やなぎのばば【柳の馬場】演目

原話は遠く中国にあるそうです。彦六が得意とした噺。

【あらすじ】

按摩の杢市は、ある旗本の殿さまのごひいきに預かり、足げく揉み療治に通っている。

ある日、いつものように療治が終わってからのよもやま話で、目の不自由な人間をいじめる輩への怒りを訴えたところから口が滑って、自分はいささか武道の心得がある、と、ホラを吹いてしまった。

殿さまが感心したのでつい図に乗って、剣術は一刀流免許皆伝、柔術は起倒流免許皆伝、槍術は宝蔵院流免許皆伝、薙刀は静流免許皆伝と、もうこうなると止まらない。

弓術は日置流免許皆伝、そこまで並べたところで殿さまが
「剣や槍はわかるが、的も見えないそちが弓の名手とはちと腑に落ちんぞ」
と文句を言うと、
「そこは心眼で」
とごまかす。

ますます口が滑らかになり、
「ご当家は三河以来の馬術のお家柄なのに、りっぱな馬場がありながら馬がいないというのは惜しい。自分は馬術の免許皆伝もあるので、もし馬がいればどんな荒馬でも乗りこなしてみせるのに残念で」
などと見栄を切ったのが運の尽き。

殿さまが膝を乗り出して
「実はこの間、友人の中根が『当家に馬がないのはご先祖にも申し訳あるまい。拙者が見込んだ馬を連れてきてやろう』と言っていたが、その馬が荒馬で、達人の中根自身も振り落とされてしまった。きさまが免許皆伝であるのは幸い。一鞍責めてくれ」

杢市は青くなったが、もう遅い。

もとより馬のウの字も知らないから、しかたなく、今のは全部うそで、講釈場で「免許皆伝」と流儀の名前だけを仕入れたことを白状。

殿さまは
「身供に術を盗まれるのを心配してさようなことを申すのであろう」
と、全然取りあってくれない。

若侍たちにむりやり抱えられ、鞍の上に乗せられてしまった。

馬場に向かって尻に鞭をピシッと当てられたからたまらず、暴れ馬はいきり立って杢市を振り落とそうとする。

半泣きになりながら必死にぶるさがって、馬場を半周ほどしたところに柳の大木。

この枝にあわてて飛びつくと、馬は杢市を残してどどっと走っていってしまう。

「杢市、しっかとつかまって手を離すでない。その下は谷底じゃ。落ちれば助からん」
「ひえッ、助けてください」
「助けてやろう。明日の昼間までには足場が組めるだろう」

冗談じゃない。もう腕が抜けそうだ。

「長年のよしみ、妻子老母は当屋敷で養ってつかわす。心置きなく、いさぎよく死ね」

耐えきれなくなり
「南無阿弥陀仏」
と手を離すと、地面とかかとがたった三寸。

【RIZAP COOK】

【しりたい】

円喬伝説、彦六好みのシブーイ噺  【RIZAP COOK】

中国明代の笑話集『応諧録』中の小咄が原型とみられますが、日本での原話は不詳です。

明治期は四代目橘家円喬の名演がいまだに語り草です。幼時に見た六代目円生の思い出では、円喬は座って演じているのに、杢市が枝にぶら下がった足先に、本当に千尋の谷底が黒々と広がって見えたとか。円生は、生涯この噺を手掛けませんでした。

初代三遊亭円左も得意としました。円左は三遊亭円朝門下の俊秀でしたが、目が細かったのであだ名が「按摩」「鍼医」。この噺を何度も演じているのに、本格的に売り物にしようというとき、わざわざ兄弟子の三遊一朝に改めて断りに行ったそうです。明治人の義理がたさでしょう。

その一朝から、八代目林家正蔵(彦六)と二代目三遊亭円歌が直伝で継承しました。両者とも音源を残していますが、特に正蔵のものは、地味ながら滋味あふれる語り口で名品でした。オチは、この後「口は災いのもと」と「ダメを押す」(正蔵)こともありました。主人公の杢市は「富市」で演じることもあります。

彦六の芸談から  【RIZAP COOK】

杢市がぶら下がったとき、下から手を突き上げるようにすると、腕がのび切ったように見えます。(中略)このはなしは先代の(注:八代目)文治さんもやりました。文治さんのは、杢市がしゃべりまくるので、旗本がうるさがってだまっちゃうんです。すると杢市が「殿さま、殿さま、かわやへお立ちになったんですか」「杢市」「ああ、いた」というところが、よかったですね。

