の捨て扶持をもらって大塚鶏声ヶ窪の下屋敷で部屋住みの身。

そうでなくとも次男以下は、養子にでも行かない限り、一生日の目は見ない。

ところが角三郎、生まれつきののんき者で、人生を楽しむ主義なので、いっこうにそんなことは気にしない。

あしたは上野の広小路、あさっては浅草の広小路と、毎日遊興三昧。

今日も両国で一膳飯屋に入ったと言って、用人の清水吉兵衛にしかられ、
「あんまを呼んであるのでお早くお休みを」
、と、せきたてられる。

今日呼んだあんま、名を錦木という。

療治がうまくて話がおもしろいので、角三郎はいっぺんに気に入った。

いろいろ世間話をするうち、あんまにも位があって、座頭、匂頭、検校の順になり、座頭になるには十両、匂頭では百両、検校になるためには千両の上納金を納めなければならないことを聞く。

錦木は、
「とても匂頭や検校は望みの外だから、金をためてせめて座頭の位をもらうのが一生の望みです」
と話す。

「雨が降って仕事がない時はよく寄席に行くもんで」
と言って、落語まで披露するので、角三郎は大喜び。

その上、
「あなたは必ず大名になれる骨格です」
と言われたから、冗談半分に
「もし、おれが大名になったら、きさまを検校にしてやる」
と約束した。

錦木は真に受けて、喜んで帰っていった。

そのうち錦木は大病にかかり、一月も寝込んでしまう。

見舞いに来た安兵衛に、
「あの下屋敷の酒井の若さまが、おやじが隠居、兄貴の与五郎が病身とあって、思いがけなく家を継ぐことになった」
という話を聞き、飛び上がって布団から跳ね出す。

さっそく、今は酒井雅楽頭となって上屋敷に移った角三郎のところにかけつけると
「錦木か、懐かしいな。武士に二言はないぞ」
と約束通り、検校にしてくれた。

ある日のこと。

出世した、今は錦木検校が酒井雅楽頭にご機嫌伺いに来る。

雅楽頭は、このほど南部産の栗毛の良馬を手に入れ、三味線と名づけたと話す。

駿馬にしては軟弱な名前なので、錦木がそのいわれを聞いてみた。

「雅楽頭が乗るから三味線だ」
「それでは、家来が乗りましたら?」
「バチが当たるぞ」

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【うんちく】

名人から名人へ

原話は不詳で、講釈(講談)種とみられます。

明治の大円朝から、四代目橘家円喬と二代目三遊亭小円朝に伝承され、その衣鉢を継いだ昭和-戦後の三代目小円朝、五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌らがよく演じました。

三代目小円朝は地味にしっとりと演じ、角三郎を闊達だが書物好きのまじめな青年として描き、逆に志ん生は、自由奔放な人間像を造形しました。

また、志ん生はマクラに両国の見世物小屋の描写を置き、山場の少ない噺に、明るい彩を添えています。

さらに、小円朝は、後半の栗毛の話の聞き手を吉兵衛に代え、志ん生はそのまま錦木で演じましたが、噺の連続性からは志ん生のやり方が無難でしょう。

率直に言って古色蒼然、おもしろいとは言えない噺なので、しばらく後継者がありませんでした。

近年は、柳家喬太郎、古今亭菊之丞らが意欲的に手掛けています。

酒井雅楽頭

さかいうたのかみ。譜代の名門、酒井家の本家で、上州前橋十二万五千石→播州姫路十五万石。

代々で最も有名なのは、四代将軍家綱の許で権勢を振るい「下馬将軍」と呼ばれた忠清(1624-81)。大老にまでなったこの人物が失脚してから、酒井家からは当分老中は出ていません。

この噺では、あるいは父親を酒井忠清、角三郎を嗣子忠挙(ただたか)に想定しているのかも知れませんが、詮索は無意味でしょう。

鶏声ヶ窪

酒井家の上屋敷は丸の内、大手御門前。鶏声ヶ窪の下屋敷は、旧駒込曙町で、文京区本駒込1、2丁目。

この付近には、下総古河八万石で、やはり大老を務めた土井大炊頭下屋敷もあり、地名の由来は、その屋敷内から怪しい鶏の声がするので、地中を掘ってみると、金銀の鶏が出てきたことによるとか。

