お見立て おみたて 演目

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志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁。

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸が走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽に会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗で」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
「養空食傷信士、天保八年酉年」

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
「天垂童子、安政二年卯年」
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(落語研究家)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』中の「手くだの裏」とのこと。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺ですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の柳家禽語楼(二代目禽語楼小さん)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋はじめ、多くの大看板が手掛けました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼を選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町の全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(1958年、川島雄三監督、日活)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

【語の読みと注】
喜瀬川 きせがわ
花魁 おいらん
杢兵衛 もくべえ
大尽 だいじん
虫酸が走る むしずがはしる
惚れる ほれる
廓 くるわ
敵娼 あいかた

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今戸の狐 いまどのきつね 演目

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この噺の根本は、いすかのかけ違い。その妙が楽しめます。

【あらすじ】

安政のころ。

乾坤坊良斎という自作自演の噺家の弟子で、良輔という、こちらは作者専門の男。

どう考えても作者では食っていけないので、ひとつ、噺家に転向しようと、当時大看板で三題噺の名人とうたわれている初代三笑亭可楽に無理に頼み込み、弟子にしてもらった。

ところが、期待とは大違い。

修行は厳しいし、客の来ない場末の寄席にしか出してもらえないので、食うものも食わず、これでは作者の方がましだったという体たらく。

内職をしたいが、師匠がやかましくて、見つかればたちまちクビは必定。

しかし、もうこのままでは餓死しかねないありさまだから、背に腹は代えられなくなった。

たまたま住んでいたのが今戸で、ここは今戸焼きという、素焼きの土器や人形の本場。

そこで良輔、もともと器用な質なので、今戸焼きの、狐の泥人形の彩色を、こっそりアルバイトで始め、何とか糊口をしのいでいた。

良輔の家の筋向かいに、背負い小間物屋の家がある。

そこのかみさんは千住(通称、骨=コツ)の女郎上がりだが、なかなかの働き者で、これもなにか手内職でもして家計の足しにしたいと考えていた矢先、偶然、良輔が狐に色づけしているところを見て、外にしゃべられたくなければあたしにも教えてくれ、と強談判。

良輔も承知するほかない。

一生懸命やるうちにかみさんの腕も上がり、けっこう仕事が来るようになった。

こちらは中橋の可楽の家。

師匠の供をして夜遅く帰宅した前座の乃楽が、夜中に寄席でクジを売ってもらった金を、楽しみに勘定していると、軒下に雨宿りに飛び込んできたのが、グズ虎という遊び人。

博打に負けてすってんてんにされ、やけになっているところに前座の金を数える音がジャラジャラと聞こえてきたので、これはてっきりご法度の素人バクチを噺家が開帳していると思い込み、「これは金になる」とほくそ笑む。

翌朝。

さっそく、可楽のところに押しかけ、
「お宅では夜遅く狐チョボイチ(博打の一種)をなさっているようだが、しゃべられたくなかったら金を少々お借り申したい」とゆする。

これを聞いていた乃楽、虎があまりキツネキツネというので勘違いし、家ではそんなものはない、狐ができているのは今戸の良輔という兄弟子のところだと教える。

乃楽から道を聞き出し、いまどまでやって来た虎、さっそく、良輔に談じ込むが、どうも話がかみ合わない。

「どうでえ。オレにいくらかこしらえてもらいてえんだが」
「まとまっていないと、どうも」
「けっこうだねえ。どこでできてんだ?」
「戸棚ん中です」

ガラリと開けると、中に泥の狐がズラリ。

「なんだ、こりゃあ?」
「狐でござんす」
「まぬけめっ、オレが探してんのは、骨の寨だっ」
「コツ(千住)の妻なら、お向こうのおかみさんです」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

講釈名人の実話

江戸中期の名人・乾坤坊良斎 1769-1860)が、自らの若いころの失敗話を弟子に聞かせたものをもとに創作したとされます。

良斎は神田松枝町で貸本屋を営んでいましたが、初代三笑亭可楽門下の噺家になり、のち講釈師に転じた人。本業の落語より創作に優れ、「白子屋政談」ほかの世話講談をものしました。

この噺は、良斎が菅良助の名で噺家だったころの体験談を弟子の二代目良助のこととして創作(あるいは述懐)しているため、話がややこしくなっています。

良斎の若い頃なら文化年間 1804-18)ですが、この人が噺家をあきらめ、剃髪して講釈師に転じたのは天保末年 1840年ごろ)といわれ、長命ではあったもののもう晩年に近いので、やはり弟子のことにしないと無理が生じるため、噺の時代は安政期 1854-60)に設定してあります。

志ん生専売の「楽屋ネタ」

明治期の初代三遊亭円遊の速記が残りますが、古風な噺で、オチの「コツ」や今戸焼など、現在ではまったくわからなくなっているので、戦後は五代目古今亭志ん生しか演じ手がありませんでした。志ん生の二人の子息、十代目金原亭馬生と古今亭志ん朝が継承して手掛けていたため、現在でもこの一門を中心にホール落語などではたまに聴かれます。

落語家自身が主人公になる話はたいへんに珍しく、その意味で、噺のマクラによくある「楽屋ネタ」をふくらませたものともいえるでしょう。

幕末の江戸の場末の風俗や落語家の暮らしぶりの貴重なルポになっているのが取り得の噺ですが、志ん生も、一銭のうどんしかすすれなかったり「飯が好きじゃあ噺家になれねえよ」と脅されたりした昔の前座の貧しさをマクラでおもしろおかしく語り、客の興味を何とかつなげようと苦心していました。

今戸焼

九代目桂文治が得意にした「今戸焼」にも登場しますが、起源は天正年間 1573-91)に遡るという焼物。

土器人形が主で、火鉢や灯心皿も作ります。

狐チョボイチ

単に「狐」、また「狐チョボ」ともいいます。

寨を三つ使い、一個が金を張った目と一致すれば掛け金が戻り、二個一致すれば倍、三個全て一致すれば四倍となるという、ギャンブル性の強いバクチです。

本来、「チョボイチ」がサイコロ一つ、「丁半」が二つ、「狐」が三つと決まっているので、厳密には「狐チョボイチ」は誤りでしょう。

このバクチ、イカサマや張った目のすり替えが行われやすく、終いには狐に化かされたように、「誰が自分の銭ィ持ってっちゃったんだか、わからなくなっちまいます」(志ん生)ので、この名が付いたとか。

また、女郎のように人をたぶらかす習性の者を「狐」と呼んだので、噺の内容から、当然この言葉はそれと掛けてあるわけです。

寄席くじ

江戸時代の寄席では、中入りの時、前座がアルバイトで十五、六文のくじを売りにきたもので、前座の貴重な収入源でした。

これも志ん生によると、景品はきんか糖でこしらえた「鯛」や「布袋さま」と決まっていたようで、当たっても持っていく客は少なく、のべつ同じものが出ていたため、しまいには鯛のうろこが溶けてなくなってしまったとか。

コツ

千住小塚原(荒川区南千住八丁目)の異称です。刑場で有名ですが、岡場所 私娼窟)があり、「藁人形」にも登場しました。刑場から骨を連想し、骨ケ原(コツガハラ)から小塚原(コヅカッパラ)となったもので、オチに通じる「コツの妻」は、骨製の安物の寨と妻を掛けた地口です。

今戸中橋

なかばし。今戸は、台東区今戸一、二丁目で、江戸郊外有数の景勝地でした。今は見る影もありません。現在は埋め立てられた今戸橋は、文禄年間(1592-96)以前に架橋された古い橋で、その東詰には文人墨客が集った有名な料亭・有明楼がありましたが、現在墨田公園になっています。

南詰には昭和4年、言問橋が架けられるまで対岸の三囲神社との間を渡船でつなぐ「竹屋の渡し」がありました。中橋は中央区八重洲一丁目。「錦明竹」「代脈」「中沢道二」ほかにも登場します。

【語の読みと注】
乾坤坊良斎 けんこんぼうりょうさい
質 たち
糊口をしのぐ ここうをしのぐ
乃楽 のらく
妻 さい

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麻暖簾 あさのれん 演目

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落語の按摩さんは、なぜか強情な人が多いです。

別題:按摩の蚊帳

【あらすじ】

按摩の杢市は、強情で自負心が強く、目の見える人なんかに負けないと、いつも胸を張っている。

今日も贔屓のだんなの肩を揉んで、車に突き当たるのは決まってまぬけな目の見える人だという話をしているうちに夜も遅くなった。

だんなが泊まっていけと言って、離れ座敷に床を取らせ、夏のことなので、蚊帳も丈夫な本麻のを用意してくれた。

女中が部屋まで連れていくというのを、勝手知っているから大丈夫だと断り、一人でたどり着いたはいいが、入り口に麻ののれんが掛かっているのを蚊帳と間違え、くぐったところでぺったり座ってしまう。

まだ外なので、布団はない。

いやに狭い部屋だと、ぶつくさ言っているうちに、蚊の大群がいいカモとばかり、大挙して来襲。

杢市、一晩中寝られずに応戦しているうち、力尽きて夜明けにはコブだらけ。

まるで、金平糖のようにされてしまった。

翌朝、だんながどうしたのと聞くので、事情を説明すると、だんなは、蚊帳をつけるのを忘れたのだと思って、杢市に謝まって女中をしかるが、杢市が蚊帳とのれんの間にいたことを聞いて苦笑い。

「いったい、おまえは強情だからいけない」
と注意して、
「今度は意地を張らずに案内させるように」
と、さとす。

しばらくたって、また同じように遅くなり、泊めてもらう段になった。

また懲りずに杢市の意地っ張りが顔を出した。

だんなが止めるのも聞かず、またも一人で寝所へ。

今度は女中が気を利かせて麻のれんを外しておいたのを知らず、杢市は蚊帳を手で探り出すと
「これは麻のれん。してみると、次が蚊帳だな」

二度まくったから、また外へ出た。

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

ジュアル落語の典型

原話は不明です。この噺を得意にしていた晩年の三代目小さんの、「按摩の蚊帳」と題した速記(大正13年)が残されていますが、もともとオチを含め、「こんにゃく問答」などと同じく、実際に寄席で「目で見る」噺なので、速記も少なく、音源もあまりありません。

昭和に入って、ラジオ放送やレコードが盛んになっても、このため、これらのメディアに取り上げられることも少なかったようです。

小さんにはオチのところに工夫があります。杢市が最初、のれんにそっと触れ、次に両手を広げて大きな動作で触るというものです。これも目で見ていないとその芸の細かさはわからないでしょう。

オチも普通に寄席で演じるときはしぐさオチで、蚊帳の外に出たところを動作で表現しますが、レコードやラジオではそうはいかず、戦後この噺を一手専売にした五代目古今亭志ん生も、速記では「また向こうへ出ちゃった」と地の説明で終わっています。

志ん生の隠れた逸品

戦後は五代目志ん生の独壇場でした。志ん生がいつ、誰からこの噺を教わったか、よくわかりません。やり方は三代目小さんのものを踏襲しながら、「目をあいてりゃァなんか見りゃァほしくなってくるでしょ?……それェ見ただけで、エエほしいなッと思うことが、自分の思ったことが通らない。じゃァ情けないじゃァありませんか。それよか目が見 め)えなきゃなんにも見ないですからねェ、ええ。これいちばんいいですよォ。ああァ目あきは気の毒だ……」というようなセリフに、杢市の片意地、負けず嫌いと、その裏にある身障者の屈折した心理が、より色濃く出ているといえるでしょう。

志ん生没後は、五代目小さんが時々演じたくらいで、現在はあまりやり手がいません。

三代目小さん以来、前半に杢市がだんなに語る、提灯を持っていて暗闇で人に突き当たられ、「おまえさんみたいな、そそっかしい目あきに突き当たられんのが嫌だから、こうやって提灯を持ってるんだァ」と毒づいたはいいが、実は提灯の灯はもともと消えていた、という体験談を入れるのがお決まりです。こうした内容も、昨今ではいろいろな意味で誤解を生じやすく、やりにくくなっているのが現状でしょう。

蚊帳にもいろいろ

蚊帳は、古くは竿を通し、天井から吊り下げました。部屋の大きさによって、五六 五六は縦横の割合。三畳用)や六七 四畳半用)などの種類がありました。

この噺で杢市が寝かされるのは八畳間で、本式には八十のサイズになりますが、三代目小さんの速記では六八 正確には七八。六畳用)で代用しています。

女性の按摩

按摩は按摩取ともいい、マッサージ、鍼灸師の古称です。この仕事は江戸時代には目の不自由な人がほとんどでした。四世鶴屋南北作の歌舞伎『東海道四谷怪談』の宅悦、同じく黙阿弥作『加賀鳶』の熊鷹道玄とおさすりお兼のように、健常者もいました。女性の按摩もけっこう多かったようです。女性の按摩には按摩以外にも売春をする者もいたようです。「枕つきのもみ療治、二朱より安い按摩はしないよ」と居直る、尾上多賀之丞のお兼のセリフは有名です。

男性の按摩は「当道座」という全国的な互助組合が組織させていましたが、女性の按摩には「瞽女座」がありました。「盲御前」がなまって「瞽女」となったということです。こちらは全国組織ではなく、駿河、甲斐、信濃、越後あたりに留まり、多くは藩が抱えていました。瞽女の主たる仕事は三味線を弾いて歌謡して流すこと。とりわけ、長岡藩では藩主牧野氏と縁故があった山本ごいが瞽女頭となり、瞽女屋敷を拝領、継承は徒弟制でした。代々の瞽女頭は「ごい」を名乗りました。何人かで連れ合って各地を巡遊し、昼は門付け、夜は瞽女宿で寄席を催して地域の人々をなごませました。

流しのもみ療治を「振りの按摩」といいましたが、振りでも固定客がつけば、なかなか羽振りはよくなります。「按摩上下十六文」と、芝居の中でよく朗誦して流していく按摩が登場しますが、実際は四十八文が相場。自宅で「診療所」を営む場合は、鍼灸付きで幕末には百文。ステータスと技術は、「振り」とは段違いでした。「あんまはりの療治」というその看板の文句は「あやまった(しまった)」という意味の地口として、「あやまはりの……」と、よく使われました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
瞽女 ごぜ
杢市 もくいち
贔屓 ひいき
当道座 とうどうざ
瞽女座 ごぜざ

【麻のれん 五代目古今亭志ん生】

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藁人形 わらにんぎょう 演目

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陰々滅々な。怪談噺でもなく人情噺でもなさそうな。落とし噺ですか。

別題:丑の刻参り

【あらすじ】

神田竜閑町 の糠屋の娘おくまは、ぐれて男と駆け落ちをし、上方に流れていった。

久しぶりに江戸に舞い戻ってみると、すでに両親は死に、店も人手に渡っていた。

どうにもならないので千住小塚っ原の若松屋という女郎屋に身を売り、今は苦界の身である。

同じく千住の裏長屋に住む、西念という願人坊主。

元は「か」組の鳶の者だったが、けんかざたで人を殺し、出家して、家々の前で鉦を叩いてなにがしかの布施をもらう、物乞い同然の身に落ちぶれている。歳は、もう六十に手が届こうかという老人。

その西念が若松屋に出入りするようになり、おくまの親父に顔がそっくりだということもあって、二人は親しい仲になった。

ある梅雨の一日。

いつものように西念がおくまの部屋を訪れると、おくまは上機嫌で、
「近々上方のだんなに身請けされ、駒形に絵草紙屋を持たせてもらうから、そうなったら西念さん、おまえを引き取り、父親同然に世話をするよ」
と言ってくれる。

数日後にまた行ってみると、この前とうって変わって、やけ酒。

絵草紙屋を買う金が二十両足りないと、いう。

西念、思案をして、
「実は昔出家する時、二十両の金を鳶頭にもらったが、使わずにずっと台所の土間に埋めてあるから、それを用立てよう」
と申し出る。

西念が金を取ってきて渡すと、おくまは大喜び。

「きっとすぐに迎えに行くから」
と約束した。

それから七日ほど夏風邪で寝ていた西念。

久しぶりに若松屋に行っておくまに会い、あのことはどうなったと尋ねると、意外にも女はせせら笑って
「ふん、おまえが金を持っているという噂だから、だまして取ってやったのさ。何べんも泊めてやったんだ。揚げ代代わりと思いな」

西念はだまされたと知って、憤怒の形相すさまじく
「覚えていろ」
と叫んでみてもどうしようもなく、外につまみ出された。

二十日後。

甥の陣吉が西念を尋ねてくる。

大家に聞くと、もう二十日も戸を締め切って、閉じこもったままだという。

この陣吉、やくざ者で、けんかのために入牢していたが、釈放されたのを機にカタギとなり、伯父を引き取るつもり。

陣吉に会って、そのことを聞いた西念は喜んで、祝いにそばを頼み方々、久しぶりに外の風に当たってくると、杖を突いて出ていったが、行きしなに
「鍋の中を覗いてくれるな」
と、言い残す。

そう言われれば見たくなるのが人情で、留守に陣吉がひょいと仲をのぞくと、呪いの藁人形が油でぐつぐつ煮え立っている。

帰ってきた西念、
「見たか。これで俺の念力もおしまいだ。くやしい」

泣き崩れるので、事情を聞いてみると、これこれしかじか。

「やめねえ伯父さん、藁人形なら釘を打たなきゃ」
「だめだ。おくまは糠屋の娘だ」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【しりたい】

オチは諺から

オチの部分の原話は安永2年(1773)刊の笑話本、『坐笑産』中の「神木」で、これはある神社で丑の時参りの呪詛をしている者がご神木にかけた藁人形に灸をすえているのを神主が見つけて、「これこれ、なぜ釘を打たぬのか?」と尋ねると、「もうなにを隠しましょう。私が呪う男は、糠屋さ」というものです。 

どちらにせよ、オチが「のれんに腕押し」と同義の「ぬかに釘」を踏まえていて、ぬらりくらりで釘を打っても効果がないほどしたたかな女、ということと掛けてあるわけです。もう一つ、「糠釘」と呼ぶ、屋根のこけら葺きに用いる小さな釘があるので、縁語としても効いているのでしょう。

願人坊主

その姿は、歌舞伎舞踊「浮かれ坊主」や世話狂言「法界坊」に活写されていますが、ボロボロの衣らしきものをまとっただけの、ほとんど裸同然で町々をさまよい、物乞いをしたり、時には代参や代垢離を請け負ったりします。