彦六にはほかに、主人公の按摩が終始一人称で語る形式の人情噺「あんま」(村上元三・作)がありました。

按摩と座頭  【RIZAP COOK】

しばしば混同されますが、前者は職業名、後者は位階です。視覚障害者の身分差、位階については「松田加賀」をご参照ください。按摩は揉み療治、鍼灸などを業とし、座頭の位がもらえて初めて営業を許されました。按摩には目の不自由な人だけでなく、目が見える者も多く、その場合は座頭の資格ではなく、頭を丸めて医者と名乗っていました。

黙阿弥の世話狂言「加賀鳶」の悪按摩・熊鷹道玄とおさすりお兼はともに視覚に問題はありません。お兼はゆすりに来て、「按摩按摩と番頭さん、あんまり安くお言いでない。マクラ付きの揉み療治、二朱より安い按摩はしませんよ」と居直る通り、ついでにいかがわしいサービスも行っていたわけで、女性にはこういう手合いもいたようです。同狂言では、本郷菊坂にあった目の不自由な人たちの長屋の場があり、当時の風俗の貴重なルポともなっています。

一般に、全身マッサージ(上下=かみしも)の場合は、幕末で四十八文が相場とされ、お兼の言う二朱は四百八十文相当ですから、十倍! いくらなんでも無茶苦茶な「揉み代」です。

【語の読みと注】
按摩 あんま
杢市 もくいち
槍術 そうじゅつ
薙刀 なぎなた
日置流 へきりゅう
鞍 くら
鞭 むち

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ひとつあな【一つ穴】演目

【RIZAP COOK】

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権助の登場する噺。古い江戸落語です。

【あらすじ】

ある金持ちのだんな。

ケチな上に口が悪いので、奉公人には評判がよろしくない。

そのだんなにお決まりで、外に女ができたという噂。

お内儀さんは心穏やかでない。

飯炊きの権助を五十銭で口説き落とし、今度だんなが夜外出するとき、跡をつけて女の所在と素性を突き止めてくるよう、言いつける。

まもなく、二、三日ぶりに帰宅しただんなが、また本所の知人宅へ出かけると言いだした。

さああやしいと、細君は強引に権助をお供に押しつける。

だんなが途中でうまく言い繕い、帰そうとする。

権助は
「人間は老少不定、いつどこで行き倒れになるかわからねえ」
などと屁理屈をこね、どこまでもついてくる。

ところがその権助の姿がふいに見えなくなったので、だんなは安心して、両国の広小路から、本所とは反対方向に清澄通りを左折していく……。

巻かれたふりをして、こっそり尾行する権助に気づかず、だんなは、大橋という大きな茶屋の横町を曲がり、角から二軒目で抜け裏のある、格子造りの小粋な家に入っていった。

権助が黒塀の節穴からのぞくと、二十一、二で色白のいい女。

だんながでれでれになり、細君の顔を見ると飯を食うのもイヤだの、ウチの飯炊きのツラは鍋のケツだのと、言いたい放題のあげ句、昼間だというのにぴしゃっと障子を閉めてしまったのを見て、権助はカンカン。

さっそく、ご本宅に駆け込んで、ご注進に及んだ。

もちろん、お内儀さんも権助以上にカンカン。

現場を押さえるため、今すぐに先方に乗り込むと息巻く。

権助はさすがに心配になったが、下手に止めるとおまえも一つ穴の狐だと言われ、しかたなくお供をして妾宅に乗り込んでいく。

一方、こちらはだんな。

一杯機嫌でグウグウ寝込んでいるところへ、お妾さんの金切り声でたたき起こされる。

寝ぼけ眼でひょいと枕元を見上げると、紛れもない細君が恨めしそうな顔でにらんでいるので仰天したが、もう後の祭り。

初めはしどろもどろ言い訳し、なんとかこの場を逃れようとするが、お内儀は聞かばこそ。

ネチネチと嫌みを言うので、しまいにはこちらの方も頭にきて、居直った挙げ句、ポカリとやったから、さあ大変。

大げんかになる。

見かねて仲裁に権助が飛び込んできたからだんな、ますます怒って、
「てめえは裏切り者だ、犬畜生だ」
と、ののしる。

こうなると、売り言葉に買い言葉。

「おらあ国に帰ると、天下のお百姓だ。どこが犬だ」
「なにを言いやがる。あっちでもこっちでも尻尾ォ振ってるから犬だ」
「ああそれで、おめえは犬といい、お内儀さんは一つ穴の狐だと言った」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

