あおな【青菜】落語演目

【RIZAP COOK】



  成城石井.com  ことば 噺家  演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席

 

【どんな?】

お屋敷で聞きかじった隠し言葉を、長屋でまねる植木屋。
訪れた熊を相手に、植木屋が「おーい、奥や」
女房が「鞍馬山から牛若丸がいでましてその名を九郎判官義経」
女房が先に言ってしまったから、植木屋は「うーん、弁慶にしておけ」

別題:弁慶

あらすじ

さるお屋敷で仕事中の植木屋、一休みでだんなから「酒は好きか」と聞かれる。

もとより酒なら浴びるほうの口。

そこでごちそうになったのが、上方かみがた柳影やなぎかげという「銘酒」だが、これは実は「なおし」という安酒の加工品。

なにも知らない植木屋、暑気払いの冷や酒ですっかりいい心持ちになった上、鯉の洗いまで相伴して大喜び。

「時におまえさん、菜をおあがりかい」
「へい、大好物で」

ところが、次の間から奥さまが
「だんなさま、鞍馬山くらまやまから牛若丸うしわかまるいでまして、名を九郎判官くろうほうがん
と妙な返事。

だんなもだんなで
「義経にしておきな」

これが、実は洒落で、菜は食べてしまってないから「菜は食らう(=九郎)」、「それならよしとけ(=義経)」というわけ。

客に失礼がないための、隠し言葉だという。

植木屋、その風流にすっかり感心して、家に帰ると女房に
「やい、これこれこういうわけだが、てめえなんざ、亭主のつらさえ見りゃ、イワシイワシってやがって……さすがはお屋敷の奥さまだ。同じ女ながら、こんな行儀のいいことはてめえにゃ言えめえ」
「言ってやるから、鯉の洗いを買ってみな」

もめているところへ、悪友の大工の熊五郎。

こいつぁいい実験台とばかり、女房を無理やり次の間……はないから押し入れに押し込み、熊を相手に
「たいそうご精がでるねえ」
から始まって、ご隠居との会話をそっくり鸚鵡返おうむがえし……しようとするが……。

「青いものを通してくる風が、ひときわ心持ちがいいな」
「青いものって、向こうにゴミためがあるだけじゃねえか」
「あのゴミためを通してくる風が……」
「変なものが好きだな、てめえは」
「大阪の友人から届いた柳影だ。まあおあがり」
「ただの酒じゃねえか」
「さほど冷えてはおらんが」
「燗がしてあるじゃねえか」
「鯉の洗いをおあがり」
「イワシの塩焼きじゃねえか」
「時に植木屋さん、菜をおあがりかな」
「植木屋はてめえだ」
「菜はお好きかな」
「大嫌えだよ」

タダ酒をのんで、イワシまで食って、今さら嫌いはひどい。

ここが肝心だから、頼むから食うと言ってくれと泣きつかれて
「しょうがねえ。食うよ」
「おーい、奥や」

待ってましたとばかり手をたたくと、押し入れから女房が転げ出し、
「だんなさま、鞍馬山から牛若丸がいでまして、その名を九郎判官義経」
と、先を言っちまった。

亭主は困って
「うーん、弁慶にしておけ」

底本:五代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

しりたい

青菜とは   【RIZAP COOK】

三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が、上方から東京に移した噺です。

東京(江戸)では主に菜といえば、一年中見られる小松菜をいいます。

冬には菜漬けにしますが、この噺では初夏ですから、おひたしにでもして出すのでしょう。

値は三文と相場が決まっていて、「青菜(は)男に見せるな」という諺がありました。

これは、青菜は煮た場合、量が減るので、びっくりしないように亭主には見せるな、の意味ですが、なにやら、わかったようなわからないような解釈ですね。

柳影は夏の風物詩   【RIZAP COOK】

柳影とは、みりんとしょうちゅうを半分ずつ合わせてまぜたものです。

江戸では「直し」、京では「やなぎかげ」と呼びました。

夏のもので、冷やして飲みます。暑気払いによいとされていました。

みりんが半分入っているので甘味が強く、酒好きには好まれません。夏の風物詩、年中行事のご祝儀ものとしての飲み物です。

これとは別に「直し酒」というのがあります。粗悪な酒や賞味期限を過ぎたような酒をまぜ香りをつけてごまかしたものです。

イワシの塩焼き   【RIZAP COOK】

鰯は江戸市民の食の王様で、天保11年(1840)正月発行の『日用倹約料理仕方角力番付』では、魚類の部の西大関に「目ざしいわし」、前頭四枚目に「いわししほやき(塩焼き)」となっています。

