心中の心中 しんじゅうのしんじゅう 演目

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悲劇の温床「心中」も落語の手にかかっては……。

別題:情死の情死 花見心中

【あらすじ】

明治元年、夏。

京から江戸に出て呉服の行商をしている善次郎。

土地慣れないから得意先もつかず、七月の暑い最中で、母親と二人暮らしだから、どうにも立ちいかない。

京へ帰ろうにも路銀もないありさまなので、恥を忍んで借金に行った先でも、すげなく断られたばかりか、
「生きていたって甲斐性がない奴は豆腐の角へ頭をぶつけて死んでしまった方がいい」
と、ののしられる。

とぼとぼと向島の土手に来かかり、いっそ首をくくろうと桜の枝に帯を結んで手を掛けると、枕橋の方からバタバタと足音。

見とがめられてはと、あわてて桜の木に登って隠れていると、若い男と女。

親の許さぬ仲とかで、しょせん生きてはいられないと話がまとまり、男の方が、死骸の始末金にと家から持ち出してきたという百両の金を桜の木下に置くと
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
と、刀をスパッと引き抜く。

上にいる善次郎、驚いた拍子に、二人の頭の上にドサッと落っこちた。

びっくりした二人は、金をそのまま置いて逃げてしまう。

しかたなくその金を持って、大家の所に相談に行ったが、頃はご維新のさ中。

奉行所も解体同然だから、
「どうでもしたらよかろう」
と取りあってくれない。

善次郎はためらいながらもその金で借金を返し、残りを元手に懸命に働いた甲斐あって、数年後には蔵付きの立派な呉服屋を開店することができた。

月日は流れて、明治7年。

善次郎が帳場に座っていると、年の頃、三十四、五、黒の山高帽子に南部の糸織のお召しという、りっぱななりの紳士が、似合いの奥方といっしょに店先で反物を見ている。

その顔を見て善次郎は、はっと驚く。

それもそのはず、その夫婦はあの時の心中者。

飛び出して行ってあの時の話をし
「そういうわけで、あんたはんらは私にとっては命の親。あのお金は利息を添えてお返しせななりまへん」
と言うと、だんなの方も、
「実はあの時、人が上から降ってきたのに仰天し、二人で枕崎まで逃げたが、親戚の者の取りなしで無事夫婦になり、今では子供もいる身」
と語る。

「それではあなたが、あの時の。よく落ちてくだすった。私たちの命の親」
「あほらしい。あんたの方が親や」
「いいや、おまえさん親」
「なに、あんた親」
とやっていると、奥から母親が
「してみると、あたしのためには継子かしらん」

底本:四代目橘家円喬

生きてるうちが花スヴェンソンの増毛ネット

【うんちく】

明治の名人が創作

別題「花見心中」。四代目橘家円喬がものした新作とみられます。明治29年(1996)2月の『百花園』に速記が掲載されましたが、原題表記は「情死の情死」となっています。

榎本滋民が指摘しているとおり、速記をよく読むと、細かい年代のミスが多いのですが、そこは落語で、言うだけヤボでしょう。

わかりにくいオチ

現在ではすたれ、高座にかかることはありません。明治維新前後の世相がよく描写されていて、今となっては貴重な資料です。

オチは、「命の恩人」という意味で「命の親」と言ったのを、ばあさんが取り違え、「客がせがれの親なら、あたしはママハハか」と頭をひねるマヌケオチ。

最後の「-のためには」は、「-にとっては」という意味の、古風な江戸ことばです。

奉行所も解体同然

二人が大家に相談に行き、世が世なら、さっそくお白洲で、名奉行のお裁きという場面ですが、あいにくもう幕府は崩壊。奉行所もあってなきがごとしという、情けない無政府状態です。

最後の江戸町奉行は、北が石川河内守、南が佐久間ばん(ばんは金偏に番)五郎。南北両奉行所を官軍に引き渡したのは、慶応4年(1868)5月22日で、明治改元はこの年の10月23日。折しも江戸は、彰義隊騒ぎで大混乱の最中。この一週間前、5月17日に上野の戦争が勃発し、5日前に片づいたばかり。

円喬は「明治元年夏」と説明していますが、実際はまだ慶応4年。町人みな小さくなって家に隠れ住み、多くの者が大八車に家財を積んで江戸を逃げ出そうとして時に、心中騒ぎを起こすとはのんきな野郎があったものです。