今は昔、名人綺羅星のごと 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、幕末にはもう口演されていた生粋の江戸噺。

ことわざからでっちあげられた噺は、ほかには「大どこの犬」「長崎の強飯」「みいらとり」くらいで、案外、あるようでないものです。

この噺、古い速記がやたらに多く、明治28年(1895)12月の四代目橘家円喬を始め、四代目円蔵、初代円右、二代目小円朝と、明治・大正の名人がずらり。

昭和から戦後でも、八代目桂文治、八代目春風亭柳枝、六代目三遊亭円生が得意にしましたが、今は見る影もなし。

わずかに、柳枝、円生両人に師事した三遊亭円窓、本法寺で禁演落語の会を開いていた「ロイド眼鏡の円遊」くらいでしょうか。

噺にも、はやりすたりがあるということでしょう。

円生の芸談  【RIZAP COOK】

円生は、この噺のカンどころとして、権助が塀から濡れ場を覗いて独白するくだりを挙げ、「向こうの言っている言葉を、いちいち復唱するように」と芸談を残している通り、描写が写実的で詳細でした。

そういえば、お内儀が権助に、だんなの尾行を強要する前半部は「権助魚」「悋気の独楽」などと共通しているので、噺として独自色を出すためには、後半の濃密なエロ描写を眼目にするほかないのでしょう。

円喬以来、演出はさほど変わっていませんが、二代目小円朝のように、発端部分をばっさり切って、権助が帰ってきた場面から入る演者もありました。

名誉の禁演落語  【RIZAP COOK】

当然ながらこの噺、戦時中の「禁演落語」の内で、昭和16年(1941)10月30日、浅草・本法寺の噺塚に「祭られた」栄えある53演目の一つ(穴?)です。

もっとも、これほど濃密なエロ具合では、禁演になる以前に、昭和10年代には「問題外」だったでしょうね。

一つ穴の狐  【RIZAP COOK】

もはや死語と言っていいでしょう。現在は「同じ穴のむじな」として、辛うじて生き残っている慣用句です。

同腹、同類、共謀者を指す古い江戸ことばですが、動物が替わって「一つ穴の古狸」「一つ穴のむじな」となる場合もあり、いずれも意味は同じです。

これらは、巣穴を掘る習性のあることと、古くから人を化かすといわれるのが共通点です。

「一つ」にも、独立して同じ共犯の意味があり、歌舞伎でよく「○○と一つでない証拠をお目にかけん」などと力んで、腹に刀を突き立てたりします。

【語の読みと注】

お内儀 おかみ
大橋 たいきょう
妾宅 しょうたく

【RIZAP COOK】

のめる【のめる】演目

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

軽い「くせ噺」です。小気味よくておもしろい。時折演じられますね。

別題:二人癖(上方)

【あらすじ】

酒好きで、なにかにつけて「のめる」というのが口癖の男。

友達に、「つまらねえ」が口癖の男がいる。

無尽に当たっても
「つまらねえ」
と言うので、
「当たってこぼすことはねえ」
ととがめると
「当たらねえやつはつまらねえ」
という。

お互いに悪い癖だから、一言でも口癖を言ったら、一回百円の罰金を取ろうと取り決めたが、なんとか「つまらねえ」を言わせて金をせしめようと、隠居に相談に来る。

その間にも
「百円ありゃア、一杯のめる」
と、もうやっている始末。

隠居、それなら印半纏に着替えて向こうの家に行き、手にちょっと糠をつけて
「練馬に叔母さんがいて、大根をいま百本もらった。沢庵に漬けようと思うんだが、あいにく四斗樽がないから、物置きを探すと醤油樽が出てきた。その中へ百本の大根を漬けようと思うが、つまるかねえ」
と持ちかけてみな、と策を授ける。

そうすると向こうが
「百本の大根といやあ、かなり嵩がある。それはどうしてもつまらない」
と、ここで引っかかるだろうと言うので、これはいいと、さっそく出かけていく。

