駒長 こまちょう 演目

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志ん生もやっている噺。人情噺めいてはいるのですが……。

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、今の亭主の長八にお駒をさらわれたという因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通って来やがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

お駒に丈八へ恋文を書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らってなれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は欲しいならてめえにくれてやる」
とわざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァてめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八だが、筋書きがうまくいって安心したか、まぬけな奴もあるもの、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取ってはいさようなら。瓢箪から駒。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に書き置き一通。

「遂には、うそがまことと相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

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【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(昭和2年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(昭和5=1930年没)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をご覧ください。

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では「美人局」と題した四代目橘家円喬のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。井原西鶴なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

黙阿弥の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

戦後は、五代目古今亭志ん生が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。おそらく、敬愛する四代目円喬の速記などから独力で覚えたものでしょう。次男の志ん朝が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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首ったけ くびったけ 演目

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珍しく、遊廓の女がひどい目にあう噺です。

【あらすじ】

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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【しりたい】

原話は寄せ集め

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3 1774)年刊「軽口五色帋 ごしきがみ)」中の「女郎の川ながれ」、天明2 1782)年刊の「富久喜多留」中の「迯 にげ)そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売

古い速記では、大正3 1914)年の四代目橘家円蔵のものがあります。

戦後は、二代目三遊亭円歌が演じたほかは、五代目古今亭志ん生の、ほぼ一手専売でした。志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せんの直伝でしょう。志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、女郎に、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、息子の十代目馬生、志ん朝に伝わりました。馬生のは、レコードもあります。最近では、ほとんど手掛ける者がいません。

吉原の火事

吉原遊郭は、明暦の大火(1657年)によって全焼。そのため、日本橋から浅草日本堤に移転しますが、その後も、明治維新までに平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、六千五百戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を大歓迎したとか。

おはぐろどぶ

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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志ん生にはどんな弟子がいたのか?

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NHK「いだてん」では、志ん生の弟子は今松と五りんしか出てきません。

今松はのちの古今亭円菊、五りんは架空の人。これはもう、既知のことかと踏んで、お次に進みます。

しかしまあ。

ここまで単純化すると、ストーリーをしっかり追っかけられてわかりやすい、ということなのかもしれません。でも、現実はそんな単純なもんじゃない。

落語ファン、志ん生ファンにはどうにも消化不良でした。だって、昭和30年当時、飛ぶ鳥落とす勢いの志ん生は、弟子たったの二人、なんていうことがあるわけがないのです。

あれは、NHKの策略で、「全国の落語嫌い」または「落語なんてどうーでもよいスポーツばか」のために、極端に矮小化したまでのことです。

ならば、実際には、どれほどの弟子がいたのか。

このサイトをご覧になってるのは、こよなく「落語」を、あるいは「志ん生」を愛する方々でしょうから、しっかりお伝えすることにいたしやしょう。

以下の通りです。ここから先は高田くんの登場です。(以上、古木)

はい、高田です。では、私が、志ん生と弟子について、少々しっかりとお伝えしましょう。

志ん生は『びんぼう自慢』末尾で「弟子もみんなよくなりましてな」と嬉しそうに語り、その後二人の息子(十代目馬生と三代目志ん朝)を除く、直弟子六人、内輪二人(古今亭甚五楼と古今亭志ん好)の名前を挙げています。

その六人とは以下の通りです。

馬の助(初代)
志ん馬(八代目)
円菊(二代目)
朝馬(三代目)
志ん駒(二代目)
高助(のち初代志ん五)

このうち、最後の高助は、正確には志ん朝の弟子ですが、志ん生生前には内「孫」弟子で住み込み、事実上門下扱いでした。

その他、早世した志ん治(鶯春亭梅橋)。

さらには、廃業した四人も。

志ん一(二代目志ん朝)
もう一人の、志ん一
銀助
古今亭馬子(紅一点)

馬子については、おそらく落語界初めての女流落語家でしたが、残念ながら入門時期や経歴は不明。

長女の美濃部美津子さんによれば、「結構頑張ってましたよ。父もかわいがってたんですけど、しばらくして好きな人ができて」、その結果、結婚・廃業したようです。

そんなわけで、直弟子は、惣領弟子で長男の馬生以下、志ん朝を加えて13人。

このうち、廃業して現在消息が知れない面々を除けば、平成29年(2018)1月18日に亡くなった志ん駒を最後に、ついにすべて、志ん生が待つ極楽亭に行ってしまいました。

83歳3か月で大往生した師匠の没年を超えたのは、円菊(2012年10月13日没、84歳6か月)だけで、ほんのわずか足りなかった志ん駒(81歳16日)を除けば、後は順に以下の通り。

梅橋(1955年、享年29、肺結核)
馬の助(1976年、享年47、癌)
朝馬(1978年、享年47、膵臓癌)
馬生(1982年、享年54、食道癌)
志ん馬(1994年、59歳、肝臓癌)
志ん朝(2001年、享年63、肝臓癌)
志ん五(2010年、61歳、上行結腸癌)

ここまで、師匠より先立った志ん治の梅橋を除き、すべて働き盛りでみんな癌。浴びるほど大酒を食らっても胃癌にも肝臓癌にもなるでなし、最後は眠っているうちに楽々と昇天した師匠に比べ、時代とはいえ、不公平なことかぎりなく、まるで志ん生にことごとく、生気を吸い取られたかのようです。

この弟子連、生前はそれぞれ、折に触れて師匠の思い出、逸話を語り残しています。

それを集大成したのが、『志ん生、語る。』(岡本和明編、アスペクト、2007年)。

家族、弟子、同僚や後輩の噺家たちが、知られざる志ん生の思い出を寄せた、貴重な一冊です。弟子では二人の子息初め、志ん馬、志ん駒、志ん五の証言。

それぞれに興味深いですが、志ん馬は、師匠は若い者に稽古をつけるのが好きで、よその弟子でも、来れば細部までていねいに教えていたこと、「落語ってのは、大筋を覚えてればいいんだ。後は自分の創意工夫だ」と。

倒れてから「どうしてみんな稽古に来ないんだろう」と寂しそうに言ったそうです。

総じて、志ん生は弟子にやさしかったようです。飲み屋の払いも、わざと円菊にさせ、まるでせがれに親孝行でおごらせるように、ニコニコと嬉しそうにしていたとか。

ところで、円菊といえば、二つ目のむかし家今松当時、志ん生が病後のもっとも大変な時期に、内弟子でいつも影のように寄り添い、寄席に復帰してからも毎日師匠をおぶって楽屋入りするので、落語は下手だが、稀に見る師匠孝行というので真打ちにしてもらったという噂で「おぶい真打ち」というあだ名まで奉られた人。

その円菊も、『志ん生! 落語ワンダーランド』(読売新聞社編、1993年)中のロングインタビューで、こんなことを述べていました。

稽古については志ん馬同様、あまり細かいことはうるさくなかったと回想しているのです。

おもしろいのは、師匠が前で噺をしゃべってくれても、あまりにおかしくてろくに覚えられず、吹き出してしまうと「木戸銭取るぞ」と怒られたとか。

ここに、ちょっと興味深い音源があります。

題して「古今亭志ん生 表と裏」。

出自はまったく不明ですが、おそらく当時、志ん生が専属だったニッポン放送のラジオドキュメンタリーかと思われます。

志ん生がトリで寄席がハネた後の楽屋風景から、朝の志ん生家の生録音へと移る貴重な記録。時期は推定で、倒れる直前の昭和36年(1961)ごろ。

りん夫人ほか一家総出演で、途中で別棟の馬生が孫の志津子(のち女優の池波志乃、当時6歳)を連れてやってくる場面があって、なかなか愛らしいのですが、その後、当時今松の円菊が「三人旅」を志ん生に稽古してもらうくだりがあります。

「…あのね、旅してありいてんだからね、え、少しからだをね、こウ、いごかしてほしいんだな。(自ら出発風景を演じて見せて)旅というものをしている心持ちじゃなけりゃいけない。(山や海を見ている心で)客を引っ張り込まなきゃいけない」

「紋付きを着て出てえる人間(噺家)が、紋付きがなくなっちゃって、半纏着ている人間がしゃべっているようでなきゃ。…ただ噺をすればいいってもんじゃない。噺を活躍させなきゃいけない」

いかにも実際的で、志ん生が生涯目指していたという正統派の志向が、よくうかがわれます。

ふだんはぶっきらぼうで、弟子がやって見せても真剣そのものの表情で、クスリとも笑ってくれなかった志ん生でも、これほどすべての弟子に愛され、慕われた師匠は、またとなかったでしょうね。(高田裕史)

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剃刀 かみそり 演目

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めったに聴けない珍品です。

別題:坊主の遊び 坊主茶屋(上方)

【あらすじ】

せがれに家を譲って楽隠居の身となったある商家のだんな。

頭を丸めているが、心は道楽の気が抜けない。

お内儀には早く死なれてしまって、愛人でも置けばいいようなものだが、それでは堅物の息子夫婦がいい顔をしない。

そこで、ピカピカ光る頭で、せっせと吉原に通いつめている。

今日も出入りの髪結いの親方といっしょに、夕方、紅灯の巷に繰り出した。

洒落っ気があり、きれい好きなので、注文しておいたヒゲ剃り用の剃刀を取りに髪結床に寄ったところ、親方が、吉原も久しぶりだからぜひお供を、ということで話がまとまったもの。

ところが、この親方、たいへんに酒癖が悪い。

いわゆる「からむ酒」というやつで、お座敷に上がってしこたま酒が入ると、もういけない。

花魁にむりやり酌をさせた上、
「てめえたちゃ花魁てツラじゃねェ、普通のなりをしてりゃあ、化け物と間違えられる」
だの、
「こんなイカサマな酒ェのませやがって、本物を持ってこい」
だのと、悪態のつき放題。

隠居がなだめると、今度はこちらにお鉢が回る。

「ツルピカのモーロクじじいめ、酒癖が悪い悪いと抜かしゃあがるが、てめえ悪いところまでのませたか、糞でもくらやァがれ」
とまで言われれば、隠居もがまんの限界。

大げんかになり、
「こんな所にいられるもんけえ!」
と捨てぜりふを吐いて、親方はそのまま飛び出してしまう。

座がシラけて、隠居はおもしろくないので、早々と寝ることにしたが、相方の花魁がいっこうにやってこない。

しかたなくフテ寝をして、夜中に目が覚めたとたん、花魁がグデングデンになって部屋に飛び込んでくる。

「だんな、お願いだから少し寝かしておくれ」
と、ずうずうしく言うので文句をつけると、
「うるさいよ。年寄りのくせに。イヤな坊さんだよ」
と、今度は花魁がからむ。

隠居は
「おもしろくもねえ。客を何だと思ってやがる。こんな奴には、目が覚めたら肝をつぶすような目に会わせてやろう」

持っていた例の剃刀で、寝込んでいる花魁の眉をソリソリソリ。

こうなるとおもしろくなって、髪も全部ソリソリソリソリ。

丸坊主にしてしまった。

夜が明けると、さすがに怖くなり、ひどい奴があるもの、隠居、はいさようならと、廓を脱出。

一方、花魁。

遣り手ばあさんに、
「お客さまがお帰りだよ」
と起こされ、寝ぼけ眼で立ち上がったから、すべって障子へ頭をドシーン。

思わず頭に手をやると
「あら、やだ。お客はここにいるじゃないか。じゃ、あたしはどこにいるんだろう」

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【しりたい】

原話の坊主は流刑囚

中国明代の笑話集『笑府』巻六で奇人変人の話を集めた「殊稟部」中にある「解僧卒」がネタ元、原典です。 

これは、兵卒が罪人の僧侶を流刑地まで護送する途中、悪賢い坊主は兵卒をうまく酔いつぶし、頭をくりくりに剃った上、自分の縄を解いてしばると、そのまま逃走。目覚めた兵卒が、自分の頭をなでてみて……という次第。オチは同じです。

