やんまきゅうじ【やんま久次】演目

円朝門の三遊一朝から彦六へ。空白期を経て雲助が復活。

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あ奴に切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も、もうこれまでと決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこになりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」と、さとす。

久次も泣いて、きっと真人間になると誓ったので、大助は安心して別れていく。

その後ろ姿に
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり、三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

伝・初代古今亭志ん生(1809-56)作。元題は「大べらぼう」。三遊亭円朝の人情噺「緑林門松竹」の原話となった芝居噺「下谷五人盗賊」中の「またかのお関」のくだりに、やんま久次郎を端役で登場させていますが、五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除しています。

円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵(彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。彦六は1982年に逝きました。その没後は手掛ける者がありませんでしたが、95年に五街道雲助が復活させました。

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、もとは長編人情噺でした。この続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「女郎」の意味があり、女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。ベラボーは、「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりましたが、それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼んだのでその意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

さんどらぼうんのう。飲む、打つ、買うの三道楽。「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源でもあります。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入口です。杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

東京都千代田区三番町、大妻学院前バス亭付近の坂下をいいました。近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

【語の読みと注】
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ

【RIZAP COOK】

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やすべえぎつね【安兵衛狐】演目

明治期、三代目小さんが上方からもってきた噺です。

別題:墓見 天神山(上方)

【あらすじ】

六軒長屋があり、四軒と二軒に分かれている。

四軒の方は互いに隣同士で仲がよく、二軒の方に住んでいる「偏屈の源兵衛」と「ぐずの安兵衛」、通称グズ安も仲がいい。

ところが、二つのグループは犬猿の仲。

ある日、四軒の方の連中が、亀戸に萩を見に繰り出そうと相談する。

同じ長屋だし、グズ安と源兵衛にも一応声をかけようと誘いにいくが、グズ安は留守で、源兵衛の家へ。

この男、独り者であだ名の通りのへそ曲がり。

人が黒と言えば白。

案の定、
「萩なんぞ見たってつまらねえ。オレはこれから墓見に行く」
と、にべもない。

四人はあきれて行ってしまう。

源兵衛、本当は墓などおもしろくないが、口に出した以上しかたがないと、瓢の酒をぶら下げて、谷中天王寺の墓地までやってきた。

どうせ墓で一杯やるなら女の墓がいいと「安孟養空信女」と戒名が書かれた塔婆の前で、チビリチビリ。

急に塔婆が倒れ、後ろに回ってみると穴があいている。塔婆で突っ付くと、コツンと音がするので、見ると骨。

気の毒になって、何かの縁と、酒をかけて回向してやった。

その晩。

真夜中に
「ごめんくださいまし」
と女の声。

はておかしい、と出てみると、じつにいい女。

実は昼間のコツで、生前酒好きだったので、昼間あなたがお酒をかけてくれて浮かばれたからご恩返しにきました、と言う。

あとはなりゆきで、源兵衛、能天気にもこの世ならぬ者を女房にした。

この幽霊女房、まめに働くが、夜明けとともにスーッと消えてしまう。

さて、グズ安。

ゆうべ源兵衛の家の前を通ったら、女の酌でご機嫌に一杯やっていたので、翌朝、嫌みを言いに行くと、実はこれこれだという。

ノロケを聞かされ、自分も女房を見つけようと、同じように酒を持って天王寺へ。

なかなか手頃な墓が見当たらず、奥まで行くと、猟師が罠で狐をとったところ。

グズ安、皮をむいちまうと聞いて、かわいそうだと無理に頼み、一円出して狐を逃がしてやる。

その帰り、若い娘が声をかけるので、グズ安はびっくり。

聞いてみると、昔なじみのお里という女の忘れ形見で、おコンと名乗る。

実はこれがさっきの狐の化身。

身寄りがないというので、家に連れていき、女房にした。

騒ぎだしたのが、長屋の四人。

最近、偏屈とグズが揃って女房をもらったのはいいが、片方は昼間見たことがない。もう片方は、口がこうとんがって、言葉のしまいに必ず「コン」。

これはどう見ても魔性の者だと、安兵衛が留守の間に家に押しかける。

「まあ、安兵衛は用足しに出かけたんですよ。コン」

やっぱり変。

思い切って
「あなたはいい女だけど、ひょっとして何かの身では」
と、言いも果てず、狐女房、グルグル回って、引き窓から飛んでいってしまった。

こうなると、亭主の安兵衛も狐じゃねえかと疑わしい。

そこで、近所のグズ安の伯父さんに尋ねるが、耳が遠くていっこうにラチがあかない。

思い切り大きな声で
「あのね、安兵衛さんは来ませんかね」
「なに、安兵衛? 安兵衛はコン」
「あ、伯父さんも狐だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、極めつけの爆笑編  【RIZAP COOK】

上方落語の切りネタ(大ネタ)「天神山」を、おそらく三代目柳家小さんが、東京に移植したものでしょう。

前半は「野ざらし」にそっくりで、実際、上方の「天神山」は、「骨つり」(野ざらし)に、「葛の葉子別れ」「保名」の芝居噺を即席に付けたものという説(宇井無愁)がありますが、桂米朝はこれを否定しています。

戦後は、五代目古今亭志ん生の極めつけ。志ん生がどこからこの噺を仕込んだのかは不明ですが、三代目小さんの「墓見」と題した明治40年の速記では最後に登場するのが安兵衛の父親となっているほかはほぼ志ん生のものと変わらない演出です。

考えてみると、前半と後半がまったく別の話で、全体としてまとまりを欠く噺ですが、さすがに志ん生。

速いテンポとくすぐりにつぐくすぐりの連続で、いささかもダレさせないみごとな手練です。  

現役では、滝川鯉昇ほかが手掛けていますが、まあ、志ん生を超える気遣いはないでしょう。志ん生が「葛の葉」の題で演じたことがあるという説がありますが、いつごろのことなのかわかりません。

「天神山」はオチが三か所  【RIZAP COOK】

本家・大阪の「天神山」は、桂米朝、門下の枝雀、笑福亭仁鶴を始め、今も多くの演者が手掛けます。

舞台は大坂・天王寺門前の安居の天神と、その向かいの一心寺の墓地。主要キャストの「ヘンチキの源兵衛」の偏屈ぶりは、東京よりはるかに徹底的。頭は半分伸ばして半分坊主、しびんに酒を入れ、おまるに飯を入れるえげつなさ。上方は、そのヘンチキがシャレコウベを持ち帰り、夜中に現れた幽霊と夫婦になる段取りです。

オチは、演者がどの部分で切るかによって三通りに分かれます。

まず、東京同様、長屋の者が押しかけて正体がバレ、狐女房が「もうコンコン」と姿を消す部分。

ついで、こちらは東京にはない部分ですが、女房に去られた保平(東京の安兵衛)が、障子に書き残された「恋しくば尋ねきてみよ南なる天神山の森の中まで」の歌を見て、狂乱して後を追うくだりで切ります。

ここは、浄瑠璃の「蘆屋道満大内鑑」・「保名狂乱」のパロディ仕立ての芝居噺になります。昔は、このくだりで「保名」の振りで立ち踊りする噺家も多かったとか。

オチは地口で、「蘆屋道満」「葛の葉」をもじり、「貸家道楽大裏長屋、ぐずの嬶ほったらかし」。

最後は「安兵衛狐」と同じ、長屋の者と保平の伯父のトンチンカンな会話で「あ、叔父さんも狐や」でオチ。

江戸名所、亀戸の萩  【RIZAP COOK】

亀戸天神は江東区亀戸三丁目にあります。春は梅、藤、秋は萩の名所としてにぎわいました。

狐釣り  【RIZAP COOK】

罠を仕掛けて狐を捕獲するのを狐釣りともいいました。皮をはいで胴服、つまり狐皮の下着用に売るわけですが、西洋だとスポーツなのに対し、こちらはれっきとしたお仕事です。

「狐ェ捕ってどうすんです?」「皮ァむくんだよォ」「狐が痛がるでしょ」という志ん生のやり取りが笑わせました。

志ん生のくすぐりから  【RIZAP COOK】

(長屋の某がグズ安の伯父さんに)
某「あこら、ほんとに聞こえねえんだ。やいじじい、ひとつなぐってやろうか」
伯「ふふーん、ありがとう」
某「あり……おめえみてえなものはね、あの、もうね、くたばっちゃえ」
伯「そう言ってくれんのはおまいばかりだ」
某「あ、しょうがないよこりゃ……自分で死ね」
伯「あは、それもいいや」

【語の読みと注】
塔婆 とうば
回向 えこう
嬶 かか

【RIZAP COOK】

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もといぬ【元犬】演目

江戸期からのスタンダードな噺。前座がよくやっています。

別題:戌の歳 白犬

【あらすじ】

浅草蔵前の八幡さまの境内に、珍しい純白の犬が迷い込んだ。

近所の人が珍しがって、白犬は人間に近いというから、きっとおまえは来世で人間に生まれ変われるというので、犬もその気になって、人間になれますようにと八幡さまに三七、二十一日の願掛け。

祈りが通じたのか、満願の日の朝、一陣の風が吹くと、毛皮が飛んで、気がつくと人間に。

うれしいのはいいが、裸ではしょうがないと、奉納手拭いを腰に巻いた。

人間になったからはどこかに奉公しないと飯が食えないと困っているところへ、向こうから、犬の時分にかわいがってくれた口入れ屋の上総屋吉兵衛。

奉公したいので世話してくれと頼むと、誰だかわからないが、裸でいるのは気の毒だと、家に連れていってくれる。

ところが、なかなか犬の癖が抜けない。

すぐ這って歩こうとするし、足を拭いた雑巾の水は呑んでしまうわ、尻尾があるつもりで尻は振るわ、干物を食わせれば頭からかじるわ。着物も帯の着け方も知らない。

「どこの国の人だい」
と首をかしげた旦那、
「おまえさんはかなり変わっているから、変わった人が好きな変わった人を紹介しよう」
と言って、近所の隠居のところに連れていくことにした。

隠居は色白の若い衆なので気に入り、引き取ることにしたが、やたらに横っ倒しになるので閉口。

ウチは古くからのお元という女中がいるから、仲よくしとくれと念を押すと、根掘り葉掘り、身元調査。

「生まれはどこだ」
と尋ねると、
「乾物屋の裏の掃き溜めで」
という。

「お父っつぁんは酒屋のブチで、お袋は毛並みのいいのについて逃げた。兄弟は三匹で、片方は大八車にひかれ、もう片方は子供に川に放り込まれてあえない最期」

なにか変だと思って、名前はと聞くと
「ただのシロです」

隠居、勘違いして
「ああ、只四郎か。いい名だ。今茶を入れよう。鉄瓶がチンチンいってないか、見ておくれ」
「あたしは、チンチンはやりません」
「いや、チンチンだよ」
「やるんですか」

シロがいきなりチンチンを始めたので、さすがの隠居も驚いた。

「えー、茶でも煎じて入れるから、焙炉をとんな。そこのほいろ、ホイロ」
「うー、ワン」
「気味が悪いな。おーい、お元や、もとはいぬ(=いない)か」
「へえ、今朝ほど人間になりました」

しりたい

志ん生得意のナンセンス噺   【RIZAP COOK】

「ホイロ」の部分の原話は、文化12年(1815)刊『滑稽福笑』中の「焙炉」で、その中では、主人とまぬけな下男の珍問答の形になっています。

大阪でも同じ筋で演じられますが、焙炉のくだりはなく、主人が「椀を持ってこい」と言いつけると「ワン」と吠えるという、単純なダジャレの問答になります。

明治期では三遊亭円朝が「戌の歳」、二代目(禽語楼)柳家小さんが「白狗」と題して速記を残しています。心学から発想された噺なんだそうです。

戦後では八代目春風亭柳枝が得意で、よく高座に掛けました。柳枝では、上総屋の旦那だけ、シロが犬から変身したことを知っている設定でした。

五代目古今亭志ん生も、噺の発想自体の古めかしさや、オチの会話体としての不自然さを補ってあまりある、ナンセンスなくすぐり横溢で十八番に。志ん生没後はあまり演じ手がありませんでしたが、最近、荒唐無稽な発想がかえって新鮮に映るのか、やや復活のきざしがあるようです。

人か獣か、獣か人か  【RIZAP COOK】

オチは陳腐ですが、この噺のユニークさは、「人が犬に」ではなく、逆に、「犬が人に」転生するという、発想の裏をついている点でしょう。その人間に生まれ変わった犬の立場に立って、その心理・行動から噺を組み立てています。こういう視点は、よくある輪廻や因縁ばなしの盲点をつくもので、ありそうであまりありません。

考えてみれば、「ジャータカ物語」で、釈迦は人から獣へ、獣から人へと、無数の転生を繰り返し、ネイテブ・アメリカンはコヨーテやバッファローや馬や犬と人間は渾然一体、いつでも精神的、肉体的に動物に変身できると信じていました。したがって、転生は「可逆的」でなければおかしいのに、なぜか、仏教的な輪廻説話では、人が前世の悪業で畜生に転生させられるという、一方的なものばかりです。

「アラビアン・ナイト」では、魔法でよく人が獣に変身させられますが、一時的に姿が変わっても、主人公はあくまで「人間」です。これは、人間があくまで「万物の霊長」で、それが畜生道に堕ちてロバやオウムになることはあっても、その逆は受け入れられないという意識の表れでしょうか。

とすれば、その意識の壁を破ったこの噺、実は落語史上に残る傑作、なのかも知れません。

蔵前八幡  【RIZAP COOK】

東京都台東区蔵前三丁目。元禄7年(1694)、石清水八幡を勧請したので、石清水正八幡宮の正式名があります。

白犬は人間に近いのか  【RIZAP COOK】

ことわざで、心学の教義、または仏教の転生説話が根拠と思われますが、なぜ特に白犬なのかははっきりしません。

焙炉  【RIZAP COOK】

ほいろ。茶葉を火にかけて乾かす道具です。木枠や籠の底に、和紙を張って作ります。現在ではほとんど姿を消し、骨董屋をあさらないと拝めません。

志ん生のくすぐり  【RIZAP COOK】

(上総屋):「おい、食いついちゃいけないよ。人間が猫に食いつくんじゃありません。おいッ、なんだってそう片足持ちゃげて小便するんだよ。……あとをにおいなんぞ嗅ぐんじゃねえってんだ」

