まつやまかがみ【松山鏡】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

【どんな?】

いまだ自分の姿を見る手段を持たない人々の村。
鏡に映る自分が死んだ父親だと思い込む男。
仏教典や謡曲などが入り込んで磨かれた噺です。

別題:羽生村の鏡(上方)

あらすじ

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文あおざしごかんもんのほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と、下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋なや古葛籠ふるつづらの中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に乱れて泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

しりたい

ルーツはインド   【RIZAP COOK】

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経ひゃくゆきょう』巻三十五「宝篋ほうきょうの鏡のたとえ」が最古の出典といわれます。

中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。

その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。

これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も   【RIZAP COOK】

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘(佐藤三吉、1837-1906、薬研堀の)の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945、大阪→東京)が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽(並河益義、1892-1971)が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝(芳村幸太郎、1892-1973)、志ん生の長男十代目金原亭馬生(美濃部清、1928-82)も演じました。現在では十一代目桂文治がなかなかです。

累伝説のパロディー   【RIZAP COOK】

上方では「羽生村の鏡」と題します。

筋は東京と変わりませんが、舞台をかさねの怪談で有名な下総羽生村とします。

この村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村   【RIZAP COOK】

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりでなんらかの実話があったのかもしれません。

地頭   【RIZAP COOK】

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび   【RIZAP COOK】

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰   【RIZAP COOK】

大山詣り 」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の愛人になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山詣り」ではおかみさんたちを、「剃刀(坊主の遊び)」ではお女郎さんを、それぞれ丸刈りにしています。

インチキなまり   【RIZAP COOK】

八代目文楽が『芸談 あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

ことばよみいみ
青緡 あおざし青繦。銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの
貫文かんもん銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫
宝篋の鏡の喩 ほうきょうのかがみのたとえ
東頸城郡 ひがしくびきぐん
八咫鏡やたのかがみ
葛籠つづら
北越雪譜 ほくえつせっぷ江戸後期の地誌。鈴木牧之の著作
累伝説 かさねでんせつ

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こうこうとう【孝行糖】落語演目



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【どんな?】

親孝行の与太郎が飴売りに。
長屋総出で応援する社会更生の麗しい一編。

あらすじ

今年二十一になるが、頭の中がうすぼんやりしている与太郎。

親孝行のほうびに、おかみから青緡五貫文あおざしごかんもんをちょうだいした。

大家がこれを機会に、この金を元手にして、なんとか与太郎の身の立つように小商いでも考えてやりたいと、長屋の衆に相談する。

一人が、昔、役者の嵐璃寛あらしりかん中村芝翫なかむらしかんの顔合わせが評判を呼んだのに当て込んで、璃寛糖りかんとう芝翫糖しかんとうという飴を売り出してはやらせた人がいるから、それにならって、与太郎に飴を売らせたらどうか、と提案。

璃寛糖は、頭巾ずきんをかぶりかねと太鼓を前につるして、
「チャンチキチン、スケテンテン」
というのを合い方に、
璃寛糖りかんとうの本来は、うるち小米こごめに寒ざらし、かやァに銀杏ぎんなん肉桂にっき丁子ちょうじ、チャンチキテン、スケテンテン。昔、むかし、唐土もろこしの、二十四孝にじゅうしこうのその中で、ほら老莱子ろうらいしといえる人、親を大事にしようとて、ほら、こしらえあげたる孝行糖、食べてみな、ほらおいしいよ、また売れたったら、うれしいねっ」
と歌って歩いたもの。今回、与太郎は孝行でほうびをもらったのだから、名前も「孝行糖」、文句はそっくり借りることにしよう、というので一同賛成し、それからというもの、総出で与太郎に歌を暗記させた。

ナントカの一つ覚えで、かえって普通の人より早く覚えたので、町内で笛、太鼓、身なりともにそっくりしたくしてやって、与太郎はいよいよ飴売りに出発。

親孝行の徳か、この飴を買って食べさせると子供が孝行になるという噂が広がって大評判。

売れると商売にも張り合いが出るもので、与太郎、雨の日も風の日も休まず、
「スケテンテン、コーコートー」
と流して歩く。

ある日、相変わらず声を張り上げながら、水戸さまの屋敷前を通りかかる。

江戸市中で一番やかましかったのがここの門前で、少しでもぐずぐずしていると、たちまち門番に六尺棒ろくしゃくぼうで「通れ」と追い払われる。

ところがもとより与太郎、そんなことは知らないから、能天気に
「孝行糖の本来は、粳の小米に寒ざらし……」
とやったから、門番、
「妙な奴が来たな。とおれっ」
「むかしむかし、もろこしの、二十四孝のその中で」
「行けっ」
「食べてみな、おいしいよ」
「ご門前じゃによって鳴り物はあいならん」
「チャンチキチン」
「ならんというんだ」
「スケテンテン」
「こらっ」
「テンドコドン」

……叱言を鳴り物の掛け声に使ったから、たちまち六尺棒でめった打ち。

通りかかった人が、
「逃げろ、逃げろ……どうぞお許しを。空ばかでございますが、親孝行な者……これこれ、こっちィこい」
「痛えや、痛えや」
「痛いどころじゃねえ。首斬られてもしょうがねえんだ。……どこをぶたれた」
と聞くと与太郎、頭と尻を押さえて
「ココォと、ココォと」

底本:三代目三遊亭金馬

しりたい

実在した与太郎

孝行糖売りは明治初期、大阪にいたという説があります。

実はそのずっと以前、弘化こうか3年(1846)2月ごろから藍鼠色あいねずいろ霜降しもふりたけのこを描いた半纏はんてんを着て、この噺の与太郎とまったく同じ唄をうたいながら江戸の町を売り歩いていた飴屋がいたことが、『藤岡屋日記ふじおかやにっき』に記されています。

政商だった藤岡屋由蔵よしぞうの見聞記です。まず、当人に間違いありません。

青緡五貫文

唐茄子屋政談」「松山鏡」にも登場しますが、銭五貫文は幕末の相場でおよそ一両一分。四千八百文にあたります。

現在の相場で約10万円。

それを青く染めた麻縄の銭挿し(これが青緡あおざし)に通して、孝行のほうびに町奉行より下されます。「青緡五貫文」といったら、なにか特別のことをしてお奉行さまから授かった特別な人、というイメージがついてまわるのです。

それにしても、賞状や勲章ではなくお金をくれるなんて、江戸幕府はずいぶん即物的な感覚だったのですね。

水戸さまの屋敷前

水戸藩の上屋敷。現在の後楽園遊園地、東京ドーム、小石川後楽園、飯田橋職業安定所を含む文京区後楽一丁目全部を占めました。

このうち、東京ドームの場所には、明治維新後、陸軍砲兵工廠こうしょうが建てられ、昭和12年(1937)、その移転後の跡地に旧後楽園球場が建設されました。

コワーイ門番

藩邸の門番は一般には身分は若党で、最下級の士分です。

水戸藩上屋敷は「日暮らし門」と呼ばれた華麗な正門が有名で、左甚五郎ひだりじんごろう作の竜の彫刻をあしらっていました。正門から江戸川堤まで「水戸さまの百軒長屋」といい、ずらりと中級藩士の住む長屋が続いていました。

門番だけでなく、こうした中・下級藩士による「町人いびり」も、ままあったようです。

これも上方由来

明治初期に作られた上方落語の「新作」といわれますが、作者は未詳。

三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植。

先の大戦後は三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)の十八番として知られ、二代目三遊亭金翁(松本 龍典、1929-2022、四代目金馬→)が継承して得意にしていました。

「本場」の大阪では、現在は演じ手がないようです。



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