江戸笑話二題 

江戸の笑話としては、正徳2年(1712)に江戸で刊行の『新話笑眉』中の「夜明のとりちがへ」がもっとも古い原話で、ついで寛政7年(1795)刊の『わらふ鯉』中の「寝坊」があります。

「夜明…」の方は、主人公は年をくって、もう売れなくなった陰間。このへんが見切り時と、引退披露を兼ねて盛大な元服を催し、したたかに酒をくらって酔いつぶれて寝いってしまいます。

朝目覚めて頭をなでると、月代を剃ってあるのでツルツル。寝ぼけていつもの癖でハゲの客と間違え、「もし、だんな。夜が明けました」。

それから八十年以上経った「寝坊」では、筋はほとんど現行の落語と同じで、主人公は坊主頭の医者。オチは、くりくり坊主にされた女郎が「ばからしい。ぬしゃ(=あなたは)まだ居なんすか(まだいたの?)」というもの。

志ん生演じた珍品

めったに聴けない珍品の部類です。

古くは四代目橘家円蔵、俗に品川の円蔵の大正4年(1915)の速記が残されています。

戦後では「坊主の遊び」の題で五代目古今亭志ん生、二代目三遊亭円歌が時々演じ、特に志ん生は短い郭噺として好んで取り上げたようです。本あらすじも、志ん生の速記を参考にしました。

志ん生は、しばしばオチを「坊さん(お客)はここにいるじゃないか」と短く切り、前半に「三助の遊び」の発端部をつけるのが常でしたが、主筋とのつながりはなく、単に時間を埋めるだけのものだったようです。

円歌は、坊主遊びの本場であった品川を舞台にしていました。継承して、三遊亭円歌も演じていました。

あざとい上方噺

上方の「坊主茶屋」は、大坂新町の「吉原」が舞台。ただし、こちらの吉原は、新町の外れの最下級の売春窟で、江戸でいうと「お直し」に登場する羅生門河岸の「蹴転」というところ。

女もひどいのが多く、梅毒で髪の毛は抜け、眉毛もなければ鼻もない代物。これをあてがわれて腹を立てた客が、「どうせ抜けているのやから」ときれいにクリクリ坊主にしてしまうという、悪質度では東京の隠居の比ではない噺。

その鼻欠け女郎の付け鼻を、客が団子と間違えて食わされてしまう場面は、東京人には付いていけないあざとさでしょう。

オチはいろいろ

「あらすじ」のオチがもっともスタンダードですが、昔から、演者によって、微妙に違うニュアンスのオチが工夫されています。

上方のものでは、古くから「そそっかしいお客や。頭を間違えて帰りはった」というオチもよく使われ、そのほか「湯灌して帰ってやった」(桂小文治)とか、「医者の手におえんさかい坊主にされたんや」(米朝)とかいうのもあります。

いずれにしても、「大山参り」の趣向と、「粗忽長屋」に似た異次元的錯覚を感じさせるオチを併せ持つ名品なのに、現在、あまり高座に掛けられないのは残念です。

頭丸めても

坊さんといっても、ここでは本物の僧侶ではなく、隠居して剃髪している商家のだんなが主人公です。江戸時代には東西とも隠居→剃髪の習慣は広く行われました。

隠居名を名乗ることも多く、上方では「○○斎」と付けるのが一般的でした。

本物の坊主の方も、廓遊びにかけてはかなりお盛んで、女犯は表向きは厳禁なので、同じ頭が丸いということで医者に化けて登楼する不届きな坊主も多かったとか。

「中宿(=茶屋)の 内儀おどけて 脈を見せ」という川柳もあります。隠居の方も、「新造は 入れ歯はずして みなという」など、からかわれ放題。

まあ、おさかんなのはけっこうですが、いつの時代も、やはり趣味はトシ相応が無難なようで。

【語の読みと注】
お内儀 おかみ
紅灯の巷 こうとうのちまた
髪結床 かみゆいどこ
花魁 おいらん
相方 あいかた:相手。合方とも
遣り手 やりて
陰間 かげま:少年男娼
元服 げんぷく
月代 さかやき
蹴転 けころ

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志ん生が大陸体験で見たものは?

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五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭円生。気質も芸風もまるで水と油です。

この二人が戦争末期、連れ立って大陸慰問団に加わり、命からがらの苦難をなめたことは、落語ファンにはよく知られています。中国東北部(旧満洲)での大陸体験は、二人ともに自伝にも語り残し、座談会や雑誌記事などでもさまざまな逸話が紹介されています。ただ、双方の言い分にはかなりの食い違いがあります。

志ん生がどちらかというと、弥次喜多道中よろしくおもしろおかしく語っているのに対して、円生の方は、十歳年上の志ん生の度外れた身勝手さに、どれだけヒドい目にあったかという、むしろ恨みつらみをぶちまけている感があります。いずれにせよ、真相はもはや闇の中です。

そこに割って入るのが森繁久彌。彼も当時の体験を記しています。二人を脇で見ていた男の目は微笑みながらも辛辣でした。

なかばフィクションにもかかわらず、まるでタイムマシンで見ているかのように、この大陸道中、出発のきっかけから志ん生帰国までのあらましがすべてわかってしまう、いや、わかった気にさせられてしまう、摩訶不思議な一冊があります。

それは、井上ひさし『円生と志ん生』(集英社刊)。

同人の演出で、劇団こまつ座第75回公演として2005年2月~3月に東京・紀伊国屋ホールほかで上演された、同名ミュージカルの台本をそっくり収録したものです。

ソ連軍侵攻前後の中国東北部を舞台に、松尾こと円生(角野卓造)と孝蔵こと志ん生(辻萬長)を中心に、さまざまな人物が織り成す人間模様が描かれます。

この戯曲(本)の画期的なところは、生死の縁を病葉のようにさまよう中、二人がどのように「芸」に開眼していくかという物語なのです。

当時、55歳にしてようやく売れ出して、後年のシャープな芸風を確立しつつあった志ん生。敗色濃厚になるにつれ、禁演落語とやらで廓噺もダメ泥棒噺もご法度。

おまけに、開口一番で二人が国民服姿で登場することでわかるように、噺家の象徴であるトバ(着物)まで、空襲で逃げるときに引きずって走れないという、わけのわからない理由で事実上禁止され、フラストレーション爆発寸前。

そこへ、満州へ渡れば白飯も食い放題酒も呑み放題、軍属の少佐待遇でアゴアシ付き月150円という結構ずくめの話だから、たちまち飛びついて、いきなり楽屋で一声。

「松ちゃん、明日行こう」

重苦しい内地を離れると、芸に関しては志ん生は水を得た魚。十歳年下ながら、三遊の総帥、五代目円生の御曹司で豆落語家から順風満帆、真打ちも一年早かった円生に、たちまち遠慮もコンプも雲散霧消、万事師匠気取りの上から目線。あまつさえ、芸の「指導」までおっぱじめる。

一方、円生。

会計係を任されたのに、相方の志ん生は、日本に帰る資金作りと称して、片っ端からなけなしの金を強奪、あげくに博打でスッテンテン。怒り心頭でも、すっぱり別れられないなにかがあるのは、劇中に当人が告白するように、当時、四十半ばにして芸に行き詰まっていたから。

いっそ廃業して、とダンスホールや雀荘経営に手を出しても、借金の山が残るだけ。こちらもやけのやん八で大陸行きに乗ったものの、早くも追い立てを食いそうな大連の宿で、来るんじゃなかったと泣き言。

そこで、志ん生の一言がぐいっと胸を抉ります。

「おまえさんにはなんかある」

続いて、辛辣きわまるご託宣。

「松ちゃんはあいかわらずのそのそのそ、四角四面で行儀正しいだけで、ちっともおもしろくならねえ」

ごもっともと図星をつかれた松ちゃんですが、続けて、志ん生の言う円生の「なんか」というのが、ぶっ飛んでいます(第一幕第三場)。

「松ちゃんは、毎朝毎晩、歯をごしごし磨いている。それが、つまり、そのなんかなんだな」

噺家の商売道具は口と歯。歯なしでは噺はできない。だから、この人は死ぬまで噺家をやろうと心を決めているんだと。その後も志ん生の稽古は続きます。

場は進んで、吹雪の昭和20年暮れ。

ソ連軍に追われ追われて、大連遊郭街、逢坂町の娼妓置屋に居候している二人。

フグ雑炊の鍋を前に、「松ちゃんの上下の移り替えは大きすぎる」とやっつける志ん生。

テンポよく実演付きで「移り替えが大きいとその分、間が空くだろ」。

パパッと語ってストンと落とすから落とし噺、という志ん生。

今話しているのは誰か、客にはっきりわからせるために身振りをゆっくり大きく、という円生の言い分。

「客」の二人の娼妓の感想は、完全に志ん生に軍配が上がります。このやりとりは、おそらく作者の創作でしょうが、晩年に至るまでの二人の芸風の違いが、実によくわかります。

結局、円生は大家となってからも、テンポが遅くてくどい、という欠点を払拭できませんでしたが、志ん生の、当人の自負する落とし噺の切れ味にある種の憧れとコンプレックスを、生涯抱いていたのではないでしょうか。

ただ、自分にはとうてい志ん生のまねはできないと思い定めたとき、向こうが短距離走者ならこちらはマラソンランナーと、じっくり本格的に語り込む人情噺で芸を開花させていったわけです。

もう一つ。

この物語の買いは、志ん生、美濃部孝蔵のふだんの肉声が、よりリアルに「再現」されていること。

それも、ほとんどは作者が創作した可能性が高いにもかかわらず、あたかも生きた志ん生に傍で話を聴いているように、いや笑えること。

「あたしァね、朝めしを抜くと座り小便が出てしまうってえ病気持ちなんだ」

「とんちきおかみめ、はなし家の丸干しでもこさえようてえんだな」

「やーい、いきなり攻め込んできやがって。スターリンのヒキョーモン」

「おまえの髭は毛虫髭」

「その髭に柄をすげて歯ブラシにしてやるぞ」

これは「岸柳島」の船中の町人や「たがや」の弥次馬よろしくですが、まだまだいくらも堪能できます。

井上ひさしがいかに落語に造詣が深く、落語を愛し、自らの劇作の大きな源にしていたか、とりわけ志ん生の諧謔と江戸前の洒脱さを、この東北人が誰よりも深く理解していたことがうかがわれるのです。

