船を岸につなぎとめておくこと。
おい、なにやってんだよ。船がまだ舫ってあるじゃねえか。
「舫い」という名詞の場合は、「船と船、船と岸をつなぐ綱」をいいます。
そこから、「舫い遣い」ということばが生じて、「二人で一人をつかう」、「共用する」意味に。となると、「舫う」も「共用する」意に。「船縄」を「もやい」と読んだりもします。
船を岸につなぎとめておくこと。
おい、なにやってんだよ。船がまだ舫ってあるじゃねえか。
「舫い」という名詞の場合は、「船と船、船と岸をつなぐ綱」をいいます。
そこから、「舫い遣い」ということばが生じて、「二人で一人をつかう」、「共用する」意味に。となると、「舫う」も「共用する」意に。「船縄」を「もやい」と読んだりもします。
江戸の噺。隅田川が舞台のお花半七なれそめで始まる因縁噺。後半は悲惨だが。
【あらすじ】
日本橋小網町の質屋、茜屋半右衛門のせがれ、半七。
堅物なのはいいが、碁将棋に凝って、家業をほったらかして碁会所に入りびたり。
頑固一徹で勝負事が嫌いなおやじは、とうとう堪忍袋の緒を切って、夜遅く帰ってきた半七を家から締め出し、
「若い奉公人に示しがつきません」
と勘当を言い渡す。
気が弱い半七が謝っていると、隣でも同じような騒ぎ。
こちらは、半七の幼なじみで、船宿桜屋の娘、お花。
友達の家でお酌をさせられて遅くなったのだが、日ごろから折り合いの悪い義母は聞く耳持たず、
「若い娘が夜遅くまでほっつき歩いているのはふしだらで、おとっつぁんが明日帰ってくるまで家に入れない」
とこちらも締め出しを食った。
いつしか二人はばったり。
話をするうち、半七が、
「今夜は霊岸島のおじさんの家に泊めてもらう」
と言うと、行き場のないお花は
「連れてってほしい」と頼む。
「とんでもない。男女七歳にして席を同じうせず。変な噂が立ったらどうします」
と、女に免疫のない半七が断っても
「半七さんとならうれしいわ」
とお花の方が積極的。
結局、お花は夜道を強引に霊岸島までついてきてしまう。
一方、おじさん、おいの声を聞きつけ
「また碁将棋でしくじりやがったな。女の一人も連れ込んでくりゃあ、世話のしがいもあるんだが」
とぶつぶつ言いながら戸を開けてやると、珍しくも女連れだから、
「こいつもやっと年相応に色気づいたか」
と、大喜び。
違うと言っても耳を貸さず、早のみ込みして、
「万事おじさんが引き受けて夫婦にしてやるから、今夜は早く寝ちまえ」と強引に二人を二階に上げてしまう。
「そんなんじゃありません。今夜はおじさんと寝ます」
「ばか野郎。てめえがいらなきゃ、オレがもらっちまうぞ」
下りてくるとぶんなぐると言われて、二人はモジモジ。
下ではおじさんが、
「若い者はいい。婆さん、半七はいくつだった? 十八? あの娘は十七、一つ違いってとこだな。オレたちが逢ったのもちょうど同じ年ごろだった。おめえはいい女だったな」
「おじいさんもいい男だったよ」
「おい、ちょっとこっちィ来ねえ」
「なんだね、いい年をして」
と昔を思い出している。
二階の二人、しかたなく背中合わせで寝ることにしたが、年ごろの男女が一つ床。
こうなればなりゆきで、ああしてこうなって、その夜、とうとう怪しい夢を結んだ。
翌朝、昨夜とはうって変わって、仲を取り持ってほしいと二人が頼むので、昔道楽をして酸いも甘いも心得たおじさん、万事引き受け、桜屋に掛け合いに行くと、おやじは
「茜屋のご子息なら」
と即時承知。
ところが、半七のおやじは頑固で、
「人さまの娘をかどわかすようなやつを、家に入れることはできない」
の一点張り。
おじさんはあきれ果て
「それなら勘当しねえ。オレがもらう」
とおやじから勘当金を取って養子にし、横山町辺に小さな店を持たせ、二人が仲むつまじく暮らしたという、お花半七なれそめ。
【しりたい】
実際の心中事件に取材
六代将軍・家宣が亡くなった正徳2年(1712)、この噺のカップルと同名のお花半七という男女が京都で心中した事件を、近松門左衛門(1653-1724)が同年、浄瑠璃「長町裏女腹切」に仕立てたのがきっかけで、「お花半七」ものが、芝居や音曲で大流行しました。
それから1世紀もたった文化2年(1805)3月、「東海道四谷怪談」で有名な四世鶴屋南北が江戸・玉川座に書き下ろした「寝花千人禿(やよいのはな・せんにんかむろ)」(茜屋半七)が大当たりしたため、落語の方でも人気にあやかろうと、初代三遊亭円生がこれを道具入り芝居噺に脚色したのが、この噺の原型です。
すたれた後半部分
明治中期までは、初代三遊亭円右、三代目春風亭柳枝などが、芝居噺になる後半までを通して、長講で演じることがあり、柳枝の通しの速記(明治23年)も残されています。
上のあらすじは、その柳枝の速記の前半部分を参照しました。
その後、古風な芝居ばなしがすたれると共に、次第に後半部は忘れ去られ、今では演じられることが少なくなりました。
昭和に入って八代目柳枝、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生といった名人連が得意にしましたが、いずれも前半のみで、円生一門の三遊亭円楽や円窓などに継承されていました。
