ごにんまわし【五人廻し】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

明治の噺。古典落語とは関東大震災以前の作品のことなんですね。

あらすじ

上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁おいらんが一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。

これは明治初めの吉原の話。

売れっ子の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。

宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。

若い者、といっても当年四十六になる牛太郎ぎゅうの喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。

最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。

おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履ぞうりの音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。

頭にくるのも無理はない。

男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」

その一言に、男が気色けしきばんだ。

「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門おおもんくぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和げんな三年に庄司甚右衛門しょうじじんえもんてえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町ふきやちょうにあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原もとよしわら、こっちを新吉原しんよしわらといったてぇんだ。わかったか。土手どてから見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町なかのちょうだ。まず左手に伏見町ふしみちょうだ。その先は江戸町えどちょう一丁目、二丁目、それから揚屋町あげやちょう角町すみちょう、奥が京町きょうまち一丁目、二丁目。これが五丁町ごちょうまちってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋じょうろやが何軒、大見世おおみせが何軒、中見世ちゅうみせが何軒、小見世こみせが何軒あって、どこの見世は女郎じょうろが何人で、どこの誰が間夫まぶにとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名げんじなから本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間たいこもちが何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋だいやの数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻すいどじりにある犬のくそだってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、はなからニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心かっけしょうしん、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」

喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。

四隣沈沈しりんじんじん空空寂寂くうくうじゃくじゃく閨中寂寞けいちゅうじゃくまくとやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房けいぼう中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。

平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。

黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。

その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。

やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛もくべえ旦那の部屋に居続け。

少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」

お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。

一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」

あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」

しりたい

みどころ  【RIZAP COOK】

明治初期の吉原遊郭の様子を今に伝える、貴重な噺です。「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。

やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。

とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。

それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。

廓噺と初代小せん  【RIZAP COOK】

吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本しゃれぼんの流れを汲み、かつては数多く作られ演じられましたが、現在では一部の噺を除いてすたれました。洒落本は、遊郭を舞台にして「通人つうじん」についておもしろおかしく描いた読み物です。18世紀後半に流行しました。

「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。

歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺くるわばなしを伝え残しました。

「五人廻し」の演出  【RIZAP COOK】

現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。

登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通はんかつう田舎大尽いなかだいじん(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫まぶということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。

ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。

円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日いっかに解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管きせるを突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。

オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。

二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。

新吉原の図

新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。

新吉原

甚助

甚助じみていけねえ。

この噺には、そんなフレーズが登場します。吉原ならではの言葉です。「甚助じんすけ」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。②とは少々異なります。「甚助」はほかの噺にも出てきます。

【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

とうなすやせいだん【唐茄子屋政談】演目

【RIZAP COOK】

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

どんなはなし?

吉原遊びが過ぎて勘当された若旦那の徳三郎を、相手にする者はいない。

吾妻橋で身投げのすんで、叔父さんに助けられ、唐茄子を売り歩くことに。

長屋衆の同情でたちまち売れて、残った唐茄子は二個。

その帰途、裏長屋のひもじい母子に唐茄子と売上をくれてやった……。

放蕩の果てに噛みしめた人の情け。お楽しみはこれからかもね。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

もっと知りたい方は以下をお読みください。

【あらすじ】

若旦那の徳三郎とくさぶろう

吉原の花魁おいらんに入れ揚げて家の金を湯水ゆみずのように使うので、親父も放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当かんどうだと言い渡される。

徳三郎は、蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道てんとさま(太陽)と米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だ、とていよく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと
「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」
と、ケンもほろろ。

もう土用どようの暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立ちでずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所ほんじょ達磨横丁だるまよこちょう大家おおや(管理人)をしている叔父おじさん。

止めようとして顔を見るとおいの徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道さまはついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を、叔父さんは
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒てんびんぼうをかつがせると、
「弁当は商いをした家の台所を借りて食え」
と教えて送りだす。

炎天下、徳三郎は重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町たわらまちまで来ると、石につまづき倒れて、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋あいながやの者たち(同じ長屋の住人)に売りさばいてくれ、残った唐茄子はたった二個。

礼を言って、売り声の稽古けいこをしながら歩く。

吉原田圃たんぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店せいがんじだな

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当をつかっている(食っている)と、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元武士で、今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされない、という。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いた叔父さん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家いんごうおおやに出くわし、金を店賃たなちん(家賃)に取られてしまった、という。