とにかく値の安いものの代名詞でしたが、今ではちょっとした高級魚です。

隠語では、女房ことば(「垂乳根」参照)で「おほそ」、僧侶のことばでは、紫がかっているところから、紫衣からの連想で「大僧正」と呼ばれました。

判官   【RIZAP COOK】

源義経は源義朝の八男ですから、八郎と名乗るべきなのですが、おじさんの源為朝が鎮西八郎為朝と呼ばれることから、遠慮して「九郎」と称していたといわれています。

これは、「そういわれていた」ことが重要で、ならばこそ、後世の人々は「九郎判官義経」と呼ぶわけです。

それともうひとつ。判官は、律令官制で、各官司(役所)に置かれた4階級の幹部職員の中の三番目の職位をいいます。

4階級の幹部職員とは四等官制と呼ばれるものです。

上から、「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」と呼ばれました。

これを役所ごとに表記する文字さまざまです。表記の主な例は以下の通り。

かみ長官伯、卿、大夫、頭、正、尹、督、帥、守
すけ次官副、輔、亮、助、弼、佐、弐、介
じょう判官祐、丞、允、忠、尉、監、掾
さかん主典史、録、属、疏、志、典、目
四等官の内訳

この一覧の字づらを覚えておくとなにかと便利なのですが、それはともかく。

義経は、朝廷から検非違使の尉に任ぜられたことから、「九郎判官義経」と呼ばれるのです。

もっとも、兄の頼朝の許可をもらうことなく受けてしまったため、兄からにらまれ始め、彼らの崩壊のきっかけともなりました。

朝廷のおもわくは二人の仲を裂かせて弱体化させようとするところにありました。

戦うことにしか関心がなくて政治の闇に疎い、武骨で好色な青年はいいカモだったのでしょう。

「判官」は「はんがん」が普通の呼び方ですが、検非違使の尉の職位を得た義経に関しては「ほうがん」と呼びます。

検非違使では「ほうがん」と呼んだらしいのです。

検非違使は「けびいし」と読み、都の警察機関です。

ちなみに、「ほうがんびいき」とは「判官贔屓」のことです。

兄に討たれた義経の薄命を同情することから、弱者への同情や贔屓ぶりを言うわけです。

弁慶、そのココロは   【RIZAP COOK】

オチの「弁慶」は「考えオチ」というやつです。

義経たちの最後の戦いとなった「衣川の合戦」では、主君義経を守るべく、武蔵坊弁慶は大長刀を杖にして、橋の上で立ったまま、壮絶な死を遂げました。

その故事から、「弁慶の立ち往生」ということばが生まれたのでした。

「弁慶の立ち往生」とは、進むことも退くこともできず動けなくなることをいいます

「うーん、弁慶にしておけ」は、この「立ち往生」の意味を利かせているのです。

亭主が言うべきの「義経」を女房が先に言ってしまったので、亭主は困ってしまって立ち往生、という絵です。

『義経記』に描かれる弁慶立ち往生の故事がわかりづらくなったり、「途方にくれる、困る」という意味の「立ち往生」が死語化している現代では、説明なしには通じなくなっているかもしれませんね。

上方では人におごられることを「弁慶」といいます。これは上方落語「舟弁慶」のオチにもなっています。この噺での「弁慶」には、その意味も加わっているのでしょう。

ところで、弁慶は、『吾妻鏡』の中では「弁慶法師」と1回きりの登場だそうです。まあ、鎌倉幕府の視点からはどうでもよい存在だったのでしょうか。負け組ですから。

それでも、主君を支える忠義な男、剛勇無双のスーパースターとしては、今でも最高の人気を得ています。

小里ん語り、小さんの芸談   【RIZAP COOK】

この噺は柳家の十八番といわれています。

ならば、芸談好きの代表格、五代目柳家小さん(小林盛夫、1915-2002)の芸談を聴いてみましょう。弟子の小里ん師が語ります。

植木屋が帰ったとき、「湯はいいや。飯にしよう」って言うでしょ。あそこは、「一日サボってきた」っていう気持ちの現れなんだそうです。「お客さんに分かる分からないは関係ない。話を演じる時、そういう気持ちを腹に入れておくことを、自分の中で大事にしろ」と言われましたね。だから、「湯はいいや。飯にしよう」みたいな言葉を、「無駄なセリフ」だと思っちゃいけない。無駄だといって刈り込んでったら、落語の科白はみんななくなっちゃう。そこを、「なんでこの科白が要るんだろうって考えなきゃいけない。落語はみんなそうだ」と師匠からは教えられました

五代目小さん芸語録柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

なるほどね。芸態の奥は深いです。

「青菜」の演者

三代目小さんが持ってきた話ですから、四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)も得意にしていました。四代目から五代目に。

柳家の噺家はよくやります。

十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)も引き継いでいました。文句なし。絶品でした。還暦を過ぎた頃からのが聴きごたえありまました。



