清正公酒屋 せいしょうこうさかや 演目

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落語版「ロミオとジュリエット」。だから、やっぱり陽気なんです。

別題:縁結び浮き名の恋風

【あらすじ】

酒屋の肥後屋の若だんなで一人息子の清七と、向かいの菓子屋・虎屋の娘お仲は恋仲だが、両家は昔から仲が悪く、二人は許されない恋。

それというのも、もともと宗旨が一向宗と日蓮宗、商売が酒と饅頭で、上戸と下戸。

すべての利害が対立している上、肥後屋は清正公崇拝で、その加藤清正は毒饅頭で暗殺されたという俗説があるから、なおさらのこと。

もう一つ、虎屋だけに、虎退治の清正とは仇同士。

というわけで、とんだロミオとジュリエットだが、この若だんな、おやじの清兵衛に、お仲を思い切らないと勘当だと、脅かされてもいっこうに動じない。

勘当はおやじの口癖で聞き飽きているし、こっちは跡取りで、代わりがいないというバーゲニングパワーもある。

思い切れませんから勘当結構、さっそく取りかかりましょうと開き直られると、案の定おやじの旗色が悪い。

結局、お決まりで番頭が中に入り、清七の処分は保留、「未決」のまま、お仲から隔離するため、親類預けということになった。

そうなると虎屋の方も放ってはおけず、お仲も同じく親類預け。

二人は哀れ、離れ離れで幽閉の身に。

ところが抜け道はあるもので、饅頭屋のお手伝いと、酒屋の小僧の長松が、こっそり二人の手紙を取り次ぐ手はずができた。

ある日、お仲から、夜中にそっと忍んで来てくれという手紙。

若だんなは勇気百倍、脱走して深夜、お仲を連れ出す。

結局駆け落ちしかないというので、二人は手に手を取って夜霧に消えていく。

しかし、しょせん添われぬ二人の仲。

心中しようと決まり、ここで梅川忠兵衛よろしく、
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
とくればはまるのだが、あいにく男の宗旨は法華(日蓮宗)。

「覚悟はよいか」
「南無妙法蓮華経」
……いやに陽気な心中となった。

ナムミョウホウレンゲッキョウナムミョウホウレンゲッキョと蛙の交配期のようにデュエットし、にぎやかに水中へドボン……その時突如、ドロドロと怪しの煙。

ここで芝居がかりになり、
「やあ待て両人、早まるな」
「こはいずこの御方なるか」
「おお、我こそはそちが日ごろ信心なす、清正公大神祗なるぞ」
「ちぇー、かたじけない。この上は改宗なしたる女房お仲の命を助けてくださりませ」
「イヤ、たとい改宗なしたりとも、お仲の命は助けられぬわ」
「そりゃまた、なぜに」
と聞くと清正、ニヤっと笑って
「なあに、オレの敵の饅頭屋だから」

底本:六代目桂文治

【しりたい】

宗派対立

江戸時代の基本的な知識として、法華系(日蓮宗など)と念仏系(浄土宗、浄土真宗、時宗など)との宗派同士の対立がつねにあった、ということです。江戸の町内でもことあるごとに諍いが絶えませんでした。これは、念仏系では穢土と浄土との二元的な救われ方に比べて、法華では法華経以外では絶対救われないという一元的な見方が原因です。お互い、相容れられない考え方なのです。

清正公さま

せいしょうこうさま。縮めて「セイショコさま」とも呼んでます。戦国時代の英傑・加藤清正の霊を神として祀ったものです。武運・金運をつかさどりますが、清正が法華宗の信徒だったところから法華(日蓮宗)信者の信仰を集めました。江戸はほかの地方に比べて法華の宗旨が多く、「法華長屋」「甲府い」「鰍沢」「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」など、落語にも法華の登場する噺はたくさんあります。

江戸の清正公(清正公神祇、清正公大神祇)は二か所あります。一つは浜町の清正公で、現在の中央区日本橋・浜町公園内。元は細川家の中屋敷内にありました。肥後本妙寺の別院で、この噺に登場するのは、こちらです。お間違いのなきよう。もう一つは港区白金の覚林寺境内に祀られる「白金の清正公」で、こちらが本家とされます。清正の画像、ゆかりの品を所蔵していますが、こちらも細川家の白金の中屋敷がすぐ近くで、同家は清正の加藤家が国替え(のちお取りつぶし)後、後釜に肥後熊本に封じられたため、清正の霊を慰める意味もあり、清正公神祇を手厚く庇護したといいます。

暗殺伝説に由来する噺

豊臣家の支柱であった加藤清正が慶長16年(1611)、徳川家康の手により、毒饅頭(毒酒説も)で暗殺されたという俗説に基づいて作られた噺です。オチは文字通りダジャレで、アン殺されたから饅頭が天敵、というわけ。このフレーズ、ドラマ「タイガー&ドラゴン」でも使われてました。