八百屋さんに申し訳ない、と女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青緡五貫文あおざしごかんもん褒美ほうび

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生



しりたい

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右(沢木勘次郎、1860-1924、二代目円朝)、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)という、三遊派と柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の三代目小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若旦那の唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さん(小林盛夫、1915-2002)は手がけず。現在、柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女がそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)、三代目三遊亭金馬(加藤専太郎、1894-1964)、八代目林家正蔵(岡本義、1895-1982、彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌じょうぜつで、徳がおやじの愚痴ぐちをひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あずまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

にしきのけさ【錦の袈裟】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

【どんなはなし?】

町内の若い衆がこぞって、錦の褌を締めて吉原に繰り出すことを考えた。

質流れの錦を仕立てて褌をつくったが、一人分足りない。

あぶれた与太郎は、お寺の坊さんから錦の袈裟を借りて乗り込む。

そのせいか、与太郎ばかりがもててしまった。

もとは上方の噺。これも廓噺なんでしょうかね。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

もっと知りたい方は、【あらすじ】と【しりたい】をどうぞ。

あらすじ

町内の若い衆が 「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」 と相談がまとまった。 それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中が、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかし 「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」 とさんざんにばかにしたという、うわさ。 そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうという相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう、ということになる。 幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てるが、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。 与太郎、女郎買いに行きたい一心で、鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。 そこでかみさんの入れ知恵で、寺の和尚に 「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」 と頼み込み、なんとかこれで全員そろった。 一同、予定通りその晩は、どんちゃん騒ぎ。 お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めたから、驚いたのは廓の連中一同。 特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。 そこで 「あれは実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」 ということになってしまった。 そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。 残りは全部きれいに振られた。 こうなるとおもしろくないのが「家来」連中。 翌朝、ぶつくさ言いながら殿さまを起こしに行くと、当人は花魁としっぽり濡れて、起きたいけど花魁が起こしてくれないと、のろけまで言われて踏んだり蹴ったり。 「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」 「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」 どうにもならなくて、寝床から引きずり出そうとすると、与太郎が 「花魁、起こしておくれよ」 「どうしても、おまえさんは、今朝帰さないよ」 「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。 「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのは旦那2人に幇間ほうかん(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。 たとえば、東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官ほうがんびいき(弱者に味方)のパターンですが、上方では、袈裟を芸妓げいこ(芸者)に取られそうになって、幇間ほうかん(たいこもち)が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。 東京ではこの噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。 このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質かたぎ(気風)の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵の明治時代の速記を見ると、振られるのは色男の若旦那2人、主人公は熊五郎となっていて、まだ東京移植後間もなく、大阪の設定に近いことがわかります。 円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。 これを現行の形に改造したのは、大正期の盲小せんこと初代柳家小せんとみられます。 戦後この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。 それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。 江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。 かっぽれかっぽれ 甘茶でかっぽれ 塩茶でかっぽれ 沖の暗いのに白帆が見える ヨイトコリャサ あれは紀の国 みかん船 こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称・住吉踊り。明治初期に東京で初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げて大流行しました。新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。 寛一お宮の愛憎を描いた『金色夜叉』で有名な文豪、尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。若気のいたりでしょうかね。

袈裟

サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。なんだか、わかったようなわからないような。 インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。 中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。 これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。 大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。 こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。 与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。 これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細いぎぼそ掛絡からといった略式のものもあります。 貪欲どんよく瞋恚しんい(怒り)・痴愚ちぐの三毒を捨て去ったしるしにまといます。 僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。 緑→紫→緋といった具合に。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。 七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。 これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。

【蛇足のコラム】

ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。 もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。 ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。落語の格好の題材となる。 海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。 たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。 「ちん輪」という野卑な別題もある。この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。 大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。 五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。 この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものなんだなあ。

(古木優)

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

にかいぞめき【二階ぞめき】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

自宅の二階に吉原をこさえた若旦那。ここまでなりきれれば、吉原狂!