もっとも、願人坊主といってもピンからキリまでで、「黄金餅」やこの「藁人形」に登場の西念は、それ相応の小金も溜め込み、第一裏店とはいえちゃんとした長屋に住んでいるのですから、身分は人別帳(=戸籍)にも載っている普通民です。

もともと願人坊主の語源は、上野の寛永寺の支配下で、出家を願って僧籍の欠員があるのを待っている者という説があります。西念は身を持ち崩してもまだ身内も住居もあり、いわゆる「はっち坊主」と呼ばれる乞食坊主にまでは落ちぶれていないということでしょう。落語ではほかに「らくだ」にも登場します。

西念の名の由来

西念は、五代目古今亭志ん生の十八番「黄金餅」にも、アンコロ餅といっしょに金をのみ込んで悶死する守銭奴として登場しますが、西念の名は、四谷・鮫ヶ橋谷町(現・新宿区若葉二丁目)の西念寺(現存)から採ったものと思われます。

ここは旧幕時代には江戸有数のスラム街で、願人坊主が特に多く住みついていました。

西念寺は、家康の懐刀で伊賀忍者の棟梁、初代服部半蔵正成が、晩年の文禄年間(1592-96)に剃髪して西念と号した際、自らの菩提のために開基したもので、寺名はその法号にちなみます。

千住小塚っ原

千住宿は四宿(ほかに新宿、板橋、品川)の一で、奥州・日光街道の親宿 (起点)ですが、大きく千住大橋をはさんで上宿と下宿に分けられました。橋の北側の上宿に本陣がありましたが、南詰めの下宿には小塚原、中村町の二つの遊郭があり、千住の仕置場(=処刑場)が近いことから通称「コツ(=骨)」または「コヅカッパラ」と呼ばれました。

全盛期には旅籠14軒を数えたといいます。上宿にももちろん飯盛女(=女郎)がいましたが、どちらかというと南の「コツ」の方は一般の旅人を始め、船頭・農民などの遊ぶごく安っぽい岡場所でした。

落語には「今戸の狐」に「コツの女郎」が登場するほか、五代目志ん生の「お直し」でも、主人公の吉原の若い衆がこっそり遊びに行く場所として説明されています。

小塚原遊郭は荒川区南千住五丁目から六丁目、回向院から素盞鳴神社に向かう辺りで、細い路地(コツ通り)の両側に遊女屋が並んでいました。ただし、五代目志ん生は、下宿のコツではなく、上宿(本宿)で演じました。

か組

町火消は享保5年(1720)に町奉行、大岡越前の献策で発足したものです。西念の前身が「か組」の鳶の者だったという設定ですが、町火消はいろは四十八組に分けられ、か組は神田佐久間町、旅籠町、湯島天神前辺を分担していました。佐久間町は火事が多く、悪魔町と呼ばれたとか。

彦六から歌丸へ

明治期には、初代三遊亭円右が得意にしていました。円朝門下で円右の「叔父分」に当たる三遊一朝の直伝で、八代目林家正蔵(彦六)、五代目古今亭今輔が戦後十八番とし、円右に傾倒していた五代目古今亭志ん生も好んで演じました。

別題を「丑の刻参り」というように、元来は陰気で怪奇性が強い噺でしたが、今輔の方はどちらかというと、従来通り凄みを利かせて演じ、正蔵は人情噺の要素を多くして、西念の哀れさや甚吉の誠実な生きざまを描写することで後味のよい佳品に仕上げました。

両師の没後、継承者がなくすたれていましたが、桂歌丸が1980年代に復活し、正蔵のやり方を多く取り入れて演じていました。

神田竜閑町

現在の千代田区内神田二丁目、首都高速神田橋ランプの東側です。かつては南側の神田堀入り口に竜閑橋が架かり、付近には白旗稲荷神社があって、にぎわいました。地名の由来は、井上立閑という者がこのあたりを開発したことにちなみます。

【語の読みと注】
神田龍閑町 かんだりゅうかんちょう
糠屋 ぬかや
千住小塚っ原 せんじゅこづかっぱら
若松屋 わかまつや
鳶 とび
坐笑産 ざしょうみやげ
糠釘 ぬかっくぎ
人別帳 にんべつちょう
素盞鳴神社 すさのおじんじゃ
井上立閑 いのうえりゅうかん

【藁人形 桂歌丸】

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柳田格之進 やなぎだかくのしん 演目

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善人ばかりで演じられる、橋田ドラマのようなはなしです。

 別題:碁盤割 柳田の堪忍袋

【あらすじ】

もと藤堂家の家臣・柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻と娘・花の三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇で、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねると、
「確かにだんなさまのおひざに置きました」
と言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭、「疑わしいのは柳田さまだけ」
と言い出し、
「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」
と作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定するが、久兵衛は、
「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」
と脅す。

お家に帰参が決まっているので、
「そんなことになれば差し障りが出るから、自分の名は出さないでくれ」
と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えて
「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」
と、打ち明けた格之進、
「金は返すから明後日まで待ってくれ」
と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後に久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡し、
「財布はないので勘弁してくれ」
と言う。

帰ろうとすると、格之進
「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛、
「私も男、どんなご処分でも受けます」
と安請け合い。

大晦日、煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっている。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

すぐ格之進の家に行き、金を返して、
「あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい」
と言いつける。

あたふたと久兵衛が、今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、平謝りすると、格之進、
「金は世話になった礼だ」
と改めて返し
「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

仰天した久兵衛が店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。
「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、側の碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

【しりたい】

講談から脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。明治25年(1892)、「碁盤割」で「百花園」に掲載された三代目春風亭柳枝の速記が、唯一の古い記録で、このマクラで、柳枝は「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようですが、昭和初期から戦後は、五代目古今亭志ん生の独壇場でした。

「井戸の茶碗」と同系統の、一徹な浪人が登場する人情噺ですが、前述の三代目柳枝の速記のほかは古い口演記録がなく、例によって志ん生が、いつどこで仕入れたのか不明です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはあだいだんえんりませんが、志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝がしていましたが、志ん朝のものは音源もあり、ちくま文庫版に収載された速記によれば、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

三遊亭円楽が好んで演じました。円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、産まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところという俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門一、二丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

【語の読みと注】
娼妓 しょうぎ

【柳田格之進 古今亭志ん朝】

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

文七元結 ぶんしちもっとい 演目

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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松山鏡 まつやまかがみ 演目

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おのが姿を、いまだ見たことのない人々のちぐはぐなお話です。

別題:羽生村の鏡(上方)

【あらすじ】

鏡というものを誰も見たことのない、越後の松山村。

村の正直正助という男、四十二になるが、両親が死んで十八年間、ずっと墓参りを欠かしたことがない。

これがお上の目にとまり、孝心あつい者であるというので、青緡五貫文のほうびをちょうだいすることになった。

村役人に付き添われて役所に出頭すると、地頭が、なにかほうびの望みはないかと尋ねるが、正助は、
「自分の親だから当たり前のことをしているだけだし、着物をもらっても野良仕事にはじゃまになるし、田地田畑はおとっつぁまからもらったのだけでも手に余る」
と辞退する。

金は、あれば遊んでしまうので毒だからと、どうしても受け取らない。

困った地頭が
「どんな無理難題でもご領主さまのご威光でかなえてとらすので、なんなりと申せ」
と、しいて尋ねると、正助、
「それならば、おとっつぁまが死んで十八年になるが、夢でもいいから一度顔を見たいと思っているので、どうかおとっつぁまに一目会わしてほしい」
と言い出す。

これには弱ったが、今さらならんと言うわけにはいかないので、地頭は名主の権右衛門に
「正助の父は何歳で世を去った」
と尋ねる。

行年四十五で、しかも顔はせがれに瓜二つと確かめると、さっと目配せして、鏡を一つ持ってこさせた。

この鏡は三種の神器の一つ、やたのかがみ(八咫鏡)のお写し(複製)で、国の宝。

「この中を見よ」
と言われ、ひょいとのぞくと、鏡を知らない正助、映っていた自分の顔を見て、おやじが映っていると勘違い。感激して泣きだした。

地頭は
「子は親に 似たるものをぞ 亡き人の 恋しきときは 鏡をぞ見よ」
と歌を添えて
「それを取らせる。余人に見せるな」
と下げ渡す。

正直正助、それからというもの、納屋の古葛籠の中に鏡を入れ、女房にも秘密にして、朝夕、
「おとっつぁま、行ってまいります」
「ただ今けえりました」
とあいさつしている。

女房のお光、これに気づき、どうもようすがおかしいと、亭主の留守に葛籠をそっとのぞいて驚いた。

これも鏡を見たことがないから、映った自分の顔を情婦と勘違い。

嫉妬に狂って泣き出し、
「われ、人の亭主ゥ取る面かッ、狸のようなツラしやがって、このアマ、どこのもんだッ」
と大騒ぎ。

正助が帰るとむしゃぶりつき
「なにをするだッ、この狸アマッ」
「ぶちゃあがったなッ、おっ殺せェ」
とつかみ合いの夫婦げんかになる。

ちょうど、表を通りかかった隣村の尼さんが、驚いて仲裁に入る。

両方の事情を聞くと尼さん、
「ようし、おらがそのアマっこに会うべえ」
と、鏡をのぞくと
「ふふふ、正さん、お光よ、けんかせねえがええよゥ。おめえらがあんまりえれえけんかしたで、中の女ァ、決まりが悪いって坊主になった」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

ルーツはインド

古代インドの民間説話を集めた仏典『百喩経』巻三十五「宝篋の鏡の喩(たとえ)」が最古の出典といわれます。中国で笑話化され、清代の笑話集『笑府』誤謬部中の「看鏡」に類話があります。その前にも、朝鮮を経て日本に伝わり、鎌倉初期の仏教説話集『宝物集』ほか、各地の民話に、鏡を見て驚くという同趣旨の話が採り入れられました。これらをもとに謡曲「松山鏡」、狂言「土産の鏡」が作られ、すべてこの噺の源流となっています。

江戸の小咄では、正徳2年(1712)刊の『笑眉』中の「仏前の宝鏡」が最初で、これは、鏡を拾おうとした男が「下から人が見ていた」ので取るのをやめた、というたわいないものですが、時代が下って文政7年(1824)刊の漢文体笑話本『訳準笑話』中の小咄では現行の落語と、大筋は夫婦げんかも含めてそっくりになっています。

文楽も志ん生も

明治29年(1896)の二代目三遊亭円橘の速記が残るほか、明治末から大正にかけては、三代目三遊亭円馬が上方の演出を加味して得意とし、それを直伝で八代目桂文楽が継承しました。地味ながら、隠れた十八番といっていいでしょう。

文楽とくれば、ライバル五代目古今亭志ん生も負けじと演じ、両者とも音源を残しています。志ん生のは、まあどうということもありませんが、夫婦げんかで亭主にかみつくかみさんの歯が「すっぽんの歯みてえな一枚歯」というのがちょっと笑わせます。三代目三遊亭小円朝、志ん生の長男、十代目馬生も演じました。

累伝説のパロディー

上方では「羽生村の鏡」と題します。筋は東京と変わりませんが、舞台を累怪談で有名な下総羽生村とします。これは、同村では昔、鏡を見ることがタブーだったという伝承に基づき、累伝説の一種のパロディーをねらったものと思われます。

松山村

新潟県東頸城郡松之山町。たまに伊予松山で演じられることもあります。

『北越雪譜』(岩波文庫など)にも登場しますが、なぜこの越後の雪深い寒村が舞台に選ばれたかは不明です。

ただ、重要な原点である謡曲、狂言がともに同村を舞台にしているので、そのあたりで何らかの実話があったのかも知れません。

地頭

じとう。鎌倉時代の地頭と異なり、江戸時代のそれは諸大名の家臣で、その土地を知行している者の尊称です。領主の名代で、知行地の裁判や行政を司ります。つまり天領の代官のようなものでしょう。村役人は、名主、組頭、百姓代の村方三役をいいます。

孝行のほうび

「青緡五貫文」は「孝行糖」にも登場しました。要するに、幕府の朱子学による統治のバックボーンとなった孝子奨励政策の一環です。

原典の一つである謡曲「松山鏡」では、亡母を慕って毎日鏡で自分の顔を見て、母親の面影をしのぶ娘の孝心の威徳により、地獄におとされようとした母の魂が救われて成仏得脱するという筋なので、この噺の孝行譚の要素はここらあたりからきたのでしょう。

丸刈りは厳罰

「大山まいり」でも触れましたが、江戸時代、俗人が剃髪して丸刈りになるのは、謹慎して人と交わりを絶つ証で、大変なことでした。

男でさえそうですから、女の場合はまして、髪を切るのは尼僧として仏門に入る以外は、たとえば不義密通の償いなどで助命する代りに懲罰として丸刈りにされる場合がほとんどでした。昔は「髪は女の命」といわれ、むごい見せしめとされたわけです。

これは万国共通とみえ、フランスなどで戦時中、ナチに協力したり、ドイツ兵の情婦になっていた女性をリンチで丸刈りにした例がありました。イタリア映画『マレーナ』でそういうシーンが見られました。落語では「大山まいり」「坊主の遊び(剃刀)」がお女郎さんを丸刈りにする噺です。

インチキなまり

八代目文楽が自伝『あばらかべっそん』でこの噺について次のように語っています。

「……完全な越後の言葉でしゃべると全国的には分からなくなってしまいます。ですから、やはり落語の田舎言葉でやるよりないと思いますネ。(中略)じつは我々の祖先が今いったようなことを考えて、うそは百も承知で各国共通の田舎言葉をこしらえてくれたのだとおもっています」

落語発祥のこの「インチキなまり」はいちいち方言を調べるのがめんどうな小説家にとっても調法なものらしく、今でもしばしば散見します。

語の注】
あおざし 青緡、青繦:銭の穴に紺染めの麻縄を差し通して銭を結び連ねたもの。
かんもん 貫文:銭1000文を1貫。江戸期では960文を1貫。
ほうきょうのかがみのたとえ 宝篋の鏡の喩
ひがしくびきぐん 東頸城郡
やたのかがみ 八咫鏡
つづら 葛籠
北越雪譜 ほくえつせっぷ:江戸後期の地誌。鈴木牧之著
累伝説 かさねでんせつ

短命 たんめい 演目

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美人と結婚するとろくなことがないという、ひがみ丸出しのお話です。

別題:長命 長生き

【あらすじ】

大店の伊勢屋。

養子が、来る者来る者、たて続けに一年ももたずに死ぬ。

今度のだんなが三人目。

おかみさんは三十三の年増だが、めっぽう器量もよく、どの養子とも夫婦仲よろしく、その上、店は番頭がちゃんと切り盛りしていて、なんの心配もないという、けっこうなご身分だというのに……。

先代から出入りしている八五郎、不思議に思って、隠居のところに聞きにくる。

「夫婦仲がよくて、家にいる時も二人きり。ご飯を食べる時もさし向かい。原因はそれだな」

八五郎、なんのことだかわからない。

「おまえも血のめぐりが悪い。いいかい、店の方は番頭任せ、財産もある。二人でしょっちゅう朝から退屈して、うまいもの食べて、暇があるってのは短命のもとだ」
「短命って、なんです?」
「命の短いのを短命、長ければ長命」
「じゃあなんですか、いい女だと、だんなは短命なんで?」
「まあ、そういうことかな」

早い話、冬なんぞはこたつに入る。そのうちに手がこう触れ合う。白魚を五本並べたような、透き通るようなおかみさんの手。顔を見れば、ふるいつきたくなるいい女。そのうち指先ではすまず、すーっと別の所に指が触って……。

なるほど、これでは短命にもなるというもの。

三度同じことを言わせて、ようやく納得した八五郎、ついでにお悔やみの言い方も
「悲しそうな顔で口許でぼそぼそ言っていればそれでいい」
と、教えてもらった。

家に帰ると、女房が、早くお店に行け、とせっつく。

その前に茶漬けをかき込んで、というところでふと思いつき
「おい、夫婦じゃねえか。給仕をしろやい。おい、そこに放りだしちゃいけねえ。オレに手渡してもらいてえんだ」

ブスっ面で邪険に突き出したかみさんの指と指が触れ
「顔を見るとふるいつきたくなるようないい女……。あああ、オレは長命だ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

短命

この噺のようなケースは、江戸時代には「腎虚」とされました。

つまりはアッチの方が過ぎ、精気を吸い取られてあえなくあの世行きというわけです。男の精水(山田風太郎流だと「精汁」)は「腎水」とも呼ばれ、腎臓が出所と誤って考えられていたことによります。

腎虚と内損は二大道楽病とされ、それぞれ「のむ」「打つ」がもたらす災いです。三道楽のうち、残る一つの「打つ」の結果は言うまでもなく「金欠病」ですが。

五代目古今亭志ん生の速記でも、隠居が「内損か腎虚とわれは願うなり、とも百歳も生きのびし上」と、言っています。

思わずニヤリ

昔はこの程度でも艶笑落語のうちに入り、なかなか高座には掛けにくかったといいます。現在は、ちょっと味のあるお色気噺として、普通に演じられます。

まあ、オトナの味わいというのか、以心伝心のやりとりは、むしろほほえましく、なかなかよろしいものです。

五代目古今亭志ん生、五代目小さんが得意にしていました。志ん生は、最後のかみさんとの会話にくすぐりを多く用いるなど工夫し、オチは「おめえとこうしてると、オレは長生きができる」というものでした。

オチから別題は「長命」ですが、噺の全体のプロットからしてやはり「短命」が妥当でしょう。

志ん生のくすぐりから

●その1

隠「二階へ、あの奥さんが上ってゆかァ」
八「ええ、ええ」
隠「二階には、だァれもいないやァ」
八「ええ」
隠「で、短命なんだよ」
八「二階にだァれもいないで、短命ですか」
隠「そうだよ」
八「二階から、落っこちたんですかァ」

●その2

八「え、二階に上ろうじゃねえか」
女「家にゃァ二階はないよ」
八「じゃあ、屋根へ」

【語の読み】
大店 おおだな:大商店
腎虚 じんきょ:房事過度で起こる衰弱症
精水 せいすい:精液
腎水 じんすい:精液
内損 ないそん:酒による内臓障害、主に肝の病

