くみたて【汲み立て】演目

【RIZAP COOK】

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八笑人からの構成。町内の連中のすったもんだ噺。少々匂い立ちますが。

あらすじ

町内の連中が、美人の常磐津のおっ師匠さん目当てに、張り合って稽古に通っている。

なぁに、常磐津などはどうでもいいので、気に入られていいことがしたい、ただそれだけ。

それだけに嫉妬が渦巻き、ライバルに対する警戒は相当なもの。

「野郎が四度稽古してもらったのになんでオレはまだ二度なんだ」
とか、
「膝と膝を突き合わせて、間違えたらツネツネしてもらえるから、唄より三味線を習おう」
とかいうような、不心得者も出る。

ところが、留さんが、
「師匠はどうやら建具屋の半公とできてるらしい」
という噂を持ってきたので、一同、顔色が変わる。

なんでも、師匠の部屋へ通ってみると、半公が主人然として、師匠と火鉢越しのさし向かい。

火鉢が真ん中。

半公向こうの師匠こっち、師匠こっち半公向こう。

やがて半公がすっと立つと、師匠もスッ。

ぴたっと障子を閉めて、中でコチョコチョと二人じゃれついていたというから、穏やかではない。

そこで、今、師匠の家に手伝いに行っている与太郎を捕まえて聞きただすと、案の定、このごろ、半公がちょくちょく泊まりに来る、という。

ある日、二人が大げんかして、半公が師匠の髪をつかんでポカポカなぐったが、その後、師匠が
「いやな奴に優しくされるより、好きな人にぶたれた方がいい」
と抜かしたそうな。

そういえば、与太郎、今日はいつになくいい身なりをしているので、聞いてみると、
「師匠と半公のお供で柳橋から船で夕涼みだ」
という。

「おっ師匠さんが『あの有象無象どもが来ると、せっかくの気分が台なしだから、ないしょにしておおき』って言ってた」
「なんだ、その有象無象ってえなあ」
「うん、おまえが有象で、こっち全部無象」
「こんちくしょうめっ」

「あんまり人をばかにしてやがるから、これから皆で押しかけて、逢瀬をぶちこわしてやろうじゃねえか」
と、すぐ相談がまとまった。

「半公の野郎が船の上で、師匠の三味線で自慢のノドをきかすに違いないから、こっちも隣に船を寄せて、鳴り物をそろえてドンチャカドンチャカ、ばか囃子でじゃましてやろう」
というわけ。

「逃げたらどこまでも追いかけていって、半公がなにかぬかしたら、かまわないから袋だたきにしちまおう」
という算段。

さて数刻後、船の中。

半公がいよいよ端唄をうなり出すと、待ってましたとばかり隣からピーヒャラドンドン。

そのうるさいこと。

「やあ、お師匠さん、見てごらん。有象無象が真っ赤になって太鼓をたたいてら」
「うるせえ、てめえじゃ分からねえ。半公を出せ」
「なんだ、なんだ。師匠とどういう仲になろうと、てめえたちの指図は受けねえ。糞でもくらやあがれ」
「おもしれえ。くってやるから持ってこい」

やりあっていると、間に肥船がスーッ。

「汲み立てだが、一杯あがるけえ?」

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しりたい

「八笑人」の懲りない面々  【RIZAP COOK】

オチの部分の原話は、滝亭鯉丈(1777-1841)作の滑稽本『花暦八笑人』三編下(文政6年刊=1823)です。

「八笑人」は落語「花見の仇討ち」のネタ本でもあり、いわばこれは、その続編の一部。

あの能天気な連中が、また懲りずに、妙ちくりんな趣向を思いつきます。

これはその一人卒八が考えた納涼の趣向で、両国橋ぎわに小船と屋根舟を出し、仲間が両方に分かれてののしりあう、というもの。

卒八「サア両方でくそをくらえ、イヤうぬ(=おまえ)くらえ、われくらえと、いいつのっている中へ、おれが、こえ船をたのんで、うわのりをして、グツと中へのり込で、サア汲たてあがらんかあがらんかというが、おちだがどうだろう」