なお、一膳飯屋については「ねぎまの殿さま」、按摩の位は「松田加賀」を、それぞれご参照ください。

円喬の苦悩

小島政二郎(1894-1994)の小説「円朝」に、この噺を得意にした円朝門下の四代目橘家円喬(1865-1912)が、按摩の表現のコツがつかめず、苦悶する場があります。

特に話し方、声。ゆえあってしばらく師匠を離れ、大阪に行った円喬が、答えが出ないまま、あるとき夢に見た円朝の教えは「耳で話せ」。それが開眼のきっかけになります。

【語の読みと注】
酒井雅楽頭 さかいうたのかみ
捨て扶持 すてぶち:役に立たない人へ与えられる米
大塚鶏声ヶ窪 おおつかけいせいがくぼ
酒井忠挙 さかいだたか
座頭 ざとう
匂頭 こうとう
検校 けんぎょう
駿馬 しゅんめ
土井大炊頭 どいおおいのかみ

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金明竹 きんめいちく 演目

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「寿限無」と並ぶ言い立ての心地よい噺。必聴です。

【あらすじ】

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまって、それっきり。

「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置きへ放り込んである、と断るんだ」
としかると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使い物になりませんから焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相があってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

そう教えると、おじさんに目利きを頼んできた客に
「家にもだんなが一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのか、さっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、だんなはんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わてのだんなの檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。

おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに、ずんどう斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか?」
「確か、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

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【しりたい】

ネタ本は狂言

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作『臍くり金』中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林家(屋)正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)に自作の落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)の喜久亭寿曉の落語ネタ帳『滑稽集』に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後半を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治維新後と思われます。

「骨皮」と「夕立」

骨皮 シテが新発意(しんぼち=出家間もない僧)でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」としかる。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による狂馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り狂い、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

夕立 主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りにきたのにそれを言い、「どこの国に疝気で動けない火鉢がある」と、また隠居がしかると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になって、それがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。

円喬は、特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛け、現在に至っています。

中でも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。

CDは三巨匠それぞれ残っていて、柳家小三治のもありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗

ゆうじょう。後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。

光乗

こうじょう。後藤祐乗の曾孫(1529-1620)です。やはり名工として織田信長に仕えました。

長船

おさふね。鎌倉時代の備前国の刀工長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉

そうみん。横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹

福建省原産の黄金色の名竹です。黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管のらおなどの細工に用います。

隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントか

「吾輩は猫である」の中で、二絃琴の師匠の飼い猫、三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという、半藤一利氏の説があります。落語にはこの手のギャグはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
小柄 こづか
隠元 いんげん
黄檗山 おうばくさん

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高野違い こうやちがい 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ところどころで古典の知識が試される、ペダンチックな噺です。