浜野矩随 はまののりゆき 演目

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彫金職人の一途な噺。元は講釈噺。ものつくりの喜びと哀しみが出ています。

別題:名工矩随

【あらすじ】

浜野矩随のおやじ矩安は、刀剣の付属用品を彫刻する「腰元彫」の名人だった。

おやじの死後、矩随も腰元彫りを生業としているが、てんでへたくそ。

芝神明前の袋物屋、若狭屋新兵衛がいつもお義理に二朱で買い取ってくれているだけだ。

八丁堀の裏長屋での母子暮らしも次第に苦しくなってきたあるとき、矩随が小柄に猪を彫って持っていった。

新兵衛は
「こいつは豚か」
と言うが、矩随は「いいえ、猪です」といたってまじめで真剣。

「どうして、こうまずいんだ。今まで買っていたのは、おまえがおっかさんに優しくする、その孝行の二字を買ってたんだ」
となじる新兵衛。

おやじの名工ぶりとは比べるまでもない格落ちのありさまで、挙げ句の果ては
「死んじまえ」
と強烈な一言。

肩を落として帰った矩随は母親に
「あの世に行って、おとっつぁんにわびとうございます」
と首をくくろうとする。

「先立つ前に、形見にあたしの信仰している観音さまを丸彫り五寸のお身丈で彫っておくれ」
と母。

水垢離の後、七日七晩のまず食わず、裏の細工場で励む矩随。

観音経をあげる母。

やがて、完成の朝。

母は
「若狭屋のだんなに見ておもらい。値段を聞かれたら『五十両、一文かけても売れません』と言いなさい」
と告げ、矩随に碗の水を半分のませて、残りは自らのんで見送った。

観音像を見た新兵衛。

おやじ矩安の作品がまだあったものと勘違いして大喜びしたが、足の裏を見て
「なんだっておみ足の裏に『矩随』なんて刻んだんだ。せっかく五十両のものが、二朱になっちまうじゃねえか」

矩随が母への形見に自分が彫った顛末を語った。

留飲を下げた新兵衛だが、
「えっ、水を半分? おっかさんはことによったらおまえさんの代わりに梁にぶらさがっちゃいねえか」

矩随はあわてて駕籠でわが家に戻ったが、無念にも、母はすでにこときれていた。

これを機に、矩随は開眼、名工としての道を歩む。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

浜野矩随

三代続いた江戸後期の彫金の名工です。初代(1736-87)、二代(1771-1851)が有名ですが、この噺のモデルは初代でしょう。

初代は本名を忠五郎といい、初代浜野政随に師事して浜野派彫金の二代目を継ぎました。細密・精巧な作風で知られ、生涯神田に住みました。

志ん生得意の出世譚

講釈(講談)を元に作られた噺です。明治期には初代三遊亭円右の十八番でした。

円右は四代目橘家円喬と並び称されたほどの人情噺の大家で、若き日の五代目古今亭志ん生がこの円右のものを聞き覚え、講釈師時代の素養も加えて、戦後十八番の一つとしました。

元に戻った結末

講談では、最後に母親が死ぬことになっていますが、落語ではハッピーエンドとし、蘇生させるのが普通でした。ところが、五代目志ん生がこれをオリジナル通り死なせるやり方に変え、以後これが定着しています。この噺を得意にしていた先代三遊亭円楽もやはり母親が自害するやり方でした。

言うまでもなく、老母の死があってこそ矩随の悲壮な奮起が説得力を持つわけで、こちらの方が正当ですぐれた行き方でしょう。

音源は志ん生、円楽ともにありますが、志ん生のものは「名工矩随」の題になっています。

袋物屋

恩人、若狭屋の稼業ですが、紙入れ、たばこ入れなどの袋状の品物を製造、販売します。

久保田万太郎(1889-1963)の父親は浅草田原町の袋物職人でした。戦後劇壇のボスとして君臨した劇作家、小説家です。

水垢離

神仏に祈願するため、冷水を浴びて心身を清浄にするならわしです。富士登山、大山まいりなどの前にも水垢離をとり、安全を祈願するしきたりでした。東両国の大川端が、江戸の垢離場として有名でした。

【語の読み】
浜野矩随 はまののりゆき
浜野矩安 はまののりやす
腰元彫 こしもとぼり
芝神明 しばしんめい
袋物屋 ふくろものや
水垢離 みずごり
梁 はり
駕籠 かご
浜野政随 はまのしょうずい

江島屋騒動 えじまやそうどう 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

円朝の怪談噺。舞台は江戸、下総、さらに江戸。イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

【あらすじ】

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

円朝の怪談噺

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

戦後、五代目古今亭志ん生がよくやりました。並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔と六代目三遊亭円生。円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵

円朝の最初の妻をお里といいました。その父親は倉岡元庵といいました。御徒町に住むお同朋だったそうです。お同朋、同朋衆はいろいろの職種がありましたが、倉岡は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。権力をかさに着た人々の一人だったようです。円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は後年、朝太郎のために苦しめられていました。

五代目志ん生が復活

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町

しばひかげちょう。港区新橋二-六丁目にあたります。日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

江島屋の「その後」

大正末期ごろまで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座2-8丁目)で質屋をしていたとのこと。歌舞伎座近くのため、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

【語の読み】
深川佐賀町 ふかがわさがちょう
倉岡元庵 くらおかげんあん
下総 しもふさ
大貫村 おおぬきむら
檀那寺 だんなでら
幸福寺 こうふくじ
芝日陰町 しばひかげちょう
神崎川 こうさきがわ
袷 あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田 ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影 かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

鰻の幇間 うなぎのたいこ 演目

【RIZAP COOK】

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鰻題材の噺はいくつか、代表格はこれ。文楽流と志ん生流、どちらもお楽しみ。

別題:鰻屋の幇間 釣り落とし

【あらすじ】

時は真夏の盛り。

炎天下の街を、陽炎のようにゆらゆらとさまよいながら、なんとかいい客を取り込もうとする野幇間の一八にとって、夏はつらい季節。

なにしろ、金のありそうなだんなはみな、避暑だ湯治だと、東京を後にしてしまっているのだから。

今日も一日歩いて、一人も客が捕まらない。このままだと幇間の日干しが出来上がるから、こうなったら手当たり次第と覚悟を決め、向こうをヒョイと見ると、どこかで見かけたようなだんな。

浴衣がけで手拭を下げて……。

はて、どこで会ったか。

この際、そんなことは気にしていられないので、
「いよっ、だんな。その節はご酒をいただいて、とんだ失礼を」
「いつ、てめえと酒をのんだ」
「のみましたヨ。ほら、向島で」
「なに言ってやがる。てめえと会ったのは清元の師匠の弔いで、麻布の寺じゃねえか」

話がかみ合わない。

だんなが、
「俺はこの通り湯へ行くところだが、せっかく会ったんだから鰻でも食っていこうじゃねえか」
と言ってくれたので、一八はもう夢見心地。

で、そこの鰻屋。

だんなが、
「家は汚いよ」
と釘をさした通り、とても繁盛しているとは見えない風情。

「まあ、この際はゼイタクは禁物、とにかくありがたい獲物がかかった」
と一八、腕によりをかけてヨイショし始める。

「いいご酒ですな。……こりゃけっこうな香の物で……。そのうちお宅にお伺いを……お宅はどちらで?」
「先のとこじゃねえか」
「あ、ああ、そう先のとこ。ずーっと行って入り口が」
「入り口のねえ家があるもんか」

そのうちに、蒲焼きが来る。

大将、ちょっとはばかりへ行ってくると、席を立って、なかなか戻らない。

一八、取らぬ狸で、
「ご祝儀は十円ももらえるかもしらん、お宅に出入りできたら、奥方からもなにか……」
と、楽しい空想を巡らすが、あまりだんなが遅いので、心配になって便所をのぞくと、モヌケのから。

「えらいっ! 粋なもんだ、勘定済ましてスーッと帰っちまうとは」

ところが、仲居が
「勘定お願いします」
とくる。

「お連れさんが、先に帰るが、二階で羽織着た人がだんなだから、あの人にもらってくれと」
「じょ、冗談じゃねえ。どうもセンから目つきがおかしいと思った。家ィ聞くとセンのとこ、センのとこってやがって……なんて野郎だ」

その上、勘定書が九円八十銭。「だんな」が六人前土産を持ってったそうだ。

一八、泣きの涙で、女中に八つ当たりしながら、なけなしの十円札とオサラバし、帰ろうとするとゲタがない。

「あ、あれもお連れさんが履いてらっしゃいました」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

文楽十八番

明治中期の実話がもとといわれますが、詳細は不明です。

「あたしのは一つ残らず十八番です!」と豪語したという八代目桂文楽の、その十八番のうちでも自他共に認める金箔付きがこの噺、縮めて「ウナタイ」。

文楽以前には、遠く明治末から大正中期にかけ、初代柳家小せんが得意にしていました。

文楽は小せんのものを参考に、四十年以上も、セリフの一語一語にいたるまで磨きあげ、野幇間の哀愁を笑いのうちにつむぎ出す名編に仕立てました。

幇間

幇間は、宝暦年間(1751-64)から使われ出した名称です。

幇間の「幇」は「助ける」という意味で、遊里やお座敷で客の遊びを取り持ち、楽しませ、助ける稼業ですね。ほかに「タイコモチ」「太夫」「男芸者」「末社」「太鼓衆」「ヨイショ」などと呼ばれました。

太夫は、浄瑠璃の河東節や一中節の太夫が幇間に転身したことから付いた異称です。

「ヨイショ」という呼び方も一般的で、これは幇間が客を取り持つとき、決まって「ヨイショ」と意味不明の奇声を発することから。「おべんちゃらを並べる」意味として、今も生き残っている言葉です。

もっともよく使われる「タイコモチ」の語源は諸説あってはっきりしません。

太閤秀吉を取り巻いた幇間がいたから、「タイコウモチ」→「タイコモチ」となったというダジャレ説もありますが、これはあまり当てになりませんな。

「おタイコをたたく」というのも前項「ヨイショ」と同じ意味です。

おだん

だんな、つまり金ヅルになるパトロンを「おだん」、客を取り巻いてご祝儀にありつく営業を「釣り」、客を「魚」というのが、幇間仲間の隠語です。「おだん」は落語家も昔から使います。

この噺の一八は、客を釣ろうとして、「鰻」をつかんでしまいぬらりぬらりと逃げられたわけですが、一八の設定は野幇間で、いわばフリー。「のだいこ」と読みます。そう、「坊ちゃん」に登場のあの「野だいこ」ですね。

正式の幇間は各遊郭に登録済みで、師匠のもとで年季奉公五年、お礼奉公一年でやっと座敷に顔を出せたくらいで座敷芸も取り持ちの技術も、野幇間とは雲泥の差でした。噺家と天狗との差くらいでしょうか。

志ん生流と文楽流

五代目古今亭志ん生の「鰻の幇間」は、文楽演出を尊重し踏襲しながらも、志ん生独特のさばき方で、すっきりと噺のテンポを早くした、これも逸品でした。

文楽の、なにかせっぱつまったような悲壮感に比べ、志ん生の一八はどこかニヒルが感じられます。ヨイショが嫌いだったという、いわば幇間に向かない印象にもかかわらず、別の意味で野幇間の無頼さをよく出しています。

オチは文楽が「お供さんが履いていきました」で止めるのに対し、志ん生はさらに「それじゃ、オレの履いてきたのを出してくれ」「あれも風呂敷に包んで持っていきました」と、ダメを押しています。

両者を聴き比べてみるのは、落語の楽しみのひとつですね。

【語の読み】
野幇間 のだいこ
一八 いっぱち

【八代目桂文楽 鰻の幇間】
【五代目古今亭志ん生 鰻の幇間】

【RIZAP COOK】

六尺棒 ろくしゃくぼう 演目

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ほとんど二人、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話噺」です。

【あらすじ】

道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊び火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたとどうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

明日っからもう家にいますと謝ろうが、跡取りを勘当しちまって、家はどうなると脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていたとお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって、『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、養子をとってまで、どうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまうと脅迫。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまから様子をうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げ出し、抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。お前のおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場が完全に逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと、『一杯のんだらどうだ?小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」
「なにを言やがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

初代遊三の十八番

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には 初代三遊亭遊三が得意にしていました。 御家人上がりで、もとは彰義隊士という変わり種の落語家でした。

この遊三、ヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、飲む打つ買うの「三道楽煩悩」だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと脱走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。カラスをサギと、有罪をむりやり無罪にしてあっさりクビに。これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

女優、十朱幸代の曽祖父にあたります。つまり、十朱久雄の祖父ということですね。なんとなく納得。

志ん生へ

この遊三師匠、五代目志ん生の父親の美濃部戌行、明治の爆笑王金ちゃんこと初代三遊亭円遊と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達。

その関係でか、せがれの志ん生をかわいがり、志ん生は、のちに十八番にした、「火焔太鼓」「疝気の虫」なども遊三から習っています。この「六尺棒」もその一つです。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、せがれになめられっ放しということがよくわかります。本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のくすぐりなどは十分残しながら親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝を願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、もと警官のおやじの金キセルを勝手に質入れして槍を持って追いかけられ、そのまま家に帰らなかったというほろ苦い思い出が、志ん生のこの噺に生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用のこん棒ですが、志ん生の父親は維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同じ年(大正3年)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたかもしれません。

対話噺

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

今回の「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとり、ダイアローグだけで展開する「対話噺」とでもいえるものです。それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙がこれほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はその典型。「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども同じように登場人物二人ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。

狸賽 たぬさい 演目

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狸は、ユーモラスで憎めず、失敗ばかりしているというのが相場です。

別題:狸

【あらすじ】

あるバクチ打ちの男。

誰か夜中に訪ねてきたので開けてみると、なんと子狸。

昼間、悪童たちにいじめられているのを男に助けられたので、その恩返しに来たのだという。

「なんでもお役に立つから、しばらく置いてください」
というので、家に入れて試してみると、なんにでも化けられるので、なるほどこれは便利。

小僧に化けて家事一切をやってくれたり、葉書を札に化けさせて、米をかすり取ってきたり。

そこで男が思いついたのが今夜の「ご開帳」。

チョボイチだから、狸をサイコロに化けさせて持っていけば、自分の好きな目が出放題、というわけ。

さっそく訓練してみると、あまり転がすと目が回るなどと、頼りないが、何とか仕込んで、勇躍賭場へ。

強引に胴を取ると、男が張る目張る目がみんな大当たりで、たちまち男の前には札束の山。

ところが、やたら
「今度は一だ」
「三だよッ、三だ三だ三だ」
などと、いちいちしつこく指示を出すので、一同眉に唾をつけ始める。

儲けるだけ儲けて退散しようとすると、最後の勝負というので先に張られてしまい、てめえが変なことを言うとその通りの目が出るから、もう目を読むなと釘をさされる。

開いた目は五。

五と言えないので、
「うーん、今度はなんだ、梅鉢だ。えー、まーるくなって、一つ真ん中になるだろ。加賀さまだ。加賀さまの紋が梅鉢で、梅鉢は天神さま。なッ。天神さまだよ、頼むぜッ」

「勝負ッ」
と転がすと、狸が冠かぶって、笏持ってふんぞりかえってた。

「この野郎!」

底本:五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さん

【しりたい】

さまざまな狸噺

原話は宝暦13年(1763)刊の笑話本『軽口太平楽』中の「狸」です。

本来軽く短い噺なので、「狸の札」「狸の釜」「狸の鯉」などの同類の狸噺とオムニバスで続ける場合があり、「狸賽」を入れた四話をまとめて、五代目志ん生のように「狸」と題することもあります。

それぞれ、狸が恩返しに来るという発端は共通していて、化けて失敗するものが違うだけです。

「狸の鯉」は、狸を鯉に化けさせ、親方の家に持っていくと料理されそうになり、「鯉」が積んだ薪を伝わって窓から逃げたので「あれが鯉の薪(=滝)のぼりです」と地口で落とすもの。

「狸の札」は、札に化けさせられ、相手のガマ口に入れられた狸が苦しくなって逃げ帰り、「ついでにガマ口の銭も持ってきました」というもの。

「狸の釜」は、釜に化けて和尚に売られた狸が火にかけられて逃げ出し、小坊主があれは狸だったと報告すると、「道理で半金かたられた」「包んだ風呂敷が八丈でございます」とオチるもので、ぶんぶく茶釜伝説のパロディーですが、狸の睾丸が八畳敷きというのと、布地の八丈縞を掛けたもの。今はあまり演じられません。

珍品、小さんの狸

明治期では四代目橘家円喬の速記があり、五代目古今亭志ん生も得意にしましたが、代々の柳家小さん系に伝わる噺です。まあ、三代目から五代目の小さんが、そろって狸に似ていたという縁もあるでしょうが。

五代目小さんが演じると、狸を助ける場面、狸とのやりとり、「サイン」を打ち合わせるくだりなどがわりにあっさり演じた志ん生に比べて詳しくて、特に、オチの部分を、笏を持った天神のしぐさで表現するのが特色でした。その抱腹絶倒の表情は、いまだに記憶に鮮明です。

小さんは「狸の札」を「狸賽」のマクラに用い、つなげて演じることも多く、その際は「狸」の題名で演じていました。志ん生の方は、同じ「狸」の演題でも、「狸の鯉」とつなげることが多かったようです。現在でも五代目小さんの弟子筋を中心に、若手にもよく演じられる噺です。

チョボイチ

一つ粒ともいい、サイコロ一つを使ってやるきわめてギャンブル性の強いバクチです。胴元の出した目に張ると、配当は四倍になります。同じチョボでも狐チョボになると、サイコロ三つで勝負します。

上方では

発端が少し東京と異なります。バクチに負けた旅人が、空腹のあまり狸塚に子供たちが供えたぼた餅をつまみ食いすると狸が現れて因縁をつけるので、もしサイコロに化けて自分の言う通りの目を出してくれたら、ぼた餅など山のように食わしてやる、と持ちかけ、狸の賽を持ってバクチ場へ行くという段取りでオチは小さんと同じく、天神さまのしぐさオチになります。

原話の『軽口太平楽』中の小咄では、化け狸が住み着いた貸家に越してきた男を、狸がありとあらゆる妖怪に化けて脅しますがいっこうに動じないので、とうとう根負けして降参。男の頼みを聞いてサイコロに化けることになります。