「元人」を信じた詩人  【RIZAP COOK】

プロバンスの桂冠詩人にしてノーベル文学賞受賞作家・フレデリック・ミストラル(1830-1914)は、カトリック信仰の強固な南仏には珍しく、輪廻転生を信じていました。

ある日、ミストラルは突然迷い込んだ犬の目を見たとたん「これは人間の目だ(笑)」。以来、この19世紀最高の知性の一人は、終生、この「パン・ペルデュ」と名付けられた犬が死んだ知人か先祖の生まれ変わりと信じ、文字通りの人間としての「待遇」で養ったとか。別に「人面犬」の都市伝説ではないのでしょうが。

以上は「元犬」ならぬ「元人」の例ですが、人と犬の、古代からの霊的(?)結びつきを象徴する、なかなか不気味な逸話です。ミストラル先生の直感が本当なら、「犬の目」の医者は名医中の名医ということになります。

【語の読みと注】
焙炉 ほいろ:炉にかざして茶などを焙じる道具

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ほうちょう【包丁】演目


まぬけなワルを描いた噺。落語のもうひとつの醍醐味です。

別題:えびっちゃま 出前包丁 庖丁間男(上方)

【あらすじ】

居候になっていた先の亭主がぽっくり死んで、うまく後釜に納まった常。

前の亭主が相当の小金をため込んでいたので、それ以来、五円や十円の小遣いには不自由せず、着物までそっくりちょうだいして羽振りよくやっていたが、いざ金ができると色欲の虫が顔を出し、浅草新道の清元の師匠といつしかいい仲になった。

だんだん老けてきた二十四、五になる女房の静と比べ、年は十九、あくぬけて色っぽい師匠に惚れてしまったので、こうなるとお決まりで、女房がじゃまになってくる。

どうにかしてたたき出し、財産全部をふんだくって師匠といっしょになりたいと考えているところに、ひょっこり現れたのが、昔の悪友の寅。

こちらの方はスカンピン。

常は鰻をおごって寅に相談を持ちかけるが、その筋書きというのがものすごい。

亭主の自分がわざと留守している間に、寅が友達だと言ってずうずうしく入り込み、うまくかみさんをたらし込んで、今にも二人がしっぽり濡れるというころあいを見計らって、出刃包丁を持って踏み込み、「間男見つけた、重ねておいて四つにする」と言えば、もうどうにもならないだろう、という計略。

じゃまな女房を離縁の上、「洲崎や吉原に売れば水金引いても二、三百にはなるだろうが、年増なので品川や大千住で手取り八十円だろう。二人で山分けだ」と持ちかけたので、こうなると色と欲との二人連れ。

寅は飛びつく。

当日。

新道で「貸し夜具」をなりわいとする常の家。

予定通り、寅が静をくどこうとするが、この女、聞かばこそで、やたらに頭をポカポカこづくものだから、寅はコブだらけ。

閉口して、あろうことか、悪計の一切合切を白状してしまう。

「まあ、なんて奴だろう。もうあいつには愛想が尽きましたから、寅さん、おまえさん、こんなおばあさんでよければ、あたしを女房にしておくれでないか」
「よーし、そうと決まったら、野郎、表へ引きずり出して」

瓢箪から駒。

寅がすっかり寝返って、二人で今度は本当にしっぽりと差しつ差されつ酒を飲んでいるところへ、台本が差し替えられているとも知らない常さん、
「間男見つけた」
と、威勢よく踏み込んだとたん
「ふん、出ていくのはおまえだよ」

したたかにぶんなぐられ、下着一枚で表に放り出された。

やっと起き上がると
「ひでえことしやがる。さあ、出刃を返せ」
「なんだ、まだいやがった。切るなら切ってみろ」
「横丁の魚屋へ返してくるんだい」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

恵比寿さま 鰻でタイを釣りそこね?  【RIZAP COOK】

上方落語「庖丁間男」を明治期に東京に移したもので、移植者は三代目三遊亭円馬とされます。

明治31年(1898)11月の四代目柳亭左楽の速記が残っていて、この年円馬はまだ16歳なので、この説はあやしいものです。

左楽は「出刃包丁」の題で演じていますが、明治期までは東京での演題は「えびっちゃま」。

にやにや笑って相手の言うことをまともに聞かないことを恵比寿のにこやかな笑いに例えた慣用表現ですが、オチにこの語を使ったことからとも言われ、はっきりはわかりません。

左楽の古い速記では、常が寅を鰻屋に誘うとき、「霊岸島の大黒屋、和田、竹葉、神田川、芝の松金、浅草の前川へ行くというわけにはいかないから」と明治30年代の人気店を挙げています。

昭和の両巨匠の競演  【RIZAP COOK】

戦後では六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生の二名人が得意としました。

本来は音曲噺で、円生は橘家橘園という音曲師に習っています。

現在、速記・音源ともほとんど円生のもので、残念ながら志ん生のはありません。

円生からは一門の五代目円楽、円弥、円窓らに継承。志ん生からは長男の十代目金原亭馬生に受け継がれていました。

水金  【RIZAP COOK】

みずがね。元の意味は、文字通り、湯水のように使いきる金のことですが、ここでは、常が「水金引いても…」と言っているので、女の斡旋手数料を意味します。

「水」は「廓の水が染み込んで…」という慣用句があるとおり、今でいう「水商売」のこと。


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ふたなり【ふたなり】演目

【RIZAP COOK】

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タイトルとはおおよそイメージ違った、大笑いの噺。あまりやらない珍品です。

別題:亀右衛門 書き置き違い(上方)

【あらすじ】

ある田舎のお話。

土地の親分で、面倒見がよいので有名な亀右衛門のところに、猟師が二人泣きついてくる。

五両の借金が返せないので、夜逃げをしなければならないという。

何でも呑み込む(頼みを引き受ける)ため、鰐鮫(わにざめ)と異名を取っている手前、なんとかしてやると請け負ったものの、亀右衛門にも金はない。

そこで、妖怪が出ると噂の高い天神の森を通って小松原のおかんこ婆という高利貸しのところへ借金に行くことになった。

森に差しかかると、ふいに若い女に声をかけられる。

どうせ狐か狸だろうと思ったが、これがなかなかいい女なので、話を聞いてみると
「若気の至りで男と道ならないことをした、連れて逃げてもらおうと思ったが、薄情にも男は行方をくらましてしまい、この上は死ぬよりほかはないから、書き置きを親許に届けてほしい」
との願い。

「もし聞き届けてくださるのなら、死ぬ身にお金は必要なし、持ち出した十両があるので、それを差し上げます」

こんなおいしい話はない。

亀右衛門はたちまち飛びついた。

「もう一つお願いがございます」
「なんだい」
「あんまり急いだので、死ぬ用意が有りません。ここは飛び込む川もなし、どうしたら死ねるか、教えてください」

そこで、目についたのが目の前の松の木。

亀右衛門、首くくりの実技指導をしているうちに、熱が入りすぎて、縄から思わず手を放したのが運の尽き。

自分がぶら下がってしまい、あえない最期。

「あァらいやだわ、この人。あたし、なんだか死ぬのが嫌になっちゃった。死人にお金は必要ないから、今この人に渡した十両、また返してもらおう」

ひどい奴があるもので、風を食らって逃げてしまった。

翌朝、親分の帰りが遅いのを心配した例の猟師二人が捜しに来て、哀れにもぶらぶら揺れている亀右衛門の死骸を発見して大騒ぎ。

さっそく、役人のお取調べとなる。

「ここに書き置きがあるな。覚悟の自殺と見える。どれどれ『ご両親さまに、先立つ不幸、かえりみず、かの人と深く言い交わし、ひと夜、ふた夜、三夜となり、ついにお腹に子を宿し…』。なんじゃ、これは。これこれ、その方ども、この者は男子か女子か、いずれじゃ」

「へえ、猟師(両子)でございます」

底本:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

志ん生、米朝の珍品  【RIZAP COOK】

別題「書置き違い」の上方落語を東京に移植したものですが、古い速記もなく、原話ほか、詳しいこともよくわかりません。

東京では「亀右衛門」の題も使われ、戦後は五代目古今亭志ん生の一手専売でした。

その志ん生も、しょっちゅうやった噺ではありません。埋もれるには惜しい逸品ですが、発想が古めかしいためか、なぜか演者は少なく、珍品の部類に入るでしょう。

男女の垣根が取っ払われつつある現代では、この噺程度の「不道徳性」では刺激が少ないかもしれません。

上方では、桂米朝が東京通り「ふたなり」の題で演じていました。弟子の枝雀のも「それなりに」エキセントリックで、けっこうでした。

上方のオチと演出  【RIZAP COOK】

現行のものもダジャレオチで、決してほめられたものではありませんが、それだけに、演者によってオチの工夫がみられます。

上方のオチは、「おまえの親父はふたなりか」と聞かれ、「夜前食うたなりです」というもので、これもかなり苦し紛れ。

上方では、古くは首をつる主人公は、名前はありませんでした。

役人が「亀右衛門はふたなりであろう」と先に言ってしまい、「いえ、昨晩着たなりです」とする演者もあったようです。これなど、早とちりで「ふたなり」を先に出してしまい、あわてて咄嗟にゴマかしたにおいがぷんぷんするのですが。

ふたなり  【RIZAP COOK】

両性具有、アンドロギュヌスのことです。古くは「はにわり」ともいいました。雌雄一体は、下等生物にはよくあるそうですが、さすがに人間となると……。

【RIZAP COOK】

ひものばこ【干物箱】演目

【RIZAP COOK】

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善公が若旦那の身代わりに。志ん生や文楽ので有名ですね。

別題:大原女 作生 吹替息子(上方) 

【あらすじ】

銀之助は遊び好きの若旦那。

外出を親父に禁止されている。

「湯へ行く」と偽り、貸本屋の善公の長屋へ。

借金漬けの善公、声色は天下一品。亀清の宴会で銀之助の声色をしたら大ウケだった。

厠から戻った銀之助の親父が「家で留守番していろというのに、またてめえ来やがって」と、怒りだしたほどだ。

その一件を思い出した若旦那、自分が花魁に会っている間、善公に家での身代わりを頼む。

善公は羽織一枚と十円の報酬で引き受けた。

「お父っつぁん、ただいま帰りました。おやすみなさい」
と善公、うまく二階に上がりはしたが、
「今朝、お向こうの尾張屋からもらった北海道の干物は何の干物だった」
との父親の質問には
「お魚の干物です」
「青物の干物があるかい。どこに入れといた」
には
「干物箱」
と、しどろもどろ。

「干物箱? どんな箱だい」
「これは困った。羽織一枚と十円ぐらいじゃ割が合わねえ。今ごろ若旦那は芸者、幇間とばか騒ぎかよ」
などと、長い独り言。

「変な声を出しやがって」
と、いよいよ親父が二階に上がってしまい、善公であることがばれる。

そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた若旦那。

「この罰当たりめ。どこォ、のそのそ歩いてやがる」

親父のどなり声を聞いて
「はっはァ、善公は器用だ。親父そっくりだ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

亀清楼  【RIZAP COOK】

明治以来、政財官界お偉方ご用達の高級料亭は東京に何軒もありますが、安政元年(1854)創業にして21世紀の今も台東区柳橋に健在のこの店こそ、日本の近代史の裏側を見つめてきた「国宝級」の老舗といえるでしょう。

伊藤博文ほか、明治政府の高官が柳橋花柳界とともに贔屓にしたことで知られる「亀清」は、以後一世紀以上にわたり、その奥座敷で歴史を左右した政策決定の談合が何度も行われてきたという、いわば「陰の永田町・霞ヶ関」。森鷗外の小説『青年』にも登場します。

ルーツは上方  【RIZAP COOK】

原話は古く、延享4年(1747)京都板の笑話集『軽口花咲顔』の「物まねと入替り」で、筋は現行の噺とほぼ同じですが、オチらしいオチはなく、身代わりを頼まれた悪友が親父に踏み込まれ、「こは不調法」と言って逃げた、というだけです。

別題としては上方落語版で使われる「吹替息子」が一般的ですが、「大原女」「作生」とも呼ばれています。

「大原女」は、東京で五代目古今亭志ん生がやった演出に由来するものです。

「作生」の方ははっきりしませんが、「生」は古い上方言葉の「なまたれる」で、「物腰がしゃっきりしない」「優柔不断」意味があるので、軟派で道楽者の作次郎(若だんなの名?)くらいの意味でしょうか。

鼻の円遊から文楽、志ん生へ  【RIZAP COOK】

明治期の東京では、鼻の円遊こと初代(俗に)三遊亭円遊が独特のくすぐりを入れて改作し、十八番にしていました。

明治22年(1889)刊「百花園」掲載の円遊の速記では、若だんなは金之助、身代わりになるのは取り巻きのお幇間医者・竹庵となっています。

昭和期には八代目文楽、五代目志ん生がともに好んで演じました。ここでのあらすじは、よりスタンダードな文楽版を参考にしています。

志ん生のやり方は、前項の「大原女」のくだりで少し触れましたが、文楽のものとはやや趣を違えていて、若だんなが親父の代理で出席した連座(出席者が俳句を作り、秀句を互選するサークル)で出た、「大原女も 今朝新玉の 裾長し」の句を、親父と身代わり(善公)とのやり取りに使っています。

そのほか、親父が若だんな宛の花魁の手紙を読み、自分の悪口が書いてあるのを見つけ、怒って二階へ上がるというやり方もあります。

【語の読みと注】

作生 さくなま
大原女 おはらめ
新玉 あらたま

【RIZAP COOK】

ちょうないのわかいしゅう【町内の若い衆】演目

【RIZAP COOK】

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類話:氏子中

すごいオチですね。さすが、下町のおかみさんは太っ腹!