あらすじ

若旦那が毎晩、吉原通いをするものだから堅物かたぶつ親父おやじはかんかん。

世間の手前「勘当する」と言い出す。

番頭が心配して意見をしにくるが、この道楽息子、まるで受け付けない。

「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない、吉原全部を家に運んでくれれば、行かない」と言う。

これには番頭も驚いたが
「それで若旦那の気がすむなら」
と二階を吉原の通りそっくりに改造し、灯まで入れて、ひやかし(そぞろ歩き)ができるようにした。

棟梁とうりゅうの腕がいい上、吉原まで行って実地検分してきたので本物そっくりで、若旦那は大喜び。

番頭に
「服装が大事だから古渡こわた唐桟とうざんを出せ」
「夜露は毒だからっかぶりをしていく」
などと騒いだあげく
「じゃ、行ってくるよォ。だれが来ても上げちゃァいけないよォ」

二階の吉原へ、とんとんとん。

上ってみると、茶屋行灯ちゃやあんどんに明かりは入っているし、張り見世みせもあるし、そっくりなのだが、残念なことに、人がいない。

……当たり前だ。

そこで、人のいなくなった大引おおびけ(午前二時)過ぎという設定で、一人で熱演し始める。

『ちょいとあァた』
『なんでえ、ダメだよ、今夜は』
『そんなこと言わないで。あのコがお茶ひいちゃうから』

忙しいこと。背景音楽を新内しんないから都々逸どどいつへ。

「別れにヌシの羽織がァ、かくれんぼォ…ッと」

ここで花魁おいらんが登場。

『ちょいと、兄さん、あがっとくれよッ』
『やだよ』
『へん、おアシがないんだろ。この泥棒野郎』
『ドロボーたァなんでィ』
『まァまァ』

止めに入った若衆わけえしと花魁、一人三役で大立ち回り。

『この野郎、さあ殺せッ』

一階のおやじ、大声を聞きつけて、
「たまに家にいると思えば……」
と苦い顔。

ところがよく聞いてみると、なにか三人で喧嘩しているもよう。

あわてて小僧の定吉を呼んで
「二階へ行ってせがれを連れてこい」
と命じる。

定吉、上がってみると
「あれッ、ずいぶんきれいになっちゃたなあ。明かりもついてやがる」

頬っかぶりをした人がいるので、「泥棒かしらん」と思ってよく見ると、これが若旦那。

なにやら自分で自分の胸ぐら取って「さあ殺しゃあがれ」とやっている。

「しょうがねえなあ。ねえ、若旦那」
「なにをしやがる。後ろから小突きやがって。前から来い。だれだって? なあんだ。定か。悪いところで会ったなあ。おい、おめえな、ここでおれに会ったことは、家ィ帰っても、おやじにゃあ、黙っててくんねえ」

しりたい

ぞめき

「騒」と書きます。動詞形は「ぞめく」です。古い江戸ことばで、「大勢でわいわい騒ぎながら歩くこと」を意味します。

そこから転じて、「おもに吉原などの遊里を見世に上らずに、遊女や客引きの若い衆をからかいながら見物する」という意味になりました。

これを「ひやかし(素見)」ともいい、こちらの方が一般によく使われました。

要するに、遊興代がないのでそうするよりしかたがないのですが、そればかりともいえず、ひやかし(ぞめき)の連中と張り見世、つまりショウウィンドーにずらりと並ぶ遊女たちとの丁々発止のやりとりは、吉原の独特の文化、情緒となって、洒落本(遊里を描いた話)や芝居、音曲などのかっこうの題材となりました。

原話では少しつつましく……

もっとも古い原典は、延享4年(1747)、江戸で刊行された笑話本『軽口花咲顔かるくちはなえがお』中の「二階の遊興」ですが、オチを含め、現行の落語と大筋は変わりません。

こちらはそう大掛かりな「改築」をするわけでなく、若旦那が二階のふすまや障子に茶屋の暖簾のれんに似たものをつるし、それに「万屋」「吉文字屋」などと書き付けて、遊びの追憶にふけっている、という安手やすでの設定です。

そのあと一人三役の熱演中、小便に行きたくなって階段を下りる途中で小僧に出くわし、オチのセリフになりますが、落語のように、現実を完全に忘れ去るほどでなく、いたってつつましいものです。

その後、落語としては上方で発達したので、二階を遊郭(大坂では新町)にしてしまうという現実離れした、派手と贅沢は、完全に上方の気風によって付け加えられたといってよいでしょう。

志ん生好みの噺

落語の古い口演記録として、きわめて貴重な、万延2年(1861=文久元)の、上方の桂松光のネタ帳『風流昔噺ふうりゅうむかしばなし』に、この噺と思われる「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」という記述があり、すでにこのころには上方落語として演じられていたことがわかります。

これを明治期に、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が東京に「逆輸入」したとされますが、古い速記やレコードは一切なく、残っているのは七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)や五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)のものです。