明治期に六代目桂文治が「縁結び浮き名の恋風」の題で得意にしました。この題名は、芝居噺が得意だった文治が、後半の道行きの部分を芝居噺仕立てにしたためです。その後八代目文治、四代目柳家つばめ、戦後も六代目三升家小勝が手掛けましたが、其の後は立川談志が手掛けたぐらいで、残念ながら忘れられかけた噺といっていいでしょう。なんせこの噺、かつての「東京かわら版」発行の『寄席演芸年鑑』索引にも「せ」でなく、「き」の部で載っていたくらいですから。

お題目のデュエット

心中場面のこのくすぐりは、「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」にも取り入れられています。どれが「本家」かはわかりませんが。

【語の読み】
清正公 せいしょうこう
本妙寺 ほんみょうじ
覚林寺 かくりんじ

すずふり【鈴ふり】演目

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遊行寺が舞台、仏門の噺。禁欲の証は一物に鈴を。バレ噺の傑作。「甚五郎作」も。

別題:鈴まら

【あらすじ】

藤沢の遊行寺という名刹。この寺の住職は大僧正の位にあって、千人もの若い弟子が一心に修行に励んでいる。

なにせ弟子の数が多いので、さしもの大僧正も、この中から誰を自分の跡継ぎに選んだらよいか、さっぱりわからない。

そこでいろいろ相談した結果、迷案がまとまった。

旧暦五月のある日、いよいよ次期住職を決める旨のお触れが出る。

その当日、誰も彼も、ひょっとして俺が、いや愚僧がというので、寺の客殿には末寺から押し寄せた千人の僧侶がひしめき合って、青々としてカボチャ畑のような具合。

そこでなにをするかというと、千人一人一人の男のモノに、太白の紐が付いた小さな金の鈴をちょいと結んで
「どうぞ、こちらへ」

次々と奥に通される。

一同驚いていると、やがて御簾の内から大僧正の尊きお声。

「遠路ご苦労である。今日は吉例吉日たるによって、御酒、魚類を食するように」

ただでさえ生臭物は厳禁の寺で、酒をのめ、それ鰻だ、卵焼きだというのだから、どうなっているのかと目を白黒させていると、なんとお酌に、新橋、柳橋の選りすぐりの芸者がずらりと並んで入ってくる。

しかも、そろって十七、八から二十という若いきれいどころ。色気たっぷりにしなだれかかってくるものだから、普段女色禁制で免疫のできていない坊さん連はたまったものではない。

「色即是空、空即是色」
と必死に股間を押さえていると、隣で水もしたたる美女が
「あなた、何をそう、下ばかり向いて」
と、背中をぽんとたたく。

「あっ」
と手を放したとたんに、親ではなくセガレの方が上を向き、くだんの鈴がチリーン。

たちまち、あっちでもこっちでもチリーン、チリーン、チリチリリーン。

千個の鈴の妙なる音色、どころではない。

そのかまびすしい音を聴いて、大僧正、嘆くまいことか。

涙にくれて、
「ああ情けなや。もう仏法も終わりである。千人の全部が全部、鈴を鳴らそうとは」

ところがふと見ると、年のころ二十くらいの若い坊さんがただ一人、数珠をつまぐりながら座禅を組んでいる。

よく聞くと、その坊さんの股間からだけは、鈴の音なし。

大僧正、感激の涙にむせび、これで合格者は決まったと、さっそく呼び寄せて前をまくってみたら鈴がない。

「はい、とっくに振り切れました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生おはこのバレ噺

五代目古今亭志ん生の一手専売だったバレ噺(エロ噺)です。ネタがネタだけに、当人も寄席ではやれず、特殊な会やお座敷だけのサービス品でした。

ただし、珍しくずうずうしくも昭和36年(1961)5月の東横落語会で堂々と演じたライブの音源は、脳出血で倒れる半年ほど前の、元気な頃の最後の高座のものです。

「鈴ふり」のマクラに志ん生が必ずつけたのが、関東十八檀林の言い立て。

挙げられる十八か寺は、浄土宗で大僧正となるために修行しなければならない関東の諸名刹です。

この噺の舞台、藤沢の遊行寺は、一遍上人の「踊り念仏」で有名な時宗の総本山。正しくは藤沢山無量光院清浄光寺といいます。

「時宗」という呼称は寛永8年(1631)から。江戸幕府から時宗274寺の総本山と認められるところから始まります。意外に新しいのです。

規模が小さいことと同じ念仏系のため、浄土宗系寺院と重なることもありますが、この噺のごちゃごちゃぶりはさすがに落語的です。

志ん生の長男で、まじめそのものの芸風だった(ここがまたいいのですが)十代目金原亭馬生もたまに演じていました。

昭和33年(1958)10月11日の「第67回三越落語会」。

志ん生はトリで「黄金餅」をやる予定でした。その前に八代目林家正蔵(彦六)が「藁人形」を。これは関係者の不手際によるものでした。ひとつの興行で同じ傾向の噺が続くのを「噺がつく」と忌むのが落語の世界です。そこで、志ん生は客にことわって「鈴ふり」をみっちりやったといいます。こういうところが志ん生のいきなところですね。

