やまざきや【山崎屋】演目

道楽にはまったご大家の若旦那。これはもう、円生と彦六で有名な噺です。

【あらすじ】

日本橋横山町の鼈甲問屋、山崎屋の若旦那、徳三郎は大変な道楽者。

吉原の花魁に入れ揚げて金を湯水のように使うので、堅い一方の親父は頭を抱え、勘当寸前。

そんなある日。

徳三郎が、番頭の佐兵衛に百両融通してくれと頼む。

あきれて断ると、若旦那は
「親父の金を筆の先でちょいちょいとごまかしてまわしてくれりゃあいい。なにもおまえ、初めてゴマかす金じゃなし」
と、気になる物言いをするので、番頭も意地になる。

「これでも十の歳からご奉公して、塵っ端ひとつ自侭にしたことはありません」
と、憤慨。

すると若旦那、ニヤリと笑い、
「この間、湯屋に行く途中で、丸髷に襟付きのお召しという粋な女を見かけ、後をつけると二階建ての四軒長屋の一番奥……」
と、じわりじわり。

女を囲っていることを見破られた番頭、実はひそかに花魁の心底を探らせ、商家のお内儀に直しても恥ずかしくない実のある女ということは承知なので
「若旦那、あなた、花魁をおかみさんにする気がおありですか」
「そりゃ、したいのはやまやまだが、親父が息をしているうちはダメだよ」

そこで番頭、自分に策があるからと、若旦那に、半年ほどは辛抱して堅くしているようにと言い、花魁の親元身請けで請け出し、出入りの鳶頭に預け、花魁言葉の矯正と、針仕事を鳶頭のかみさんに仕込んでもらうことにした。

大晦日。

小梅のお屋敷に掛け取りに行くのは佐兵衛の受け持ちだが、
「実は手が放せません。申し訳ありませんが、若旦那に」
と佐兵衛が言うと旦那、
「あんなのに二百両の大金を持たせたら、すぐ使っちまう」
と渋る。

「そこが試しで、まだ道楽を始めるようでは末の見込みがないと思し召し、すっぱりとご勘当なさいまし」
と、はっきり言われて旦那、困り果てる。

しかたがないと、「徳」と言いも果てず、若旦那、脱兎のごとく飛び出した。

掛け金を帰りに鳶頭に預け、家に帰ると
「ない。落としました」

旦那、使い込んだと思い、カンカン。

打ち合わせ通りに、鳶頭が駆け込んできて、若旦那が忘れたからと金を届ける。

番頭が、旦那自ら鳶頭に礼に行くべきだと進言。

これも計画通りで、花魁を旦那に見せ、屋敷奉公していたかみさんの妹という触れ込みで、持参金が千両ほどあるが、どこかに縁づかせたいと水を向ければ、欲にかられて旦那は必ずせがれの嫁にと言い出すに違いない、という筋書き。

その通りまんまとだまされた旦那、一目で花魁が気に入って、かくしてめでたく祝言も整った。

旦那は徳三郎に家督を譲り、根岸に隠居。

ある日。

今は本名のお時に帰った花魁が根岸を訪ねる。

「ところで、おまえのお勤めしていた、お大名はどこだい?」
「あの、わちき……わたくし、北国でござんす」
「北国ってえと、加賀さまかい? さだめしお女中も大勢いるだろうね」
「三千人でござんす」
「へえ、おそれいったな。それで、参勤交代のときは道中するのかい?」
「夕方から出まして、武蔵屋ィ行って、伊勢屋、大和、長門、長崎」
「ちょいちょい、ちょいお待ち。そんなに歩くのは大変だ。おまえにゃ、なにか憑きものがしているな。諸国を歩くのが六十六部。足の早いのが天狗だ。おまえにゃ、六部に天狗がついたな」
「いえ、三分で新造が付きんした」

【しりたい】

原話は大坂が舞台   【RIZAP COOK】

安永4年(1775)刊の漢文体笑話本『善謔随訳』中の小咄が原話です。この原典には「反魂香」「泣き塩」の原話もありました。

これは、さる大坂の大きな米問屋の若旦那が、家庭内暴力で毎日、お膳をひっくり返して大暴れ。心配した番頭が意見すると(以下、江戸語に翻訳)、「ウチは米問屋で、米なら吐いて捨てるほどあるってえのになんでしみったれやがって、毎日粟飯なんぞ食わしゃあがるんだ。こんちくしょうめ」。そこで番頭がなだめていわく、「ねえ若旦那、新町の廓の某って男をご存じでござんしょ? その人はね、大きな女郎屋のあるじで、抱えの女はそれこそ、天下の美女、名妓が星の数ほどいまさあね。でもね、その人は毎晩、お手手でして満足していなさるんですよ」

わかったようなわからんような。どうしてこれが「原話」になるのか今ひとつ飲み込めない話ですが、案外こっちの方がおもしろいという方もいらっしゃるかもしれませんな。

円生、正蔵から談志まで  【RIZAP COOK】

廓噺の名手、初代柳家小せんが明治末から大正期に得意にし、明治43年(1910)7月、『文藝倶楽部』に寄せた速記が残ります。このとき、小せんは27歳で、同年4月、真打ち昇進直後。今、速記を読んでも、その天才ぶりがしのばれます。五代目から六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)に継承され、円生、正蔵が戦後の双璧でしたが、意外にやり手は多く、三代目三遊亭金馬、その孫弟子の桂文朝、談志も持ちネタにしていました。円生、正蔵の演出はさほど変わりませんが、後者では番頭のお妾さんの描写などが、古風で詳しいのが特徴です。

オチもわかりにくく、現代では入念な説明がいるので、はやる噺ではないはずですが、なぜか人気が高いようで、林家小のぶ、古今亭駿菊、桃月庵白酒はともかく、二代目快楽亭ブラックまでやっています。察するに、噺の古臭さ、オチの欠点を補って余りある、起伏に富んだストーリー展開と、番頭のキャラクターのユニークさが、演者の挑戦意欲をを駆り立てるのでしょう。

北国  【RIZAP COOK】

ほっこく。吉原の異称で、江戸の北方にあったから。通人が漢風気取りでそう呼んだことから、広まりました。

これに対して品川は「南」と呼ばれましたが、なぜか「南国」とはいいませんでした。これは品川が公許でなく、あくまで宿場で、岡場所の四宿の一に過ぎないという、格下の存在だからでしょう。噺中の「道中」は花魁道中のこと。「千早振る」参照。

小梅のお屋敷  【RIZAP COOK】

若旦那が掛け取りに行く先で、おそらく向島小梅村(墨田区向島一丁目)の水戸藩下屋敷でしょう。掘割を挟んで南側一帯には松平越前守(越前福井三十二万石)、細川能登守(肥後新田三万五千石)ほか、諸大名の下屋敷が並んでいたので、それらのどれかもわかりません。

どこであっても、日本橋の大きな鼈甲問屋ですから、女手が多い大名の下屋敷では引く手あまた、得意先には事欠かなかったでしょう。

小梅村は日本橋から一里あまり。風光明媚な郊外の行楽地として知られ、江戸の文人墨客に愛されました。村内を水戸街道が通り、水戸徳川家が下屋敷を拝領したのも、本国から一本道という絶好のロケーションにあったからです。水戸の中屋敷は根津権現社の南側一帯(現在の東大グラウンドと農学部の敷地)にありました。「孝行糖」参照。

親許身請け  【RIZAP COOK】

おやもとみうけ。親が身請けする形で、請け代を浮かせることです。

「三分で新造がつきんした」  【RIZAP COOK】

オチの文句ですが、これはマクラで仕込まないと、とうてい現在ではわかりません。宝暦(1751-64)以後、太夫が姿を消したので遊女の位は、呼び出し→昼三→付け廻しの順になりました。以上の三階級を花魁といい、女郎界の三役といったところ。「三分」は「昼三」の揚げ代ですが、この値段ではただ呼ぶだけ。

新造は遊女見習いで、花魁に付いて身辺の世話をします。少女の「禿」を卒業したのが新造で、番頭新造ともいいました。

正蔵(彦六)のくすぐり  【RIZAP COOK】

番「それでだめなら、またあたくしが狂言を書き替えます」
徳「へええ、いよいよ二番目物だね。おまえが夜中に忍び込んで親父を絞め殺す」

この師匠のはくすぐりにまで注釈がいるので、くたびれます。

日本橋横山町  【RIZAP COOK】

現在の中央区日本橋横山町。袋物、足袋、呉服、小間物などの卸問屋が軒を並べていました。現在も、衣料問屋街としてにぎわっています。かつては、横山町二丁目と三丁目の間で、魚市が開かれました。落語には「おせつ徳三郎」「お若伊之助」「地見屋」「文七元結」など多数に登場します。「文七元結」の主人公は「山崎屋」とまったく同じ横山町の鼈甲問屋の手代でした。日本橋辺で大店が舞台の噺といえば、「横山町」を出しておけば間違いはないという、暗黙の了解があったのでしょう。

【語の読みと注】
鼈甲 べっこう
花魁 おいらん
掛け取り かけとり:借金の取り立て
新造 しんぞ:見習い遊女
禿 かむろ
二番目物 にばんめもの:芝居の世話狂言。濡れ場や殺し場

【RIZAP COOK】

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ひものばこ【干物箱】演目

【RIZAP COOK】

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善公が若旦那の身代わりに。志ん生や文楽ので有名ですね。

別題:大原女 作生 吹替息子(上方) 

【あらすじ】

銀之助は遊び好きの若旦那。

外出を親父に禁止されている。

「湯へ行く」と偽り、貸本屋の善公の長屋へ。

借金漬けの善公、声色は天下一品。亀清の宴会で銀之助の声色をしたら大ウケだった。

厠から戻った銀之助の親父が「家で留守番していろというのに、またてめえ来やがって」と、怒りだしたほどだ。

その一件を思い出した若旦那、自分が花魁に会っている間、善公に家での身代わりを頼む。

善公は羽織一枚と十円の報酬で引き受けた。

「お父っつぁん、ただいま帰りました。おやすみなさい」
と善公、うまく二階に上がりはしたが、
「今朝、お向こうの尾張屋からもらった北海道の干物は何の干物だった」
との父親の質問には
「お魚の干物です」
「青物の干物があるかい。どこに入れといた」
には
「干物箱」
と、しどろもどろ。

「干物箱? どんな箱だい」
「これは困った。羽織一枚と十円ぐらいじゃ割が合わねえ。今ごろ若旦那は芸者、幇間とばか騒ぎかよ」
などと、長い独り言。

「変な声を出しやがって」
と、いよいよ親父が二階に上がってしまい、善公であることがばれる。

そこへ、忘れ物を取りに戻ってきた若旦那。

「この罰当たりめ。どこォ、のそのそ歩いてやがる」

親父のどなり声を聞いて
「はっはァ、善公は器用だ。親父そっくりだ」

底本:八代目桂文楽

【RIZAP COOK】

【しりたい】

亀清楼  【RIZAP COOK】

明治以来、政財官界お偉方ご用達の高級料亭は東京に何軒もありますが、安政元年(1854)創業にして21世紀の今も台東区柳橋に健在のこの店こそ、日本の近代史の裏側を見つめてきた「国宝級」の老舗といえるでしょう。

伊藤博文ほか、明治政府の高官が柳橋花柳界とともに贔屓にしたことで知られる「亀清」は、以後一世紀以上にわたり、その奥座敷で歴史を左右した政策決定の談合が何度も行われてきたという、いわば「陰の永田町・霞ヶ関」。森鷗外の小説『青年』にも登場します。

ルーツは上方  【RIZAP COOK】

原話は古く、延享4年(1747)京都板の笑話集『軽口花咲顔』の「物まねと入替り」で、筋は現行の噺とほぼ同じですが、オチらしいオチはなく、身代わりを頼まれた悪友が親父に踏み込まれ、「こは不調法」と言って逃げた、というだけです。

別題としては上方落語版で使われる「吹替息子」が一般的ですが、「大原女」「作生」とも呼ばれています。

「大原女」は、東京で五代目古今亭志ん生がやった演出に由来するものです。

「作生」の方ははっきりしませんが、「生」は古い上方言葉の「なまたれる」で、「物腰がしゃっきりしない」「優柔不断」意味があるので、軟派で道楽者の作次郎(若だんなの名?)くらいの意味でしょうか。

鼻の円遊から文楽、志ん生へ  【RIZAP COOK】

明治期の東京では、鼻の円遊こと初代(俗に)三遊亭円遊が独特のくすぐりを入れて改作し、十八番にしていました。

明治22年(1889)刊「百花園」掲載の円遊の速記では、若だんなは金之助、身代わりになるのは取り巻きのお幇間医者・竹庵となっています。

昭和期には八代目文楽、五代目志ん生がともに好んで演じました。ここでのあらすじは、よりスタンダードな文楽版を参考にしています。

志ん生のやり方は、前項の「大原女」のくだりで少し触れましたが、文楽のものとはやや趣を違えていて、若だんなが親父の代理で出席した連座(出席者が俳句を作り、秀句を互選するサークル)で出た、「大原女も 今朝新玉の 裾長し」の句を、親父と身代わり(善公)とのやり取りに使っています。

そのほか、親父が若だんな宛の花魁の手紙を読み、自分の悪口が書いてあるのを見つけ、怒って二階へ上がるというやり方もあります。

【語の読みと注】

作生 さくなま
大原女 おはらめ
新玉 あらたま

【RIZAP COOK】

はんごんこう【反魂香】演目

【RIZAP COOK】

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妖しく艶のある降霊の夕べも、落語になると、ほらこの通りに。

別題:高尾名香(上方)

【あらすじ】

浪人島田重三郎は、吉原で全盛の花魁、高尾太夫と深く言い交わした仲だったが、その高尾に仙台の伊達綱宗公がご執心。

側女にしようと言い寄ったが、高尾は恋人に操を立ててどうしてもうんと言わない。かわいさ余って憎さが百倍、逆上した殿さまに、哀れ高尾はつるし斬りというお手討ちにあってしまう。

数年の後、今は世をはかなんだ重三郎は本所の棟割長屋に裏店住まい。

夜は香をくべて南無阿弥陀太と念仏三昧で、ひたすら高尾の菩提を弔っている。

重三郎が夜な夜なたたく鉦(かね)の音で、長屋の連中が眠れなくて困るというので、月番のガラ熊が代表で掛け合いにやってくる。

「せめて昼間だけにしておくんなさい」とすごむ熊に、「いや、それができぬわけというのは」と、重三郎が打ち明けた秘密がものすごい。

自分はこれこれこういう出自の者だが、この香は実は魂呼び寄せるという霊力を持った反魂香という天下に二つとないもので、夜半にこれをたき鉦をたたくと、まぎれもない亡き高尾の姿がスーッと現れるというのだ。

熊公、半信半疑で恐いもの見たさ、真夜中に「実演」を見せてもらうことになった。

当夜。

まさしく重三郎の言葉通り、香の煙の上に、確かに女の姿。

重三郎が「そちゃー、女房高尾じゃないか」

この世ならぬ声で唱えると、安心したようにその姿はかき消すごとく消えてしまう。

ガラ熊も三年前に女房のお梅を亡くし、今はやもめの身。

ぜひ香を分けてほしいと頼むが、重三郎は、これだけは命に代えても譲れない、と受け付けない。

しかたなく、ハンゴンコウというくらいだから、ひょっとして薬屋にでも売ってやしないか、と出かけた熊、越中富山の反魂丹とあるのを間違えて、喜んで山ほど買ってくると、さっそく、その夜「実検」に取りかかった。

きんたま火鉢に炭団をおこしてくべると、モウモウと煙。

「そちゃー、女房高尾じゃないか」
と、むせながら唱えるが、出るのは煙ばかり。

こりゃ少しずうずうしかったかと、今度は
「そちゃー、女房お梅じゃないか」

女房は二の次である。

そのうち表から
「熊さん、熊さん」
の声。

「しめた。そちゃー、女房お梅じゃないか。煙ったいから表口から回ってきたよ」

ガラッと戸を開けると隣のかみさんが
「困るよ。長屋中煙だらけじゃないか」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

ルーツは中国の故事  【RIZAP COOK】

白居易(白楽天)の「李夫人詩」によると、反魂香は、漢の武帝(前156-前87)が、愛妾の李夫人の魂をこの世に呼び戻そうと、方士(呪術師)に命じて作らせたもの、とされます。

この伝説自体が遠い原話になるわけです。

反魂香は返魂香ともいい、芳香を放つ「返魂樹」なる木から作られたとか。

日本の文芸作品にも、近松の浄瑠璃「傾城反魂香」上田秋成の怪談読本「雨月物語」中の「白峰」など、さまざまな形で登場します。

反魂香を焚き、霊が現れる図は、安永9年(1780)年刊の鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』に収録されています。現在、『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)で見ることができます。

原話二題  【RIZAP COOK】

直接には、寛延4年(1751=宝暦元)刊の漢文体笑話集『開口新語』中の小咄が原型に近いものです。

これは、遊郭に入りびたって金がなくなり、見世からお出入り禁止になった青年が、花魁恋しさのあまり悶々としたあげく例の漢の武帝の故事を思い出します。

で、昔、花魁からもらった恋文を燃やし、一念によって花魁の姿を見ようとしますが、間違って債権者のリストを燃やしたので、たちまちに煙の中から借金取りが雲霞のごとく現れるというお笑いです。

どのみち、これも中国種でしょう。

もう一つ、天明元年(1781)刊『売集御座寿』中の「はんごん香」になると、やや現行に近くなります。

死んだ女房にもう一度逢いたいと恋焦がれる男。友達の勧めで、薬屋で反魂香を買い、墓場で焚くと、アーラ不思議、墓石がガタガタ動きます。

喜んで、もう百匁買って焚けば姿が見えると、家に金を取りに戻ると母親が「さっき地震があったけど、どこにおいでだえ」

そちゃー女房可楽じゃないか  【RIZAP COOK】

もともとは上方落語です。古い上方の演題は「高尾名香」。

万延2年(1861=文久元)の大坂の桂松光のネタ帳『風流昔噺』にあります。

「高尾はんごん丹間ちがい、但しはみがき売」と。

明治中期に東京に移植され、二代目柳家(禽語楼)小さん、三代目小さんによって磨かれました。

昭和から戦後にかけ、八代目三笑亭可楽が得意にし、高弟の三笑亭夢楽に継承。八代目林家正蔵(彦六)も演じました。

音源は長らく可楽のものだけでしたが、最近は夢楽、古今亭志ん朝のものもあります。

「反魂香」のやり方で、声色で故人の落語家を次々に霊界から呼び出すという趣向もありました。

これをやったのは、確か夢楽だったと記憶しますが、今では当人が呼び出される方に回っているのは世の流れ、皮肉なものです。

高尾太夫は最高名跡  【RIZAP COOK】

高尾は、三浦屋だけが使える太夫の名跡です。

三浦屋は歌舞伎十八番「助六」で名高い吉原の大見世でした。いわば商標登録済み。

京・島原の吉野太夫と東西の横綱に並立します。吉原のシンボル、太夫という花魁の最高位の、そのまたトップに立つ大名跡だったわけです。

代々名妓が出て、七代または十一代まであったともいわれ、はっきりしません。

この噺の伝説に出る、俗にいう「仙台高尾」も初代、二代または四代、五代と諸説あります。

まあ、伝説の美女は謎に包まれていた方がより想像を駆り立てられてよいものです。

「高尾」代々の通称  【RIZAP COOK】

高尾代々については、資料によって説が違いますが、通称だけを記すと、随筆「高尾考」では次のように記されています。

-妙心高尾-万治=仙台高尾-水谷高尾-浅野高尾-紺屋高尾-榊原高尾-播州高尾

七代から九代は不明、で、十一代目の奇行と不行跡により、寛保元年(1741)に高尾の名跡は断絶したとあります。

『洞房語園』では、初代、二代目は同じですが、三代目を西条高尾、四代目を水谷高尾、五代目浅野高尾、六代目駄染(=紺屋)高尾、七代目榊原高尾で、七代目で絶えたとしています。