【あらすじ】

出入りの鳶頭が店に年始に行くと、だんなが子供たち相手にカルタをやっている。

鳶頭はカルタなど見たことがないので珍しく、あれこれトンチンカンなことを言うので、だんながウンチクをひけらかして、ご説明。

洗い髪で、たいそうごてごてと着物を着ている女がいると言うと、それは下げ髪、着物は十二単で、百人一首の中の右近と教えられる。

同じような女が二人いるが、赤染衛門に、紫式部。

赤に紫に黄色(鬱金色=右近)で、まるで紺屋の色見本のよう。

紫とやらいう女の歌が
「巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」

誰かに逢いたいと神に願掛けしている歌だと聞いて
「そりゃ、合羽屋の庄太ですよ。借金を返しゃあがらねえ」
「おまえの話じゃないよ」

太田道灌が
「急がずば 濡れざらましを 旅人の跡 より晴るる 野路の村雨」

弘法大師の歌が
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 高野の奥の たま川の水」

これは六玉川のうち、紀州は高野山の玉川の水は毒があるため、のまないよう戒めた歌だというので、鳶頭、親分が大和巡りに行くから知らせてくると飛び出す。

「それで、その歌はなんだ」
「忘れても 酌みやしつらん 旅人の 跡より晴るる 野路の村雨」
「それじゃ尻取りだ。下は『たかのの奥の 玉川の水』というんだろ」

鳶頭、先に言われたので、しゃくなので揚げ足を取ろうと
「親分、タカノじゃなくてコウヤでしょう」
「同じことだ。仏説にはタカノとある」

またへこまされたので、それではと
「ごまかしたって、こっちにゃ洗い髪の女がついてるんだ。じゃ、こんなのはどうです。『巡り逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな』。さあ驚いたろう」
「驚くもんか。それは誰の歌だ」
「ナニ、着物であったな、鳶色式部だ」
「鳶色式部てえのはない。紫だろ」
「紫と鳶色は昔は同じだったんで。これは仏説だ」
「そんな仏説があるか。大変に違わあ」
「へえ、そうですか。それじゃ、紺屋が間違えたんでしょう」

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【しりたい】

現代人にはわからない

古風な噺で、和歌の教養がないと、今ではよくわからないでしょう。江戸時代には「小倉百人一首」がごく一般に普及していて、これくらいの和歌はわかりあっていたのです。明治にいたっても同様です。共有の文化でした。

原話は、文化8年(1811)ごろ刊行された、初代三笑亭可楽(1833年没)作の噺本『種が島』中の「源氏物語」です。

無知な男が、和歌の解釈を聞きかじって、トンチンカンなひけらかしで失敗するパターンは現行通りです。

原話では紫式部の歌でなく、謡曲「源氏供養」にある、式部が石山寺の観音の化身だという伝説から、「鳶色式部」を出しています。

オチは、弘法大師(高野山)と太田道灌の歌の上下をとり違えたのと、「紫(色)」と「鳶(色)」の間違いを掛け、色→紺屋の連想から、紺屋=高野のダジャレオチとしています。

原話のオチは、「ナアニ、おれがそそっかしいのじゃアねえ。ぜんてえ、せんに(=だいたい、前に)高野で間違った」というものです。こちらの方がわかりやすいかもしれません。

紺屋の色見本

紺屋形ともいいます。今でもある、服地のサンプルまたはカタログです。

紺屋は、初期は藍で紺色を染めるだけだったのが、のちに染料の進歩により、様々な色の染物ができるようになりました。

特に紺屋の女房になった、吉原の六代目高尾太夫考案の、浅黄色の早染め(かめのぞき)は評判になりました。

かめのぞき」については「紺屋高尾」をごらんください。

オチは、高野山弘法大師の歌の間違いに、そそっかしい紺屋が、色見本を見ても紛らわしい紫と鳶色を染め間違えたことを掛けてあるわけです。

六玉川

むたまがわ。歌枕に詠まれる全国の六つの玉川のこと。

山城の井出の玉川
摂津の卯の花の玉川
近江の野路の玉川
陸奥の野田の玉川
武蔵の調布の玉川
紀伊の高野の玉川

高野の玉川は、高野山奥の院弘法大師廟のそばを流れる川です。

川水の毒については、噺の中でだんなの解釈する通り、弘法大師のこの歌が載っている「風雅和歌集」の詞書に「高野奥院へまいる道に玉川という河のみなかみ(=上流)に毒虫の多かりければ、この流れを飲むまじき(飲んではならない)由を示しおきて後よみはべりける」とあって、実際に中毒の危険を示唆しています。

高野山には女人禁制であったため、
「毒水を 飲む気づかひは 女なし」
という川柳もありました。

ただし、別の説では、名水をいたずらに酌むなという教訓がのちに「毒水」と誤伝されたものともいわれます。

鳶色式部

鳶色は、鳶の羽色の茶褐色のこと。

布地では「鳶八丈」を指します。鳶八丈とは、鳶色の地に、黒または黄の格子縞の着物です。明治中期に、袴の色から、女学生の異名に用いられたこともあり、あるいは、それもかけられているかもしれません。