もちろん、避難民の悲惨な体験を通しての戦争への告発も、作者の重要な意図であることは確かで、それは場の変わり目ごとに、二人を交えて霊の声のように唱和される歌に象徴されます。

筆者にはあくまで、落語という芸のデーモンに取り憑かれた二人、とりわけ志ん生が、どんな地獄の最中でも、最後の最後まで噺をしゃべり通しているということが印象的でした。

大団円近く、大連のとある修道院で、落語のラの字も知らない院長と三人の修道女を相手に、志ん生が必死に、「元日に坊さんが二人、すれちがって、これが本当の和尚がツー」……と三平並みの小咄を連発するくだりは鬼気迫るものがありました。

第一に腑に落ちたのは、円生と志ん生は、戦後どれほどいがみあいをしようと、原点は大陸で、命のきわを共にした戦友にしてケンカ友達だったということ。その二人の、どんな緻密な伝記作者でも描ききれない心の襞が、この「井上ひさしによる珍道中」で、垣間見せてもらった気がします。(高田裕史)

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おもと違い おもとちがい 演目

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鶍の嘴の食い違い。同音異義が鍵です。たわいもないすじですが、大いに笑えます。

【あらすじ】

ある大工の棟梁。

兄貴分に盆栽の万年青(おもと)を預かったが、金の入り用に迫られ、ついそれを、これも万年青好きの質屋にぶち殺し(=質入れ)て洞穴を埋めた(=金の手当てをした)ので、面目なくて兄貴に顔出しできないと、知人の家でこぼしていく。

それを隣の部屋で、酔っぱらって夢うつつで聞いていた男。

奉公先のだんなの姪で、年ごろで悪い虫がついたようなので、用心のためしばらく、堅いと評判の棟梁の家に預けられていた娘の名がたまたま、「おもと」といったからさあ大変。

「おもとがあろうことか、棟梁の野郎にぶち殺されて洞窟に埋められた」と早合点し、さっそく、だんなにご注進する。

聞いただんな、
「おもとからはたった今、手紙が着いたばかりなので、なにかの間違いだろう」
と半信半疑だが、男が、
「それはきっと偽装工作で、かみさんにでも書かしたものに違いない」
と言い張るので、棟梁もだんだん心配になる。

かと言って、出入りの棟梁だから、家から縄付きを出して世間に恥をさらしたくないので、
「それじゃおまえ、棟梁の兄貴を知っているんだから、兄貴からことの白黒をつけてもらえ」
と言いつけられる。

兄貴も、いきさつを聞いてびっくり。

さっそく、棟梁を呼びにやり、
「てめえはあろうことかあるめえことか、恩人から預かったものをぶち殺すとは何事だ」
と責めたてるが、当人は質入れのことがバレたと思い込んでいるから、話がかみあわない。

「召し連れ訴えされるのがイヤなら自首しろ」
とネジ込むと、
「三日のうちに必ず返すから待ってくれ」
と平身低頭。

とどのつまり、棟梁が川上という質屋に万年青を放り込んだと白状。

押し入れに隠れていた男、やにわに飛び出して、
「あんた、その川上へ放り込んだのはいつのこってす」
「そうさなあ、九か月ほど前のこった」
「それじゃもう、とうに流れたんべえ」
「なに、利上げしてある」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

初代円左が創作か

初代三遊亭円左が速記(明治32年)中、マクラで、この噺は自分の専売ということを言っていますが、この人は明治後期から末年にかけ、自作自演を始め、益田太郎冠者の新作なども多く手掛けたこともあるので、おそらくはこれも円左の当時の創作でしょう。

昭和初期から戦後にかけ、八代目桂文治がよく演じ、ついで五代目古今亭志ん生がレパートリーにしました。

志ん生のは、ごく短く演じてだんなは登場せず、おもとを質入れしたのは棟梁の義弟辰公で、質屋の隠居の方が、おもとの見事なのに感嘆して、枯らさないから、自分の店に質入れしてくれろと頼んでくる設定になっています。

万年青ブーム

万年青はゆり科の、葉の厚い常緑多年草です。

江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから盛んに栽培されました。江戸時代を通して、はやりすたりを繰り返したようで、文政期(1818-30)には江戸最後のブームで、品種60種以上を数えたとか。その後、明治20-30年代にも、つまり円左の速記の前後にも再びはやりだし、盛んに品評会が催されました。この噺も、そうしたブームを当て込んで、作られたものでしょう。

現在知られている品種は、約200種もあり、主に葉を鑑賞するもので、栽培には手間がかかります。

通は、葉の広がり方、表面のつや、葉に斑点があるなしなどにうるさく、この噺の棟梁が、預かった万年青を「墨流しといって一番高い」ものだと言っていますが、これは墨流し染めのように葉の表面に波紋がある品種のこと。

万年青の茎は、漢方で強心剤・利尿剤として用いられます。

利上げ

質入れ品の期限が来た時に、利息だけを払ってその期限をさらに延ばすこと。または、その利息をも意味します。利揚げとも。

質屋蔵」でも触れましたが、質流れの期限は天保年間(1830-44)以後は8か月で、利上げは、それ以前に借り主が利息を入れて、質流れを防ぐ処置です。

五代目志ん生は、オチをわかりやすく「心配すんな、利息が入れてあるから」と言い換えていました。

ぶち殺す

江戸のスラングで、「死地(=質)に入れる」の洒落かと思われますが、語源は不明確です。

同義語に「曲げる」があり、こちらは、質=同音の七で、七の字は十の字の尻を右に「曲げる」ことから。

江戸には職人言葉からきた「物騒な」言い回しがかなりあり、たとえば、山芋を完全にとろろに下ろさず、かけらを半分残したものを、「半殺し」と呼んでいました。

噺のアラを補う工夫

この噺、鉢植えの「万年青」と人名の「おもと」の食い違いだけのかなりたわいない噺ですが、 両者の「オモト」は、アクセントからしてモトモト違う語なので、よけい無理が目立ちます。そこで、初代円左から志ん生まで、このアラをなるべく目立たせないため、けっこう苦心していたようです。円左や八代目文治では、なるべく「オモト」という言葉を使わない、噺をスピーディーに運んで、客にアラを気づかせないなどの工夫がみられます。

噺の重心を「ぶち殺した」をめぐっての、権助を加えた登場人物三人の、話の食い違いによるチンプンカンなやりとりにおくことで、それぞれの話芸によって笑いを誘ったと思われます。

円左では、棟梁が問い詰められて「三日でカタをつけます」と言うところがちょっとおかしく、志ん生では、権助の「殺すのはいいぜェ、洞穴ィ埋めるとァなんだい」というセリフが、ちょっとアナーキーで笑えます。

この噺、オチで、質屋の名と実際の川が混同されているわけなので、誰が演じても質屋の名は「川上」でなければならないはず。当然ながら、江戸時代を舞台にしてはできないわけです。

【語の読みと注】
棟梁 とうりゅう
万年青 おもと

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志ん生とオリンピックとはどんな関係か?

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NHK大河ドラマ「いだてん」では志ん生が裏の主人公のような役回りをしています。どう考えても志ん生とオリンピックは関係なさそうなのに、宮藤官九郎の手になると、まるで志ん生が東京五輪を推進していたかのような錯覚に陥るものです。落語好きには、それはそれでおもしろいドラマになっていますね。

神木隆之介演じる古今亭五りんという落語家は架空の人物です。

もともと日本には宮本武蔵の『五輪書』という剣の奥義書があります。オリンピックの和訳語としての「五輪」は読売新聞記者だった川本信正の造語でした。川本の発想では『五輪書』を踏まえていたそうです。その五輪とは、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻をさすそうです。まあ、それはともかく。

昭和11年(1936)7月25日付の読売の見出しに「五輪」が登場したのが初めてのことでした。登場したばっかりの頃は「五厘に通じて安っぽく感じる」という意見もあったそうです。

そうなんです。「五厘」とは、明治の落語界ではつねに問題をはらんでいた寄席ブローカーの連中をさします。席亭(寄席の社長)と芸人の間で出演を仲介する人(ブローカー)のことです。割のうち、五厘を天引きしたために、そう呼ばれました。一銭にもならない安っぽい連中という意味合いも込められていて、おしなべて芸人世界の嫌われ者でした。円朝たち重鎮が五厘の一掃に苦心していたのが、明治演芸の一貫した道程だったのです。

「五厘」のイメージをとうに忘れてしまっていた昭和になって、オリンピックの五大陸を輪でむすぶという発想からオリンピックの精神を、川本は「五輪」と訳したわけです。川本は織田幹雄の弟子筋の人ですから、その身はしがない読売の記者とはいえ、並みの記者ではありませんでした。発信力が違います。まもなく、朝日も中外商業日報(日経)も「五輪」を使うようになって、あっというまに日本中に定着しました。

その五輪と五厘を掛けているところが、クドカンの凄味だなあと、私(古木優)は感心しています。

五輪の五色とは、旗の左側から青、黄、黒、緑、赤。輪を重ねて連結した形です。ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸とその相互の結合と連帯を意味しているそうです。

五りんは想像の人物でも、隣にいつもいる、むかし家今松(荒川良々)はのちの古今亭円菊のこと。本名は藤原淑。昭和4年(1929)、静岡県島田市生まれ。地元の工場労働に見切りをつけて上京、志ん生に弟子入りしました。とちるしかむし覚えは悪いしで、悲惨な弟子でした。それでも、倒れた志ん生を背負って、銭湯に行ったり寄席に行ったり。苦労して真打ちになります。当時の周囲は「おんぶ真打ち」などとさげすんでいましたが、いずれは独特のアクションを伴った「円菊落語」を創造していくのです。手話やレフェリーのかたわら、アクションに磨きをかけていきました。

小泉今日子が演じるのは美濃部美津子。志ん生の長女で、大正14年(1925)生まれで、四人の子供の中で唯一のご存命。志ん生を脇から後ろから眺めてきたマネジャー役でした。こんな人がいらっしゃるのはファンとしては心強いかぎりです。著作も多く、すべてがすばらしい。

その昔、お宅にうかがってしばし志ん生師匠の思い出話を拝聴したことがありました。いい年したおばさんが志ん生師を「おとうさん」と呼んでいたのが印象的でした。この人の心の中には今でも志ん生=美濃孝蔵=おとうさんが生きているんだなあ、と。心のあったかさがしみじみ伝わる人でした。

古木優

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志ん生と孫 高田裕史

【RIZAP COOK】

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「中央公論」1964年の新年特大号。

「うちの三代目」というグラビア特集で、志ん生が三人の孫娘に囲まれ、いかにも幸福そうにニコニコ笑っている写真があります。

いずれも長男十代目馬生の娘たちで、キャプションには当人の弁として「志津子は八つ、由起子は五つ、寿美子は三つである……名前は私と(馬生が)相談してつけた。……今が可愛いね。もう手がかからなくて一番いい頃。朝にはかならず飛び込むようにして私に会いに来る。おじいちゃん、おじいちゃんと言われると、全くたまらないね」という、孫のろけ。