三代目三遊亭円歌、柳家小満ん、五街道雲助、金原亭世之介、古今亭菊生、柳家喬太郎などが後半を含めてやったことがあります。
後半のあらすじ
前半から四年ほどのちの夏、お花が浅草へ用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると夕立に逢う。
傘を忘れたので、一人で雨宿りしていると、突然の雷鳴でお花は癪(しゃく)を起こして気絶。それを見ていた付近のならず者三人組、いい女なのでなぐさみものにしてやろうと、気を失ったお花をさらって、いずこかに消えてしまう。
女房が行方知れずになり、半七は泣く泣く葬式を出すが、その一周忌に菩提寺に参詣の帰り、山谷堀から舟を雇うと、もう一人の酔っ払った船頭が乗せてくれと頼む。
承知して、二人で船中でのんでいると、その船頭が酒の勢いで、一年前お花をさらい、まわした上、殺して吾妻橋から捨てたことをべらべら口走る。
雇った船頭もグルとわかり、ここで、
「これで様子がガラリと知れた」
と芝居がかりになる。
三人の渡りゼリフで。
「亭主というはうぬであったか」
「ハテよいところで」
「悪いところで」
「逢ったよなァ」
……というところで起こされた。
お花がそこにいるのを見て、ああ夢かと一安心。小僧が、おかみさんを待たせて傘を取りに帰ったと言うので、
「夢は小僧の使い(=五臓の疲れ)だわえ」
と地口(=ダジャレ)オチになる。
宮戸川
夢でお花が投げ込まれた墨田川の下流・浅草川の旧名で、地域でいえば山谷堀から駒形あたりまでの流域を指します。「宮戸」は、三社権現の参道入り口を流れていたことから、この名がついたとか。
この付近は白魚や紫鯉の名産地でした。
文政年間(1818-30)、駒形の酒屋・内田甚右衛門が地名にちなんで「宮戸川」という銘酒を売り出し、評判になりました。
小網町
現在の東京都中央区日本橋小網町。
小網町三丁目の行徳河岸から下総(千葉県)行徳まで三里八丁を、行徳船という、旅客と魚貝、野菜などを運ぶ定期航路が結んでいました。
ここは、江戸の水上交通の中心地で、船荷の集積地でもあり、船宿や問屋が軒を並べていました。
霊岸島
東京都中央区新川一、二丁目。万治年間(1658-61)に埋め立てが始まるまで、文字通り島でした。
船宿
舟遊び、釣り、水上交通など、大川(隅田川)を行き来する船を管理する使命がありました。柳橋、山谷堀など、吉原に近い船宿は、遊里への送迎、宴席、密会の場の提供も行いました。
【コラム 古木優】
芝居噺が得意だった初代三遊亭円生の作といわれている。この噺は、前半と後半がある。今は「なれそめ」として前半ばかりが演じられる。
では、後半とは、どんな噺なのか。 霊岸島の契りで二人はめでたく夫婦に。
その4年後の夏。お花が浅草に用足しに行き、帰りに観音さまに参詣して、雷門まで来ると、夕立にあう。
傘を忘れたので、1人で雨宿りしていると、突然の雷鳴で、癪を起こして気絶。
それを見ていた、ならず者3人がお花をさらって消えてしまう。
お花が行方知れずになって、半七は泣く泣く葬式を。
一周忌に菩提寺の参詣の帰り、山谷堀から船を雇うと、酔っ払った船頭・正覚坊の亀が乗せてくれと頼んでくる。
船中で、亀が問わず語りに、1年前お花をさらってさんざん慰んだ末に殺して吾妻橋から投げ捨てた、と。実は、乗せた船頭の仁三も仲間だった。
ここから、鳴り物が入って芝居噺めく。
半「これでようすがカラリと知れた」
亀「おれもその日は大勢で、寄り集まって手慰み、すっかり取られたその末が、しょうことなしのからひやかし。すごすご帰る途中にて、にわかに降り出すしのつく雨」
仁「しばし駆け込む雷門。はたちの上が、二つ三つ、四つにからんで寝たならばと、こぼれかかった愛嬌に、気が差したのが運の尽き」
半「丁稚の知らせに折よくも、そこやここぞと尋ねしが、いまだに行方の知れぬのは」
亀「知れぬも道理よ。多田の薬師の石置場。さんざん慰むその末に、助けてやろうと思ったが、のちのうれいが恐ろしく、ふびんと思えど宮戸川」
仁「どんぶりやった水けむり」
半「さては、その日の悪者はわいらであったか」
2人「亭主いうは、うぬであったか」
半「はて、よいところで」
2人「悪いところで」
3人「逢うたよな」
小僧「もしもし、だんなさま。たいそううなされておいででございます」
半「おお、帰ったか、お花は」
小僧「いま、浅草見附まで来ますと、雷が鳴って大粒な雨が降ってきましたゆえ、おかみさんを待たしておいて傘を取りにまいりました」
半「それじゃ、お花に別条はないか」
小僧「お濡れなさるといけませんから、急いで取りにきました」
半「ああ、それでわかった。夢は小僧の使い(=夢は五臓の疲れ)だわえ」
結局、夢だったわけ。話をさんざん振っておいて夢のしわざにしてしまう。ふざけるな。できのよくない筋運び。オチも凡庸。だからか、今では演じる者がいない。長いし。
ただし、なぜ「宮戸川」という題なのかは、後半の筋を知ればおのずとわかる。宮戸川とは隅田川の別称で、駒形辺から上流を隅田川、下流を宮戸川と呼んだそうである。「みやこがわ」なのだろう。