オチは少し変わっていて、男が五の目を出させようと「梅の花、梅の花」と言うと、狸が勘違いして(梅に縁ある)ウグイスに化けてしまいます。

「この野郎!」

あらすじの最後の「この野郎!」は五代目古今亭志ん生が加えたものです。はっきりしたオチにはなっていませんが、これだと噺がまだあとに続きそうで、すわりは悪いものの、印象に残るちょっとおもしろい終わり方ですね。

お化け長屋 おばけながや 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

江戸っ子は見かけとは裏腹。小心でこわがり。そんな噺。

別題:借家怪談 化け物長屋

【あらすじ】

長屋に空き店の札。

長屋が全部埋まってしまうと大家の態度が大きくなり、店賃の値上げまでやられかねない。

そこで店子の古株、古狸の杢兵衛が世話人の源兵衛と相談し、店を借りにくる人間に怪談噺をして脅かし、追い払うことにした。

最初に現れた気の弱そうな男は、杢兵衛に
「三日目の晩、草木も眠る丑三つ時、独りでに仏前の鈴がチーン、縁側の障子がツツーと開いて、髪をおどろに振り乱した女がゲタゲタゲタっと笑い、冷たい手で顔をサッ」
と雑巾で顔をなでられて、悲鳴をあげて逃げ出した。

おまけに六十銭入りのがま口を置き忘れて行ったから、二人はホクホク。

次に現れたのは威勢のいい職人。

なじみの吉原の女郎が年季が明けるので、所帯を持つという。

これがどう脅かしてもさっぱり効果がない。

仏さまの鈴がリーンと言うと
「夜中に余興があるのはにぎやかでいいや」
「ゲタゲタゲタと笑います」
「愛嬌があっていいや」

最後に濡れ雑巾をなすろうとすると
「なにしやがんでえ」
と反対に杢兵衛の顔に押しつけ、前の男が置いていったがま口を持っていってしまう。

この男、さっそく明くる日に荷車をガラガラ押して引っ越してくる。

男が湯に行っている間に現れたのが職人仲間五人。

日頃から男が強がりばかり言い、今度はよりによって幽霊の出る長屋に引っ越したというので、本当に度胸があるかどうか試してやろうと、一人が仏壇に隠れて、折りを見て鉦をチーンと鳴らし、二人が細引きで障子を引っ張ってスッと開け、天井裏に上がった一人がほうきで顔をサッ。

仕上げは金槌で額をゴーンというひどいもの。

作戦はまんまと成功し、口ほどにもなく男は親方の家に逃げ込んだ。

長屋では、今に友達か何かを連れて戻ってくるだろうから、もう一つ脅かしてやろうと、表を通った按摩に、家の中で寝ていて、野郎が帰ったら
「モモンガア」
と目をむいてくれと頼み、五人は蒲団の裾に潜って、大入道に見せかける。

ところが男が親方を連れて引き返してきたので、これはまずいと五人は退散。

按摩だけが残され
「モモンガア」。

「みろ。てめえがあんまり強がりを言やあがるから、仲間にいっぱい食わされたんだ。それにしても、頼んだやつもいくじがねえ。えっ。腰抜けめ。尻腰(しっこし)がねえやつらだ」
「腰の方は、さっき逃げてしまいました」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

作者は滝亭鯉丈

江戸後期の滑稽本(コミック小説のようなもの)作者で落語家を兼ねて稼ぎまくっていた滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、「猫の皿」参照)が、文政6年(1823)に出版した『和合人』初編の一部をもとにして、自ら作った噺とされます。当然、作者当人も高座で演じたことでしょう。

上方落語では、「借家怪談」として親しまれ、初代桂小南が東京に移したともいわれますが、すでに明治40年(1907)には、四代目橘家円蔵の速記もあり、そのへんははっきりしません。

なかなか聴けない「完全版」

長い噺で、二転三転する上に、人物の出入りも複雑なので、演出やオチもさまざまに工夫されています。ふつうは上下に分けられ、六代目円生、先代金馬など、大半は、二番目の男が財布を持っていってしまうところで切ります。

戦後、最後まで演じたのは、志ん生と六代目柳橋くらいで、志ん生も、めったにオチまでいかず、男が親方の家に駆け込んで、「幽霊がゲンコでなぐったが、そのゲンコの堅えのなんの」と、ぼやくところで切っていました。

尻腰がねえ

オチの前の「尻腰がねえ」は、東京ことばで「いくじがない」という意味です。昭和初期でさえ、もう通じなくなっていたようです。

高級長屋

このあらすじは、戦後この噺をもっとも得意とした五代目古今亭志ん生の速記をもとにしました。

登場する長屋は、落語によく出る九尺二間、六畳一間の貧乏長屋ではなく、それより一ランク上で、もう一間、三畳間と小庭が付いた上、造作(畳、流し、戸棚などの建具)も完備した、けっこう高級な物件という設定を、志ん生はしています。

当然、それだけ高いはずで、時代は、最初の男が置いていった六十銭で「二人でヤスケ(寿司)でも食おう」と杢兵衛が言いますから、寿司の「並一人前」が二十五銭-三十銭だった大正末期か昭和初期の設定でしょうか。

志ん生は本題に入る前、この長屋では大家がかなり離れたところに住み、目が届かないので古株の杢兵衛に「業務委託」している事情、住人が減ると、家主が店賃値上げを遠慮するなど、大家と店子、店子同士ののリアルな人間関係、力関係を巧みに説明しています。

貸家札

志ん生は「貸家の札」といっていますが、古くは「貸店(かしだな)の札」といい、半紙に墨書して、斜めに張ってあったそうです。

ももんがあ

按摩を脅かす文句で出てきます。ももんがあとは、ももんじいともいい、毛深く口が大きな、ムササビに似た架空の化物です。また、ムササビそのものの異称でもありました。口を左右に引っ張り、「ほら、モモンガアだ」と子供を脅しました。

リレー落語

長い噺では、上下に分け、二人の落語家がそれぞれ分担して演じる「リレー落語」という趣向が、よくレコード用や特別の会でありますが、この噺はその代表格です。

おかめ団子 おかめだんご 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

【RIZAP COOK】

麻布名物「おかめ団子」を舞台にした地味でつつましい人情噺。 志ん生のお得意。

【あらすじ】

麻布飯倉片町に、名代のおかめ団子という団子屋がある。

十八になる一人娘のお亀が、評判の器量よしなので、そこからついた名だが、暮れのある風の強い晩、今日は早仕舞いをしようと、戸締まりをしかけたところに
「ごめんくだせえまし、お団子を一盆また、いただきてえんですが」
と、一人の客。

この男、近在の大根売りで、名を太助。

年取った母親と二人暮らしだが、これが大変な親孝行者。

おふくろがおかめ団子が大好物だが、ほかに楽はさせてやれない身。しかも永の患いで、先は長くない。

せめて団子でも買って帰って、喜ぶ顔が見たい。

店の者は、忙しいところに毎日来てたった一盆だけを買っていくので、迷惑顔。

邪険に追い返そうとするのを主人がしかり、座敷に通すと、自分で団子をこしらえて渡したので、太助は喜んで帰っていく。

中目黒の家に帰った太助、母親がうれしそうに団子を食べるのを見ながら床につくが、先ほど主人が売り上げを勘定していた姿を思い出し、
「大根屋では一生おふくろに楽はさせられない、あの金があれば」
と、ふと悪心がきざす。

頬かぶりをしてそっと家を抜け出すと、風が激しく吹きつける中、団子屋の店へ引き返し、裏口に回る。

月の明るい晩。

犬にほえたてられながら、いきあたりばったり庭に忍び込むと、雨戸が突然スーッと開く。

見ると、文金高島田に緋縮緬の長襦袢、 鴇(とき)色縮緬の扱帯(しごき)を胸高に締めた若い女が、母屋に向かって手を合わすと、庭へ下りて、縁側から踏み台を出す。

松の枝に扱帯を掛ける。言わずと知れた首くくり。

実はこれ、団子屋の娘のおかめ。

太助あわてて、
「ダミだァ、お、おめえッ」
「放してくださいッ」

声を聞きつけて、店の者が飛び起きて大騒ぎ。

主人夫婦の前で、太助とおかめの尋問が始まる。

父親の鶴の一声で、むりやり婿を取らされるのを苦にしてのこととわかって、主人が怒るのを、太助、泥棒のてんまつを洗いざらい白状した上、
「どうか勘弁してやっておくんなせえ」

主人は事情を聞いて太助の孝行に感心し、罪を許した上、こんな親孝行者ならと、その場で太助を養子にし、娘の婿にすることに。

おかめも、顔を真っ赤にしてうつむき、
「命の親ですから、あたくしは……」。

これでめでたしめでたし。

主人がおかみさんに、
「なあ、お光、この人ぐらい親孝行な方はこの世にないねえ」
「あなた、そのわけですよ。商売が大根(=コウコ、漬物)屋」。

太助の母親は、店の寮(別荘)に住まわせ、毎日毎日、おかめ団子の食い放題。

若夫婦は三人の子をなし、家は富み栄えたという、人情噺の一席。

底本:五代目古今亭志ん生、三代目麗々亭柳橋

【RIZAP COOK】

【しりたい】

実在した団子屋

文政年間(1818-30)から明治30年代まで麻布飯倉片町に実在し、「鶴は餅亀は団子で名は高し」と川柳にも詠まれた名物団子屋をモデルとした噺です。

おかめ団子の初代は諏訪治太夫という元浪人で、釣り好きでしたが、あるとき品川沖で、耳のある珍しい亀を釣ったので、女房が自宅の庭池の側に茶店を出し、亀を見に来る客に団子を売ったのが、始まりとされます。

それを亀団子といいましたが、二代目の女房がオカメそっくりの顔だったので、「オ」をつけておかめ団子。これが定説で、看板娘の名からというのは眉唾の由。

黄名粉をまぶした団子で、一皿十六文と記録にありますが、明治の三代目麗々亭柳橋の速記には五十文とあり、これは幕末ごろの値段のようです。

志ん生得意の人情噺

古風で、あまりおもしろい噺とはいえませんが、五代目古今亭志ん生、八代目林家正蔵(彦六)が演じ、事実上、志ん生が一手専売にしていたといっていいでしょう。

明らかに自分の持ち味と異なるこの地味でつつましい人情ものがたりを志ん生がなぜ愛したのかよくわかりませんが、あるいは、若い頃さんざん泣かせたという母親に主人公を通じて心でわびていたのかもしれません。

志ん生は、太助を「とし頃二十……二、三、色の白い、じつに、きれいな男」と表現しています。

この「きれいな男」という言葉で、泥にまみれた農民のイメージや、実際にまとっているボロボロの着物とは裏腹の、太助の美男子ぶりが想像できます。同時に、当人の心根をも暗示しているのでしょう。

古いやり方では、実は太助が婿入りするくだりはなく、おかめは、使用人の若者との仲が親に許されず、それを苦にして自殺をはかったことになっていました。それを、志ん生がこのあらすじのように改めたものです。

大根屋

太助のなりは、麗々亭柳橋の速記では「汚い手拭いで頬っ被りして、目黒縞の筒ッ袖に、浅葱(あさぎ=薄い藍色)のネギの枯れッ葉のような股引をはいて、素足に草鞋ばき」といいますから、当時の大根売りの典型的なスタイルです。

近在の小作農が、農閑期の冬を利用して大根を売りに来るものです。「ダイコヤ」と呼びます。

大根は、江戸近郊では、
練馬が秋大根(8、9月に蒔き10-12月収穫)、
亀戸が春蒔き大根(3、4月に蒔き5-7月収穫)、
板橋の清水大根が夏大根(5-7月に蒔き7-9月収穫)
として有名でした。

太助の在所の目黒は、どちらかといえば筍の名産地でしたが、この噺で売っているのは秋大根でしょう。大八車に積んで、山の手を売り歩いていたはずです。

麻布飯倉片町

港区麻布台三丁目。東京タワーの直近です。今でこそハイブローな街ですが、旧幕時代はというと、武家屋敷に囲まれた、いたって寂しいところ。山の手ですが、もう江戸の郊外といってよく、タヌキやむじなも、よく出没したとか。

飯倉片町おかめ団子は、志ん生ファンならおなじみ「黄金餅」の、道順の言い立てにも登場していました。志ん朝の「黄金餅」でも必ず触れていました。

【RIZAP COOK】

水屋の富 みずやのとみ 演目

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水を売る小商いが富くじに当たったという噺。さて、どうなることやら。

【あらすじ】

まだ水道が普及しなかった本所や深川などの低地一帯に、荷を担いで水を売って歩いた水屋。

一日も休むことはできないので、冬は特に辛い商売。

ある水屋、独り者で身寄りはなし、わずらったら世話をしてくれる人間もないから、どうかまとまった金が欲しいと思っている矢先、どう運が向いたものか、千両の「打ち富」に当たってしまった。

「うわーッ、当たった」

興奮して引き換え所に行くと、二か月待てば千両まとめてくれるが、今すぐだと二割さっ引かれるという。

待っていられないと、すぐもらうことにし、小判を、腹巻と両袖にいっぱい入れてもまだ持ちきれないので、股引きを脱いで先を結び、両股へ残りをつっ込んで背負うと、勇んでわが家へ。

山吹色のをどっとぶちまけて、つくづく思うには、これで今すぐ商売をやめたいが、水屋は代わりが見つかるまでは、やめることができない。

一日休んでも、持ち場の地域の連中が干上がってしまう。

かといって、小判を背負って商売に出たら、井戸へ落っことしてしまう。

そこで、金を大きな麻の風呂敷に包み、戸棚の中に葛籠(つづら)があってボロ布が入っていたので、その下に隠した。

泥棒が入って葛籠を見ても、汚いから目に留めないだろうと納得したが、待てよ、ボロの下になにかあると勘づかれたらどうしようと不安になり、神棚に乗せて、神様に守ってもらおうと気が変わる。

ところが、よく考えると、神棚に大切なものを隠すのはよくあること。

泥棒が気づかないわけがないとまた不安になり、結局、畳を一畳上げて根太板をはがし、丸太が一本通っているのに五寸釘を打ち込み、先を曲げて金包みを引っかけた。

これで一安心と商売に出たものの、まだ疑心暗鬼は治まらない。

すれ違った野郎が実は泥棒で、自分の家に行くのではないかと跡をつけてみたり、一時も気が休まらない。

おかげで仕事もはかどらず、あっちこっちで文句を言われる。

夜は夜で、毎晩、強盗に入られてブッスリやられる夢を見てうなされる。

隣の遊び人。

博打でスッテンテンになり、手も足も出ないので、金が欲しいとぼやいていると、水屋が毎朝竿を縁の下に突っ込み、帰るとまた同じことをするのに気がついた。

これはなにかあると、留守に忍び込んで根太をはがすと、案の定金包み。取り上げるとずっしり重い。

しめたと狂喜して、そっくり盗んでずらかった。

一方、水屋。

いつものように、帰って竹竿で縁の下をかき回すと
「おや?」

根太をはがしてみると、金は影も形もない。

「あッ、盗られちゃった。これで苦労がなくなった」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

江戸の「水」事情

江戸時代、本所や深川などの、水質が悪く井戸水が使えない低湿地帯では、天秤棒をかついで毎日やって来る水屋から、一荷(ふた桶)百文、一杯せいぜい二文ほどで、一日の生活用水や飲み水を買っていました。

水売りとも呼ばれたこも商売、狭い、限られた地域の、せいぜい何軒かのお得意を回るだけで、全部売りきってもどれほどの儲けにもならず、しかも雨の日も雪の日も、一日も休めません。貧しく、過酷ななりわいでした。

水屋は、享保年間(1716-36)にはもう記録にあり、水道がまだ普及しなかった、明治の末まで存在しました。

江戸時代には、玉川や神田上水から、水業者が契約して上水を仕入れ、船で運んで、それを水売りが河岸で桶に詰め替え、差しにないで得意先の客に売り歩いたものです。

水売り

これとは別に、夏だけ出る水売りがありました。こちらは、氷水のほか、砂糖や白玉入りの甘い冷水を、茶碗一杯一文(のち四文)で売っていましたが、こちらは今の清涼飲料水のような嗜好品です。

噺のなりたち

原話は明和5年(1768)刊の笑話本『軽口片頬笑』中の「了簡違」、安永3年(1774)刊『仕形噺』中の「ぬす人」、さらに文政10年(1813)刊『百成瓢』中の「富の札」などで、いくつかの小咄をつなぎあわせてできた噺です。

このうち、「ぬす人」は、千両拾った貧乏人が盗人を恐れて気落ちになる後半の大筋がすでにできあがり、オチは、百両だけ持って長屋から夜逃げするというもの。

「富の札」では、金を得るきっかけが富くじの当選に変わり、結末はやはり、百両のうち一両二分だけ持って逃走といういじましいものです。

大阪でも「水屋富」として演じられましたが、江戸の下町低湿地という特殊事情に根ざした内容なので、やはりこれは純粋な東京の噺といえるでしょう。

「あきらめ」の哲学?