「紺屋高尾」をご参照ください。

反魂丹  【RIZAP COOK】

反魂香は中国由来のもととは上に記しましたが、ならば、反魂丹とはなにか。

オカルトじみた名ですが、要するに、毒であの世に行きかけた命を、シャバに呼び戻す霊薬、という、反魂香と同じような丸薬だったようです。

木香、陳皮、大黄、黄連、熊胆などを原料にして、霍乱、癪、食傷などに効く薬で、「返魂香」とも記したそうです。

鎌倉期に宋から足利家に伝わり、足利家に組み込まれた畠山家に伝わり、江戸期には畠山の領国だった富山藩で調製して薬売りが全国に広めました。

江戸では、柳原同朋町の心敬院が調製。それを、芝の田町四丁目、堺屋が販売していました。

香具師の松井源水は、曲独楽芸の大道芸で売っていたそうです。

【語の読みと注】

花魁 おいらん
操 みさお
三昧 ざんまい
木香 もっこう
陳皮 ちんぴ
大黄 だいおう
黄連 おうれん
熊胆 ゆうたん
霍乱 かくらん:日射病、急性腸カタル
癪 しゃく:胃けいれん
食傷 しょくしょう:食あたり
松井源水 まついげんすい:曲独楽芸
独楽 こま
心敬院 しんぎょういん

【RIZAP COOK】

はおりのあそび【羽織の遊び】演目

【RIZAP COOK】

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別題:羽織の女郎買い 羽織 御同伴

遊びといえば、吉原が舞台。とはいえ、苦労するもんですね。

【あらすじ】

町内の若い衆が、キザな伊勢屋の若旦那をたらし込み、タダでお遊びのお相伴をしようとたくらむ。

そこへ現れた若旦那、さっそく吉原の自慢話をひけらかし始める。

「昨日は青楼へふけりまして」
と漢語を使うので、一同、牢に入ったと勘違いする始末。

「北国へ繰り込みまして、初会でカクカイオイロウへ上がりました」

これは吉原の大見世、角海老楼のこと。

「ショカボのベタボで」

つまり、花魁に初会惚れのべた惚れされた、ということ。

二の腕をつねられたのが一時三十五分で、ほっぺたが二時十五分、明け方が喉笛と、いやに詳しいノロケぶり。

いいかげんあてられて、ぜひお供をと頼むと若旦那、「では、これからセツとご同伴願って、ぜひご耽溺をくわだてましょう」と、くる。

「おい、タンデキてえのを知ってるかい」
「うん。焼き芋みてえな形をして、塩をつけるとオツなもんだ」

いいかげんなことを言い合った末、若旦那が
「セツの上がる見世は大見世ばかりでゲスから、半纏着を相手にいたしやせん。ぜひとも羽織とおみ帯のご算段を願いとうございますな」

要するに、オレの顔にかかわるから、羽織と帯だけは最低限着てこなけりゃあ連れていかねえという、ご意向。

そこで一時間の猶予をもらい、それぞれ羽織の調達に行く。

八五郎は出入り先のお内儀さんのところに行き、正直に「女郎買いのお相伴で」とわけを話したため、祝儀不祝儀でないと貸せないとあっさり断られた。

あわてて、
「ええ、その祝儀不祝儀でござんす。向こうから祝儀、こっちから不祝儀で、どーんと突き当たって」
と、トンチンカンに言いつくろう。

冠婚葬祭のことだと教えられ、
「へえ、長屋でお弔いがございます」

誰が死んだかと尋ねられて答えにつまり、屑屋の爺さんを勝手に殺してしまう。

「いつ死んだんだい」
「ゆうべの十一時で」
「ばかをお言いでない。さっき鉄砲ざる背負って通ったよ」
「えっ、通った? ずうずうしい爺イだ」

困って、今度は洗濯屋の婆さんを殺すと、たった今二階で縫い物をしている、という。

大汗をかいてようよう貸してもらい、集合場所へ。

一人は、帯の代わりに風呂敷でゴマかし、別の男は、子供の羽織。

もう一人はふくらんだ紙入れを持ってきたが、実は煉瓦を中に入れて、金があるように見せかけているだけ。

「こりゃご趣向でゲス。しかしそのふくらんだ具合は、懐中が温かそうに見えますな」
「あったけえどころか、煉瓦だから冷えます。途中で小便を二度しました」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

演者を選ぶ噺  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、文化年間から口演されてきた古い江戸噺です。

古い速記では「羽織の女郎買ひ」と題した二代目古今亭今輔のもの(明治22年11月)が現存します。

戦後では、三代目、四代目の春風亭柳好、六代目三遊亭円生が得意にし、古今亭志ん朝も明るく、スピーディーな高座が絶品でした。

現役では、桂文治が平治時代からやるほか、若手もぼつぼつ手掛け始めてはいますが、演者はさほど多くありません。

登場人物も多く、よほどの円滑洒脱な話芸達人でないとこなせない、難しい噺だからでしょう。

六代目円生は「羽織」、七代目柳枝は「御同伴」と、演題はまちまちです。

オチはいろいろ  【RIZAP COOK】

オチのやり方はいくつかあって、八五郎が羽織の調達に出かけるくだりを後半に回し、婆さんを「殺した」後、嘘がばれて問い詰められ、「だれかそのうちに死にましょう」とオチるのが、現在では普通で、古今亭志ん朝もこのやり方でした。

かってはこの続きがあり、若旦那に引率されて遊びに出かけた後、食通を気取って「ただいまは重箱の鰻でもねえのう」と、後ろへそっくり返るのを教えられた男が、そっくり真似してひっくり返るところで切るのが、明治の今輔のオチ。

「世界は妙でげす、不思議でげす」と言って紙入れを出し、見せびらかせと若旦那に言われ、その通りにしたら、懐のレンガが飛び出した、というのもありました。

志ん朝のくすぐり  【RIZAP COOK】

古今亭志ん朝では、若旦那のノロケが抱腹絶倒。

一時には、マナコの中に熱燗の酒を注がれ、二時には簪を鼻の穴に。
「先がのどのところから出やした」
「魚焼くのがうまいよそういう女は」
三時には、みぞおちの辺りを尻でぐりぐりっと。明け方にはのど笛を食らいつき……という次第。
八公が親分のかみさんに、遊びに行くんなら羽織は貸せないと言われて興奮し、
「姐さんは女だからそんなこと言うんだよ。ねえ、こっちゃあ男だよ。まして若えんだ。ええ、んとに。からだア達者なんだしさ、ずっとここんところ行ってねえんだよ。なんだかイライライライラしてしょうがねえんだから。鼻血は出るしね。朝なんかもう大変なんだから」

半泣きになるところなど、妙にリアルで生臭いところは、いかにもこの人らしい味でした。

ゲス言葉は上品でげす  【RIZAP COOK】

「げす」などの通人ことばは、滑稽本や洒落本などに江戸中期ごろから、頻繁に登場するようになりました。

自称の「セツ」などと並んで、半可通のエセ通人が連発します。接尾語としては「げえす」というのが本来で、「であります」の意味です。

噺家や幇間も日常的に使い、六代目三遊亭円生は口癖のようにしていました。

明治以後になると、この噺や「酢豆腐」の若旦那のように聞きかじりの漢語を交えたりもするので、余計に分かりにくくなってきます。

【語の読みと注】

青楼:せいろう。遊郭
北国:きた。吉原
大見世:おおみせ
角海老楼:かどえびろう
花魁:おいらん
拙:せつ。拙者。私
耽溺:たんでき
半纏着:はんてんぎ。職人
お内儀さん:おかみさん
ご相伴:ごしょうばん
重箱:じゅうばこ。鰻の老舗
祝儀:しゅうぎ
屑屋:くずや
煉瓦:れんが
懐中:かいちゅう
簪:かんざし
姐さん:ねえさん
半可通:はんかつう
幇間:ほうかん。たいこ

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とんちき【とんちき】演目

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「とんちき」とは「まぬけ」の意。奇妙な構成が笑わせます。

【あらすじ】

嵐の日なら廓はガラガラで、さぞモテるだろうと考えた男。

わざわざ稲光のする日を選んで、びしょ濡れで吉原へ。

揚がってなじみのお女郎を指名、寿司や刺し身もとってこれからしっぽり、という矢先に、女が
「ちょいと待ってておくれ」
と消えてしまう。

世の中には同じことを考える奴はあるもので、隣の部屋で、さっきから焦れて待っている男、女が現れると
「おめえ、今晩は客がねえてえからおらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、朝、おまえさんが顔を洗ってたら、二階から楊枝をくわえて髭の濃い、変な奴が下りてきたろ。足に毛が生えた、熊が着物を着ているような奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

隣の男、「あんな野郎なら」と安心して、花魁と杯のやりとりを始める。

そのうちに、花魁が
「だけどもね、いまチョイチョイと……」
とわけのわからない言い訳をして、また消えてしまう。

前の座敷へ戻ると
「おめえ、今晩は客がねえてえから、おらァ揚がったんだぜ。いい人かなんか、来やがったんだろう」
と、嫌みたらたら。

「嫌だよ、この人は焼き餅を焼いて。いい人はおまえさん一人じゃないか。ほら、おまえさんの知ってる人だよ。この間、おまえさんが顔を洗いに二階から下りてきたとき、あたしが顔を洗わせてたお客があったろ。あの目尻が下がった、鼻が広がったあごの長い奴。あいつが来ているんだよ」
「ああ、あのトンチキか」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

円遊から小せんへ

原話は不明。初代三遊亭円遊が「果報の遊客」の演題で明治26年(1893)7月、『百花園』に速記を載せています。

円遊のものは、同じ廓噺の「五人廻し」をくすぐりたくさんにくずしたようなもので、文句を言う客に女郎が「おまはんはあたしの亭主だろう。自分の女房によけい客がつくんだから、いいじゃないか」と、居直って膝をキュっとつねり、隣の部屋に行ってまた、間夫気取りの男を翻弄。

「おまはんも甚助(焼き餅)だねえ。奥に来てる奴は知ってる人だよ。あのばかが来てるんだよ」「うん、あのばかか」とオチた上、「両方で同じことを言っております」と、よけいなダメを押しています。

明治末から大正初年にかけ、これを粋にすっきりまとめ、「とんちき」の演題を使い始めたのが、初代柳家小せんでした。近代廓噺のパイオニアです。

大正8年(1919)9月、その遺稿集として出た『廓ばなし小せん十八番』に収録の速記を見ると、マクラで、活動写真のおかげで近ごろは廓が盛らないなどと大正初期の世相を織り込み、若い落語家(自分)がなけなしのワリ(給金)を持って安見世に揚がり、「部屋ったって廻し部屋、たばこ盆もありゃアしません。たもとからマッチを出して煙草を吸い始める、お女郎衆のお座敷だか田舎の停車場だかわからない」と、当時の寒々とした安見世の雰囲気を活写し、今に伝える貴重な風俗ルポを残しています。

小せんはさらに、花魁がいつまでも向こうを向いて寝ているので、「こっちをお向きよ」「いやだよ、あたしは左が寝勝手(=寝やすい)なんだよ」「そうかい、それじゃ俺がそっちへ行こう」「いけないよ。箪笥があるんだよ」「あったっていいじゃないか」「中のものがなくならあね」という小咄をマクラに振っています。

これは、小せんに直伝で廓噺を伝授された五代目志ん生が、しばしば使っていたネタ。残念ながら志ん生自身の「とんちき」の速記や音源はありません。それにしても、小せんと志ん生の年齢差はたった7歳。昭和48年(1973)、83歳まで生きた志ん生に比べ、小せんは享年36。早すぎる天才の夭折でした。

とんちき

生粋の江戸悪態ことばで、「トンマ」「まぬけ」の意味。もとは「とん吉」と言ったのが、いつの間にか音がひっくり返ったようです。

「しだらがない」が「だらしがない」に転訛したように、誤用、またはシャレでひっくり返して使っていたのが、そのまま定着してしまった例でしょう。

深川の岡場所(遊郭)で、ヤボな客を「とんちき」と呼んだので、廓噺だけにその意味も合体しています。

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つきおとし【突き落とし】演目

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「居残り佐平次」「付き馬」と合わせて「廓噺の三大悪」の一つ、と言われてます。

別題:棟梁の遊び(上方)

【あらすじ】

町内の若い者が集まって
「ひとつ、今夜は吉原へでも繰り込もう」
という相談。

ところが、そろいもそろって金のない連中ばかり。

兄貴分が悪知恵をめぐらし、一銭もかけずに飲み放題の食い放題、という計画を考え出す。

作戦決行。

兄貴分が大工の棟梁に化け
「いつも大見世でお大尽遊びばかりしているので飽きちまったから、たまには小見世でこぢんまりと遊んでみたい」
などと大声で吹きまくり、客引きの若い衆の気を引いた上、一同そろって上がり込む。

それから後は、ドンチャン騒ぎ。

翌朝になって勘定書が回ってくると、ビールを九ダースも親類へ土産にするわ、かみさんが近く出産予定の赤ん坊用にたらいまで宿の立て替えで届けさせるわで、そのずうずうしさにさすがの「棟梁」も仰天した。

ニセ棟梁が留公に
「勘定を済ますから昨日てめえに預けた紙入れを出せ」
という。

この男、実はこれから殴られたうえ
「バカだマヌケだ」
と言われなくてはならない一番損な役回り。

「てめえは役者の羽左衛門に似ているから、いい役をやるんだ」
とおだてられ、しぶしぶ引き受けたが、頭におできができているので、内心びくびく。

留公が筋書き通り
「実は姐さんに『棟梁は酔うと気が大きくなる人だから、吉原へでも行って明日の上棟式に間に合わないと大変だから、お金は私に預けておくれ』と頼まれたので、金は持っていません」
と答えると、待ってましたとばかりに
「なんだと、てめえ、俺に恥ィかかせやがって」
とポカポカ。

留公、たまらず
「だめだよ兄貴。こっち側をぶってくれって言ったのに」
と口走るのを聞かばこそ、ポカポカポカポカ。

そこでなだめ役が
「この留はドジ野郎ですからお腹も立ちましょうが、ここはわっちらの顔を立てて」
とおさめ、若い衆には
「こういうわけで、これから棟梁の家まで付いてきてくれれば、勘定を払うばかりか、おかみさんは苦労人だから祝儀の五円や十円は必ずくれる」
と、うまく持ちかけて付き馬に連れ出す。

途中、お鉄漿溝で
「昨夜もてたかどうかは小便の出でわかるから、ひとつみんなで立ち小便をしよう。若い衆、お前さんもつき合いねえ」

渋るのをむりやりどぶの前に引っ張っていき、背中をポーンと突いたから、あわれ若い衆はどぶの中へポッチャーン。

その間に全員、風を食らって一目散随徳寺。

「うまくいったなあ」
「今夜は品川にしようか」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

三木助十八番、決まらないオチ

原話は不詳で、文化年間(1804-18)から伝わる生粋の江戸廓噺です。大正期には、初代柳家小せんの速記が残り、戦後では三代目桂三木助(1903-61)の十八番。春風亭柳朝も得意にしましたが、ともに速記のみで音源はなく、珍しく六代目三遊亭円生が、昭和41年(1966)5月にTBSラジオで演じた音源が残ります。

オチは、三木助が「泥棒だな、おい」と加えて悪らつさを薄めたり、一人が遅れて戻り、「いい煙草入れだから、惜しくなって抜いてきた」とするものもありますが、どれも決め手を欠き、いまだに決定的なものはありません。本あらすじのは、初代小せんのものを採りました。

上方版「棟梁の遊び」

異色なのは、大阪の六代目笑福亭松鶴が演じた「棟梁の遊び」で、これは、舞台を松島遊郭に移した、東京の「突き落とし」からの移植版。昔から、大阪→東京の移植は無数にはあっても、逆は珍しい例です。移植者や時期は不詳ですが、こちらはオチが東京の「大工調べ」のをいただいて「大工は棟梁、仕上げをご覧じ」という、ダジャレオチになっています。

廓噺の三大悪

飯島友治(落語評論家)は「突き落とし」「居残り佐平治」「付き馬」を後味の悪い「廓噺の三大悪」と呼んでいます。落語に道徳律を持ち込むほど愚かしいことはありません。

「黄金餅」のようなアナーキーな噺を得意にした五代目古今亭志ん生は、この噺だけは「あんな、ひどい噺はやれないね」と言って生涯、手掛けませんでした。志ん生は若き日、初代小せんに廓噺を直伝でみっちり伝授されていて、「突き落とし」も当然教わっているはずですが、「ひどい噺」と嫌った理由は今となってはわかりません。

吉原への愛着から、弱い立場の廓の若い衆をひどい目に合わせるストーリーに義憤を感じたか、または、小見世の揚げ代を踏み倒すようなケチな根性が料簡ならなかったか。さて、どうでしょう。

小見世

下級の安女郎屋ですが、一応店構えを持っているところが、さらにひどい「ケコロ」などの私娼窟と違う点です。大見世と違い、揚代が安い分、必ず前払いで遊ばなければならない慣わしなので、この噺では、苦心してゴマかさなければならないわけです。

お鉄漿溝

おはぐろどぶ。最後に若い衆が突き落とされる水路ですが、吉原遊郭の外回りを囲むよう掘られた幅二間(約3.6m)のみぞです。通説では、遊女の逃亡(廓抜け)を防ぐため掘られたといいます。お女郎が、歯を染めた鉄漿の残りを捨てたので、水が真っ黒になったのが名前の由来ということです。鉄漿は、鉄片を茶や酢に浸して酸化させた褐色の液体に、五倍子粉というタンニンを含んだ粉末を混ぜたものです。

【語の読みと注】
お鉄漿溝 おはぐろどぶ
鉄漿 かね
五倍子粉 ふしこ

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さんすけのあそび【三助の遊び】演目

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落語版「影武者」の噺。

【あらすじ】

上京して湯屋で釜焚きをしている男。

今日は釜が壊れて店が休みなので、久しぶりにのんびりできると喜んだが、常連客が次から次へとやってきて、その度に
「今日は休みかい」
と聞かれるので、うるさくてしかたがない。

やむなく外をぶらついていると、ばったり会ったのが知り合いの幇間の次郎八。

「どうせ暇なら、吉原でも繰り込もうじゃ、げえせんか」
と誘われるが、どうも気が進まない。

というのも、職業を明かすとお女郎屋ではモテないから、この間、素性を隠して友達と洲崎の遊廓に行ったら、相棒が
「古木集めて 金釘貯めて それが売れたら 豚を食う」
という、妙てけれんな都々逸をうたったため、バレてしまって女郎に振られた苦い経験があるからだ。

それでも次郎八が
「あーたを質両替屋の若だんなという触れ込みで、始終大見世遊びばかりなさっているから『たまには小さな所で洒落に遊んでみたい』とおっしゃっている、とごまかすから大丈夫」
というので、四円の予算だが、半信半疑でついていくことにする。

「あたしのことは家来同然、次郎公と呼んでください」
と念を押されて、さて吉原に来てみると、客引きの牛太郎に
「だんなさまは、明日はお流し(居続け)になりますか」
と聞かれて
「いや、わしは流しはやりません」
と早くもボロが出そうになるので、次郎八はハラハラ。

危なっかしいのを、なんとか次郎八がゴマかしているうち、お引き(就寝)の時間になる。

当人は次郎八以上にハラハラ。

お女郎同士が「あの人はオツな人だけど、白木の三宝でひねりっぱなしはごめんだよ」
と話しているのを聞いて、お女郎屋の通言で、一晩きりはイヤだという意味なのを、銭湯でご祝儀を白木の三宝に乗せて客が出すことと間違え、バレたのではないかと心配したり
「炊き付けたって燃え上がるんじゃないよ」
と言うので、またビクビクしたりの連続。

これは「おだてても調子に乗るな」という意味。

その度に次郎公、次郎公と起こされるので、しまいには次郎八も頭に来て
「さっさと寝ちまいなさいッ」

しかたなく寝ることにして、グーグー高いびきをかいていると花魁が入ってきて
「あら、ちょいと、お休みなの」
「はい、釜が損じて、早じまえでがんす」

【しりたい】

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「小せん」から志ん生へ

原話は不明です。明治中期までは、四代目三遊亭円生が得意にしていましたが、現在残る古い速記は、明治34年(1901)7月、「文藝倶楽部」に掲載の三代目柳家小さんのもの、大正8年(1919)9月に出版された、初代柳家小せんの遺稿集『廓ばなし小せん十八番』所収のものがあります。

戦後は、おそらく小せん直伝と思われる五代目古今亭志ん生の一手専売でした。明治の小さんでは、三助が吉原で振られて洲崎遊郭へ行く設定で、したがって舞台は洲崎でした。門下の小せんの演出では、本あらすじで採用したとおり、反対に洲崎で振られて、吉原に行きます。志ん生は、二度とも吉原で、以前振られた原因となった都都逸の最後を「これが売れたらにごり酒」としていました。

