こうてんしんなくただとくあるをこれたすく【皇天親なくただ徳をこれ輔く】故事成語 ことば

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

天はえこひいきすることなく、ひたすら徳をもった人にだけ援助するものだ、という意味。

「皇天」は広い天の意味で、天に敬称をつけた表現です。「皇」には「おおらかな」「広い」のニュアンスがあります。日本の「天皇」につながる語感です。

中国の「天」は、神のような意思をもちながらも茫漠とした存在です。天の仕業は人間には結果しか見えません。愛とか救済とかはないのです。人間の行いをたまに手伝うくらい(愚公山を移す、とか)。

初出は『書経(尚書)』から。孔子が編纂したとされる史書。彼の地最古の書です。

このことばが、いま注目されているのは、「VIVANT」最終回(2023年9月17日放送)でのシークエンスにあります。

実子の乃木憂助(堺雅人)に倒されたノゴーンベキ(=緑の魔術師、役所広司)。

彼を葬るにあたって、バルカの次男ノコル(二宮和也)が電話で「墓はバルカに建てさせてほしいが、かまわないか」と、日本にいる長男の憂助に尋ねます。

憂助はすかさず「皇天親なく、ただ徳をこれ輔く。花を手向けるのはまだ先にするよ」と返しました。

これを聴いたノコルの表情は、少々険しかったように見えました。

じつはこのことば、故事成語の中では上級です。中型漢和辞典の代表格は『漢辞海』(三省堂)、『漢字源』(学研)、『新字源』(KADOKAWA)あたり。そのいずれにも載っていません。読売新聞の過去40年間の記事にも出てきません。記者にはちょっと無理でしょう。われわれの生活ではまず使うことはない。知ることなしに人生を閉じてもどうってことない。志ん生がよく言う「シャツの三つ目のボタン」というやつ。あってもなくてもよい。そんなかんじのことばなんですね。

知っていれば、人生豊かになるかもしれませんが、相手に言ってみたところでも通じない。これでは会話が成り立ちません。

ノコルも意味がわからなかったのでしょう。「花を手向けるのはまだ先にするよ」にいたってはじめて、憂助の真意を解せたかんじです。

ベキらが上原史郎(橋爪功)の自宅で憂助に倒されたにもかかわらず、その後、上原宅が全焼し、そこから三つの遺体が。

「スス同然で発見されました」と公安の野崎(阿部寛)が上原に報告し、上原は「そんなウソがまかり通るのか」とぼやいています。公安、ではなく、別班の仕業ですかね。

現場に居合わせた上原なのに、その件については言及を避けます。ベキが上原を狙ったのは40年前の私怨によるものだったことがわかり、うしろめたさが噴出したからなのでしょう。

ベキを倒した憂助。別班の任務。でも、しっかり親殺し。ベキの「死」をみとったのは憂助だけでした。ベキは死んだのか、生き残ったのか。「VIVANT」のこれまでの流れから見れば、そうとうにあやしい。

ベキは生きている。ならば、配下のピヨ(吉原光夫)も、バトラカ(林泰文)も。

ということは、このドラマは続編がある、ということです。

ベキは十二分に徳を抱いた人です。この成語にふさわしい人物でしょう。殺人集団の親玉でありながらも、その徳は「天」も黙っちゃいられないほどなのです。

われわれは、「VIVANTの最終回は?」でドラマの結末を予想しました。

テントの壊滅(→実は解体)、ベキの死(→実は生きている?)、ノコルの死(→たしかに生きている)、ピヨの死(→実は生きている?)、バトラカの生存(→実は生きている?)、ベキと憂助の親子の絆(→かたく結ばれたかんじ)、憂助の除隊(→実は辞めていない)……というぐあいに。

大筋では当ててますが、細部は予想外も。まあ、60点程度でしたかねえ。

テントの派手な爆死がなかったのは、最終回にいたって、制作費が枯渇したからでしょうか。最終回は動的描写があまりにもなかった。企業と政府の買収劇など、半沢直樹もどきがメインで。バルカくんだりでこんな屋内劇を見せられてもねえ。意外にしょぼかった。

「復讐して」。明美が放った断末魔のささやきは、ベキの心に40年間たゆとうていました。

ただ、復讐すべき相手が、かつて乃木卓(→ベキ)の上司である上原史郎(警視庁公安部外事課課長→内閣官房副長官)だった、という、このオチ。

これも正直、意外にしょぼかったです。

上原が内閣総理大臣に出世していたなら、大いに復讐し甲斐もあって、おもしろかろうものを。官僚出の官房副長官では、ちょっとねえ。

ここまで引っ張ってきて、土壇場のダウンサイジングはなんたること。ぽかーん。

最後に。

丸菱商事財務部の太田梨歩(飯沼愛)の正体。じつは世界で暗躍する天才的な凄腕ハッカー、ブルーウォーカー(blue@walker)でした。

第4回では、太田が送金プログラムを改竄していたのが明るみになりました。

警視庁公安部が踏み込んだ太田の自宅からの押収品の中には、なんと、八代目桂文楽(並河益義、1892.11.3-1971.12.12、黒門町、実は六代目)の『文楽全集』(小学館)や『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)などがあったのです。

そのCD群の一枚に隠されていたハッキング記録を、野崎が発見。あの刹那、この子(飯沼愛)はホントに落語ファンなのかい、と落語ファンの視聴者はいぶかしんだものです。

でも。

最終回では、彼女の作業部屋から「一丁入り」が流れていました。これにはビックリ。

言わずと知れた、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の出囃子です。気が緩みます。

彼女はやはり、モノホンの落語ファン、それも本寸法のしんぶんマニア(志ん生と文楽のファン)とお見受けしました。上原のしょっぱい肩透かしは、むしろ太田のたっぷり好みに救われたかんじでしたね。

ウルトラセブンといい、ハリポタといい、「VIVANT」全編を通じての、この手の小物アソビは雲に御す喜びでした。

続編では何が出てくるのでしょう。待ち遠しいですね。



 

成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

                   伏線の回収が期待される下巻☟

特設 しんしょうさんせんじゅうよんばんしょうぶ【志ん生三選 十四番勝負】高田裕史

特設

古今亭志ん生の本名は美濃部孝蔵といいました。美濃部家は徳川宗家の旗本でした。遠くは甲賀の出身だそうです。そう、甲賀忍者を先祖とする家だったのです。神君伊賀甲賀越えに随従したのだとか。ほら、「大河」でやってたアレですね。忍者と噺家。どこか似ていますね。人をけむに巻く、とかで。そこで、2023年9月21日、志ん生の没後五十年をしのんで、志ん生の人となりを、さまざまな観点から考察していきます。これぞ考察!