「水屋の富」には、運命をありのままに受け入れる哲学を説き、江戸庶民に広く普及していた、石田梅岩の石門心学の影響が見られるといわれます。「天災」参照。

オチの「これで苦労がなくなった」というのも、その「あきらめの勧め」に通じると見られます。

生涯遊んで暮らせる金をむざむざ盗まれて、あきらめろと言われても、現代人にはやはり納得がいきませんし、この男が本気で胸をなでおろしているとすれば、一種のマゾヒズム的な異様さを感じる人も少なくないと思います。 

何百何十両手にしても、主人公は仕事を休むことも逃げることもできず、むろん今のように、預ける銀行などありません。休めば得意先が干上がるという道義心や、その地域を担当する代わりの者が見つからなければ廃業もできない、という水屋仲間の掟もあります。それよりそんな悪知恵も、金を活かす才覚もないのです。

たとえ下手人が捕まり、金が戻ったとしても、再び盗まれるまで、同じ恐怖と悪夢が、また果てしなく続くでしょう。してみると、結局これがもっとも現実的な解決法だったかと、納得できないでもありませんね。

志ん生描く江戸の「どん底」

三代目柳家小さんの十八番でしたが、戦後は五代目古今亭志ん生が、貧乏のどん底暮らしの体験を生かし、江戸の底辺を生きる水屋の姿をリアルに活写して、余すところがありませんでした。

志ん生のやり方では、水屋が毎晩毎晩、強盗に違う手口で殺され、金を奪われる夢を見ます。一昨日は首をしめられ、昨夜は出刃でわき腹を一突き。そして今夜は、何とマサカリで……。

このあたりの描写は、あまり哀れに滑稽で、笑うに笑えず、しかし、やっぱり笑ってしまいます。結局、哀しい「ハッピーエンド」になるわけですが、人生の苦い皮肉に身をつまされます。優れた短編小説のような、ほろ苦い味わいです。

志ん生没後は、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝に継承されました。その門下も含め、現在はあまり手掛ける人はないようです。

富くじ

この噺の題名にもなっている千両富は、「富久」「宿屋の富」「御慶」など、落語にはしばしば登場します。「宿屋の富」参照。

富くじは、各寺社が、修理・改築の費用を捻出するために行ったものです。文政年間(1818-30年)の最盛期には、多いときには月に二十日以上、江戸中で毎日どこかで富の興行があったといいます。有名なところは湯島天神、椙森稲荷、谷中天王寺などで、当たりの最低金額は一朱(一両の十六分の一)でしたが、この噺のような千両富の興行はめったになく、だいたい五百両富が最高でした。今の宝くじを想像していただければよろしいかと思いますが、明治になって廃止となり、戦後まで日本の社会では絶えていました。この制度、じつは不思議なものです。

唐茄子屋政談 とうなすやせいだん 演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

もう半分 もうはんぶん 演目

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ぞぞっとする怪談噺。陰にこもってものすごいっす。

別題:五勺酒 正直清兵衛

【あらすじ】

千住小塚っ原に、夫婦二人きりの小さな居酒屋があった。

こういうところなので、いい客も来ず、一年中貧乏暮らし。

その夜も、このところやって来るぼてふり(棒手振り)の八百屋の爺さんが
「もう半分。へえもう半分」
と、銚子に半分ずつ何杯もお代わりし、礼を言って帰っていく。

この爺さん、鼻が高く目がギョロっとして、白髪まじり。

薄気味悪いが、お得意のことだから、夫婦とも何かと接客してやっている。

爺さんが帰った後、店の片づけをしていると、なんと、五十両入りの包みが置き忘れてある。

「ははあ、あの爺さん、だれかに金の使いでも頼まれたらしい。気の毒だから」
と、追いかけて届けてやろうとすると、女房が止める。

「わたしは身重で、もういつ産まれるかわからないから、金はいくらでもいる。ただでさえ始終貧乏暮らしで、おまえさんだって嫌になったと言ってるじゃないか。爺さんが取りにきたら、そんなものはなかったとしらばっくれりゃいいんだ。あたしにまかせておおきよ」

女房に強く言われれば、亭主、気がとがめながらも、自分に働きがないだけに、文句が言えない。

そこへ、真っ青になった爺さんが飛び込んでくる。

女房が気強く
「金の包みなんてそんなものはなかったよ」
と言っても、爺さんはあきらめない。

「この金は娘が自分を楽させるため、身を売って作ったもの。あれがなくては娘の手前、生きていられないので、どうか返してください」
と泣いて頼んでも、女房は聞く耳持たず追い返してしまった。

亭主はさすがに気になって、とぼとぼ引き返していく爺さんの後を追ったが、すでに遅く、千住大橋からドボーン。

身を投げてしまった。

その時、篠つくような大雨がザザーッ。

「しまった、悪いことをしたッ」
と思っても、後の祭り。

いやな心持ちで家に帰ると、まもなく女房が産気づき、産んだ子が男の子。

顔を見ると、歯が生えて白髪まじりで「もう半分」の爺さんそっくり。

それがギョロっとにらんだから、女房は
「ギャーッ」
と叫んで、それっきりになってしまった。

泣く泣く葬式を済ませた後、赤ん坊は丈夫に育ち、あの五十両を元手に店も新築して、奉公人も置く身になったが、乳母が五日と居つかない。

何人目かに、ようようわけを聞き出すと、赤ん坊が夜な夜な行灯の油をペロリペロリとなめるので
「こわくてこんな家にはいられない」
と言う。

さてはと思ってその真夜中、棒を片手に見張っていると、丑三ツの鐘と同時に赤ん坊がヒョイと立ち、行灯から油皿をペロペロ。

思わず
「こんちくしょうめッ」
と飛び出すと、赤ん坊がこっちを見て
「もう半分」

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

志ん生得意の怪談噺

原話は、興津要の説にれば、井原西鶴『本朝二十不孝』巻三(貞享3=1686年刊)の「当社の案内申す程をかし」とのことですが、明確ではありません。

明治期には初代三遊亭円左、昭和期には五代目古今亭志ん生が好んで演じました。

志ん生は、後半の陰惨な印象をやわらげるためか、居酒屋のガラガラ女房がネコババをためらう亭主に「いやにおまいさん正直だね。正直だと一生貧乏すんだよ。この正直野郎」などと毒舌を吐く場面で少しでも笑いを多く取ろうとしていました。

五代目古今亭今輔も「ねぎまの殿さま」と並ぶ数少ない古典のネタとして演じ、三代目三遊亭金馬、十代目金原亭馬生、現柳家小三治のレパートリーでもあります。

今輔はあの独特のしゃがれ声が怪談噺にマッチしてかなり凄みがありました。馬生は、最後に赤ん坊がニタリと笑う顔が消え入りそうな「もう半分」の声とともにブキミでした。

円左、金馬、小三治などは居酒屋を永代橋の橋際、身投げの場所も永代橋に設定しています。

「正直清兵衛」

明治40年(1907)7月号の「文藝倶楽部」に載った五代目林家正蔵(長命で知られ、俗に「百歳正蔵」)の速記「正直清兵衛」が「もう半分」と酷似しています。あらすじは以下の通り。

本所林町の青物商・清兵衛は借金返済のため娘が身売りしてつくってくれた十五両を居酒屋に置き忘れてしまう。居酒屋の主人夫婦は知らぬ存ぜぬを押し通し、主人の忠右衛門は、泣く泣く帰る清兵衛を追って刺し殺した。その後生まれた赤ん坊は白髪で顔中皺だらけ。この子が成長して忠右衛門夫婦を殺し、あだを討つ。

という凄惨な噺ですが、どちらが先にできたのか、また、この噺が「もう半分」とどういう関係にあるのかは、まったく不明です。

千住小塚っ原

志ん生が居酒屋の場所にしていますが、現在の荒川区南千住で、江戸時代は千住宿の下宿(しもじゅく)と称し、千住大橋の南詰めに位置します。有名なお仕置き場(処刑場)がありました。北詰めの足立区北千住は、上宿と呼ばれました。

棒手振り

ぼてふり。天秤棒で商品をかついで売り歩く小商人、行商人です。店舗を持たない零細な魚屋、八百屋などはすべてこれで、落語ではおなじみの存在ですね。

風呂敷 ふろしき 演目

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不倫、不貞、間男。意表をつく風呂敷の使い方。ためになります。

別題:褄重ね 不貞妻 風呂敷の間男

【あらすじ】

亭主の熊五郎の留守に、かみさんが間男を引きずり込み、差しつ差されつ、しっぽり濡れている。

男の方はおっかなびっくりだが、かみさんは、この長屋で間男していないかみさんはないから、みな「お相手」がいると、いっこうに気にしない。

「ウチの宿六は、年がら年中稼ぎもしないで遊び放題で、もう愛想が尽きたから、牛を馬に乗り換えて、おまえさんと末永く、共白髪まで添い遂げたいねえ」
と言っては、気を引く。

馬肉や精進揚げをたらふく食って酒をのみ、
「どうせ亭主は横須賀に行っていて帰りは明日だから、今夜はゆっくり」
というところに、路地のどぶ板で足音。

戸をとんとんたたいて
「おい、今、けえった」

かみさん、あわてて間男を戸棚に押し込んだ。

どうせ酔っぱらっているから、すきを見て逃がす算段。

ところが熊五郎、家に入るなり、たいそう御膳が出ているなと言いながら、当の戸棚の前に寝そべると、そのまま高いびき。

これでは戸を開けられないので、かみさんが困っていると、そこへ現れたのが鳶頭。

かみさん、拝み倒して成り行きを白状し、
「ひとつ助けてくださいな」
と頼むので、鳶頭、
「見捨てるわけにもいかねえな」
と、かみさんを外に出し、熊をゆさぶり起こす。

寝ぼけ眼の熊に、かみさんは買い物に行ったとごまかして
「今日友達の家に行ったらな、おかしな話があったんだ。そこの亭主というのはボンヤリしたやつで、稼ぎもろくろく出来ねえから、かみさんが間男をしやがった」
「へえ、とんでもねえアマだ」
「どうせ宿六は帰るめえと思って、情夫を引きずり込んで一杯やってるところへ、亭主が不意に帰ってきたと思え。で、そのカカアがあわ食って、戸棚に男を隠しちまった」
「へえー」
「すると、亭主が酔っぱらって、その戸棚の前に寝ちまった」
「そりゃ、困ったろう」
「そこで、オレがかみさんに頼まれて、そいつを逃がしてやった」

熊が
「どんなふうに逃がしたか聞かしてくれ」
と頼むので、鳶頭
「おめえみたいに寝ころんでたやつを、首に手をこうかけて起こして」
「ふんふん」
「キョロキョロ見ていけねえから、脇の風呂敷ィ取って亭主の顔へこう巻き付けて……どうだ、見えねえだろう。そこでオレも安心して、戸をこういう塩梅にガラリと開けたと思いねえ」

間男を出し、拝んでねえで逃げろと目配せしておいて、
「そいつが影も形もなくなったとたんに、戸を閉めて、それから亭主にかぶせた風呂敷を、こうやって」
とぱっと取ると、熊が膝をポンとたたいて
「なあるほど、こいつはいい工夫だ」

底本:初代三遊亭円遊、五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は諸説紛々

興津要説では落語草創期から口演されてきた古い噺、矢野誠一説では幕末の安政5年(1858)に没した中平泰作なる実在人の頓知ばなしが元と、出自については風呂敷だけに、唐草模様のごとく諸説入り乱れ、マジメに追究するだけ野暮というものです。

ともかく生粋の江戸前艶笑落語ですが、珍しく上方に「輸出」され、東西で演じられます。

一応、安政2年(1855)刊『落噺笑種蒔』中の「みそかを」が原話らしきものとされますが、これは、間男をとっさに四斗樽の中に隠して風呂敷をかけた女房が、亭主に「これはなんだ」と聞かれたら「焚き付け(風呂焚き用のかんな屑)です」と答えようと決めていたのに、いざとなると震えて言葉が出ず、思わず樽の中の間男が「たきつけ、たきつけ」という、それこそかんな屑のようにつまらないもの。

この噺は少なくともそれ以前から演じられていたようなので、これはずっと古い出典のコピーか、逆に落語を笑話化したものの可能性があります。

「風呂敷」史 検閲逃れの悪戦苦闘

江戸時代には粋なお上のお目こぼしで、間男不義密通不倫噺として、大手を振って演じられていたわけですが、幕府の瓦解で薩長の田舎侍どもが天下を取ると、そうはいかなくなります。

明治、大正、戦前までは、「姦通罪」が厳として存在し、映画、演劇、芸能の端にいたるまで、人妻を口説く場面などもってのほか。台本などの事前検閲はもちろん、厳重をきわめました。

落語も例外ではなく、「不貞妻」と題したこの噺の初代三遊亭円遊の速記(明治25年)では、官憲をはばかって間男に「道ならねえことをするのだからあんまりよい心持ちじゃねえな」と言わせるなど、弁解に苦心しているのがありあり。

大正期の初代柳家小せんになると、女房はお女郎さんあがりで、以前のなじみ客に会ったので、あくまで昔話をするということで家に入れる設定になっています。

ここでのあらすじは、初代円遊の古い型を参照しましたが、実際にはこれ以後、現在に至るまで通常の寄席の高座で演じる「風呂敷」からは本来の不倫噺の要素がほとんど消えています。

この噺を好んで演じた五代目古今亭志ん生は、やはり間男噺としては演じず、男はただの知人で、嫉妬深い亭主の誤解を避けるため押し入れに隠すやり方をとり、濡れ場などはカットした上で、鳶頭が「女は三階(=三階)に家なし」「貞女屏風(=両夫)にまみえず」などのダジャレで、実際は不倫をしていなくても、誤解を招くことをしないよう女房に訓戒をたれる配慮をしていました。

現在もこのやり方がほとんどです。もっとも、いくら何でも女房が不倫を打ち明けて鳶頭に助けを請うのは不自然で、鳶頭がそれをいいよいいよと簡単に請合うのもおかしな話なので、噺の流れとしては今のやり方の方がずっと自然でしょう。

風呂敷ことはじめ

古くは平裏(ひらつづみ)と呼ばれ、平安時代末期から使われました。源平争乱期には、当然、討ち取った生首を包むのにも使われました。

江戸時代初期、銭湯が発達して、ぬか袋などを包むのに使われたため、この名が付きました。

なかには、布団が包める3m四方以上の大きなもの(大風呂敷)もあり、これが「ホラ吹き」を意味する「大風呂敷を広げる」という表現の元となったわけですね。

小間物屋政談 こまものやせいだん 演目

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もとは世話講談。志ん生もまねていました。

別題:小間物屋小四郎 万両婿(講談)

【あらすじ】

京橋五郎兵衛町の長屋に住む、背負い(行商)の小間物屋、相生屋小四郎。

今度上方へ行って一もうけしてきたいというので、その間、留守に残る女房のお時のことを家主の源兵衛にくれぐれも頼んで旅立つ。

東海道を一路西に向かって、ちょうど箱根の山中に差しかかった時、小便がしたくなり、雑木林の中に分け入ると、不意に
「もし……お願いでございます」
と、弱々しい男の声。

見回すと、裸同然で松の根方に縛りつけられている者がある。

急いで縄を切って助けると、男は礼を言って、自分は芝露月町の小間物屋、若狭屋の主人で甚兵衛という者だが、病身で箱根に湯治に行く途中、賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、松の木に縛られて身動きもならなかった、と語る。

若狭屋といえば、同業ながら行商の小四郎とは大違いで、江戸で一、二と聞こえた大店。

その主人が裸道中も気の毒だと同情した小四郎、金一両と自分の藍弁慶縞の着物に帯まで与えた。

甚兵衛は江戸へ帰り次第、小四郎の留守宅に借りたものを返しに行くというので、住所名前を紙に書いて渡し、二人は互いに道中の無事を祈って別れる。

さて、甚兵衛はその晩、小田原宿の布袋屋という旅籠に宿をとる。

ところが夜中、病身に山中で冷えたのがこたえてか、にわかに苦しみだし、敢えなく最期をとげてしまった。

宿役人が身元調べに来て、身の回り品を調べた。

着物から江戸京橋五郎兵衛町という住所の書きつけが出てきたので、てっきりこの男は小四郎という小間物屋に違いない、と。

すぐに家主の源兵衛と女房お時のところに、死骸を引き取りに来るよう、知らせが届いた。

泣きじゃくるお時をなだめて、源兵衛が小田原まで死骸の面通しに行ってみると、小四郎が江戸を出る時着ていた藍弁慶の袷を身につけているし、甚兵衛そのものの面差しが小四郎に似ていたこともあり、本人に間違いないと早合点、そのまま骨にして江戸へ持ち帰る。

三十五日も過ぎ、源兵衛はお時に、このまま女一人ではどんな間違いがあるかもしれないから、身を固めた方がいいと、せめて一周忌まではと渋るのをむりやり説き伏せ、小四郎の従兄弟にあたる、やはり同業の三五郎という男と再婚させた。

三五郎にとって、お時はもとより惚れていた女。

甲斐甲斐しくお時のめんどうを見るので、いつしかお時の心もほぐれ、小四郎のことをようよう思い切るようになった。

そんなある夜。

「おい、お時、……お時」

表の戸をせわしなくたたく者がある。

不審に思ってお時が出てみると、なんと死んだはずのもとの亭主、小四郎の姿。

てっきり幽霊と思い、
「ぎゃっ」
と叫んで大家の家に駆け込む。

事情を聞いた源兵衛が、半信半疑でそっとのぞいてみると、まさしく本物。

本人は上方の用事が長引いて、やっと江戸へ帰り着いてみると自分がすでに死人にされているのでびっくり仰天。

小田原の死体が実は若狭屋甚兵衛で、着物は小四郎が貸した物とわかっても、葬式まで済んでしまっているから、もう手遅れ。

お時も、いまさら生き返られてももとには戻れない、とつれない返事。

完全に宙に浮き、半狂乱の小四郎がおそれながらと奉行所へ訴え、名奉行大岡越前守さまのお裁きとあいなる。

結局、奉行のはからいで、小四郎は若狭屋甚兵衛の後家でお時とは比較にならないいい女のおよしと夫婦となり、若狭屋の入り婿として資産三万両をせしめ、めでたくこの世に「復活」。

「このご恩はわたくし、生涯背負いきれません」
「これこれ。その方は今日から若狭屋甚兵衛。もう背負うには及ばん」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

講談からの翻案

講談「万両婿」を人情噺に翻案したものか、またはその逆ともいわれます。

六代目三遊亭円生は、幕末から明治初期の五代目翁家さん馬の速記に、この噺が人情噺として載っていると語っていますが、現行の演出は、円生が、酔いどれ名人といわれた四代目小金井蘆洲の世話講談「万両婿」を新たに仕立て直し、オチもつけたものです。

ほかに、講釈師時代に蘆洲の弟子だった五代目古今亭志ん生も、聞き覚えで演じていました。

背負い小間物屋

白粉、紅、櫛、笄(こうがい)その他、婦人用品を小箪笥の引き出しに分けて入れ、得意先を回ります。

その中には性具の「張り形」もあり、「小間物屋 にょきにょきにょきと 出してみせ」という怪しげな雑俳もあります。もちろん、出したのは商売物だけでは……なかったでしょうが。

箱根の湯治場

江戸から片道三日ないし四日の行程で、箱根七湯といい、それぞれ本陣がありました。

湯治は七日間を単位に、一回り、二周りといい、最低三回りしなければ湯の効き目は出ないものとされました。

料金は、文政(1818-30)初年で三回りして三両といいますから、湯治も下層町人には行けて一生一度、多くは縁がないものでした。

五郎兵衛町

ごろべえちょう。京橋辺。鍜治橋の東。狩野屋敷の南にあり、東西に続く両側町。南は紺屋町、東は畳町、西は外堀端の通りで、鍜治橋御門外にあたります。中央区八重洲二丁目。