志ん生没後は、三助そのものが死語になり、噺に登場する符丁などの説明が煩わしいためか、演じ手はありません。

三助

湯屋の若い衆の異称でした。使われだしたのは文化年間(1804-18)からです。

別に、下男の「権助」の別称だったこともあり、下働きをするという意味の「おさんどん」から付いた言葉です。やや皮肉と差別意識を含んだ「湯屋の番頭」という別称も使われました。

同じ三助でも、釜焚きと流しははっきりと分かれており、両方を兼ねることありません。

この噺の主人公は釜焚き専門です。

昭和初期に至るまで、東京の銭湯は越後(新潟県)出身の者が多く、第36代横綱・羽黒山政司(1914-69)も、新潟県から出て、両国の銭湯で流しの三助をやっているところを、その体格が評判になり、立浪部屋にスカウトされています。

歌舞伎では、二代目市川猿翁が猿之助時代に家の芸である澤瀉十種の内、オムニバス舞踊「浮世風呂」中の「三助政吉」で三助に扮したことがありした。これは四代目猿之助にも継承されています。

洲崎遊廓

前身の深川遊廓は、江東区深川富岡八幡宮周辺で「七場所」と称する岡場所を形成し、吉原の「北廓」に対して「辰巳」として対抗しました。

文化文政期には、「いなせ」と「きゃん」の本場として通に愛されましたが、遊廓は天保の改革でお取りつぶしとなりました。

明治維新後、現在の江東区東陽一丁目が埋め立て地として整地され、明治21年(1888)7月、根津権現裏の岡場所がここに移転。新たに洲崎の赤線地帯が生まれました。

最盛期には百六十軒の貸座敷、千七百人の娼婦、三十五軒の引手茶屋がありました。

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くるわだいがく【廓大学】演目

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廓中毒の若だんなのばかぶり、儒学のばからしさをも笑います。

【あらすじ】

若だんなが吉原に入り浸り。

もう堪忍袋の緒が切れたと、親だんなが勘当しようとする。

それを番頭が止める。

「若だんなは反省して、今二階に閉じこもって『大学』の素読をしているので今度だけは勘弁してやってほしい」と取りなす。

親だんなも、「まじめになってくれるのなら言うことはない」と、二、三日ようすを見ることにした。

初めは、改心を装っていた若だんな。

時がたつと、だんだん本性を現し、がまんすればするほど吉原が恋しくなる。

「俺くらいになると、吉原中の人間に顔を知られている」
と、モテにモテた日々を回想し、
「吉原の車屋は威勢がよかった」
とか、
「山谷から船で芸者を連れて遊びに出たら、帰りが遅いと見番(廓の出入りの管理者)に文句を言われたが、廓の世話人の久兵衛に取りなしてもらった」
とか、
「吉原では番頭新造が花魁の懐を握っている」
とか、
「禿は居眠りすると相場が決まっている」
などと、次から次へと思い出すたびに、矢もたてもたまらなくなって、思わず大声を張り上げてしまう。

それを聞きつけたおやじ、二階に上がってきて
「このばか野郎。番頭が、おまえは『大学』の素読をしていると言うから覗いてみれば、とんでもないことをしゃべってやがる」
「えー、おとっつぁん、私はこれで『大学』の素読をしてましたんで」
「なんだい、これは。大変小さい本だねえ」
「へえ、『廓大学』と申します」

実は、「吉原細見」という案内書。

若だんな、ここで勧進帳よろしく、「大学」と見せかけて読み上げる。

「大学、朱憙章句、ご亭主のいわく、大学の道は道楽を明らかにするにあり、金を使わすにあり、自然に止まるにあり、と」

大学のパロディーを展開して、おやじをケムにまく。

親だんなが、なんだか怪しいと本を取り上げてみると、「松山・玉章」(花魁の名)。

「なんだ、マツヤマタマズサってえのは」
「おとっつぁん、そうお読みになっちゃいけません。ショウザンギョクショウ。ともに儒者の名です」
「変な先生方だねえ。どこにいるんだ」
「行ってみなさい。ズラリと格子の内に並んでます」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

大学

「郭大学」の「大学」は、儒教の経典で四書五経のうち、四書の一つ。書名です。五経のうちの「礼記」の一編で、朱熹が注釈、改訂しました。四書は儒学の根本経典である五経を学ぶための補助教材です。「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書。

政治の理想と士太夫のあるべき姿を示すもので、朱子学一辺倒の旧幕時代には、支配階級である武士の必修テキストでした。

若だんなの読み上げるのは、そのパロディー。儒教道徳の要であるガチガチの学術書を軟派の極みのお女郎買い指南にすり替えたあたり、この噺の「作者」の並みでない反骨精神が感じられます。

吉原細見

正しくは「新吉原細見記」。吉原廓内の娼家、揚家、茶屋と遊女名が詳細に記された、絵図つき案内書です。ガイドブックです。

毎年タイトルを変えて改訂され、延宝年間(1673-81)から大正5年(1916)まで、二百三十余年にわたって発行され続けました。安永4年(1775)版の『籬の花』、天明3年(1783)版の『五葉松』などが有名です。

初代小せんの十八番

明治中期まで、二代目柳家(禽語楼)小さんが得意にし、そのうまさは折り紙つきだったといいますが、速記は残されていません。

小さんは士族出身で、武張った噺がうまかった人。もちろん幼時には、「大学」の素読くらいさせられたでしょうから、こういうパロディーは、お手のものだったでしょう。

大正期には、初代柳家小せんの十八番でした。廓噺の完成者。二代目小さんの孫弟子です。現存する小せんの速記は、大正8年(1919)9月に、小せんの遺著として出版された、『廓ばなし小せん十八番』に収録されています。

貴重な文献資料

若だんなが吉原の回想をする、小せんの次のようなくだりは今では貴重な文化的資料(?)といえます。

「昔は花魁がお客に無心をする、積み夜具(客がお女郎となじみになったしるしに、新調の夜具を積み重ねて飾る)をあつらえることも出来ないから、本床をあつらえてやらうてえんで床をあつらえてくれると、ふだんはどんなにに振られているお客でも、その晩だけは大切にされたもんだとかいうね、実に吉原というところは不思議なところだねえ」

「車と言えば、吉原の車と町車とは違うね、堤(吉原の日本堤という土手)の車なんと来た日には威勢がいいんだからなア」

「車」は人力車のことです。

今は聴けない噺

原話は寛政8年(1796)刊の創作小咄本『喜美談語』中の「学者」です。

吉原に入りびたりのせがれをおやじが心配し、儒者の先生に意見を頼みます。ところが、若だんなもさるもので、自分のなじみの女郎は博学の秀才で「和漢の書はおろか、客の鼻毛まで読みます」などと先生をケムにまくものです。

初代小せん没後、後継者はありません。日本の現代社会はすでに儒学の基本がすたれているため、今では誰も笑えないでしょう。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
禿 かむろ
細見 さいけん
勧進帳 かんじんちょう
朱憙 しゅき:朱子。1130-1200年
籬の花 まがきのはな
本床 ほんどこ

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くびったけ【首ったけ】演目

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珍しく、遊廓の女がひどい目にあう噺です。

【あらすじ】

いくら、廓でお女郎に振られて怒るのは野暮だといっても、がまんできることとできないことがある。

惚れてさんざん通いつめ、切り離れよく金も使って、やっとなじみになったはずの紅梅花魁が、このところ、それこそ、宵にチラリと見るばかり。

三日月女郎と化して
「ちょいとおまはん、お願いだから待ってておくれ。じき戻るから」
と言い置いて、行ったきり。

まるきり、ゆでた卵で帰らない。

一晩中待ってても音さたなし。

それだけならまだいいが、座敷二つ三つ隔てて、あの女の
「キャッキャッ」
と騒ぐ声がはっきり聞こえる。

腐りきっているこっちに当てつけるように、お陽気なドンチャン騒ぎ。

ふて寝すると、突然ガラガラドッシーンという地響きのような音で起こされる。

さすがに堪忍袋の緒を切って、若い衆を呼んで文句を言えば、なんでも太った大尽がカッポレを踊ろうと
「ヨーイトサ」
と言ったとたんに尻餅で、この騒ぎらしい。

ばかにしゃあがって。

その上、腹が立つのがこの若い衆。

当節はやりかは知らないが、キザな漢語を並べ立て、
「当今は不景気でござんすから、芸者衆を呼んで手前どもの営業隆盛を図る」
だの、
「あなたはもうなじみなんだから、手前どもの繁盛を喜んでくだすってもいい」
だのと、勝手な御託ばかり。

帰ろうとすると紅梅が出てきて、とどのつまり、売り言葉に買い言葉。

「二度と再びてめえの所なんか来るもんか」
「ふん、おまはんばかりが客じゃない。来なきゃ来ないでいいよ。こっちにゃあ、いい人がついてんだから」
「なにをッ、このアマ、よくも恥をかかせやがったな」
「なにをぐずぐず言ってるんだい。さっさと帰りゃあがれ」

せめてもの嫌がらせに、野暮を承知で二十銭ぽっちのつり銭を巻き上げ、腹立ちまぎれに、向かいのお女郎屋に上がり込む。

なじみのお女郎がいるうちは、ほかの見世に上がるのはこれも吉原のタブーだが、そんなこと知っちゃあいない。

なんと、ここの若柳という花魁が、前々から辰つぁんに岡惚れで、紅梅さんがうらやましいと、こぼしていたそうな。

そのご本人が突然上がって来たのだから、若柳の喜ぶまいことか。

もう逃がしてなるものかと、紅梅への意地もあって、懸命にサービスに努めたから、辰つぁんもまた紅梅への面あてに、毎晩のように通いつめるようになった。

そんなある夜、たまたま都合で十日ほど若柳の顔を見られなかったので、今夜こそはと思っていると、表が騒がしい。

半鐘が聞こえ、吉原見当が火事だという。

押っ取り刀で駆けつけると、もう火の海。

お女郎が悲鳴をあげながら逃げまどっている。

ひょいとおはぐろどぶの中を見ると、濁水に首までどっぷり浸かって溺れかけている女がいる。

助けてやろうと近寄り、顔を見ると、なんと紅梅。

「なんでえ、てめえか。よくもいつぞやは、オレをこけにしやがったな。ざまあみやがれ。てめえなんざ沈んじゃえ」
「辰つぁん、そんなこと言わずに助けとくれ。今度ばかりは首ったけだよ」

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【しりたい】

原話は寄せ集め

四代目三遊亭円生(1904年没)の作といわれます。

原話は複数残っていて、元文年間(1736-40)刊の笑話本「軽口大矢数」中の「はす池にはまったしゃれ者」、安永3 1774)年刊「軽口五色帋 ごしきがみ)」中の「女郎の川ながれ」、天明2 1782)年刊の「富久喜多留」中の「迯 にげ)そこない」などがあります。

どれも筋やオチはほとんど変わらず、女郎がおぼれているのをなじみの男が助けずに逃げます。

女郎は溺れながらくやしがって、
「こんな薄情な男と知らずにはまったのが、口惜しい」
というもの。

愛欲におぼれ、深みにはまったのに裏切られたのを、水の深みにはまったことに掛けている、ただのダジャレです。

ただ、時代がもっとも新しい「逃げそこない」のオチは、「エエ、そういう心とはしらず、こんなに首ったけ、はまりんした」と、なっていて、「首ったけ」の言葉が初めて表れています。

首ったけ

「首ったけ」は、「首っきり」ともいい、足元から首までどっぷり、愛欲につかっていること。おもに女の方が、男に惚れ込んで抜き差しならないさまをいいます。戦後まで残っていた言葉ですが、今ではこれも、完全に死語になったようです。

志ん生の専売

古い速記では、大正3 1914)年の四代目橘家円蔵のものがあります。

戦後は、二代目三遊亭円歌が演じたほかは、五代目古今亭志ん生の、ほぼ一手専売でした。志ん生、円歌とも、おそらく初代柳家小せんの直伝でしょう。志ん生は、後味の悪い印象をやわらげるため、女郎に、こんなことを言わせています。

「騒々しいッたってしょうがないじゃァないかねェお前さん、こういう場所ァ、みんなああいうふうに賑やかなのが、本当のお客さまなのよ。お金ェ使うから」と、図々しいものです。

若い衆には「弁解に窮します」「出るとこィ出まして法律にてらして」と、やたら漢語を使わせて、笑いを誘うなどしています。

後半の火事の場面は、自ら25歳のときに遭遇した吉原の昼火事の体験を踏まえていて、リアルで生々しいものとなっています。

志ん生から、息子の十代目馬生、志ん朝に伝わりました。馬生のは、レコードもあります。最近では、ほとんど手掛ける者がいません。

吉原の火事

吉原遊郭は、明暦の大火(1657年)によって全焼。そのため、日本橋から浅草日本堤に移転しますが、その後も、明治維新までに平均十年ごとに火事に見舞われ、その都度ほとんど全焼しました。

小咄でも、「吉原が焼けたッてな」「どのくらい焼けた? 千戸も焼けたかい?」「いや、万戸は焼けたろう」という、いささか品がないのがあります。

明治以後は、明治44年(1911)の大火が有名で、六千五百戸が消失し、移転論が出たほどです。

火事の際は、その都度、仮託営業が許可されましたが、仮託というと不思議に繁盛したので、廓主連はむしろ火事を大歓迎したとか。

おはぐろどぶ

おはぐろどぶは、吉原遊廓を囲む幅約二間(3.6m)の下水。下水の黒く汚いところを、江戸時代、既婚女性がつけていたお歯黒に見立てて名づけたものです。

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おやこぢゃや【親子茶屋】演目

【RIZAP COOK】

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親父も粋な男でした、という、鉢合わせの噺。

【あらすじ】

ちょうど、夜桜も見ごろの春のころ。

せがれが吉原に居つづけして、三日ぶりに堂々と帰ってきたので、親父 おやじ)はカンカン。

「花見に行っていた」
とごまかすので、
「どこに泊まりがけで花見をしてくる奴がある。去年おふくろが死んだのだから、その分親父に孝行して心配をかけないようにするのが本当だ」
と説教し、
「今夜は無尽で遅くなるから、しっかり留守番して、どこへも出かけちゃあならねえ」
と言い置いて、出かけていく。

無尽の後世話人連中と一杯やって、すっかりご機嫌になった親父、ほろ酔いかげんで山谷から馬道の土手にかかると、急に吉原の夜桜が見たくなる。

大門を入ると、例によって大変なにぎわい。

つい、遊び気分にひかされて茶屋に入り、結局、芸者、幇間を揚げて、年がいもなく、のめや歌えのドンチャン騒ぎ。

一方、おもしろくないのが家に「監禁」されたせがれ。

どうせまた今夜、花魁と約束がしてあるので、親父が帰らないうちに、顔だけでも見せてこようと、番頭をゴマかして家を飛び出し、宙を飛ぶように吉原のなじみの茶屋へ。

お内儀に
「いつもの連中を呼んでくれ」
と言うと、
「あいにく今夜は六十ぐらいのご隠居さんが貸し切りで、幇間も芸者もみんなそっちのお座敷にかかりっきりで」という。

「へえ、粋な爺さんもいるもんだ、家の親父に爪のアカでものましたい」
と感心して、
「どうだい、それならいっそ、その隠居といっしょに遊ぼうじゃないか」
「ようございます」
とお内儀が座敷に話を通すと、親父も乗り気。

幇間が趣向をこしられ、チャラチャラチャンとお陽気な歌でステテコ踊りから、サッと襖を開けると、目の前にせがれ。

「お父っつぁん」
「清次郎か。ウーム、これから、必ずバクチはならんぞ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

原型をそのまま伝承

親子でヘベレケとなる「親子酒」とともに、小咄としてはもっとも古典的で、原型がほぼそっくり、現行の落語に伝わっている数少ない噺です。

原話は明和4年(1767)刊の笑話本『友達ばなし』中の「中の町」。落語としては上方種で、現在でも上方落語色が強く、四代目桂米団治を経て、高弟の桂米朝に伝わりました。大坂の舞台は島之内の遊廓で、鳴り物入り、より華やかではでな演出がとられています。東京は文治が代々明治期では、六代目桂文治の速記が残るほか、八代目文治も演じましたが、東京では手がける演者は少なく、大阪のものばかりです。オチは「必ず飲み過ぎはならんぞ」とする場合もあります。

名物、吉原の夜桜

仲の町の夜桜は、灯籠、吉原俄とともに吉原三大名物の一つでした。起源は寛延元年(1748)、石井守英という絵師が江ノ島弁財天のご神体修復を志した時、吉原の廓主連がその費用を請け負い、江ノ島の桜は古来からの名物なので、それに便乗して翌年3月、修復後初のご開帳を前に廓内にも花を植えることにしたことに遡ります。この植樹が宣伝を兼ねていたことは間違いなく、堺町の芝居ともタイアップして、華々しいイベントを繰り広げたことが、吉原細見に見えます。

明治中期には、三河島の植木屋惣八という者が毎年植樹を請け負っていたことが、六代目桂文治のマクラにあります。無尽無尽講ともいい、講親と呼ばれる世話人が、仲間を集めて掛け金を募り、そのプールした金を講中の仲間が必要に応じて借り合うもの。いわば共済基金のようなものです。定期的に寄り合いを開いて入札を行い、大山参り、富士まいりなどの費用としても利用されました。頼母子講も同じようなものです。

六代目桂文治のくすぐり

●若だんなが茶屋のお内儀に遅れた言い訳
「ジが起こった(=怒った)んで出られなかった」
「お痛みじゃありませんか?」
「その痔じゃねえ。オヤジだ」

【RIZAP COOK】

おおみせ【大見世】ことば

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吉原で、尤も格式の高い遊女屋。おおまがき、大籬。

「籬」とは格子戸。その高さで、大籬や半籬などと店の格式を区分していました。

【噺例 文七元結】

吉原で佐野槌と呼ばれりゃ大見世だ。

佐野槌、角海老、三浦屋などは大見世の代表格です。大見世の下には、中見世、小見世などあって、最下位は蹴転というのも。「お直し」ですね。

【語の読みと注】
佐野槌 さのづち
角海老 かどえび
三浦屋 みうらや
中見世 なかみせ
小見世 こみせ
蹴転 けころ

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おちゃくみ【お茶汲み】演目

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遊郭を舞台にした艶っぽい噺。なんだかまぬけなんですがね。

【あらすじ】

吉原から朝帰りの松っあんが、仲間に昨夜のノロケ話をしている。

サービスタイムだから七十銭ポッキリでいいと若い衆が言うので、揚がったのが「安大黒」という小見世。

そこで、額の抜け上がった、目のばかに細い花魁を指名したが、女は松っあんを一目見るなり、
「アレーッ」
と金切り声を上げて外に飛び出した。

仰天して、あとでわけを聞くと、紫というその花魁、涙ながらに身の上話を始めたという。

話というのは、自分は静岡の在の者だが、近所の清三郎という男と恋仲になった。

噂になって在所にいられなくなり、親の金を盗んで男と東京へ逃げてきたが、そのうち金を使い果たし、どうにもならないので相談の上、吉原に身を売り、その金を元手に清さんは商売を始めた。

手紙を出すたびに、
「すまねえ、体を大切にしろよ」
という優しい返事が来ていたのに、そのうちパッタリ梨の礫。

人をやって聞いてみると、病気で明日をも知れないとのこと。

苦界の身で看病にも行けないので、一生懸命、神信心をして祈ったが、その甲斐もなく、清さんはとうとうあの世の人に。

どうしてもあきらめきれず、毎日泣きの涙で暮らしていたが、今日障子を開けると、清さんに瓜二つの人が立っていたので、思わず声を上げた、という次第。

「もうあの人のことは思い切るから、おまえさん、年季が明けたらおかみさんにしておくれでないか」
と、花魁が涙ながらにかき口説くうちに、ヒョイと顔を見ると、目の下に黒いホクロができた。