というわけで、オチがついた馴れ合い狂言を仕組むのですが、あまりに下品というのでこれは中止。改めて、両国橋から身投げのふりで飛び込むという人騒がせをやらかすことになります。

『花暦八笑人』と滝亭鯉丈については「花見の仇討ち」をお読みください。

六代目円生の極めつけ  【RIZAP COOK】

明治から大正にかけ、俗に品川の円蔵と呼ばれた四代目橘家円蔵が高座にかけました。記録は明治30年(1897)の円蔵の速記が最古で、その没後は、門下の五代目三遊亭円生、孫弟子の六代目円生へと継承されました。

もっとも、円蔵もあまり演じなかったので、円生は、初代三遊亭円右の速記などで覚えたと語っています。戦後は、円生の独壇場で、極めつけの十八番でした。

常磐津の素養がないとできない噺なので、円生没後は弟子の五代目円楽がたまにやるくらいでしたが、近年では三遊亭小遊三や五街道雲助などが手掛けています。

蚊弟子  【RIZAP COOK】

常磐津のお師匠さんは、「百川」始め、落語にはちょくちょく登場します。

「オシサン」または「オッショサン」と発音しますが、落語で師匠というと、美人でおつな年増ときまっています。そこで、我こそは師匠としっぽりと……と、よからぬ下心で経師屋連がわいわい押しかけ、騒動を起こすわけです。

なかには「蚊弟子」といって、暑いので、涼みがてら夏のうちだけ稽古にくる手合いもあったとか。

江戸末期には、各町内に一人は遊芸の師匠がいたもので、清元、常磐津、長唄、歌沢などさまざまでした。なんでもござれ教える師匠も中にはいて、それを俗に五目(寿司の五目から)の師匠と呼んだものです。

肥船  【RIZAP COOK】

葛飾や市川など江戸湾の在から肥を仲買いし、取り仕切る渡世人の組織は、香具師、博打などと並んで一種の治外法権を持ち、なかでも葛西の肥汲みは、江戸の裏社会に隠然たる勢力を持っていました。

彼らが立往生(ストライキ)をすれば、大名から長屋の町人に至るまで、肥の引き取り手がなく、たちまちに往生することになるわけです。

集めた肥を船で運ぶようになったのは、永代橋が落下する大惨事(文化4=1807年)のあと、橋を荷車が通れなくなったからだといいます。

船は出ませんが、肥汲みが登場する落語には、ほかに「法華長屋」があります。

【語の読みと注】
常磐津 ときわづ
有象無象 うぞうむぞう
逢瀬 おうせ
端唄 はうた
経師屋連 きょうじやれん:師匠を張り合う意味

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ねこのさら【猫の皿】演目

お目当ては皿か猫か。明治初年、端師が地方での逸品探しに血道上げて。

別題:高麗の茶碗 猫の茶碗

あらすじ

明治の初年。

ある端師が、東京では御維新このかた、あまりいい掘り出し物が見つからなくなったので、
「これはきっと江戸を逃げだした人たちが、田舎に逸品を持ち出したのだろう」
と踏み、地方をずっと回っていた。

中仙道は熊谷在の石原あたりを歩いていた時、茶店があったので休んでいくことにし、おやじとよもやま話になる。

そのおやじ、旧幕時代は根岸あたりに住んでいて、上野の戦争を避けてここまで流れてきたが、せがれは東京で所帯を持っているという。

いろいろ江戸の話などをしているうちに、なんの気なしに土間を見ると、猫が飯を食っている。

猫自体はどうということないが、その皿を見て端師、内心驚いた。

絵高麗の梅鉢の茶碗といって、下値に見積っても三百円、つまり旧幕時代の三百両は下らない代物。

とても猫に飯をあてがうような皿ではない。

「さてはこのおやじ、皿の価値を知らないな」
と見て取った端師、なんとか格安で皿をだまし取ってやろうと考え、急に話題を変え
「時におやじさん、いい猫だねえ。こっちへおいで。ははは、膝の上に乗って居眠りをしだしたよ。おまえのところの猫かい」
「へえ、猫好きですから、五、六匹おります」