別題:鉢山嬶(上方)

【あらすじ】

長屋の熊五郎、兄貴分の家に増築祝いに寄ると、かみさんが、今組合の寄り合いに出かけて留守だと言う。

熊がお世辞ついでに、兄貴はえらい、働き者でこんな豪勢な建て増しもできて、組合だって兄貴の働き一つでもっているようなもんだと並べると、このかみさんの言うことが振るっている。

「あら、いやですよ。うちの人の働き一つで、こんなことができるもんですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

熊公、この言葉のおくゆかしさにすっかり感心してしまい「さすがに兄貴のとこのかみさんだ。それに引き換え、うちのカカアは同じ女でありながら」と、つくづく情けなくなった。

帰るといきなり「どこをのたくってやがった」とヘビ扱い。

てめえぐれえ口の悪い女はねえ、これこれこういうわけだが、てめえなんざこれだけの受け答えはできめえと説教すると「ふん、それくらい言えなくてさ。言ってやるから建て増ししてごらん」

痛いところを突かれる。

形勢が悪いので「湯ィへえってくる」と言えば「ついでに沈んじゃえ。ブクブク野郎」

熊公が腹を立て「しらみじゃねえが、煮え湯ぶっかけてやろうかしらん」と考えながら歩いていると、向こうから八五郎。

そこで熊「カカアの奴、ああ大きなことを抜かしゃあがったからには、言えるか言えねえか試してやろう」と思いつき、八五郎に「オレが留守のうちに何かオレのことをほめて、うちの奴がどんな受け答えをするか、聞いてきてくんねえ」と頼む。

一杯おごる約束で引き受けた八五郎、いきなり熊のかみさんに「あーら、八っつあん、うちのカボチャ野郎、生意気に湯へ行くなんて出てったけど、どうせあんなツラ、洗ったってしょうがないのにさ。あきれるじゃないか」

先制パンチを食らわされ、目を白黒させたが、なにかほめなくてはとキョロキョロ見回しても、何もない。

畳はすりきれている。土瓶は口がない。かみさんは臨月で腹がせり出している。

これだと思って「いやあ、さすがに熊兄ィ。この物価高に赤ん坊をこさえるなんて、さすが働き者だ」

するとかみさんが「あら、いやですよ。うちの人の働き一つでこんなことができるものですか。言ってみれば、町内の皆さんが寄ってたかってこさえてくれたようなもんですよ」

出典:五代目古今亭志ん生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

意外に珍しい、原話もそのまま 【RIZAP COOK】

たいていの噺は、原典があっても長い年月を経ているうちにかなりストーリーが変わってくるものですが、この「町内の若い衆」ばかりは最古の原話とされる元禄3年(1690)刊の笑話本『枝珊瑚珠』中の「人の情」以来、大筋はまったく同じなんです。

この笑話集は、江戸落語の始祖といわれる鹿野武左衛門(1649-99)の手になるものですが、それから1世紀を経た寛政10年(1798)刊の『軽口新玉箒』中の「築山」になると、オチの女房のセリフが「これも主(=主人)ばかりでなく、内の若い衆の転合(てんごう。いたずら)にこしらえました」と、よけいエスカレートしています。いかに「若い衆がよってたかって」のオチにインパクトが強かったかがわかろうというものです。

「こさえてくれた」の一言でご難 【RIZAP COOK】

このたった一言のおかげで、あわれ、この噺はアジア太平洋戦争の間は禁演落語の一つに指定され、「噺塚」に葬られていました。

五代目古今亭志ん生がまだ七代目金原亭馬生だったころの昭和10年(1935)2月、レコードに吹き込んだ「町内の若い衆」の速記が残っています。問題の最後の部分は「こさえてくれた」ではとても検閲を通らず、「育ててくれた」という、おもしろくもおかしくもないものになっていますが、この時点までは、この程度のゴマカシで、エロ落語もかろうじて命脈を保っていたことになります。

もっと強烈な「氏子中」 【RIZAP COOK】

前述の志ん生の速記は、実はタイトルが「氏子中」で、長男の十代目金原亭馬生も同じ題で「町内の若い衆」を演じています。ところが、同じ不倫噺でも本来、この二つは別話なんですね。「氏子中」の項目を見ていただければおわかりになると思いますが、ここでは、そっちを見るのもめんどうな方のために、さわりを記しておきます。

商用の旅から一年ぶりに帰った亭主の与太郎が、女房が妊娠しているのを見て、驚いて問いただすと、女房もさるもの、氏神の神田明神に願掛けして授かった子だと、しらばっくれる。親分に相談すると、「子供が産まれたら、祝いに友達連中を呼んで荒神さまのお神酒で胞衣(えな。胎盤)を洗えば、胞衣に本当の父親の紋が浮かび出る。そいつに母子ともノシつけてくれてやれ」そこで、言われたとおりにすると、「神田大明神」の文字がくっきり。疑いが晴れたかに見えたが、よくよく見ると横に「氏子中」。

こちらは、五代目三遊亭円楽がたまに演じていました。

歌麿の『葉男婦舞喜』から 【RIZAP COOK】

この噺を絵にすると、こんなかんじでしょうか。

下の絵は、喜多川歌麿の『艶本 葉男婦舞喜』に収録されています。「えほん はなふぶき」という、歌麿の有名な春画本の中の一枚ですね。

喜多川歌麿『艶本 葉男婦舞喜』上巻第七図より

この絵の書き入れ(絵のまわりにちりばめられた文字)は男女の会話です。じつは、こんなことを話しているのです。現代語訳にしてみました。

女「この子は確かおめえの子だよ。うちの亭主には少しも似ねえ。おめえにどこか似ているようだ」
男「世間の人は、とかく子持ちのぼぼは味が悪いというが、おいらあ、子持ちのぼぼでなけりゃアうま味は出ねえものと心得ている。あああ、いい。どうも言えねえ。豪勢、豪勢。まだ気をやるのは惜しいが、どうももう、たまらなくなってきた。さあさあ、十四の背骨がずんずんしてきたぞ」

絵に出ている子供はどうやら、おかみさんと「町内の若い衆」との子のようです。女は「あんたの子だよ」なんて詰め寄っているのに、男は「子持ちのぼぼがいい」とかほざいて、どこ吹く風。この子の認知をしません。会話のちぐはぐがなんとも笑いを誘います。

ひとつ、蛇足を。乳を吸われている女性は締まりがよくなるため、それを好んで男が挑むのだそうです。となると、この男女は性の手練れかもしれませんね。

【RIZAP COOK】

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にわかに【庭蟹】演目

【RIZAP COOK】

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逃げ噺。高座での時間の調整用。志ん生のが秀逸。テーマは「洒落」。

別題:洒落番頭

【あらすじ】

洒落のわからない、無粋なだんな。

得意先のだんなから、お宅の番頭さんは粋で洒落がうまいとほめられ、番頭に
「おまえさんは洒落がうまいと聞いたが、あたしはまだ洒落というものを見たことがない。ぜひ見せておくれ」
と頼む。

番頭が
「洒落は見せるものではないから、なにか題を出してください」
と言うので、
「庭に蟹が這い出したが、あれはどうだ」
「そうニワカニ(俄に)は洒落られません」

それなら、雨が振り出して、女が傘を半開きにしていくところではどうかと聞くと
「さようで。そう、さしかかっては(=差し当たっては)洒落られません」

だんな、
「主人のあたしがこれほど頼んでいるのに、洒落られないとはなんだ」
とカンカン。

そこへ小僧が来て、ちゃんと洒落になっていることを説明。

だんなは、なんだかまだわからないが、謝まって、ほめるからもう一度洒落てくれと頼むと、番頭、
「だんなのようにそう早急におっしゃられても、洒落られません」
「うーん、これはうまい」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

ダジャレを集めた逃げ噺

昭和では六代目三升家小勝(1971年没)が時折演じました。三代目三遊亭金馬が自著『浮世談語』中で梗概を紹介しているので、金馬のレパートリーにもあったと思われます。

ダジャレを寄せ集めただけの軽い噺で、小咄、マクラ噺、逃げ噺として扱われることが多く、洒脱で捨てがたい味わいを持ちながら、速記もなく、演者の記録も残りにくい性質のものです。

「洒落番頭」の別題もあるようですが、ほとんど使用例を聞きません。

志ん生の音源で

『志ん生、語る。』(岡本和明編著、アスペクト、2007年)は、家族、門弟、落語界の朋友・後輩たちが五代目志ん生の知られざる、とっておきの逸話を語る貴重なものですが、その付録CDで「小咄二題」として「小僧とぼた餅」とともに「庭蟹」が収録されています。

志ん生の「庭蟹」はこれまで、「化物つかい」のマクラとして音源化されたものはありましたが、まさに「幻の音源」にふさわしい、貴重なものです。

噺の進め方は極めてオーソドックスで、「庭蟹」「さしかかっては…」のダジャレのほか、「ついたて(=ついたち)二日三日」のシャレも入れ、きちんとオチまで演じています。

原話もダジャレの寄せ集め

安永9年(1780)刊の笑話本『初登』中の「秀句」が原話です。

「これは「庭蟹=にわかに」のくだりを始め、ほぼ」現行通りの内容ですが、オチは、下男の十助が茶を持って出て、「だんな、あがりませ」と言うのをだんながダジャレと勘違いし、「これはよい秀句」と言う、たわいないものです。

秀句傘

狂言「秀句傘」に原型があるともいわれます。「秀句」は本来、美辞麗句のことで、のち、テレビの大切りで言う「座布団もの」の秀逸な洒落を意味するようになりましたが、ここでは単なる地口、ダジャレに堕しています。

【RIZAP COOK】

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なきしお【泣き塩】演目

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短い噺ですが、志ん生もやっていました。

別題:当てずっぽう 塩屋 焼き塩(上方)

【あらすじ】

若侍が、往来でいきなり若い娘に声をかけられる。

娘は田舎から出てきて、女中奉公をしているお花。

故郷の母親が病気で心配しているところへ、田舎から赤紙付きの手紙がきたが、自分は字が読めないので、どうか変わりに読んでほしいという、頼み。

侍、さっと手紙に目を通すと
「あー、残念だ。手遅れであるぞ。くやしい。無念じゃ。あきらめろ」

いきなり泣き出したから、お花は仰天。

母親が死んだと思い込み、これもわっと泣き出した。

これを見ていた二人の町人、
「あの二人は一つ屋敷に奉公する小姓と奥女中で人目を忍ぶ仲だが、不義はお家のご法度、ついにバレてお手討ちになるところを奥さまのお情けで永の暇になったんで、女の方が男の胤を宿しちまって、あなたに捨てられては生きていけませんからってんで泣くと、男も、そんならいっしょに死のう、てんで泣いているんだ」
と、勝手なことを言い合う。

そこへ通りかかったのが、天秤を担いだ焼き塩売りの爺さん。

二人を見ると
「もしもし、若い身空でどうなすったんです。あなたもまだお若いお武家さま。あたくしにもあなたと同じくらいのせがれがおりますが、道楽者で行方知れず。親の身で片時も忘れたことはありません。無分別なことをしないで、手前の家にいらっしゃい。決して悪いことは申しません」
と説教しながら、これも泣き出した。

「あそこはきっと泣きどころかもしれねえ」
と、二人が首をかしげていると、お花のおじさんがやってきた。

事情を聞いて手紙を読んでみると、お花の母親は全快し、許婚の茂助が年期明けで、のれん分けしてもらって商売するので、お花を田舎に呼んで祝言するという、めでたい知らせ。

お花は喜んで行ってしまう。

まだ侍が
「残念だ、手遅れだ」
と泣いているので、伯父さんがわけを尋ねると
「それがしは生まれついての学問嫌い。武芸はなに一つ習わぬものはないが、字が読めない。あのお女中に手紙を突きつけられ、武士たる者が、読めぬとは申されぬ。それで身の腑甲斐なさを泣いていたのじゃ」

そばで塩屋の爺さんもまだ泣いている。

「私はね、なにかあると、すぐ涙が出るたちでして」
「へえ、そうかい」
「へい、あたしの商売がそうなんです」

天秤棒を肩に当てると
「泣き塩ォーッ」

底本:初代三遊亭円右

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【しりたい】

円馬、円右から志ん生へ  【RIZAP COOK】

原話は安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔隨訳』中の小咄です。

上方で「焼き塩」の題で演じられていたものを、明治末、三代目桂文団治(1856-1924)の演出をもとに三代目三遊亭円馬が東京に移植。円馬よりはるかに先輩の初代三遊亭円右が「当てずっぽう」の題でよく演じ、同人の死の前年、大正12年(1923)の速記も残ります。昭和初期には七代目三笑亭可楽が「塩屋」の演題で速記を残しましたが、戦後は五代目古今亭志ん生の独壇場でした。

塩屋  【RIZAP COOK】

江戸時代、塩売りはおもに老人のなりわいでした。この噺に登場する通り、塩を載せた浅いざるを二つ、天秤で担って売り歩きます。天秤ほか、商売道具はすべて借り物なので、元手はかかりません。

焼き塩は、ニガリを多く含む赤穂塩などでは雨の日などにべとべとになるため軽くあぶってさらさらにしたもの。別名を撓め塩ともいい、天文年間(1532-55)に、堺の塩商人、壷塩屋藤太夫が初めて製造販売したとされます。現在でも、スーパーなどで普通に売っています。

壷塩屋藤太夫  【RIZAP COOK】

現在、台所用の塩壷は施釉製共蓋の粗陶。茶道の茶碗や水指しなどに「塩笥」と称するものがあります。元は朝鮮半島の塩入れであるそうですが、共蓋のものは見当たらないようです。江戸時代に堺あたりから壷に入った焼き塩である「壷塩」をつくり全国に売り出しました。壷の形は同じようなものですが、おおざっぱには筒形をして蓋が付いています。高さは8~10cm、口径は約7.5cm。赤粘土の素焼き煉瓦のような赤褐色。手づくりか型づぐりです。時代によっては蓋や胴の側部にその時期の印が捺されてあります。

堺の船待神社には女院御所より賜った奉書と、奉行の石河土佐守から伊織家への書状を保管しています。船待神社には元文三年(1738)に壷塩屋が寄進した竹公像の画幅があるそうです。裏面に願文があって、元祖藤太夫慶本、二世慶円、三世宗慶、四世宗仁、五世宗仙、六世円了、七世了讃、八世休心、九世藤左衛門の署名と印が残ります。