志ん生がこの噺を誰に教わったかは不明ですが、おそらく、三代目小さん門下の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)でしょう。小せんは廓噺の天才です。「五人廻し」参照。

寄席や落語会で志ん生は、「二階ぞめき」をどれほどかけたことでしょうか。それだけに、志ん生の得意噺のうちでも、もっとも志ん生好みの噺といえます。自分が若き日に通いつめた、かぐわしき吉原への追慕もさることながら、志ん生がなにより愛したのは、この若旦那の一途さ、それを許してしまう棟梁、その他周囲の人々の洒落っ気や懐の深さではなかったでしょうか。

志ん生指導:正しい吉原の歩き方・序

「ひやかし」の語源は……。「昔、吉原の、近在に、紙漉場かみすきばがあって、紙屋の職人が、紙を水に浸して、待ってんのが退屈だから、紙の冷ける間ひと廻り回ろう-てんで、『ひやかし』という名前がついてきたんですな」とのことです。

ところで、ただ単に吉原をぶらつくといっても、おのずとそこには厳しいルールとマナーがあります。洗練された文化を体現し、粋な男になるためには、情熱と努力、そしてなにより年期が大切なのです。

次の若旦那の一言がすべてを物語っています。「俺ァ女はどうでもいいんだよ。うん。俺ァ吉原ってものが好きなんだよ」 好きこそものの上手なれ。

それでは、志ん生師匠指導「ひやかし道」の基本から。

正しい吉原の歩き方:まずは正しい服装

どの道も、修行はまず形からです。

それにふさわしい服装をして初めて、魂が入ります。

相撲取りはあの格好だからこそ相撲取り。スーツで土俵入りはできません。

その1

必ず古渡こわた唐桟とうざんを着用のこと。

唐桟は、ふつうは木綿の紺地に赤や浅黄あさぎ縦縞たてじまをあしらい、平織(縦糸・横糸を一本ずつ交差させたシンプルな織り方)に仕立ててあります。室町時代にインドから渡来した古いデザインなので、「古渡り」の名があります。縦縞という模様は粋の典型です。浮世絵に描かれた雨模様も同じ。細い縦線をすてきと感じる感覚が粋といえます。

はでな上に身幅が狭く、上半身がきゅっとしまっていかにもすっきりしたいい形なので、色街遊びには欠かせません。

その2

着物は必ずたもとを切った平袖にします。

いわばノースリーブです。

これは、吉原を漂っていると、必ず同じ格好のひやかし客とぶつかります。

そうすると、ものも言わずに電光石火でパンチが飛んできますから、袂があると応戦が遅れ、あえなくのされてしまいます。それでは男の面目丸つぶれ。

そこで、平袖にして常に拳を固めて懐に忍ばせ(これをヤゾウといいます) 、突き当たった瞬間、 間髪入れずに右フックを見舞わなければなりません。そのための備えなのです。

その3

必ず「七五三の尻はしょり」をします。

七五三とは、 七の図、つまり腰の上端、フンドシまたはサルマタの締め際まで 着物のすそをはしょり、内股をちらりとのぞかせることで、 鉄火な(威勢のいい)男の色気を見せつけます。

仕上げに、渋い算盤玉柄の三尺帯をきりりと締めれば一丁あがり。

ただし、くれぐれもフンドシを締め忘れないよう注意のこと。

公然わいせつで八丁堀の旦那にしょっ引かれます。

その4

最後に、手拭てぬぐいで頬かむりをすれば準備完了。

ただし、 この場合もどんな柄でもいいというわけにはいきません。

ひやかしに 最適なのは亀のぞきという、ごく淡い、品のいい藍色地に染めたものです。頬かむりは、深夜に出かけるため、夜露を防ぐ意味も ありますが、なによりも、かの有名な芝居の「切られ与三」が源氏店の 場でしているのがこの「亀のぞき」であることからも分かるように、 ちょっと斜に構えた男の色気を出すためには必携のアイテムです。

これで、夜の暗さとあいまって、あなたも海老蔵に見えないこともありません。

ただし、間違っても黒地で盗人結びになどしないこと。

八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その5

以上で、スタイルはOK。

あと、基本的な心得としては、その2でも触れましたが、必ず、100%間違いなく、一回の出撃でけんかが最低三度は起こりますから、無事に生きて帰るためにも、先制攻撃の覚悟を常に持つこと。