その場になるとセリフを忘れてしまい、しどろもどろでようやく
「醤油樽へつまろうか」
までこぎつけた。

相手は
「そりゃあとてもつま」
まで言いかけてニヤリと笑い
「へえりきらねえ」

「つまろうか?」
「残るよ」
「つまろうか?」
「たががはじける」
「足で押し込んで」
「底が抜けるよ」

どうしてもダメ。

これから外出するというので、
「どこへ」
と聞くと、
「伊勢屋の婚礼だ」
という。

「婚礼? うまくやってやがる。のめるな」

逆にワナに落ち、百円せしめられる。

婚礼は真っ赤なうそ。

再び隠居に泣きつくと、
「今度は相手の遊びに来る時間を見計らい、将棋盤を前に、詰め将棋を考えている振りをしろ」
と言う。

持ち駒は歩が三枚に金、銀。

どうせ詰まないから、口を出してきた時を見計らって
「つまろうか?」
と聞くと、相手も夢中になっているだろうから、きっと引っかかるという作戦。

将棋などやったこともないから、盤と駒を借りてしきりにウンウンうなっていると、「つまらない」がやってきた。

間のいいことに、これが無類の将棋好き。

「待ちな待ちな。あたまへ金を打って、下がって……駒は? それっきり? 誰に教わった? 床屋の親方? からかわれたんだ。これじゃ、どうしてもつまらねえ」

これを言わせるために艱難辛苦したのだから、興奮して胸ぐらをつかむ。

「いてて、ばか、よせ。うーん、こりゃ一杯食った。てめえの知恵にしちゃできすぎだ。よし、決めを倍にして二百円やろう」
「ありがてえ、一杯のめる」
「おっと、それでさっ引きだ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原話は「癖はなおらぬ」  【RIZAP COOK】

原話は古く、元禄14年(1701)、京都で刊行された『百登瓢箪』巻二「癖はなおらぬ」です。

これは、鼻を横なでする癖のある者と頭をたたく癖のある者が申し合わせて癖をやめることにしますが、つい話に熱中するうちに二人ともまたやらかすという、たわいない話です。

登場人物が二人という以外は、現行とは内容が違うので、遠い原型というくらいでしょうか。

くせの噺は、昔から小咄、マクラ噺としては多数あり、くせの種類も、口ぐせから動作までさまざまです。

特に、動作では、八代目雷門助六が「しらみ茶屋」で見せた畳のケバむしり、鼻くそとばしの応酬が抱腹絶倒でした。

ビジュアルな名人芸の見せ所なのでしょう。

なくて七癖、噺もいろいろ  【RIZAP COOK】

登場する人数も、一人(一人癖)、二人(二人癖)、三人(三人癖)と増えるにつれ、演じ分けも難しくなっていきます。

あまり出ませんが、「四人癖」では、鼻こすり、眼こすり、そで引っ張り、「こいつはいい」(手をたたく)の四人が登場、四人が失敗して、勝った「こいつはいい」が最後に罰金で一杯やれるというので「なるほどこいつはいい」でオチになります。

「のめる」は、くせ噺としてはもっとも洗練されたもので、上方の演題はそのものずばり「二人癖」です。

いずれにせよ、ルーツは民話、昔話にあるのでしょう。

名人連の二つ目噺  【RIZAP COOK】

東京では、大阪通りの「二人癖」で演じた、明治29年(1896)3月の三代目柳家小さんの速記があり、同時代の四代目橘家円喬も得意でした。円喬は三遊派の旗頭でした。

円喬のは、SPレコードからの復刻音源が残されています。オチは、円喬だけは変わっています。

「一本歯の下駄を頼みに行くんだ」
「一本歯の下駄なら(前に)のめるだろう」
「今ので差っ引きだ」

現在はこれを使う演者はいないでしょう。

六代目三遊亭円生が「軽い噺で、二つ目程度がやる噺」と述べていますが、なかなかどうして、昭和初期から戦後ではその円生のほか、八代目春風亭柳枝、三代目三遊亭金馬ら多くの大看板が手がけていて、現在もよく高座に掛けられます。