高田裕史

第一番 天敵三選

①円生 ②漬物 ③ナメクジ


①志ん生が、人間的にも芸風にもどうにも好きになれなかったのが、十歳下の円生だった。後年、両者が、時に知人に、または対談などで、かなり露骨に互いに辛辣な言葉を浴びせている。これは矢野誠一が指摘している通り、たたき上げでのし上がった志ん生と、御曹司(継父が五代目円生)でエリート意識が強かった円生では、ウマが合うはずもない。なまじ満洲(中国東北部)で食うや食わずの極限状況の共同生活をするうち、些細なことで衝突、なじり合いを繰り返し、それが戦後帰国してお互い大幹部になっても尾を曳いていたということだろう。※『志ん生のいる風景』(矢野誠一、文藝春秋) 

②志ん生の漬物嫌いは、長女美濃部美津子の著書などでも紹介されているが、これはひとえに志ん生が生涯持っていた、自分は士族、それもれっきとした旗本の子だという自負と矜持によるものとみえる。「漬物(コウコ)は農民の食べ物」と麻生芳伸にも漏らし、若い頃から親しかった宇野信夫にも「士族自慢」をたびたびしていたという。ということは、①についてはじつはこんなこともいえよう。志ん生はすさまじいエリート意識で芸人出の円生を見下していたと。志ん生も円生も別なベクトルのエリート意識をひっさげていたわけ。矢野の見方は皮相で、真相はこんなところだろう。

③これは志ん生ファンには説明の要はない。五寸もあるのが「カカアの足に食いつき」「這った後の壁がピカピカに」「猛毒で猫が七転八倒」……よくまあ、食い殺されなかったものだ。

第二番 好物三選

①納豆 ②マグロブツ ③酒茶漬け 番外 氷水


①「お父さんは納豆が大好物でした。昔、納豆売りに失敗したとき、やんなるほど食べたでしょ。普通ならそれで嫌いになりそうなもんなのに、年とってっからも毎日食べてた。ほんとに好きだったんでしょうね。(中略)とにかく、納豆なしじゃいらんないってくらいでしたね」。1961年ごろ録音の、志ん生一家の朝の日常を生撮りしたドキュメンタリー(?)でも、妻のりんが「よく毎日ナット食べるね」と呆れている。※『三人噺 志ん生・馬生・志ん朝』(美濃部美津子、扶桑社) 

②晩年の志ん生が贔屓にした文京区千駄木の居酒屋「酒蔵松風」の女将の証言。「(酒の)サカナはブツ専門でした。普通のおさしみはあがらないの。マグロが大のお好みでしたね」……。これは美津子の著書にもある。よほど好きだったと見え、1946~58年まで、アメリカによる23回もの核実験の影響で放射能汚染が問題となった「ビキニまぐろ」も、志ん生は値下がりしたのを幸い、モノともせずにパクついていたという。※『志ん生伝説』(野村盛秋、文芸社) 

③弟子、古今亭円菊の証言。「てんぷらなんか食べにいっても、とにかく、キューッと一杯、冷やで飲んで、あともう一杯は、天ドンなら、どんぶりのなかへビャーッとかけて、”酒茶漬け”というか(略)酒でごはんを食べますからね。。うまいんだそうです」※『志ん生伝説』。

番外「氷水」 これは四代目三遊亭円楽の証言前座時分、楽屋では志ん生は「出来れば氷水という方。猫舌だったのか熱いお茶は好みませんでした」。※『円楽芸談しゃれ噺』(四代目三遊亭円楽、白夜書房)

第三番 迷言三選

①酒はウンコになる ②二円五十銭よこせ ③女、とっかえろ


①正確には「ウーン、ビールは小便になって出ちまうけれども」に続く。「すごい奥の深いことをおっしゃる方でございますね。並大抵の人じゃ言えないお言葉でございましてね。(笑)ずいぶんいろんなお話を伺ったんですが、これが一番わたくしの心に、強く強く残っている名言なんでございます(笑)」。亡き名優に敬意をこめて、断然これがトップ。ビールは水代わりで、夜中に弟子が「水持ってこい」と言われて本当に水を持っていくと「バカ野郎」と雷が落ちたそうな。※『小沢昭一的新宿末廣亭十夜・第二夜 志ん生師匠ロングインタビュー』(小沢昭一、講談社) 

②「天敵」に関連して、六代目円生が後に対談で暴露。満洲時代のこと。奉天へ向かうため、新京(長春)のホテルを引き払うとき、一台しか来なかった人力車に志ん生一人だけ乗ったのに、後で円生に「五円取られたから二円五十銭よこせ」と割前を要求。「君一人しか乗らなかったじゃないか」「お前のカバンを乗っけてやった」。聴いていた一同は爆笑。こりゃ誰でも怒る。 

③志ん生の若き日の飲む打つ買うのメチャクチャぶり、珍談なら、もうこれは甚語楼時分からパトロンだった坊野寿山の証言にかぎる。すさまじい話が多すぎるが、女に関してはとにかく手が早く、貪欲だったようだ。これもその一つで、ポン友だった当時の馬の助(のち馬生)に女郎屋で十銭出して、こう強要した。友達の相方でもおかまいなしに「強奪」しようという。さすがに「冗談じゃねえ。ワリ(寄席の給金)じゃねえや」と拒絶されたよし。

第四番 パトロン取り巻き三選

①坊野寿山(1900-88) ②小山観翁(1929-2015) ③宇野信夫(1904-91)


①若い頃からのパトロンにして、生涯の遊び仲間だった。当人が都合よく忘れている旧悪はすべて覚えていて、ほとんどこの人によって暴露され、貴重な記録として残されている。志ん生より十歳下にもかかわらず、日本橋の呉服屋の若旦那で金は湯水のごとく使い放題だから、噺家が食らいつくにはこれ以上ない。後年は「川柳家」として大をなす。志ん生も寿山の勧めであまりうまくない川柳をひねっている。

②知る人ぞ知る「昭和の大通人」。もとは電通のプロデューサーで、川尻清譚門下の歌舞伎研究家、特に歌舞伎座の初心者向きイヤホンガイドでも有名だが、もとより落語の方も生き字引。志ん生とこの人の結びつきは『対談落語芸談4・古今亭志ん生』(弘文出版)にくわしい。学生時代から始まり、就職後は電通制作の落語番組で志ん生を起用したことから公私ともに親交を深め、狷介な志ん生を巧みになだめすかして仕事の面倒を誰よりもよく見たことで、「小山亭が言うんじゃしょうがねえ」と晩年の志ん生が唯一「何でも言うことを聞く」といわれたほどの人。 

③劇作家。昭和初期、六代目尾上菊五郎のために、数々の新作歌舞伎脚本を書き下ろしたことで有名。若い頃から落語にも造詣が深く、六代目円生とは特に親しかったが、志ん生とは柳家甚語楼時代、宇野がまだ学生だった昭和初期からの遊び仲間。埼玉・熊谷に本店を持つ染物店の若旦那だった。坊野ほどではないが、やはりパトロン的存在である。『昭和の名人名優』(宇野信夫、講談社)には、あまり知られていない甚語楼時代の貴重なエピソードが多数収まる。

第五番 コレクション道楽三選

①たばこ入れ ②和時計 ③金魚


志ん生の古道具、骨董趣味は家族や門弟などによってよく語られるが、もちろん戦後、極貧とおさらばして功成り名遂げ、趣味に金と余暇を使えるようになった晩年の楽しみだったろう。 