どんなに客引きの若い衆に泣き落とされ、はたまた張り見世のお茶ひき(あぶれ)女郎に誘惑され、果ては銭なしの煙草泥棒野郎とののしられても、絶対に登楼などしないという、固い決意と意志を持ってダンディズムを貫くことが大切です。

とまあ、こういうスタイルで若旦那は「出かけた」わけですが……。

この二階の改築費用、どのぐらいについたか、他人事ながら心配です。おまけに、当主の親父は知らぬが仏。この店の身代も、この分では十年ももつかどうか……。

いつの世も、かく破滅の淵をのぞかないと、道楽の道は極められないようで。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

おみたて【お見立て】演目

自宅で始めて、年収1,300万円以上が可能

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁きせがわおいらん

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸むしずが走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽もくべえだいじんに会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗ぜんでらしゅうで」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
養空食傷信士ようくうしょくしょうしんじ天保八年酉年てんぽうはちねんとりどし

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
天垂童子てんすいどうじ安政二年卯年あんせいにねんうどし
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(1926-)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』に収載の「手くだの裏」とのこと。武藤禎夫は朝日新聞在職中、「日本古典文学全書」を企画担当した編集者です。その後、共立女子短大教授に転じました。専門はいちおう近世の舌耕芸。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺くるわばなしですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋(渡辺金太郎、1899-1979)はじめ、多くの大看板が手がけました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼あいかたを選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎ぎゅうたろう)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町すみちょうの全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(川島雄三監督、日活、1958年)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

あけがらす【明烏】演目

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

 

 堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門に入ると、仲の町という一直線の大通り。左には番所、右には会所がありました。

左の番所は、町奉行所から来た与力や同心が岡っ引きを連れて張り込み、客らの出入りを監視する施設です。門番所、面番所とも。

右の会所は、廓内の自治会施設。遊女の脱走を監視するのです。吉原の初代の総名主である三浦屋四郎左衛門の配下、四郎兵衛が代々世襲名で常駐していたため、四郎兵衛会所と呼ばれました。

こんな具合ですから、治安のすこぶるよろしい悪所でした。むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生された。

うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。もてるもてないはどこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。

(古木優)

  【RIZAP COOK】  ことば 演目  千字寄席

つきうま【付き馬】演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

おじさーん。怖い男衆も屁の河童。だましもここまでくれば超一級。

あらすじ】 【RIZAP COOK】

吉原で、さんざんドンチャン騒ぎをした男。

いざ帰る段になって、勘定が払えないというので、翌朝、若い衆を付き馬に連れて、仲見世なかみせのあたりをのんびりとぶらついている。

付き馬の方はいつ払ってくれるのかと、いらいらしてせっつく。

ところが、この男、なかなか口がうまく、
「金持ちのおじさんがいるから、すぐに倍増しで払ってやる」
となだめすかす。

挙げ句の果てに、朝飯代から銭湯代から、何から何まで若い衆に立て替えさせてしまう、相当のずうずうしさ。

いつまでたっても、いっこうにらちがあかず、金を払っているのは逆に自分だけというありさま。

さすがに付き馬も堪忍袋かんにんぶくろを切らすと、男が
「やっとおじさんの家に着いた」
と言って指さしたのが田原町たわらまち早桶屋はやおけや

「ちょいと交渉してくるから」
と言って中に入り、早桶屋のおやじに付き馬を指して小声で
「実はあの男の兄貴が昨晩急にれの病で死んだが、ふだんから太っていたところへ腫れがきたので、とても普通の早桶ではだめで、図抜け大一番小判型をあつらえなければならない」
と言い、急に大声になって
「ぜひこしらえておもらい申したい」
と妙な頼み。

早桶屋も商売だから
「ようがしょう」
と承知したが、男はその上
「なにしろ兄貴をなくして頭がポーッとしてやがるので、ときどきおかしなことを申しますが、お気になさらないで、あの男が来ましたら『大丈夫だ、おれが引き受けた』と大声で一言言ってやっていただきたいんで」
と言う抜け目のなさ。

若い衆をすっかりだまして安心させ
「自分はちょっと買い物があるから、もし先にできたらこいつに渡してやってもらいたい」
と言うとそのまま、風を食らって逃げだしてしまった。