噺の舞台は、前半は霊岸島、後半は山谷辺。ともに隅田川がらみの地だ。なによりもお花が投げ捨てられたのが吾妻橋。隅田川まみれの噺なのである。
船宿に駆け込んできた男と女。金銭欲丸出しの船頭との取り合わせで。
【あらすじ】
山谷堀の吉田屋という船宿。
そこの船頭・熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。
「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」
ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。
亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重の黒紋の羽織、献上博多の帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬の小袖に蝦夷錦の帯を締め、小紋の羽織、文金高島田しとやかにお高祖頭巾をかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。
話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋まで屋根舟を一艘仕立ててもらいたいという。
今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。
「大変に欲張りなやつですから、酒手の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。
舟はまもなく大川の中へ。
酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。
娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」
女は寝入っている。
「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手のところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。
熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。
「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」
とにかく話がまとまった。
舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲まで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいに棹を突っ張り、舟を出す。
「ざまあみろ。土左衛門になりゃあがれ」
これから娘を親元である本町三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。
思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」
夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。
【しりたい】
六代目円生の芸談
戦後、稠密な人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。
「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。
我欲の浅ましさ
古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいましたが、その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。
ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。
円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。
オチの改訂
昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのですが、やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。
たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。
明治の珍演出
安藤鶴夫・述『四代目小さん・聞書』によると、明治の初代・三遊亭円右は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。
これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。
お召し縮緬と蝦夷錦
お召し縮緬(ちりめん)は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。
縞、無地、紋、錦紗などの種類があります。