そこで端師、
「自分も猫好きでずいぶん飼ったが、どういうものか家に居つかない。あまり小さいうちにもらってくるのはよくないというが、これくらいの猫ならよさそうなので、ぜひこの猫を譲ってほしい」
と持ちかける。

おやじが妙な顔をしたので
「ハハン、これは」
と思って
「ただとは言わない、この三円でどうだい」
と、ここが勝負どころと思って押すと、しぶしぶ承知する。

さすが商売人で、興奮を表に出さずさりげなく
「もう一つお願いがあるんだが、宿屋へ泊まって猫に食わせる茶碗を借りると、宿屋の女が嫌な顔をするから、いっそその皿もいっしょにくれないか」

ところがおやじ、しらっとして、
「それは差し上げられない、皿ならこっちのを」
と汚い欠けた皿を出す。

端師はあわてて
「それでいい」
と言うと
「だんなはご存じないでしょうが、これはあたしの秘蔵の品で、絵高麗の梅鉢の茶碗。上野の戦争の騒ぎで箱はなくしましたが、裸でも三百両は下らない品。三円じゃァ譲れません」
「ふーん。なぜそんなけけっこうなもので猫に飯を食わせるんだい」
「それがだんな、この茶碗で飯を食わせると、ときどき猫が三円で売れますんで」

底本:四代目橘家円喬

しりたい

滝亭鯉丈

原作は、滝亭鯉丈(?-1841)が文政4年(1821)に出版した滑稽本『大山道中膝栗毛』中の一話です。鯉丈という人は、滑稽本作者、つまり、今でいう流行作家。滑稽本というのは、『東海道中膝栗毛』に代表される、落語のタネ本のようなユーモア小説、コミック小説です。鯉丈は落語家も兼ねていたといいますから、驚きです。自分の書いたものを、高座でしゃべっていたかもしれませんね。原作では猫じゃなくて猿! それはともかく、もとの鯉丈の本では、買われるのは猫でなく、実は猿なのです。汚い猿が、金銀で装飾した、高価な南蛮鎖でつながれていたので、飼い主の婆さんに、「あの猿の顔が、死んだ母親にそっくりだから」 と、わけのわからないことを言って猿ごと鎖をだまし取ろうとするわけです。改めて、鯉丈について文学辞典ふうに。

滝亭鯉丈、本名は池田八右衛門。生年は不明ですが、没年は天保12年(1841)6月10日です。享年(数え年での没年齢)は60余歳とのこと。小石川の称名寺に葬られています。養家に入った池田家は300石取りの旗本でしたが、鯉丈が入婿した時には禄を失っていたそうです。下谷広徳寺門前稲荷町で櫛屋を商っていましたが、浅草伝法院前に移り、さらに浅草駒形町河岸通りに引っ越しました。三田村鳶魚が取材した鯉丈の曽孫の話では、乗物師、または縫箔屋だったとか。新内節の名手で遊芸にも通じ、寄席芸人だったとのこと。器用な人だったのですね。これは、鯉丈の著作や弟だという話もある為永春水の著作からうかがえることです。滑稽本作者としては、最初は十返舎一九や式亭三馬の亜流のようなものをいくつか出していましたが、一九と三馬の作風をまぜこぜにしたような『八笑人』初編-四編追加(文政3-天保5年刊)と『和合人』初-三編(文政6-天保12年刊)で知られるようになりました。「廃頽期の江戸町人の低俗な遊戯生活を写実的に描いて独自の位置を占め、鯉丈の名が文学史に記録されるのは、この二作によるものである。他には、文政年間の二世南仙笑楚満人(為永春水)の作に合作者として関与したこともあり、人情本に『明烏後正夢』初-三編(文政二-五年刊)、『霊験浮名滝水』(同九年刊)があるが、いうに足りない」とは『日本古典文学大辞典』(岩波書店、1985年)での神保五弥の言。手厳しいですが、文学史的にはそんなところなのでしょう。

端師

はたし。「果師」とも「端師」とも書き、はした金で古道具を買いたたくところからついた名称であるようです。「高く売り果てる(売りつくす)」意味の「果師」だともいいますが、「因果な商売」の「果」かもしれません。