さて、こちらは若い衆。

なんとなく早桶屋と話がかみ合わない。

「長かったのかい」
「いえ、昨夜一晩で」
「ゆうべが通夜かい」
「へえ、芸者衆が入りまして」
「へーえ、そんな陽気な通夜なら、仏さまァ喜んだろう」
「ええもう、ばかなお喜びようで」
というぐらいまではまだよかったが、
「どうして持っていきなさる」
「へえ、紙入れに入れまして」
「おまえさん、しっかりしなさいよ」
というあたりから若い衆、なにかおかしいと気づき始めたが、もう後の祭り。

できてきたのは、図抜け大一番小判型の早桶。

水風呂の化け物のようで、男のたくらみがついにバレた。

早桶屋もカンカンで
「てめえも間抜けじゃねえか。付き馬でもする奴は、もちッと頭を働かせな。しかたがねえ。木口代きぐちだい五円置いて、そいつをしょっていけ」

「五円はさておいて、もうあたしゃ一文なしだ」
「なに、銭がねえ? 小僧、吉原まで付き馬に行け」

しりたい】 【RIZAP COOK】

付き馬の由来   【RIZAP COOK】

遊興費が払えず、踏み倒した客への取り立ては、町人が乗馬を禁じられる元禄年間までは、その客を、馬を引いて吉原に連れてきた馬子まごナの責任で、同時に副業でした。「付き馬」の名は、これに由来します。

ところが、取り立てた金をネコババして全部使ってしまうことが多かったため、馬屋うまや始末屋しまつやとよばれたコワモテの業者が、この仕事を代行するようになりました。

この噺のように、遊郭の若い者が付き馬として客に同行するようになったのは、かなり後年のことです。

桶伏せ   【RIZAP COOK】

遊客からの代金取り立ては、明暦めいれき3年(1657)、今の場所の、新吉原開設当初は、かなり荒っぽいものでした。

桶伏おけぶせ」という私刑があり、吉原大門おおもんの外で、風呂桶を逆さにかぶせて客が逃げられないようにし、親や親類、知人が金を持ってくるまでそのまま「幽閉」していたとか。

付き馬の慣習が定着してからも、もし取り立てがうまくいかない場合は、客の身ぐるみ剥いで売り払い、弁済にあてていました。

早桶屋   【RIZAP COOK】

早桶は座棺で、菜漬けの樽同様の粗末なものです。死者が出た時に、間に合わせで急いで作るところからこの名があります。

早桶屋はしたがって、今日の葬儀社と棺桶製造業者を兼ねていたわけです。別名を早物屋ともいいました。

噺に出てくる「図抜け大一番小判型」は、親子をいっしょに入れ、葬るための特注の早桶のことです。

水風呂   【RIZAP COOK】

すいふろ。水を沸かして入る普通の風呂(桶)で、蒸し風呂や塩風呂と区別して呼びました。

【付き馬 古今亭志ん朝】

たばこのひ【莨の火】演目

 落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

もとは上方の噺。林家彦六が持ってきたといわれています。

あらすじ

柳橋の万八まんぱちという料理茶屋にあがった、結城拵ゆうきごしらえ、無造作に尻をはしょって甲斐絹かいき股引ももひき、白足袋しろたび雪駄せったばきという、なかなか身なりのいい老人。

欝金木綿うこんもめんの風呂敷包み一つを座敷に運ばせると、男衆の喜助に言いつけて駕籠屋かごやへの祝儀しゅうぎ二両を帳場に立て替えさせ、さっそく芸者や幇間たいこを総揚げに。

自分はニコニコ笑って、それをさかなにのんでいるだけ。

その代わり、芸者衆の小遣いに二十両、幇間に十両、茶屋の下働き全員に三十両と、あまりたびたび立て替えさせるので、帳場がいい顔をしない。

「ただいま、ありあわせがございません、と断れ」
と、喜助に言い渡す。

いよいよ自分の祝儀という時にダメを出された喜助、がっかりしながら老人に告げると
「こりゃあ、わしが無粋ぶすいだった。じゃ、さっきの風呂敷包みを持ってきておくれ」

包みの中には、小判がぎっしり。

これで立て替えを全部清算したばかりか、余ったのを持って帰るのもめんどうと、太鼓と三味線を伴奏に、花咲爺はなさかじいさんよろしく、小判を残らずばらまいて
「ああ、おもしろかった。はい、ごめんなさいよ」