円喬のオハコ

古くから口演された江戸落語で、明治28年(1895)の四代目橘家円喬の速記が残ります。円喬はこの噺を好み、よく高座に掛けたようです。名人の名を後世に残しながら、ややキザで教養をひけらかす臭みがあったという、この人が好みそうな噺でしょう。

戦後は、三代目三遊亭金馬、二代目三遊亭円歌という、兄弟弟子だった二人が、ともに手掛けました。「やかん先生」の金馬はファンに愛されながらも、そのペダンチックが嫌われもしました。

このような古ぼけたうんちく噺は、円喬や金馬のように、才気ばしった落語家でないと衒学趣味だけが鼻につき、さまにならないのかもしれません。現在は、ほとんど演じられていません。

【語の読みと注】
鳶頭 とびのかしら
十二単 じゅうにひとえ
右近 うこん
赤染衛門 あかぞめのえもん
紺屋 こうや
六玉川 むたまがわ

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牛ほめ うしほめ 演目

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与太郎はバカなのか、稀代の風刺家なのか。いつまでたっても謎のままです。

別題: 新築祝い  池田の牛ほめ(上方) 

【あらすじ】

少々たそがれ状態の与太郎。

横町の源兵衛が痔で困っているとこぼすので
「尻に飴の粉をふりかけなさい。アメふって痔かたまるだ」
とやって、カンカンに怒らせた。

万事この調子なので、おやじの頭痛の種。

今度おじの佐兵衛が家を新築したので、その祝いにせがれをやらなければならないが、放っておくと何を口走るかしれないので、家のほめ方の一切合切、-んで含めるように与太郎に教え込む。

「『家は総体檜づくりでございますな。畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺りでございますな。天井は薩摩の鶉杢(うずらもく)で。けっこうなお庭でございますな。お庭は総体御影づくりでございますな』と、こう言うんだ」

まねをして言わせてみると、「家は総体へノコづくり、畳は貧乏でボロボロで、佐兵衛のカカアはひきずりで、天井はサツマイモとウヅラマメ、お庭は総体見かけ倒しで」と、案の定、コブだらけにされそう。

しかたなくおやじがセリフをかなで書いてやる。

まだ先があって、
「これから、おじさんの土手っ腹をえぐる」
「出刃包丁で」
「ばか野郎。理屈でえぐるんだ。台所の大黒柱の真ん中に、おおきな節穴が空いていて、なんとか穴が隠れる方法はないかとおじさんが気にしている。そこでおめえが、『そんなに気になるなら、穴の隠れるいい方法をお教えましょう』と言うんだ。おじさんが『何を言ってやがる』という顔をしたら、『台所だけに、穴の上に秋葉さまのお札を張りなさい。穴が隠れて火の用心になります』。これを言やあ、感心して小遣いくらいくれる。それから、牛を買ったってえから、それもほめるんだ。『天角、地眼、一黒、鹿頭、耳少、歯合でございます』と、こう言う」

与太郎、早速出掛けて、よせばいいのに暗唱したので
「佐兵衛のカカアはひきずりで」
をそのままやってしまい、雲行きが悪くなって慌ててメモを棒読み。

なんとか牛まで済んだ。

おじさんは喜んで、
「ばかだばかだと心配していたが、よくこれだけ言えるようになった」
とほめ、一円くれる。

そのうち、牛が糞をしたので、おじさんが
「牛もいいが、あの糞には困る。いっそ尻の穴がない方がいい」
とこぼすと与太郎、
「おじさん、穴の上へ秋葉様のお札を張りなさい」
「どうなる?」
「穴が隠れて、屁の用心にならあ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

元祖はバカ婿ばなし

原典は、寛永5年(1628)刊の安楽庵策伝著『醒睡笑』巻一中の「鈍副子第二十話」です。

これは、間抜け亭主(婿)が、かみさんに教えられて舅宅に新築祝いの口上を言いに行き、逐一言われた通りに述べたので無事にやりおおせ、見直されますが舅に腫物ができたとき、また同じパターンで「腫物の上に、短冊色紙をお貼りなさい」とやって失敗するものです。