よくよく眺めると
「ばかにしゃあがる。涙代わりに茶を指先につけて目の縁になすりつけて、その茶殻がくっついていやがった」

これを聞いた勝さん、ひとつその女を見てやろうと、「安大黒」へ行くと、さっそく、その紫花魁を指名。

女の顔を見るなり勝さんが、ウワッと叫んで飛び出した。

「ああ、驚いた。おまえさん、いったいどうしたんだい」
「すまねえ。わけというなあ、こうだ。花魁聞いてくれ。おらあ、静岡の在の者だが、近所のお清という娘と深い仲になり、噂になって在所にいられず、親の金を盗んで東京へ逃げてきたが、そのうち金も使い果たし、どうにもならねえので相談の上、お清が吉原へ身を売り、その金を元手に俺ァ商売を始めた。手紙を出すたびに、あたしの年季が明けるまで、どうぞ、辛抱して体を大切にしておくれ、と優しい返事が来ていたのに」

勝さんが涙声になったところで花魁が、
「待っといで。今、お茶をくんでくるから」

底本:初代柳家小せん

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【しりたい】

原作は狂言

大蔵流狂言「墨塗」が原典です。

これは、主人が国許へ帰るので、太郎冠者を連れてこのごろ飽きが来て足が遠のいていた、嫉妬深い愛人のところへ暇乞いに行きます。

女が恨み言を言いながら、その実、水を目蓋になすりつけて大泣きしているように見せかけているのを、目ざとく太郎冠者が見つけ、そっと主人に告げますが、信じてもらえないため一計を案じ、水と墨をすり替えたので、女の顔が真っ黒けになってしまうというお笑い。

狂言をヒントに、安永3年(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の小咄「墨ぬり」が作られました。

これは、遊里狂いが過ぎて勘当されかかった若だんなが、罰として薩摩の国の親類方に当分預けられるので、なじみの女郎に暇乞いに来ます。

ところが、女が嘆くふりをして、茶をまぶたになすりつけて涙に見せかけているのを、隣座敷の客がのぞき見し、いたずらに墨をすって茶碗に入れ、そっとすり替えたので、たちまち女の顔は真っ黒。

驚いた若だんなに鏡を突きつけられますが、女もさるもの。「あんまり悲しくて、黒目をすり破ったのさ」。

これから、まったく同内容の上方落語「黒玉つぶし」ができ、さらにその改作が、墨を茶がらに代えた「涙の茶」。これを初代柳家小せんが明治末期に東京に移植し、廓噺として、客と安女郎の虚虚実実のだまし合いをリアルに活写。現行の東京版「お茶くみ」が完成しました。やれやれ、ご苦労さま。

小せんから志ん生へ

廓噺の名手で女遊びが過ぎて失明した上、足が立たなくなったという初代小せんの十八番を、五代目古今亭志ん生が直伝で継承。

志ん生の廓噺の多くは「小せん学校」のレッスンの成果でした。

志ん生版は、小せんの演出で、戦後はもう客にわからなくなったところを省き、すっきりと粋な噺に仕立てました。

「初会は(金を)使わないが、裏(=二回目、次)は使うよ」という心遣いを示すセリフがありますが、これなどは遊び込んだ志ん生ならではのもの。

志ん生は、だまされる男を二郎、花魁を田毎としていました。

残念ながら、志ん生の音源はありません。次男の志ん朝のものがCD化されていましたが。桂歌丸、柳家小三治のものが出ています。

本家の「黒玉つぶし」の方は、戦後、上京して上方落語を演じた桂小文治が得意にしていました。

歌舞伎でも

実は、「墨塗」にみられただまし合いのドタバタ劇は、狂言よりさらに古く、平安時代屈指のプレイボーイ、平定文(通称・平中)の逸話中にすでにあるといわれます。

この涙のくすぐりは「野次喜多」シリーズで十返舎一九もパクっていて、文政4年(1821)刊の『続膝栗毛』に同趣向の場面があります。

歌舞伎でも『義経千本桜』の「鮨屋」で、小悪党いがみの権太が、うそ泣きをして母親から金をせびり取る時、そら涙に、やはり茶を目の下になすりつけるのが、五代目尾上菊五郎以来の音羽屋の型です。

これは落語をそのまま写したとも考えられますが、むしろ、当時は遊里にかぎらず、水や茶を目になするのはうそ泣きの常套手段だったのでしょう。まあ、今でもちょいちょいある光景でしょうが、ここまで露骨には、ねえ……。

腐っても花魁

あらすじでは、明治42年(1909)の初代小せんの速記を参照しました。

小せんはここで、「安大黒」の名前通り、かなりシケた、吉原でも最下級の妓楼を、この噺の舞台に設定しています。

客の男が、お引け(午後10時)前の夜見世ということで「アッサリ宇治茶でも入れて(食事や酒を注文せず)七十銭」に値切って登楼しているのがなにより、この見世の実態を物語っています。

宵見世(=夕方の登楼)でしかるべきものを注文すれば、いくら小見世でも軽くその倍はいくでしょうが、明治末から大正初期で、大見世では揚げ代のみで三円というところが最低だったそうなので、それでも半分。

この噺の「安大黒」の揚げ代は、「夜間割引」で値切ったとはいえ、さらにその半分だったことになります。これでは、目に茶がらを塗られても、本気で怒るだけヤボというもの。

本来、花魁は松の位の太夫の尊称でしたが、後になって、いくら私娼や飯盛同然に質が低下しても、この呼称は吉原の遊女にしか用いられませんでした。こんなひどい見世でも、客がお女郎に「おいらん」と呼びかけるのは、吉原の「歴史と伝統」、そのステータスへの敬意でもあったわけです。

【語の読みと注】
花魁 おいらん
梨の礫 なしのつぶて
軽口五色帋 かるくちごしきがみ
田毎 たごと

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おおおとこのけ【大男の毛】演目

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図抜けたお相撲さんが吉原に行ったらどうなる? きてれつなバレ噺です。

【あらすじ】

ヌッと立つと、乳から上は雲に隠れて見えないというくらいの、大男の関取を連れて、ひいきの石町のだんなが吉原へ。

なにしろ、とてつもなく巨大な代物なので、お茶屋は大騒動。

座敷に通して酒を出すのに、普通の杯では飲み込んでしまうというので、酒樽を猪口代わりに、水瓶であおるというすさまじさ。

その関取、これでも
「ワシは酒が弱い」
と言って、こくりこくりと居眠りを始めた。

部屋の中に山ができたようなもので、じゃまでしようがないので、どこかへ片づけてしまえと、襖をぶち抜いて一六五畳敷きの広間をこしらえ、そこに寝かせることにしたが、それがまた一大事。

布団は蔵からあるだけ運んで、座敷中、片っ端から並べ、枕は長持ちを三つ分くくり付けた代用品。

寝間に担ぎ込むのに十人がかりで
「頭はどこだ」
「巽の方角だ」
「磁石を持ってこい」
と大騒ぎ。

掛け蒲団も山のように盛り上げて、まるで熊野浦に鯨が揚がったよう。

ようやく作業が完了したところで、今度は花魁の出番。

年増ではダメだから、せいぜい若いのをというだんなの指示で、年は十七だが、そこはプロ。

泰然自若として、心臓に毛が生えている。

ところが、この大山にはさすがに仰天。

無理もない。関取がいびきをかくごとに、魔術のように火鉢が中空へ。

下りると、また噴き上げられる。

寝返りを打つと家鳴りがして、まるで地震か噴火。

「驚いたねえ。ちょいと、関取の懐はどこだい」
「へえ、向こうが五重の塔になりますから、三の輪見当でしょう」

それでも花魁、関取の腹にヒョイとまたがった。

「おそろしく高いねえ。江戸中が見渡せるよ。わちきの家があそこに見える。おや、段々坂になった。ここは穴蔵かしらん」
「これ、ワシのへその穴をくすぐるな」

そのうちに、段々坂から花魁がすべり落ちて、コロコロ転がる拍子に、薪ざっぽうのようなものにぶつかった。

妙な勘違いをして
「不思議なこと。大男に大きな○○はないというけど、関取、おまはんのは、体に似合わず小粒だねえ」
「ばかァ言え。そりゃ毛だ」

底本:四代目橘家円喬

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【しりたい】

円喬の艶笑落語

原話は天明6年(1786)刊の絵入笑話本『腹受想』中の「大物」。

この噺のようなバレ噺(艶笑落語)で、実名で速記や上演記録が残ることはまずありません。今回、あらすじの参考にしたのは明治28年(1895)4月の「百花園」に掲載された、四代目橘家円喬の速記ですが、名前入りでしかも当時の大看板の口演記録が残るのは、きわめて珍しい例です。

艶笑がかっているのは、オチの部分だけで、前半はただ、関取の巨人ぶりの極端な誇張による笑いと、右往左往する宿の連中の滑稽だけです。

これと対照的なのが、「小粒」「鍬潟」といった小物力士の噺ですが、どちらも艶笑噺の要素はありません。この噺の前半と似て、力士の巨体を誇張する噺に「半分垢」があります。

巨人ランキング

相撲取りで歴代随一の巨人は、土俵入り専門の看板力士だった生月鯨太左衛門(1827-50)にとどめをさすでしょう。記録によると、二十歳で身長233cmといわれますが、一説には243cmあったとも。それに次ぐのが、大関、釈迦ケ獄雲右衛門(1749-75、227cm)、文政期の看板力士、龍門好五郎(1807-33、226cm)、同じく大空武右衛門(1796-1832、228cm)という面々。明治以後では、関脇、不動岩三男(1924-64、212cm)が現在に至るまでの記録保持者です。

外国人力士も多くなり、身長、体重の平均値は昔とは比較にならないほどの現在の相撲界でも、210cmを超えるとなると、そうザラには出ないということでしょう。

大男に大きな……というのはまったく当てにならないらしく、相撲界に巨根伝説は数多いのですが、その反対の話はついぞ聞きません。これは普通人のやっかみ、負け惜しみと思った方がいいでしょう。

【語の読みと注】
猪口 ちょこ
襖 ふすま
巽 たつみ:東南の方角
花魁 おいらん
年増 としま
腹受想 ふくじゅそう
生月鯨太左衛門 いけづきげいたざえもん

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おうみはっけい【近江八景】演目

★auひかり★

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うんちく垂れ流しのはなし。ちょいとオチが苦しいですが、けっこう笑えます。

【あらすじ】

ある男。

ゆうべ吉原に繰り込んだ兄弟分に、その同じ店の、自分のなじみのお女郎のようすを根堀り葉掘り、しつこく聞いてくる。

その女とは年期が明ければ夫婦になると口約束はしてあるものの、そこはお女郎のこと、自分が行かない時になにをしているか、気になってたまらないわけ。

案の定、別に色男がいるらしいと聞いて、兄さん、カンカン。

しかもその色男、白雪姫ではないが、色白で髪黒々と、目がぱっちりとして男振りもよく、背が高くもなく低くもなく、という、まあ、ライバルとしては最悪。

なお悪いことに、女はもっか、この男に血道をあげ、牛を馬に乗り換えて夫婦約束まで取り交わしている、ということまで知れた。

「おまえのツラじゃあ血道は上がらないわ。女の血道があばら骨で止まるね。おまえのは道普請ヅラ、市区改正ヅラ」

兄弟分にまで言われ放題。

「男は顔じゃねえ」
と強がってみても、内心はカリカリなので、女の本心を、横丁の占いの名人に見立ててもらうことにした。

易者の先生、おもむろに算木筮竹をチャラチャラさせ、
「えー、出ました。易は沢火革。革は改めるということだから、おまえさんのところにこの女が来年の春には来るね」

さあ、男は大喜び。

「聞いたか、オタンチンめ。アッタカクだ。アッタカクってえのは、女房来ればお粥を炊いて暖まるってこった。ざまあみろ」

ところが、まだ続きがあった。

「ああ、お待ち。沢火革を変更すると水火既済となる。つまりだ、来るには来ても、ほかに夫婦約束をした者がいるから、しまいには出ていくから、まあ、おあきらめなさい」
「ベラボウめ。なにが名人だい。せっかく暖めといて、勝手に変更されてたまるか。だいいち、そのスイカキセイってのが気に入らねえ。てめえ、八卦見だってんなら、近江八景で見てくれ。さもなきゃ道具をたたっこわすぞ」
と、女から来た
「あんたを一目三井寺から、心は矢橋にはやれども」
という、近江八景尽くしの恋文を突きつける。

脅されて先生、しかたなく
「それではこの易を近江八景で見ようなれば、女が顔に比良の暮雪ほどお白粉を付けているのを、おまえは一目三井寺より、わがものにしようと心は矢橋にはやるゆえ、滋賀唐崎の夜雨と惚れかかっても、先の女が夜の月。文の便りも堅田より、気がそわそわと浮御堂、根が道落雁の強い女だから、どう瀬田いはまわしかねる。これは粟津に晴嵐がよかろう、おい待った、帰るなら見料を、おアシを置いておいで」
「近江八景には膳所(=金)はねえ」

底本:六代目三遊亭円生

★auひかり★

【しりたい】

上方の発祥

原話は不詳で、同題の上方落語を東京に移植したものです。上方落語研究家の故・宇井無愁は、この噺の類話として、安永10年(1781)刊『民話新繁』中の「鞜の懸」を挙げています。

これは、鞜(=靴)屋の手代が、さる公家のところへ盆前の掛け取りに行くと、公家が、手代が持参した主人の書付を見て、「書き出す十三匁 鞜の代 内二百文 七月に取る」と、和歌になっていたので喜び、さっそく、「近江路や 鞜の浦舟 かぢもなく 膳所の松原 まはるまで待て」。要するに、「ゼゼができるまで待て」と返歌したという能天気な話ですが、「膳所」と「ゼゼ」の駄ジャレということ以外、「近江八景」との関連性ははっきりしません。

上方のやり方では、松島遊廓の紅梅という女に惚れた男が、大道易者に見立ててもらう筋です。艶書になっている近江八景づくしも、東京の易者のより名文で、「恋しき君のおもかげを、しばしがほどは見い(=三井)もせで、文の矢ばせの通い路や、心かただ(=堅田)の雁ならで、われからさき(=唐崎)に夜(=寄る)の雨……」といった名調子です。

風流すぎて、継承者なし

東京では、明治の四代目春風亭柳枝が手掛け、移植したのはこの人では、とも見られますが、不明です。

次いで古いところでは、六代目林家正蔵(今西の正蔵、1929年没)の、おそらく大正初期の吹き込みによるレコードが残されていますが、これは珍品、骨董品の部類。

昭和以後では、六代目三遊亭円生が得意にし、「円生百席」にも録音している通り、いかにも円生好みの粋できれいな噺です。三代目三遊亭金馬、五代目三升家小勝もたまに演じ、金馬のレコードもありますが、あまりに風流すぎ、今では手を出す人はいない、と言いたいところですが、じつは古今亭志ん朝がやっていました。

近江八景

近江八景を整理します。

三井寺の晩鐘
石山の秋月
堅田の落雁
粟津の晴嵐
矢橋の帰帆
比良の暮雪
唐崎の夜雨
瀬田の夕照

「堅田の落雁」は「浮御堂」と変わることがあります。初代安藤広重の続絵が有名です。

洒落のうち、「心が矢橋(やばせ)」は、「心だけがあせって矢のように(相手の所に)走る(=馳せる)」を掛けたもの。

「唐崎の夜雨と惚れかかる」は「雨が降りかかる」の駄ジャレ。「粟津に晴嵐」は「逢わずに添わん」の地口。

「膳所」は、もちろん銭の幼児語と掛けてあるわけですが、膳所(滋賀県膳所市)が近江八景に入っていないので、このオチが成立するわけです。

「瀬田いは廻しかねる」は、「世帯が回しかねる」、つまり家計がピンチということですが、「瀬田が唐橋(=世帯が空走り。金欠のこと)」とする場合もありました。

円生好みの粋な味わい

この噺、易の名人が登場する人情噺「ちきり伊勢屋」の冒頭によく似ているので、六代目円生は『円生全集別巻』の補説で、あるいはこの噺は「ちきり伊勢屋」の前半を独立させた上、近江八景の部分を後から付けたものではないか、と述べています。

ところで、円生の「掛取り万歳」には、芝居好きの酒屋に近江八景づくしで借金の言い訳をする場面があります。

その項と重複しますが、以下、そのやり取りをノーカットで。

主「その言い訳はこれなる扇面」
酒「なに、扇をもって言い訳とな……『雪はるる、比良の高嶺の夕まぐれ、花の盛りを過ぎし頃かな』……こりゃこれ、近江八景の歌。この歌もって、言い訳とは」
主「心やばせと商売に、浮御堂(=憂き身を)やつす甲斐もなく、膳所(=ゼゼ)はなし城は落ち、堅田に落つる雁(かりがね=借り金)の、貴殿に顔を粟津(=合わす)のも、比良の暮雪の雪ならで、消ゆる思いを推量なし、今しばし唐崎の」
酒「松で(=待って)くれろというなぞか。シテ、その頃は?」
主「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
酒「九月…下旬か」
主「三井寺の鐘を合図に」
酒「きっと勘定いたすと申すか」
主「まず、それまではお掛取りさま」
酒「この家のあるじ八五郎」
主「来春お目に」
両人「かかるであろう」

明らかにこの入れごとは「近江八景」の趣向を取り入れたものでしょう。

パクリ文化

「〇〇八景」は、もともと10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景」がモデルです。これに影響を受けて、広く東アジア一帯に「八景」文化が残っています。

たとえば、茨城県高萩市には「松岡八景」というのがあります。江戸時代、当時の領主中山信敬が儒者亀里亀章に選ばせたものだそうですが、元ネタがあるのでそれに見合った場所を選定するだけの労力で済みます。

竜子の晴嵐
二本松の秋月
関根の夕照
永田の落雁
能仁寺の晩鐘
天南堂の暮雪
荒崎の夜雨
高戸の帰帆

元祖「瀟湘八景」のパクリです。こんなが日本中いたるところにあり、今では饅頭や最中なんかが販売されています。経済と交通の発達で18世紀に開花した地方文化のあらわれとして、お国自慢と中国の風流文化とがむすびついた結果といえます。

念のため、「瀟湘八景」を載せておきます。瀟湘とは、洞庭湖から流れ出る瀟水と湘江の合流するあたりをいいます。古くから風光明媚で豊かな水郷地帯として知られています。湖南省長沙市のあたりです。

瀟湘夜雨 しょうしょうやう:瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁 へいさらくがん:秋の雁が鍵状に干潟に舞い降りる風景
煙寺晩鐘 えんじばんしょう:夕霧に煙る遠くの寺の鐘の音を聞く夜
山市晴嵐 さんしせいらん:山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪 こうてんぼせつ:日暮れの河の上に降る雪の風景
漁村夕照 ぎょそんせきしょう:夕焼けに染まるうら寂しい漁村風景
洞庭秋月 どうていしゅうげつ:洞庭湖の上にさえ渡る秋の月
遠浦帰帆 えんぽきはん:帆かけ舟が夕暮れに遠くから戻る風景

「近江八景」も「松岡八景」も出元は同じ、というわけです。

【語の読みと注】
算木 さんぎ:易で使う四角の棒。約9cm、6本でセット
筮竹 ぜいちく:易で使う竹ひご状の棒。35cm~55cm、50本でセット
沢火革 たくかかく:易の結果で、衝突から変化が起きる状態
水火既済 すいかきせい:易の結果で、小さい願い事はかなう状態
膳所 ぜぜ
鞜の懸 くつのかけ
浮御堂 うきみどう
矢橋 やばせ
瀟湘八景 しょうしょうはっけい

【古今亭志ん朝 近江八景】

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うめわかれいざぶろう【梅若礼三郎】演目

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珍しいはなし。お能の世界を描いています。

【あらすじ】

梅若礼三郎という能役者。

ある時、老女の役がついたが、どうしても歩き方の工夫が付かない。

神田明神に願掛けをして十二日目、ふと見かけた老婆の足取りからコツがつかめたので、喜んで礼を言うと
「手本を当てにしているようでは、いい役者になれない」
とさとされ、
「ああ、しょせん、オレは素質がない」
と悟る。

それならいっそ太く短くと、心を入替えて大泥棒として再出発。

金持ちから奪い、貧乏人に恵むという義賊として名を上げた。

神田鍋町の背負い小間物屋の利兵衛。

三年以前から腰が抜けて商売にも出られず、女房のおかのは、内職をしながら看病を続けていた。

女の細腕で暮らしは支えきれず、亭主には願掛けと偽って、心ならずも鎌倉河岸で物乞いを。

北風の吹く寒い晩。

もらいが少なく、これでは亭主に粥をすすらせることもできないと、途方に暮れていると、黒羅紗の頭巾、黒羽二重の対服に、四分一ごしらえの大小という立派な身なりの侍が現れ、ずっしりと重い金包みを手渡すと、そのまま行ってしまった。