天文年間(1532-55年)、藤太夫という人が京都の幡枝土器の方法で壷をつくり、塩を大れて堺湊村から売り出し、代々「藤左衛門」と称し「伊織」の呼名を用いました。八代休心の時にはすでに大坂に出店を設け、のちに大坂に移って代々「浪華伊織」と称して、今も焼き塩の製造販売を営業しています。『堺鑑』に初代を藤太郎としているのは「藤太夫」の誤りだそうです。「泉州麻生」「泉州麿生」の印のあるものは伊織家の壷塩を模倣したものであるそうです。

後継者のない噺  【RIZAP COOK】

志ん生は、この地味な噺をかなり淡々とオーソドックスに演じていました。円右の速記では、女は京屋のお蝶という上方女、場所が石町新道となっているほか、最後に登場して手紙を読む人物は、円右では町役の甚兵衛ですが、志ん生ではその時により無名の人物になったりしました。

受けない、笑いの少ない噺なので、志ん生以後これといった後継者は出ません。上方では、桂米朝が手掛けています。

「手紙無筆」はこの噺の別題ではなく、本来まったくの別話です。

【語の読みと注】
永の暇 ながのいとま
胤を宿す たねをやどす
撓め塩 いためじお

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とんちき【とんちき】演目

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「とんちき」とは「まぬけ」の意。奇妙な構成が笑わせます。

【あらすじ】

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月、『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せんでした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見ると、マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目志ん生が、しばしば使っていたネタ。残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳。昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音がひっくり返ったようです。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、またはシャレでひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例でしょう。

深川の岡場所(遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

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つくだまつり【佃祭】演目

 

実録をもとにした奇談です。志ん生や志ん朝のでよく聴きますね。

あらすじ

夏が巡ってきて、今年も佃の祭りの当日。

祭り好きな神田お玉ヶ池の小間物屋次郎兵衛、朝からソワソワ。

焼き餅焼きの女房から
「祭りが白粉つけて待ってるでしょ」
などと嫌みを言われてもいっこうに平気で、白薩摩に茶献上の帯という涼しいなりで、いそいそと出かけていく。

一日見物して、気がつくと、もう暮れ六ツ。渡し舟の最終便は満員。

これに乗り遅れると返れないから次郎兵衛、船頭になんとか頼んで乗せてもらおうとしていると、
「あの、もし……」
と袖を引っ張る女がいる。

「あたしゃ急ぐんだ」
「そうでもございましょうが」
とやりとりしている間に、舟は出てしまう。

「どうしてくれる」
と怒ると、女はわびて、
「実は三年前、奉公先の金を紛失してしまい、申し訳に本所一ツ目の橋から身を投げるところをあなたさまに助けられ、五両恵まれました」
と言う。

名前を聞かなかったので、それ以来、なんとかお礼をと捜し回っていたが、今日この渡し場で偶然姿を見かけ、夢中で引き止めた、という。

そう言われれば覚えがある。

女は、今では船頭の辰五郎と所帯を持っているので、いつでも帰りの舟は出せるから、ぜひ家に来てほしいと、願う。

喜んで言葉に甘えることにして、女の家で一杯やっていると、外が騒がしい。

若い者をつかまえて聞くと、さっきの渡し舟が人を詰め込みすぎ、あえなく転覆。

浜辺に土左衛門が続々とうち上がり、辰五郎も救難作業に追われている、とのこと。

次郎兵衛は仰天。

もし三年前に女を助けなければ、自分も今ごろ間違いなく仏さまだと、胸をなで下ろす。

やがて帰った辰五郎、事情を聞くと熱く礼を述べ、今すぐは舟を出せないから、夜明けまでゆっくりしていってくれと、言う。

一方、こちらは次郎兵衛の長屋。

沈んだ渡し舟に次郎兵衛が乗っていたらしい、というので大騒ぎ。

女房は半狂乱で、長屋の衆に
「日ごろ、おまえさんたちがあたしを焼き餅焼きだと言いふらすから、亭主が意地になって祭りに出かけたんだ。うちの人を殺したのはおまえさんたちだ」
とえらい剣幕。

ともかく、白薩摩を着ているからすぐに身元は知れようから、死骸は後で引き取ることにし、月番の与太郎の尻をたたいて、一同悔やみの後、坊さんを呼んで、仮通夜。

やがて夜が白々明けで、辰五郎に送られた次郎兵衛、そんな騒ぎとも知らずに長屋に帰ってくる。

読経の声を聞いて、
「はて、おかしい」
と家をのぞくと、驚いたのは長屋の面々。

「幽霊だぁ」
と勘違いして大騒ぎ。

事情がわかると坊さんは感心し、人を助けると仏法でいう因果応報、めぐりめぐって自分の身を助けることになると、一同に説教。

これを聞いた与太郎、
「それならオレも誰か助けてやろう」
と、身投げを探して永代橋へ。

おあつらえ向きに、一人の女が袂に石を入れ、目に涙をためて端の上から手を合わせている。

「待ってくれッ。三両やるから助かれッ」
「冗談言っちゃいけないよ。あたしは歯が痛いから、戸隠さまへ願をかけてるんだ」
「だって、袂に石があらあ」
「納める梨だよ」

【RIZAP COOK】

しりたい

佃島渡船転覆事件  【RIZAP COOK】

明和6年(1769)3月4日、佃島住吉神社の藤棚見物の客を満載した渡船が、大波をかぶって転覆、沈没。乗客三十余人が溺死する大惨事に。

翌年、奉行所を通じて、この事件への幕府の裁定が下り、生き残った船頭は遠島、佃の町名主は押し込みなど、町役にも相応の罰が課されました。

噺は、この事件の実話をを元にできたものと思われます。

佃の渡しは古く、正保年間(1644-48)以前にはもうあったといわれます。佃島の対岸、鉄砲洲船松町一丁目(中央区湊町三丁目)が起点でした。

千住汐入の渡しとともに隅田川最後の渡し舟として、三百年以上も存続しましたが、昭和39年(1964)8月、佃大橋完成とともに廃されました。

さかのぼれば実話  【RIZAP COOK】

中国明代の説話集『輟耕録』中の「飛雲の渡し」を町奉行としても知られた根岸鎮衛(肥前守、1737-1815)が著書『耳嚢』(文化11=1814年刊)巻六の「陰徳危難を遁れし事」として翻案したものが原話です。

オチの部分の梨のくだりは、式亭三馬(1776-1822)作の滑稽本『浮世床』(文化11=1814年初編刊)中の、そっくり同じ内容の挿話から「いただいて」付けたものです。

中国の原典は、占い師に寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救い、その応報で、船の転覆で死ぬべき運命を救われ、天寿を全うするという筋です。「ちきり伊勢屋」の原話でもあります。

『耳嚢』の話の大筋は、現行の「佃祭」そっくりで、ある武士が身投げの女を助け、後日渡し場でその女に再会して引き止められたおかげで転覆事故から逃れる、というもの。

筆者は具体的に渡し場の名を記していませんが、これは明らかに前記の佃渡船の惨事を前提にしています。

ところが、これにもさらに「タネ本」らしきものがあって、『老いの長咄』という随筆(筆者不明)中に、主人の金を落として身投げしようとした女が助けられ、後日その救い主が佃の渡しで渡船しようとしているのを見つけ、引き止めたために、その人が転覆事故を免れるという実話が紹介されています。

円喬、志ん生、金馬  【RIZAP COOK】

明治28年(1895)7月、『百花園』掲載の四代目橘家円喬の速記が残ります。戦後、若き日に円喬に私淑した五代目古今亭志ん生が、おそらく円喬のこの速記を基に、長屋の騒動を中心にした笑いの多いものにして演じ、十八番にしました。

もう一人、この噺を得意にしたのが三代目三遊亭金馬で、こちらは円喬→三代目円馬と継承された人情噺の色濃い演出でした。

竜神は梨好き  【RIZAP COOK】

戸隠神社に梨を奉納する風習は古くからありました。江戸の戸隠神社は、湯島天神社の本殿後方の石段脇にあり、正式には戸隠大権現社。湯島天神と区別されて湯島神社とも呼ばれ、土地の地神とされます。

信濃の戸隠明神(長野県長野市)を江戸に勧請したもので、祭神は本社と同じ、戸隠九頭龍大神です。ありの実(梨)を奉納すると歯痛が治るという俗信は、信濃の本社の伝承をそのまま受け継いだものです。

江戸後期の歌人、津村正恭(淙庵、?-1806)は随筆『譚海』(寛政7=1795年上梓)巻二の中で、この伝承について記しています。それによると、戸隠明神の祭神は大蛇の化身で、歯痛に悩む者は、三年間梨を断って立願すれば、痛みがきれいに治るとのこと。その御礼に、戸隠神社の奥の院に梨を奉納します。神主がそれを折敷に載せ、後ろ手に捧げ持って、岩窟の前に備えると、十歩も行かないうちに、確かに後ろで梨の実をかじる音が聞こえるそうです。

梨と竜神(大蛇?)と歯痛の関係は、よくわかりませんが、戸隠の神が、江戸に来ても信州名物の梨に目がないことだけは、確かなようです。虫歯の「虫」も、梨の実に巣食った虫といっしょに、竜神が平らげてくれるのかもしれません。

佃祭  【RIZAP COOK】

佃住吉神社(中央区佃一丁目)の祭礼です。旧暦で6月28日、現在は8月4日。天保年間(1830-44)にはすでに、神輿の海中渡御で有名でした。

本所一ツ目橋  【RIZAP COOK】

墨田区両国三丁目の、堅川の掘割から数えて一つ目の橋を「本所一ツ目の橋」、その通りを「一ツ目通り」と呼びました。橋は現在の「一之橋」で、このあたりは御家人が多く住み、「鬼平」こと長谷川平蔵(1745年)、勝海舟(1823年)の生誕地でもあります。

【語の読みと注】
輟耕録 てっこうろく
根岸鎮衛 ねぎしやすもり:江戸町奉行、肥前守
折敷 おしき

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しろきや【城木屋】演目

お豆料理は

【RIZAP COOK】

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ここでいう「豆」は女性をさす隠語です。念のため。

別題:お駒丈八 白木屋 白子屋政談

あらすじ

日本橋新材木町の呉服屋、城木屋庄左衛門が死に、あとにお常と、十八になる一人娘のお駒が残された。

お駒は界隈で評判の器量良しだが、こともあろうにそのお駒に、醜男の番頭丈八が邪恋を抱いた。

丈八は四十四歳になるが、背はスラッと低く、色はまっ黒けで、顔の表と裏がわからない、という、大変な代物。

ところが当人は本気で、お駒の婿は自分と一人決めをし、恋文を送りつけたが、もちろん、お駒は梨のつぶて。

それが、母親のお常の手に渡ってしまったので、丈八はお常に手ひどくしかりつけられ、
「どうせクビになるならば破れかぶれ、いっそのこと」
と、店の金五十両を盗み出して、吉原で全部使い果たしてしまう。

この上は、お駒を殺して自分も死ねば、心中と言われて浮き名が立つと、夜中にこっそりお駒の部屋に忍び込んだ。

お駒の寝顔を見て急に惜しくなり、さらって逃げようとゆり起こす。

承知したらよし、嫌と言ったら殺っちまおうと、刀で頬っぺたをピタピタたたいたから、お駒が目を覚まして悲鳴を上げる。

かわいさ余って憎さが百倍、やっと突くと、狙いが外れて床板まで突き通してしまい、抜けなくなって、そのまま刀と煙草入れの遺留品を残して逃走。

これから足がついて、丈八はお召し捕り。

お白州に引き出され、南町奉行、大岡越前守のお裁きを待つ身となった。

奉行に
「不届き至極な奴。娘駒とその方のなれ初めを申せ」
と尋問され、ごまかそうと
「十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の挿絵を見ておりますと、お駒さんが参りまして『これはなにか』と聞きますので『岡部の宿で夜這いに行くところです』『夜這いとは何じゃ』『いずれ今宵』と、それにかこつけて豆泥棒(夜這い)に参りまして」
「豆泥棒とはなんじゃ」
「へえ、お駒さんは素人娘で白豆、商売女は黒豆で、十二、三の小娘はおしゃらく豆、十五、六がはじけ豆、天人はソラ豆」

一喝されて
「娘御を駿河細工と思えども、籠の鳥にて手出しならねば」
という艶書の文句の意味を問われると
「もとの起こりが膝栗毛、もうとう海道から思い詰め、鼻の下も日本橋、かのお駒さんの色、品川に迷いまして、川さきざきの評判にも、あんないい女を神(かん)奈川に持ったなら、さぞほどもよし程ケ谷と」
と東海道尽くしでしゃれるので、奉行は
「その方、東海道を巨細(=詳しく)に存じおるが、生国はどこじゃ」
「へい、駿河のご城下で」
「うむ、ここな府中(不忠)者め」

まめは肝心

【RIZAP COOK】

うんちく

大岡政談の落語化 【RIZAP COOK】

「今戸の狐」に登場した乾坤坊良斎が、大岡政談に白子屋事件をからめて創作した長編人情噺「白子屋政談」を落語化し、こっけい噺に仕立てたものです。

落語としての作者(改作者)は不祥ですが、「東海道五十三次」「名奉行」(または「評判娘」)「伊勢の壷屋の煙草入れ」という題での三題噺として作られたともいいます。

白子屋の悲劇 【RIZAP COOK】

日本橋新材木町、稲荷新道の材木問屋、白子屋庄三郎の娘お熊は、母親お常の乱費のため傾いた店を立て直すため、持参金五百両を当てにした両親によって大伝馬町の大地主川喜田弥兵衛の番頭又四郎をむりやり婿に取らされます。又四郎は、身持ちが固いだけが取り得の、つまらない男。いやでたまらないところに、店の番頭で、渋い中年男の忠八にたらしこまれ、気がつけばお熊の腹はポコリン、ポコリン。これでは店の信用にかかわると、母親は、今度は又四郎を離縁して追い出そうとしますが、持参金がネックでそれもできません。そこで、女中二人に手伝わせ、ある夜、又四郎の寝首をかこうとして失敗。関係者はあえなく、全員逮捕されました。