いつも掘り出し物を求めて、旅から旅なので、三度笠をかぶり、腰に矢立(携帯用の筆入れ)を差しているのが典型的なスタイルでした。この男がだまし取りそこなう「高麗の梅鉢」は、「絵高麗」といって、白地に鉄分質の釉薬で黒く絵や模様を描いた朝鮮渡来の焼き物。梅の花が図案化されています。たいへんに高価な代物です。

演者

明治の円喬も含め、五代目古今亭志ん生以前には、この噺の演題は「猫の茶碗」が一般的でしたが、絵高麗は皿なので、志ん生が命名した「猫の皿」が妥当でしょう。

明治44年(1911)の円喬の速記では、時代を明治維新直後、爺さんは江戸近郊・根岸の人で、上野の戦争の難を避けて、皿を持って疎開したと説明されます。

一方、志ん生は、江戸末期、武士が困窮のあまり、先祖伝来の古美術品を売り払ったのでこうした品が地方に流れたという時代背景を踏まえ、幕末のできごとにしています。なかなかおもしろい見方です。志ん生がただのいきあたりばったりでなく、相当な勉強家でもあったこともよくわかります。いまの人でいちばんのおすすめは柳家小三治。これに尽きます。あのすっとぼけたかんじがね、なんともね、いいですね。

【もっとしりたい】

ここに登場する「はたし」は、果師、端師、他師などと書き習わされる。骨董の仲買商だ。この噺のように、高価なものを安い値段で買い取って高く売りつけるのが商売。ささやかな欺きやだましはお手の物なのに、ここでは茶屋のおやじにしてやられる。そこが落語らしい。

かつては、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬がよくやったようだ。音源で知るだけのことであるが。とりわけ志ん生は骨董好きのためか、マクラをたっぷり振って毎度のおかしさだった。音源を聴くと明快だ。今ではだれもがよくやる。立川志の輔ですらやっている。この噺は短いので、マクラをたっぷり振らないともたないのが難点。オチでしか笑わせられないので、マクラでさんざん笑わせておくしかない。表現力の乏しい噺家には意外に難しいかもしれない。もとは「猫の茶碗」という題だったのが、志ん生が「猫の皿」でやってから、今ではこの題が一般的になってしまった。志ん生の型は、彼自身が尊敬してやまなかった四代目橘家円喬による。円喬は、明治期の中仙道熊谷在の石原に設定。茶屋のおやじは、明治元年(1868)5月15日に起こった彰義隊の戦いで江戸から逃げてきたことになっている。そのため、おやじが果師から東京の近ごろのようすを聞き出すくだりがある。

「あの、御見附なんぞなくなりましたそうですな」
「ああ、内曲輪だけは残っているが、外曲輪はたいがい枡形もこわしてしまって、元の形はなくなった」
「へえ、浅草のほうはどうなりました」
「あの見附はいちばん早くなくなって、吾妻橋でもお厩橋、両国橋、みんな鉄の橋に架けかわって立派なものだ」
「へえ、観音さまはやはりあすこにありますか」
「あんな大きな御堂はどこへも引っ越しはできない。まあひとつお茶をくんな」

会話に出てくる三つの橋は隅田川に架かっているが、鉄橋化した年は以下の通り。

吾妻橋  明治20年(1887) 
厩橋   明治26年(1893) 
両国橋  明治37年(1904) 

だからこの噺は、明治37年(1904)以降の話題なのだろう。さきほど引用した円喬の「猫の茶碗」の速記は明治44年(1911)のもの。彰義隊の顛末が人々の記憶から消え去らずにいたころの話のようである。

とはいえ、この噺の原話は意外に古い。文化年間(1804-17)刊行の滝亭鯉丈『大山道中膝栗毛』に「猿と南蛮鎖」として出てくる。

茶屋で南蛮鎖にゆわえられた猿。男は高価な南蛮鎖が欲しくて
「猿の顔が死んだおふくろに生き写し。どうか売ってください」
と茶屋のばあさんに掛け合う。
ばあさん
「この鎖をつけると、むしょうに猿が売れます」
と鎖を綱に取り替えて、にっこり。