草創名主の中野五郎兵衛の住居があったことに由来するとのこと(東京府志料)。子孫は代々名主を世襲していました。

南裏を古着新道(ふるぎじんみち)と俗称したとか(御府内備考)。大正元年(1911)頃にはまだ十二軒の古着商店があったそうです(京橋繁昌記)。小四郎の住所とするには説得力があります。

明治二年(1869)に南隣の狩野探原屋敷を合併しています。

露月町

ろうげつちょう。芝辺。源助町の南、東海道沿いに位置する両側町の町屋です。「ろげつ」とも。港区東新橋二丁目、新橋四-五丁目。

東は陸奥会津藩松平中屋敷、南は柴井町、西は日蔭町通を境に御目付遠山家屋敷と旗本植村家屋敷。遠山家とは名奉行で知られる遠山景元の屋敷です。この町名を出すことで、名奉行や政談を想起させる仕掛けだったのかもしれません。

「ろ月町」と記したのが、宝永(1704-11)年間から「露月町」と改めたとのこと(文政町方書上)。寛永九年(1633)の寛永江戸図には「ろう月丁」と。

もとは日比谷御門内にあり、「老月村」と称していながら、徳川家康の関東入部で江戸城洲地区にともない、芝辺に移して「露月町」と改めたとも(新撰東京名所図会)。

このように、古町ながら、町起立、町名由来、草創人などは不明。

文政町方書上によれば、文政十年(1827)の統計は以下の通りです。

総家数は160あって、その内訳は
家持1
家主23
地借36
店借100
町内の家主、忠七の地内に出世稲荷
とのこと。

文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、鰻蒲焼き屋で尾張町(銀座辺)に出店した大和田兼吉がいるとのこと。

慶応三年(1867)には、中川喜兵衛が町内に江戸で最初の牛鍋屋を始めたそうです(芝区誌)。

一見平凡のようでありながら、少々進取の気性があって出世者も輩出しており、この噺にふさわしい町のように見えます。

【小間物屋政談 六代目三遊亭円生】

親子酒 おやこざけ 演目

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「こんなぐるぐる回る家は欲しくない」。 のんべえ親子の愉快なお話です。

別題:親子の生酔い

【あらすじ】

父子とも大酒のみの家。

先のあるせがれに間違いがあってはと、おやじの方がお互いに禁酒の提案をする。

せがれも承知してしばらくは無事にすんだが、十日目十五日目あたりになると、そろそろ怪しくなってくる。

ちょうど、せがれがお呼ばれに出掛けた留守、おやじは鬼の居ぬ間にと、かみさんに
「昼間用足しに出て、くたくたなんだが、なにかこう、疲れの抜けるものはないかい」
と、ねだる。

「じゃ、唐辛子」
「金魚が目をまわしたんじゃねえ。ひさびさだからその、一杯ぐらい……」

せがれが帰ったら言い訳できないと渋るのを、むりやり拝み倒して銚子一本。

こうなると、
「もう一本だけ」
「もうちょっと」
「もう一本」
「もう半分」
しまいには
「持って来ォいッ」

結局、ベロベロに。

「なにィ? 酔ってる ご冗談でしょう。大丈夫ですったら大丈夫だよッ。ナニ、あいつが帰ってきた? 早いね。膳をかたづけて、お父さんは奥で調べ物してますって言って、玄関で時間をつないどきなさい」

さすがにあわてて、酔いをごまかそうと無理に座りなおし、懸命に鬼のような顔を作って、障子の方をにらみつけている。

一方、せがれ。

こちらもグデングデンでご帰還。

なんでも、ひいきのだんながのめのめと勧めるのを、男と男の約束ですからと断ると怒って、強情張ると出入りを差し止めるというので意地になり、のまないと言ったらのまないと突っぱねた。

「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合とか。

二人で気まずそうににらめっこ。

おやじは無理ににらんで
「なぜ、そうおまえは酒をのみたがる。おばあさん、こいつの顔がさっきから三つに見えます。化け物だね。こんな者に身代は渡せませんよ」
と言うと、せがれが
「あたしだって、こんなぐるぐる回る家は欲しくない」

底本:五代目古今亭志ん生 五代目柳家小さん

【しりたい】

三百年来、のんべえ噺

現存する最古の原話は、宝永4年(1707)刊で露の五郎兵衛の笑話本『露休置土産』中の「親子共に大上戸」で、「親子茶屋」と並んでのんべえ噺としては最古のものです。

原話では、「ぐるぐる回る家……」の後におやじが、「あのうんつく(=ばか者)め、おのれが面(つら)は二つに見ゆるは」と言うところでオチをつけています。

その後、安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の「親子生酔」ほか、いくつかの類話が見られますが、大筋は変わっていません。

重宝なマクラ噺

落語としては上方ダネで、短い噺なので、もともと一席噺として演じられることは少なく、酒の噺のマクラや、小咄の寄せ集めのオムニバスの一編に用いられるなど、重宝な使われ方をしています。

野村無名庵(1888-1945)が著書『落語通談』の中で紹介している柳派(柳家小さん系統)のネタ帳「昔噺百々」(明治42年)には、426席が掲載されていますが、この噺の演題はなく、「親子酒」という独立した題が付いたのも大正以後の、かなり新しいことと思われます。

三遊亭円朝が明治期に「親子の生酔い」として速記を残しているのは、珍しい例でしょう。

戦後は五代目古今亭志ん生、八代目三笑亭可楽、五代目柳家小さんと、酒の噺が得意だった巨匠連が一席物として演じましたが、中でも志ん生は、長男・馬生、次男・志ん朝と、実生活でも「親子酒」を地でいっていました。

「上戸」と「生酔い」

よく言われる「上戸」はむろん、瓶などに水を注ぐ道具からきています。「大戸」「戸大」ともいいました。

「戸」は家の入口そのものを指し、質のよいジョウゴできれいに水を注ぐように、体内への入口である口から、絶え間なく酒が胃の腑に流れ込む意味です。

この噺は別題を「親子の生酔い」ともいいますが、「生酔い」は、「生」が、「生乾き」など、それほど程度が進まない状態を表すので、泥酔の一歩手前の「ほろ酔い」を意味するという解釈があります。

噺の中の親子は、どう見てもベロンベロンとしか思えませんね。

あくび指南 あくびしなん 演目

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あくびの稽古譚。じつにまあ、くだらないお噺で。

別題:あくびの稽古(上方)

【あらすじ】

町内の、もと医者が住んでいた空家に、最近変わった看板がかけられた。

墨黒々と「あくび指南所」。

「常盤津や長唄、茶の湯の稽古所は聞いたことがあるが、あくびの稽古てのは聞いたことがねえ、金を取って教えるからにゃあ、どこか違っているにちがいないから、ちょいと入ってみようじゃねえか」
と、好奇心旺盛な男、渋る友達を無理やり引っ張って、
「へい、ごめんなさいまし」

応対に出てきたのが品のよさそうな老人。

夫婦二人暮らしで、取り次ぎの者もいないらしい。

お茶を出され
「こりゃまた、けっこうな粗茶で……。すると、こちらが愚妻さんで」
とまぬけなことを口走ったりした後、相棒が、
「ばかばかしいから俺は嫌だ」
というので、熊一人で稽古ということになる。

師匠の言うことには、
「ふだんあなた方がやっているあくびは、あれは駄あくびといって、一文の値打ちもない。あくびという人さまに失礼なものを、風流な芸事にするところに趣がある」
との講釈。

すっかり関心していると
「それではまず季節柄、夏のあくびを。夏はまず、日も長く、退屈もしますので、船中のあくびですかな。……その心持ちは、八つ下がり大川あたりで、客が一人。船頭がぼんやり煙草をこう、吸っている。体をこうゆすって。……船がこう揺れている気分を出します。『おい、船頭さん、船を上手へやってくんな。……日が暮れたら、堀からあがって吉原でも行って、粋な遊びのひとつもしよう。船もいいが、一日乗ってると、退屈で、退屈で、……あーあ、ならねえ』とな」
「へえ。……えー、吉原へ……こないだ行ったら勘定が足りなくなって」
「そんなことはどうでもよろしい」
「船もいいが一日乗っていると、退屈で退屈で……ハークショイッ」

これをえんえんと聞かされている相棒、あまりの阿呆らしさに、
「あきれけえったもんだ。教わる奴も奴だが、教える方もいい年しやがって。さんざ待たされているこちとらの方が、退屈で退屈で、あーあ……ならねえ」
「ほら、お連れさんの方がお上手だ」

底本:三代目三遊亭小円朝

【しりたい】

たくさんあった指南噺

かつては「地口指南」「泥棒指南」など、多くの指南ものの噺がありましたが、今ではこの「あくび指南」と「磯のあわび」(別題「女郎買いの教授」)を除けばすたれました。

この噺を含めて指南ものは、安永年間(1772-81)以後、町人の間に習い事が盛んになった時期にまとめられたもので、「あくび指南」も文化年間(1804-18)にはすでに口演されていました。

「喧嘩指南」というのもあり、弟子入り早々、先制攻撃で師匠に「マゴマゴしてやがると張り倒すぞ」とやると、師匠が「うん、てめえはものになる」というもの。これは、「あくび指南」のマクラ小ばなしとして生き残っています。

同じくマクラとして、師匠が釣り糸に糸を垂らした弟子を下からひっぱり落としたので、「先生ひどい。今のはなんの魚がかかったんです?」「今のは河童だ」とオチる「釣り指南」を付けることもあります。

「下手くそにやれ」

五代目志ん生、三代目小円朝、三代目金馬などがよく演じました。

金馬によれば、この噺は昔から、待っている友達(登場人物)より、聞いている客の方があくびをするように、ことさらまずく演じるのが口伝だといいます。

まずくやって客を退屈させるのが口伝とはジョークなのか、奥深い高等数学なのかわかりませんが、昔、ある落語家がこの噺でオチ近くになったとき、客が大あくびをしたので、「あのお客さまはご器用な方だ」と即興でオチをつけて、そのまま高座を下りたとか。

四代目柳家小さんは、「後でオチのあくびが引き立つように師匠のあくびは、ごくあっさりとやるのがコツ」と芸談を残しています。

原話は「あくび売り」

安永5年(1776)、大坂で刊行された噺本集『立春噺大集』中の「あくびの寄合」が原話で、あくび売りが「薩摩のあくび」「仙台のあくび」「今橋筋のあくび」などをかごに入れて売り歩く趣向です。

これが上方落語「あくびの稽古」となり、かなり早く江戸にも移されたと思われます。上方では、入れ事として「風呂に入って月をながめるときのあくび」「将棋で相手の長考を待つときのあくび」など、演者によってさまざまに工夫されていました。

現在でも東西問わずよく口演され、音源も数多い噺ですが、上方のものでは、桂枝雀が漫画的で報復絶倒、あくびをしている余裕など与えないおかしさでした。

井戸の茶碗 いどのちゃわん 演目

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善人、正直者同士の意地の張り合い。いい噺です。

別題:茶碗屋敷

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎(ちよだ・ぼくさい)と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべきところに仕官していたが、今では、昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(ばいぼく=易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、
「これを二百文で買ってもらいたい」
と頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫(たかぎ・さだゆう)といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、
「仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ」
と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろう、という噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、
「即刻届けてまいれ」
と言いつけた。

清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、
「売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかない」
と突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒り出したから、清兵衛はあわてて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

「それなら、金と引き換えになにか品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょう」
と、大家が口をきき、
「それでは」
と祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目に止まり、これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清兵衛が佐太夫に、
「あの娘をご新造にして磨いてごらんなさい。たいした美人になります」
「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

底本:五代目古今亭志ん生、三代目春風亭柳枝

【しりたい】

原話は

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝の古い速記(明治24年)が残っていますが、戦後は、古今亭志ん生・志ん朝親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしいです。絶品です。涙が出ちゃいます。落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。これは人情噺といわれていますから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓(いわく)」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

「論語」でおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰め

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間(ちゅうげん)・小者、上に主人が住んでいます。行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜

ところで、この噺では、易者のことを「売卜(ばいぼく)」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。まあ、今では「占」と同じように使っています。「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違(すじかい)御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町(いまいだにまち)といい、現在の港区六本木二丁目。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛

この清兵衛さん、「もう半分」にちょこっと紹介しています。「もう半分」に似た因業・悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい コラム】

三代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24年(1891)にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。ところが、大正期の三代目柳家小さんの「井戸の茶碗」では今の形だ。

鶯亭金升の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目古今亭志ん生が得意とした。次男・志ん朝の「井戸の茶碗」も絶品だった。聴くにつけ、なんだか涙腺が緩んでしまていた。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。この説明は噺には出てこない。聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。小悪党が憎めない「業の肯定」をよしとする落語には珍しい。もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もないのか。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。善意に臭みが漂ってきて聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、千代田卜斎、高木佐太夫、正直清兵衛、三者の一途な猪突が平衡を揺るがす。

(古木優)

【井戸の茶碗 古今亭志ん朝】

品川心中 しながわしんじゅう 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

有数の名作です。長いので「上」と「下」に分かれています。たっぷりどうぞ。

【あらすじ】

【上】

品川の白木屋という見世でずっと板頭(いたがしら=筆頭女郎)を張ってきたお染。

寄る年波には勝てず、板頭とは名ばかり。

次第に客も減り、目前に迫る紋日のために必要な四十両を用立ててくれそうな、だんなもいない。

勝ち気な女だけに、恥をかくくらいならいっそ死んでしまおうと決心したが、一人より二人の方が、心中と浮き名が立ち、死に花が咲くから、適当な道連れはいないかと、なじみ帳を調べると、目に止まったのが、神田の貸本屋の金蔵。

独り者だし、ばかで大食らいで、助平で、欲張り。

あんな奴ァ殺した方が世のためと、
「これにきーめた」

金蔵、勝手に決められちまった。

お染は、さっそく金蔵あてに、
「身の上の相談事があるから、ぜひぜひ来てほしい」
という手紙がいく。

お染に岡惚れしている金蔵は、手紙を押しいただくと、喜んで品川にすっ飛んでくる。

ところが、当のお染が廻しに出たままなかなか帰らず、金蔵がふてくされて寝たふりをしている。

いつの間にか戻ってきたお染、なんと自分の遺書をしたためているので、金蔵は仰天。

家にあるもの一切合切たたき売っても、金蔵にこしらえられる金はせいぜい一両がいいとこ。

どうにもならないというので、つねづね年季が明けたら夫婦になると言っている手前、つい、
「いっしょに死んでやる」
と言ってしまった。

お染はしてやったりと大喜びで、さっそく明日の晩決行と決まる。

この世の名残と、その晩、お染がはりきってご奉仕したため、金蔵はもうフラフラ。

帰ると、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う。

世話になっている出入りの親分の家に、この世のいとま乞い。

まさか
「心中します」
とは言えないから、
「西の方に出かけて帰ってくるのは盆の十三日」
とか、わけのわからないことを言って、まぬけなことに肝心の脇差を忘れていってしまう。

その晩は、「勘定は六道の辻まで取りにこい」とばかり、金蔵のみ放題の食い放題。

あげくの果ては、酔いつぶれて寝込んでしまった。

そのばか面の寝顔を見て、お染はこんな野郎と冥土の道行きをしなければならないかと思うとつくづく情けなくなるが、選んだ以上どうしようもない。

たたき起こして、用意のカミソリで片を付けようとするが、気の小さい金蔵、いざとなるとブルブル震えてどうにもならない。

「じゃ、おまえさん、いっしょに死ぬというのはウソだったんだね、そんな不実な人なら、あたしは死んだ後、七日たたないうちに取り殺してやる」
と脅し、引きづるように品川の浜へ。

「おまえばかりを殺しゃあしない、南無阿弥陀仏」
と金蔵を突き落として、続いてお染も飛び込もうとすると、気配に気づいた若い者が抱き留める。

「待った。お染さん、悪い料簡を起こしちゃいけねえ。たった今、山の御前が五十両届けてくれなすって、おまえさんの喜ぶ顔が見たいとお待ちかねだ」
「あーら……でももう遅いよ。金さんが先に……」
「金さん? 貸本屋の金蔵ですかい? あんなもんなら、ようがす」

金が整ったと知ると、お染は死ぬのがばかばかしくなり、浜に向かって
「ねえ金ちゃん、こういうわけで、あたしゃ少し死ぬのを見合わせるわ。人間一度は死ぬから、いずれあの世でお目にかかりますから。それでは長々失礼」

失礼な奴もあるもの。

金蔵、飛び込んだところが遠浅だったため助かったが、おかげで若い衆とお染の話を海の中で聞き、さあ怒るまいことか。

「こんちくしょう、あのあまァ、どうするか見てやがれ」

やっとの思いで浜に上がったが、髪はザンバラ、何かで切ったのか、顔面は血と泥がこびりつき、着物はぐっしょり。

まさに亡者のような姿で、ふらふらになって親分の家へ。

ちょうどその時、親分宅ではガラッポンと勝負事の真っ最中。

戸口でガタリと音がしたので、「すわ、手入れだ」と大あわて。

糠味噌の中に突っ込んだ手でなすの漬け物をあわててつかみ、自分の金玉がもげたと勘違いする奴も出て、さんざん。

ところが、金蔵とわかって、一同ひと安心。

その中で一人だけ、泰然と座っている者がいる。

「なんだ、みんな、だらしがねえ。……伝兵衛さんを見ろ。さすがにお侍さんだ。びくともしねえで座っておいでた」
「いや、面目ない。とっくに腰が抜けております」

【下】

金蔵から、心中のし損ないでお染が裏切った一件を聞いた親分、
「ひどい女だ」
と同情し、
「そいつはひとつ仕返しをしてやる」
と請け合い、
「まだお染はてめえが死んだと思い込んでいるから、怪談仕立てでだましてやろう」
と計画を練る。

まず、金蔵が大引け前に、白木屋に引き返す。

現れた金蔵に、お染は幽霊かと思ってびっくりする。

金蔵は
「十万億土の原っぱのような所まで行ったが、お地蔵さまに帰れと言われて引き返してきた」
と打ち合わせ通り陰気な声で言い、線香を焚いて白団子と水をくれと縁起の悪いことを並べ、
「気分が悪いから寝かせてくれ」
と奥の間に引きこもってしまう。