名奉行大岡越前守さまのお裁きで、享保12年(1727)2月25日、「一審即決上告を許さず、弁護人これを付せず、審理は公開せず」の暗黒裁判で判決が下ります。母お常は殺人未遂の主犯で死罪。お熊と忠八は不義密通で死罪、磔。お女中二人は主殺し未遂で死罪、逆さ磔。父庄三郎は闕所。

23歳のお熊は絶世の美女で、引き回しで裸馬に乗せられ、千住小塚原の刑場に向かう途中、白無垢に黄八丈の小袖、首に水晶の念珠というなんとも色っぽい風情だったとか。

沿道を埋め尽くした野次馬連中。ああ、もったいねえと生唾ゴクン。これは、大岡越前が実際に裁いた数少ない事件で、その後、浄瑠璃「恋娘昔八丈」や、人情噺でのち黙阿弥の芝居にもなった「髪結新三」などに脚色され、今にその名を残しています。

志ん生から歌丸まで 【RIZAP COOK】

明治期では、三代目春風亭柳枝(1851-1900)の、明治24年(1891)9月の速記が残ります。「白木屋」「お駒丈八」の別題があります。

東海道尽くしの言い立てが聴かせどころで、軽く、粋なパロディ噺なので、昭和に入っても名人連が好んで取り上げ、五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬らがよく演じました。桂歌丸もレパートリーにしていました。

志ん生の豆尽くし 【RIZAP COOK】

「東海道尽くし」と並んで、この噺は「豆尽くし」が眼目。豆はもちろん、女性自身の隠語で、五代目志ん生はこの部分だけを、艶笑小咄として、独立して演じていました。

これも志ん生が得意にした「駒長」で、「白子屋政談」の登場人物の名前が借用されています。

忘れがたい豆の味

【RIZAP COOK】

【志ん生のひとこと】002 古木優

二十四、五から三十くらいまででしたね。その頃は、どうしてもわたしといっしょになるてえ女が来て、しょうがなかった。

『サンケイ読物』1956年1月8日号「かたい話やわらかい話」から。


■福田蘭堂との対談で、福田が「師匠がいちばん女のほうではなやかなりし頃はいくつです?」の問いにこたえてのひとこと。志ん生は上のひとことのあとに「わたしの仲人がね、おまえさん、もう女房もらったらいいでしょうって言ってきた。いいかげんな返事をしているうちに半月ほどして、ほかの女をズルズルベッタリに引っ張り込んでいっしょにいたんです。そこへね、とつぜん、前の話の女を引っ張ってこられたんです、仲人に。しかたがないから、いっしょにいた女を戸棚ン中にしまいこんじゃって……。実はそのとき、仲人に連れてこられたのが今のかかあなんです」と告白しています。戸棚の中に女を隠す、とは。これって、「今戸の狐」をなんとなく彷彿とさせるじゃありませんか。志ん生の噺っていうのは、ディテールが実体験からの連想なのですね。

福田蘭堂は青木繁の息子で、石橋エータローの実父にあたる人。青木繁は洋画家、石橋エータローはクレージーキャッツのメンバーで料理家です。

2020年2月2日 古木優

しろうとうらない【素人占い】演目

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勘当された若だんな。「お天道さまと米の飯は」とまぬけでのんき。

あらすじ

紀伊国屋という綿屋の若だんな。

略して紀綿さんと呼ばれているが、大変な道楽者で、吉原の花魁に入れ揚げてとどのつまりは、勘当。

「お天道さまと米の飯はどこでも付いて回る」
と「唐茄子屋政談」の若だんなとちょうど同じことを言って、家を飛び出し、花魁の所へ転がり込むが、金の切れ目が縁の切れ目、ていよく追い出され、結局、見世に出入りの印判屋の喜兵衛の家で居候を決め込む身とはなった。

若だんながあんまりにも怠け者でずうずうしいから、案の定、かみさんが怒り出す。

喜兵衛は板挟みで、若だんなに
「なにか商売を」
と勧めると、今度の若だんなは
「易者になりたい」
と言い出す。

みかん箱を一つ借り、白布を掛けて見台、魚串が筮竹。

家の半分を借りて「人相手相墨色判断」と看板を書いてもらい、名も平安時代の陰陽師安倍晴明をもじって「今晴明」というごたいそうなのを付けた。

最初に来たのは女で、三味線のお師匠さん。

母親に琴も教えたらどうかと言われ、やった方がいいか見てもらいたいと言うので、無理はコトだからおやめなさいとくだらない駄じゃれでごまかし、三味線だけに心を太棹に持って辛抱が肝心と、落語家のようなことを言って帰す始末。

次は鳶頭の娘。縁談があるが、うまくいくか見てほしいと頼む。

娘が違うと言うのに、強引に娘は火性、先方の男は水性ということにしてしまって、
「だんなは水性だから、鰻と同じ穴っぱいり(浮気)の好きな質、おまえさんは火だから、カッカと焼くので、釣り合わないからおやめなさい。それよりいっそ、芸者にでも出て」
と、めちゃくちゃを言うので、娘は怒って帰ってしまう。

あとから若い者が押しかけ
「この野郎、てめえが易者か。家の姉御をおつゥまぜっ返しゃあがったな」

ポカポカポカと殴られ、コブだらけにされた若だんな。

自業自得とはいえ、すっかり易者に懲り、今度は医者をやると言い出す。

また看板を書き換え、今度は
「施しに五銭で診察する」
と宣伝したので、さっそく客が来る。

女が腰がつると言うと、にわか医者
「それは疝気」
「疝気は男の」
「女だって疝気だ。橙の粉にマタタビをなめなさい」

喜兵衛に女は寸白と教えられ
「おまえさんは医者をやったことがあるね」
「やらなくたってわかります」

そこへ蔵前の万屋という茶問屋から、
「奥方が風邪をこじらせたのでみてくれ」
と言ってくる。

金になりそうだからさっそく出かけて、かっこうをつけるため、お茶を所望。

「これはけっこうで。ご主人はどういうご流儀で?」
「千家でございます」
「それでわかった。奥さまは寸白でしょう」

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うんちく

後継者のいない噺 【RIZAP COOK】

大正4年(1915)9月刊『三遊連柳連名人落語十八番』に、六代目金原亭馬生の速記が掲載されています。

この馬生は、後年、四代目古今亭志ん生を襲名。五代目志ん生の二人目の師匠です。

歯切れのいい江戸前の芸風で人気がありましたが、襲名後わずか一年あまりの大正15年(1926)1月、48歳の若さで亡くなりました。

戦後では、初代林家三平や八代目橘家円蔵の師匠で、七代目橘家円蔵(あのねの円蔵)がたまに演じましたが、彼の没後、東京ではほとんどやり手はいません。

ならぬ勘当、するが勘当 【RIZAP COOK】

とうの昔に死語と化しましたが、勘当には二通りありました。

ほとんどの場合、こらしめのため、家に出入りを禁ずるという形をとり、落語の居候の若だんなはみなこれです。

ただ、どうにも手がつけられず、犯罪などで親族に累を及ぼす場合は、親類同意の上で除籍します。

これで、勘当された者は無籍、つまり無宿人となります。その名を記載したのが久離勘当帳、または言上帳ともいいました。「久離を切って勘当する」というのは、親父の脅しの常套文句でした。

これは町名主が管理し、復籍する際はそこから名前を消します。ついでに、これが「帳消し」の語の起こりです。

懲りない若だんな 【RIZAP COOK】

毎度おなじみ、懲りない若だんな。

今回は易者志望で、また一騒動。原話は不詳ですが、民話がルーツともいわれます。前半は「湯屋番」「素人車」などと同じく、勘当→居候という一連のパターンなので、誰かがバリエーションを変えて改作したのかもしれません。

「きめんさん」で演じることがあるのは、主人公が紀伊国屋という綿屋の息子だからで、上方ではこの題で演じられます。医者の息子という設定もあります。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
居候 いそうろう
筮竹 ぜいちく
太棹 ふとざお
鳶頭 とびのかしら
姉御 あねご
疝気 せんき
寸白 すばこ:女の生理病
久離 きゅうり:関係を断絶すること

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【志ん生のひとこと】001 古木優

ほんとの落語は四千ぐらいあるね。わたしなんぞは一年毎日別なやつをやれるね。

『娯楽よみうり』1957年2月1日号「おしゃべり道中」から。

■対談で大宅壮一から「大体、しゃべるネタというのは、幾つぐらい持てばいいんですか」と聴かれてのひとこと。 四千もあるとは知りませんでしたが。 志ん生の持ちネタは普通の落語家よりも多かったと言われています。「やれる」噺と「持ちネタ」とは別の問題なのでしょう。音源に残らず、志ん生の口の端にこぼれたままになった噺。ほごでもしくじりでもいいから聴いてみたかったなあとつくづく思います。「おしゃべり道中」は大宅壮一がホストの対談連載、志ん生は第64回を飾るゲストでした。お互いに気合入っています。志ん生が「お直し」で文部大臣賞をもらったことが当時の話題だったため、白羽の矢が立ったようです。「一億総白痴化」「口コミ」「駅弁大学」「恐妻」など新語の発明家にして時代の狙撃手、大宅壮一は当時最強最良のジャーナリストでした。1957年。「戦後」が終わって高度経済成長のレールを走り出すあわい。周りはけたたましいばかりの活気。志ん生も大宅もとっても活きのよかった頃だったのでしょう。二人のおしゃべりも躍っています。大宅壮一が亡くなったのは1970年11月22日。三島事件の三日前でした。本年2020年は没後50年となります。憂国忌も。「娯楽よみうり」という雑誌は「週刊読売」とは別に刊行されていました。しょっぱい読売が大盤振る舞いのなりふり。時代を感じさせます。当時の活字文化も、志ん生や大宅同様、躍っていたんですね。

2020年1月2日 古木優

さんとさんにんえし【三都三人絵師】演目

スヴェンソンの増毛ネット

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志ん生も時折やってました。愉快なネタですね。

別題:京阪見物

あらすじ

江戸っ子の三人組が上方見物に来て、京の宿屋に泊まった。

その一人が寝過ごしているうちに、ほかの二人はさっさと市中見物に出かけてしまって、目覚めると誰もいない。

不実な奴らだと怒っていると、隣から声が聞こえる。

大坂の者と京者らしい。

よく聞いてみると、やれ鴨川の水は日本一で、江戸の水道はどぶ水だの、関東の屁毛垂れだの、人種が下等だのと、江戸の悪口ばかり。

さあ頭にきた江戸の兄さん、威勢よく隣室へ乗り込む。

さんざん悪態をついたあと
「やい黒ん坊、てめえの商売はなんだ」
「名前があるわ。わたいは大坂の絵師で、武斎ちゅうもんで」
「ムサイだあ? きたねえ面だからムサイたあよく付けた。やい青ンゾー、出ろ」
「うちは許してや」
「出ねえと引きずり出すぞ。てめえは何者だ」
「うちは西京の画工で俊斎」
「ジュンサイだあ? 道理でヌルヌルした面だ」
「それであんたは?」
「オレか? オレも絵師よ」

もちろん、大ウソ。

こうなればヤケクソで、
「姓は日本、名は第一、江戸の日本第一大画伯たあ俺のことだ」
と大見得を切る。

そこで、三都の絵師がせっかく一所にそろったのだから、ひとつ絵比べをしようじゃねえか、ということになった。

一人一両ずつ出し、一番いい絵を描いた者が三両取るという寸法。

俊斎が先に、木こりがノコを持って木を挽く絵を描いた。

「やい青ンゾー、てめえとても絵師じゃあメシがくえねえから死んじまえ」
「どこが悪い」
「木こりが持つのはノコじゃねえ。ガガリってえもんだ。それは勘弁してやるが、おが屑が描いてねえ」

これで、まず一両。

続いて武斎。

母親が子供に飯をくわせている図。

「やい、黒ん坊。てめえも絵師じゃ飯がくえねえが、二人並んで首ィくくるのもみっともねえから、てめえは身を投げろ。俺が後ろから突き飛ばしてやろう」

「これは、継子ならともかく、本当の子ならおっかさんが口をアーンと開いてやってこそ子供も安心して食べられる。それなのに、母親が気取って口を結んでいるとはどういうわけだ」

なるほどもっともなご託宣なので、武斎も、しかたなく一両出す。

いよいよ今度は、江戸っ子の番。

日本第一先生、もったいぶった顔で刷毛にたっぷり墨を含ませる。

ついでに二人の顔をパレット代わりに使い、真っ黒けにしてから、画箋を隅から隅まで黒く塗りつぶし、
「さあわかったか」
「さっぱりわからん」
「てめえたちのようなトンマにゃわかるめえ。こいつはな、暗闇から牛を引きずり出すところだ」

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しりたい

志ん生が復活した旅噺 【RIZAP COOK】

この噺自体の原話は不明ですが、長編の「三人旅」シリーズの終わりの部分、「京見物(京阪見物)」の一部になっています。

三代目春風亭柳枝の明治26年(1893)の速記では「京阪見物」として、「東男」と称する市内見物の部分の後、「祇園会(祭)」の前にこの噺が挿入されています。

明治期にはほとんど「東男」や「祇園会」にくっつけて演じられましたが、二代目柳家小さんは、一席噺として速記を残しています。

その後すたれていたのを、戦後、五代目古今亭志ん生が復活。志ん生没後、ほとんどやり手はいません。

青ンゾー 【RIZAP COOK】

青ん蔵とも書きます。ヒョロヒョロで顔が青いという印象で、京都人を嘲っているわけです。

上方落語「三十石」でも、船の中で大坂人が京都人をばかにして、「京は青物ばかり食ろうて往生(王城)の地や」と言う場面があります。

語源は北関東訛りの「アオンゾ」もしくは「アオンベイ」だといいます。

五代目志ん生は、「てめえはつらが長えから、あご僧だ」と言っていますが、これが志ん生の工夫なのか単なる勘違いかはわかりません。

同じく大坂の絵師をののしる「黒ん坊」は、芝居で舞台の介添えをする「黒子」のことです。

屁毛垂れ 【RIZAP COOK】

へげたれ。江戸っ子をののしる言葉ですが、甲斐性なし、阿呆を指す上方言葉です。江戸者に使う時は、屁ばかり垂れている関東の野蛮人の意味と思われます。

ガガリ 【RIZAP COOK】

大型のノコギリのことで、ガカリとも呼びます。用具に詳しいところから、この「江戸はん」は大工と見られます。

【語の読みと注】
屁毛垂れ へげたれ

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しゃみせんくりげ【三味線栗毛】演目

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講釈ネタなので、オチがいまいち。志ん生がやってました。

あらすじ

老中筆頭、酒井雅楽頭の次男坊、角三郎。

ちょくちょく下々に出入りするのでおやじからうとんじられ、五十石の捨て扶持をもらって大塚鶏声ヶ窪の下屋敷で部屋住みの身。

そうでなくとも次男以下は、養子にでも行かない限り、一生日の目は見ない。

ところが角三郎、生まれつきののんき者で、人生を楽しむ主義なので、いっこうにそんなことは気にしない。

あしたは上野の広小路、あさっては浅草の広小路と、毎日遊興三昧。

今日も両国で一膳飯屋に入ったと言って、用人の清水吉兵衛にしかられ、
「あんまを呼んであるのでお早くお休みを」
、と、せきたてられる。

今日呼んだあんま、名を錦木という。

療治がうまくて話がおもしろいので、角三郎はいっぺんに気に入った。

いろいろ世間話をするうち、あんまにも位があって、座頭、匂頭、検校の順になり、座頭になるには十両、匂頭では百両、検校になるためには千両の上納金を納めなければならないことを聞く。