数えてみると、小粒で九両二分。

貧乏人には夢のような大金。

おかのは観音さまの思し召しと大喜びしたが、みだらなことをして得た金と疑われてはならないと、亭主には言わず、一両だけ小出しにし、残りは亭主の病気が治って商売を始める時の元手にと、大切に仏壇の引き出しに隠す。

それをのぞき見していたのが、隣長屋に住む遊び人の魚屋栄吉という男。

「こいつはしまっておくのはもったいねえ、オレが使わせてもらう」
と、夜中に忍び込み、八両二分の金をまんまと盗み出して、そのまま吉原は羅生門河岸の池田屋というなじみの女郎屋で大散財。

ところが、ふだんに似合わず太吉の金遣いがあらいので、不審に思った見世の若い衆の喜助が主人に報告。

調べてみると、一分金に山型に三の刻印。

これは、芝伊皿子台町の金持ち三右衛門方から盗まれた六百七十両の一部で、お上から布礼が回っていた金と知れた。

翌朝。

いい気分で見世を出たとたん、たちまち太吉はお召し捕り。

すぐに利兵衛方から盗んだと白状に及んだので、利兵衛の家に獲り方が踏み込む。

しかし、病人なのですぐにはしょっぴかず、たまたま湯に行って留守だったおかのを急いで呼びにやり、大家立ち会いの上でおかのから事情聴取すると、侍から恵まれたとは言うものの、恩を受けた義理から、頑として人相風体を隠し通したので、おかのはお召し捕り。

長屋の衆は、おかのの苦労を知っているだけに、早くお解き放ちになるよう水垢離 ごり)を取って祈るが、おかげで体が冷えきって、一杯やって温まろうと居酒屋に入って、お上は血も涙もねえと憤っている話を、たまたま衝立一つ隔てて聞いていたのが、三右衛門方に押し入り、おかのに金を恵んだ張本人の礼三郎。

善意でしたことが、かえって迷惑を及ぼしたことを悔やみ、これより南町奉行・島田出雲守に名乗り出て、貞女おかのの疑いを晴らす。

底本:六代目三遊亭円生

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円生十八番はタンカが売り物

「しじみ売り」と同じく、盗賊ものの人情噺で、講釈ダネと思われますが、原話は不明です。

梅若礼三は、実在の記録はないので、あくまで架空の人物ですが、梅若が自首した町奉行島田出雲守守政は実在しました。

ただし、記録では北町奉行で、寛文7年(1667)-延宝9年(=天和元、1681)までの在任。その時代の話という設定なのでしょう。

「磯の白波」と題した、明治23年(1890)4月の七代目土橋亭里う馬(1848-1920)の速記が残り、同時代の四代目橘家円喬、三代目三遊亭円馬も演じました。

里う馬、円喬の速記を基に、戦後、六代目三遊亭円生が磨き上げたもので、昭和32年(1957)初演。

上中下三部に分かれ、発端から、魚屋太吉逮捕までが上、おかの逮捕までが中。以下、幕切れで礼三が自首するため、切れ目はいずれもお召し捕りの場面となっています。円生の工夫でしょう。

円生は芸談で、取り調べの八丁堀の切れのいい「べらんめえ」を、安藤鶴夫(評論家、作家)にほめられたと自慢しています。

ライバルだった八代目林家正蔵(彦六)も演じましたが、円生在世中はほとんど同人の専売で、没後は門下の三遊亭円窓が継承しています。

博徒が魚屋とは

「猫定」にも登場しますが、遊び人はバクチ打ちで、初めから博徒と知れればどこの大家も店を貸してくれないので、表向きは魚屋と名乗っているわけです。

梅若

梅若家は能楽・観世流の流れをくむ名家です。本家は梅若六郎を代々名乗り、昭和54年(1979)に没した五十五代目は芸術院会員でした。その祖父、梅若万三郎(1868-1946)が大正9年(1920)に独立して「梅若流」を起こしましたが、それまではずっと観世流の一支流でした。

昭和32年(1957)、梅若宗家の若だんなが大映の映画俳優「梅若正二」を名乗り、「赤胴鈴之助」シリーズで人気を博したことがあります。

刻印

こっくい。大判・小判、一分金などには偽造防止と、出所がわかるように、各家の紋所の焼印が押されていました。これが刻印で、江戸ことばで「こっくい」と発音されます。盗賊は刻印のため足がつくので、強奪した金をすぐには使えず、何年も隠して「寝かせて」おかなければなりませんでした。

鍋町、鎌倉河岸、伊皿子台町

利兵衛・おかのが住む鍋町は千代田区神田鍛冶町一、二丁目。鋳物師が多く住んでいました。

おかのが袖乞いをしていた鎌倉河岸は、千代田区内神田二丁目、旧鎌倉町の外堀沿いの河岸で、幕府草創期に、江戸城改装のための石材を、鎌倉から船で運び、ここから荷揚げしたことからついた地名です。

梅若が六百七十両盗んだ芝伊皿子台町は、港区高輪一、二丁目です。

四分一ごしらえ

刀の装飾の金具に、朧銀、つまり銀一・銅三の合金が使われているものです。

実在した、梅若礼三郎

といっても、こちらは昭和の時代劇俳優。昭和初期には阪妻プロの主役級で、昭和2年(1927)から32年(1957)ごろまで、50本以上の映画に出演しました。前身が梅若流の能役者の出なのか、この噺から芸名を付けたのかはわかりません。「梅若礼三郎」が「梅若礼三郎」を演じていればおもしろかったのですが、残念ながらそうした映画の記録はありません。

【語の読みと注】
黒羅紗 くろらしゃ
黒羽二重 くろはぶたえ
刻印 こっくい
水垢離 みずごり

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おみたて【お見立て】演目

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志ん生もやってる、やけっぱちじみた廓の噺です。

別題:墓違い

【あらすじ】

吉原の喜瀬川花魁。

今日も今日とて、田舎住まいの杢兵衛大尽がせっせと通って来るので、嫌で嫌でたまらない。

あの顔を見ただけで虫酸が走って熱が出てくるぐらいだが、そこは商売、「なんとか顔だけは」と、廓の若い衆に言われても嫌なものは嫌。

「いま病気だと、ごまかして追い返しとくれ」
と頼むが、大尽、いっこうにひるまず、
「病気なら見舞いに行ってやんべえ」
と言いだす始末だ。

なにしろ、ばかな惚れようで、自分が嫌われているのをまったく気づかないから始末に負えない。

で、めんどうくさくなった若い衆、
「実は花魁は先月の今日、お亡くなりになりました」
と言ってしまった。

こうなれば、毒食らわば皿までで、
「花魁が息を引き取る時に『喜助どん、わちきはこのまま死んでもいいが、息のあるうちに一目、杢兵衛大尽に会いたいよ』と、絹を裂くような声でおっしゃって」
と、口から出まかせを並べたものだから、杢兵衛は涙にむせび、
「どうしても喜瀬川の墓参りに行く」
と言って、きかない。

「それで、墓はどさだ」
「えっ? 寺はその、えーと」

困った若い衆、喜瀬川に相談すると
「かまやしないから、山谷あたりのどこかの寺に引っ張り込んで、どの墓でもいいから、喜瀬川花魁の墓でございますと言やあ、田舎者だからわかりゃしない」
と意に介さないので、しかたなく大尽を案内して、山谷のあたりにやってくる。

きょろきょろあたりを見回して、その寺にしようかと考えていると大尽、
「宗旨はなんだね」
「へえ、その、禅寺宗で」
「禅寺宗ちゅうのがあるか」

中に入ると、墓がずらりと並んでいる。

いいかげんに一つ選んで
「へえ、この墓です」

杢兵衛大尽、涙ながらに線香をあげて
「もうおらあ生涯やもめで暮らすだから、どうぞ浮かんでくんろ、ナムアミダブツ」
と、ノロケながら念仏を唱え、ひょいと戒名を見ると
「養空食傷信士、天保八年酉年」

「ばか野郎、違うでねえか」
「へえ、あいすみません。こちらで」

次の墓には、
「天垂童子、安政二年卯年」
とある。

「こりゃ、子供の墓じゃねえだか。いってえ本当の墓はどれだ」
「へえ、よろしいのを一つ、お見立て願います」

底本:五代目古今亭志ん生

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【しりたい】

見立てる墓も時代色

原話ははっきりしませんが、武藤禎夫(落語研究家)の説では文化5年(1808)刊の笑話本『噺の百千鳥』中の「手くだの裏」とのこと。

これは、吉原の遊女が、気に入らない坊主客を帰そうと、若い衆に、花魁は急病で昨夜死んだと言わせるもので、なるほど現行の噺と共通しています。

江戸で古くから口演されてきた廓噺ですが、現存でもっとも古い「墓違い」と題した明治28年(1895)の柳家禽語楼(二代目禽語楼小さん)の速記では、最後の墓を彰義隊士のそれにするなど、いかにも時代色が出ています。

「陸軍上等兵某」を出すなどは、現在でも行われます。林家彦いちなんかもそうやっていました。現代風のタレントの名を出すなどの入れごとは可能なはずですが、差し障りがあるのか、この場面は、昔通りにアナクロにやるのが決まりごとのようです。戦後は、六代目春風亭柳橋はじめ、多くの大看板が手掛けました。

お見立て

オチは、張り見世で客が、格子内にズラリと居並んだ花魁を吟味し、敵娼を選ぶことと掛けたものです。「お見立てを願います」というのは、その時若い衆(牛太郎)が客に呼びかける言葉でした。

張り見世は夕方6時ごろから、お引け(10時過ぎ)までで、引け四ツの拍子木を合図に引き払いました。

この「実物見立て」は、明治36年(1903)に吉原角町の全盛楼が初めて写真に切り替えてから次第にすたれ、大正5年(1916)には全くなくなりました。

『幕末太陽伝』にも登場

「お見立て」は落語を題材にした映画『幕末太陽伝』(1958年、川島雄三監督、日活)にもサイドストーリーの一つとして取り上げられています。杢兵衛大尽に扮していたのは市村俊幸。太めのジャズピアニストで、コメディアンや俳優としても異色の存在でした。愛称ブーちゃん。

【語の読みと注】
喜瀬川 きせがわ
花魁 おいらん
杢兵衛 もくべえ
大尽 だいじん
虫酸が走る むしずがはしる
惚れる ほれる
廓 くるわ
敵娼 あいかた

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ぶんしちもっとい【文七元結】演目

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円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

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【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。

次の世代の現円楽、談志、故志ん朝ももちろん得意にしています。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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こうやたかお【こうやたかお】演目

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このプロット、映画「の・ようなもの」でもおなじみ。伊藤克信と秋吉久美子の。

別題:幾代餅 かめのぞき 紺屋の思い染め 駄染高尾

【あらすじ】

神田紺屋町の染め物職人、久蔵。

親方のところに十一の年から奉公して、今年二十六にもなるが、いまだに遊びひとつ知らず、まじめ一途の男。

その久蔵がこの間から患って寝ついているので、親方の吉兵衛は心配して、出入りの、お玉が池の竹内蘭石という医者に診てもらうことにした。

この先生、腕の方は藪だが、遊び込んでいて、なかなか粋な人物。

蘭石先生、久蔵の顔を見るなり
「おまえは恋患いをしているな。相手は今吉原で全盛の三浦屋の高尾太夫。違うか」

ズバリと見抜かれたので、久蔵は仰天。

これは不思議でもなんでもなく、高尾が花魁道中している錦絵を涎を垂らして眺めているのだから、誰にでもわかること。

久蔵はあっさり、
「この間、友達に、話の種だからと、初めて吉原の花魁道中を見に連れていかれたのですが、その時、目にした高尾太夫の、この世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それ以来、なにを見ても高尾に見えるんです」
と告白。

「ああいうのを一生一度でも買ってみたいものですが、相手は大名道具と言われる松の位の太夫、とても無理です」
とため息をつくと、先生、
「なに、いくら太夫でも売り物買い物のこと、わしに任せておけば会わせてやるが、初会に座敷に呼ぶだけでも十両かかるぞ」
と言う。

久蔵の三年分の給料だ。

しかし、それを聞くと、希望が出たのか、久蔵はにわかに元気になった。

それから三年というもの、男の一念で一心不乱に働いた結果たまった金が九両。

これに親方が足し増してくれて、合わせて十両持って、いよいよ夢にまで見た高尾に会いに行くことになったが、いくら金を積んでも紺屋職人では相手にしてくれない。

流山のお大尽ということにして、蘭石先生がその取り巻き。

帯や羽織もみな親方にそろえてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。

さて、吉原。

下手なことを口走ると紺屋がバレるから、久蔵、感激を必至で押さえ、先生に言われた通り、なんでも
「あいよ、あいよ」

茶屋に掛け合ってみると、折よく高尾太夫の体が空いていたので、いよいよご対面。

太夫だから個室。

その部屋の豪華さに呆気にとられていると、高尾太夫がしずしずと登場。

傾城座りといい、少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると
「お大尽、一服のみなんし」
「へへーっ」

久蔵、思わず平伏。

太夫ともなると、初会では客に肌身は許さないから、今日はこれで終わり。

花魁が型通り
「ぬし(主)は、よう来なました。今度はいつ来てくんなます」
と聞くと、久蔵、なにせこれだけで三年分の十両がすっ飛び、今度といったらまた三年後。その間に高尾が身請けされてしまったら、これが今生の別れだと思うと感極まり、思わず正直に自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまう。

ところが、それを聞いて怒るどころか、感激したのは高尾太夫。

「金で源平藤橘四姓の人と枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か……わちきは来年の二月十五日に年季が明けるから、女房にしてくんなますか」
と言われ、久蔵、感激のあまりり泣きだした。

この高尾が、紺屋のかみさんとなって繁盛するという、「紺屋高尾」の由来話。

底本:四代目柳亭左楽、六代目三遊亭円生

【しりたい】

高尾太夫代々

高尾は代々吉原の名妓で、歌舞伎十八番「助六」でおなじみの三浦屋の抱え女郎です。

七代または十一代まであったといいますが、一般には初代が通称妙心高尾、二代仙台高尾、三代西条高尾、四代水谷高尾、五代浅野高尾ときて、六代目がこの噺の紺屋高尾で、駄染高尾ともいいます。

詳しい年代は不詳ですが、宝永(1704-11)から正徳(1711-16)にかけてが全盛といわれます。

紺屋の名は、実際は九郎兵衛とも伝わります。

花魁

おいらん。吉原の遊女、女郎の別称です。最高位の「太夫」となれたのは二百人に一人といわれます。

享保(1716-36)ごろまでは、吉原では遊女のランクは、
(1)太夫
(2)格子
(3)散茶
(4)梅茶
(5)局
の順で、太夫と格子がトップクラスでした。

この(1)と(2)を合わせて、部屋持ち女郎の意味で「おいらん」(花魁は中国語の当て字)という名称が付きました。

語源は「おいら(自分)のもの」からとか。だいたい明和年間(1764-72)から使われ出したものです。

のちに、単に姉女郎に対する呼びかけ、さらには下級女郎に対しても平気で使われるようになりましたが、これは、早く宝暦年間(1751-64)にトップ2の太夫と格子が絶えたのを端緒に、なし崩しに呼び名が下へ下がっていったためです。

ただし、どんな時代でも「おいらん」は吉原の女郎に限られました。

花魁については「盃の殿さま」の「吉原花魁盛衰記」にも記しておきました。

ありんす言葉

吉原では、古くから独特の廓(さと)言葉が使われていました。

この噺の高尾が使う「なます」「ありんす」「わちき」などの語彙がそれで、「ありんす」言葉ともいいました。

起源ははっきりしませんが、京の島原遊廓で諸国から集められた女たちが、里心がついて逃走しないよう、吉原の帰属意識をもたせるために考え出されたものといわれます。エスペラント同様の人工語であるわけです。

したがって、島原(京)や新町(大坂)の遊女も当然同じような言葉を使っていたわけですが、江戸が18世紀後半以後、文化の中心になると「吉原詞」として全国に知れ渡り、独自の表現や言い回しが生まれていきました。

「行きまほう(=行きましょう)」「くんなまし」「そうざます」などもそうです。

昭和30年代に東京山の手の奥サマが使う「ざあます言葉」というのがさかんに揶揄されましたが、あれは実は、女郎言葉の名残だったわけです。なんともいやはや、お皮肉なことでありんす。

極めつけ円生十八番

この噺、実話をもとにしたものとされますが、詳細は不詳です。

戦後では六代目三遊亭円生の独壇場でした。「かめのぞき」のくだりは、高尾が瓶にまたがるため、水に「隠しどころ」が映るというので、客が争ってのぞき込む、というエロチックな演出がとられることが昔はありましたが、円生はその味を生かしつつ、ストレートな表現を避け、「ことによると……映るんじゃないかと」と、思わせぶりで演じるところが、なんとも粋でした。

この噺はふつうオチらしいオチはありませんが、四代目柳亭左楽(オットセイの左楽、「松竹梅」)は、与三という男が高尾の顔を見に行きたいが、染めてもらうものがないため、長屋のばあさんに手拭いを借りにいくものの、みな次から次へと持っていくからもうないと断られ、たまたま黒猫が通ったので「おばさん、これ借りるよ」「なんだって黒猫を持っていくんだ」「なに、色揚げ(色の褪めた布を染め直す)してくる」とオチていました。円生もときにこれを踏襲して落としていました。

後日談

この後、久蔵と高尾が親方の夫婦養子になって跡を継ぎ、夫婦そろってなんとか店を繁盛させたいと、手拭いの早染め(駄染め)というのを考案し、客がまた高尾の顔見たさに殺到したので、たちまち江戸の名物になったという後日談を付けることがあります。

高尾が店に出て、藍瓶をまたいで染めるのを客が待ちますが、高尾が下を向いていて顔が見えないので、客が争って瓶の中をのぞき込んだことから染め物に「かめのぞき」という名がついたという由来話で締めくくります。前項のエロ演出は、もちろんこれの「悪のり」です。

類話「幾代餅」

まったく同じ筋ですが、人物設定その他が若干異なります。「紺屋高尾」の改作と思われますが、はっきりしません。五代目古今亭志ん生の系統は「幾代餅」でやっていました。

さかずきのとのさま【盃の殿さま】演目

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殿さま噺。お大名の権力。ばかばかしくも叙情的に描かれた珍作です。

別題:月の盃 殿さまの廓通い

【あらすじ】

お大名は、上げ膳据え膳で子供の時から育つから、運動不足になりがち。それがもとで、発散できないモヤモヤがたまり、鬱病にかかりやすい。

この噺の殿さまもそれ。口を利くのもイヤ。

むりやり薬をのませると、効かないばかりか、苦いので口直しに羊羹、カステラを山のように食い、胃病を起こして、のたうち回る始末。

どうしたらよいものかと、重役一同頭を悩ましている時、茶坊主が、これならお気晴らしにもなろうかと、献上したのが歌川豊国描く、いま、吉原で全盛の花魁の絵姿の錦絵六枚続き。

お女郎買いのジの字も知らない殿さま、この世にかような美しい女がいるのかと、たちまちボーッとなり、吉原のことを根掘り葉掘り聞いた挙げ句、さっそく乗り込むことにした。

ところが、薬が少々効き過ぎたか、それ以来たちまち魔窟の虜となった殿さま、連日連夜通いづめで乱痴気騒ぎ。

鬱気など蹴飛ばして、中でも花扇という花魁に入れあげる。

家来が止めると、
「あー、気分が悪いぞ。もはや薬はのまん。ウーン」
とすねるので、始末に悪い。

花扇の方でも、こんな上客をしくじってなるものかと、あらん限りご奉仕にこれ努めるから、殿さま、もはやデレデレの骨抜き。

そのうち大名の宿命、参勤交代でお国入りするために江戸を離れなければならなくなった。

こればかりはしかたがないので、最後の晩は花扇と泣きの涙で別れの盃。

領国は九州だから、もう当分会えない。

そこで殿さま、思い出のしるしにと、花魁の豪華な襠(しかけ)を所望し、代わりにいろいろの贈り物を賜わり、家宝の七五三の蒔絵(まきえ)の盃、百亀百鶴を描いた七合入りの豪奢な器で一献酌み交わすと、後ろ髪を引かれるように東海道を西に下る。