こっちもおかしい。

古木優

【語の読みと注】
端師 はたし
柳亭鯉丈 りゅうていりじょう
明烏後正夢 あけがらすのちのまさゆめ
釉薬 うわぐすり
御見附 おみつけ
内曲輪 うちくるわ

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はなみのあだうち【花見の仇討ち】演目

 洒落がうつつに。花見どころじゃありません。

別題:八笑人 花見の趣向 桜の宮(上方)

あらすじ

上野の桜も今が満開。仲のよい四人組。

今年は花見の趣向に、周りの人間をあっと驚かすことをやらかそうと相談する。

一人の提案で、敵討ちの茶番をすることに決めた。

一人が適当な場所で煙草をふかしていると、二人が巡礼に扮して通りかかり、
「卒爾(そつじ=失礼)ながら、火をお貸し願いたい」
と近づく。

「さあ、おつけなさい」
と顔を見合わせたとたん、
「やあ、なんじは、なんの誰兵衛よな。なんじを討たんがため、兄弟の者この年月の艱難辛苦。ここで逢ったが優曇華(うどんげ)の花咲き待ちたる今日ただ今、親の仇、いで尋常にィ、勝負勝負」
と立ち回りになる。

ころ合いを見計らって、もう一人が六部の姿で現れ、
「双方、ともに待った、待った」
と中に割って入り、
「それがしにお預けください」
「いざ、いざ」
と三人が刀を引いたら、
「後日、遺恨を含まぬため、仲直りの御酒一献差しあげたい」
「よろしきようにお任せ申す」
と、これから酒肴を用意して思い思いの芸尽くしを見せれば、これが趣向とわかり、やんやの大喝采、というもくろみ。

危なっかしいながらも、なんとか稽古をした。

さて翌朝。

止め男の六部役の半公、笈(おい)を背負って杖を突いた六部のなりで、御徒町まで来かかると、悪いことにうるさ方のおじさんにバッタリ。

甥の六部姿を見ると、てっきり家出だと思い込み
「べらぼうめ。一人のおふくろを残してどうするんだ。こっちィ来い」

強引に、家まで引きずっていく。

このおじさん、耳が遠いので弁解しても、いっこうに通じない。

しかたがないので酔いつぶそうとするが、あべこべに半公の方が酔っぱらって、高いびき。

こちらは巡礼の二人組。

一人が稽古のために杖を振り回したのが悪く、通りかかった侍の顔にポカリ。

「おのれ武士の面体に。無礼な巡礼。新刀の試しに斬ってつかわす。そこへ直れ。遠慮いたすな」

平謝りしても、許してくれない。

そこへもう一人の侍。

まあまあとなだめて
「ただの巡礼とは思えぬ。さぞ大望のあるご仁とお見受けいたす」

こうなればヤケで、二人は
「なにを隠そう、われわれは七年前に父を討って国許を出奔した山坂転太を……」
とデタラメを並べる。

侍二人は感心し、
「仇に出会ったら、必ず助太刀いたす」
と迷惑な約束。

一方、仇役。

いっこうに六部も巡礼も現れないのでイライラ。ようやく二人が見えたので
「おーい、こっち」

仇の方から呼んでいる。

予定通り
「いざ尋常に勝負勝負」
「かたはら痛い。両人とも返り討ちだ」
と立ち回りを始めるが、止め男の半さんが来ない。

三人とも斬り合いながら気が気でないが、今さらやめられない。

あたりは黒山の人だかり。

いいかげん間延びしてきたころ、悪いことに、騒ぎを聞いて現れたのがあの侍二人。

スパっと大刀を抜き、
「孝子両人、義によって助太刀いたすッ」
ときたから、たまらない。

仇も巡礼も、尻に帆かけて逃げだした。

「これ両名の者、逃げるにはおよばん。勝負は五分だ」
「いえ、肝心の六部が参りません」

底本:四代目橘家円蔵

【RIZAP COOK】

しりたい

作者は滝亭鯉丈  【RIZAP COOK】

滝亭鯉丈(りゅうてい・りじょう、1777?-1841)が文政3年(1820)に出版した滑稽本、『花暦八笑人』初編を(たぶん作者当人が)落語化したものです。

鯉丈は小間物屋のおやじでしたが、寄席に入り浸っているうちに本職になってしまい、落語家と音曲師を兼ねて人気を博した上、『八笑人』で一躍ベストセラー作家にもなりました。