錦木は、
「とても匂頭や検校は望みの外だから、金をためてせめて座頭の位をもらうのが一生の望みです」
と話す。

「雨が降って仕事がない時はよく寄席に行くもんで」
と言って、落語まで披露するので、角三郎は大喜び。

その上、
「あなたは必ず大名になれる骨格です」
と言われたから、冗談半分に
「もし、おれが大名になったら、きさまを検校にしてやる」
と約束した。

錦木は真に受けて、喜んで帰っていった。

そのうち錦木は大病にかかり、一月も寝込んでしまう。

見舞いに来た安兵衛に、
「あの下屋敷の酒井の若さまが、おやじが隠居、兄貴の与五郎が病身とあって、思いがけなく家を継ぐことになった」
という話を聞き、飛び上がって布団から跳ね出す。

さっそく、今は酒井雅楽頭となって上屋敷に移った角三郎のところにかけつけると
「錦木か、懐かしいな。武士に二言はないぞ」
と約束通り、検校にしてくれた。

ある日のこと。

出世した、今は錦木検校が酒井雅楽頭にご機嫌伺いに来る。

雅楽頭は、このほど南部産の栗毛の良馬を手に入れ、三味線と名づけたと話す。

駿馬にしては軟弱な名前なので、錦木がそのいわれを聞いてみた。

「雅楽頭が乗るから三味線だ」
「それでは、家来が乗りましたら?」
「バチが当たるぞ」

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うんちく

名人から名人へ 【RIZAP COOK】

原話は不詳で、講釈(講談)種とみられます。

明治の大円朝から、四代目橘家円喬と二代目三遊亭小円朝に伝承され、その衣鉢を継いだ昭和-戦後の三代目小円朝、五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌らがよく演じました。

三代目小円朝は地味にしっとりと演じ、角三郎を闊達だが書物好きのまじめな青年として描き、逆に志ん生は、自由奔放な人間像を造形しました。

また、志ん生はマクラに両国の見世物小屋の描写を置き、山場の少ない噺に、明るい彩を添えています。

さらに、小円朝は、後半の栗毛の話の聞き手を吉兵衛に代え、志ん生はそのまま錦木で演じましたが、噺の連続性からは志ん生のやり方が無難でしょう。

率直に言って古色蒼然、おもしろいとは言えない噺なので、しばらく後継者がありませんでした。

近年は、柳家喬太郎、古今亭菊之丞らが意欲的に手掛けています。

酒井雅楽頭 【RIZAP COOK】

さかいうたのかみ。譜代の名門、酒井家の本家で、上州前橋十二万五千石→播州姫路十五万石。

代々で最も有名なのは、四代将軍家綱の許で権勢を振るい「下馬将軍」と呼ばれた忠清(1624-81)。大老にまでなったこの人物が失脚してから、酒井家からは当分老中は出ていません。

この噺では、あるいは父親を酒井忠清、角三郎を嗣子忠挙(ただたか)に想定しているのかも知れませんが、詮索は無意味でしょう。

鶏声ヶ窪 【RIZAP COOK】

酒井家の上屋敷は丸の内、大手御門前。鶏声ヶ窪の下屋敷は、旧駒込曙町で、文京区本駒込1、2丁目。

この付近には、下総古河八万石で、やはり大老を務めた土井大炊頭下屋敷もあり、地名の由来は、その屋敷内から怪しい鶏の声がするので、地中を掘ってみると、金銀の鶏が出てきたことによるとか。

なお、一膳飯屋については「ねぎまの殿さま」、按摩の位は「松田加賀」を、それぞれご参照ください。

円喬の苦悩 【RIZAP COOK】

小島政二郎(1894-1994)の小説「円朝」に、この噺を得意にした円朝門下の四代目橘家円喬(1865-1912)が、按摩の表現のコツがつかめず、苦悶する場があります。

特に話し方、声。ゆえあってしばらく師匠を離れ、大阪に行った円喬が、答えが出ないまま、あるとき夢に見た円朝の教えは「耳で話せ」。それが開眼のきっかけになります。

【語の読みと注】
酒井雅楽頭 さかいうたのかみ
捨て扶持 すてぶち:役に立たない人へ与えられる米
大塚鶏声ヶ窪 おおつかけいせいがくぼ
酒井忠挙 さかいただたか
座頭 ざとう
匂頭 こうとう
検校 けんぎょう
駿馬 しゅんめ
土井大炊頭 どいおおいのかみ

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きんめいちく【金明竹】演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

「寿限無」と並ぶ言い立ての心地よい噺。必聴です。

あらすじ

骨董屋のおじさんに世話になっている与太郎。

少々頭に霞がかかっているので、それがおじさんの悩みのタネ。

今日も今日とて、店番をさせれば、雨宿りに軒先を借りにきた、どこの誰とも知れない男に、新品の蛇の目傘を貸してしまって、それっきり。

「そういう時は、傘はみんな使い尽くして、バラバラになって使い物にならないから、焚き付けにするので物置きへ放り込んである、と断るんだ」
としかると、鼠が暴れて困るので猫を借りに来た人に
「猫は使い物になりませんから焚き付けに……」
とやった。

「ばか野郎、猫なら『さかりがついてとんと家に帰らなかったが、久しぶりに戻ったと思ったら、腹をくだして、粗相があってはならないから、またたびを嘗めさして寝かしてある』と言うんだ」

そう教えると、おじさんに目利きを頼んできた客に
「家にもだんなが一匹いましたが、さかりがついて……」

こんな調子で小言ばかり。

次に来たのは上方者らしい男だが、なにを言っているのか、さっぱりわからない。

「わて、中橋の加賀屋佐吉方から参じました。先度、仲買の弥市の取り次ぎました道具七品のうち、祐乗、光乗、宗乗三作の三所もの。並びに備前長船の則光、四分一ごしらえ横谷宗岷小柄付きの脇差し、柄前はな、だんなはんが古鉄刀木といやはって、やっぱりありゃ埋れ木じゃそうにな、木が違うておりまっさかいなあ、念のため、ちょっとお断り申します。次は、のんこの茶碗、黄檗山金明竹、ずんどうの花いけ、古池や蛙飛び込む水の音と申します。あれは、風羅坊正筆の掛け物で、沢庵、木庵、隠元禅師はりまぜの小屏風、あの屏風はなあ、もし、わてのだんなの檀那寺が、兵庫におましてな、この兵庫の坊主の好みまする屏風じゃによって、かようお伝え願います」
「わーい、よくしゃべるなあ。もういっぺん言ってみろ」

与太郎になぶられ、三べん繰り返されて、男はしゃべり疲れて帰ってしまう。

おばさんも聞いたが、やっぱりわからない。

おじさんが帰ってきたが、わからない人間に報告されても、よけいわからない。

「仲買の弥市が気がふれて、遊女が孝女で、掃除が好きで、千ゾや万ゾと遊んで、しまいに、ずんどう斬りにしちゃったんです。小遣いがないから捕まらなくて、隠元豆に沢庵ばっかり食べて、いくら食べてものんこのしゃあ。それで備前の国に親船で行こうとしたら、兵庫へ着いちゃって、そこに坊さんがいて、周りに屏風を立てまわして、中で坊さんと寝たんです」
「さっぱりわからねえ。どこか一か所でも、はっきり覚えてねえのか?」
「確か、古池に飛び込んだとか」
「早く言いなさい。あいつに道具七品が預けてあるんだが、買ってったか」
「いいえ、買わず(蛙)です」

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しりたい

ネタ本は狂言 【RIZAP COOK】

前後半で出典が異なり、前半の笠を借りに来る部分は、狂言「骨皮」をもとに、初代石井宗淑(?-1803)が小咄「夕立」としてまとめたものをさらに改変したとみられます。

類話に享和2年(1802)刊の十返舎一九作『臍くり金』中の「無心の断り」があり、現行にそっくりなので、これが落語の直接の祖形でしょう。

一九はこれを、おなじみ野次喜多の『続膝栗毛』にも取り入れています。「夕立」との関係は、「夕立」が著者没後の天保10年(1839)の出版(『古今秀句落し噺』に収録)なので、どちらがパクリなのかはわかりません。

後半の珍口上は、初代林家(屋)正蔵(1781-1842)が天保5年(1834)に自作の落語集『百歌撰』中に入れた「阿呆の口上」が原話で、これは与太郎が笑太郎となっているほかは弥市の口上の文句、「買わず」のオチともまったく同じです。

前半はすでに文化4年(1807)の喜久亭寿曉の落語ネタ帳『滑稽集』に「ひん僧」の題で載っているので、江戸落語としてはもっとも古いものの一つですが、前後半を合わせて「金明竹」として一席にまとめられたのは明治維新後と思われます。

「骨皮」と「夕立」 【RIZAP COOK】

骨皮 シテが新発意(しんぼち=出家間もない僧)でワキが住職。檀家の者が寺に笠を借りに来るので、新発意が貸してやり、住職に報告したところ、ケチな住職が「辻風で骨皮バラバラになって貸せないと断れ」としかる。次に馬を借りに来た者に笠の口上で断ると、住職は「バカめ。駄狂い(発情による狂馬)したと断れ」。今度はお経を頼みに来た者に、「住職は駄狂い」と断ったので、聞いた住職が怒り狂い、新発意が、お師匠さまが門前の女とナニしているのは「駄狂い」だと口答えして大ゲンカになる筋立て。

ボタンの掛け違いの珍問答は、民話の「一つ覚え」にヒントを得たとか。

夕立 主人公(与太郎)は権助、ワキが隠居。笠、猫と借りに来るくだりは現行と同じです。三人目が隠居を呼びに来ると、「隠居は一匹いますが、糞の始末が悪いので貸せない」。隠居が怒って「疝気が起こって行けないと言え」と教えると次に蚊いぶしに使う火鉢を借りにきたのにそれを言い、「どこの国に疝気で動けない火鉢がある」と、また隠居がしかると権助が居直って「きんたま火鉢というから、疝気も起こるべえ」

石井宗淑は医者、幇間、落語家を兼ねる「おたいこ医者」で、長噺の祖といわれる人。

東京に逆輸入 【RIZAP COOK】

この噺、前半の「骨皮」の部分は、純粋な江戸落語のはずながらなぜか幕末には演じられなくなっていて、かえって上方でよく口演されました。

明治になって、それがまた東京に逆輸入され、後半の口上の部分が付いてからは、四代目橘家円喬、さらに三代目三遊亭円馬が得意にしました。

円喬は、特に弥市の京都弁がうまく、同じ口上を三回リピートするのに、三度とも並べる道具の順序を変えて演じたと、六代目円生が語っています。

代表的な前座の口慣らしのための噺として定着していますが、戦後は五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬など、多数の大看板が手掛け、現在に至っています。

中でも金馬は、昭和初期から戦後にかけ、流麗な話術で「居酒屋」と並び十八番としました。

CDは三巨匠それぞれ残っていて、柳家小三治のもありますが、口上の舌の回転のなめらかさでは金馬がピカ一だったでしょう。志ん生は、前半部分を再び独立させて演じ、後半はカットしていました。

祐乗 【RIZAP COOK】

ゆうじょう。後藤祐乗(1440-1512)は室町時代の装剣彫刻の名工です。足利義政の庇護を受け、特に目貫にすぐれた作品が多く残ります。

光乗 【RIZAP COOK】

こうじょう。後藤祐乗の曾孫(1529-1620)です。やはり名工として織田信長に仕えました。

長船 【RIZAP COOK】

おさふね。鎌倉時代の備前国の刀工長船氏で、祖の光忠以下、長光、則光など、代々名工を生みました。

宗珉 【RIZAP COOK】

そうみん。横谷宗珉(1670-1733)は江戸時代中期の金工で、絵画風彫金の考案者。小柄や獅子牡丹などの絵彫を得意にしました。

金明竹 【RIZAP COOK】

福建省原産の黄金色の名竹です。黄檗山万福寺から日本に渡来し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師(1592-1673)が、来日して宇治に同名の寺を建てたとき、この竹を移植し、それが全国に広まりました。観賞用、または筆軸、煙管のらおなどの細工に用います。

隠元には多数の工匠が同行し、彫刻を始め日本美術に大きな影響を与えましたが、金明竹を使った彫刻もその一つです。

漱石がヒントか 【RIZAP COOK】

「吾輩は猫である」の中で、二絃琴の師匠の飼い猫、三毛子の珍セリフとして書かれている「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘」は、落語マニアで三代目小さんや初代円遊がひいきだった漱石が「金明竹」の言い立てからヒントを得たという、半藤一利氏の説があります。落語にはこの手のギャグはかなりあり、なんとも言えません。

【語の読みと注】
目貫 めぬき:刀の目釘に付ける装身具
小柄 こづか
隠元 いんげん
黄檗山 おうばくさん

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こまちょう【駒長】演目

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志ん生もやっている噺。人情噺めいてはいるのですが……。

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、今の亭主の長八にお駒をさらわれたという因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通って来やがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

お駒に丈八へ恋文を書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らってなれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は欲しいならてめえにくれてやる」
とわざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァてめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八だが、筋書きがうまくいって安心したか、まぬけな奴もあるもの、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取ってはいさようなら。瓢箪から駒。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に書き置き一通。

「遂には、うそがまことと相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

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【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(昭和2年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(昭和5=1930年没)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をご覧ください。

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では「美人局」と題した四代目橘家円喬のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。井原西鶴なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

黙阿弥の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

戦後は、五代目古今亭志ん生が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。おそらく、敬愛する四代目円喬の速記などから独力で覚えたものでしょう。次男の志ん朝が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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くびったけ【首ったけ】演目

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珍しく、遊廓の女がひどい目にあう噺です。

【あらすじ】

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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【しりたい】

原話は寄せ集め

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3 1774)年刊「軽口五色帋 ごしきがみ)」中の「女郎の川ながれ」、天明2 1782)年刊の「富久喜多留」中の「迯 にげ)そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売

古い速記では、大正3 1914)年の四代目橘家円蔵のものがあります。

戦後は、二代目三遊亭円歌が演じたほかは、五代目古今亭志ん生の、ほぼ一手専売でした。志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せんの直伝でしょう。志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、女郎に、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、息子の十代目馬生、志ん朝に伝わりました。馬生のは、レコードもあります。最近では、ほとんど手掛ける者がいません。

吉原の火事

吉原遊郭は、明暦の大火(1657年)によって全焼。そのため、日本橋から浅草日本堤に移転しますが、その後も、明治維新までに平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、六千五百戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を大歓迎したとか。

おはぐろどぶ

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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志ん生にはどんな弟子がいたのか?