殿さま、国に着いても花扇のことが忘れられず、形見の襠を家来に着てみろと言って、困らせる。

じかに逢いたくてたまらなくなり、早見東作という、三百里を十日で走る、家中で一番足の速い足軽に命じ、江戸の花扇に七五三の盃を届け、「返盃」をもらってくるよう言いつけた。

花扇は殿さまの心を知り、感激して一気にのみ干した上、改めて殿さまにご返盃をと頼む。

気の毒なのは東作。

たったそれだけの酔狂のため、青息吐息で三百里を往復。

ところが途中の箱根山で、大名行列の供先を横切って捕らえられ、あわや首が落ちるところを、これこれと事情を説明すると、その殿さまがまた粋なもので、
「大名の遊びはさもありたし。そちの主人にあやかりたい」
と、盃を借りて一気に干した。

国許に着いてこの事を報告すると殿さま、
「お手元が見事じゃ。もう一献と申してこい」

東作、どこの大名だったか聞き忘れたので、どこを尋ねてもわからない。

マゴマゴしてると、明治維新になっちまった……。

底本:二代目柳家小さん 六代目三遊亭円生

【しりたい】

吉原花魁盛衰記

遊女の最高位である太夫は、松の位、大名道具などと呼ばれ、一目顔を拝むだけでも十両はかかりました。

太夫は、享保年間(1716-36)、吉原の遊女が三千人と言われた時代でも六,七人に過ぎません。

太夫に次ぐのが格子女郎で、この二つを併せた尊称が「花魁」。由来は、禿(かむろ=遊女見習いの少女)が付いている姉女郎を「おいらの姉さま」の意味で「おいらん」と呼んだことからだとか。

ところが、宝暦7年(1757)ごろ、太夫も格子も絶えてしまい、繰り上がって第三位だった散茶女郎がトップに出、昼三といって昼夜各三分、計一両二分の揚げ代で花魁と呼ばれるようになりました。

その後、散茶にもランクができ、揚げ代によって、昼三、付け回し、呼び出しと分かれました。その下が梅茶で、これは揚げ代一分。

大名の太夫狂いは、天和年間(1681-84)に五代将軍綱吉が厳しい禁令を出して以来、下火になりました。

それ以後も隠れ遊びをする大名は絶えず、たとえば姫路十万石の殿さま・榊原正岑は、三浦屋抱えの高尾太夫(俗に榊原高尾)を身請けしたとがで転封・隠居謹慎処分になっています。

『江戸の二十四時間』(林美一、河出書房新社、1989年)によると、「遊女」という言葉は、もともと公娼を、また「遊郭」は幕府公許の遊里のみを指すので、江戸では吉原以外にこの名称は許されず、それ以外の私娼はすべて「売女(ばいじょ)」だったよし。いやあ、この本、説明が明快で、ホント、勉強になりますわ。

風格ただよう、円生十八番

生粋の江戸落語ですが、原話その他、出自ははっきりしません。

もと延岡藩士、れっきとした士族出身で大名噺を得意にしていた二代目柳家(禽語楼)小さんの明治23年(1890)の速記(「殿様の廓通ひ」)を参考に、六代目三遊亭円生が、戦後ほとんど一手専売の十八番に仕上げた噺です。

小さんでは、殿さまが通ぶって職人の格好をし、鉈豆煙管(なたまめぎせる)で煙草をのむ場面がありましたが、現代では理解されにくいというので、円生はこうした部分を省きました。

オチは「もう一献と申してまいれ」で切る場合もありますが、円生は「いまだに探して歩いているそうで」としていました。

小さんの速記では、文明開化の時代を反映し、「そのうちに明治23年(つまり、今年)と相なって、上野の勧業博覧会の美術館でようやく殿様にその盃をお渡し申しました」となっていました。

ひゃくねんめ【百年目】演目

【RIZAP COOK】

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上方の噺。大店の堅い番頭の裏の顔。人間こうでなくちゃおもしろくないです。

【RIZAP COOK】

【あらすじ】

ある大店の一番番頭、冶兵衛。

四十三だが、まだ独り身で店に居付き。

この年まで遊び一つしたことがない堅物で通っている。

二番番頭が茶屋遊びで午前さまになったのをとがめて、
「芸者という紗は何月に着るのか、タイコモチという餠は煮て食うか焼いて食うか教えてほしい」
と皮肉を言うほど。

ある朝、治兵衛が小僧や手代にうるさく説教した後、
「番町のお屋敷をまわってくる」
と外出した。

ところが、外で待っていたのは幇間の一八。

今日は、こっそり入り浸っている柳橋の芸者、幇間連中を引き連れて向島へ花見に繰り出そうという趣向。

菓子屋の二階で、とっておきの、大津絵を染めだした長襦袢、結城縮みの着物と羽織に着替え、屋形船を出す。

小心な冶兵衛、すれ違う舟から顔をのぞかれるとまずいので、ぴったり障子を締め切らせたほどだが、向島に着くと、酒が入って大胆になり、扇子を首に縛りつけて顔を隠し、長襦袢一枚で、桜が満開の向島土手で陽気に騒ぐ。

一方、こちらは大店のだんな。

おたいこ医者・玄伯をお供に、これまた花見にやってきている。

玄伯老が冶兵衛を認めて、
「あれはお宅の番頭さんでは」
と言っても、だんなは
「悪堅い番頭にあんなはでなまねはできない」
と取り合わない。

そのうち、ひょんなはずみで二人は土手の上で鉢合わせ。

避けようとするだんなに、冶兵衛は芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、はずみでばったり顔が合った。

いちばんこわい相手に現場を見られ、冶兵衛は動転。

「お、お久しぶりでございます。ごぶさたを申し上げております。いつもお変わりなく……」

酔いもいっぺんで醒めた冶兵衛、逃げるように店に戻ると、風邪をひいたと寝込んでしまう。

あんな醜態をだんなに見られたからにはクビは確実だと頭を抱えた冶兵衛、いっそ夜逃げしようかと、一晩悶々として、翌朝、帳場に座っても生きた心地がない。

そこへ、だんなのお呼び。

そらおいでなすったと、びくびくして母屋の敷居をまたぐと、意外にも、だんな、昨日のことはおくびにも出さず、天竺の栴檀の大木と南縁草という雑草の話を始める。

栴檀は南縁草を肥やしにして生き、南縁草は栴檀の下ろす露で繁殖する。

持ちつ持たれつで、家ではあたし、店ではおまえさんが栴檀で、若い者が南縁草。

南縁草が枯れれば栴檀のおまえも枯れ、あたしも同じだから、厳しいのはいいが、もう少しゆとりを持ってやりなさいと、やんわりさとす。

「ところで、昨日はおもしろそうだったな」
と、いよいよきたから、冶兵衛、取引先のお供でしどろもどろで言いわけ。

だんなは少しも怒らず、
「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」
ときっぱり言う。

「実は、帳簿に穴が空いているのではと気になり、密かに調べたが、これぽっちも間違いはなかった」
と、だんなは冶兵衛を褒め
「自分でもうけて、自分が使う。おまえさんは器量人だ。約束通り来年はおまえさんに店を持ってもらう」
と言ってくれたので、冶兵衛は感激して泣き出す。

「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家にいながらごぶさたてえのも……。なぜあんなことを言ったんだい」
「へえ、堅いと思われていましたのをあんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

【しりたい】

番頭

「番頭はん」というと、若き藤山寛美の阿呆丁稚に悩まされる、曾我廼家五郎八の絶妙の「受けの芝居」を、懐かしく思い出される方も多いかもしれません。知らなけりゃ、それまでですが。

小僧(大阪では丁稚)から手代を経て、番頭に昇格するわけですが、普通、中規模の商家で二人、大店になると三人以上いることもありました。

居付き(店に寝泊まり)の番頭と通い番頭があり、後者は所帯を持った若い番頭が裏長屋に住み、そこから店に通ったものです。

普通、番頭になって十年無事に勤め上げると、別家独立させるしきたりが、東京でも大阪でもありました。この噺の治兵衛は、四十を越してもまだ独身で、しかも、主人に重宝がられて別家独立が延び延びになり、店に居ついている珍しいケースです。

支配人

大店の一番番頭を、明治以後は「支配人」と呼び、明治41年(1908)の、三代目柳家小さんの速記でもそうなっています。

のちにこの名称が、大会社の大物重役にも適用されるようになりました。

支配人、つまり大番頭ともなると、店の金の出納権限を握っているので、株式などの理財で個人的にもうけることも可能だったわけです。

江戸時代だと、こっそり店の金を「ドガチャカ」、つまり業務上横領して、米相場に投資するなどでしょう。そういうリスクはあっても、主人といえども、店の金の運用には、番頭の意向を無視できませんでした。

そうやって自分ももうけ、店にも利益をもたらす番頭を「白ねずみ」と呼びました。これは、金銀の精、または福の神を意味します。「帯久」にも出てきますが、特に功労のあった「白ねずみ」に店の屋号を与え、親類扱いで分家させることもよくありました。

上方落語の大ネタ

大阪では、幹部クラスの名人連しか演じられない大ネタを「切りネタ」と呼びますが、この噺はその切りネタの代表格でしょう。

上方落語のイメージが強いため、東京にはかなり最近紹介されたように思われがちなのですが、実は、江戸でも同題名で文化年間(1804-18)から口演されてきました。

六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生が得意にしましたが、今回のあらすじは円生のものを参考にしました。

東西で、やり方に大きな違いはありませんが、たとえば大阪では、舞台が桜の宮で、番頭が、初めは二、三人の小人数で行こうと考えていたのに、ほかの芸妓に知れわたりやむなくはでな散財になった、というように、細部の設定が多少異なります。

志ん生は、主人の南縁草のセリフを省くなど、ごくあっさりと演じていました。

上方ではもちろん、桂米朝が絶品でしたし、桂文枝も得意としていました。東京では、古今亭志ん朝が円生譲りのやり方でたまに高座にかけました。

百年目

古来まれな、百年の長寿を保ったとしても、結局最後には死を免れないところから、究極の、もうどうにも逃れようもない命の瀬戸際をいいます。

敵討ちの口上などの紋切り型で、「ここで逢ったが百年目」というのは、昔からよく使われ、今も耳にする文句です。この意味を「百年に一度の奇跡」と解しがちですが、実は「(おまえにとっての)百年目で、もう逃れられない」という意味です。番頭の絶望観を表す言葉として、このオチは見事に効いています。

【RIZAP COOK】

にしきのけさ【錦の袈裟】演目

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町内の若い衆が吉原に大挙繰り込んでどんちゃん騒ぎ。与太郎だけもてるとは。

別題:袈裟茶屋(上方) ちん輪

【あらすじ】

町内の若い衆が
「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。

それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中が、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかし
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。

そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうという相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう、ということになる。

幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てるが、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。

与太郎、女郎買いに行きたい一心で、鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。

そこでかみさんの入れ知恵で、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込み、なんとかこれで全員そろった。

一同、予定通りその晩は、どんちゃん騒ぎ。

お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めたから、驚いたのは廓の連中一同。

特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。

そこで
「あれは実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。

そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。

残りは全部きれいに振られた。

こうなるとおもしろくないのが「家来」連中。

翌朝、ぶつくさ言いながら殿さまを起こしに行くと、当人は花魁としっぽり濡れて、起きたいけど花魁が起こしてくれないと、のろけまで言われて踏んだり蹴ったり。

「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」

どうにもならなくて、寝床から引きずり出そうとすると、与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」

底本:初代柳家小せん

【しりたい】

上方版の主人公は幇間

上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。

「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間で、細かい筋は東京のとかなり違います。

たとえば東京では、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官びいきのパターンですが、上方では、袈裟を芸妓(げいこ=芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。

東京ではこの噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従三人です。

このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質の違いがうかがわれますね。

基礎づくりは初代小せん

四代目橘家円蔵の明治時代の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっていて、まだ東京移植後間もなく、大阪の設定に近いことがわかります。

円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。

これを現行の形に改造したのは、大正期の盲小せんこと初代柳家小せんとみられます。

戦後この噺の双璧だった五代目志ん生、六代目円生は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。

それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。

かっぽれ

幕末、上方で流行した俗曲で、「活惚れ」と書きます。もとは江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたといいます。

かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船

こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称住吉踊り。明治初期に東京で初代かっぽれ梅坊主が、より洗練された踊りに仕上げて大流行。新富座では九代目市川団十郎も踊りました。

寛一お宮の『金色夜叉』の尾崎紅葉も、若いころ一時、この梅坊主に入門していたとか。

袈裟

梵語(=サンスクリット語)の「カサーヤ」からきています。煩悩の意味で、三条、五条、七条の三種類があり、貪欲・瞋恚(しんい=怒り)・痴愚の三毒を捨て去ったしるしにまといます。

僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も、緑から紫、緋の衣と変わります。

甚句

甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。

これを洗練したものが、三味線の合い方(=伴奏)でお座敷で唄われました。 

【コラム 古木優】

「ついでに生きてる」与太郎が女にもててしまう珍しい噺。

もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」に似ている。若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。

ばかばかしいが、当人たちには天下分け目の勢いなのだろう。だから、落語の格好の題材となる。

海賀変哲は「落語の落」で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。

たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。

「ちん輪」という野卑な別題もある。この噺は初代柳家小せん(盲小せん)が絶妙だったという。大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。会話の応酬と洒落の連発でスピ-ディーなのだ。

五代目古今亭志ん生や六代目三遊亭円生は、小せんから習った。円生の師匠は四代目橘家円蔵(品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから直接習っている。

この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだ。いいかげんなものである。

にかいぞめき【二階ぞめき】演目

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自宅の二階に吉原をこさえた若だんな。ここまでなりきれれば、吉原狂!

【あらすじ】

若だんなが毎晩、吉原通いをするものだから堅物のおやじはかんかん。

世間の手前「勘当する」と言いだす。

番頭が心配して意見をしにくるが、この道楽息子、まるで受け付けない。

「女がどうのこうのじゃないんで、吉原のあの気分が好きなんだから、毎日行かずにはいられない、吉原全部を家に運んでくれれば、行かない」と言う。

これには番頭驚いたが
「それで若だんなの気がすむなら」
と二階を吉原の通りそっくりに改造し、灯まで入れて、ひやかし(そぞろ歩き)ができるようにした。

棟梁の腕がいい上、吉原まで行って実地検分してきたので本物そっくりで、若だんなは大喜び。

番頭に
「服装が大事だから古渡り唐桟を出せ」
「夜露は毒だから頬っかぶりをしていく」
などと騒いだあげく
「じゃ、行ってくるよォ。だれが来ても上げちゃァいけないよォ」

二階の吉原へ、とんとんとん。

上ってみると、茶屋行灯に明かりは入っているし、張り見世もあるし、そっくりなのだが、残念なことに、人がいない。

……当たり前だ。

そこで、人のいなくなった大引け(午前二時)過ぎという設定で、一人で熱演し始める。

『ちょいとあァた』
『なんでえ、ダメだよ、今夜は』
『そんなこと言わないで。あのコがお茶ひいちゃうから』

忙しいこと。背景音楽を新内から都々逸へ。

「別れにヌシの羽織がァ、かくれんぼォ…ッと」

ここで花魁が登場。

『ちょいと、兄さん、あがっとくれよッ』
『やだよ』
『へん、おアシがないんだろ。この泥棒野郎』
『ドロボーたァなんでィ』
『まァまァ』

止めに入った若い衆と花魁、一人三役で大立ち回り。

『この野郎、さあ殺せッ』

一階のおやじ、大声を聞きつけて、
「たまに家にいると思えば……」
と苦い顔。

ところがよく聞いてみると、なにか三人でけんかしているもよう。

あわてて小僧の定吉を呼んで
「二階へ行ってせがれを連れてこい」
と命じる。

定吉、上がってみると
「あれッ、ずいぶんきれいになっちゃたなあ。明かりもついてやがる」

頬っかぶりをした人がいるので、「泥棒かしらん」と思ってよく見ると、これが若だんな。

なにやら自分で自分の胸ぐら取って「さあ殺しゃあがれ」とやっている。

「しょうがねえなあ。ねえ、若だんな」
「なにをしやがる。後ろから小突きやがって。前から来い。だれだって?なあんだ。定か。悪いところで会ったなあ。おい、おめえな、ここでおれに会ったことは、家ィ帰っても、おやじにゃあ、黙っててくんねえ」

【しりたい】

ぞめき

「騒」と書きます。動詞形は「騒(ぞめ)く」です。

古い江戸ことばで、「大勢でわいわい騒ぎながら歩くこと」を意味します。

そこから転じて、「おもに吉原などの遊里を見世に上らずに、女郎や客引きの若い衆をからかいながら見物する」という意味になりました。

これを「ひやかし(素見)」ともいい、こちらの方が一般によく使われました。

要するに、遊興代がないのでそうするよりしかたがないのですが、そればかりともいえず、ひやかし(ぞめき)の連中と張り見世、つまりショウウィンドーにずらりと並ぶ女郎との丁々発止のやりとりは、吉原の独特の文化、情緒となって、遊里を描いた洒落本や芝居、音曲などの恰好の題材となりました。

原話では少しつつましく……

もっとも古い原典は、延享4年(1747)、江戸で刊行された笑話本『軽口花咲顔』中の「二階の遊興」ですが、オチを含め、現行の落語と大筋は変わりません。

こちらはそう大掛かりな「改築」をするわけでなく、若だんなが二階のふすまや障子に茶屋ののれんに似たものをつるし、それに「万屋」「吉文字屋」などと書き付けて、遊びの追憶にふけっている、という安手の設定です。

そのあと一人三役の熱演中、小便に行きたくなって階段を下りる途中で小僧に出くわし、オチのセリフになりますが、落語のように、現実を完全に忘れ去るほどでなく、至ってつつましいものです。

その後、落語としては上方で発達したので、二階を遊郭(大坂では新町)にしてしまうという現実離れした、はでさと贅沢さは、完全に上方の気風によって付け加えられたといってよいでしょう。

志ん生がもっとも好んだ噺

落語の古い口演記録として、きわめて貴重な、万延2年(1861=文久元)の、上方の桂松光のネタ帳『風流昔噺』に、この噺と思われる「息子二階のすまい ここでおうたゆうな」という記述があり、すでにこのころには上方落語として演じられていたことがわかります。

これを明治期に、三代目柳家小さんが東京に「逆輸入」したとされますが、古い速記やレコードは一切なく、残っているのは談志や志ん生のものです。

志ん生がこの噺を誰に教わったかは不明ですが、おそらく、三代目小さん門下の廓噺の天才・初代柳家小せん(「五人まわし」参照)でしょう。

志ん生は寄席やホール落語で「二階ぞめき」を数え切れないほど演じました。

それだけに、志ん生の数多い得意噺のうちでも、もっとも志ん生好みの噺といえますが、自分が若き日に通いつめた、古き良き吉原への追慕もさることながら、志ん生がなにより愛したのは、この若だんなの純情さ、それを許してしまう棟梁その他周囲の人々の江戸っ子の洒落気や懐の深さではなかったでしょうか。

志ん生指導:正しい吉原の歩き方・序

「ひやかし」の語源は……。「昔、吉原の、近在に、紙漉(かみすき)場があって、紙屋の職人が、紙を水に浸して、待ってんのが退屈だから、紙の冷ける間ひと廻り回ろう-てんで、『ひやかし』という名前がついてきたんですな」とのことです。

ところで、ただ単に吉原をぶらつくといっても、おのずとそこには厳しいルールとマナーがあります。洗練された文化を体現し、粋な男になるためには、情熱と努力、そしてなにより年期が大切なのです。

次の若だんなの一言がすべてを物語っています。「俺ァ女はどうでもいいんだよ。うん。俺ァ吉原ってものが好きなんだよ」 好きこそものの上手なれ。

それでは、志ん生師匠指導「ひやかし道」の基本から。

正しい吉原の歩き方:まずは正しい服装から

どの道も、修行はまず形からです。

それにふさわしい服装をして初めて、魂が入ります。

相撲取りはあの格好だからこそ相撲取り。スーツで土俵入りはできません。

その1

必ず古渡り唐桟(こわたりとうざん) を着用のこと。

唐桟は、ふつうは木綿の紺地に赤や浅黄の縦縞をあしらい、平織(縦糸・横糸を一本ずつ交差させたシンプルな織り方)に仕立ててあります。室町時代にインドから渡来した古いデザインなので、「古渡」の名があります。