志ん生は当時、病魔をやっと克服して、寄席に復帰したばかり。

その年の秋には紫綬褒章を受章します。

自伝(らしい)『びんぼう自慢』で紹介している通り、志ん生夫妻には「清のところに三人、喜美子のところに二人」で、後に次男志ん朝にも二人誕生して、都合七人の孫。

『びんぼう自慢』の巻頭には、昭和38年ごろの、その五人の孫を含む一家三代の集合写真も掲載されていました。

ところで、「志ん生の孫」でいちばん有名なのは女優の池波志乃。中尾彬夫人で、おしどり夫婦として知られていますね。

十代目馬生の長女で、本名は志津子。その志津子がずっと後、「文藝春秋」1989年9月号誌上に、祖父の回想を寄せています。

そのタイトルはかなり辛辣で「貧乏したのは家族だけだった『勝手な人』」。

で、彼女いわく、「私は初孫ですし、珍しいもんだから、おもちゃみたいに可愛がるんです。でも、元来子供の好きな人ではないので孫と遊ぶのは私であきてしまい、もう子供はうっとうしいと思ったのか、二人の妹のことは全くかまいませんでした」

そういえば、末っ子の志ん朝以外は、馬生を含む上の三人にはほとんどかまいつけず、そもそも、一年中ほとんど家にいなかったというワイルドな親父だった志ん生が、いくら功成り名遂げて金もできたところで、そう簡単に子供好きになるはずもなく、前記の、いかにも孫たちが目に入れても痛くないという風なコメントも、多分に外面の営業用に思えてきます。

「もう手がかからなくて」一番いい、というのは、当時の年齢からして、志津子だけのことでだったのでしょう。

そのほか、彼女の祖父批判は留まるところを知らず、家族がほとんど餓死寸前の極貧生活で、祖母りん夫人の内職だけで辛うじて食いつないでいるのに、祖父志ん生はどこ吹く風、毎日、酒だバクチだお女郎買いだと「別の次元にいるようだった」と、実に手厳しいものです。よほど、幼時に父や祖母から、散々愚痴や恨みつらみを聞かされていたのでしょうね。

この手記でおもしろいのは、批判が祖父だけではなく、後年貞女の鏡、聖女のように讃えられた祖母りんにまで及んでいること。

後年、テレビの志ん生貧乏譚の再現ドラマで、その祖母を演じていましたし、「いだてん」でも同様に演じていたほど、若い頃のりん刀自に瓜二つな池波志乃ですが、いわく「おじいちゃんが売れっ子になって生活がよくなってきたら、かつての貧乏生活の反動か、祖母の金の遣い方が派手になりました」。

祝儀の切り方も手当りた次第、千疋屋から高級メロンをあつらえると、使いの者にまで祝儀の大盤振る舞い。

若い頃はおじいちゃんがすっからかんすっからかんに使い、年取ってからは祖母が浪費して最後には何も残らず、だったよし。

まあ、それだけ長年貧窮を見てきた人だから、そのくらいは、とも思いますが、とかく女の子の家族を見る目というのはシビアなもの。

というより、そういう客観的で怜悧な観察力を、幼時から持ち合わせていたことが、池波志乃の女優としての類まれな資質で、これもまた、りっぱな「名人の系統」なのでしょうね。

高田裕史

【RIZAP COOK】

お茶汲み おちゃくみ 演目

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遊郭を舞台にした艶っぽい噺。なんだかまぬけなんですがね。

【あらすじ】

吉原から朝帰りの松っあんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したが、女は松っあんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になった。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨の礫。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

原作は狂言

大蔵流狂言「墨塗」が原典です。

これは、主人が国許へ帰るので、太郎冠者を連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬深い愛人のところへ暇乞いに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋になすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里狂いが過ぎて勘当されかかった若だんなが、罰として薩摩の国の親類方に当分預けられるので、なじみの女郎に暇乞いに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶がらに代えた「涙の茶」。これを初代柳家小せんが明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに活写。現行の東京版「お茶くみ」が完成しました。やれやれ、ご苦労さま。

小せんから志ん生へ

廓噺の名手で女遊びが過ぎて失明した上、足が立たなくなったという初代小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生が直伝で継承。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(=二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎としていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の志ん朝のものがCD化されていましたが。桂歌丸、柳家小三治のものが出ています。

本家の「黒玉つぶし」の方は、戦後、上京して上方落語を演じた桂小文治が得意にしていました。

歌舞伎でも

実は、「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平定文(通称・平中)の逸話中にすでにあるといわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜』の「鮨屋」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎以来の音羽屋の型です。

これは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の初代小せんの速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょうが、明治末から大正初期で、大見世では揚げ代のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
梨の礫 なしのつぶて
軽口五色帋 かるくちごしきがみ
田毎 たごと

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お見立て おみたて 演目

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志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁。

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸が走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽に会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗で」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
「養空食傷信士、天保八年酉年」

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
「天垂童子、安政二年卯年」
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(落語研究家)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』中の「手くだの裏」とのこと。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺ですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の柳家禽語楼(二代目禽語楼小さん)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋はじめ、多くの大看板が手掛けました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼を選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町の全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(1958年、川島雄三監督、日活)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

【語の読みと注】
喜瀬川 きせがわ
花魁 おいらん
杢兵衛 もくべえ
大尽 だいじん
虫酸が走る むしずがはしる
惚れる ほれる
廓 くるわ
敵娼 あいかた

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今戸の狐 いまどのきつね 演目

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この噺の根本は、いすかのかけ違い。その妙が楽しめます。

【あらすじ】

安政のころ。

乾坤坊良斎という自作自演の噺家の弟子で、良輔という、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺の名人とうたわれている初代三笑亭可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないので、食うものも食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用な質なので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋の家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判。

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋の可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽が、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打に負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度の素人バクチを噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだと教える。

乃楽から道を聞き出し、いまどまでやって来た虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

講釈名人の実話

江戸中期の名人・乾坤坊良斎 1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人。本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が菅良助の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目良助のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

良斎の若い頃なら文化年間 1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年 1840年ごろ)といわれ、長命ではあったもののもう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の時代は安政期 1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっているので、戦後は五代目古今亭志ん生しか演じ手がありませんでした。志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生と古今亭志ん朝が継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心にホール落語などではたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺ですが、志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味を何とかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治が得意にした「今戸焼」にも登場しますが、起源は天正年間 1573-91)に遡るという焼物。

土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、終いには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

また、女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住八丁目)の異称です。刑場で有名ですが、岡場所 私娼窟)があり、「藁人形」にも登場しました。刑場から骨を連想し、骨ケ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の寨と妻を掛けた地口です。

今戸中橋

なかばし。今戸は、台東区今戸一、二丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰には文人墨客が集った有名な料亭・有明楼がありましたが、現在墨田公園になっています。

南詰には昭和4年、言問橋が架けられるまで対岸の三囲神社との間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。中橋は中央区八重洲一丁目。「錦明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

【語の読みと注】
乾坤坊良斎 けんこんぼうりょうさい
質 たち
糊口をしのぐ ここうをしのぐ
乃楽 のらく
妻 さい

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麻暖簾 あさのれん 演目

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落語の按摩さんは、なぜか強情な人が多いです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

ジュアル落語の典型

原話は不明です。この噺を得意にしていた晩年の三代目小さんの、「按摩の蚊帳」と題した速記(大正13年)が残されていますが、もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なので、速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触るというものです。これも目で見ていないとその芸の細かさはわからないでしょう。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、戦後この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

志ん生の隠れた逸品

戦後は五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかりません。やり方は三代目小さんのものを踏襲しながら、「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目小さんが時々演じたくらいで、現在はあまりやり手がいません。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりです。こうした内容も、昨今ではいろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状でしょう。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。部屋の大きさによって、五六 五六は縦横の割合。三畳用)や六七 四畳半用)などの種類がありました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八 正確には七八。六畳用)で代用しています。

女性の按摩

按摩は按摩取ともいい、マッサージ、鍼灸師の古称です。この仕事は江戸時代には目の不自由な人がほとんどでした。四世鶴屋南北作の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、同じく黙阿弥作『加賀鳶』の熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。女性の按摩もけっこう多かったようです。女性の按摩には按摩以外にも売春をする者もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。

男性の按摩は「当道座」という全国的な互助組合が組織させていましたが、女性の按摩には「瞽女座」がありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。こちらは全国組織ではなく、駿河、甲斐、信濃、越後あたりに留まり、多くは藩が抱えていました。瞽女の主たる仕事は三味線を弾いて歌謡して流すこと。とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領、継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませました。

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は四十八文が相場。自宅で「診療所」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。ステータスと技術は、「振り」とは段違いでした。「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
瞽女 ごぜ
杢市 もくいち
贔屓 ひいき
当道座 とうどうざ
瞽女座 ごぜざ

【麻のれん 五代目古今亭志ん生】

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藁人形 わらにんぎょう 演目

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陰々滅々な。怪談噺でもなく人情噺でもなさそうな。落とし噺ですか。

別題:丑の刻参り

【あらすじ】

神田竜閑町 の糠屋の娘おくまは、ぐれて男と駆け落ちをし、上方に流れていった。

久しぶりに江戸に舞い戻ってみると、すでに両親は死に、店も人手に渡っていた。

どうにもならないので千住小塚っ原の若松屋という女郎屋に身を売り、今は苦界の身である。

同じく千住の裏長屋に住む、西念という願人坊主。

元は「か」組の鳶の者だったが、けんかざたで人を殺し、出家して、家々の前で鉦を叩いてなにがしかの布施をもらう、物乞い同然の身に落ちぶれている。歳は、もう六十に手が届こうかという老人。

その西念が若松屋に出入りするようになり、おくまの親父に顔がそっくりだということもあって、二人は親しい仲になった。

ある梅雨の一日。

いつものように西念がおくまの部屋を訪れると、おくまは上機嫌で、
「近々上方のだんなに身請けされ、駒形に絵草紙屋を持たせてもらうから、そうなったら西念さん、おまえを引き取り、父親同然に世話をするよ」
と言ってくれる。

数日後にまた行ってみると、この前とうって変わって、やけ酒。

絵草紙屋を買う金が二十両足りないと、いう。

西念、思案をして、
「実は昔出家する時、二十両の金を鳶頭にもらったが、使わずにずっと台所の土間に埋めてあるから、それを用立てよう」
と申し出る。

西念が金を取ってきて渡すと、おくまは大喜び。

「きっとすぐに迎えに行くから」
と約束した。

それから七日ほど夏風邪で寝ていた西念。

久しぶりに若松屋に行っておくまに会い、あのことはどうなったと尋ねると、意外にも女はせせら笑って
「ふん、おまえが金を持っているという噂だから、だまして取ってやったのさ。何べんも泊めてやったんだ。揚げ代代わりと思いな」

西念はだまされたと知って、憤怒の形相すさまじく
「覚えていろ」
と叫んでみてもどうしようもなく、外につまみ出された。

二十日後。

甥の陣吉が西念を尋ねてくる。

大家に聞くと、もう二十日も戸を締め切って、閉じこもったままだという。

この陣吉、やくざ者で、けんかのために入牢していたが、釈放されたのを機にカタギとなり、伯父を引き取るつもり。

陣吉に会って、そのことを聞いた西念は喜んで、祝いにそばを頼み方々、久しぶりに外の風に当たってくると、杖を突いて出ていったが、行きしなに
「鍋の中を覗いてくれるな」
と、言い残す。