そこへ現れたのが親分と、金蔵の弟に化け込んだ子分の民公。

お染に会って
「実は金公が土左衛門で上がったが、おめえが金公と年季が明けたら、いっしょになると言って交わした起請文が、ヘソのところへべったりへばりついていた。おめえのことを思って死んだんだと思うから、通夜にはおめえも来てもらって、線香の一本も手向けてやってもらいたい」
と泣いてみせる。

お染は、
「たった今しがた金蔵が来たばかりだよ」
と、ばかにしてせせら笑う。

そこで、証拠に金蔵の位牌をここに持ってきたと民公が懐を探って、
「確かにあったのにない、ない」
と芝居をしてみせる。

論より証拠と、お染が、金蔵の寝ている部屋に二人を案内すると、かねての打ち合わせ通り金蔵は隠れていて、布団の中には「大食院好色信士」と戒名が書かれた位牌が一つ。

さてはと、さすがのお染も青くなり、金蔵を突き落として、自分だけ都合よく心中をやめたことを洗いざらい白状。

「こいつは間違いなく恨みが残っていて、てめえは取り殺される」
と親分が脅すので、お染はもうオロオロ。

そこで最後の仕上げ。

「おめえがせめても髪を下ろして、すまなかったと謝まれば、金公も浮かぶに違いねえ」

お染が恐ろしさのあまり、根元からぷっつり髪を切り、その上、回向料として五両出したところで、当の金蔵がノッソリ登場。

「あーら、こんちくしょう、人をだましたんだね。なんぼなんでも人を坊主にして、どうするのさ」
「そう怒るな。てめえがあんまり客を釣る(だます)から、比丘(びく=魚籠)にされたんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

めったに聴けない「下」

三遊派に古くから伝わる郭噺の大ネタです。戦後も六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生ほか、ほとんどすべての大看板が演じており、もちろん現在もよく高座に掛けられます。

ただ、「上」だけでも長いうえ、「下」となると陰気で、噺としてもあまりおもしろくないということで、昔からあまり演じられません。

その中で、三代目三遊亭円馬は皮肉に「下」のみ演じていました。八代目桂文楽は、その円馬に多数の噺を教わり、もっとも私淑していましたが、「品川心中」は音源は残しているものの、好きな噺ではなかったようで、昭和の大看板では珍しく、めったにやりませんでした。

「下」では、六代目円生と五代目志ん生の速記が残されています。貴重です。

品川宿

東海道の親宿(起点)として古くから栄えました。新宿、板橋、千住と並んで、江戸近郊で非公認の大規模な遊郭を持つ四つの宿場(四宿=ししゅく)の筆頭です。

吉原の「北国(ほっこく)」に対し、江戸の南ということで、通称は「南」。宿場は徒歩新宿(かちしんしゅく)、北本宿、南本宿に分かれ、目黒川の向こう岸の南本宿は「橋向こう」といって小見世が多く、この噺の「白木屋」も南本宿です。

「居残り佐平次」の舞台になった相模屋(土蔵相模)、歌舞伎「め組の喧嘩」の事件の発端となる「島崎楼」など、有名な大見世はすべて北側にかたまっていました。

宿場の成立は享保年間(1716-36)ですが、飯盛り(宿場女郎)を置くことを許可され、本格的に遊郭として発足したのは万治2年(1659)でした。宿場よりも遊郭のほうが早かったことになります。

品川は芝・増上寺ほかの僧侶の「隠れ遊び」の本場でもありました。

六代目円生が「品川心中」のマクラでいくつか挙げている川柳。

品川は 衣衣の 別れなり
自堕落や 岸打つ波に 坊主寝る

表向き、僧侶は女犯厳禁ですから、同じ頭を丸めているということで、医者に化けて登楼するという、けしからん坊主が後を絶たなかったわけです。

品川を舞台にした噺は意外に少なく、「居残り佐平次」とこの「品川心中」のほかは艶笑落語の「品川の豆」ぐらいです。

演者によって、「剃刀」「三枚起請」などの廓噺を吉原から品川に代えて演じることもあります。

板頭

いたがしら。女郎屋で、最も月間の稼ぎのいい、ナンバーワンの売れっ子のことです。

吉原では「お職(おしょく)」と呼ばれましたが、品川ほかの岡場所(非公認の遊廓)では、その名称は許されず、遊女の名札の板が、その月の稼ぎ高の順に並べられるところから、そのトップを板頭と呼んだわけです。

紋日、物日

もんび、ものび。五節季や八朔(はっさく)、月見、三社祭りなどのハレの年中行事には、着物や浴衣を新調し、手ぬぐいに祝儀をつけて、若い衆や遣り手などの廓の裏方に配るなど、女郎にとってはかなりの金がかかりました。

売れていない女郎には大変ですが、これをやらないと恥をかき、住み替え(よりランクの落ちる岡場所へ移る)でもしなければなりませんでした。

この噺のお染の悩みは、それだけ切実だったわけです。

貸本屋

江戸時代は一軒構えの本屋はなく、もっぱら貸本屋が紺の前掛けをして、郭や大商店などの得意先を回りました。

幕末太陽傳

昭和32年(1957)の映画『幕末太陽傳』(日活、川島雄三監督)は、文久2年(1862)、幕末の世情騒然としたころの品川、土蔵相模を舞台に、落語の「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起請」「お見立て」を巧みにアレンジした、喜劇映画史上に残る傑作です。

土蔵相模とは、屋号は「相模屋」で、壁が土蔵づくりだったために、こう呼ばれていたそうです。

労咳(ろうがい=肺結核)病みの主人公・佐平次(フランキー堺)の「羽織落とし」のお座敷芸が評判でしたが、「品川心中」の部分では、なんといっても、遊郭へ春本(エロ本)を売りに来る当時29歳の小沢昭一の「あばたの金蔵」が絶品です。

「これが唐人のアレで……」といやらしく笑うこの小沢のあば金を見るだけでも、この映画は一見の価値あり。たいていの落語家は、とうてい及びません。

比丘尼される

「下」のオチですが、今ではわかりにくいでしょう。よく考えると単純で、「釣る(「だます」の意味あり)」から「魚籠(びく)」を出し、女を坊主にしたため、それと「比丘尼(びくに=尼僧)」をダジャレで掛けただけです。

「比丘尼」は、安永年間(1772-81)まで新大橋付近に出没した尼僧姿の売女「歌比丘尼」の意味もあり、品川遊郭の女郎であるお染が坊主にされて、最下級の「歌比丘尼」にまで堕ちたという侮辱もこめられているはずです。

猫の皿 ねこのさら 演目

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お目当ては皿か猫か。明治初年、端師が地方での逸品探しに血道上げて。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

【あらすじ】

明治の初めのこと。

ある端師(はたし)が、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

【しりたい】

原作

原作は、滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。鯉丈という人は、戯作者、つまり、今でいう流行作家。

滑稽本というのは、有名な弥次喜多の『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のような、ユーモア小説です。鯉丈は、落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。

自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。原作では猫じゃなくて猿!

それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬(うわぐすり)で黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でしたが、絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当でしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。これは、なかなかおもしろい見方で、志ん生が、ただのいきあたりばったりでなく、相当の勉強家でもあったことがよくわかります。

【もっとしりたい】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。立川志の輔ですらやっている。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかも。 もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから今ではこの題が一般的になってしまった。志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附(おみつけ)なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪(うちくるわ)だけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形もこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

 会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20(1887)年 
厩橋   明治26(1893)年 
両国橋  明治37(1904)年 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44(1911)年のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころらしい。

とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-1817)刊行の滝亭鯉丈「大山道中膝栗毛」に、「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

(古木優)

寝床 ねどこ 演目

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だんなの義太夫を聴く長屋の連中の七転八倒ぶり。文楽のおはこです。

別題:素人義太夫 素人浄瑠璃(上方)

【あらすじ】

ある商家のだんな、下手な義太夫に凝っている。

それも人に聴かせたがるので、皆迷惑。

今日も、家作の長屋の連中を集めて自慢のノドを聞かせようと大張りきり。

番頭の茂造に長屋を回って呼び集めさせ、自分は小僧の定吉に、晒に卵を買ってこい、お茶菓子はどうした、料理は、見台は、と、うるさいこと。

ところが茂造が帰ると雲行きが怪しくなる。

義太夫好きを自認する提灯屋は、お得意の開業式で三百五十ほど請け負ったので来られず、小間物屋はかみさんが臨月で急に虫がかぶり(産気づき)、鳶頭はごたごたの仲裁と、口実を設けて誰も来ないとわかると、だんなはカンカン。

店の一番番頭の卯兵衛まで、二日酔いで二階で寝ているというし、他の店の者もやれ脚気だ、胃痙攣だと、仮病を使って出てこない。

「それじゃ、おまえはどうなんだ?」「へえ、あたしはその、一人で長屋を回ってまいりまして……」

しどろもどろで言い訳しようとするとだんながにらむので「ええ、あたしは因果と丈夫で。よろしゅうございます。覚悟いたしました。伺いましょう。あたしが伺いさえすりゃ」と、涙声。

だんなは怒り心頭で「ああよござんす、どうせあたしの義太夫はまずいから、そうやってどいつもこいつも仮病を使って来ないんだろ。やめます。だがね、義太夫の人情がわからないようなやつらに店ァ貸しとく訳わけはいかないから、明日十二時限り明け渡すように、長屋の連中に言ってこい」と大変な剣幕。

返す刀で、まずい義太夫はお嫌でしょう、みんな暇をやるから国元へ帰っとくれと、言い渡してふて寝。

しかたなく店の者がもう一度長屋を回ると、店だてを食うよりはと、一同渋々やってくる。

茂造が、みんなさわりだけでも聞きたがっていると、うって変わってお世辞を並べたので、意地になっていただんな、現金なものでころりと上機嫌。

長屋の連中、陰で、横町の隠居がだんなの義太夫で「ギダ熱」を患ったとか、佐々木さんとこの婆さんは七十六にもなって気の毒だとかぶつくさ。

だんな、あわただしく準備をし直し、張り切ってどら声を張り上げる。

どう見ても、人間の声とは思えない。

動物園の脇を通るとあんな声が聞こえる、この家の先祖が義太夫語りを絞め殺したのが祟ってるんだと、一同閉口。

まともに義太夫が頭にぶつかると即死だから、頭を下げて、とやっているうち、酒に酔って残らずその場でグウグウ。

だんな、静かになったので、感動して聞いているんだろうと、御簾内から覗くとこのありさまで、家は木賃宿じゃないと怒っていると、隅で定吉が一人泣いている。

だんなが喜んで、子供でさえ義太夫の情がわかるのに、恥ずかしくないかと説教し、定吉に「どこが悲しかった? やっぱり、子供が出てくるところだな。『馬方三吉子別れ』か? 『宗五郎の子別れ』か? そうじゃない? あ、『先代萩』だな」「そんなとこじゃない、あすこでござんす」「あれは、あたしが義太夫を語った床じゃないか」「あたくしは、あすこが寝床でございます」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

日常語だった「寝床」

上方落語「素人浄瑠璃」を、「狂馬楽」と呼ばれた奇人・三代目蝶花楼馬楽が明治中期に東京に移したとされますが、明治22年(1889)の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残るので、それ以前から東京でも演じられていたのでしょう。

古くから東西で親しまれた噺で、少なくとも戦前までは「下手の横好き」のことを「寝床」といって普通に通用したほどです。

昭和5年(1930)、雑誌「キング」に連載され、古川ロッパ主演で舞台や映画でも人気を集めた佐々木邦原作の「ガラマサどん」では、ビール会社のワンマン社長が社員相手に「寝床」をそっくり再現して笑いを誘いました。これもむろん落語が下敷きになっています。

原話と演者など

江戸初期の寛永年間(1624-44)刊行の笑話本『醒睡笑』や『きのふはけふの物語』にすでに類話があります。最も現行に近い原話は安永4年(1775)刊『和漢咄会』中の「日待」で、オチも同じです。

三代目三遊亭円馬が上方のやり方を踏襲して演じ、それを弟子筋の八代目桂文楽が直伝で継承、十八番としました。

主人公がいかにへたくそとはいえ、演じる側に義太夫の素養がないとこなしきれないため、大看板でも口演できるものは限られます。近代では、文楽のほか六代目三遊亭円生が子供義太夫語りの前身を生かして「豊竹屋」とともに自慢ののどを聞かせ、三代目金馬、八代目三笑亭可楽も演じました。

異色の志ん生版「寝床」

五代目古今亭志ん生は、「正統派」の文楽・円生に対抗して、ナンセンスに徹した異色の「寝床」を演じました。前半を短くまとめ、後半、だんなが逃げる番頭を追いかけながら義太夫を語り、「獲物」が蔵に逃げ込むと、その周りを悪霊のようにグルグル回ったあげく、とうとう蔵の窓から語り込み、中で義太夫が渦を巻いて、番頭が悶絶というすさまじいもの。オチは「今ではドイツにいるらしい」という奇想天外。

実はこれ、師匠だった初代柳家三語楼のやり方をそのまま踏襲したものです。三語楼は、英語まじりのくすぐりを連発するなど、生涯エログロナンセンスの異端児で通した人でした。

むろん、このやり方では「寝床」の題のいわれもわからず、正道とはいえません。無頼の青春を送り、不遇が長かった志ん生は、師匠の反逆精神にどこか共鳴し、それを引き継いでいたのでしょうか。このやり方で演じるのは少数です。あまりよいできとは思えませんが。

義太夫

大坂の竹本義太夫(1651-1714)が貞享2年(1685)ごろ、播磨流浄瑠璃から創始、二世義太夫(1691-1744)が大成し、人形芝居(文楽)とともに、上方文化の礎として興隆しました。

噺に登場する「千代萩」など三編はいずれも今日も文楽の重要なレパートリーになっている代表作です。義太夫が庶民間に根付き、必須の教養だった明治期までは、このほか「釜入りの五郎市」「志度寺の坊太郎」などの子役を並べました。

だんなの強権

この噺の長屋は通りに面した表長屋で、おそらく二階建て。義太夫だんなは、居附き地主といって、地主と大家を兼ねています。

表長屋は、店子は鳶頭など、比較的富裕で、今で言う中産階級の人々が多いのですが、単なる賃貸関係でなく、店に出入りして仕事をもらっている者が大半なので、 とても「泣く子とだんな」には逆らえません。

加えて、江戸時代には、引越しして新しい長屋を借りるにも、元の家主の身元保証が必要な仕組みで、二重三重に、義太夫の騒音に命がけで耐えなければならないしがらみがあったわけです。

つるつる 演目

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終始わさわさそわそわの噺。ちょっとばかりなまめかしくてよいです。

別題:思案の外幇間の当て込み

【あらすじ】

頃は大正。

吉原の幇間一八は、副業に芸者置屋を営む師匠の家に居候している。

美人の芸者お梅に四年半越しの岡ぼれだが、なかなか相手の気持ちがはっきりしない。

今夜こそはと、あらゆる愛想を尽くし、三日でいいから付き合ってくれ、三日がダメなら二日、いや一日、三時間、二時間、三十分十五分十分五分三分一分、なし……なら困ると、涙ぐましくかき口説く。

その情にほだされたお梅、色恋のような浮いた話ならご免だが、この間、あたしが患った時に寝ずの看病をしてくれたおまえさんの親切がうれしいから、もし女房にしれくれるというのならかまわないよ、という返事。

ところがまだあとがある。今夜二時に自分の部屋で待っているが、おまえさんは酒が入るとズボラだから、もし約束を五分でも遅れたら、ない縁とあきらめてほしい、と釘を刺されてしまう。

一八は大喜びだが、そこへ現れたのがひいきのだんな樋ィさん。

吉原は飽きたので、今日は柳橋の一流どころでわっと騒ごうと誘いに来たとか。

今夜は大事な約束がある上、このだんな、酒が入ると約束を守らないし、ネチネチいじめるので、一八は困った。

今夜だけは勘弁してくれと頼むが、
「てめえも立派な幇間のなったもんだ」
と、さっそく嫌味を言って聞いてくれない。

事情を話すと、
「それじゃ、十二時まで付き合え」
と言うので、しかたなくお供して柳橋へ。

一八、いつもの習性で、子供や猫にまでヨイショして座敷へ上がるが、時間が気になってさあ落ちつかない。

遊びがたけなわになっても、何度もしつこく時を聞くから、しまいにだんながヘソを曲げて、「おまえの頭を半分買うから片方坊主になれ」の、「十円で目ん玉に指を突っ込ませろ」の、「五円で生爪をはがさせろ」のと無理難題。

泣きっ面の一八、結局、一回一円でポカリと殴るだけで勘弁してもらうが、案の定、酔っぱらうとどう水を向けてもいっこうに解放してくれないので、階段を転がり落ちたふりをして、ようやく逃げ出した。

「やれ、間に合った」
と安心したのも束の間。

お梅の部屋に行くには、廊下からだと廓内の色恋にうるさい師匠の枕元を通らなければならない。

そこで一八、帯からフンドシ、腹巻と、着物を全部継ぎ足して縄をこしらえ、天井の明かり取りの窓から下に下りればいいと準備万端。

ところが、酔っている上、安心してしまい、その場で寝込んでしまう。

目が覚めて、慌ててつるつるっと下りると、とうに朝のお膳が出ている。

一八、おひつのそばで、素っ裸でユラユラ。

「この野郎、寝ぼけやがってッ。なんだ、そのなりは」
「へへ、井戸替えの夢を見ました」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

文楽対志ん生

八代目桂文楽が、それまでこっけい噺としてのみ演じられてきたものを、幇間の悲哀や、お梅の性格描写などを付け加え、十八番に仕上げました。

五代目古今亭志ん生もよく演じましたが、お梅とのやりとりを省いて、だんなに話す形にし、いじめのあざとい部分も省略。

柳橋から帰る途中で、蒲鉾をかじりながらさいこどん節の口三味線で浮かれるなど、全体的にこっけい味を強くして特色を出しています。

今聴き比べてみても、両者甲乙つけがたいところです。私(高田)個人では、志ん生版が好みですが。

実録「樋ィさん」

文楽演出のこの噺や「愛宕山」に登場するだんなは、れっきとした実在の人物です。

八代目桂文楽の自伝「あばらかべっそん」によると、樋ィさんの本名は樋口由恵といい、甲府出身の県会議員のせがれで、運送業で財をなした人です。文楽と知り合ったのは関東大震災の直後。若いころから道楽をし尽くした粋人で、文楽の芸に惚れこみ、文楽が座敷に来ないと大暴れして芸者をひっぱたくほどわがままな反面、取り巻きの幇間や芸者、芸人には、思いやりの深い人でもあったとか。