はでな上に身幅が狭く、上半身がきゅっとしまっていかにもすっきりしたいい形なので、色街遊びには欠かせません。

その2

着物は必ず袂を切った平袖にします。

いわばノースリーブです。

これは、吉原を漂っていると、必ず同じ格好のひやかし客とぶつかります。

そうすると、ものも言わずに電光石火でパンチが飛んで来ますから、袂があると応戦が遅れ、あえなくのされてしまいます。それでは男の面子丸つぶれ。

そこで、平袖にして常に拳を固めて懐に忍ばせ(これをヤゾウといいます) 、突き当たった瞬間、 間髪入れずに右フックを見舞わなければなりません。そのための備えなのです。

その3

必ず「七五三の尻はしょり」をします。

七五三とは、 七の図、つまり腰の上端、フンドシまたはサルマタの締め際まで 着物のすそをはしょり、内股をちらりとのぞかせることで、 鉄火な(威勢のいい)男の色気を見せつけます。

仕上げに、渋い算盤玉柄の三尺帯をきりりと締めれば一丁あがり。

ただし、くれぐれもフンドシを締め忘れないよう注意のこと。

公然わいせつで八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その4

最後に、手拭で頬かむりをすれば準備完了。

ただし、 この場合もどんな柄でもいいというわけにはいきません。

ひやかしに 最適なのは亀のぞきという、ごく淡い、品のいい藍色地に染めたものです。頬かむりは、深夜に出かけるため、夜露を防ぐ意味も ありますが、なによりも、かの有名な芝居の「切られ与三」が源氏店の 場でしているのがこの「亀のぞき」であることからも分かるように、 ちょっと斜に構えた男の色気を出すためには必携のアイテムです。

これで、夜の暗さとあいまって、あなたも海老蔵に見えないこともありません。

ただし、間違っても黒地で盗人結びになどしないこと。

八丁堀のだんなにしょっ引かれます。

その5

以上で、スタイルはOK。

あと、基本的な心得としては、その2でも触れましたが、必ず、100%間違いなく、一回の出撃でけんかが最低三度は起こりますから、無事に生きて帰るためにも、先制攻撃の覚悟を常に持つこと。

どんなに客引きの若い衆に泣き落とされ、はたまた張り見世のお茶ひき(あぶれ)女郎に誘惑され、果ては銭なしの煙草泥棒野郎と罵られても、絶対に登楼などしないという、固い決意と意志を持ってダンディズムを貫くことが大切です。

とまあ、こういうスタイルで若だんなは「出かけた」わけですが……。

この二階の改築費用、どのぐらいについたか、他人事ながら心配です。おまけに、当主の親父は知らぬが仏。この店の身代も、この分では十年ももつかどうか……。

いつの世も、かく破滅の淵をのぞかないと、道楽の道は極められないようで。

へっついゆうれい【竃幽霊】演目

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昔は、へっついから幽霊がよく出たもんです。そう、出そうでしょ、あそこ。

【あらすじ】

ある道具屋から買ったへっつい(かまど)から幽霊が出るというので、買う客買う客みな一日ともたずに青い顔で返品に来る。

道具屋の親方、毎日一分二朱で売って三割安で戻ってくるから、初めはもうかると喜んでいたが、そのうち評判が立ち、ほかの品物もぱたりと売れなくなった。

困って夫婦で相談の上、だれか度胸のいいばかがいたら、三両付けて引き取ってもらうことにした。

これを聞きつけたのが裏の長屋に住む遊び人の熊五郎。

「幽霊なんざ目じゃねえ」
とばかり、隣の勘当中の生薬屋の若だんな徳兵衛さんを誘って、半分の一両二分もらった上、とりあえず徳さんの長屋に運び込むことにする。

こわがる徳さんに、幽霊は自分が引き受けて、もうけは折半するからと因果を含めて、二人で担いで家の戸口まで来ると、徳さんがよろけてへっついの角をドブ板にぶつけた。

その拍子に転がり出たのが、なんと三百両の大金。

「ははァ、これに気が残って出やがるんだ」
と合点して、その金を折半、若だんなは吉原へ、熊公は博打場へそれぞれ直行したが、翌日の夕方、帰ってみると二人ともきれいにすってんてん。

しかたがないから寝ることにしたが、その晩、徳さんの枕元へ青い白い奴がスーっと出て
「金返せェ」

「ギャーッ」
と叫ぶのを飛び込んできた熊公がなだめすかし
「こりゃあ、金をたたき返してやらないと毎晩でも出るな」
と思案する。

翌日。

徳さんの親元から三百両を借りてきた熊、へっついを自分の部屋に運び込むと、夕方から
「出やがれ、幽霊ッ」
とどなっている。

丑三ツ時になると、へっついから青白い陰火がボーッと出て
「へい、お待ちどうさま」

「鰻ィあつらえたんじゃねえや、恨めしいとか何とか言え」
と毒づくと
「へえ、それが恨めしくないんで」
とくる。

そこで幽霊が「身の下」はないから身の上を語るところによれば、生前は鳥越に住んでいた留といって、表向きは左官で裏は博打打ち。

それも、チョウ(丁)よりほかに張ったことはないそうな。

ある日。

めずらしく賭場で三百両もうけたが、友達が借りに来てうるさいので、金をへっついの中に隠したまま、その夜フグに当たってあえない最期、という次第。

熊は
「話はわかった。このへっついは俺がもらったんだから、百五十両ずつ立てんぼだ」
とむりやり半額にして返してやる。

「おめえ、不服か。実はこっちも心持が中途半端でいけねえ。いっそ、どっちかへ押しつけちまおう」
「ようがす」

熊の提案に、幽霊もかつてはくろうとなので、興奮して手をユラユラさせながら承知した。

二ッ粒の丁半で、出た目は半。

幽霊は丁しか張らないので、熊の勝ち。

「親方、もう一丁頼みます」
「勘弁してもらおう。もうてめえに金がねえじゃねえか」
「親方、あっしも幽霊です。決して足は出しません」

【しりたい】 

原話は墓でバクチ

安永2年(1773)刊の『俗談今歳花時』中の「幽霊」という小ばなしが原話です。

これは、火事で「真黒やき」になった仲間の一周忌追善に、バクチ狂いだった故人をしのび、墓場でチョボイチをご開帳していると、懐かしいサイの音に誘われ、当人が幽霊となって出現。さっそく仲間に加わって、死装束をカタに三百文張りますが、あえなく負けて意気消沈、早々と消え支度。「ナゼもっとせ(し)ないぞ」「イヤモ(う)、幽霊(=ゆうべ)も三百はりこんだ」

これは、寒中に裸で物ごいするすたすた坊主が唄って歩く「夕べも三百張り込んだ」のもじり、ダジャレにすぎません。まことにどうも、バクチあたりなことで。

上方落語を東京に

この噺も、今東京に残る噺の多くと同じく上方種で、上方落語「竃の幽霊」または「かまど幽霊」を明治末か大正初期に、三代目三遊亭円馬が東京に移したものです。

上方のオチは、熊が巻上げた金を元手に賭場で奮戦していると、またまた幽霊が出現。「まだこの金に未練があるのか」「いえ、テラをお願いに参じました」となります。

寺と博打のテラ銭を掛けたもので、前に金を巻上げた後、熊が幽霊に、石塔くらいは立ててやるから、迷わず成仏しろと言い渡した言葉を受けてのものです。

上方のやり方では、熊は完全にイカサマを使うことになっていて、その辺が東京と違ってあざといところ。

東京でも五代目柳家小さんは、このサゲを用いていました。

円生、三木助が双璧

五代目志ん生、四代目、五代目小さんも演じましたが、レコード、速記の数からも、戦後はやはり六代目円生、三代目三木助がこの噺の双璧といえるでしょう。

なかでも三木助は、幽霊に仰天してへっついを返しに来る男を大阪弁に変え、いちいち言葉尻に「道具屋」「道具屋」とつけるなど、独自の滑稽味を出して十八番としました。

リアルはご法度

ただ、この三木助は若い頃、身を持ち崩して「隼の七」と異名を取った本物の博徒だったこともあり、熊の目つきのこわさや、あまりにもリアルなサイを振る動作が、客や楽屋内に薄気味悪がられ、初期の評判はよくなかったようです。

現に、四代目小さんがこの噺について、「サイを振る手つきはまずくていい、こういうところは人にほめられるな」と戒めています。これは同じバクチ噺の「狸賽」などでも同じでしょう。

「クマ」五郎は普通名詞?

阿佐田哲也のギャンブル小説で、雀ゴロ(麻雀専門のバイニン、博打打ち)が「クマゴロウ」と呼ばれていたのをご記憶の方も多いと思います。

博徒、特にイカサマ師の異称を「クマ」と呼ぶのは相当古くかららしく、細工を施してある賽を「熊女」などともいいました。

そのせいか、「竃幽霊」の主人公は東西問わず、誰が演じても熊五郎です。

三代目三木助の人物設定では、熊は白無垢鉄火、つまり表面は堅気の素人を装って、裏に回れば遊び人ということにしてあります。

「クマ」の語源はよくわかりませんが、あるいは、熊手でかき寄せるように賭場でテラ銭をさらうところからきているのかもしれません。

あけがらす【明烏】演目

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堅物がもてるという、廓が育む理想形。ビギナーズラック、はたまたの成功譚。

【あらすじ】

異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。

今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となれば、たとえ雌猫でも鳥肌が立つ。

今日も今日とて、お稲荷さまの参詣で赤飯を三杯ごちそうになったととくとくと報告するものだから、おやじの嘆くまいことか。

「堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間づきあいにも差し支える」
と、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩、吉原での遊び方を教えてもらうことにした。

「本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマまし、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたらお巫女さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」
と、こまごま注意して送り出す。

太助のほうはもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。

その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。

いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。

泣いてだだをこねるのを二人が
「このまま帰れば、大門で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」
と脅かし、やっと部屋に納まらせる。

若だんなの「担当」は十八になる浦里という、絶世の美女。

そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたいという、花魁からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。

一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。

若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。

「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」
とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。

「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」

【しりたい】

極め付き文楽十八番

あまり紋切り型は並べたくありませんが、この噺ばかりはまあ、上記の通りでしかたないでしょう。

八代目桂文楽が二ツ目時代、初代三遊亭志う雀(のち八代目司馬龍生)に習ったものを、四十数年練り上げ、戦後は、古今亭志ん朝が台頭するまで、文楽以外はやり手がないほどの十八番としました。

それ以前は、サゲ近くが艶笑がかっていたのを改め、おやじが時次郎を心配して送り出す場面に情愛を出し、さらに一人一人のしぐさを写実的に表現したのが文楽演出の特徴でした。

時代は明治中ごろとし、父親は前身が蔵前の札差で、維新後に問屋を開業したという設定になっています。

原話となった心中事件

「明烏○○」と表題がついた作品は、明和年間(1764-72)以後幕末にいたるまで、歌舞伎、音曲とあらゆるジャンルの芸能で大量生産されました。

その発端は、明和3年(1766)6月、吉原・玉屋の遊女美吉野と、人形町の呉服屋の若旦那伊之助が、宮戸川(隅田川の山谷堀あたり)に身を投げた心中事件でした。

それが新内「明烏夢淡雪」として節付けされ、江戸中で大流行したのが第一次ブーム。

事件から半世紀ほど経た文政2年(1819)から同9年にかけ、滝亭鯉丈と為永春水が「明烏後正夢」と題して人情本という、今でいう艶本小説として刊行。第二次ブームに火をつけると、これに落語家が目をつけて同題の長編人情噺にアレンジしました。

現行の「明烏」はおそらく幕末に、その発端を独立させたものでしょう。

大門で止められる

「大門」の読み方は、芝は「だいもん」、吉原は「おおもん」と呼びならわしています。

吉原では、大見世遊びのときには、まず引手茶屋にあがり、そこで幇間と芸者を呼んで一騒ぎした後、迎えが来て見世(女郎屋)に行くならわしでした。

この噺では、茶屋の方もお稲荷さまになぞらえられては決まりが悪いので、早々に時次郎一行を見世に送り込んでいます。

大門は両扉で、黒塗りの冠木(かぶき)門。夜は引け四つ(午前0時)に閉門しますが、脇にくぐり門があり、男ならそれ以後も出入りできました。

大門内に監視所があり、俗に四郎兵衛と呼ばれましたが、お上に協力して不審者をチェックする場所。

むろん「途中で帰ると大門で止められる」は真っ赤な嘘です。

甘納豆

八代目桂文楽ので、太助が朝、振られて甘納豆をヤケ食いするしぐさの巧妙さは、今も古い落語ファンの間で語り草です。

甘納豆は嘉永5年(1858)、日本橋の菓子屋が初めて売り出しました。

文楽直伝でこの噺に現代的なセンスを加味した古今亭志ん朝は、甘納豆をなんと梅干の砂糖漬けに代え、タネをプッと吐き出して源兵衛にぶつけるおまけつきでした。

日本橋田所町

現在の東京都中央区堀留町二丁目。日本橋税務署のあるあたりです。

浦里時次郎

新内の「明烏夢淡雪」以来、「明烏」もののカップルはすべて「山名屋浦里・春日屋時次郎」となっています。

落語の方は、心中ものの新内をその「発端」という形でパロディー化したため、当然主人公の名も借りています。

うぶな者がもてて、半可通や遊び慣れた方が振られるという逆転のパターンは、『遊子方言』(明和7=1770年ごろ刊)以来、江戸の遊里を描いた「洒落本」に共通のもので、それをそのまま、オチに巧みに取り入れています。

【もっとしりたい】

ご存じ、8代目桂文楽のおはこ。文楽存命中はだれもやれず、のちに志ん朝がやった。もっとうまかった。

明和3(1766)年6月3日 (一説には明和6年とも) 、吉原玉屋の花魁美吉野と、人形町の呉服太物商春日屋の次男伊之助が、白ちりめんのしごき(女性の腰帯。結ばないでしごいて使う)でしっかり体を結び合って宮戸川(隅田川の山谷堀辺) に入水した。

これが、宮戸川心中事件といわれるもの。事件をもとに、初代鶴賀若狭掾が新内「明烏夢淡雪」として世に広めた。

さらに、文政2年(1819)-7年(1824)には、滝亭鯉丈と為永春水が続編のつもりで人情本『明烏後正夢』を刊行。この本の発端を脚色したのが落語の「明烏」である。以降、「明烏」ものは、歌舞伎、音曲などあらゆる分野で派生生産された。

うぶな男がもてて半可通が振られるという類型は、江戸の遊里を描いた洒落本には共通のもの。もてるもてないはどこか宿命めいている。修行の必要などなさそうだ。(古木優)

ごんすけざかな【権助魚】演目

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愛人通いのだんな、口止めに権助を買収したはずが。権助は制度の批判者です。

【あらすじ】

だんながこのところ外に愛人を作っているらしいと嗅ぎつけたおかみさん。

嫉妬で黒こげになり、いつもだんなのお供をしている飯炊きの権助を呼んで、問いただす。

権助はシラを切るので、まんじゅうと金三十銭也の出費でたちまち買収に成功。

両国広小路あたりで、いつもだんなが権助に「絵草紙を見ろ」と言い、主命なのでしかたなく店に入ったすきに逃走する事実を突き止めた。

「今度お伴をしたら間違いなく後をつけて、だんなの行き先を報告するように」
と命じたが……。

なにも知らないだんな。

いつもの通り、
「田中さんの所へ行く」
と言って、権助を連れて出かける。

この田中某、正月には毎年権助にお年玉をくれるだんななので、いわば三者共謀だ。

例によって絵草紙屋の前にさしかかる。

今日に限って権助、だんながいくら言っても、
「おらあ見ねえ」
の一点張り。

「ははあ」
と察しただんな、作戦を変え、
「餠を食っていこう」
と食い気で誘って、餠屋の裏路地の家に素早く飛び込んだ……かに見えたが、そこは買収されている権助、見逃さずに同時に突入。

ところが、だんなも女も、かねてから、いつかはバレるだろうと腹をくくっていたので泰然自若。

「てめえが、家のかみさんに三十銭もらってるのは顔に出ている。かみさんの言うことを聞くならだんなの言うことも聞くだろうな」

逆に五十銭で買収。

「駒止で田中さんに会って、これから網打ちに行こうと、船宿から船で上流まで行き、それから向島に上がって木母寺から植半でひっくり返るような騒ぎをして、向こう岸へ渡っていったから、多分吉原でございましょう、茶屋は吉原の山口巴、そこまで来ればわかると言え」
と細かい。

「ハァー、向島へ上がってモコモコ寺……」
「そうじゃねえ、木母寺だ」

その上、万一を考えて、別に五十銭を渡し、これで証拠品に魚屋で川魚を買って、すぐ帰るのはおかしいから日暮れまで寄席かどこかで時間をつぶしてから帰れ、とまあ、徹底したアリバイ工作。

権助、指示通り日暮れに魚屋に寄るが、買ったものは鰹の片身に伊勢海老、目刺しにかまぼこ。

たちまちバレた。

「……黙って聞いてれば、ばかにおしでないよ。みんな海の魚じゃないか。どこの川にカマボコが泳いでるんだね」
「ハア、道理で網をブッて捕った時、みんな死んでた」

【しりたい】

ゴンスケは一匹狼?