そう言われれば見たくなるのが人情で、留守に陣吉がひょいと仲をのぞくと、呪いの藁人形が油でぐつぐつ煮え立っている。

帰ってきた西念、
「見たか。これで俺の念力もおしまいだ。くやしい」

泣き崩れるので、事情を聞いてみると、これこれしかじか。

「やめねえ伯父さん、藁人形なら釘を打たなきゃ」
「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【しりたい】

オチは諺から

オチの部分の原話は安永2年(1773)刊の笑話本、『坐笑産』中の「神木」で、これはある神社で丑の時参りの呪詛をしている者がご神木にかけた藁人形に灸をすえているのを神主が見つけて、「これこれ、なぜ釘を打たぬのか?」と尋ねると、「もうなにを隠しましょう。私が呪う男は、糠屋さ」というものです。 

どちらにせよ、オチが「のれんに腕押し」と同義の「ぬかに釘」を踏まえていて、ぬらりくらりで釘を打っても効果がないほどしたたかな女、ということと掛けてあるわけです。もう一つ、「糠釘」と呼ぶ、屋根のこけら葺きに用いる小さな釘があるので、縁語としても効いているのでしょう。

願人坊主

その姿は、歌舞伎舞踊「浮かれ坊主」や世話狂言「法界坊」に活写されていますが、ボロボロの衣らしきものをまとっただけの、ほとんど裸同然で町々をさまよい、物乞いをしたり、時には代参や代垢離を請け負ったりします。

もっとも、願人坊主といってもピンからキリまでで、「黄金餅」やこの「藁人形」に登場の西念は、それ相応の小金も溜め込み、第一裏店とはいえちゃんとした長屋に住んでいるのですから、身分は人別帳(=戸籍)にも載っている普通民です。

もともと願人坊主の語源は、上野の寛永寺の支配下で、出家を願って僧籍の欠員があるのを待っている者という説があります。西念は身を持ち崩してもまだ身内も住居もあり、いわゆる「はっち坊主」と呼ばれる乞食坊主にまでは落ちぶれていないということでしょう。落語ではほかに「らくだ」にも登場します。

西念の名の由来

西念は、五代目古今亭志ん生の十八番「黄金餅」にも、アンコロ餅といっしょに金をのみ込んで悶死する守銭奴として登場しますが、西念の名は、四谷・鮫ヶ橋谷町(現・新宿区若葉二丁目)の西念寺(現存)から採ったものと思われます。

ここは旧幕時代には江戸有数のスラム街で、願人坊主が特に多く住みついていました。

西念寺は、家康の懐刀で伊賀忍者の棟梁、初代服部半蔵正成が、晩年の文禄年間(1592-96)に剃髪して西念と号した際、自らの菩提のために開基したもので、寺名はその法号にちなみます。

千住小塚っ原

千住宿は四宿(ほかに新宿、板橋、品川)の一で、奥州・日光街道の親宿 (起点)ですが、大きく千住大橋をはさんで上宿と下宿に分けられました。橋の北側の上宿に本陣がありましたが、南詰めの下宿には小塚原、中村町の二つの遊郭があり、千住の仕置場(=処刑場)が近いことから通称「コツ(=骨)」または「コヅカッパラ」と呼ばれました。

全盛期には旅籠14軒を数えたといいます。上宿にももちろん飯盛女(=女郎)がいましたが、どちらかというと南の「コツ」の方は一般の旅人を始め、船頭・農民などの遊ぶごく安っぽい岡場所でした。

落語には「今戸の狐」に「コツの女郎」が登場するほか、五代目志ん生の「お直し」でも、主人公の吉原の若い衆がこっそり遊びに行く場所として説明されています。

小塚原遊郭は荒川区南千住五丁目から六丁目、回向院から素盞鳴神社に向かう辺りで、細い路地(コツ通り)の両側に遊女屋が並んでいました。ただし、五代目志ん生は、下宿のコツではなく、上宿(本宿)で演じました。

か組

町火消は享保5年(1720)に町奉行、大岡越前の献策で発足したものです。西念の前身が「か組」の鳶の者だったという設定ですが、町火消はいろは四十八組に分けられ、か組は神田佐久間町、旅籠町、湯島天神前辺を分担していました。佐久間町は火事が多く、悪魔町と呼ばれたとか。

彦六から歌丸へ

明治期には、初代三遊亭円右が得意にしていました。円朝門下で円右の「叔父分」に当たる三遊一朝の直伝で、八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭今輔が戦後十八番とし、円右に傾倒していた五代目古今亭志ん生も好んで演じました。

別題を「丑の刻参り」というように、元来は陰気で怪奇性が強い噺でしたが、今輔の方はどちらかというと、従来通り凄みを利かせて演じ、正蔵は人情噺の要素を多くして、西念の哀れさや甚吉の誠実な生きざまを描写することで後味のよい佳品に仕上げました。

両師の没後、継承者がなくすたれていましたが、桂歌丸が1980年代に復活し、正蔵のやり方を多く取り入れて演じていました。

神田竜閑町

現在の千代田区内神田二丁目、首都高速神田橋ランプの東側です。かつては南側の神田堀入り口に竜閑橋が架かり、付近には白旗稲荷神社があって、にぎわいました。地名の由来は、井上立閑という者がこのあたりを開発したことにちなみます。

【語の読みと注】
神田龍閑町 かんだりゅうかんちょう
糠屋 ぬかや
千住小塚っ原 せんじゅこづかっぱら
若松屋 わかまつや
鳶 とび
坐笑産 ざしょうみやげ
糠釘 ぬかっくぎ
人別帳 にんべつちょう
素盞鳴神社 すさのおじんじゃ
井上立閑 いのうえりゅうかん

【藁人形 桂歌丸】

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柳田格之進 やなぎだかくのしん 演目

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善人ばかりで演じられる、橋田ドラマのようなはなしです。

 別題:碁盤割 柳田の堪忍袋

【あらすじ】

もと藤堂家の家臣・柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻と娘・花の三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇で、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねると、
「確かにだんなさまのおひざに置きました」
と言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭、「疑わしいのは柳田さまだけ」
と言い出し、
「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」
と作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定するが、久兵衛は、
「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」
と脅す。

お家に帰参が決まっているので、
「そんなことになれば差し障りが出るから、自分の名は出さないでくれ」
と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えて
「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」
と、打ち明けた格之進、
「金は返すから明後日まで待ってくれ」
と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後に久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡し、
「財布はないので勘弁してくれ」
と言う。

帰ろうとすると、格之進
「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛、
「私も男、どんなご処分でも受けます」
と安請け合い。

大晦日、煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっている。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

すぐ格之進の家に行き、金を返して、
「あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい」
と言いつける。

あたふたと久兵衛が、今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、平謝りすると、格之進、
「金は世話になった礼だ」
と改めて返し
「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

仰天した久兵衛が店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。
「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、側の碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝

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【しりたい】

講談から脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。明治25年(1892)、「碁盤割」で「百花園」に掲載された三代目春風亭柳枝の速記が、唯一の古い記録で、このマクラで、柳枝は「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようですが、昭和初期から戦後は、五代目古今亭志ん生の独壇場でした。

「井戸の茶碗」と同系統の、一徹な浪人が登場する人情噺ですが、前述の三代目柳枝の速記のほかは古い口演記録がなく、例によって志ん生が、いつどこで仕入れたのか不明です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはあだいだんえんりませんが、志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝がしていましたが、志ん朝のものは音源もあり、ちくま文庫版に収載された速記によれば、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

三遊亭円楽が好んで演じました。円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、産まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところという俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門一、二丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

【語の読みと注】
娼妓 しょうぎ

【柳田格之進 古今亭志ん朝】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

文七元結 ぶんしちもっとい 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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松山鏡 まつやまかがみ 演目

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おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

【あらすじ】

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男、十代目馬生も演じました。

累伝説のパロディー

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

『北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山まいり」「坊主の遊び(剃刀)」がお女郎さんを丸刈りにする噺です。

インチキなまり

八代目文楽が自伝『あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

語の注】
あおざし 青緡、青繦:銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの。
かんもん 貫文:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫。
ほうきょうのかがみのたとえ 宝篋の鏡の喩
ひがしくびきぐん 東頸城郡
やたのかがみ 八咫鏡
つづら 葛籠
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之著
累伝説 かさねでんせつ

短命 たんめい 演目

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美人と結婚するとろくなことがないという、ひがみ丸出しのお話です。

別題:長命 長生き

【あらすじ】

大店の伊勢屋。

養子が、来る者来る者、たて続けに一年ももたずに死ぬ。

今度のだんなが三人目。

おかみさんは三十三の年増だが、めっぽう器量もよく、どの養子とも夫婦仲よろしく、その上、店は番頭がちゃんと切り盛りしていて、なんの心配もないという、けっこうなご身分だというのに……。

先代から出入りしている八五郎、不思議に思って、隠居のところに聞きにくる。

「夫婦仲がよくて、家にいる時も二人きり。ご飯を食べる時もさし向かい。原因はそれだな」

八五郎、なんのことだかわからない。

「おまえも血のめぐりが悪い。いいかい、店の方は番頭任せ、財産もある。二人でしょっちゅう朝から退屈して、うまいもの食べて、暇があるってのは短命のもとだ」
「短命って、なんです?」
「命の短いのを短命、長ければ長命」
「じゃあなんですか、いい女だと、だんなは短命なんで?」
「まあ、そういうことかな」

早い話、冬なんぞはこたつに入る。そのうちに手がこう触れ合う。白魚を五本並べたような、透き通るようなおかみさんの手。顔を見れば、ふるいつきたくなるいい女。そのうち指先ではすまず、すーっと別の所に指が触って……。

なるほど、これでは短命にもなるというもの。

三度同じことを言わせて、ようやく納得した八五郎、ついでにお悔やみの言い方も
「悲しそうな顔で口許でぼそぼそ言っていればそれでいい」
と、教えてもらった。

家に帰ると、女房が、早くお店に行け、とせっつく。

その前に茶漬けをかき込んで、というところでふと思いつき
「おい、夫婦じゃねえか。給仕をしろやい。おい、そこに放りだしちゃいけねえ。オレに手渡してもらいてえんだ」

ブスっ面で邪険に突き出したかみさんの指と指が触れ
「顔を見るとふるいつきたくなるようないい女……。あああ、オレは長命だ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

短命

この噺のようなケースは、江戸時代には「腎虚」とされました。

つまりはアッチの方が過ぎ、精気を吸い取られてあえなくあの世行きというわけです。男の精水(山田風太郎流だと「精汁」)は「腎水」とも呼ばれ、腎臓が出所と誤って考えられていたことによります。

腎虚と内損は二大道楽病とされ、それぞれ「のむ」「打つ」がもたらす災いです。三道楽のうち、残る一つの「打つ」の結果は言うまでもなく「金欠病」ですが。

五代目古今亭志ん生の速記でも、隠居が「内損か腎虚とわれは願うなり、とも百歳も生きのびし上」と、言っています。

思わずニヤリ

昔はこの程度でも艶笑落語のうちに入り、なかなか高座には掛けにくかったといいます。現在は、ちょっと味のあるお色気噺として、普通に演じられます。

まあ、オトナの味わいというのか、以心伝心のやりとりは、むしろほほえましく、なかなかよろしいものです。

五代目古今亭志ん生、五代目小さんが得意にしていました。志ん生は、最後のかみさんとの会話にくすぐりを多く用いるなど工夫し、オチは「おめえとこうしてると、オレは長生きができる」というものでした。