各地の民話に「ばか婿ばなし」として広く分布していますが、宇井無愁は、日本の結婚形態が近世初期に婿入り婚から嫁取り婚に代わったとき、民話や笑話で笑いものにされる対象もバカ婿からバカ息子に代わったと指摘しています。、それが落語の与太郎噺になったのでしょうが、なかなかおもしろい見方ですね。

「ばか婿ばなし」の名残は、現行の落語でも「あわびのし」「舟弁慶」などにそのまま残っています。

円喬も手がけた噺

天保4年(1833)刊で初代林屋正蔵編著の噺本『笑富林』中の「牛の講釈」が、現行の噺のもとになりました。なので、九代目正蔵も、本家として大いに演っていいわけです。

一応前座噺の扱いですが、明治の名人・四代目橘家円喬の速記もあります。円喬のオチは「秋葉さまのお札をお貼りなさい」で止めていて、「穴がかくれて屁の用心」のダジャレは使っていません。さすがに品位を重んじたというわけでしょう。

なお、大阪では「池田の牛ほめ」「新築祝い」の題で演じられ、お札は愛宕山のものとなっています。東京でも、「新築祝い」で演じるときは、後半の牛ほめは省略されることがほとんどです。

「畳は備後の五分べりで……」

備後は備後畳のことで、五分べりは幅1.5センチのものです。薩摩の鶉杢(=木)は屋久杉で、鶉の羽色の木目があります。

「佐兵衛のカカアはひきずりで」

引きずりはなまけ者のこと。もともと、遊女や芸者、女中などが、すそをひきずっているさまを言いましたが、それになぞらえ、長屋のかみさん連中がだらしなく着物をひきずっているのを非難した言葉です。

秋葉さま

秋葉大権現のことで、総社は現・静岡県周智郡春野町にあります。秋葉山頂に鎮座し、祭神は防火の神として名高いホノカグツチノカミ。

江戸の分社は現・墨田区向島四丁目の秋葉神社で、同じ向島の長命寺に対抗して、こちらは紅葉の名所としてにぎわいました。

「天角、地眼……」

天角は角が上を向き、地眼は眼が地面をにらんでいることで、どちらも強い牛の条件です。

あとの「一黒、鹿頭、耳小、歯違」は、体毛が黒一色で頭の形が鹿に似て、耳が小さく、歯が乱ぐい歯になっているものがよいということです。

なお、前記宇井無愁によると、農耕に牛を使ったのは中部・北陸以西で、それ以東は馬だったので、「屁の用心」でお札を貼るのも、民話ではそれを反映して東日本では馬の尻、西日本では牛の尻と分かれるとか。

猫の皿 ねこのさら 演目

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お目当ては皿か猫か。明治初年、端師が地方での逸品探しに血道上げて。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

【あらすじ】

明治の初めのこと。

ある端師(はたし)が、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

【しりたい】

原作

原作は、滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。鯉丈という人は、戯作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、有名な弥次喜多の『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のような、ユーモア小説です。鯉丈は、落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。原作では猫じゃなくて猿!

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬(うわぐすり)で黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でしたが、絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当でしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。これは、なかなかおもしろい見方で、志ん生が、ただのいきあたりばったりでなく、相当の勉強家でもあったことがよくわかります。

【もっとしりたい】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。立川志の輔ですらやっている。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかも。 もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから今ではこの題が一般的になってしまった。志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附(おみつけ)なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪(うちくるわ)だけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形もこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

 会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20(1887)年 
厩橋   明治26(1893)年 
両国橋  明治37(1904)年 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44(1911)年のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころらしい。

とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-1817)刊行の滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に、「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

(古木優)

弥次郎 やじろう 演目

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日本にもいた、ほら吹き男の抱腹絶倒、痛快無比、冒険譚!