なお、鯉丈の著作で落語になったものとしては、『大山道中膝栗毛』からとった「猫の茶碗(猫の皿)」があります。

花暦八笑人  【RIZAP COOK】

この原作本は岩波文庫や講談社文庫で読めます。岩波文庫は品切れ、講談社文庫は絶版ですが、今は古書もネットでたやすく買えるようになりました。

茶番(=素人芝居)をネタにし、八人の呑気者が春夏秋冬それぞれに、茶番の趣向で野外に繰り出し、滑稽な失敗を繰り返すという、くすぐり満載のドタバタ喜劇です。

この「花見の仇討ち」は初編、春の部にあたり、オチがないだけで、三人が逃げる場面まで筋やくすぐりもほとんど同じです。

のちに三代目三遊亭円馬が上方の型を参考に、現行により近い形にしましたが、大きな改変はしていません。

ちなみに第二編(夏)は、調子がおかしい人に扮した野呂松という男が馬に履かせるわらじを武士にぶつけて追いかけられるドタバタ。

第三編(秋)は、身投げ女に化けた卒八が両国橋から身を投げると、納涼の屋形船からこれを見ていた若い衆が、われもわれもと魚の面をかぶって飛び込むという、ハチャメチャ。

第四編(冬)はさるお屋敷で忠臣蔵の芝居(茶番)を興行したものの、例によって猪の尻尾に火がついて大騒ぎという次第です。

第二編以後は落語化されていませんが、どなたかアレンジしませんかね。材料が満載です。

優曇華  【RIZAP COOK】

うどんげ。仇討ちの口上の決まり文句です。優曇華はインドの伝説にある、三千年に一度咲く花。正確な口上では、「盲亀の浮木優曇華の花待ち得たる今日の対面」といいます。目の見えない亀が浮木を探しあてるのも、優曇華の花を見られるのも、いずれもめぐり逢うことが奇蹟に近いことの例えです。

これはあくまで芝居の話で、実際の仇討ちの場で、悠長にそんなことを言える道理がありません。もっとも、仇討ちの実態はそんなもので、仇にめぐり逢えるケースはほとんどなく、空しく路傍に朽ち果てた者は数知れずでした。

六部  【RIZAP COOK】

ろくぶ。「一眼国」にも登場しましたが、正確には、六部(六十六部)と巡礼は区別されます。

早く言えば、六部は修行僧、巡礼は本来、西国三十三箇所の霊場を巡る俗人のみを指します。

六部は、古くは天蓋、笈、錫杖に白衣姿で、法華経六十六部を一部ずつ、日本六十六か国の国分寺に奉納して歩く僧ですが、江戸時代には納経の習慣はなくなりました。

巡礼は、現代の「お遍路さん」にも受け継がれていますが、男女とも、ふだん着の上から袖なしの笈鶴を羽織り、「同行二人」と書いた笠をかぶります。これは、「常に弘法大師と同行」の意味。野村芳太郎監督の映画『砂の器』にも登場しました。

桜の宮  【RIZAP COOK】

上方では「桜の宮」。騒動を起こすのが茶番仲間ではなく、浄瑠璃の稽古仲間という点が東京と異なりますが、後の筋は変わりません。五代目笑福亭松鶴が得意とし、そのやり方が子息の六代目松鶴や桂米朝に伝わりました。

東京では、明治期に「花見の趣向」「八笑人」の題で演じた四代目橘家円喬が、「桜の宮」を一部加味して十八番とし、これに三代目三遊亭円馬が立ち回りの型、つまり「見る」要素を付け加えて完成させました。

円馬直伝の三代目金馬を始め、六代目円生、八代目林家正蔵(彦六)、五代目柳家小さんなど、戦後は多くの大看板が手がけています。

【RIZAP COOK】

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