①は文楽と競争してコレクションしたという※『志ん生伝説』。「オレが文楽に教えたんだ」と威張っていたとか。これに関しては坊野寿山の回想も。「私しゃ死んでも離しませんから」と志ん生に高価なタバコ入れをねだられ、しかたなく中身ごとやると、五、六日して柳枝(八代目)が来たら、その煙草入れでうまそうにスパスパ。志ん生から五円で買ったらしい。「あの野郎、モートル(=博打)で負けて、五円なんかで売っちまったんだ」 

②これも『志ん生伝説』による。谷中の時計店氏の回想。弟子(おそらく円菊)におぶわれて来店したというから最晩年だろう。一度買っても気に入らないと、何度でもまた買い直しにきたくらい凝っていたとか。もっぱら白の和時計で、飽きると片っ端から人にやってしまったようだ。 

③古道具や骨董同様、ペットも欲しいとなったら片っ端から衝動買いし、片っ端から飽きてまた別の動物を飼う。長女美津子の証言によると鳥ではインコやカナリア、ウグイス。犬もしょっちゅう取り換える。その中でもっとも長続きしたのが「金魚金魚ミイ金魚」。自宅裏庭の池で泳がせ、金魚釣りをして無邪気に喜んでいたという。

第六番 志ん生の新作落語三選

①一万円貰ったら 「講談倶楽部」1939年5月増刊号所載 
②隣組の猫 「富士」1940年10月号所載 
③強盗屋 「キング」1937年4月増刊号所載


新作を中心にした速記を集成した『昭和戦前傑作落語全集』には志ん生のものは計21題が掲載されているが、矢野誠一によると、志ん馬改名(1934年7月)の頃から自作と称して新作の速記をよく出版社に持ち込んでいたらしい。ここにラインナップした3題はそのうちまあまあおもしろいと勝手に判断して順に並べたもの。いずれもどうやら自作らしい。 

①は志ん生襲名後のもの。 古典の「気養い帳」風に、長屋で大家が景気づけに「仮に1万円(現代だと数百万)貰ったら何に使うかと次々に聞く。例によって頓珍漢な解答の後、最後に「双葉山贔屓だから、国技館で祝儀に双葉にやっちまう」「全部?」「いえ、九千九百九十九円九十三銭」「あとの七銭は?」「帰りの電車賃にとっとく」というセコいもの。 

②の噺の眼目は不細工なかみさんをグチるくすぐりで、それも後世「火焔太鼓」などに使ったものよりずっと過激で、なぜか戦後はほとんど消えた幻の逸品揃い。「唇が薄いというからてめえを貰ったんだ。薄けりゃベラベラしゃべるから、借金の言い訳になると思ってよ」「あの顔色をごらんよ。頬骨が出て眼肉がこけて、まるで患ってる鰻だよ」と亭主が言えば女房も「(貧乏暮らしで)人の肉を盗っちまいやがって、泥棒っ」と応酬するなど、この夫婦げんかだけでも二位の価値は十分。 

③はまだ七代目馬生時代で、実は気の弱い旦那が、細君に自分は柔道三段だから強盗なんぞ怖くないと見栄を張り、それを証するため、これも気の弱いルンペンに、5円で狂言の強盗役を頼むが……というライトコメディー。オチも含め、なかなかよくできている。

第七番 志ん生作の川柳三選

①羊羹の匂いをかいで猫ぶたれ
②のみの子が親のかたきと爪を見る
③捨てるカツ助かる犬が待っている

志ん生が「旦那」の坊野寿山の勧めで、生涯かなりの数の川柳をものしたことは「パトロン」の項でも触れたが、あくまで「川柳」であって文人気取りの俳句でなかったことがこの人らしい。割にファンの間で有名なものには、『びんぼう自慢』の巻末にある「エビスさま鯛を取られて夜逃げをし」「松茸を売る手にとまる赤とんぼ」「豆腐屋の持つ庖丁はこわくない」「雨だれに首を縮める裏長屋」など、ペーソスを効かせたなかなか洒脱なものも多い。ここではあえて、「コレクション道楽」の項でも紹介したように当人が動物好きであったことも考え、動物で三句を選んでみた。矢野誠一が一度直接当人に尋ねたら「別に」とそっけなかったそうだし、せっかく飼っても例のズボラと気まぐれですぐ飽き、ペットもとっかえひっかえではあったようだが、これは江戸っ子特有の照れやシャイな気質の表出と見る。志ん生は得意ネタ、マクラ、小噺でも動物を擬人化したものがうまく、そこには、弱い虐げられた者の怒りや悲しみを動物に託した、敗残の江戸人の生き残りの精一杯の反骨心があるといえる。その意味で、飢えてぶたれた猫も、親をつぶされたノミの子も、捨てられたカツに飛びつく野良公も、すべて若き日の餓えた美濃部孝蔵そのものの分身だったのだろう。

第八番 志ん生の恩人三選

①美濃部りん
②初代柳家三語楼
③三代目小金井芦州
番外 上野鈴本・島村支配人

①はもう、これは誰も文句はないところ。ミセス・ミノベなくして美濃部孝蔵も五代目古今亭志ん生もなく、それどころか噺家を廃業したまま、陋巷に野垂れ死にしていたかもしれない。あらゆる資料のあらゆる関係者でこの老夫人を褒めない者はいない。「賢夫人」「『あわびのし』のような夫婦」「器用で裁縫上手で、自分の内職一本で夫と子供たちを養った」「普通の人間なら、たとえ大正の昔でもとっくに別れている」「子供の頃からの苦労人で、極貧生活なのに、困っている人間を見ると有り金をやってしまう」……。こうなるともう菩薩、聖母マリアそのもの。にもかかわらず背信亭主は、祝言の夜から仲間と居続けでチョーマイ(女郎買い)。ヒモ同然に同棲していた女と、結婚後もしばらく縁が切れず(二人の子が後の某大女優という説あり)、大看板になっても向島の芸者のところに回数券付きで通っていた(円菊談)……。菩薩の顔も三度までで、「さしものお袋がもう別れようと思ったことは二度三度じゃなかった」(長男馬生談)。にもかかわらず、とうとう50年間添い遂げてしまう。こんなかみさん、絶滅種どころか、もはや日本のどこにも存在しないだろう。 

②③はそれぞれ、五人目(最後)とその前の師匠。志ん生自身は、「師匠」と仰ぐのは、終生最初の師匠と頑なに言い続けた名人・四代目橘家円喬だけで、実際の最初の師匠・二代目三遊亭小円朝を含め、他の師匠には尊敬もなにもなかった。ただ、三語楼と芦州は、それぞれ芸の上では大恩人だった。

第九番 志ん生への寸評三選

①志ん生は色彩、文楽は写真(小絲源太郎)
②文楽は古典音楽、志ん生はジャズ(徳川夢声)
③オヤジ自体が落語(古今亭志ん朝)