別題:うそつき弥次郎 革袋 日高川

【あらすじ】

うそつき弥次郎と異名をとるホラ吹き男。

久しぶりに隠居の家にやってくると、さっそく吹き始めた。

一年ばかり北海道に行っていたが、あまり寒いので、あちらでは凍ったお茶をかじっている。

雨も凍って降るので、一本二本と数え、雨払いの棒を持って外出する。

「おはよう」の挨拶まで凍って、それを一本いくらで買い、溶かして旅館の目覚まし用に使う……。

次から次に言いたい放題。

火事が凍ったのを見て、見世物にしようと買い取り、牛方と牛五、六頭を雇って運ばせ、奥州南部へ。

山中で火事が溶け、牛が丸焼け。

水をかけても消えないから、これが本当の焼け牛に水。

牛方が怒って追いかけてくるので、あわてて逃げ出し、気がつくととっぷり日が暮れ、灯が見えたので近づくと山賊の隠れ家。

山賊と大立ち回りになり、三間四方の大岩を小脇に抱え……。

「おい、三間四方の岩が、小脇に抱えられるかい」
「まん中がくびれたひょうたん岩」
「ふざけちゃいけない」

岩をちぎっては投げ。

「岩がちぎれるかい」
「できたてで柔らかい」

山賊を追っ払って、安心して眠りこけると山鳴りのような音。

目を覚ましてみると大猪。

逃げ出して杉の木にかけ登ると、先客がいて、これが天狗。

上に天狗、下に猪で、進退極まった。

猪が鼻面で木の根を掘りはじめ、グラグラ揺れる。

そこで、ヒラリと猪の背中に飛び下りた。

振り落とそうと跳ね回るので、股ぐらをさぐると、大きな金玉。

押しいただいてギュッと握りつぶすと引っくり返ったので、止めを刺そうと腹を裂くと、中から子猪が十六匹。

シシの十六。

「ばかばかしいや。おまえ、どこを握って殺した」
「金玉で」
「金玉ならオスだろう。オスの腹から子供が出るかい」
「そこが畜生の浅ましさ」
「冗談言っちゃいけねえ」

すると、松明をかざした四、五十人の男に取り巻かれ、連れていかれたのが庄屋の家。

よくぞ悪猪を退治してくださったと、下にも置かぬ大歓迎。

いい気持ちで寝ていると、庄屋の娘が言い寄ってくる。

めんどうくさいので逃げ出して、いつしか南部から紀州の白浜へ一足飛び。

船頭に祝儀をやって渡してもらい、若い娘が来ても渡さないように頼むと、道成寺という荒れ寺に飛び込み、台所の水瓶の中でブルブル震えていた。

娘は、さては別に女がいるかと、嫉妬で後を追いかけ、たちまち日高川の渡し場。

船頭は買収されているからいくら頼んでも渡さない。

娘はザンブと水に飛び込み、二十尋(ひろ)の大蛇といいたいが、不景気だから一尺五寸の蛇に変身。

道成寺にたどり着き、この水瓶が怪しいと、周りをグルグルと七巻き半。

「一尺五寸の蛇が、大きな水がめを七巻き半巻けるかい」
「それが伸びた」
「飴細工だね」
「ところが、しばらくたつと、その蛇が溶けちまった」
「どういうわけで?」
「寺男が無精で掃除をしないから、ナメクジが水瓶の底に張りついていた」
「虫拳だね」
「その時、中啓を持ってスッと立ったなりは、実にいい男」
「弥次さん、おまえさん、武士だったのかい」
「いえ、安珍という山伏で」
「道理で、ホラを吹きっぱなしだ」

底本:六代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

【しりたい】

道成寺伝説のパロディー

弥次郎が逃げ込む道成寺は、和歌山県日高郡にある古刹で、天音山道成寺といいます。

大宝元年(701)、文武天皇の勅願で紀道成が創建したことから、この名があります。

名高い道成寺伝説は、延長6年(928)、奥州の僧安珍が、熊野参詣の途中、紀伊国の真砂庄司清次の家に泊まり、その娘清姫に言い寄られます。

夫婦約束までしながら逃げ出したので、嫉妬が高じ、清姫が大蛇となって後を追います。安珍は道成寺に逃げ込んで鐘の中に隠れますが、大蛇が鐘を七巻半巻くと火が出て、安珍は鐘の中で白骨になったというものです。