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うえきやむすめ【植木屋娘】落語演目



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【どんな?】

上方噺。松鶴、米朝、枝雀などが演じてきました。
明治期に東京にも移されて、江戸風な物語に変身。

【あらすじ】

とあるお寺の門前。

植木屋の看板を出しているのは、元は武士だったという幸右衛門だ。

せっかちだが、腕がよくて、店は順調に繁盛している。

多くの得意先を持つようになって、若い衆も数人雇って、いまは植木屋幸右衛門世間に通っている。

女房のおさじと娘のおみつの3人家族。

娘はべっぴんで、幸右衛門のなによりのご自慢だ。

おみつは今年17歳になる。来年は18、再来年は19歳。

幸右衛門は、婿養子を迎えてぼちぼち隠居したいと考えている。

それというのも、幸右衛門には心に決めた男がいるから。

その男とは、懇意にしている奥のお寺に、住み込みで修行している伝吉。

男前の若い衆だ。

伝吉が奥のお寺に来てからというもの、幸右衛門はその人柄に惚れ込んでいる。

「伝吉さん、伝吉さん」と、なにかと伝吉を頼りにしているのだ。

そんなこんなで、幸右衛門は奥のお寺に日参する。

「かかあ、植木に虫が付いたら、おれは植木屋だからなんとでもできるが、娘に付く虫はおれの手に負えねえ。娘屋じゃねえからな」

幸右衛門、ばかなことを言っては、おさじに自分の思いを話している。

聴いた女房は大きくうなずく。

そばのおみつも、まんざらではないようなそぶり。

それを見た幸右衛門は、善は急げと、奥のお寺に飛び込んだ。

「伝吉さんをおくれ」

藪から棒の申し出に、奥のお寺の和尚はいぶかしむ。

「伝吉は、さる武家の嫡男で修養のために預かっているだけなのじゃ。婿養子に入るなどできない相談じゃな」

素っ気ない返事に、幸右衛門は意気消沈して家に戻った。

こうなれば、作戦変更。

既成事実を作るしかない。

「これだ!」

幸右衛門は一計を案じて、おさじに話した。

その計略とは。

伝吉を家へ招待して酒席を設ける。

最初は4人で歓談する。

すぐに夫婦は用事を言い出して中座する。

おみつと伝吉だけに。

二人きりでのっぴきならないかかわりをつくらせちまおう。

以上、計略完了。

ある日。

伝吉が招きに応じて、幸右衛門の家にやってきた。

「おさじ、湯屋で向かいのばばあと待ち合わせてんだろ。早く行ってこい」
「伝吉さんが来るというので今、行ってきたところですよ」
「ばかやろ、おめえがめかし込んでどうする。もう一度、湯のはしごをしてこいてんだ」

幸右衛門、女房のおさじを外に出させる。

伝吉と一献やりとりしたところで、今度は幸右衛門。

「あ、いけねえ。得意先へ植木を持って行くのを忘れちまった。おれも中座するが、娘と続けておいてくだせえ。すぐに戻ってきやすから、待っといておくれよ。……だけど、そんなにすぐではありませんぜ。なにかをする時間はたっぷりあるてもんで。うふふ。娘をよろしく、で」