「あれは天狗か」
と、仰天した喜助が跡をつけると、老人の駕籠は木場の大金持ち奈良茂ならもの屋敷前で止まった。

奈良茂ならご贔屓筋ひいきすじで、旦那や番頭、奉公人の一人一人まで顔見知りなのに、あの老人は覚えがない。

不思議に思って、そっと大番頭に尋ねると、あの方は旦那の兄で、気まぐれから家督を捨て、今は紀州で材木業を営む、通称「あばれ旦那」。

奇人からついた異名とのこと。

ときどき千両という「ホコリ」が溜まるので、江戸に捨てに来るのだ、という。

事情を話すと「立て替えを断った? それはまずかった。黙ってお立て替えしてごらん。おまえなんざあ、四斗樽ん中へ放り込まれて、ぬかの代わりに小判で埋めてもらえたんだ」

腰が抜けた喜助、帰って帳場に報告すると、これはこのまま放ってはおけないと、芸者や幇間を総動員、山車だしをこしらえ、人形は江戸中の鰹節を買い占めてこしらえ、鳶頭の木遣りや芸者の手古舞、囃子で景気をつけ、ピーヒャラドンドンとお陽気に奈良茂宅に「お詫び」に参上。

これで旦那の機嫌がなおり、二、三日したらまた行くという。

ちょうど三日目。

あばたれ旦那が現れると、総出でお出迎え。

「ああ、ありがとうありがとう。ちょっと借りたいものが」
「へいッ、いかほどでもお立て替えを」
「そんなんじゃない。たばこの火をひとつ」

しりたい

上方落語を彦六が移植

上方落語の切りネタ(大ネタ)「莨の火」を昭和12年(1932)に八代目林家正蔵(彦六、1895-1982、岡本義)が、大阪の二代目桂三木助(1884-1943、松尾福松)の直伝で覚え、東京に移植したものです。

正蔵(当時は三代目三遊亭円楽)は、このとき「おしの釣り」もいっしょに教わっていますが、東京風に改作するにあたり、講談速記の大立者、初代悟道軒円玉ごどうけんえんぎょく(1866-1940、浪上義三郎)に相談し、主人公を奈良茂の一族としたといいます。

東京では彦六以後、継承者はいません。

上方版モデルは廻船長者

本家の上方では、初代桂枝太郎(1866-1927、岩本宗太郎)が得意にしました。地味ながら現在でもポピュラーな演目です。

上方の演出では、主人公を、和泉いずみ佐野さのの大物廻船かいせん業者で、菱垣廻船ひがきかいせんの創始者飯一族の「和泉の飯のあばれだんな」で演じます。

「飯の」とは食野家めしのけのこと。江戸中期から幕末まで和泉国日根ひのね郡佐野(大阪府泉佐野市)をベースに繁栄した豪商の一家です。 屋号は「和泉屋」です。同地で栄えた唐金家からかねけととつねにセットに語られました。江戸期の全国長者番付『諸国家業自慢』でも上位に載っています。ちなみに、和泉佐野は戦国末期から畿内の廻船業の中心地でした。この一家は、元和年間(1615-24)に江戸回り航路の菱垣廻船で巨富を築き、寛文年間(1661-73)には廻船長者にのし上がっていました。鴻池こうのいけは新興のライバルで、東京版で主人公が「奈良茂の一族」という設定だったように、上方でも飯の旦那が鴻池の親類とされていますが、これは完全なフィクションです。

上方の舞台は、大坂北新地の茶屋ちゃや綿富わたとみとなっています。

江戸の料理茶屋

宝暦から天明年間(1751-89)にかけて、江戸では大規模な料理茶屋(料亭)が急速に増え、文化から文政年間(1804-30)には最盛期を迎えました。

有名な山谷さんやの懐石料理屋八百善やおぜんは、それ以前の享保きょうほう年間(1716-36)の創業です。文人墨客ぶんじんぼっかくの贔屓を集めて文政年間に全盛期を迎えています。

日本橋浮世小路の百川ももかわ、向島の葛西太郎かさいたろう洲崎すざき升屋ますやなどが一流の有名どころでした。

江戸のバンダービルト

奈良茂は江戸有数の材木問屋でした。もとは深川ふかがわで足袋商いなどをしていた小店者でしたが、四代目奈良屋茂左衛門勝豊かつとよ(?-1714)のときに、天和3年(1683)、日光東照宮の改修用材木を一手に請け負って巨富を築きました。その豪勢な生活ぶりは、同時代の紀伊国屋文左衛門(1669?-1734)と張り合ったといわれていますが、多分に伝説的な話で、信憑性はありません。噺の格好の材料にはなりました。初代から三代目までは小商いでした。四代目の遺産は十三万両余といわれ、霊岸島に豪邸を構えて孫の七代目あたりまでは栄えていました。その後、家運は徐々に衰えましたが、幕末まで存続していたそうです。