オチから別題は「長命」ですが、噺の全体のプロットからしてやはり「短命」が妥当でしょう。

志ん生のくすぐりから

●その1

隠「二階へ、あの奥さんが上ってゆかァ」
八「ええ、ええ」
隠「二階には、だァれもいないやァ」
八「ええ」
隠「で、短命なんだよ」
八「二階にだァれもいないで、短命ですか」
隠「そうだよ」
八「二階から、落っこちたんですかァ」

●その2

八「え、二階に上ろうじゃねえか」
女「家にゃァ二階はないよ」
八「じゃあ、屋根へ」

【語の読み】
大店 おおだな:大商店
腎虚 じんきょ:房事過度で起こる衰弱症
精水 せいすい:精液
腎水 じんすい:精液
内損 ないそん:酒による内臓障害、主に肝の病

浜野矩随 はまののりゆき 演目

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彫金職人の一途な噺。元は講釈噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

別題:名工矩随

【あらすじ】

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

浜野矩随

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。

円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家で、若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。ところが、五代目志ん生がこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。

言うまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた行き方でしょう。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。

久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家です。

水垢離

神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

江島屋騒動 えじまやそうどう 演目

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円朝の怪談噺。舞台は江戸、下総、さらに江戸。イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

【あらすじ】

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

円朝の怪談噺

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

戦後、五代目古今亭志ん生がよくやりました。並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔と六代目三遊亭円生。円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵

円朝の最初の妻をお里といいました。その父親は倉岡元庵といいました。御徒町に住むお同朋だったそうです。お同朋、同朋衆はいろいろの職種がありましたが、倉岡は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。権力をかさに着た人々の一人だったようです。円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は後年、朝太郎のために苦しめられていました。

五代目志ん生が復活

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町

しばひかげちょう。港区新橋二-六丁目にあたります。日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

江島屋の「その後」

大正末期ごろまで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座2-8丁目)で質屋をしていたとのこと。歌舞伎座近くのため、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

【語の読み】
深川佐賀町 ふかがわさがちょう
倉岡元庵 くらおかげんあん
下総 しもふさ
大貫村 おおぬきむら
檀那寺 だんなでら
幸福寺 こうふくじ
芝日陰町 しばひかげちょう
神崎川 こうさきがわ
袷 あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田 ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影 かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

鰻の幇間 うなぎのたいこ 演目

【RIZAP COOK】

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鰻題材の噺はいくつか、代表格はこれ。文楽流と志ん生流、どちらもお楽しみ。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

【あらすじ】

時は真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

文楽十八番

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せんが得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、四十年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、いわばフリー。「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。噺家と天狗との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流

五代目古今亭志ん生の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼さをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

【語の読み】
野幇間 のだいこ
一八 いっぱち

【八代目桂文楽 鰻の幇間】
【五代目古今亭志ん生 鰻の幇間】

【RIZAP COOK】

六尺棒 ろくしゃくぼう 演目

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ほとんど二人、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話噺」です。

【あらすじ】

道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊び火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたとどうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

明日っからもう家にいますと謝ろうが、跡取りを勘当しちまって、家はどうなると脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていたとお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって、『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、養子をとってまで、どうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまうと脅迫。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまから様子をうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げ出し、抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。お前のおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場が完全に逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと、『一杯のんだらどうだ?小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」
「なにを言やがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

初代遊三の十八番

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には 初代三遊亭遊三が得意にしていました。 御家人上がりで、もとは彰義隊士という変わり種の落語家でした。

この遊三、ヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、飲む打つ買うの「三道楽煩悩」だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと脱走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。カラスをサギと、有罪をむりやり無罪にしてあっさりクビに。これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

女優、十朱幸代の曽祖父にあたります。つまり、十朱久雄の祖父ということですね。なんとなく納得。

志ん生へ

この遊三師匠、五代目志ん生の父親の美濃部戌行、明治の爆笑王金ちゃんこと初代三遊亭円遊と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達。

その関係でか、せがれの志ん生をかわいがり、志ん生は、のちに十八番にした、「火焔太鼓」「疝気の虫」なども遊三から習っています。この「六尺棒」もその一つです。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、せがれになめられっ放しということがよくわかります。本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のくすぐりなどは十分残しながら親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝を願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、もと警官のおやじの金キセルを勝手に質入れして槍を持って追いかけられ、そのまま家に帰らなかったというほろ苦い思い出が、志ん生のこの噺に生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用のこん棒ですが、志ん生の父親は維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同じ年(大正3年)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたかもしれません。

対話噺

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

今回の「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとり、ダイアローグだけで展開する「対話噺」とでもいえるものです。それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙がこれほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はその典型。「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども同じように登場人物二人ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。

狸賽 たぬさい 演目

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狸は、ユーモラスで憎めず、失敗ばかりしているというのが相場です。

別題:狸

【あらすじ】

あるバクチ打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、笏持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

【しりたい】

さまざまな狸噺

原話は宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。

本来軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があり、「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目志ん生のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、ぶんぶく茶釜伝説のパロディーですが、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。今はあまり演じられません。

珍品、小さんの狸

明治期では四代目橘家円喬の速記があり、五代目古今亭志ん生も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目小さんが演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に鮮明です。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。現在でも五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ

一つ粒ともいい、サイコロ一つを使ってやるきわめてギャンブル性の強いバクチです。胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

上方では

発端が少し東京と異なります。バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけるので、もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りでオチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますがいっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることになります。

オチは少し変わっていて、男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

「この野郎!」

あらすじの最後の「この野郎!」は五代目古今亭志ん生が加えたものです。はっきりしたオチにはなっていませんが、これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。

お化け長屋 おばけながや 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

江戸っ子は見かけとは裏腹。小心でこわがり。そんな噺。

別題:借家怪談 化け物長屋

【あらすじ】

長屋に空き店の札。

長屋が全部埋まってしまうと大家の態度が大きくなり、店賃の値上げまでやられかねない。

そこで店子の古株、古狸の杢兵衛が世話人の源兵衛と相談し、店を借りにくる人間に怪談噺をして脅かし、追い払うことにした。

最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に
「三日目の晩、草木も眠る丑三つ時、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側の障子がツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」
と雑巾で顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げ出した。

おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行ったから、二人はホクホク。

次に現れたのは威勢のいい職人。

なじみの吉原の女郎が年季が明けるので、所帯を持つという。

これがどう脅かしてもさっぱり効果がない。

仏さまの鈴がリーンと言うと
「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」
「ゲタゲタゲタと笑います」
「愛嬌があっていいや」

最後に濡れ雑巾をなすろうとすると
「なにしやがんでえ」
と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまう。

この男、さっそく明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越してくる。

男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。

日頃から男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。

仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。

作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込んだ。

長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら
「モモンガア」
と目をむいてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。

按摩だけが残され
「モモンガア」。

「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間にいっぱい食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰(しっこし)がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

作者は滝亭鯉丈

江戸後期の滑稽本(コミック小説のようなもの)作者で落語家を兼ねて稼ぎまくっていた滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、「猫の皿」参照)が、文政6年(1823)に出版した『和合人』初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。当然、作者当人も高座で演じたことでしょう。

上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代桂小南が東京に移したともいわれますが、すでに明治40年(1907)には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。

なかなか聴けない「完全版」

長い噺で、二転三転する上に、人物の出入りも複雑なので、演出やオチもさまざまに工夫されています。ふつうは上下に分けられ、六代目円生、先代金馬など、大半は、二番目の男が財布を持っていってしまうところで切ります。

戦後、最後まで演じたのは、志ん生と六代目柳橋くらいで、志ん生も、めったにオチまでいかず、男が親方の家に駆け込んで、「幽霊がゲンコでなぐったが、そのゲンコの堅えのなんの」と、ぼやくところで切っていました。

尻腰がねえ

オチの前の「尻腰がねえ」は、東京ことばで「いくじがない」という意味です。昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。

高級長屋

このあらすじは、戦後この噺をもっとも得意とした五代目古今亭志ん生の速記をもとにしました。

登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した、けっこう高級な物件という設定を、志ん生はしています。

当然、それだけ高いはずで、時代は、最初の男が置いていった六十銭で「二人でヤスケ(寿司)でも食おう」と杢兵衛が言いますから、寿司の「並一人前」が二十五銭-三十銭だった大正末期か昭和初期の設定でしょうか。

志ん生は本題に入る前、この長屋では大家がかなり離れたところに住み、目が届かないので古株の杢兵衛に「業務委託」している事情、住人が減ると、家主が店賃値上げを遠慮するなど、大家と店子、店子同士ののリアルな人間関係、力関係を巧みに説明しています。

貸家札

志ん生は「貸家の札」といっていますが、古くは「貸店(かしだな)の札」といい、半紙に墨書して、斜めに張ってあったそうです。

ももんがあ

按摩を脅かす文句で出てきます。ももんがあとは、ももんじいともいい、毛深く口が大きな、ムササビに似た架空の化物です。また、ムササビそのものの異称でもありました。口を左右に引っ張り、「ほら、モモンガアだ」と子供を脅しました。

リレー落語

長い噺では、上下に分け、二人の落語家がそれぞれ分担して演じる「リレー落語」という趣向が、よくレコード用や特別の会でありますが、この噺はその代表格です。

おかめ団子 おかめだんご 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【RIZAP COOK】

麻布名物「おかめ団子」を舞台にした地味でつつましい人情噺。 志ん生のお得意。

【あらすじ】

麻布飯倉片町に、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早仕舞いをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田に緋縮緬の長襦袢、 鴇(とき)色縮緬の扱帯(しごき)を胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、三代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

【しりたい】

実在した団子屋

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅亀は団子で名は高し」と川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人で、釣り好きでしたが、あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。

それを亀団子といいましたが、二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉をまぶした団子で、一皿十六文と記録にありますが、明治の三代目麗々亭柳橋の速記には五十文とあり、これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵(彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、麗々亭柳橋の速記では「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱(あさぎ=薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」といいますから、当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。今でこそハイブローな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。志ん朝の「黄金餅」でも必ず触れていました。

【RIZAP COOK】

水屋の富 みずやのとみ 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

水を売る小商いが富くじに当たったという噺。さて、どうなることやら。

【あらすじ】

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

江戸の「水」事情

江戸時代、本所や深川などの、水質が悪く井戸水が使えない低湿地帯では、天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていました。

水売りとも呼ばれたこも商売、狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもならず、しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあり、水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運んで、それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで得意先の客に売り歩いたものです。

水売り

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていましたが、こちらは今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち

原話は明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」などで、いくつかの小咄をつなぎあわせてできた噺です。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがり、オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げするというもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられましたが、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?