①は日本芸術院会員で文化勲章受章者の洋画家によるもので、この言葉だけで志ん生のみを「芸術家」と遇しているようなもの。黒門町ファンには大いに反発を招くだろうが、古い世代の画家(1887年生、志ん生より三歳上)にとって、写真はただ「機械的な現実もどき」の大量生産に過ぎないとするなら、いつも固定して動かない文楽の芸をこう例えたとしてもおかしくはない。 

②の夢声は対談相手でもあり、個人的にも親交があったから、古今亭贔屓なのには違いないが、①に比べ、より公正でわかりやすい評。つまりは厳格な格式・様式と自由奔放な変奏・くずしという、ごく一般的な両者の芸への感想を西洋音楽に例えたセンス。ただ、若き日の志ん生がどちらかというとオーソドックスな正統派の芸を志向し、結局それでは売れなくて、やむを得ず三語楼流の破格の芸に走った事実は、同世代の夢声老(1894年生)なら当然知っていたはずだが。 

③は円朝にはなれて志ん生にはなれなかった次男坊の、シンプルかつすべてを包含した嘆息。

第十番 あだ名三選

①人差し指
②貧乏神
③オケラのコーちゃん

①複数の出典があるが、代表的なものでは、甚語楼時分の志ん生のパトロンの一人で、遊び友達だった宇野信夫が自著『昭和の名人名優』ほかで暴露している。バクチ狂いだが始終負けてはスッテンテン。どうにもならなくなると「ここへこれだけ(タネ銭を貸せ)」と人差し指を出す。ということはたぶん一円。もちろん誰も相手にしない。単に「指」とも。 

②四代目柳家小さん。「甚語楼に渋団扇を持たせたら貧乏神」と評した、同業者で同世代ならではの辛辣な命名。つまりは昭和初年の志ん生は、なりがほとんど物乞い同然であるばかりか、芸もまた垢じみてて貧乏臭かったということでもある。 

③三味線漫談、都家かつ江の証言。志ん生三回忌の1975年、『志ん生伝説』の著者野村盛秋に語った追想コメントで、例えば花札でオケラ(麻雀でいうハコテン)になると、例によって「貸してくれ」。で、自称二円五十銭の高級時計をカタに置いていくが、案の定受け出しに来ない。結局、始終時計屋へ直しにいかなければならない、二束三文のオンボロ時計だということがばれ、ねじ込むと「だからさー、キミがあの時計を持ってネ、時計屋へ養子に入りゃいいんだよ」……。これが大看板の志ん生を継いだ後だから、あきれ果てる。というか、志ん生というパターン化に成功したわけ。

第十一番 芸のポリシー三選

①教えた噺はやらない
②汚い噺はやらない
③言葉が、正宗の名刀であれ

①これはどの門弟後輩に対しても共通したポリシーで(真打ちに限るが)、噺は財産なので、きちんと教えたネタは譲ってやったも同じだから、原則としてもう自分では封印する。これは江戸っ子の美学であると同時に、その教えた相手がどんなに汗をかいて熱演しても、到底志ん生には及ぶべくもないから、それによって自信を失わせることを避けた思いやりでもあるだろう。 

②は、どんなに薄汚れた世界を演じても、美学に反する噺だけはやらない、というサムライの末裔のプライドか。例えばどんなに勧められても、弱い立場の女郎をよってたかって酷い目に遭わせる「突き落とし」だけは頑として演じなかった。また、バレばなしはやっても、「汲み立て」「禁酒番屋」ほかの、文字通りのスカトロネタは演じなかった。志ん生にとっての「汚い噺」というのは、その両方の意味を兼ねるのだろう。 

③はえらく大きく出た言い方に聞こえるが、内弟子時代から私生活にも密着し、せがれ同然にかわいがられた円菊の語り残し。長男の馬生に稽古をつけているそばで聞いていたことで、言葉のメリハリには厳しかったということ。細かい表現などは意味が通じればいいが、名刀のようにコトバが切れなくっちゃいけない、間違っても二度同じことを言うな、とも。なるほど、フニャクニャムニャムニャ言っているようでも、よく聞けば志ん生の「セリフ」ははっきりわかる。メリハリのよさ、センテンスをスッパリと短く切るさわやかさは、即妙のギャグを活かすもっとも重要なポイントだったわけだ。

第十二番 同い年生まれ三選

①ドワイト・アイゼンハウアー
②シャルル・ド・ゴール
③教育勅語(本人推薦)
番外 花王石鹸 帝国ホテル、凌雲閣、国会議事堂、電気椅子(米)

明治23年(1890)戊五黄寅生まれの赤ん坊は、統計資料によれば、日本だけで男女合わせて約119万人。世界中を見渡せば、おそらくその二十倍はいただろう。どの年でも同じだが、その中で、少なくとも人名事典に名を残すほどになった者も山ほどいる。もっとも、「偉人」の領域になるとかなり絞られるが、それをいちいちあげていればキリがない。五代目古今亭志ん生こと故美濃部孝蔵氏が偉人かどうかは評価がわかれるだろうが、少なくとも「芸術家」の分野に限れば、まあまあ世界トップ100には入れたい気がする。そこで①と②、現代史をひもとけば必ず出てくる世界的な政治家(将軍→大統領)ながら、美濃部孝蔵との共通点は……見事にまったくない。むしろ、同じ年に大小便垂れ流しながら生まれてから、70年も経過して、よくもまあ、これほど隔絶した人生をたどるものと、その究極の例としてだけあげておいた。いや、本当は③をトップに据えたいくらいで、これはご当人が『びんぼう自慢』で「教育勅語が降下になったのが、その年(明治23年)の10月だから、あたしのほうが教育勅語より少うし兄貴てえことになる」と胸を張っている。なるほど、志ん生流の四次元的発想では、別に「同い年」といったところで人間に限定しなければならないということはないはず。ところがあいにく、日本では明治23年という年、珍しく天下泰平極まる年で、主なできごととしては教育勅語のほかは、せいぜいが2月- 金鵄勲章制定だの、4月-内国勧業博覧会開催だの、その他、第一回衆議院議員総選挙、花王石鹸新発売、凌雲閣、帝国ホテル開業と、あまり歴史に残るイベントはない。そこでどうせ中途半端なら、志ん生も明治の子、尋常小学校の頃は「大臣・大将」が理想像だったろうから、いっそ大統領二人の同年生の方が喜ぶだろうと愚考した次第。番外では人間以外の方々もいくつかご紹介しておいた。

第十三番 冥途の道連れ三選

①七世芳村伊十郎-長唄唄方、9月20日没、享年72
②二十四代木村庄之助-大相撲立行司、9月19日没、享年72
③ J・R・トールキン-英、作家・詩人、9月2日没、享年81

