鼠 ねずみ 演目

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名人噺。舞台は仙台、伝説の左甚五郎。胸のすく、際立つ匠の物語です。

別題:甚五郎の鼠

【あらすじ】

名工、左甚五郎。

十年も江戸は日本橋橘町の棟梁、政五郎の家に居候の身だ。

その政五郎が若くして亡くなり、今は二代目を継いだせがれの後見をしている。

ある年、まだ見ていない奥州松島を見物しようと、伊達六十二万石のご城下、仙台までやってきた。

十二、三の男の子が寄ってきて、ぜひ家に泊まってほしい、と頼むので承知すると、
「うちの旅籠は鼠屋といって小さいけど、おじさん、布団がいるなら損料を払って借りてくるから二十文前金でほしい」
と言う。

なにかわけがありそうだと、子供に教えられた道を行ってみると、宿屋はなるほどみすぼらしくて、掘っ建て小屋同然。

前には、虎屋という大きな旅籠があって、繁盛している。

案内を乞うと、出てきた主人、
「うちは使用人もいないから、申し訳ないが、そばの広瀬川の川原で足をすすいでほしい」
と言うから、ますますたまげた。

その上、子供が帰ってきて、
「料理ができないから、自分たち親子の分まで入れて、寿司を注文してほしい」
と言い出したので、甚五郎は苦笑して二分渡す。

いたいけな子供が客引きをしているのが気になって、それとなく事情を聞くと、このおやじ、卯兵衛といい、もとは前の虎屋のあるじだったが、五年前に女房に先立たれ、女中頭のお紺を後添いにしたのが間違いのもと。

性悪な女で、幼いせがれの卯之吉をいじめた上、番頭の丑蔵と密通し、たまたま七夕の晩に卯兵衛が、二階の客のけんかを止めようとして階段から落ちて足腰が立たなくなり、寝たきりになったのを幸い、親子を前の物置きに押し込め、店を乗っ取ったと、いう。

卯兵衛は、しかたなく幼友達の生駒屋の世話になっていたが、子供の卯之吉が健気にも、
「このままでは物乞いと変わらない。おいらがお客を一人でも連れてくるから商売をやろう」
と訴えるので、物置きを二階二間きりの旅籠に改築したが、客の布団も満足にないありさま。

宿帳に記された名前から、日本一の彫り物名人と知って卯兵衛は驚くが、同情した甚五郎、一晩部屋にこもって見事な木彫りの鼠をこしらえ、たらいに入れて上から竹網をかけると
「左甚五郎作 福鼠 この鼠をご覧の方は、ぜひ鼠屋にお泊りを」
と書いて、看板代わりに入り口に揚げさせ、出発した。

この看板を見た近在の百姓が鼠を手にとると、不思議や、木の鼠がチョロチョロ動く。

これが評判を呼び、後から後から客が来て、たちまち鼠屋は大繁盛。

新しく使用人も雇い、裏の空き地に建て増しするほどに。

そのうち客から客へ、虎屋の今の主人、丑蔵の悪事の噂が広まり、虎屋は逆にすっかりさびれてしまった。

丑蔵は怒って、なんとか鼠を動かなくしようと、仙台一の彫刻名人、飯田丹下に大金を出して頼み、大きな木の虎を彫ってもらう。

それを二階に置いて鼠屋の鼠をにらみつけさせると、鼠はビクとも動かなくなった。

卯兵衛は
「ちくしょう、そこまで」
と怒った拍子にピンと腰が立ち、江戸の甚五郎に
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
と手紙を書いた。

不思議に思った甚五郎、二代目政五郎を伴って、はるばる仙台に駆けつけた。

虎屋の虎を見たが、目に恨みが宿り、それほどいい出来とは思われない。

そこで鼠を
「あたしはおまえに魂を打ち込んで彫ったつもりだが、あんな虎がこわいかい?」
としかると、
「え、あれ、虎? 猫だと思いました」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