「水屋の富」には、運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学の影響が見られるといわれます。「天災」参照。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきませんし、この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズム的な異様さを感じる人も少なくないと思います。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。それよりそんな悪知恵も、金を活かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。してみると、結局これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生描く江戸の「どん底」

三代目柳家小さんの十八番でしたが、戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かし、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。結局、哀しい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はないようです。

富くじ

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。「宿屋の富」参照。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺などで、当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でしたが、この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。今の宝くじを想像していただければよろしいかと思いますが、明治になって廃止となり、戦後まで日本の社会では絶えていました。この制度、じつは不思議なものです。

唐茄子屋政談 とうなすやせいだん 演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

もう半分 もうはんぶん 演目

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ぞぞっとする怪談噺。陰にこもってものすごいっす。

別題:五勺酒 正直清兵衛

【あらすじ】

千住小塚っ原に、夫婦二人きりの小さな居酒屋があった。

こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。

その夜も、このところやって来るぼてふり(棒手振り)の八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていく。

この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。

薄気味悪いが、お得意のことだから、夫婦とも何かと接客してやっている。

爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、五十両入りの包みが置き忘れてある。

「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。

「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。あたしにまかせておおきよ」

女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、自分に働きがないだけに、文句が言えない。

そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んでくる。

女房が気強く
「金の包みなんてそんなものはなかったよ」
と言っても、爺さんはあきらめない。

「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」
と泣いて頼んでも、女房は聞く耳持たず追い返してしまった。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、すでに遅く、千住大橋からドボーン。

身を投げてしまった。

その時、篠つくような大雨がザザーッ。

「しまった、悪いことをしたッ」
と思っても、後の祭り。

いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。

顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。

それがギョロっとにらんだから、女房は
「ギャーッ」
と叫んで、それっきりになってしまった。

泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つかない。

何人目かに、ようようわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」
と言う。

さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、行灯から油皿をペロペロ。

思わず
「こんちくしょうめッ」
と飛び出すと、赤ん坊がこっちを見て
「もう半分」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生得意の怪談噺

原話は、興津要の説にれば、井原西鶴『本朝二十不孝』巻三(貞享3=1686年刊)の「当社の案内申す程をかし」とのことですが、明確ではありません。

明治期には初代三遊亭円左、昭和期には五代目古今亭志ん生が好んで演じました。

志ん生は、後半の陰惨な印象をやわらげるためか、居酒屋のガラガラ女房がネコババをためらう亭主に「いやにおまいさん正直だね。正直だと一生貧乏すんだよ。この正直野郎」などと毒舌を吐く場面で少しでも笑いを多く取ろうとしていました。

五代目古今亭今輔も「ねぎまの殿さま」と並ぶ数少ない古典のネタとして演じ、三代目三遊亭金馬、十代目金原亭馬生、現柳家小三治のレパートリーでもあります。

今輔はあの独特のしゃがれ声が怪談噺にマッチしてかなり凄みがありました。馬生は、最後に赤ん坊がニタリと笑う顔が消え入りそうな「もう半分」の声とともにブキミでした。

円左、金馬、小三治などは居酒屋を永代橋の橋際、身投げの場所も永代橋に設定しています。

正直清兵衛

明治40年(1907)7月号の「文藝倶楽部」に載った五代目林家正蔵(長命で知られ、俗に「百歳正蔵」)の速記「正直清兵衛」が「もう半分」と酷似しています。あらすじは以下の通り。

本所林町の青物商・清兵衛は借金返済のため娘が身売りしてつくってくれた十五両を居酒屋に置き忘れてしまう。居酒屋の主人夫婦は知らぬ存ぜぬを押し通し、主人の忠右衛門は、泣く泣く帰る清兵衛を追って刺し殺した。その後生まれた赤ん坊は白髪で顔中皺だらけ。この子が成長して忠右衛門夫婦を殺し、あだを討つ。

という凄惨な噺ですが、どちらが先にできたのか、また、この噺が「もう半分」とどういう関係にあるのかは、まったく不明です。

千住小塚っ原

志ん生が居酒屋の場所にしていますが、現在の荒川区南千住で、江戸時代は千住宿の下宿(しもじゅく)と称し、千住大橋の南詰めに位置します。有名なお仕置き場(処刑場)がありました。北詰めの足立区北千住は、上宿と呼ばれました。

棒手振り

ぼてふり。天秤棒で商品をかついで売り歩く小商人、行商人です。店舗を持たない零細な魚屋、八百屋などはすべてこれで、落語ではおなじみの存在ですね。

風呂敷 ふろしき 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

不倫、不貞、間男。意表をつく風呂敷の使い方。ためになります。

別題:褄重ね 不貞妻 風呂敷の間男

【あらすじ】

亭主の熊五郎の留守に、かみさんが間男を引きずり込み、差しつ差されつ、しっぽり濡れている。

男の方はおっかなびっくりだが、かみさんは、この長屋で間男していないかみさんはないから、みな「お相手」がいると、いっこうに気にしない。

「ウチの宿六は、年がら年中稼ぎもしないで遊び放題で、もう愛想が尽きたから、牛を馬に乗り換えて、おまえさんと末永く、共白髪まで添い遂げたいねえ」
と言っては、気を引く。

馬肉や精進揚げをたらふく食って酒をのみ、
「どうせ亭主は横須賀に行っていて帰りは明日だから、今夜はゆっくり」
というところに、路地のどぶ板で足音。

戸をとんとんたたいて
「おい、今、けえった」

かみさん、あわてて間男を戸棚に押し込んだ。

どうせ酔っぱらっているから、すきを見て逃がす算段。

ところが熊五郎、家に入るなり、たいそう御膳が出ているなと言いながら、当の戸棚の前に寝そべると、そのまま高いびき。

これでは戸を開けられないので、かみさんが困っていると、そこへ現れたのが鳶頭。

かみさん、拝み倒して成り行きを白状し、
「ひとつ助けてくださいな」
と頼むので、鳶頭、
「見捨てるわけにもいかねえな」
と、かみさんを外に出し、熊をゆさぶり起こす。

寝ぼけ眼の熊に、かみさんは買い物に行ったとごまかして
「今日友達の家に行ったらな、おかしな話があったんだ。そこの亭主というのはボンヤリしたやつで、稼ぎもろくろく出来ねえから、かみさんが間男をしやがった」
「へえ、とんでもねえアマだ」
「どうせ宿六は帰るめえと思って、情夫を引きずり込んで一杯やってるところへ、亭主が不意に帰ってきたと思え。で、そのカカアがあわ食って、戸棚に男を隠しちまった」
「へえー」
「すると、亭主が酔っぱらって、その戸棚の前に寝ちまった」
「そりゃ、困ったろう」
「そこで、オレがかみさんに頼まれて、そいつを逃がしてやった」

熊が
「どんなふうに逃がしたか聞かしてくれ」
と頼むので、鳶頭
「おめえみたいに寝ころんでたやつを、首に手をこうかけて起こして」
「ふんふん」
「キョロキョロ見ていけねえから、脇の風呂敷ィ取って亭主の顔へこう巻き付けて……どうだ、見えねえだろう。そこでオレも安心して、戸をこういう塩梅にガラリと開けたと思いねえ」

間男を出し、拝んでねえで逃げろと目配せしておいて、
「そいつが影も形もなくなったとたんに、戸を閉めて、それから亭主にかぶせた風呂敷を、こうやって」
とぱっと取ると、熊が膝をポンとたたいて
「なあるほど、こいつはいい工夫だ」

底本:初代三遊亭円遊、五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は諸説紛々

興津要説では落語草創期から口演されてきた古い噺、矢野誠一説では幕末の安政5年(1858)に没した中平泰作なる実在人の頓知ばなしが元と、出自については風呂敷だけに、唐草模様のごとく諸説入り乱れ、マジメに追究するだけ野暮というものです。

ともかく生粋の江戸前艶笑落語ですが、珍しく上方に「輸出」され、東西で演じられます。

一応、安政2年(1855)刊『落噺笑種蒔』中の「みそかを」が原話らしきものとされますが、これは、間男をとっさに四斗樽の中に隠して風呂敷をかけた女房が、亭主に「これはなんだ」と聞かれたら「焚き付け(風呂焚き用のかんな屑)です」と答えようと決めていたのに、いざとなると震えて言葉が出ず、思わず樽の中の間男が「たきつけ、たきつけ」という、それこそかんな屑のようにつまらないもの。

この噺は少なくともそれ以前から演じられていたようなので、これはずっと古い出典のコピーか、逆に落語を笑話化したものの可能性があります。

「風呂敷」史 検閲逃れの悪戦苦闘

江戸時代には粋なお上のお目こぼしで、間男不義密通不倫噺として、大手を振って演じられていたわけですが、幕府の瓦解で薩長の田舎侍どもが天下を取ると、そうはいかなくなります。

明治、大正、戦前までは、「姦通罪」が厳として存在し、映画、演劇、芸能の端にいたるまで、人妻を口説く場面などもってのほか。台本などの事前検閲はもちろん、厳重をきわめました。

落語も例外ではなく、「不貞妻」と題したこの噺の初代三遊亭円遊の速記(明治25年)では、官憲をはばかって間男に「道ならねえことをするのだからあんまりよい心持ちじゃねえな」と言わせるなど、弁解に苦心しているのがありあり。

大正期の初代柳家小せんになると、女房はお女郎さんあがりで、以前のなじみ客に会ったので、あくまで昔話をするということで家に入れる設定になっています。

ここでのあらすじは、初代円遊の古い型を参照しましたが、実際にはこれ以後、現在に至るまで通常の寄席の高座で演じる「風呂敷」からは本来の不倫噺の要素がほとんど消えています。

この噺を好んで演じた五代目古今亭志ん生は、やはり間男噺としては演じず、男はただの知人で、嫉妬深い亭主の誤解を避けるため押し入れに隠すやり方をとり、濡れ場などはカットした上で、鳶頭が「女は三階(=三階)に家なし」「貞女屏風(=両夫)にまみえず」などのダジャレで、実際は不倫をしていなくても、誤解を招くことをしないよう女房に訓戒をたれる配慮をしていました。

現在もこのやり方がほとんどです。もっとも、いくら何でも女房が不倫を打ち明けて鳶頭に助けを請うのは不自然で、鳶頭がそれをいいよいいよと簡単に請合うのもおかしな話なので、噺の流れとしては今のやり方の方がずっと自然でしょう。

風呂敷ことはじめ

古くは平裏(ひらつづみ)と呼ばれ、平安時代末期から使われました。源平争乱期には、当然、討ち取った生首を包むのにも使われました。

江戸時代初期、銭湯が発達して、ぬか袋などを包むのに使われたため、この名が付きました。

なかには、布団が包める3m四方以上の大きなもの(大風呂敷)もあり、これが「ホラ吹き」を意味する「大風呂敷を広げる」という表現の元となったわけですね。

小間物屋政談 こまものやせいだん 演目

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もとは世話講談。志ん生もまねていました。

別題:小間物屋小四郎 万両婿(講談)

【あらすじ】

京橋五郎兵衛町の長屋に住む、背負い(行商)の小間物屋、相生屋小四郎。

今度上方へ行って一もうけしてきたいというので、その間、留守に残る女房のお時のことを家主の源兵衛にくれぐれも頼んで旅立つ。

東海道を一路西に向かって、ちょうど箱根の山中に差しかかった時、小便がしたくなり、雑木林の中に分け入ると、不意に
「もし……お願いでございます」
と、弱々しい男の声。