残念ながら、少なくとも人名事典に名を残すほどの著名人では、志ん生師匠と同日(9月21日)に三途の川を渡った人は見当たらない。師匠より一日早く旅立った①の7世伊十郎は不世出の名人。人間国宝の肩書もあってトップに据えた。②とした24代庄之助は、柏鵬時代を裁いた名物立行司。「山伏庄之助」とも。③のトールキンは、文学の最高峰『指輪物語』の著者。サルバドール・アジェンデ(チリ大統領、9.11)、グスタフ六世(スウェーデン国王、9.15)、パブロ・ネルーダ(チリの詩人、9.23)なども。これらの人々と志ん生の接点は一切なし。強いて言えば共通点は「男」というだけだが、そういえば同行者の中には、残念ながら老いて逝った元女優何人かを除けば、妙齢のご婦人は見当たらなかった。肝心の同業者だが、この1973年には、同世代でただ一人、最初の師匠・三遊亭小円朝の長男、三代目小円朝があの世へ行っている。小円朝は二か月早く7月11日没(享年80)。若き日、志ん生が「ねずみの殿様」とあだ名を付けた人で、この人は二歳年下でもそこは「師匠のお坊ちゃん」で、なんとなく煙たい存在のまま終生あまり仲はよくなかったようだから、いっしょに道中したい相手ではなかっただろう。

第十四番 志ん生の弟子三選

①初代金原亭馬の助
②二代目古今亭円菊
③八代目古今亭志ん馬

志ん生が満州から帰国後、弟弟子(三語楼門下)から志ん生門に移った志ん太(のち二代目甚語楼)、同じく三寿(のち志ん好)を別格として、志ん生直門の弟子は長男の四代目むかし家今松(のち十代目金原亭馬生)を筆頭に、最後の志ん五まで12人。そのうち、早く廃業した者、五代目古今亭今輔門下に移籍した志ん治(のち鶯春亭梅橋で真打、早世)を除いて、真打になった者は8人。順に馬生、初代金原亭馬の助、八代目志ん馬、二代目円菊、三代目吉原朝馬、三代目志ん朝、初代志ん駒、初代志ん五。このうち、志ん生の実子だった馬生、志ん朝を別格とし、残り5人から3人をピックアップした。この選択はあくまでランダムで、人気や芸の評価からの順位付けではない。なお、2018年1月18日の志ん駒の死去を最後に、この8人はすべて故人となった。悲劇的にも、享年で師匠を超えたのは円菊ただ一人で、没年齢は順に馬生54、馬の助47、志ん馬59、朝馬47、志ん朝63、円菊84、志ん駒81、志ん五61。80歳を超えた2人を除いて、早世した弟子が多いのは、赤貧に鍛え上げられ、重い脳出血から奇跡的によみがえって83歳まで酒を飲み続け、なお芸への執念を燃やし続けた明治男の強烈なエネルギーに、どいつもこいつもみな生命力を吸い取られたためかとさえ思える。

ごじゅうねんごのしんしょうは【五十年後の志ん生は】高田裕史

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

2023年8月26日、美濃部美津子さんが「お父ちゃん」の元に旅立った。

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890.6.5-1973.9.21)の長女である。マネジャーとして、長年、名人を支えてきた人でもあった。白寿の享年。合掌。

奇しくも、あれから五十年。経めぐってきたこのとき。はやいようなおそいような。

志ん生はまだ向こうでおとなしくやっているかのどうか。知りはしないが。

美津子さんは美濃部ファミリーの語り部だった。志ん生、りん、喜美子(次女、三味線豊太郎、1925-81)、馬生、志ん朝……。志ん生志ん朝マニアには、美津子さんご自身が伝説であり続けた。

伝説といえば、このこと。

この半世紀、落語界の枠を超えて針小棒大に手垢をなすられ続けた感のある志ん生。

その人気は、ネット時代となっても衰えを知らない模様である。

こころみにYouTubeで検索すれば、出るわ出るわ。

病後のくたびれた時期の録音も、数少ない実写などもあわせたら、ゆうに100件を超えている。

中身もふるっている。

五十回忌での「五十年追善興行記者会見」とか、新作落語「志ん生がスティック買う?」とか。

百花繚乱である。

ひところは、当人出演の古いTVインタビューも、ざくざくアップされていた。

三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894.10.25-1964.11.8)との、ともに入れ歯ガチャガチャの対談など、まだまだ掘り出しものがさらされることだろう。

現在、Wikipediaの外国語版では、ドイツ語版にのみ志ん生のページがある。奇妙なことだ。次男志ん朝との因縁なのだろうか。

こんな現象が続くならば、志ん生の私生活や心象風景をも覗き込めるかもしれない。

志ん生という人は、その芸が好きになると、もう風呂場の中まで覗きたがるたちだったという。

岡本和明著『志ん生、語る』は、近親者や弟子の聞き書きで、要領よくまとめられてある。そんな生身の志ん生が浮き上がっている。全編、興味深い。

骨董贔屓に力士贔屓が活写されている。印象深い逸話の数々。

ただ、やれ骨董道楽だの、それ鶴ヶ嶺贔屓だのと、それは過ぎし世の老爺たちがいとなむ、ありふれた日常にすぎないようにも見える。

あたりまえのことだが、志ん生は噺家である。そこらの爺とは違う。

肝心の落語についてはどうか。

あえて、私見を。

志ん生の一見アナーキーなギャグや客の掴み方は、演芸界で生き残らんがための当人の悪戦苦闘と、そこから生み出された冷徹な計算の賜物ではないか、と私は思うのだ。

当人が意図的に拡散した虚実ない交ぜの武勇伝。例の極貧譚なども、すべてはおのれが落語でのし上がるための方便だったのではないだろうか。

具体例を出そう。

五銭の遊び」である。

紙くず屋との「十銭か」「五銭か」と、たたみみ掛けるやり取り。

その末に、「三銭か」「当たった」「あ、三銭」の最後の「あ」と同時に客の笑いがどっと被り、末尾をかき消すと同時に、笑いは百倍にも増幅する。

痛快な場面である。

スタジオ録音などでは、とうてい得られない誘爆力だろう。

これもまた、志ん生流の落語の立体化である。

没後、半世紀にもなって、なおマニアを量産する魔術、催淫効果と言えないか。

なにか、身ぶるいのする凄みさえ感じるというのは、大仰だろうか。

で、蛇足を。

明治23年(1890)生まれの美濃部孝蔵クンには、日本だけでも119万人もの赤ん坊仲間がいた。世界中の「同級生」を挙げれば、アイク、ドゴールがすぐに思い浮かぶ。この二人で十分だろう。