「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。
蝦夷錦(えぞにしき)は、繻子地に金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。
満洲(中国東北部)でつくられたものが、樺太、蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。
文金高島田
日本髪で、島田髷(まげ)の根を高く上げ、油で固めて結ったものです。
高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。
これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代(さかやき)に向かって急傾斜させた形です。
お高祖頭巾
おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。
婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。
時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。
勘当若だんなの噺。船頭にあこがれる道楽の過ぎた野郎は見上げたもんです。
別題: お初徳兵衛
【あらすじ】
道楽が過ぎて勘当され、柳橋の船宿・大枡(だいます)の二階で居候の身の上の若だんな、徳兵衛。
暇をもてあました末、いなせな姿にあこがれて「船頭になりたい」などと、言いだす始末。
親方始め船宿の若い者の集まったところで「これからは『徳』と呼んどくれ」と宣言してしまった。
お暑いさかりの四万六千日。
なじみ客の通人が二人やってきた。あいにく船頭が出払っている。
柱に寄り掛かって居眠りしている徳を認めた二人は引き下がらない。
船宿の女将が止めるのもきかず、にわか船頭になった徳、二人を乗せて大棧橋までの約束で舟を出すことに。
舟を出したのはいいが、同じところを三度も回ったり、石垣に寄ったり。
徳「この舟ァ、石垣が好きなんで。コウモリ傘を持っているだんな、石垣をちょいと突いてください」
傘で突いたのはいいが、石垣の間に挟まって抜けずじまい。
徳「おあきらめなさい。もうそこへは行きません」
さんざん二人に冷や汗をかかせて、大桟橋へ。
目前、浅瀬に乗りあげてしまう。
客は一人をおぶって水の中を歩いて上にあがったが、舟に残された徳、青い顔をして「ヘッ、お客さま、おあがりになりましたら、船頭を一人雇ってください」
底本:八代目桂文楽
【しりたい】
文楽のおはこ
八代目桂文楽の極めつけでした。
文楽以後、無数の落語家が「船徳」を演じていますが、はなしの骨格、特に、前半の船頭たちのおかしみ、「四万六千日、お暑い盛りでございます」という決め文句、客を待たせてひげを剃る、若旦那船頭の役者気取り、舟中での「この舟は三度っつ回る」などのギャグ、正体不明の「竹屋のおじさん」の登場などは、刷り込まれたDNAのように、どの演者も文楽に右にならえです。
ライバルの五代目古今亭志ん生は、前半の、若旦那の船頭になるくだりは一切カットし、川の上でのドタバタのみを、ごくあっさりと演じていました。
この噺は元々、幕末の初代志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」発端を、明治の爆笑王・鼻の円遊こと初代三遊亭円遊がパロディ化し、こっけい噺に仕立てたものです。
元の心中がらみの人情噺は、五代目志ん生が「お初徳兵衛」として時々演じました。
四万六千日さま
浅草の観世音菩薩の縁日で、旧暦7月10日にあたります。現在の8月なかば、もちろん猛暑のさ中です。
この日にお参りすれば、四万六千日(約128年)毎日参詣したのと同じご利益が得られるという便利な日です。なぜ四万六千日なのかは分かりません。
この噺の当日を四万六千日に設定したのは明治の三代目柳家小さんといわれます。
「お初徳兵衛浮名桟橋」のあらすじ
(上)勘当された若旦那・徳兵衛は船頭になり、幼なじみの芸者お初を送る途中、夕立に会ったのがきっかけで関係を結ぶ。
(中)ところが、お初に横恋慕する油屋九兵衛の策謀で、徳兵衛とお初は心中に追い込まれる。
(下)二人は死に切れず、船頭の親方のとりなしで徳兵衛の勘当もとけ、晴れて二人は夫婦に。
竹屋のおじさん
客を乗せて船出した後、徳三郎が「竹屋のおじさあん、今からお客を 大桟橋まで送ってきますゥッ」と橋上の人物に呼びかけ、このおじさんなる人が、「徳さんひとりかいッ?大丈夫かいッ?」と悲痛に絶叫して、舟中の旦那衆をふるえあがらせるのが、「船徳」の有名なギャグです。
「竹屋」は、今戸橋の橋詰、向島に渡す「竹屋の渡し」の山谷堀側にあった、同名の有名船宿を指すと思われます。
端唄「夕立や」に「堀の船宿、竹屋の人と呼子鳥」という文句があります。
渡船場に立って、「竹屋の人ッ」と呼ぶと、船宿から船頭が艪を漕いでくるという、夏の江戸情緒にあふれた光景です。
噺の場面も、多分この唄からヒントを得たものでしょう。
【船徳 古今亭志ん朝】