おやこぢゃや【親子茶屋】演目

【RIZAP COOK】

親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

あらすじ

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父 おやじ)はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承  【RIZAP COOK】

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。

東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜  【RIZAP COOK】

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江の島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江の島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり  【RIZAP COOK】

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳

「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

茶屋にもいろいろありまして  【RIZAP COOK】

茶屋にはさまざまな種類がありました。美人ばかり雇っている店もあれば、表も裏も融通無碍な店も。川柳が取り上げるのは、なかでも目立った印象に残る茶屋ということでしょうね。

べら坊で 居所の無い 二十軒   十一10

「二十軒」とは浅草仲見世の隣にあった「二十軒茶屋」の略称。最初は三十六軒あったので「歌仙茶屋」と呼ばれました。「お福茶屋」とも。享保年間に二十軒ほどになったので、こう呼ばれるようになりましたが、文化には十六軒、天保には十軒、明治30年には一軒に。それでも「二十軒」といえば、ここの茶屋をさしたそうです。美人を雇っていることが特徴でした。「二十軒=美人茶屋」というイメージでしょうか。これも落語や川柳のお約束です。

ほれるかほれるかと 茶をくらつて居   十二42

これはわかりやすいですね。今も変わらずの句。

手前まあ 内はどこだと 楊枝見世   五34

「楊枝見世」は浅草奥山にあった楊枝の店。ここも美人を置いていました。娘の住所を聞いているところ。繁盛したわけです。

楊枝屋は 残米も売り 緡も売り   二十二18

「緡」は銭の穴を通して百文、四百文、一貫文にまとめるための細い藁縄のこと。楊枝屋で売っていました。とりわけ欲しくもないのに美人見たさに買いに行く風景ですね。

美しさ 男へたんと 五倍子が売れ   十六36

「五倍子」は「五倍子鉄漿」のこと。五倍子とは、ヌルデの葉にアリマキが寄生して、その刺激によってできたこぶ。タンニンを含み、染色、インクなどの原料になるものです。鉄漿は、鉄を酸化させてできた暗褐色の液で、お歯黒に使いました。五倍子の粉を鉄漿にひたして作った黒い染料が五倍子鉄漿です。真っ黒です。この句は五倍子を売る店(五倍子店)の美人の売り子に惹かれて買いに来る亭主たちの長い鼻の下を詠んでいるそうですが、わかりますかね。

大和茶で ただの話も くどくやう   十六36

「大和茶」とは「大和茶屋」のこと。浅草などにあって、美人を接客に雇っていたそうです。今のキャバクラみたいな店だったようです。

水茶屋と 見せ内証は これこれさ   十七23

裏表 ある水茶屋は はやるなり   二十一10

水茶屋とはいっても、裏でのサービスもいろいろあったようです。江戸時代はなんでもありなんですね。

茶屋女 せせなげほどな 流れの身   六2

「せせなげ」は下水やどぶ。「流れの身」とは「川竹の流れの身」のことで、遊女の境涯をさします。「川竹の身」とか「流れの身」とかは清らかな川の流れのイメージなのですが、遊女を連想させる鍵語です。この句に詠まれた茶屋女は遊女ほどに清らか(?)ではないながらも、つまり下水の流れのような境涯ながらも、同じ春を売る身の上だ、ということを言っているようです。なんとも雅味のある句でしょう。

【語の読みと注】
緡 さし
五倍子 ふし
鉄漿 かね

【RIZAP COOK】

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たがや【たがや】演目

川開き。魔封じの花火。ごったがえす両国橋で職人と武士の諍い。江戸前の噺。

あらすじ

安永年間、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【RIZAP COOK】

しりたい

夏休み限定落語  【RIZAP COOK】

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬、三代目桂三木助などが威勢のよさを競いましたが、現在でも、花火をあてこんで、夏になるとやたらと高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは三木助の速記です。時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び  【RIZAP COOK】

立川談志は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。これがオリジナルのやり方。そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関するどの解説は判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや  【RIZAP COOK】

大道で桶を修理したり、たがを交換したりする職人です。たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

玉屋  【RIZAP COOK】

両国にあった花火屋で、日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けしたものです。以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりましたが、天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、廃業処分になりました。どうも、鍵屋の陰謀のにおいがプンプンしますが。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張りで、「鍵屋」のカの字もなくなったのは皮肉です。これも本当かどうかはあやしい話。