しかし、である。と、私は強調したいのだが。

たかだか米仏大統領二人の朗々たる名演説ごときは、志ん生が成し遂げた酔いどれ聴衆掌握の珍妙きてれつな話術に比べれば、屁でもない。それは断言できる。

冥界の当人は、さぞ、もう、多分、うんざりなことだろう。

娑婆ではまだそんな繰り言めいた妄言を広げているのか、いいかげんに瞑目させてくれ、と怒っているかもしれない。

だが、まだまだ当分、娑婆にたゆとう「古今亭志ん生」は、解脱などできそうにない。マニアの脳裏にしっかり根付いているのだから。

あれこれ含め、古今亭志ん生はつくづく不世出、永久欠番の天才噺家であったことだなぁ。

高田裕史

ごせんのあそび【五銭の遊び】落語演目

  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

【どんな?】

五銭をもって吉原で遊んだ男の珍体験談。
いくらなんでも五銭では。
それがりっぱにあがれたのです。

別題:白銅の女郎買い

【あらすじ】

明治から大正の頃。

吉原は金さえあれば、どうとでもなる場所だ。

花魁の格はピンからキリまである。

下の方にくると「じょーろ(女郎)」というのがいる。

町内の連中が、なか(吉原)のじょーろの評判をしている。

とめ公が
「おれは五銭で遊んできたぜ」
と自慢しはじめた。

そのわけを話す。

その日は、二銭しか持ち合わせがなかった。

外にも行けず、家にいて小説本を読んでいたのだ。

おふくろが
「馬道まで、無尽のお金をもらってきておくれ」
と頼まれた。

無尽で五銭が当たったのだ。

用が済んで、浅草の瓢箪池まで来てみると、しめて七銭持っていることに気づいた。

心が動いた。

足がなんとなく吉原に向いていった。

七銭もってむらむらと。

どうせ、ひややかすだけだ。

そんでもって、女を安心させてやろう、と。

千束から吉原土手に出て、大門をくぐって、江戸町二丁目を突き抜ける。

ひやかしていると、角海老の大きな時計が、夜の12時を打った。

腹が減った。

おでん屋に飛び込んで、コンニャクを食べた。

金がないから、コンニャクの二銭を払って、それ以外は食べずに出てきた。

コンニャクで威勢がついた。

「まるで小石川の閻魔さまだな」

話を聴いている連中にひやかされる。

話はさらに。

夜が明ける頃に帰れば、母親も安心するだろう。もう少し冷やかしていこうかと思った。

投げ節をうたった。

ある店の前を通った。

「ちょいとぉ」
と、後ろから声がかかった。

二十四、五歳の女だった。

「二日続けてお茶を引いちゃったんで、今晩ぐらいお客を取らないと、ごないしょに怒られるからさ、どうしても助けておくれよ」
「だめだ、金がねえんだ」
「いったい、いくらあんのさ」

さすがに「五銭なんだ」とは言えないので、右手を出して「これくらい」と伝えた。

女が少し考えて出たひとことが、「なら、お上がりよ」だった。

浮き立つ心で、トントーンと二階にあがった。

「むりを言ってすまないね。恩に着るよ。寝ようよ」
「その前に、腹が減ったんで、なにか食わしてくれ」

この時分では注文もできない。

女は親切にも、廊下から台屋のお鉢を抱え込んで、食べさせてくれた。

おかずは、といえば、これがすごい。

「ぜいたく言わないで、梅干し食べていると思って食べな」

しょうがない。すっぱい唾で飯をかき込んだ。

さて、寝ようと。

若い衆の松どんが入ってきて、「宵勘だから」と催促された。

「はいよ」と五銭を投げた。

すぐに女が言った。

「足りない分は、私が足すから文句を言わないで承知しな」
「承知もなにも」
「がまんおしいよ」
「五銭ですよッ」

女はジイッと俺の顔を見ていた。

「片手を出したじゃないいか」
「そうだよ。五銭だから」
「まあ、五銭でよく店の敷居をまたいだね。その上、飯まで食べてさ。あんたは面の皮が厚いね」
「俺は薄くはないいよ」

【しりたい】

白銅

明治期からの通貨です。

「安い」の代名詞として知られます。



  成城石井.com  ことば 噺家 演目  千字寄席

しんしょうのなかにはっかーが!【志ん生の中にハッカーが!】古木優

テレビドラマ「VIVANT」(TBS系)が話題です。

8月6日放送の第4話では、丸菱商事のシステムを改竄して誤送金を仕組んだのは太田梨歩(飯沼愛)だったことが判明しました。

彼女宅から警視庁公安部が押収したブツの中には、なんと『昭和の名人 古典落語名演集20 五代目古今亭志ん生』(キングレコード)も。

渋いです。

このディスクが怪しいと睨んだ野崎守(阿部寛)。PCに差し込むと出囃子「一丁入り」が公安部内、場違いに響きわたります。

ディスプレイには「blue@walker」の文字が次々と表れて。太田梨歩は名うての暗躍ハッカーだったのでした。

志ん生とハッカー。

この盤には「首ったけ」「火焔太鼓」「幾代餅」が収録されています。お得です。

ドラマ後半では、乃木憂助(堺雅人)がじつは自衛隊内のかそけき組織「別班」の一員だったことが。

これには視聴者全員ビックリでしたが、それ以上の椿事はやはり志ん生CDにハッカー(の名)が潜んでいたことでしょう。まさに首ったけ。

このドラマの視聴者にどれほどの志ん生ファンが潜伏しているのかは知りませんが、私なんかは、その唐突ぶりに噴飯の吃驚を禁じ得ませんでした。

小道具づかいに長けた「VIVANT」。

スタッフの粋なセンスにほろ酔いますが、劇中、何度か映る神田明神境内の祠にも「ひょっとしてこれも?」なぁんて淡い勘繰りをつのらせます。

赤い饅頭が供えられていたりいなかったりと。謎めいてくるではありませんか。

お次は「饅頭こわい」とかね。饅こわと別班。渋辛なおもむきで迫ってきます。

首ったけ 五代目古今亭志ん生

ろくしゃくぼう【六尺棒】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

ほとんど二人だけ。
おやじと息子の対話噺。

【あらすじ】


道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……。あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊びに火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたと、どうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

あしたっからもう家にいます、と謝ろうが、跡取りを勘当しちまって家はどうなる、と脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら、今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていた、とお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、
「養子をとってまでどうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまいましょう」
と脅迫する。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまからようすをうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げだした。

抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが、腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。おまえのおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場がまるっきり逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと『一杯のんだらどうだ。小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」

それを聞いて、おやじ、
「なにを言いやがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:初代三遊亭遊三

【しりたい】

三遊亭遊三

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には、御家人上がりで元彰義隊士という異色の落語家、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が得意にしていました。

とはいえ、この遊三はヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、のむ打つ買うの三道楽だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと逃走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。

カラスをサギ、有罪を無理やり無罪にして、あっさりクビに。

これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

十朱幸代さん(俳優)の曽祖父にあたる人です。十朱久雄(俳優)の祖父ですね。あたりまえですが。

遊三から志ん生へ

遊三は、美濃部戌行と初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達だったそうです。

美濃部戌行は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の父親、初代円遊は明治の爆笑王です。

その関係からか、遊三は孝蔵少年(志ん生)をかわいがりました。

志ん生は「火焔太鼓」「疝気の虫」「六尺棒」などを遊三から会得しています。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、セガレになめられっ放し、ということがよくわかります。

本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のギャグなどは十分残しながら、親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝てを願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、巡査だったおやじの金キセルを勝手に質入れしてしまい、おやじに槍で追いかけられそれっきり家に帰らなかった、というほろ苦い思い出が、この噺には生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用の棍棒です。

警察署の前には門番みたいに屈強な巡査が六尺棒を持って立っていますね。アレです。

六尺(約180cm)ですから、人の身長ほどの長さでしょうか。

これを使った棒術や杖術といった武芸もあるようですから、武器になる代物です。

志ん生のおやじは、維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏(巡回)のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同年の大正3年(1914)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたのかもしれません。