「つるつる」の一八を始め、文楽の噺に出てくる幇間などは、すべて当時樋口氏がひいきにしていた連中がモデルで、この噺の中のいじめ方、からみ方も実際そのままだったようです。

柳橋の花柳界

安永年間(1772-81)に船宿を中心にしておこりました。

実際の中心は現在の両国付近で、天保末年に改革でつぶされた新橋の芸者をリクルートした結果、最盛期を迎えました。

明治初年には、芸者六百人を数えたといいますが、盛り場の格としては、深川(辰巳)より1ランク下とみなされました。

幸田文原作、成瀬巳喜男監督の名作『流れる』(1952)は、敗戦直後、時代の波とともにたそがれゆく柳橋の姿を、リアルな視点で描写しています。

井戸替え

井戸浚い、さらし井戸ともいいますが、夏季に疫病防ぎのために、長屋総出で井戸底をさらい、清掃します。

井戸屋が請け負うこともあり、いずれにしてもふんどし一丁で縄をつたって井戸底に下りる、一日がかりの危険な作業でした。

【もっとしりたい】

八代目桂文楽のおはこ。三代目三遊亭円遊が明治22年(1889)にやった「思案の外幇間の当て込み」という速記が残っている。「つるつる」に当たるもの。原話は文化年間にあったそうだが、円遊が文楽への中継ぎをしたようなものだ。双方とも、おおまかな筋やオチなどは同じ。文楽のほうが、幇間のうわっついた調子や筋の運びに生彩と洗練を感じさせてくれる。オチの「井戸替え」が、今ではわかりにくい。毎年、 7月7日が井戸浚いの日だった。大名屋敷から裏長屋までそれぞれに行っていた。「井戸浚い」「さらし井戸」などとも呼んだそうだ。この日、長屋の住人は、井戸の化粧側をはずして、大桶に縄をつけて車で井戸の水をすくい上げる。7割ほどの水をすくうと、井戸屋の職人が縄を伝い「つるつる」と井戸の底に下りて、井戸の周りを洗ったり底に落ちているさまざまなものを拾い上げる。その上で井戸水を全部くみ上げて、作業は終わる。長屋の住人たちは、化粧側をつけ直し、板戸のふたをしてお神酒と塩を供える。井戸屋の伝う縄は水に濡れていたので、「するする」ではなく「つるつる」という音がしたのだとか。円遊は、オチのところを、「ああ、おまえのことだから、おおかた井戸浚いの夢でも見たのだろう」「なあに、ちょっとブランコの稽古でございます」と、やっている。「ブランコ」などとハイカラな物を出してしゃれたつもりなのだろうが、筋の効果では文楽のほうに磨きがかかっている。

(古木優)

【つるつる 八代目桂文楽】

蝦蟇の油 がまのあぶら 演目

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ホント、昔はよく縁日で見かけたもんです、こういうの。

【あらすじ】

その昔、縁日にはさまざまな物売りが出て、口上を述べ立てていたが、その中でもハバがきいたのが、蝦蟇の油売り。

ひからびたガマ蛙を台の上に乗せ、膏薬が入った容器を手に、刀を差して、白袴に鉢巻、タスキ掛けという出て立ち。

「さあさ、お立会い。御用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越し笠のうち、物の文色(あいろ)と道理がわからぬ……」

さまざまに言い立てて、なつめという容器の蓋をパッと取り、「手前持ち出したるはこれにあるヒキセンソウはがまの油。……手前持ちいだしたるは四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本。これを名づけて四六のがま。このがまの棲める所は、これより、はァるゥか北にあたる筑波山の麓にて、オンバコという露草を食らう。……このがまの油を取るには、四方に鏡を立て、下に金網を敷き、その中にがまを追い込む。がまはおのれの姿が鏡に映るのを見ておのれで驚き、たらーりたらりと脂汗を流す。これを下の金網にてすき取り、柳の小枝をもって、三七二十一日の間とろーり、とろりと煮詰めたるのがこのがまの油だ。赤いはシンシャヤシイの実、テレメンテエカにマンテエカ、金創には切り傷、効能は、出痔イボ痔、はしり痔ヨコネガンガサ、その他腫れ物一切に効く。いつもはひと貝で百文だが、今日はおひろめのため、小貝を添え、二貝で百文だ」と、怪しげな口上で見物を引きつけておいて、膏薬の効能を実証するため、刀で白紙を三十六枚に切ってみせた。

「……かほどに斬れる業物でも、差裏差表へがまの油を塗る時は、白紙一枚容易に斬れぬ。さ、このとおり、たたいて……斬れない。引いても斬れない。拭き取る時はどうかというと、鉄の一寸板もまっ二つ。触ったばかりでこれくらい斬れる。だがお立会い、こんな傷は何の造作もない。がまの油をこうして付ければ、痛みが去って血がピタリと止まる」

こんな案配で、むろんインチキだが、けっこう売り上げがいいので気を良くしたがまの油売り、売り上げで大酒をくらってベロンベロンに酔ったまま、例の口上。

ロレツが回らないので支離滅裂。それでもどうにか紙を切るところまではきたが、「さ、このとおり、たたいて……切れた。どういうわけだ?」

「こっちが聞きてえや」
「驚くことはない、この通りがまの油をひと付け付ければ、痛みが去って……血も……止まらねえ……。二付け付ければ、今度はピタリと……かくなる上はもうひと塗り……今度こそ……トホホ、お立会い」
「どうした」
「お立会いの中に、血止めはないか」

【しりたい】

はなしの成立と演者

「両国八景」という風俗描写を中心とした噺の後半部が独立したものです。酔っぱらいが居酒屋でからむのを、連れがなだめて両国広小路に連れ出し、練り薬売りや大道のからくり屋をからかった後、がまの油売りのくだりになります。

前半部分は先代(三代目)金馬が酔っぱらいが小僧をなぶる「居酒屋」という一席ばなしに独立させ、大ヒット作にしました。金馬は、がまの油の口上をそのまま「高田の馬場」の中でも使っています。

昭和期では三代目春風亭柳好が得意にし、六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵も演じました。大阪では、「東の旅」の一部として桂米朝など大師匠連も演じました。

上方版ではガマの棲息地は「伊吹山のふもと」となります。

オチは現行のもののほか、「(血止めの)煙草の粉をお持ちでないか」とすることもあります。

本物は……?

本物の「がまの油」はセンソといい、れっきとした漢方薬です。ガマの分泌液を煮詰めて作るのですから、この口上もあながちデタラメとはいえません。ただし、効能は強心剤、いわゆる気付け薬です。一種の覚せい剤のような作用があるのでしょう。

口上中の「テレメンテエカ」は、正しくは「テレメンテエナ」で、ポルトガル語です。松脂を蒸留して作るテレビン油のこと。芳香があり、染料に用います。

六代目円生「最後の高座」

1979年(昭和54)8月31日、死を四日後にひかえた昭和の名人・六代目三遊亭円生は、東京・三宅坂の国立小劇場でのTBS落語研究会で、「蝦蟇の油」を回想をまじえて楽しそうに演じ、これが公式には最後の高座となりました。

この高座のテレビ放送で、端正な語り口で解説を加えていた、劇作家・榎本滋民氏も2003年(平成15)1月16日、亡くなっています。

マンテエカ

『昭和なつかし博物学』(周達生、平凡社新書)によると、マンテエカはポルトガル語源で豚脂、つまりラードのことで、薬剤として用いられたそうです。

いやあ、知識というものはどこに転がっているかわかりませんな。不明を謝すとともに、周氏にはこの場を借りて御礼申し上げます。

同書は、ガマの油売りの詳細な実態ほか、汲めども尽きぬ文化人類学的知識が盛りだくさんでおすすめの一冊です。

ジャズのディジー・ガレスピー。ご当地シリーズの名曲「manteca」はジャマイカをイメージして彼が作ったものですが、このマンテカは「蝦蟇の油」のマンテエカと同語源です。英軍が現地人を虐殺、そのごろごろした死体の山をマンテカと呼んだというのが曲名の由来です。世界は狭いもので。なんともいやはや。

「ガマの油」でご難の志ん生

五代目古今亭志ん生が前座で朝太時分のこと。東京の二ツ目という触れ込みでドサ(=田舎)まわりをしているとき、正月に浜松の寄席で「がまの油」を出し、これが大ウケでした。

ところが、朝の起き抜けにいきなり、宿に四,五人の男に踏み込まれ、仰天。

「やいやい、俺たちゃあな、本物のガマの油売りで、元日はばかに売れたのに、二日目からはさっぱりいけねえ。どうも変だてえんで調べてみたら、てめえがこんなところでゴジャゴジャ言いやがったおかげで、ガマの油はさっぱりきかねえってことになっちまったんだ。おれたちの迷惑を、一体全体どうしてくれるんだッ」

ねじこまれて平あやまり、やっと許してもらったそうです。

志ん生が自伝「びんぼう自慢」で、懐かしく回想している「青春旅日記」の一節です。

【蝦蟇の油 三遊亭円生】

疝気の虫 せんきのむし 演目

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疝気とは泌尿器科全般の病。そこに虫がいて悪さする果てに女体ではどうなる。

【あらすじ】

ある医者が妙な夢を見る。

おかしな虫がいるので、掌でつぶそうとすると、虫は命乞いをして「自分は疝気の虫といい、人の腹の中で暴れ、筋を引っ張って苦しめるのを職業にしているが、蕎麦が大好物で、食べないと力が出ない」と告白する。

苦手なものはトウガラシ。

それに触れると体が腐って死んでしまうため、トウガラシを見ると別荘、つまり男のキンに逃げ込むことにしているとか。

そこで目が覚めると、これはいいことを聞いたと、張り切って往診に行く。

たまたま亭主が疝気で苦しんでいて、何とかしてほしいと頼まれたので、先生、この時とばかり、かみさんが妙な顔をするのもかまわず、そばをあつらえさせ、亭主にその匂いをかがせながら、かみさんにたべてもらう。

疝気の虫は蕎麦の匂いがするので、勇気百倍。すぐ亭主からかみさんの体に乗り移り、腹の中で大暴れするので、今度はかみさんの方が七転八倒。

先生、ここぞとばかり、用意させたトウガラシをかみさんになめさせると、仰天した虫は急いで逃げ込もうとその場所に向かって一目散に腹を下る。

「別荘はどこだ、別荘……あれ、ないよ」

【しりたい】

疝気

江戸時代の漢方の病名など大ざっぱですから、要するに男のシモの病全般、尿道炎、胆石、膀胱炎、睾丸炎等々、ひっくるめて疝気と称していました。昔から「疝気の大きんたま」などというのもそのためです。ちょうど女の癪(しゃく)に相当するもので、

「悋気(りんき)は女の慎むところ、 疝気は男の苦しむところ」

というのは落語のマクラの紋切り型。落語に登場の病気では、癪・恋わずらいと並んでビッグ3でしょう。「藁人形」「万病円」「にせ金」「夢金」「狸の釜」ほか、挙げればキリがありません。

この噺の「療法」はもちろんインチキのナンセンスですが、実は、疝気の正体はフィラリアという寄生虫病という説もあり、あながち虫に縁がなくもありません。

なお、噺の中で疝気の虫がそばが好物というのは、そばは腹が冷えるので、疝気には禁物とされていたのを戯画化したのでしょう。

戦後では、五代目古今亭志ん生の独壇場で、四代目三遊亭円遊も得意でした。

志ん生と「疝気の虫」

昭和24年(1949)の新東宝映画『銀座カンカン娘』で、落語家・桜亭新笑に扮した五代目志ん生(当時59歳)が「疝気の虫」を縁側で稽古する場面をご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。

旧満州から帰国後間もなく、まだすっきりと痩せていますが、そばをたぐるしぐさはなかなかあざやかなものです。

志ん生は実演では最後に「別荘……」と言って、キョロキョロ辺りを見回す仕草で落としていました。

その他の演者では、バレ(艶笑)の要素を消すため、

「ひょいと表に飛び出した」「畳が敷いてあった」「スポッ」

などとすることもあります。 

疝気のマジメな療法

最近人気の怪談集「新耳嚢」の本家、根岸鎮衛著「耳嚢」巻五に、疝気の薬としてブナの木の皮を用いたところ、翌日にはケロリと治ってしまったという逸話が載っています。漢方にはこのような処方はなく、

「阿蘭陀(おらんだ)法の書を翻訳 する者有て其(の)説を聞(く)に、 符を号するが如しとかや(よく合致するようだ)」

とあります。同書にはそのほかにも、疝気治療に関するまじないや薬の記述が多く、やれ「マタタビ一匁を酒か砂糖湯に 溶かしてのむ」とか、四国米を毎日4-5粒ずつ食べろとか、著者当人も相当悩まされた末、ワラにもすがったあとがありありです。

【疝気の虫 古今亭志ん生】

三軒長屋 さんげんながや 演目

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両脇が鳶頭に剣術先生、真ん中が妾宅はうるさくて鬱々と。だんなが企んで。

【あらすじ】

三軒続きの長屋があって、一番端が鳶頭(とびがしら)政五郎の家、奥が剣術の先生で「一刀流指南」の看板を出す楠運平橘正国という、いかめしく間抜けな名の侍の道場兼住居。

その二軒にはさまれて、金貸しの伊勢屋勘右衛門、通称ヤカン頭のイセカンのお妾が、女中とチン一匹と一緒に住んでいる。このお妾、ここのところノイローゼ気味。

というのも、右隣の鳶頭の家には気の荒い若い者が四六時中出入りする上、年がら年中酒をのんでは「さあ殺せ」「殺さねえでどうする」と物騒な喧嘩騒ぎ。

おまけに木遣りの稽古でエンヤラヤと野蛮な声を張り上げられては生きた心地もしない。

左隣の道場はといえば、このごろは夜稽古まで始め、夜中まで「お面、小手」とやられて眠れない。

たまりかねてだんなのイセカンに、引っ越させてくれと要求する。

だんなも鳶頭の家の前を通る度に二階から、ヤカンヤカンとはやされるので腹が立っているが、このお妾、わがままで今まで何度も転居させられたので、費用も馬鹿にならない。

この長屋は家質に取ってあってもうすぐ流れるから、その時きっと追い出してやると慰めたのを、井戸端で女中がしゃべったから、鳶頭のかみさん、さあ怒った。

家主ならともかく、イセカンのお妾風情に店立てを食ってたまるかと、亭主をたきつける。

鳶頭、思案の末、運平先生にこれこれと相談した。

おのれ勘右衛門、武士を侮る憎い奴、隣に踏んごみ素っ首を……と憤るのをなだめ、あっしに策がありますと一計を授けて、何やら打ち合わせ。

翌日、運平先生がまずイセカンを訪れ、「この度道場が手狭になったので、転居することになったが、転居費用の捻出のため千本試合を催すことになった、真剣勝負もござるゆえ、首の二つや三つはお宅に転げ込むかと存ずるが、ご了承願いたい」と脅すと、ヤカン頭はたまげて、五十両出すからどうか試合は中止してほしいと平身低頭。

次は鳶頭。

こちらも、「転宅するが、やはり費用が馬鹿にならないので賭場を開く、座敷の真ん中にこもっかぶりの酒を置き、刺身は出刃を転がしておいて勝手に作ってもらうので、気の荒い鳶連中のこと、斬り合いになって首の二十や三十……」と言いだしたから、イセカン、うんざりしてまた五十両。

それにしても、隣の先生も同じようなことを、と気になって、「おまえさん。どこへ越すんだい」「へえ、あっしが先生のところに、先生があっしのところへ」

底本:五代目柳家小さん

【しりたい】

長い噺

長いはなしなので、伊勢勘のお妾がだんなに苦情を言った後、場面変わって、鳶の若い者が喧嘩を始めるあたりで切って上・下に分け、リレー落語として演じられることもあります。

三軒長屋というのは、落語によく登場する貧乏な裏長屋と異なり、表通りに面していて、二階建てです。鳶頭や大工の棟梁など、社会的信用があり、人の出入りが多い稼業の人間が借りたものでした。

棟続きでも実際は一戸建ての借家に近く、それだけ家賃も高かったのです。

人物の移動が頻繁で、登場人物も多いので、よほどの力量のある大真打でないとこなせません。この噺を得意とした五代目古今亭志ん生は、自伝「びんぼう自慢」で、明治の名人・四代目橘家円喬は、鳶の者三十人ばかりが、「まるでそこいらにモソモソしているのが目に見えるようでありました」と回想しています。

艶笑版「三軒長屋」

同じ題名でも、こちらはポルノ版です。

三軒続きでの長屋で、左側に独り者、真ん中に夫婦者、右側に夫婦と赤ん坊。

真ん中の夫婦は、所帯を持ってもう七、八年になるのに、まだ子供ができない。

「てめえの畑が悪い」「いや、おまえさんのタネが悪い」と、けんかの末、隣の夫婦は新婚で、半年たたないうちに子供をこさえたのは、何か製造法に秘密があるのだろうと夜、こっそり秘儀を見学。

見ていると、亭主が後ろから……で、かみさんは、起きて泣き出した赤ん坊に乳をふくませ、

「ほら、オッパイないない」とあやしながらの大奮闘。これを見ていた隣の夫婦も早速まねして始め、亭主が突然抜いて、「ほら、オチンチンないない」。

これをのぞいていた独り者が、「ほら、お手手ないない」。

鳶頭の女房

ここに登場する鳶頭の女房は、自分を「おれ」と呼ぶなど、男言葉を使い、乱暴な物言いをします。

歌舞伎『め組の喧嘩』のめ組の辰五郎女房・お仲も同じです。

乱暴者ぞろいの鳶の若い者をなめられず押さえていくためにはそうしなければならなかったのです。

五代目志ん生も、声は女で口調は男、それでいて年増女の色気が出なければいけないので、難しいと語り残しています。

【三軒長屋 五代目柳家小さん】