柱暦  【RIZAP COOK】

はしらごよみ。たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き  【RIZAP COOK】

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ  【RIZAP COOK】

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

両国橋  【RIZAP COOK】

両国橋は万治2年(1659)に架けられました。その2年前の明暦の大火からの教訓によるものです。全長94間(171m)。これは長い。この橋が架かったことから、川向こうの開発が進み、江戸が巨大化していくきっかけとなりました。両国橋は何度も架け替えられました。洪水によるものです。橋のちょっと上流に隅田川が大きく曲がっているため、洪水のとばっちりを受けやすかったのです。上流から流れてくる壊れた橋の流木が両国橋にぶつかって、しまいには両国橋そのものが倒壊してしまうのです。その対策として、ちょっと上流に芥留杭が流れに並んで打たれていました。これが「死神」の舞台となる千本杭です。流木の流れを修正する意図でしたが、大きな洪水では効果ありません。重り石と呼ばれる10貫目(37.5kg)以上の石を東西の橋詰に1000個も置いて、とにかく橋が流されるのを食い止めようとしました。

武蔵国と下総国とを結ぶので「両国」と呼ばれたというのは知られていますが、川の西側は町奉行が支配(管理)で、東側は本所奉行の支配でした。正徳3年(1713)に、本所深川は町奉行支配に変更されました。享保4年(1719)になると、武家地は普請奉行に、道路、橋、水路関係は勘定奉行に支配が移り、本所奉行は廃止となりました。一般行政や町民に請け負わせていた作業の支配は、町奉行の中にに「本所見廻」という役職が設けられました。こうして、18世紀前半には川向こうの深川あたりも都市化していっていたのですね。

両国、両国といっても、両国橋西詰の西両国と東詰の東両国ではだいぶ雰囲気が違っていました。ともに、橋詰には広小路(道幅の広い街路)がありましたが、西両国のほうは芝居小屋、茶店、料理屋、揚弓場などが並ぶただの繁華街でした。東両国のほうは、回向院があって、死者の霊を弔う雰囲気でした。回向院は諸宗山無縁寺といわれる寺院で、明暦の大火、浅間山噴火(死者が上流から多数流れてきた)、安政の大地震など災害死の無縁仏を供養してきました。街の発祥がこんなところからでしたが、鎮魂や悪疫除けから隅田川の花火が享保18年(1733)から始まったり、大相撲の勧進興行が寛政3年(1791)から始まったりして、次第ににぎやかな街に発展していきました。大相撲の勧進興行の始まりは、回向院が浅間山噴火の死者を川から引き揚げて荼毘に付すまでの費用捻出が本音でした。さらには、両国橋東詰の近くには「大山詣り」の水垢離場がありました。西両国はたんなる江戸一の繁華街でしたが、東両国はつねに死者とのかかわりから発展していったのです。

西両国の繁栄  【RIZAP COOK】

両国橋西詰、つまり西両国は江戸で一番の繁華街でした。ここの広小路では、幕府は橋番や水防を請け負う町人に区画を決めて土地を貸し出していました。町人たちは床見世、水茶屋、芝居小屋、髪結床などを商いさせて地代店賃を取っていました。この収入を水防請け負いなど費用に充当していました。床見世の内訳は、古着、煙管、絵草紙、鼈甲細工、扇など。三人兄弟芝居(のちの明治座)、春五郎芝居、勘九郎芝居、おででこ芝居、らん杭芝居などの小屋が軒を並べていました。ここで使われる菰や筵は灘や伊丹から届いた下り酒の樽を覆っていたものです。芝居小屋と筵や菰のイメージは西両国でのイメージだったのですね。

川開き  【RIZAP COOK】

毎年、5月28日(川開き)から8月28日(川仕舞い)までの3か月間は、船宿、茶屋、うろうろ船(移動販売船)などの商売が許可されていました。花火はその間、毎晩打ち上げられました。両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持っていました。天保14年以降は鍵屋の独占ですね。花火には悪疫除けと鎮魂と、江戸っ子の切なる思いがこめられていました。

【語の読み】
三一 さんぴん
生粋 きっすい
籐 とう

【RIZAP COOK】

落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

ぞろぞろ【ぞろぞろ】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「黄金の壷」「瘤取り爺さん」のような噺。「ぞろぞろ」違いがミソ。