関東十八檀林の言い立て

「檀林」とはお坊さんの修行道場で学問所。

ここでいう「関東十八檀林」は浄土宗の寺院をさします。浄土宗は徳川家康が信仰していたことから、宗派における地位は優越でした。

江戸の町では、浄土宗と日蓮宗が信者獲得競争に明け暮れしており、その勢力と知名度は他宗派をしのいでいました。

浄土宗のお坊さんは寺を巡るごとに出世していったわけですね。志ん生の言い立てを再現してみましょう。

その修行の一番はなへ飛び込むのはってェと、下谷に幡随院という寺がある。その幡随院に入って修行をして、その幡随院を抜けて、鴻巣の勝願寺という寺へ入る。この勝願寺を抜けまして、川越の蓮馨寺へ。蓮馨寺を抜けまして、岩槻の浄国寺という寺に入る。浄国寺を抜けまして、下総小金の東漸寺という寺に入り、東漸寺を抜けて、生実の大厳寺へ入り、滝山の大善寺へ入る。ここから、常陸江戸崎の大念寺へ入って、上州館林の善導寺へ入る。それから、本所の霊山寺へ入って、結城の弘経寺へ入って、ここで紫の衣一枚となるまで修行をしなければならない。それから、下総国飯沼の弘経寺というところへ入る。ここは十八檀林のうちで、隠居檀林といって、この寺で、たいがい体が尽きちゃう。そこを、一心になって修行をして、この寺を抜けて、深川の霊厳寺に入り、霊厳寺を抜けて、上州新田の大光院に入って、瓜連の常福寺に入って、そうして、紫の衣二枚になって、それより、えー、小石川の伝通院へ入り、伝通院を抜けて、鎌倉の光明寺へ入って、そこで緋の衣一枚となって、それより、江戸は芝の増上寺に入って、増上寺で修行をして、緋の衣二枚となって、はじめて大僧正の位となるという……ここまでの修行が大変であります。

「甚五郎作」

「鈴ふり」が短い噺なので、志ん生は「甚五郎作」という小咄をセットで語っていました。これもバレ噺です。

昭和31年(1956)1月8日号の『サンケイ読物』で、志ん生は福田蘭堂と対談をしています。タイトルは「かたい話やわらかい話」で、二人で昔の吉原の思い出を肴に笑っています。その中で、志ん生は「甚五郎作」を語っています。

対談を読むと、志ん生にとって「甚五郎作」は相当なお気に入りの噺だったように思えるのですが、当の福田蘭堂(石橋エータローの父親)は「なるほど。きれいなオチですね」とかえした程度。福田の笑いのセンスは志ん生のそれとはズレていたようです。残念な人です。

では、福田が聴いた「甚五郎作」を再現してみましょう。

昔はいいとこの娘でも、行儀見習いといって、大名屋敷へ奉公へ行ったでしょう。方向へ上がるてえとみんな女ばかり。年頃となってくると男なしではいられない。といって、不義はお家のご法度、男は絶対に近づけられない。そこへつけこんで商売を始めたのが張り形屋。つまり、男の代用品ですね。両国の四ツ目屋なんぞへ、御殿女中がこれを買いにやってくる。ある家の娘が、やはりこのご奉公に上がって、体の具合が悪くなって帰ってきた。医者にみせると妊娠しているという。おっかさんが驚いて、娘に相手は誰かと聞く。娘は「相手なんかいない」というんです。相手がなくて妊娠するわけはないと問い詰めて、娘の手文庫を調べたら、中から張り形が出てきた。「おまえ、これで赤ん坊ができるわけがないよ」と言って、張り形の裏を返したら「左甚五郎作」と彫ってあった。左甚五郎の作ったものは、生き物のように飛び出るという、あれですね。

志ん生という人は、元来、こういうスマートな噺を好んだようです。いきだなあ。

【語の読みと注】
下谷の幡随院 したやのばんずういん
鴻巣の勝願寺 こうのすのしょうがんじ
川越の蓮馨寺 かわごえのれんけいじ
岩槻の浄国寺 いわつきのじょうこくじ
下総小金の東漸寺 しもうさこがねのとうぜんじ
生実の大厳寺 おうみのだいがんじ
滝山の大善寺 たきやまのだいぜんじ
常陸江戸崎の大念寺 ひたちえどさきのだいねんじ
上州館林の善導寺 じょうしゅうたてばやしのぜんどうじ
本所の霊山寺 ほんじょのりょうざんじ
結城の弘経寺 ゆうきのぐきょうじ:紫の衣一枚
下総国飯沼の弘経寺 しもふさのくにいいぬまのぐきょうじ:隠居檀林
深川の霊厳寺 ふかがわのれいがんじ
上州新田の大光院 じょうしゅうにったのだいこういん
瓜連の常福寺 うりづらのじょうふくじ:紫の衣二枚
小石川の伝通院 こいしかわのでんづういん
鎌倉の光明寺 かまくらのこうみょうじ:緋の衣一枚
芝の増上寺 しばのぞうじょうじ:緋の衣二枚 大僧正

【甚五郎作+鈴ふり 古今亭志ん生】