三代目金馬は「のめる」でなく「うめえ」を口癖にしていたので、当然演題は「二人癖」でした。

たくあん事始   【RIZAP COOK】

京都大徳寺の住職時代の沢庵宗彭(たくあんそうほう)が寛永16年(1639)に発明したとされますが、疑問があります。「じゃくあん」「たくわえづけ」からの転訛で、単に沢庵の名と結び付けられただけというのが、真説のようです。

その他、沢庵の創建した品川東海寺では、三代将軍家光の命名伝説もありますが、珍説は、沢庵の墓石がタクアン石に似ていたから、というもの。

東海寺では、タクアンの名をはばかって「百本」というそうですが、他の宗派(東海寺は臨済宗大徳寺派)や寺院でも、名僧への非礼を避け「香の物」などと呼ぶことが多いようです。

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ごしょううなぎ【後生鰻】演目

【RIZAP COOK】

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小動物を放すと功徳が。本末転倒のばかばかしさ。最高絶妙の傑作です。

別題:放生会 淀川(上方)

【RIZAP COOK】

【あらすじ】

さる大家の主人、すでにせがれに家督を譲って隠居の身だが、これが大変な信心家で、殺生が大嫌い。

夏場に蚊が刺していても、つぶさずに、必死にかゆいのをがまんしているほど。

ある日、浅草の観音さまへお参りに行った帰りがけ、天王橋のたもとに来かかると、ちょうどそこの鰻屋のおやじが蒲焼きをこしらえようと、ぬるりぬるりと逃げる鰻と格闘中。

隠居、さっそく義憤を感じて、鰻の助命交渉を開始する。

「あたしの目の黒いうちは、一匹の鰻も殺させない」
「それじゃあ、ウチがつぶれちまう」
と、すったもんだの末、二円で買い取って、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

翌日、また同じ鰻屋で、同じように二円。

ボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

その翌日はスッポンで、今度は八円とふっかけられたが、
「生き物の命はおアシには換えられない、買いましょう」
「ようがす」
というわけで、またボチャーン。

これが毎日で、喜んだのは鰻屋。

なにしろ隠居さえ現れれば、仕事もしないで確実に日銭が転がり込むんだから、たちまち左うちわ。

仲間もうらやんで、
「おい、おめえ、いい隠居つかめえたな。どうでえ、あの隠居付きでおめえの家ィ買おうじゃねえか」
などという連中も出る始末。

ところがそのうち、当の隠居がぱったりと来なくなった。

少しふっかけ過ぎて、ほかの鰻屋にまわったんじゃないかと、女房と心配しているところへ、久しぶりに向こうから「福の神」。

「ちょっとやせたんじゃないかい」
「患ってたんだよ。ああいうのは、いつくたばちまうかしれねえ。今のうちに、ふんだくっとこう」

ところが、毎日毎日隠居を当てにしていたもんだから、商売は開店休業。

肝心の鰻もスッポンも、一匹も仕入れていない。

「生きてるもんじゃなきゃ、しょうがねえ。あの金魚……ネズミ……しょうがねえな、もう来ちゃうよ。うん、じゃ、赤ん坊」

生きているものならいいだろうと、先日生まれたわが子を裸にして、割き台の上に乗っけた。

驚いたのは隠居。

「おいおい、その赤ちゃん、どうすんだ」
「へえ、蒲焼きにするんで」
「ばか野郎。なんてことをしやがる。これ、いくらだ」

隠居、生き物の命にゃ換えられないと、赤ん坊を百円で買い取り、前の川にボチャーン。

「あー、いい功徳をした」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

後生

ごしょう。昔はよく「後生が悪い」とか「後生がいい」とかいう言い方をしました。後生とは仏教の輪廻転生説でいう、来世のこと。

現世で生き物の命を助けて功徳(よい行い=善行)を積めば、生まれ変わった来世は安楽に暮らせると、この隠居は考えたわけです。

五代将軍、徳川綱吉の「生類憐みの令」も、この思想が権力者により、ゆがんだ、極端な形で庶民に強制された結果の悲劇です。なにごとも、ほどほどがよろしいようで。

江戸市中に鰻の蒲焼が大流行したのは、天明元年(1781)の初夏でした。てんぷらも、同じ年にブームになっています。

それまでは、鰻は丸焼きにして、たまり醤油などをつけて食べられていたものの、脂が強いので、馬方など、エネルギーが要る商売の人間以外は食べなかったとは、よく言い習わされている説ですね。