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NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。(高田裕史)

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かみそり【剃刀】演目

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めったに聴けない珍品です。

別題:坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上経った「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵、俗に品川の円蔵の大正4年(1915)の速記が残されています。

戦後では「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌が時々演じ、特に志ん生は短い郭噺として好んで取り上げたようです。本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。ただし、こちらの吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、江戸でいうと「お直し」に登場する羅生門河岸の「蹴転」というところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌して帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようで。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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志ん生が大陸体験で見たものは?

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五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭円生。気質も芸風もまるで水と油です。

この二人が戦争末期、連れ立って大陸慰問団に加わり、命からがらの苦難をなめたことは、落語ファンにはよく知られています。中国東北部(旧満洲)での大陸体験は、二人ともに自伝にも語り残し、座談会や雑誌記事などでもさまざまな逸話が紹介されています。ただ、双方の言い分にはかなりの食い違いがあります。

志ん生がどちらかというと、弥次喜多道中よろしくおもしろおかしく語っているのに対して、円生の方は、十歳年上の志ん生の度外れた身勝手さに、どれだけヒドい目にあったかという、むしろ恨みつらみをぶちまけている感があります。いずれにせよ、真相はもはや闇の中です。

そこに割って入るのが森繁久彌。彼も当時の体験を記しています。二人を脇で見ていた男の目は微笑みながらも辛辣でした。

なかばフィクションにもかかわらず、まるでタイムマシンで見ているかのように、この大陸道中、出発のきっかけから志ん生帰国までのあらましがすべてわかってしまう、いや、わかった気にさせられてしまう、摩訶不思議な一冊があります。

それは、井上ひさし『円生と志ん生』(集英社刊)。

同人の演出で、劇団こまつ座第75回公演として2005年2月~3月に東京・紀伊国屋ホールほかで上演された、同名ミュージカルの台本をそっくり収録したものです。

ソ連軍侵攻前後の中国東北部を舞台に、松尾こと円生(角野卓造)と孝蔵こと志ん生(辻萬長)を中心に、さまざまな人物が織り成す人間模様が描かれます。

この戯曲(本)の画期的なところは、生死の縁を病葉のようにさまよう中、二人がどのように「芸」に開眼していくかという物語なのです。

当時、55歳にしてようやく売れ出して、後年のシャープな芸風を確立しつつあった志ん生。敗色濃厚になるにつれ、禁演落語とやらで廓噺もダメ泥棒噺もご法度。

おまけに、開口一番で二人が国民服姿で登場することでわかるように、噺家の象徴であるトバ(着物)まで、空襲で逃げるときに引きずって走れないという、わけのわからない理由で事実上禁止され、フラストレーション爆発寸前。

そこへ、満州へ渡れば白飯も食い放題酒も呑み放題、軍属の少佐待遇でアゴアシ付き月150円という結構ずくめの話だから、たちまち飛びついて、いきなり楽屋で一声。

「松ちゃん、明日行こう」

重苦しい内地を離れると、芸に関しては志ん生は水を得た魚。十歳年下ながら、三遊の総帥、五代目円生の御曹司で豆落語家から順風満帆、真打ちも一年早かった円生に、たちまち遠慮もコンプも雲散霧消、万事師匠気取りの上から目線。あまつさえ、芸の「指導」までおっぱじめる。

一方、円生。

会計係を任されたのに、相方の志ん生は、日本に帰る資金作りと称して、片っ端からなけなしの金を強奪、あげくに博打でスッテンテン。怒り心頭でも、すっぱり別れられないなにかがあるのは、劇中に当人が告白するように、当時、四十半ばにして芸に行き詰まっていたから。

いっそ廃業して、とダンスホールや雀荘経営に手を出しても、借金の山が残るだけ。こちらもやけのやん八で大陸行きに乗ったものの、早くも追い立てを食いそうな大連の宿で、来るんじゃなかったと泣き言。

そこで、志ん生の一言がぐいっと胸を抉ります。

「おまえさんにはなんかある」

続いて、辛辣きわまるご託宣。

「松ちゃんはあいかわらずのそのそのそ、四角四面で行儀正しいだけで、ちっともおもしろくならねえ」

ごもっともと図星をつかれた松ちゃんですが、続けて、志ん生の言う円生の「なんか」というのが、ぶっ飛んでいます(第一幕第三場)。

「松ちゃんは、毎朝毎晩、歯をごしごし磨いている。それが、つまり、そのなんかなんだな」

噺家の商売道具は口と歯。歯なしでは噺はできない。だから、この人は死ぬまで噺家をやろうと心を決めているんだと。その後も志ん生の稽古は続きます。

場は進んで、吹雪の昭和20年暮れ。

ソ連軍に追われ追われて、大連遊郭街、逢坂町の娼妓置屋に居候している二人。

フグ雑炊の鍋を前に、「松ちゃんの上下の移り替えは大きすぎる」とやっつける志ん生。

テンポよく実演付きで「移り替えが大きいとその分、間が空くだろ」。

パパッと語ってストンと落とすから落とし噺、という志ん生。

今話しているのは誰か、客にはっきりわからせるために身振りをゆっくり大きく、という円生の言い分。

「客」の二人の娼妓の感想は、完全に志ん生に軍配が上がります。このやりとりは、おそらく作者の創作でしょうが、晩年に至るまでの二人の芸風の違いが、実によくわかります。

結局、円生は大家となってからも、テンポが遅くてくどい、という欠点を払拭できませんでしたが、志ん生の、当人の自負する落とし噺の切れ味にある種の憧れとコンプレックスを、生涯抱いていたのではないでしょうか。

ただ、自分にはとうてい志ん生のまねはできないと思い定めたとき、向こうが短距離走者ならこちらはマラソンランナーと、じっくり本格的に語り込む人情噺で芸を開花させていったわけです。

もう一つ。

この物語の買いは、志ん生、美濃部孝蔵のふだんの肉声が、よりリアルに「再現」されていること。

それも、ほとんどは作者が創作した可能性が高いにもかかわらず、あたかも生きた志ん生に傍で話を聴いているように、いや笑えること。

「あたしァね、朝めしを抜くと座り小便が出てしまうってえ病気持ちなんだ」

「とんちきおかみめ、はなし家の丸干しでもこさえようてえんだな」

「やーい、いきなり攻め込んできやがって。スターリンのヒキョーモン」

「おまえの髭は毛虫髭」

「その髭に柄をすげて歯ブラシにしてやるぞ」

これは「岸柳島」の船中の町人や「たがや」の弥次馬よろしくですが、まだまだいくらも堪能できます。

井上ひさしがいかに落語に造詣が深く、落語を愛し、自らの劇作の大きな源にしていたか、とりわけ志ん生の諧謔と江戸前の洒脱さを、この東北人が誰よりも深く理解していたことがうかがわれるのです。

もちろん、避難民の悲惨な体験を通しての戦争への告発も、作者の重要な意図であることは確かで、それは場の変わり目ごとに、二人を交えて霊の声のように唱和される歌に象徴されます。

筆者にはあくまで、落語という芸のデーモンに取り憑かれた二人、とりわけ志ん生が、どんな地獄の最中でも、最後の最後まで噺をしゃべり通しているということが印象的でした。

大団円近く、大連のとある修道院で、落語のラの字も知らない院長と三人の修道女を相手に、志ん生が必死に、「元日に坊さんが二人、すれちがって、これが本当の和尚がツー」……と三平並みの小咄を連発するくだりは鬼気迫るものがありました。

第一に腑に落ちたのは、円生と志ん生は、戦後どれほどいがみあいをしようと、原点は大陸で、命のきわを共にした戦友にしてケンカ友達だったということ。その二人の、どんな緻密な伝記作者でも描ききれない心の襞が、この「井上ひさしによる珍道中」で、垣間見せてもらった気がします。(高田裕史)

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おもとちがい【おもと違い】演目

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鶍の嘴の食い違い。同音異義が鍵です。たわいもないすじですが、大いに笑えます。

【あらすじ】

ある大工の棟梁。

兄貴分に盆栽の万年青(おもと)を預かったが、金の入り用に迫られ、ついそれを、これも万年青好きの質屋にぶち殺し(=質入れ)て洞穴を埋めた(=金の手当てをした)ので、面目なくて兄貴に顔出しできないと、知人の家でこぼしていく。

それを隣の部屋で、酔っぱらって夢うつつで聞いていた男。

奉公先のだんなの姪で、年ごろで悪い虫がついたようなので、用心のためしばらく、堅いと評判の棟梁の家に預けられていた娘の名がたまたま、「おもと」といったからさあ大変。

「おもとがあろうことか、棟梁の野郎にぶち殺されて洞窟に埋められた」と早合点し、さっそく、だんなにご注進する。

聞いただんな、
「おもとからはたった今、手紙が着いたばかりなので、なにかの間違いだろう」
と半信半疑だが、男が、
「それはきっと偽装工作で、かみさんにでも書かしたものに違いない」
と言い張るので、棟梁もだんだん心配になる。

かと言って、出入りの棟梁だから、家から縄付きを出して世間に恥をさらしたくないので、
「それじゃおまえ、棟梁の兄貴を知っているんだから、兄貴からことの白黒をつけてもらえ」
と言いつけられる。

兄貴も、いきさつを聞いてびっくり。

さっそく、棟梁を呼びにやり、
「てめえはあろうことかあるめえことか、恩人から預かったものをぶち殺すとは何事だ」
と責めたてるが、当人は質入れのことがバレたと思い込んでいるから、話がかみあわない。

「召し連れ訴えされるのがイヤなら自首しろ」
とネジ込むと、
「三日のうちに必ず返すから待ってくれ」
と平身低頭。

とどのつまり、棟梁が川上という質屋に万年青を放り込んだと白状。

押し入れに隠れていた男、やにわに飛び出して、
「あんた、その川上へ放り込んだのはいつのこってす」
「そうさなあ、九か月ほど前のこった」
「それじゃもう、とうに流れたんべえ」
「なに、利上げしてある」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

初代円左が創作か

初代三遊亭円左が速記(明治32年)中、マクラで、この噺は自分の専売ということを言っていますが、この人は明治後期から末年にかけ、自作自演を始め、益田太郎冠者の新作なども多く手掛けたこともあるので、おそらくはこれも円左の当時の創作でしょう。

昭和初期から戦後にかけ、八代目桂文治がよく演じ、ついで五代目古今亭志ん生がレパートリーにしました。

志ん生のは、ごく短く演じてだんなは登場せず、おもとを質入れしたのは棟梁の義弟辰公で、質屋の隠居の方が、おもとの見事なのに感嘆して、枯らさないから、自分の店に質入れしてくれろと頼んでくる設定になっています。

万年青ブーム

万年青はゆり科の、葉の厚い常緑多年草です。

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから盛んに栽培されました。江戸時代を通して、はやりすたりを繰り返したようで、文政期(1818-30)には江戸最後のブームで、品種60種以上を数えたとか。その後、明治20-30年代にも、つまり円左の速記の前後にも再びはやりだし、盛んに品評会が催されました。この噺も、そうしたブームを当て込んで、作られたものでしょう。

現在知られている品種は、約200種もあり、主に葉を鑑賞するもので、栽培には手間がかかります。

通は、葉の広がり方、表面のつや、葉に斑点があるなしなどにうるさく、この噺の棟梁が、預かった万年青を「墨流しといって一番高い」ものだと言っていますが、これは墨流し染めのように葉の表面に波紋がある品種のこと。

万年青の茎は、漢方で強心剤・利尿剤として用いられます。

利上げ

質入れ品の期限が来た時に、利息だけを払ってその期限をさらに延ばすこと。または、その利息をも意味します。利揚げとも。

質屋蔵」でも触れましたが、質流れの期限は天保年間(1830-44)以後は8か月で、利上げは、それ以前に借り主が利息を入れて、質流れを防ぐ処置です。

五代目志ん生は、オチをわかりやすく「心配すんな、利息が入れてあるから」と言い換えていました。

ぶち殺す

江戸のスラングで、「死地(=質)に入れる」の洒落かと思われますが、語源は不明確です。

同義語に「曲げる」があり、こちらは、質=同音の七で、七の字は十の字の尻を右に「曲げる」ことから。

江戸には職人言葉からきた「物騒な」言い回しがかなりあり、たとえば、山芋を完全にとろろに下ろさず、かけらを半分残したものを、「半殺し」と呼んでいました。

噺のアラを補う工夫

この噺、鉢植えの「万年青」と人名の「おもと」の食い違いだけのかなりたわいない噺ですが、 両者の「オモト」は、アクセントからしてモトモト違う語なので、よけい無理が目立ちます。そこで、初代円左から志ん生まで、このアラをなるべく目立たせないため、けっこう苦心していたようです。円左や八代目文治では、なるべく「オモト」という言葉を使わない、噺をスピーディーに運んで、客にアラを気づかせないなどの工夫がみられます。

噺の重心を「ぶち殺した」をめぐっての、権助を加えた登場人物三人の、話の食い違いによるチンプンカンなやりとりにおくことで、それぞれの話芸によって笑いを誘ったと思われます。

円左では、棟梁が問い詰められて「三日でカタをつけます」と言うところがちょっとおかしく、志ん生では、権助の「殺すのはいいぜェ、洞穴ィ埋めるとァなんだい」というセリフが、ちょっとアナーキーで笑えます。

この噺、オチで、質屋の名と実際の川が混同されているわけなので、誰が演じても質屋の名は「川上」でなければならないはず。当然ながら、江戸時代を舞台にしてはできないわけです。

【語の読みと注】
棟梁 とうりゅう
万年青 おもと

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志ん生とオリンピックとはどんな関係か?