見回すと、裸同然で松の根方に縛りつけられている者がある。

急いで縄を切って助けると、男は礼を言って、自分は芝露月町の小間物屋、若狭屋の主人で甚兵衛という者だが、病身で箱根に湯治に行く途中、賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、松の木に縛られて身動きもならなかった、と語る。

若狭屋といえば、同業ながら行商の小四郎とは大違いで、江戸で一、二と聞こえた大店。

その主人が裸道中も気の毒だと同情した小四郎、金一両と自分の藍弁慶縞の着物に帯まで与えた。

甚兵衛は江戸へ帰り次第、小四郎の留守宅に借りたものを返しに行くというので、住所名前を紙に書いて渡し、二人は互いに道中の無事を祈って別れる。

さて、甚兵衛はその晩、小田原宿の布袋屋という旅籠に宿をとる。

ところが夜中、病身に山中で冷えたのがこたえてか、にわかに苦しみだし、敢えなく最期をとげてしまった。

宿役人が身元調べに来て、身の回り品を調べた。

着物から江戸京橋五郎兵衛町という住所の書きつけが出てきたので、てっきりこの男は小四郎という小間物屋に違いない、と。

すぐに家主の源兵衛と女房お時のところに、死骸を引き取りに来るよう、知らせが届いた。

泣きじゃくるお時をなだめて、源兵衛が小田原まで死骸の面通しに行ってみると、小四郎が江戸を出る時着ていた藍弁慶の袷を身につけているし、甚兵衛そのものの面差しが小四郎に似ていたこともあり、本人に間違いないと早合点、そのまま骨にして江戸へ持ち帰る。

三十五日も過ぎ、源兵衛はお時に、このまま女一人ではどんな間違いがあるかもしれないから、身を固めた方がいいと、せめて一周忌まではと渋るのをむりやり説き伏せ、小四郎の従兄弟にあたる、やはり同業の三五郎という男と再婚させた。

三五郎にとって、お時はもとより惚れていた女。

甲斐甲斐しくお時のめんどうを見るので、いつしかお時の心もほぐれ、小四郎のことをようよう思い切るようになった。

そんなある夜。

「おい、お時、……お時」

表の戸をせわしなくたたく者がある。

不審に思ってお時が出てみると、なんと死んだはずのもとの亭主、小四郎の姿。

てっきり幽霊と思い、
「ぎゃっ」
と叫んで大家の家に駆け込む。

事情を聞いた源兵衛が、半信半疑でそっとのぞいてみると、まさしく本物。

本人は上方の用事が長引いて、やっと江戸へ帰り着いてみると自分がすでに死人にされているのでびっくり仰天。

小田原の死体が実は若狭屋甚兵衛で、着物は小四郎が貸した物とわかっても、葬式まで済んでしまっているから、もう手遅れ。

お時も、いまさら生き返られてももとには戻れない、とつれない返事。

完全に宙に浮き、半狂乱の小四郎がおそれながらと奉行所へ訴え、名奉行大岡越前守さまのお裁きとあいなる。

結局、奉行のはからいで、小四郎は若狭屋甚兵衛の後家でお時とは比較にならないいい女のおよしと夫婦となり、若狭屋の入り婿として資産三万両をせしめ、めでたくこの世に「復活」。

「このご恩はわたくし、生涯背負いきれません」
「これこれ。その方は今日から若狭屋甚兵衛。もう背負うには及ばん」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

講談からの翻案

講談「万両婿」を人情噺に翻案したものか、またはその逆ともいわれます。

六代目三遊亭円生は、幕末から明治初期の五代目翁家さん馬の速記に、この噺が人情噺として載っていると語っていますが、現行の演出は、円生が、酔いどれ名人といわれた四代目小金井蘆洲の世話講談「万両婿」を新たに仕立て直し、オチもつけたものです。

ほかに、講釈師時代に蘆洲の弟子だった五代目古今亭志ん生も、聞き覚えで演じていました。

背負い小間物屋

白粉、紅、櫛、笄(こうがい)その他、婦人用品を小箪笥の引き出しに分けて入れ、得意先を回ります。

その中には性具の「張り形」もあり、「小間物屋 にょきにょきにょきと 出してみせ」という怪しげな雑俳もあります。もちろん、出したのは商売物だけでは……なかったでしょうが。

箱根の湯治場

江戸から片道三日ないし四日の行程で、箱根七湯といい、それぞれ本陣がありました。

湯治は七日間を単位に、一回り、二周りといい、最低三回りしなければ湯の効き目は出ないものとされました。

料金は、文政(1818-30)初年で三回りして三両といいますから、湯治も下層町人には行けて一生一度、多くは縁がないものでした。

五郎兵衛町

ごろべえちょう。京橋辺。鍜治橋の東。狩野屋敷の南にあり、東西に続く両側町。南は紺屋町、東は畳町、西は外堀端の通りで、鍜治橋御門外にあたります。中央区八重洲二丁目。

草創名主の中野五郎兵衛の住居があったことに由来するとのこと(東京府志料)。子孫は代々名主を世襲していました。

南裏を古着新道(ふるぎじんみち)と俗称したとか(御府内備考)。大正元年(1911)頃にはまだ十二軒の古着商店があったそうです(京橋繁昌記)。小四郎の住所とするには説得力があります。

明治二年(1869)に南隣の狩野探原屋敷を合併しています。

露月町

ろうげつちょう。芝辺。源助町の南、東海道沿いに位置する両側町の町屋です。「ろげつ」とも。港区東新橋二丁目、新橋四-五丁目。

東は陸奥会津藩松平中屋敷、南は柴井町、西は日蔭町通を境に御目付遠山家屋敷と旗本植村家屋敷。遠山家とは名奉行で知られる遠山景元の屋敷です。この町名を出すことで、名奉行や政談を想起させる仕掛けだったのかもしれません。

「ろ月町」と記したのが、宝永(1704-11)年間から「露月町」と改めたとのこと(文政町方書上)。寛永九年(1633)の寛永江戸図には「ろう月丁」と。

もとは日比谷御門内にあり、「老月村」と称していながら、徳川家康の関東入部で江戸城洲地区にともない、芝辺に移して「露月町」と改めたとも(新撰東京名所図会)。

このように、古町ながら、町起立、町名由来、草創人などは不明。

文政町方書上によれば、文政十年(1827)の統計は以下の通りです。

総家数は160あって、その内訳は
家持1
家主23
地借36
店借100
町内の家主、忠七の地内に出世稲荷
とのこと。

文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、鰻蒲焼き屋で尾張町(銀座辺)に出店した大和田兼吉がいるとのこと。

慶応三年(1867)には、中川喜兵衛が町内に江戸で最初の牛鍋屋を始めたそうです(芝区誌)。

一見平凡のようでありながら、少々進取の気性があって出世者も輩出しており、この噺にふさわしい町のように見えます。

【小間物屋政談 六代目三遊亭円生】

親子酒 おやこざけ 演目

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「こんなぐるぐる回る家は欲しくない」。 のんべえ親子の愉快なお話です。

別題:親子の生酔い

【あらすじ】

父子とも大酒のみの家。

先のあるせがれに間違いがあってはと、おやじの方がお互いに禁酒の提案をする。

せがれも承知してしばらくは無事にすんだが、十日目十五日目あたりになると、そろそろ怪しくなってくる。

ちょうど、せがれがお呼ばれに出掛けた留守、おやじは鬼の居ぬ間にと、かみさんに
「昼間用足しに出て、くたくたなんだが、なにかこう、疲れの抜けるものはないかい」
と、ねだる。

「じゃ、唐辛子」
「金魚が目をまわしたんじゃねえ。ひさびさだからその、一杯ぐらい……」

せがれが帰ったら言い訳できないと渋るのを、むりやり拝み倒して銚子一本。

こうなると、
「もう一本だけ」
「もうちょっと」
「もう一本」
「もう半分」
しまいには
「持って来ォいッ」

結局、ベロベロに。

「なにィ? 酔ってる ご冗談でしょう。大丈夫ですったら大丈夫だよッ。ナニ、あいつが帰ってきた? 早いね。膳をかたづけて、お父さんは奥で調べ物してますって言って、玄関で時間をつないどきなさい」

さすがにあわてて、酔いをごまかそうと無理に座りなおし、懸命に鬼のような顔を作って、障子の方をにらみつけている。

一方、せがれ。

こちらもグデングデンでご帰還。

なんでも、ひいきのだんながのめのめと勧めるのを、男と男の約束ですからと断ると怒って、強情張ると出入りを差し止めるというので意地になり、のまないと言ったらのまないと突っぱねた。

「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合とか。

二人で気まずそうににらめっこ。

おやじは無理ににらんで
「なぜ、そうおまえは酒をのみたがる。おばあさん、こいつの顔がさっきから三つに見えます。化け物だね。こんな者に身代は渡せませんよ」
と言うと、せがれが
「あたしだって、こんなぐるぐる回る家は欲しくない」

底本:五代目古今亭志ん生 五代目柳家小さん

【しりたい】

三百年来、のんべえ噺

現存する最古の原話は、宝永4年(1707)刊で露の五郎兵衛の笑話本『露休置土産』中の「親子共に大上戸」で、「親子茶屋」と並んでのんべえ噺としては最古のものです。

原話では、「ぐるぐる回る家……」の後におやじが、「あのうんつく(=ばか者)め、おのれが面(つら)は二つに見ゆるは」と言うところでオチをつけています。

その後、安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の「親子生酔」ほか、いくつかの類話が見られますが、大筋は変わっていません。

重宝なマクラ噺

落語としては上方ダネで、短い噺なので、もともと一席噺として演じられることは少なく、酒の噺のマクラや、小咄の寄せ集めのオムニバスの一編に用いられるなど、重宝な使われ方をしています。

野村無名庵(1888-1945)が著書『落語通談』の中で紹介している柳派(柳家小さん系統)のネタ帳「昔噺百々」(明治42年)には、426席が掲載されていますが、この噺の演題はなく、「親子酒」という独立した題が付いたのも大正以後の、かなり新しいことと思われます。

三遊亭円朝が明治期に「親子の生酔い」として速記を残しているのは、珍しい例でしょう。

戦後は五代目古今亭志ん生、八代目三笑亭可楽、五代目柳家小さんと、酒の噺が得意だった巨匠連が一席物として演じましたが、中でも志ん生は、長男・馬生、次男・志ん朝と、実生活でも「親子酒」を地でいっていました。

「上戸」と「生酔い」

よく言われる「上戸」はむろん、瓶などに水を注ぐ道具からきています。「大戸」「戸大」ともいいました。

「戸」は家の入口そのものを指し、質のよいジョウゴできれいに水を注ぐように、体内への入口である口から、絶え間なく酒が胃の腑に流れ込む意味です。

この噺は別題を「親子の生酔い」ともいいますが、「生酔い」は、「生」が、「生乾き」など、それほど程度が進まない状態を表すので、泥酔の一歩手前の「ほろ酔い」を意味するという解釈があります。

噺の中の親子は、どう見てもベロンベロンとしか思えませんね。