このころの奉行所与力や同心の乱れぶりは相当なもの。幕府も、万一、彰義隊に駆け込む者があっては大変と気を使ったものの、そんな心配は無用。『戊辰物語』(岩波文庫)によると、満足に馬に乗れる者などほとんどなく、十手を振って、房が顔の前で、いかにかっこよく開くかのコンクールをやっていたというテイタラク。こりゃあ、負けるわな。

南部の糸織

かつての心中者が、維新の騒ぎを切り抜け、7年後、さっそうと登場。南部の糸織は、南部紬のお召しで、『壬生義士伝』(浅田次郎)で主人公の故郷、旧南部藩領(岩手県)特産の、よった絹糸で作る織物です。「お召し」は、その中で練り糸で表面にしわを寄せた最高級品で、お召し縮緬とも呼びます。

枕橋

旧名は源森橋。墨田区吾妻橋1丁目から向島1丁目の墨田公園までを渡しています。源森川(のち北十軒堀)を寛文3年(1663)に掘削する際、関東奉行伊奈半十郎の監督で架けられました。

のちに、橋向こうに水戸藩下屋敷まで新橋が架かり、源森橋の名を譲って枕橋と改名。その「新・源森橋」の方は、その後、新小梅橋と改称されましたが、二つ合わせて枕橋と呼ぶ習慣もあったとか。なにやらややこしい話です。対岸の山の宿から、枕橋詰の桟橋まで、渡し舟が出ていました。

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花見酒 はなみざけ 演目

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酒のみの噺。呑み助は、いろんなところでしくじるもののようですね。

【あらすじ】

幼なじみの二人。

そろそろ向島の桜が満開という評判なので
「ひとつ花見に繰り出そうじゃねえか」
と話がまとまった。

ところが、あいにく二人とも金がない。

そこで兄貴分がオツなことを考えた。

横丁の酒屋の番頭に灘の生一本を三升借り込んで花見の場所に行き、小びしゃく一杯十銭で売る。

酒のみは、酒がなくなるとすぐにのみたくなるものなので、みんな花見でへべれけになっているところに売りに行けば必ずさばける。

もうけた金で改めて一杯やろうという、なんのことはないのみ代稼ぎである。

そうと決まれば桜の散らないうちにと、二人は樽を差し担いで、向島までやって来る。

着いてみると、花見客で大にぎわい。

さあ商売だという矢先、弟分は後棒で風下だから、樽の酒の匂いがプーンとしてきて、もうたまらなくなった。

そこで、「お互いの商売物なのでタダでもらったら悪いから、兄貴、一杯売ってくれ」
と言い出して、十銭払って、グビリグビリ。

それを見ていた兄貴分ものみたくなり、やっぱり十銭出してグイーッ。

「俺ももう一杯」
「じゃまた俺も」
「それ一杯」
「もう一杯」
とやっているうちに、三升の樽酒はきれいさっぱりなくなってしまった。

二人はもうグデングデン。

「感心だねえ。このごった返している中を酒を売りにくるとは。けれど、二人とも酔っぱらってるのはどうしたわけだろう」
「なーに、このくらいいい酒だというのを見せているのさ」

なにしろ、おもしろい趣向だから買ってみようということで、客が寄ってくる。

ところが、肝心の酒が、樽を斜めにしようが、どうしようが、まるっきり空。

「いけねえ兄貴、酒は全部売り切れちまった」
「えー、お気の毒さま。またどうぞ」

またどうぞもなにもない。

客があきれて帰ってしまうと、まだ酔っぱらっている二人、売り上げの勘定をしようと、財布を樽の中にあけてみると、チャリーンと音がして十銭銀貨一枚。

「品物が三升売れちまって、売り上げが十銭しかねえというのは?」
「ばか野郎、考えてみれば当たり前だ。あすこでオレが一杯、ちょっと行っててめえが一杯。またあすこでオレが一杯買って、またあすこでてめえが一杯買った。十銭の銭が行ったり来たりしているうちに、三升の酒をみんな二人でのんじまったんだあ」
「あ、そうか。そりゃムダがねえや」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