そう言って、幸右衛門は外へ出た。

幸右衛門は裏へ回って、焼き板塀に顔をくっつけて節穴から部屋をのぞく。

顔を黒くして自分の家をのぞいている幸右衛門を見て、近所の連中がけげんに思う。

そこを幸右衛門、「えへへ」と笑ってごまかし、さらなる二人のようすをうかがうことに。

おみつと伝吉、二人は仲睦まじく話をしている。ただそれだけ。

おみつが酒を断るので、伝吉も酒を控えて、二人の気分は盛り上がらないでいる。

伝吉がおみつの手でも握ったら、とたんに飛び込んでいって、めおとの約束をさせようかと。

そんな幸右衛門の思いも、はずれる。

「娘に酒を教えておけばよかったなあ」

幸右衛門は、いまさら後悔しても手遅れだ。

やがて伝吉がおみつに言い出す。

「親方、門遅いですね。ぼちぼちおひらきにしましょうか」

そう言って、伝吉は腰を上げるしまつ。

おみつおみつで、ぼーっとして、なにもせずにただ見送るだけ。

「ばかやろ、引き止めろてんだ」

幸右衛門が胸の内で叫んでも、もう手遅れ。

作戦はみごと、失敗に終わった。

そこへ、湯あたりしたおさじが、ふらふらになって戻ってきた。

「どこへ行ってたんだよ。おい。この大事な時に。おめえのしつけがよすぎて、ぶちこわしだぜ」

幸右衛門は、おさじにうっぷんをぶつけるだけで、もう、あとのまつり。

数日後。

向かいのばばあが駆け込んでくる。

「おみつちゃんが身ごもってるよ」

おさじはびっくり。

「なんで」
「なんでって、湯屋でたしかめたんだよ」

その顛末を聞いて、激怒する幸右衛門。

おさじは幸右衛門をなだめて二階へ上がらせる。

はしご段の下で、幸右衛門に聞こえるように、おさじがおみつをただす。

娘ははらぼて(妊娠)を認めた。

「相手は奥のお寺の伝吉さんです」

母親が驚く。

「なんだって。相手は奥のお寺の伝吉さんだって?」

おさじが大声で叫ぶと、幸右衛門が二階から転げ落ちてきた。

「おお、おみつ、よくやった。よく取った。今から奥のお寺へ行って話をまとめてくるぜ」

幸右衛門は外へ飛び出し、奥のお寺に向かっていった。

「和尚さん、伝吉さんを養子にもらいたい」
「あれは五百石の家督を継がなくてはならんのじゃ」
「うちのおみつは、はらぼてになっちまって」
「なに、伝吉があんたの娘のはらを……か」
「大きくしてくれたんだ。うちの根分けから接ぎ木から、みんな仕込んで、な」
「それはありがたいことじゃが、あれは五百石の家督を相続しないと」
「それもなるようにする。五百石でも八百石でも継がせるんで」
「いくらなんでも、お侍の家を取ったり継いだりは」
「取ったり継いだりは、うちの秘伝なんで」

【しりたい】

オチが不思議

オチがなんだかわかりにくいです。

要は、幸右衛門が段取りする日の前から、伝吉とおみつはできていた、ということなのですね。

「案ずるより産むがやすし」とは、まさにこのことでしょうか。

噺の背景

もとは上方噺です。

ところが、明治期に東京に移ってきて、いかにも江戸風の噺にさまがわりしました。

それというのも、江戸の八割は武家地(六割)と寺社地(二割)がしていて、この大半は庭があったわけですから、植木の需要はかなりのもとなっていました。

足軽や同心のような下級武士でも宅地には庭を持っていたわけで、彼らが庭を利用した植木(園芸)を内職(副業)に精出していたからです。

江戸の町では、江戸時代の前期には椿、桜、つつじなど花木中心でしたが、後期には菊、朝顔、桜草、菖蒲など花卉かき(くさばな)中心に流行が変わっていきました。

前期では、染井で多種の花木が栽培されて、駒込、千駄木、根津といった本郷台地の東斜面に広がりました。

後期では、本郷台地西斜面での菊、堀切での菖蒲、巣鴨、庚申塚、板橋(中山道沿い)の農家が桜草を栽培して、街場に売りに行っていたのでした。

このような流れに追随するかように、江戸住まいの下級武士の間で、植木が副業として発展していきました。

武士は下級であっても庭を広く持っているものです。そこに植栽して売る、という応用をしたのですね。

好例は、大久保のつつじです。

いまの新宿区百人町ですが、江戸時代には、大久保百人組と呼ばれた、伊賀組鉄砲百人同心の組屋敷がありました。

彼らは経済的に困窮していました。

しかも彼らは組織的集団的行動に長けていました。

一糸乱れることなくつつじを栽培しては、観覧させたり売ったりして、小金を稼いだのです。

つつじは染井や巣鴨も有名でしたが、大久保に比べれば、その千分の一といわれるほど、大久保のつつじは第一だったようです。

江戸のこのような光景は、幕末維新期に来日したロバート・フォーチュン(1812-80、英庭師)やラザフォード・オールコック(1809-97、英医師、外交官)などには大いに注目するところとなりました。

フォーチュンもオールコックも、名うてのプラントハンターです。

やがて、ロンドンのキュー植物園や英ヴィーチ商会を中心とした、ヨーロッパの花卉ブームに大きな影響を与えていったのでした。

『江戸名所図会』大久保の躑躅

植木屋

植木屋というのは、庭園の管理、造庭、植物の育成、販売を、一括で行う職人をさします。

植物の形状を整え、もっとも美しい状態で花を咲かせる栽培技法、奇種植物の採集、新品種の創出など、時代ごとの状況や流行に応じて、園芸にかかわる技術と美意識をたかめていくのが、当時の植木屋の役回りでした。

このように、たんなる職人とも言い難く、花木・花卉にかかわるすべてについてのめんどうをみるのが、植木屋という職業の本質でした。

言い方を変えれば、対象となる事物を総合的、総括的にかかわるのが当時の職人だったということなのでしょう。

この噺は、東京に移り上方噺を活躍した二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)がやっていました。師匠筋の二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)の型を引き継いでいました。



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