権助は、落語国限定のお国訛りをあやつって江戸っ子をケムにまく、商家の飯炊き男です。

与太郎のように頭の弱い者として見下される存在ではなく、江戸の商家の、旧弊でせせこましい習俗をニヒルに茶化してあざ笑う、世間や制度の批判者として登場します。「権助提灯」参照。

「権助芝居」でも、町内の茶番(素人芝居)で泥棒役を押し付けようとする番頭に、「おらァこう見えても、田舎へ帰れば地主のお坊ちゃまだゾ」と、胸を張って言い放ち、せいいっぱいの矜持を示す場面があります。

蛇足ですが、昭和40年代に藤子不二雄氏がヒットさせたギャグSF漫画「21エモン」では、この「ゴンスケ」が、守銭奴で主人を主人とも思わない、中古の芋掘り専用ロボットとして、みごと「復活」を遂げていました。

噺の成り立ち

上方が発祥で、「お文さん」「万両」の題名で演じられる噺の発端が独立したものですが、いつ、だれが東京に移したかは不明です。

明治の二代目三遊亭小円朝(前名・初代三遊亭金馬で、五代目古今亭志ん生の最初の師匠)や二代目古今亭今輔が「お文さま」「おふみ」の演題で速記を残していますが、前後半のつながりとしては、後半、「おふみ」の冒頭に権助が魚の一件でクビになったとしてつじつまを合わせているだけで、筋の関連は直接ありません。

古くは、「熊野の牛王(ごおう=護符)」の別題で演じられたこともありましたが、この場合は、おかみさんが権助に白状させるため、熊野神社の護符をのませ、それをのんで嘘をつくと血を吐いて死ぬと脅し、洗いざらいしゃべらせた後、「今おまえがのんだのは、ただの薬の効能書だよ」「道理で能書(=筋書き)をしゃべっちまった」と、オチになります。

絵草紙屋

役者絵、武者絵などの錦絵を中心に、双六や千代紙などのオモチャ類も置いて、あんどん型の看板をかかげていました。

明治中期以後、絵葉書の流行に押されて次第にすたれましたが、明治21年ごろ、石版画の美女の裸体画が絵草紙屋の店頭に並び、評判になったと山本笑月(1873-1936)の『明治世相百話』にあります。

「おふみ」の後半

日本橋の大きな酒屋で、だんなが外に囲った、おふみという女に産ませた隠し子を、万事心得た番頭が一計を案じ、捨て子と見せかけて店の者に拾わせます。

ついでに、だんな夫婦にまだ子供がいないのを幸い、子煩悩な正妻をまんまとだまし、おふみを乳母として家に入れてしまおうという悪らつな算段なのですが……。

いや、けっこう笑えます。お後はどうなりますやら。

つきやむげん【搗屋無間】演目

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米搗き屋の男が花魁にぞっこん。通い倒したその果ては。褒められない廓噺。

【あらすじ】

信州者の徳兵衛。

江戸は日本橋の搗き米屋・越前屋は十三年も奉公しているが、まじめで堅い一方で、休みでも遊びひとつしたことがない。

その堅物が、ある日、絵草紙屋でたまたま目に映った、

今、吉原で全盛を誇る松葉楼の花魁、宵山の絵姿にぞっこん。

たちまち、まだ見ぬ宵山に恋煩い。

心配しただんなが、気晴らしに一日好きなことをしてこいと送り出したが、どこをどう歩いているかわからない。

さまよっているうち、出会ったのが知り合いの幇間・寿楽。

事情を聞くとおもしろがって、なんとか花魁に会わせてやろう、と請け合う。

大見世にあがるのに、
「米搗き男ではまずいから、徳兵衛を木更津のお大尽という触れ込みにし、指にタコができているのを見破られるとまずいから、聞かれたら鼓に凝っていると言え」
など、細々と注意。

「あたしの言うとおりにしていればいい」
と太鼓判を押すが、先立つものは金。

十三年間の給金二十五両を、そっくりだんなに預けてあるが、まさか女郎買いに行くから出してくれとも言えないので、店の金を十五両ほど隙を見て持ち出し、バレたら、預けてある二十五両と相殺してくれと頼めばいいと知恵をつける。

さて当日。

徳兵衛はビクビクもので、吉原の大門でさえくぐったことがないから、廓の常夜灯を見て腰を抜かしたり、見世にあがる時、ふだんの癖で雪駄を懐に入れてしまったりと、あやうく出自が割れそうになるので、介添えの寿楽の方がハラハラ。

なんとかかんとか花魁の興味をひき、めでたくお床入り。

翌朝。

徳兵衛はいつまた宵山に会えるか知れないと思うと、ボロボロ泣き出し、挙げ句に、正直に自分の身分をしゃべってしまった。

宵山、怒ると思いのほか、
「この偽りの世の中に、あなたほど実のある人はいない」
と、逆に徳兵衛に岡惚れ。

瓢箪から独楽。

それから二年半というもの、費用は全部宵山の持ち出しで、二人は逢瀬を続けたが、いかにせん宵山ももう資金が尽き、思うように会えなくなった。

そうなると、いよいよ情がつのった徳兵衛。

ある夜、思い詰めて月を眺めながら、昔梅ケ枝という女郎は、無間の鐘をついて三百両の金を得たと浄瑠璃で聞いたことがあるが、たとえ地獄に堕ちても金が欲しいと、庭にあった大道臼を杵でぶっぱたく。

その一心が通じたか、バラバラと天から金が降ってきて、数えてみると二百七十両。

「三百両には三十両不足。ああ、一割の搗き減りがした」

【しりたい】

わかりにくいオチ

明治25年(1892)7月の二代目柳家(禽語楼)小さんの速記が残ります。

ただ、小さんのやり方では、金がどこから降ったかはっきりしないので、戦後、この噺を得意にした八代目春風亭柳枝(円窓や円弥の最初の師匠)は、だんなが隠しておいた金とし、金額も現実的な三十両としました。

また、「搗き減り」の割合は、現行では二割とするのが普通になっています。

「搗き減り」というのは、江戸時代の搗き米屋が、代金のうち、玄米を搗いて目減りした二割分を、損料としてそのまま頂戴したことによります。

実際は普通に精米した場合、一割程度が米の損耗になりますが、それではもうけがないため、二割と言い立てたわけです。

オチは、したがって普通なら利益のはずの「搗き減り」が、文字通りの損の意味に転化する皮肉ですが、これが現代ではまったく通じません。

そこで、「仕込み」と呼ぶあらかじめの説明が必要になり、現在ではあまり演じられません。

円窓が柳枝の演出を継承しています。

原話は親孝行、落語はバチあたり

原話は、現在知られているものに三種類あります。

まず、安永5年(1776)刊『立春噺大集』中の「台からうす」、ついで、狂歌で名高い大田蜀山人(南畝、1749-1823)作の笑話本で同7年刊『春笑一刻』中の無題の小咄。

現行により近いのが、天保15(1844)年刊『往古噺の魁』中の「搗屋むけん」です。

前二者は、貧乏のどん底の搗き米屋が、破れかぶれで商売道具の臼を無間の鐘に見立て、杵(きね)でつくと奇跡が起こって小判が三両。

大喜びで何度もつくと、そのたびに出てくる小判が減り、しまいには一分金だけ。「はあ、つき減りがした」というもの。

天保の小咄になると、金が欲しい動機が、女郎買いの資金調達ではなく、年貢の滞りで三十両の金を無心してきている父親への孝心という、まじめなものである以外は、ほぼ現行通りです。

この動機が女郎買いに変わったのは、前記の俗曲「梅ケ枝の…」が流行した明治前期からといわれます。

搗屋

つきや。搗き米屋のことです。

普通にいう米屋で、足踏み式の米つき臼で精米してから量り売りしました。

それとは別に、出職(得意先回り)専門の搗屋があり、杵と臼を持ち運んで、呼び込まれた先で精米しました。

「小言幸兵衛」のオリジナルの形は、搗き米屋が店を借りにきて一騒動持ち上がるので、別題を「搗屋幸兵衛」といいます。

無間の鐘

むげんのかね。東海道は日坂宿に近い、小夜(さや)の中山峠の無間山観音寺にあったという、伝説の鐘です。

撞けば現世で大金を得られるものの、来世では無間地獄に堕ちると言い伝えられていました。

この伝説を基にして、浄瑠璃・歌舞伎の『ひらかな盛衰記』四段目「無間の鐘」の場が作られました。

主人である源氏方の武将・梶原源太と駆け落ちした腰元・千鳥が、身を売って遊女・梅ケ枝となりますが、源太のためになんとか出陣の資金・三百両を調達したいと願い、手水鉢を無間の鐘に見立ててたたきます。

するとアーラ不思議、天から小判の雨あられ。

これは実は、源太の母・延寿が情けで楼上からまいたもの、というオチです。

明治期にはやった、「梅ケ枝の 手水鉢 たたいてお金が出るならば……」という俗曲は、この場面を当て込んだものです。

絵草紙屋

江戸のブティック、ジュエリーといったところです。「権助魚」参照。

絵草紙屋の店番には、たいてい看板娘や美人の女房がいたので、女性や子供の行く店にもかかわらず、なぜか日参する、鼻の下の長い連中が多かったとか。

そのせいか、風紀紊乱のかどで文化元年(1804)、お上から絵草紙屋の取り締まり令が出されています。

なかには、枕絵など、いかがわしいものを売る店も当然あったのでしょう。

大道臼

おおどううす。搗き米屋が店の前に転がしておく、米搗き用の大臼です。

からだの大きな者、特に相撲取りをあざけり、罵って言う場合もあります。「ハンショウドロボー」「ウドノタイボク」をもっと強めたニュアンスでしょう。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言『め組の喧嘩』では、頭の辰五郎以下、鳶(とび)の面々が、相撲取りとの出入りで、この言葉を連発します。

しゃれこまち【洒落小町】演目

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亭主の女遊びを陰で支える女房。歌道から洒落へ。業平故事を使った噺。

別題:口合小町(上方)

【あらすじ】

ガチャガチャのお松とあだ名される騒々しい女房。

亭主が近ごろ、吉原で穴っぱいり(浮気)して帰ってこないと、横町の隠居に相談に来る。

隠居は
「おまえが四六時中あまりうるさくて、家がおもしろくないので亭主が穴っぱいりする。昔、在原業平が、愛人の生駒姫の所に毎晩通ったが、奥方の井筒姫は嫌な顔ひとつせず送りだすばかりか、ある嵐の晩、さすがに業平が外出しかねているのを、こういう晩に行かなければ不実と思われてあなたの名にかかわるから、無理をしても行きなさいと言う。嫉妬するのが当たり前なのに、あまりものわかりがよすぎるから、業平は不審に思って、出かけたふりをして庭先に隠れてようすを伺うと、縁の戸が開き、井筒姫が琴を弾きながら『風吹けば 沖津白波たつ田山 夜半にや君が 一人越ゆらん』と悲しげに詠んだので、それに感じて業平は河内通いをやめたという故事がある。おまえも亭主が帰ったら、たとえ歌は無理としても、優しい言葉のひとつも掛け、洒落のひとつも言ったら、亭主はきっと外に出なくなる」
と、さとす。

「ご隠居さん、歌というのはけっこうですね」
「そりゃそうだ。小野小町は歌を詠んで雨を降らせた、というくらいだからな」

家に帰ったお松、亭主の気を引こうと、さっそく洒落攻め。

大家の所へ行くと言うと
「大家(=高野)さん弘法大師」
「隣の茂兵衛さんに喜兵衛さん……」
「隣の茂兵衛(=モチ)つきゃ喜兵衛(=キネ)の音」

「うるせえな」
とどなると
「うさぎうさぎ、なに見てはねる」

あまり下らないのを連発するから、亭主はお松が頭がおかしくなったと思い、二、三日出かけずにいた。

ある日、雨が降ってきた。

これを待っていたお松、いきなり隣の水屋から蓑と傘を借りてきて、うやうやしく亭主に着せかけると、そのまま外へ突き飛ばした。

亭主が行ってしまったので、ここぞと井筒姫の歌のつもりで間違えて
「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信田の森の 恨み葛の葉」
とやったが、いっこうに帰らない。

また心配になって隠居に掛け合うと、
「そりゃ狐の歌じゃないか」
「あ、道理でまた穴っぱいりだ」

【しりたい】

東西で異なるやり方

古風で、実に粋な噺です。こういう噺を達者にこなせる落語家は、もう絶えていないでしょう。

初代桂文治(→千早振る)がおそらく文化年間に作った古い上方落語を東京に移したもので、大阪では「口合(くっちゃい)小町」です。

「口合」は地口、ダジャレのことです。

東西で演出がもっとも変わる部分は、西(上方)では、かみさんが亭主の跡をつけて女郎屋に入るのを突き止め、乗り込んで大げんかになるのと、オチが異なり、狐の部分がないことです。

戦後、東京では八代目桂文治、六代目円生の後は、立川談志がよく演じました。

小野小町の歌

古今集の六歌仙で紅一点、小野小町が、京に百日も大日照りがあったとき、神泉苑(現在の二条城の向かい)で、「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天(あめ)が下とは」という雨乞いの歌を詠んだところ、七日続いて雨が降ったという「雨乞い小町」の伝説があります。上方の「口合小町」のオチはこれを踏まえ、亭主が降参して、茶屋通いはやめると謝ると、「まあうれしい。百日の日照りがあったら知らして」「どないするのや?」「口合(洒落)で、雨降らせてみせるわ」と、なっています。

今で言う、男の浮気のことです。愛人のもとに行ったきり帰らないのを、狐が穴に籠もることにたとえたものです。

もっとも、これでは今はまったく通じないでしょう。

穴っぱいり

「狐」は女性器を意味する隠語でもあるため、当然、下ネタの意味も利かしてあるのでしょう。

「風吹けば……」

『伊勢物語』第二十三段中の歌。

意味は「風が吹くと沖の白波が立つ、その龍田山を、今ごろ夜中にあなたが一人で越えているのでしょうか(心配です)」

「恋しくば……」

「仮名手本忠臣蔵」の作者の一人でもある初代竹田出雲(?-1747)作の浄瑠璃『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』(葛の葉子別れ)の四段目で、陰陽師・安部保名(あの安部晴明の父)と夫婦になった雌の白狐が、自分が化けた、夫のかつての恋人が訪ねてきたので、泣きの涙で身を引き、夫と子供を残して去る、その別れ際に障子に書き残す歌です。

かじかざわ【鰍沢】演目

 

身延参詣の帰途、宿を借りたら命狙われ雪中の逃避行。続編は「晦の月の輪」。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊

あらすじ

おやじの骨を身延山に納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目を唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋に売って細々と生計を立てている身。

「おまえはん、後生だから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船。

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省になる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師さまのご利益。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作。幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しましたが、円朝がその席で「鉄砲」「毒消しの護符」「玉子酒」の三つのキーワード(一説には「小室山の護符」「熊の膏薬」「玉子酒」とも)から即座にまとめたものです。三題噺からできた落語では円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは、「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

と、これまではいわれてきましたが、最近の研究ではちょっと違っています。

文久年間に「粋狂連」のお仲間、河竹黙阿弥がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を取り上げていました。黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺です。興行で提携していた四代目小団次こそが日蓮宗の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、義兄(玄昌)の住持する南泉寺(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮宗とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と日蓮宗(題目系)との対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派をはなしに取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(日蓮宗、法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。このはなしもご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素ばなし一本で名人に上り詰めましたが、「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬の迫真の名演は、今も伝説的です。

近年では八代目正蔵に正統が伝わり、五代目志ん生も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、正蔵が特別な会で復活したものが門弟の正雀に継承されたほかは、やり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

五代目志ん生は、自らが円朝、円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、円朝全集を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたいできです。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのです。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編が「鰍沢二席目」です。正式には「晦(みそか)の月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃・明神峠で追い剥ぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てですが、明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波版「円朝全集」には別巻2に収められています。

鰍沢  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩郡鰍沢町。東海道から甲府に至る交通の要衝で、古くから、富士川添いの川港として物資の集積点となり、栄えました。「鰍沢の流れ」は富士川の上流で、東海道岩淵在は現在の静岡県庵原郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついていますが、「おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺や亀有の善応寺などの投げ込み寺に葬られました。どちらかが生き残った場合は下手人の刑として処刑されました。両方とも生き残った場合は、日本橋南詰め東側に三日間、晒し刑にされました。これは悲惨です。縄や竹などで張られた空き地に、萱や棕櫚などで葺いた三方開きに覆いの中に筵を敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦みといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋馬鹿をつくした差し向かい
江戸のまん中でわかれる情けなさ
死すべき時死なざれば日本橋
日本に死にそこないが二人なり
日本橋おしわけてみる買った奴
四日目は乞食で通る日本橋
吉原の咄をさせる小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。浅草では車善七、品川では松右衛門と決まっていました。吉原で遊女をしていた頃の話を聞こうとする非人頭もずいぶんといやらしい了見です。そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

【語の読みと注】
浄閑寺 じょうかんじ:荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺だった
善応寺 ぜんのうじ:足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺だった

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ちはやふる【千早ふる】演目

【RIZAP COOK】

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無学者もの。知ったかぶりの噺。苦し紛れのつじつまあわせ。あっぱれです。

別題:百人一首(上方)

あらすじ

あるおやじ。

無学なので、学校に行っている娘にものを聞かれても答えられず、困っている。

正月に娘の友達が集まり、百人一首をやっているのを見て、花札バクチと間違えて笑われる始末。

その時、在原業平の「千早ふる神代も聞かずたつた川からくれないに水くぐるとは」という歌の解釈を聞かれ、床屋から帰ったら教えてやるとごまかして、そのまま自称物知りの隠居のところに駆け込んだ。

隠居もわからないのでいい加減にごまかそうとしたが、おやじは引き下がらない。

で、苦し紛れに
「龍田川ってのはおまえ、相撲取りの名だ」
とやってしまった。

もうここまできたら、毒食らわば皿までで、引くに引けない。隠居の珍解釈が続く。

龍田川が田舎から出てきて一心不乱にけいこ。

酒も女もたばこもやらない。

その甲斐あってか大関にまで出世し、ある時客に連れられて吉原に夜桜見物に出かけた。

その時ちょうど全盛の千早太夫の花魁道中に出くわし、堅い一方で女に免疫のない大関龍田川、いっぺんに千早の美貌に一目ぼれ。

さっそく、茶屋に呼んで言い寄ろうとすると、虫が好かないというのか
「あちきはいやでありんす」
と見事に振られてしまった。

しかたがないので、妹女郎の神代太夫に口をかけると、これまた
「姉さんがイヤな人は、ワチキもイヤ」
とまた振られた。

つくづく相撲取りが嫌になった龍田川、そのまま廃業すると、故郷に帰って豆腐屋になってしまった。

「なんで相撲取りが豆腐屋になるんです」
「なんだっていいじゃないか。当人が好きでなるんだから。親の家が豆腐屋だったんだ」

両親にこれまで家を空けた不幸をわび、一心に家業にはげんで十年後。

龍田川が店で豆を挽いていると、ボロをまとった女の物乞いが一人。

空腹で動けないので、オカラを恵んでくれという。

気の毒に思ってその顔を見ると、なんとこれが千早太夫のなれの果て。

思わずカッとなり
「大関にまでなった相撲をやめて、草深い田舎で豆腐屋をしているのは、もとはといえばおまえのためだ」
と。

「オカラはやれない」
と言って、ドーンと突くと千早は吹っ飛び、弾みで井戸にはまってブクブクブク。

そのまんまになった。

これがこの歌の解釈。

千早に振られたから「千早ふる」、神代も言うことを聞かないから「神代も聞かず龍田川」、オカラをやらなかったから「からくれないに」。

「じゃ、水くぐるってえのは?」
「井戸へ落っこって潜れば、水をくぐるじゃねえか」

【RIZAP COOK】

しりたい

「ちはやふる……」  【RIZAP COOK】

「千早振る」は「神」にかかる枕詞で、もちろん本当の解釈は以下のようなものです。

 (不思議なことの多かった)神代でさえ、  龍田川の水が 紅葉の美しい紅でくくり染め (=しぼり染め)にされるとは聞いたこともない。

とまあ、おもしろくもおかしくもないもの。隠居の解釈の方が、よほど共感を呼びそうです。

龍田川は、奈良県生駒郡斑鳩町の南側を流れる川で、古来、紅葉の名所で有名でした。

原話とやり手  【RIZAP COOK】

今でも、前座から大看板まで、ほとんどの落語家が手掛けるポピュラーな噺です。

「薬缶」と同系統で、知ったかぶりの隠居がでたらめな解釈をする「無学者もの」の一つです。

古くは「木火土金水(もっかどごんすい)」という、小ばなしのオムニバスの一部として演じられることが多く、その場合、この後「薬缶」につなげました。

安永5年(1776)刊『鳥の町』中の「講釈」を、初代桂文治(1773-1815)が落語にしたものです。明治期では三代目柳家小さんの十八番でした。

本来は、「千早振る」の前に、「つくばねの嶺より落つるみなの川……」の歌を珍解釈する「陽成院」がつけられていました。

オチの異同  【RIZAP COOK】

あらすじのテキストにしたのは、五代目古今亭志ん生の速記です。

志ん生が「水をくぐるじゃねえか」で切っているのは、むしろ珍しい部類でしょう。

普通はこのあと、「じゃ、『とは』ってえのはなんです?」「それは、ウーン、千早の本名だった」と苦しまぎれのオチになります。

花魁道中  【RIZAP COOK】

起源は古く、吉原がまだ日本橋葺屋町(ふきやちょう)にあった「元吉原」といわれる時代(寛永年間、1624-44)にさかのぼるといわれます。

本来は遊女の最高位「松の位」の太夫が、遊女屋から揚屋(のちの引手茶屋。上客を接待する場)まで出向く行列をいいましたが、宝暦年間(1751-64)を最後に太夫が絶えると、それに次ぐ位の「呼び出し」が仲の町を通って茶屋に行く道中を指すようになりました。

廓が点灯する七ツ半(午後5時)ごろから始まるのが普通でした。

「陽成院」  【RIZAP COOK】

陽成院の歌、「つくばねのみねより落つる男女(みな)の川恋ぞつもりてふちとなりぬる」の珍解釈。

京都の陽成院という寺で開かれた勧進相撲で、筑波嶺と男女の川が対戦。

男女の川が山の向こうまで投げ飛ばされたから「筑波嶺の峰より落つる男女の川」

見物人の歓声が天皇の耳に入り、筑波嶺に永代扶持(ふち)をたまわったので、「声(=こい)ぞつもりてふち(扶持=淵)となりぬる」

しまいの「ぬる」とは何だと突っ込まれて、「扶持をもらった筑波嶺が、かみさんや娘に京の『小町香』、要するに香水を買ってやり、ぺたぺた顔に塗りたくったから、『塗る』だ」

というわけです。

くらまえかご【蔵前駕籠】演目

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維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。荒んだ世情も落語にかかれば、ほら。

【あらすじ】

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追い剥ぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、茅町の江戸勘のような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁から、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうに着きゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋を渡り、前方に榧寺門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

【しりたい】

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町の赤岩、芝神明の初音屋を、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠といい、個人営業の辻駕籠とは駕籠そのものも駕籠かきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味な一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語』巻二十八中の「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺は現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山正覚寺のことです。浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれますが、その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。