【あらすじ】

浅草田圃の真ん中にある、太郎稲荷という小さな社。

今ではすっかり荒れ果てているが、その社前に、これもともどもさびれて、めったに客が寄りつかない茶店がある。

老夫婦二人きりでほそぼそとやっていて、茶店だけでは食べていけないから、荒物や飴、駄菓子などを少し置いて、かろううじて生計をたてている。

爺さんも婆さんも貧しい中で信心深く、神社への奉仕や供え物はいつも欠かさない。

ある日のこと。

夕立があり、外を歩く人が一斉にこの茶屋に雨宿りに駆け込んできた。

雨が止むまで手持ちぶさたなので、ほとんどの人が茶をすすり駄菓子を食べていく。

こんな時でないと、こう大勢の客が来てくれることなど、まずない。

一度飛び出していった客が、また戻ってきた。

外がつるつる滑って危なくてしかたがないという。

ふと天井からつるした草鞋(わらじ)を見て、
「助かった。一足ください」
「ありがとう存じます。八文で」

一人が買うと、
「俺も」
「じゃ、私も」
というので、客が残らず買っていき、何年も売り切れたことのない草鞋が、一時に売り切れになった。

夫婦で、太郎稲荷さまのご利益だと喜び合っていると、近所の源さんが現れ、鳥越までこれから行くからワラジを売ってくれと頼む。

「すまねえ。たった今売り切れちまって」
「そこにあるじゃねえか。天井を見ねえな」

言われて見上げると、確かに一足ある。

源さんが引っ張って取ろうとすると、なんと、ぞろぞろっと草鞋がつながって出てきた。

それ以来、一つ抜いて渡すと、新しいのがぞろり。

これが世間の評判になり、太郎稲荷の霊験だと、この茶屋はたちまち名所に。

田町あたりの、はやらない髪床の親方。

客が来ないので、しかたなく自分のヒゲばかり抜いている。

知人に太郎稲荷のことを教えられ、ばかばかしいが、退屈しのぎと思ってある日、稲荷見物に出かける。

行ってみると、押すな押すなの大盛況。

茶店のおかげで稲荷も繁盛し、のぼり、供え物ともに以前がうそのよう。

爺さんの茶店には黒山の人だかりで、記念品にワラジを買う人間が引きも切らない。

親方、これを見て、
「私にもこの茶店のおやじ同様のご利益を」
と稲荷に祈願、裸足参りをする。

満願の七日目、願いが神に聞き届けられたか、急に客が群れをなして押し寄せる。

親方、うれしい悲鳴をあげ、一人の客のヒゲに剃刀をあてがってすっと剃ると、後から新しいヒゲが、ぞろぞろっ。

【しりたい】

彦六ゆかりの稲荷綺譚

これも元々は上方落語で、落語界屈指の長寿を保った初代橘ノ圓都(1883-1972)が得意にし、上方での舞台は赤手拭稲荷(大阪市浪速区稲荷町)でした。

東京では、早く明治期に四代目橘家円蔵(六代目円生の師匠)が手がけ、その演出を継承した彦六の八代目林家正蔵が、これも上野の稲荷町に住んでいた縁があってか(?)さらに格調高く磨き上げ、十八番にしました。

戦後では三代目三遊亭小円朝も演じましたが、舞台は四谷・お岩稲荷としていました。笑いも少なく、地味な噺なので、両師の没後はあまり演じ手がいません。

太郎稲荷盛衰記 その1

太郎稲荷は、浅草田圃の立花左近将監(筑後柳川十一万九千六百石)下屋敷の敷地内にありました。

当時の年代記『武江年表』の享和3年(1803)の項に、その年二月中旬から、利生があらたかだというので、太郎稲荷が急にはやりだし、江戸市中や近在から群集がどっと押しかけたと記されています。

あまりに人々が殺到するので、屋敷でも音を上げたとみえ、とうとう開門日を朔日(一日)、十五日、二十八日および午の日と制限したほどでした。

太郎稲荷盛衰記 その2

文化元年(1804)にはますます繁盛し、付近には茶店や料理屋が軒を並べました。

この噺にある通り、さびれていた祠がりっぱに再建されたばかりか、もとの祠を「隠居さま」とし、新しく別に社を立てたといいます。

ところが、稲荷ブームは流行病のようなもので、文化3年(1806)3月4日、芝・車町から発した大火で灰燼に帰し、それから二度と復興されませんでした。

太郎稲荷のおもかげ

夭折した浮世絵師、井上安治(1864-89)が、明治初期の太郎稲荷を描いています。満月が照らす荒涼とした風景はぐっとくる懐かしさです。

樋口一葉(1872-96)の『たけくらべ』でも、主人公・美登利が太郎稲荷に参拝する場面がありました。

浅草田圃太郎稲荷 井上安治 東京都立中央図書館所蔵