三木助の人情噺

三代目桂三木助が、浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年(1956)7月に初演しました。

「竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の名工甚五郎の逸話ものです。録音を聴いてみると、三木助がことに子供の表現に優れていたことがよくわかります。お涙ちょうだいに陥るギリギリのところで踏みとどまり、道徳臭さがなく、爽やかに演じきるところがこの人のよさでしょう。左甚五郎については、「三井の大黒」をご参照ください。

日本橋橘町

中央区東日本橋三丁目にあたります。甚五郎の在世中、明暦の大火(1657)以前は旧西本願寺門前の町屋でした。「立花町」とも書かれますが、町名の由来は、当時このあたりに橘の花を売る店が多かったことからきたと言われます。

飯田丹下

実在の彫工で、仙台藩伊達家のお抱えでした。生没年など、詳しい伝記は不詳です。三代将軍家光の御前で、甚五郎と競って鷹を彫り、敗れて日本一の面目を失ったという逸話があります。

安藤鶴夫

三代目三木助がこの噺のマクラに「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえン、世の中にゃァ、いろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきたってえン」とやったそのねずみ男のモデルが安藤鶴夫(1908-69)だったことは、直木賞受賞作『巷談本牧亭』に書かれています。都新聞の記者、三木助のパトロン、演劇評論家でもありました。日和見で計算高かったようで、いまでは存在感が乏しいのが傷です。

柳朝も得意に

三木助没後は、五代目春風亭柳朝が得意にしました。三木助門下だった入船亭扇橋、あるいは三遊亭円窓などを経て若手にも伝わり、演じ手は少なくない噺です。

【語の注】
旅籠 はたご
鼠屋 ねずみや
損料 そんりょう
卯兵衛 うへえ
生駒屋 いこまや
健気 けなげ
飯田丹下 いいだ・たんげ

三井の大黒 みついのだいこく 演目

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名人噺。能たる鷹は爪を隠す。甚五郎はときおり爪をさらします。

別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎

【あらすじ】

名人の噺。飛騨の名工・左甚五郎の。

伏見に滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。

手付に三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。

関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染(あいぞめ)川に架かる橋に来かかると、板囲いの普請場で、数人の大工が仕事をしている。

のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」

これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。

棟梁の政五郎が止めに入り、上方の番匠(ばんじょう=大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。

まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町の政五郎宅に居候。

とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面食らうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。

翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるようなあんにゃもんにゃには下見板を削らしておけ」
ということになった。

これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋(あらしこ)で二枚削り。

これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。

後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。

話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。

その年の暮れ。

政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」

それから細工場に二階を借り、備州檜のいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。

何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎がのぞくと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。

隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。

取ると、二尺はある大きな大黒。

これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。

そのとき、下から呼ぶ声。

出てみると、駿河町の三井の使い。

手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。

政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。

甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。

「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」

そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

左甚五郎

甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。異名を左小刀(さしょうとう)といい、京都の御所大工でしたが、元和6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。

落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場で、姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいい、詳しい出自ははっきりしません。

落語では「竹の水仙」「ねずみ」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。

要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。

三木助最後の高座

講談から落語化されたもので、戦後では六代目三遊亭円生と三代目桂三木助が、ともに十八番としました。

とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「ねずみ」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようで、この噺もたびたび高座に掛けました。

三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も、この「三井の大黒」でした。

三木助没後は高弟の入船亭扇橋、さらにその門下の扇遊へと継承されてました。

藍染川と今川橋

藍染川は神田鍛冶町から紺屋町を通り、神田川に合流した掘割です。紺屋町の染物屋が、布をさらしたことからこう呼ばれました。

明治18年(1885)に埋め立てられています。

六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町(ほんしろがねちょう)二丁目と三丁目を渡していました。

下見板

噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。甚五郎が怒ったのも、無理はありません。

駿河町の三井

初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛値なし」を看板にぼろもうけしました。