数少ない「対話劇」

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。

例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話劇」とでもいえるものです。

「対話劇」などと言っても、どだい、落語という話芸は対話が中心となるわけで、とりわけこの噺に対話の特徴が強い、という程度の話です。

それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙が、これほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは、落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はじめ、「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども登場人物二人の噺ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。

「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

かわりめ【代わり目】落語演目

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【どんな?】

おかしさの中に妻への情愛。
悪くありませんねえ。
志ん生が人情噺にがらりと。

別題:元帳 鬼のうどん屋(上方) 銚子の代わり目(上方)

【あらすじ】

ぐでんぐでんに酔っぱらって、夜中に帰ってきた亭主。

途中で車屋をからかい、家の門口で梶棒を上げさせたと思ったら、もう下りた。

出てきた女房はハラハラし、車屋に謝って帰ってもらうと、ご近所迷惑だからいいかげんにしとくれと文句を言う。

亭主、聞かばこそ、てめえは口の聞きようが悪い、寝酒を出さないから声が大きくなると、からむ。

しかたなく酒を注ぐと、今度は何かサカナを出せと、しつこい。

「なにもありません」
「コウコがあったろう」
「いただきました」
「佃煮」
「いただきました」
「納豆」
「いただきました」
「干物」
「いただきました」
「じゃあ……」
「いただきました」

うるさくてしかたがないので、夜明かしのおでん屋で何か見つくろってくるからと、女房は出かける。

その間に、ちょうどうどん屋の屋台が通ったから、酔っぱらいのかっこうの餌食に。

ずうずうしく燗を付けさせた挙げ句、てめえは物騒ヅラだ、夜遅くまで火を担いで歩きやがって、このへんにちょくちょくボヤがあるのはてめえの仕業だろうと、からむので、うどん屋はあきれて帰ってしまう。

その次は、新内流し。

むりやり都々逸を弾かせ、どうせ近所にびた一文借りがあるわけじゃねえと、夜更けにいい気になって
「恋にこがれーてー、鳴く蝉よりもォ……」
と、うなっているところへ女房が帰ってくる。

ようすを聞いてかみさん、顔から火が出た。

外聞が悪いので、うどん屋の荷を見つけると、
「もし、うどん屋さーん」
「……おい、あそこの家で、おかみさんが呼んでるよ」
「へえ、どの家で」
「あの、明かりがついてる家だ」
「あっ、あすこへは行かれません」
「なぜ」
「今ごろ、お銚子の代わり目時分ですから」

底本:初代柳家つばめ、五代目古今亭志ん生ほか

【しりたい】

原話は薬売りが受難

文化9年(1812)、江戸で刊行された笑話本『福三笑』中の小ばなし「枇杷葉湯びわようとう」が原話です。

これは、酔った亭主が枇杷葉湯(=暑気払いに効く甘い煎じ薬)売りに無理やり燗をつけさせるくだりが、現行の落語の後半に一致し、オチも同じです。

落語としては、上方で「銚子の代わり目」または「鬼のうどん屋」としてよく演じられたため、夜泣きうどん屋の登場するくだりは、当然その間に付け加えられたものでしょう。

枇杷葉湯

この噺の原話名は「枇杷葉湯」でした。

これは江戸期の一般的な薬名として知られています。

枇杷の葉、肉桂、甘茶などを細かく切ってまぜあわせたものを煎じた汁で、暑気払いや急性の下痢などに効果があったそうです。

初めは京都烏丸で売り出されたのですが、江戸に下ってからは、宣伝用に道端などで行き交う人々に無料でふるまっていたそうです。

そこで、多情、多淫を意味する隠語となりました。

この言葉が出てくると意味深長となり、要注意です。

志ん生が人情噺に「改作」

東京では大正期に四代目三升家勝次郎(本多吉之助、1868-1923)が、音曲噺として新内、都々逸をまじえて演じていました。

昭和に入って、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が十八番にしました。

志ん生は後半(うどん屋にからむ部分)をカットし、かみさんを買い物にやった亭主が、「なんだかんだっつっても、女房なりゃこそオレの用をしてくれるんだよ。ウン。あれだって女は悪かねえからね……近所の人が『お前さんとこのおかみさんは美人ですよ』って……オレもそうだと思うよ。『出てけ、お多福っ』なんてってるけど、陰じゃあすまない、すいませんってわびてるぐれえだからな本当に……お、まだ行かねえのかおう……立って聞いてやがる。さあ大変だ。元を見られちゃった」と、ほほえましい夫婦の機微を見せて結んでいました。

年輪がいる噺

この志ん生のやり方は、自ら「元帳」と改題したことからもうかがわれるように、優れた工夫でしたが、晩年はオチの「元を見られた」さえも省略していました。

今ではこのやり方がスタンダードになっています。うどん屋の部分がカットされるだけに、笑いは薄くなりますが、一種の人情味のある噺として定着し、独特の味わいを持つにいたっています。

これも志ん生なればこそで、凡百の演者ではクサくなったり、わざとらしくなったりするのは、もう聴いちゃいられません。

こうしたやり方は、若い噺家ではとうてい無理でしょう。

芸はもちろん、実生活の年輪を経てコケが生えたような年齢になってようやく、さまになってくるものなのではないでしょうか。

志ん生、映画で一席

志ん生ファンにはよく知られていますが、映画『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)で、引退した噺家・桜亭新笑に扮した五代目志ん生(当時59歳)が、ラストで甥夫婦(灰田勝彦・高峰秀子)の新婚の前途を祝うため、「かわり目」を演じてみせます。

ちょうどかみさんを追い出すくだりで、汽車の時間があるから早く立て、と目と仕種で二人を促し、客だけになったあと、いい間で亭主の独白に入るあたりは、後年の志ん生のイメージとはまた違った、たたき上げた正統派の芸を感じさせました。

志ん生は、その後も、4作品に特別出演しています。都合5作品ということになります。

●志ん生出演の映画作品一覧

『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)
『ひばりの子守唄』(大映、昭和26)
『息子の花嫁』(東宝、昭和27)
『クイズ狂時代』(東映、昭和27)
『大日本スリ集団』(東宝、昭和44)

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おかめだんご【おかめ団子】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

母孝行の息子。
名物「おかめ団子」に盗みに。
たまさか、そこの娘を助けて……。
飯倉片町が舞台、地味でつつましい人情噺。
志ん生のお得意。

あらすじ

麻布飯倉片町いいくらかたまちに、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早じまいをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。

しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田ぶんきんたかしまだ緋縮緬ひぢりめん長襦袢ながじゅばん、 鴇色縮緬ときいろちりめん扱帯しごきを胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬け物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、四代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

しりたい

実在した団子店

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅 亀は団子で 名は高し」と、川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人。釣り好きでした。

あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。それを亀団子といいました。二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。

これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉きなこをまぶした団子で、一皿十六文と記録にあります。四代目麗々亭柳橋(斎藤亀吉、1860-1900)の速記には「五十文」とあります。これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、→彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、というと。