【しりたい】

経済破綻を予言 『花見酒の経済』

昭和37年(1962)に出版され、話題になった笠信太郎の『花見酒の経済』は、当時の高度経済成長のただなか、なれ合いで銭が二人の間を行ったり来たりするだけのこの噺をひとつの寓話として、当局の手厚い保護下で資本が同じところをぐるぐるまわるだけの日本経済のもろさを指摘しました。のちに現実となった、昭和48年(1973)のオイルショックによる経済破綻を見事に予見した名著でした。

つまりは、この噺をこしらえた不明の作者は、遠く江戸時代から、はるか未来を見通していたダニエルのごとき大預言者だった、ということになりましょうか。

向島の桜

八代将軍吉宗の肝いりで整備され、文化年間(1804-18)には押しも押されもせぬ江戸近郊有数の観光名所となりました。

向島は浅草から見て、隅田川の対岸一帯を指した名称です。江戸の草創期には、文字通りいくつもの島でした。

花見は三囲神社から、桜餅で名高い長命寺までの堤が有名です。明治期には、枕橋から千住まで、約4kmに渡って、ソメイヨシノのトンネルが見られました。

復活待たれる噺

八代目林家正蔵(彦六)や六代目春風亭柳橋が手がけました。

おもしろく、皮肉なオチも含めてよくできた噺なのに、とかく小ばなし、マクラ噺扱いされがちのせいか、近年ではあまり聞きません。

明治期の古い速記では、四代目橘家円喬のが残っています。二代目三遊亭金馬のものも。

明治41年(1908)の円喬の速記では、酒といっしょに兄貴分がつり銭用に、強引に酒屋に十銭借りていくやり方で、二人は「辰」と「熊」のコンビです。

百年目 ひゃくねんめ 演目

【RIZAP COOK】

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上方の噺。大店の堅い番頭の裏の顔。人間こうでなくちゃおもしろくないです。

【RIZAP COOK】

【あらすじ】

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

二番番頭が茶屋遊びで午前さまになったのをとがめて、
「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか教えてほしい」
と皮肉を言うほど。

ある朝、治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した後、
「番町のお屋敷をまわってくる」
と外出した。

ところが、外で待っていたのは幇間の一八。

今日は、こっそり入り浸っている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子屋の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

小心な冶兵衛、すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせたほどだが、向島に着くと、酒が入って大胆になり、扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚で、桜が満開の向島土手で陽気に騒ぐ。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めて、
「あれはお宅の番頭さんでは」
と言っても、だんなは
「悪堅い番頭にあんなはでなまねはできない」
と取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られ、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛、逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だと頭を抱えた冶兵衛、いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

そらおいでなすったと、びくびくして母屋の敷居をまたぐと、意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺の栴檀の大木と南縁草という雑草の話を始める。

栴檀は南縁草を肥やしにして生き、南縁草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が南縁草。

南縁草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」
と、いよいよきたから、冶兵衛、取引先のお供でしどろもどろで言いわけ。

だんなは少しも怒らず、
「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」
ときっぱり言う。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」
と、だんなは冶兵衛を褒め
「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」
と言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」
「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美の阿呆丁稚に悩まされる、曾我廼家五郎八の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(大阪では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけですが、普通、中規模の商家で二人、大店になると三人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって十年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。この噺の治兵衛は、四十を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治以後は「支配人」と呼び、明治41年(1908)の、三代目柳家小さんの速記でもそうなっています。

のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは二、三人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。

志ん生は、主人の南縁草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、桂米朝が絶品でしたし、桂文枝も得意としていました。東京では、古今亭志ん朝が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。この意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。番頭の絶望観を表す言葉として、このオチは見事に効いています。

【RIZAP COOK】

権助魚 ごんすけざかな 演目

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愛人通いのだんな、口止めに権助を買収したはずが。権助は制度の批判者です。

【あらすじ】

だんながこのところ外に愛人を作っているらしいと嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬で黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助を呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路あたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんの所へ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれるだんななので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、作戦を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若。

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くならだんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

「駒止で田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺から植半でひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものは鰹の片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように頭の弱い者として見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

「権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、昭和40年代に藤子不二雄氏がヒットさせたギャグSF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(前名・初代三遊亭金馬で、五代目古今亭志ん生の最初の師匠)や二代目古今亭今輔が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残していますが、前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王(ごおう=護符)」の別題で演じられたこともありましたが、この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれましたが、明治21年ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び、評判になったと山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』にあります。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪らつな算段なのですが……。

いや、けっこう笑えます。お後はどうなりますやら。