これが能の「道成寺」や歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」に脚色されました。

噺の後半は、完全にその伝説のパロディーです。

小ばなしの寄せ集め

どの箇所でも切れるので、前座噺としても重宝で、現在でもよく演じられています。

安永2年(1773)刊の笑話本『口拍子』中の「角力取」ほか、多数の小ばなしを継ぎはぎしてできたものです。

歴代巨匠がくすぐり工夫

古くは、明治期の三代目柳家小さんが、前半の北海道のくだりなどを創作したといわれます。当時、北海道は開拓の緒についたばかりで、新開地として、たいへんなブームだったのです。

四代目橘家円喬のものは、天狗につかまって空中旅行するくだりがあり、その後、改めて十九のときに武者修行の旅に出たという設定で、山賊の部分につなげています。

いずれにしても、武士だったということをどこかで言っておかないと、最後の隠居の問いがわかりにくくなりますね。

戦後では六代目円生が意外なほど多く演じました。三代目金馬、五代目志ん生、五代目三升家小勝などもそれぞれくすぐりを加えて演じました。ふつう、長くなるので猪のくだりの「そこが畜生の浅ましさ」で切ることが多いようです。

類話「うそつき村」

同趣向のホラ噺に、千のうち三つしか本当のことを言わないので神田の千三ツと異名を取った男が、子供とホラ合戦をして負ける「うそつき村」があります。三代目三遊亭小円朝は「弥次郎」とつなげて演じました。

うそつき弥次郎

古い江戸ことばで、そのまま、嘘つきやホラ吹きへの囃し文句です。「うそつき弥次郎、藪の中で屁をひった」と続けます。人前でうそをつく者は、隠れて陰でも(「藪の中で」)悪事をするという意味で、子供たちがうそをついた仲間をからかい、囃したてて唱和しました。

三人旅 (発端 神奈川) さんにんたび(ほったん かながわ) 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

落語きっての壮大な叙事詩。そのさわりです。

別題:朝這い 神奈川宿 旅日記

【あらすじ】

ある男が無尽に当たった。

ボロ儲けして喜んでいると、
「てめえがその金をため込む料簡なら、江戸っ子のツラ汚しだから勘当する」
と、おやじに脅かされた。

なにか使い道はないものかといろいろ相談して、結局、仲のいい二人の友達と上方見物と洒落込むことにし、世話になっている親分ほか、大勢の仲間と品川宿で涙の水杯を交わして、めでたく東海道を西に下ることとなる。

鈴が森の刑場、和中散で名高い大森を馬鹿話をしながら通り過ぎ、六郷の渡しを越え、川崎で茶屋の女をからかったりしながら、ようやく神奈川宿の棒鼻に着いたころには、そろそろ夕暮れも近くなっている。

今夜はここで泊まりである。

花沢屋という旅籠(はたご)の若い者に声をかけられ、それではそこにするかと決まりかけたとたん、一人が、俺はこの宿場に義理ある旅籠があって、どうしても泊まらなくてはならないから、てめえ達二人で花沢屋に泊まってくれと、言いだす。

別れて泊まるぐれえなら、初めから三人いっしょに来やしねえと二人が文句を言うと、「それじゃあまあ、日没にはまだ間があるから、少々長くなるが、そのいわく因縁を聞いてくんねえ」