それまでも、眼病治療には効果があるので、ヤツメウナギの代わりとして、薬食いのように食べられることは多かったようです。

屈指のブラック名品

オチが効いています。こともあろうに、落語にモラルを求める野暮で愚かしい輩は、ごらんの結末ゆえに、この噺を排撃しようとしますが、料簡違いもはなはだしく、このブラックなオチにこそ、えせヒューマニズムをはるかに超えた、人間の愚かしさへの率直な認識が見られます。「一眼国」と並ぶ、毒と諷刺の効いたショートショートのような名編の一つでしょう。

志ん生、金馬のやり方

上方落語の「淀川」を東京に移したもので、明治期では、四代目橘家円喬の速記が残っています。

戦後では、五代目古今亭志ん生、三代目三遊亭金馬、三代目三遊亭小円朝がそれぞれの個性で得意にしました。志ん生、金馬は、信心家でケチな隠居が、亀を買って放してやろうとし、一番安い亀を選んだので、残った亀が怒って、「とり殺してやるっ」という小ばなしをマクラにしていました。

小円朝は、ふつう隠居が「いい功徳をした」と言うところを、「ああ、いい後生をした」とし、あとに「凝っては思案にあたわず」と付け加えるなど、細かい工夫、配慮をしていました。

この噺は、別題を「放生会(ほうじょうえ)」といいますが、これは旧暦八月十五日に生き物を放してやると功徳を得られるという、仏教行事にちなんだものです。

【RIZAP COOK】

かじかざわ【鰍沢】演目

 

身延参詣の帰途、宿を借りたら命狙われ雪中の逃避行。続編は「晦の月の輪」。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊

あらすじ

おやじの骨を身延山に納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目を唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋に売って細々と生計を立てている身。

「おまえはん、後生だから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船。

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省になる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師さまのご利益。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作。幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しましたが、円朝がその席で「鉄砲」「毒消しの護符」「玉子酒」の三つのキーワード(一説には「小室山の護符」「熊の膏薬」「玉子酒」とも)から即座にまとめたものです。三題噺からできた落語では円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは、「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

と、これまではいわれてきましたが、最近の研究ではちょっと違っています。

文久年間に「粋狂連」のお仲間、河竹黙阿弥がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を取り上げていました。黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺です。興行で提携していた四代目小団次こそが日蓮宗の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、義兄(玄昌)の住持する南泉寺(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮宗とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と日蓮宗(題目系)との対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派をはなしに取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(日蓮宗、法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。このはなしもご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素ばなし一本で名人に上り詰めましたが、「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬の迫真の名演は、今も伝説的です。

近年では八代目正蔵に正統が伝わり、五代目志ん生も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、正蔵が特別な会で復活したものが門弟の正雀に継承されたほかは、やり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

五代目志ん生は、自らが円朝、円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、円朝全集を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたいできです。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのです。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編が「鰍沢二席目」です。正式には「晦(みそか)の月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃・明神峠で追い剥ぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てですが、明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波版「円朝全集」には別巻2に収められています。

鰍沢  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩郡鰍沢町。東海道から甲府に至る交通の要衝で、古くから、富士川添いの川港として物資の集積点となり、栄えました。「鰍沢の流れ」は富士川の上流で、東海道岩淵在は現在の静岡県庵原郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついていますが、「おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺や亀有の善応寺などの投げ込み寺に葬られました。どちらかが生き残った場合は下手人の刑として処刑されました。両方とも生き残った場合は、日本橋南詰め東側に三日間、晒し刑にされました。これは悲惨です。縄や竹などで張られた空き地に、萱や棕櫚などで葺いた三方開きに覆いの中に筵を敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦みといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋馬鹿をつくした差し向かい
江戸のまん中でわかれる情けなさ
死すべき時死なざれば日本橋
日本に死にそこないが二人なり
日本橋おしわけてみる買った奴
四日目は乞食で通る日本橋
吉原の咄をさせる小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。浅草では車善七、品川では松右衛門と決まっていました。吉原で遊女をしていた頃の話を聞こうとする非人頭もずいぶんといやらしい了見です。そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

【語の読みと注】
浄閑寺 じょうかんじ:荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺だった
善応寺 ぜんのうじ:足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺だった

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