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NHK大河ドラマ「いだてん」では志ん生が裏の主人公のような役回りをしています。どう考えても志ん生とオリンピックは関係なさそうなのに、宮藤官九郎の手になると、まるで志ん生が東京五輪を推進していたかのような錯覚に陥るものです。落語好きには、それはそれでおもしろいドラマになっていますね。

神木隆之介演じる古今亭五りんという落語家は架空の人物です。

もともと日本には宮本武蔵の『五輪書』という剣の奥義書があります。オリンピックの和訳語としての「五輪」は読売新聞記者だった川本信正の造語でした。川本の発想では『五輪書』を踏まえていたそうです。その五輪とは、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻をさすそうです。まあ、それはともかく。

昭和11年(1936)7月25日付の読売の見出しに「五輪」が登場したのが初めてのことでした。登場したばっかりの頃は「五厘に通じて安っぽく感じる」という意見もあったそうです。

そうなんです。「五厘」とは、明治の落語界ではつねに問題をはらんでいた寄席ブローカーの連中をさします。席亭(寄席の社長)と芸人の間で出演を仲介する人(ブローカー)のことです。割のうち、五厘を天引きしたために、そう呼ばれました。一銭にもならない安っぽい連中という意味合いも込められていて、おしなべて芸人世界の嫌われ者でした。円朝たち重鎮が五厘の一掃に苦心していたのが、明治演芸の一貫した道程だったのです。

「五厘」のイメージをとうに忘れてしまっていた昭和になって、オリンピックの五大陸を輪でむすぶという発想からオリンピックの精神を、川本は「五輪」と訳したわけです。川本は織田幹雄の弟子筋の人ですから、その身はしがない読売の記者とはいえ、並みの記者ではありませんでした。発信力が違います。まもなく、朝日も中外商業日報(日経)も「五輪」を使うようになって、あっというまに日本中に定着しました。

その五輪と五厘を掛けているところが、クドカンの凄味だなあと、私(古木優)は感心しています。

五輪の五色とは、旗の左側から青、黄、黒、緑、赤。輪を重ねて連結した形です。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸とその相互の結合と連帯を意味しているそうです。

五りんは想像の人物でも、隣にいつもいる、むかし家今松(荒川良々)はのちの古今亭円菊のこと。本名は藤原淑。昭和4年(1929)、静岡県島田市生まれ。地元の工場労働に見切りをつけて上京、志ん生に弟子入りしました。とちるしかむし覚えは悪いしで、悲惨な弟子でした。それでも、倒れた志ん生を背負って、銭湯に行ったり寄席に行ったり。苦労して真打ちになります。当時の周囲は「おんぶ真打ち」などとさげすんでいましたが、いずれは独特のアクションを伴った「円菊落語」を創造していくのです。手話やレフェリーのかたわら、アクションに磨きをかけていきました。

小泉今日子が演じるのは美濃部美津子。志ん生の長女で、大正14年(1925)生まれで、四人の子供の中で唯一のご存命。志ん生を脇から後ろから眺めてきたマネジャー役でした。こんな人がいらっしゃるのはファンとしては心強いかぎりです。著作も多く、すべてがすばらしい。

その昔、お宅にうかがってしばし志ん生師匠の思い出話を拝聴したことがありました。いい年したおばさんが志ん生師を「おとうさん」と呼んでいたのが印象的でした。この人の心の中には今でも志ん生=美濃孝蔵=おとうさんが生きているんだなあ、と。心のあったかさがしみじみ伝わる人でした。

古木優

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志ん生と孫

【RIZAP COOK】

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「中央公論」1964年の新年特大号。

「うちの三代目」というグラビア特集で、志ん生が三人の孫娘に囲まれ、いかにも幸福そうにニコニコ笑っている写真があります。

いずれも長男十代目馬生の娘たちで、キャプションには当人の弁として「志津子は八つ、由起子は五つ、寿美子は三つである……名前は私と(馬生が)相談してつけた。……今が可愛いね。もう手がかからなくて一番いい頃。朝にはかならず飛び込むようにして私に会いに来る。おじいちゃん、おじいちゃんと言われると、全くたまらないね」という、孫のろけ。

志ん生は当時、病魔をやっと克服して、寄席に復帰したばかり。

その年の秋には紫綬褒章を受章します。

自伝(らしい)『びんぼう自慢』で紹介している通り、志ん生夫妻には「清のところに三人、喜美子のところに二人」で、後に次男志ん朝にも二人誕生して、都合七人の孫。

『びんぼう自慢』の巻頭には、昭和38年ごろの、その五人の孫を含む一家三代の集合写真も掲載されていました。

ところで、「志ん生の孫」でいちばん有名なのは女優の池波志乃。中尾彬夫人で、おしどり夫婦として知られていますね。

十代目馬生の長女で、本名は志津子。その志津子がずっと後、「文藝春秋」1989年9月号誌上に、祖父の回想を寄せています。

そのタイトルはかなり辛辣で「貧乏したのは家族だけだった『勝手な人』」。

で、彼女いわく、「私は初孫ですし、珍しいもんだから、おもちゃみたいに可愛がるんです。でも、元来子供の好きな人ではないので孫と遊ぶのは私であきてしまい、もう子供はうっとうしいと思ったのか、二人の妹のことは全くかまいませんでした」

そういえば、末っ子の志ん朝以外は、馬生を含む上の三人にはほとんどかまいつけず、そもそも、一年中ほとんど家にいなかったというワイルドな親父だった志ん生が、いくら功成り名遂げて金もできたところで、そう簡単に子供好きになるはずもなく、前記の、いかにも孫たちが目に入れても痛くないという風なコメントも、多分に外面の営業用に思えてきます。

「もう手がかからなくて」一番いい、というのは、当時の年齢からして、志津子だけのことでだったのでしょう。

そのほか、彼女の祖父批判は留まるところを知らず、家族がほとんど餓死寸前の極貧生活で、祖母りん夫人の内職だけで辛うじて食いつないでいるのに、祖父志ん生はどこ吹く風、毎日、酒だバクチだお女郎買いだと「別の次元にいるようだった」と、実に手厳しいものです。よほど、幼時に父や祖母から、散々愚痴や恨みつらみを聞かされていたのでしょうね。

この手記でおもしろいのは、批判が祖父だけではなく、後年貞女の鏡、聖女のように讃えられた祖母りんにまで及んでいること。

後年、テレビの志ん生貧乏譚の再現ドラマで、その祖母を演じていましたし、「いだてん」でも同様に演じていたほど、若い頃のりん刀自に瓜二つな池波志乃ですが、いわく「おじいちゃんが売れっ子になって生活がよくなってきたら、かつての貧乏生活の反動か、祖母の金の遣い方が派手になりました」。

祝儀の切り方も手当りた次第、千疋屋から高級メロンをあつらえると、使いの者にまで祝儀の大盤振る舞い。

若い頃はおじいちゃんがすっからかんすっからかんに使い、年取ってからは祖母が浪費して最後には何も残らず、だったよし。

まあ、それだけ長年貧窮を見てきた人だから、そのくらいは、とも思いますが、とかく女の子の家族を見る目というのはシビアなもの。

というより、そういう客観的で怜悧な観察力を、幼時から持ち合わせていたことが、池波志乃の女優としての類まれな資質で、これもまた、りっぱな「名人の系統」なのでしょうね。

高田裕史

【RIZAP COOK】

おちゃくみ【お茶汲み】演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

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遊郭を舞台にした艶っぽい噺。なんだかまぬけなんですがね。

【あらすじ】

吉原から朝帰りの松っあんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したが、女は松っあんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になった。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨の礫。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

原作は狂言

大蔵流狂言「墨塗」が原典です。

これは、主人が国許へ帰るので、太郎冠者を連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬深い愛人のところへ暇乞いに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋になすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里狂いが過ぎて勘当されかかった若だんなが、罰として薩摩の国の親類方に当分預けられるので、なじみの女郎に暇乞いに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶がらに代えた「涙の茶」。これを初代柳家小せんが明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに活写。現行の東京版「お茶くみ」が完成しました。やれやれ、ご苦労さま。

小せんから志ん生へ

廓噺の名手で女遊びが過ぎて失明した上、足が立たなくなったという初代小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生が直伝で継承。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(=二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎としていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の志ん朝のものがCD化されていましたが。桂歌丸、柳家小三治のものが出ています。

本家の「黒玉つぶし」の方は、戦後、上京して上方落語を演じた桂小文治が得意にしていました。

歌舞伎でも

実は、「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平定文(通称・平中)の逸話中にすでにあるといわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜』の「鮨屋」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎以来の音羽屋の型です。

これは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の初代小せんの速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょうが、明治末から大正初期で、大見世では揚げ代のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
梨の礫 なしのつぶて
軽口五色帋 かるくちごしきがみ
田毎 たごと

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おみたて【お見立て】演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁。

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸が走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽に会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗で」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
「養空食傷信士、天保八年酉年」

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
「天垂童子、安政二年卯年」
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(落語研究家)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』中の「手くだの裏」とのこと。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺ですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の柳家禽語楼(二代目禽語楼小さん)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋はじめ、多くの大看板が手掛けました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼を選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町の全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(1958年、川島雄三監督、日活)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

【語の読みと注】
喜瀬川 きせがわ
花魁 おいらん
杢兵衛 もくべえ
大尽 だいじん
虫酸が走る むしずがはしる
惚れる ほれる
廓 くるわ
敵娼 あいかた

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いまどのきつね【今戸の狐】演目

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この噺の根本は、いすかのかけ違い。その妙が楽しめます。

【あらすじ】

安政のころ。

乾坤坊良斎という自作自演の噺家の弟子で、良輔という、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺の名人とうたわれている初代三笑亭可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないので、食うものも食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用な質なので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋の家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判。

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋の可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽が、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打に負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度の素人バクチを噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだと教える。

乃楽から道を聞き出し、いまどまでやって来た虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

講釈名人の実話

江戸中期の名人・乾坤坊良斎 1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人。本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が菅良助の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目良助のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

良斎の若い頃なら文化年間 1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年 1840年ごろ)といわれ、長命ではあったもののもう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の時代は安政期 1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっているので、戦後は五代目古今亭志ん生しか演じ手がありませんでした。志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生と古今亭志ん朝が継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心にホール落語などではたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺ですが、志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味を何とかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治が得意にした「今戸焼」にも登場しますが、起源は天正年間 1573-91)に遡るという焼物。

土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、終いには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

また、女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住八丁目)の異称です。刑場で有名ですが、岡場所 私娼窟)があり、「藁人形」にも登場しました。刑場から骨を連想し、骨ケ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の寨と妻を掛けた地口です。

今戸中橋

なかばし。今戸は、台東区今戸一、二丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰には文人墨客が集った有名な料亭・有明楼がありましたが、現在墨田公園になっています。

南詰には昭和4年、言問橋が架けられるまで対岸の三囲神社との間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。中橋は中央区八重洲一丁目。「錦明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

【語の読みと注】
乾坤坊良斎 けんこんぼうりょうさい
質 たち
糊口をしのぐ ここうをしのぐ
乃楽 のらく
妻 さい

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あさのれん【麻暖簾】演目

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落語の按摩さんは、なぜか強情な人が多いです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

ジュアル落語の典型

原話は不明です。この噺を得意にしていた晩年の三代目小さんの、「按摩の蚊帳」と題した速記(大正13年)が残されていますが、もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なので、速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触るというものです。これも目で見ていないとその芸の細かさはわからないでしょう。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、戦後この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

志ん生の隠れた逸品

戦後は五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかりません。やり方は三代目小さんのものを踏襲しながら、「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目小さんが時々演じたくらいで、現在はあまりやり手がいません。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりです。こうした内容も、昨今ではいろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状でしょう。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。部屋の大きさによって、五六 五六は縦横の割合。三畳用)や六七 四畳半用)などの種類がありました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八 正確には七八。六畳用)で代用しています。

女性の按摩

按摩は按摩取ともいい、マッサージ、鍼灸師の古称です。この仕事は江戸時代には目の不自由な人がほとんどでした。四世鶴屋南北作の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、同じく黙阿弥作『加賀鳶』の熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。女性の按摩もけっこう多かったようです。女性の按摩には按摩以外にも売春をする者もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。

男性の按摩は「当道座」という全国的な互助組合が組織させていましたが、女性の按摩には「瞽女座」がありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。こちらは全国組織ではなく、駿河、甲斐、信濃、越後あたりに留まり、多くは藩が抱えていました。瞽女の主たる仕事は三味線を弾いて歌謡して流すこと。とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領、継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませました。

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は四十八文が相場。自宅で「診療所」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。ステータスと技術は、「振り」とは段違いでした。「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
瞽女 ごぜ
杢市 もくいち
贔屓 ひいき
当道座 とうどうざ
瞽女座 ごぜざ

【麻のれん 五代目古今亭志ん生】

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