四代目麗々亭柳橋の速記では、こうです。

「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱あさぎ(薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」

当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。

大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。

今でこそハイソな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。

山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。

志ん朝の「黄金餅」でも、言い立てには必ず触れていました。

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ねこのさいなん【猫の災難】落語演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

猫のお余りで一杯。
せこな噺です。

別題:犬の災難(志ん生)

【あらすじ】

文なしの熊五郎。

朝湯から帰って一杯やりたいと思っても、先立つものがない。

「のみてえ、のみてえ」
とうなっているところに、隣のかみさんが声をかけた。

見ると、大きな鯛の頭と尻尾しっぽを抱えている。

猫の病気見舞いにもらって、身を食べさせた残りだという。

捨てに行くというので、頭は眼肉がうまいんだからあっしにください、ともらい受ける。

これでさかなはできたが、肝心なのは酒。

「猫がもう一度見舞いに酒をもらってくれねえか」
とぼやいていると、ちょうど訪ねてきたのが兄貴分。

「おめえと一杯やりたいと誘いにきた」
という。

サシでゆっくりのむことにしたが、
「なにか肴が……」
と見回し、鯛の頭を発見した兄貴分、台所のすり鉢をかぶせてあるので、真ん中があると勘違い。

「こんないいのがあるのなら、おれが酒を買ってくるから」
と大喜び。

近くの酒屋は二軒とも借りがあるので、二町先まで行って、五合買ってきてもらうことにした。

さあ困ったのは熊。

いまさら猫のお余りとは言いにくい。

しかたがないので、兄貴分が酒を抱えて帰ると、
「おろした身を隣の猫がくわえていった」
とごまかす。

「それにしても、まだ片身残ってんだろ」
「それなんだ。ずうずうしいもんで、片身口へくわえるだろ、爪でひょいと引っかけると小脇ィ抱えて」
「なに?」
「いや、肩へぴょいと」

おかしな話だ。

「日頃、隣には世話になってるんで、がまんしてくれ」
と言われ、兄貴分、不承不承代わりの鯛を探しに行った。

熊、ほっと安心して、酒を見るともうたまらない。

冷のまま湯飲み茶碗で、さっそく一杯。

「どうせあいつは一合上戸いちごうじょうこ(すぐ酔っぱらう酒好き)で、たいしてのまないから」
とたかをくくって、
「いい酒だ、うめえうめえ」
と一杯、また一杯。

「これは野郎に取っといてやるか」
と、燗徳利に移そうとしたとたんにこぼしてしまう。

「もったいない」
と畳をチュウチュウ。

気がつくと、もう燗徳利かんどっくり一本分しか残っていない。

やっぱり隣の猫にかぶせるしかないと
「猫がまた来たから、追いかけたら座敷の中を逃げ回って、逃げるときに一升瓶を後足で引っかけて、全部こぼしちまった」
と言い訳することに決めた。

「そう決まれば、これっぱかり残しとくことはねえ」
と、熊、ひどいもので残りの一合もグイーッ。

とうとう残らずのんでしまった。

いい心持ちで小唄をうなっているうち、
「こりゃいけねえ。猫を追っかけてる格好をしなきゃ」
と、向こう鉢巻に出刃包丁、
「あの猫の野郎、とっつかめえてたたっ殺して」
と一人でがなってると、待ちくたびれてそのまま白川夜船しらかわよふね

一方、鯛をようやく見つけて帰った兄弟分。

酒が一滴もないのを知って仰天。

猫のしわざだと言っても今度はダメ。

「この野郎、酔っぱらってやがんな。てめえがのんじゃったんだろ」
「こぼれたのを吸っただけだよ」
「よーし、おれが隣ィどなり込んで、猫に食うもの食わせねえからこうなるんだって文句を言ってやる」

そこへ隣のかみさんが
「ちょいと熊さん、いいかげんにしとくれ。さっきから聞いてりゃ、隣の猫隣の猫って。家の猫は病気なんだよ。お見舞いの残りの鯛の頭を、おまえさんにやったんじゃないか」

これで全部バレた。

「この野郎、どうもようすがおかしいと思った。やい、おれを隣に行かせて、どうしようってえんだ」
「だから、猫によく詫びをしてくんねえ」

【しりたい】

小さん十八番、呑ん兵衛噺の白眉

これも、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京にもたらした数多い上方落語の一つです。

当然、三代目、四代目(大野菊松、1888-1947)と代々の小さんに継がれた「お家芸」ですが、特に五代目(小林盛夫、1915-2002)は、「試し酒」「禁酒番屋」「一人酒盛」などで見物をうならせた、リアルな仕種と酒のみの心理描写を、この噺で集大成したかのようにお見事な芸を見せてくれました。

中でも、畳にこぼした酒をチューチュー吸う場面、相棒が帰ってきてからのべろべろの酔態は、愛すべきノンベエの業の深さを描き尽くして余すところがありませんでした。

同じ酔っ払いを演じても、酒乱になってしまう六代目笑福亭松鶴(竹内日出男、1918-86)と違い、小さんの「酒」はリアルであっても、後口にいやな匂いが残りませんでした。これも芸風と人柄でしょう。

上方のやり方

上方では、腐った鯛のアラを酒屋にただでもらう設定で、最後のサゲは、猫が入ってきたので、阿呆がここぞとばかり、「見てみ。かわいらし顔して。おじぎしてはる」と言うと、猫が神棚に向かって前足を合わせ、「どうぞ、悪事災にゃん(=難)をまぬかれますように」と地口で落とします。

初代桂春団治(皮田藤吉、1878-1934)が得意にし、戦後は二代目春団治(河合浅次郎、1894-1953)、実生活でも酒豪でならした六代目笑福亭松鶴がよく高座にかけました。

志ん生の「犬の災難」

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)は、「犬の災難」の演題で猫を犬に替え、鯛ではなく、隣に届いた鶏を預かったことにしました。

相棒が酒を買いに行っている間に、隣のかみさんが戻ってきて鶏を持っていってしまうという、合理的な段取りです。

最後は酒を「吸った」ことを白状するだけで、オチらしいオチは作っていません。

三代目金馬の失敗談

釣りマニアだった三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)が、防波堤で通し(=徹夜)の夜釣りをしていたときのこと。

大きな黒鯛が掛かり、喜んで魚籠に入れておくといつの間にか消えています。そのうち、金馬と友達の弁当まで消失。無人の防波堤で泥棒などいないのにとぞっとしましたが、実はそれは、そのあたりに捨てられた野良猫のしわざ。堤の石垣に住み着いて、釣りの獲物を失敬しては食いつないでいたわけです。

「それからこっち、魚が釣れないと、また猫にやられたよって帰ってくる」

           (三代目三遊亭金馬『随談 猫の災難』)

こぼれ話

五代目小さんは、相棒が酒を買いに行く店を「酢屋満」としていますが、これは、目白の小さん宅の近所にあった実在の酒屋、「酢屋満商店」(豊島区目白二丁目)です。酒をのみほした後、小唄をうなるのは五代目の工夫でした。