【RIZAP COOK】

おおみせ【大見世】ことば

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

吉原で、もっとも格式の高い遊女を置くみせ。大籬おおまがき

まがき」とは格子戸こうしどのこと。その高さで、大籬や半籬はんまがきなどと店の格式を区分していました。

【噺例 文七元結ぶんしちもっとい

吉原で佐野槌さのづちと呼ばれりゃ大見世おおみせだ。

佐野槌、角海老かどえび三浦屋みうらやなどは大見世の代表格です。大見世の下には、中見世なかみせ小見世こみせなどあって、最下位は蹴転けころというのも。「お直し」ですね。

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えどのまち【江戸の町】知っておきたい

落語はじめ時代劇などに登場する江戸の町を表現することばを集めました。

■土地

江戸入府えどにゅうふ 天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸城に入ったことをさす。=江戸入城 =江戸入国

御城おしろ 江戸城。江戸町人の日頃の呼称

御府内ごふない 江戸の正式名称

御用地ごようち 江戸幕府の土地

武家地ぶけち 江戸全体の69%

町地ちょうち 江戸全体の16%。町数まちすうは18世紀半ばで1678町

寺社地じしゃち 江戸全体の15%

ときかね 時刻を知らせる鐘。江戸城西ノ丸にあったものが、寛永3年(1626)に日本橋石町三丁目に移り、その後は12か所にも

■水運

江戸湊えどみなと 江戸城前の港。ここを中心に開かれた

河岸かし 町地の荷揚げ場

物揚ものあ 武家地の荷揚げ場

わたし 渡し船の発着する場所。渡船場とせんばとも

■屋敷

屋敷屋敷 家を建てることを許された土地

大名屋敷だいみょうやしき 諸国の大名が幕府から下賜された土地。明暦の大火(1657)以降には、上中下に分けて営むように

上屋敷かみやしき 藩主と家族が住む場所

中屋敷なかやしき 隠居した藩主が住む場所

下屋敷しもやしき 藩主の別荘。避難所や仮屋敷にも。四谷、駒込、下谷、本所などに多い

蔵屋敷くらやしき 湊や河岸にあって、年貢米や特産物を収納したり売ったりするための場所

大縄地おおなわち 大番以下の幕臣で同じ組に属する者にまとめて下賜された土地

上地あげち 幕府拝領地を返納や没収などで戻した土地

定火消屋敷じょうびけしやしき 幕府お抱えの火消しに任命された幕臣に下賜された土地。計10か所

■町地

ちょう 町地では「ちょう」。室町むろまちなどの古町こちょうは例外

まち 武家地では「まち」。番町ばんちょうなど江戸初期の町名には例外も

両側町りょうがわちょう 表通りを挟み、その両側でひとつの町となっているところ

片側町かたがわまち 町の片側だけでできた町。武家地によくあった

横町よこちょう 町地で表通りから横に入る道。幕府の許可制

横丁よこちょう 幕臣の宅地や寺町に入る道

新道じんみち 家屋ができた後にできた町地の道。幕府の許可制

小路こうじ 武家地の通りの呼称。横町に相応

たな 武家が拝領地を町人に貸して地代を取った土地。玄冶店げんやだな木原店きわらだななど。十軒店じっけんだなは例外。

代地だいち 町の全部や一部が移転させられた土地

元、本、新もと、ほん、しん 町の丸ごと移転でできた町名。移転元は元や本が、移転先には新が冠された

門前町もんぜんちょう 寺社の前にできた町。寺社奉行支配(管轄)。町奉行所に権限がないため岡場所が発達

広小路ひろこうじ 町地の防火地帯、避難場所

火除明地ひよけあけち 武家地の防火地帯、避難場所。火除地ひよけちとも

■遊里

吉原よしわら 幕府公認の遊郭。初期は葭町に、明暦大火後は浅草田圃に

岡場所おかばしょ 非公認の遊里

四宿ししゅく 江戸の幹線道路に通じる宿場。品川(東海道)、新宿(甲州街道)、千住(奥州街道)、板橋(中山道)。飯盛女ましもりおんなや宿場女郎が黙認され岡場所としても発展