兄いの話によると、去年大山詣りの帰りに泊まった旅籠で、五人のところを四人にしか飯盛女が来ない。

というのも、宿場で最高の女を集めてくれと注文を付けたからで、ランクが落ちてもいいのならまだいくらでもいるが、最高クラスとなるとこの四人しかいないと宿屋側の説明。

なるほど、そろっていい女。

しかたがないので、四人をズラリと廊下に並べ、女の方から相方を選ばせようということになった。

で、一人があぶれたのが、言いだしっぺのこの兄さん。

悔し紛れに掛け軸を破ったりして大暴れしていると、止めに入ったのが色の浅黒い、年は二十四、五の小意気な年増。

必ずあなたの顔の立つようにするからというので癇癪を納め、皆でのむうちに、他の連中は部屋に引き上げて、残ったのはその年増と二人きり。

改めて顔をよく見ると、七、八年前に深川の櫓下の鳶頭の家にいたお梅。

思いがけない再会に女もびっくりし、その場で、夜ふけに忍んでいくお約束ができた。

ところが、酔いつぶれているうちに夜が明け、遅刻したと慌ててお梅の部屋に駆け込んでみると、あっちはにっこり笑い、こっちもにこり。

にこりにこりでヨコリ……という、下らないノロケ話。

「こんちくしょう、それで夜這いを遂げたか」「いや、夜が明けたから朝這いだ」

底本:三代目蝶花楼馬楽 四代目橘家円喬

【しりたい】

連作長編

上方落語の「東の旅」「西の旅」シリーズに匹敵する、江戸っ子の「三人旅」シリーズの発端部分です。「野次喜多」の二人連れに対して、もう一人加えたのがミソですが、あまり成功した噺とは言えません。

神奈川のくだりを「神奈川宿」「朝這い」と称します。従来は、東海道五十三次すべての宿場について噺ができていたといわれますが、現存しているのは発端・神奈川(本編)と小田原(「鶴家善兵衛」)、京見物(「東男」「三都三人絵師」「祇園祭」「およく」)のみです。

「京見物」は、現在は「三人旅」とは別話として、四部作バラバラに演じられます。

明治期の演出

今回のあらすじは、明治の三代目蝶花楼馬楽と四代目橘家円喬の速記をテキストにしました。

大筋では、現行のやり方と変わりませんが、馬楽は、出発の相談をする場面(発端)を詳しく演じ、三人が伊勢参りに行くのに、行きは中仙道を、帰りは東海道を経由するという設定で、「発端」から「神奈川」を飛ばして、すぐに「小田原」に入りました。

これだと、小田原から中山道に入るというのは不自然なので、行きの相談からいきなり帰りの道中ということになり、無理は隠せません。

円喬のは、「旅日記」と題し、これはほぼ現行通りと言ってよいでしょう。

和中散

わちゅうさん。風邪薬の粉薬で、近江国(滋賀県)栗太郡梅の木村に本舗があり、関東では大森に三軒の支店を出していたので、「大森の和中散」として名高いものでした。

神奈川宿

東海道四番目の宿場で、現在の横浜市神奈川区新町から同青木町にかけての高速道路沿いに広がっていました。江戸から約七里(28km)で、この噺の通り、男の足でゆっくり行けば、ほぼ最初の泊まりはここになります。「棒鼻」は宿場の入り口です。

飯盛女

このあたりの方言では、八兵衛といいました。つまり、シベエ(○○しよう)、シベエで合わせてハチベエ。小田原宿では「押しっくら」と名が変わります。表向きは宿屋の女中が半ば公然と売春行為をしていたわけですが、幕府公認の遊郭である吉原以外は、表向き遊女屋の看板は上げられないので、品川宿を始め、すべてタテマエはあくまで宿場。女郎は「飯盛女(給仕人)」の名目で、宿屋が本業の宿泊のほかに、夜のサービスを行う、という体裁でした。

夜這い

よばい。古くは、平安期に男が求婚することを「呼ばふ」と言ったのが始まりです。つまり、当初から「求婚」というのは即、夜中に女の寝所へ忍んでいくことを意味しました。

江戸期には、いなかに行けばさほど珍しい風習でもないのですが、江戸人からは好奇の目で見られました。たとえば、薩摩国(鹿児島県)の夜這いでは、ほとんどの場合、女のオヤジに見つかったら即結婚という極めてキビシイものだったようです。