しにがみ【死神】演目

 落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

古典落語の傑作ですが、元ネタはイタリアやドイツにあるそうです。

あらすじ

借金で首が回らなくなった男、金策に駆け回るが、誰も貸してくれない。

かみさんにも、金ができないうちは家には入れないと追い出され、ほとほと生きるのがイヤになった。

一思いに首をくくろうとすると、後ろから気味の悪い声で呼び止める者がある。

驚いて振り返ると、木陰からスッと現れたのが、年の頃はもう八十以上、痩せこけて汚い竹の杖を突いた爺さん。

「な、なんだ、おめえは」「死神だよ」

逃げようとすると、死神は手招きして、「恐がらなくてもいい。おまえに相談がある」と言う。

「おまえはまだ寿命があるんだから、死のうとしても死ねねえ。それより儲かる商売をやってみねえな。医者をやらないか」

もとより脈の取り方すら知らないが、死神が教えるには「長わずらいをしている患者には必ず、足元か枕元におれがついている。足元にいる時は手を二つ打って『テケレッツノパ』と唱えれば死神ははがれ、病人は助かるが、枕元の時は寿命が尽きていてダメだ」という。

これを知っていれば百発百中、名医の評判疑いなしで、儲かり放題である。

半信半疑で家に帰り、ダメでもともとと医者の看板を出したが、間もなく日本橋の豪商から使いが来た。

「主人が大病で明日をも知れないので、ぜひ先生に御診断を」と頼む。

行ってみると果たして、病人の足元に死神。

「しめた」と、教えられた通りにするとアーラ不思議、病人はケロりと全快。

これが評判を呼び、神のような名医というので往診依頼が殺到し、たちまち左ウチワ。

ある日、麹町の伊勢屋宅からの頼みで出かけてみると、死神は枕元。

「残念ながら助かりません」と因果を含めようとしたが、先方は諦めず、「助けていただければ一万両差し上げる」という。

最近愛人狂いで金を使い果たしていた先生、そう聞いて目がくらみ、一計を案じる。

死神が居眠りしているすきに蒲団をくるりと反回転。

呪文を唱えると、死すべき病人が生き返った。

さあ死神、怒るまいことか、たちちニセ医者を引っさらい、薄気味悪い地下室に連れ込む。

そこには無数のローソク。

これすべて人の寿命。

男のはと見ると、もう燃え尽きる寸前。

「てめえは生と死の秩序を乱したから、寿命が伊勢屋の方へ行っちまったんだ。もうこの世とおさらばだぞ」、と死神の冷たい声。

泣いて頼むと、「それじゃ、一度だけチャンスをやる。てめえのローソクが消える前に、別のにうまくつなげれば寿命は延びる」

つなごうとするが、震えて手が合わない。

「ほら、消える。……ふ、ふ、消える」

しりたい

異色の問題作登場!

何しろ、この噺のルーツや成立過程をめぐって、とうとう、かなり厚い一冊の本になってしまった(「落語『死神』の世界」西本晃二著)ぐらいです。

一応、原話はグリム童話「死神の名付け親」で、それを劇化したイタリアのコミック・オペラ「クリスピーノと死神」の筋を、三遊亭円朝が洋学者から聞き、落語に翻案したと言われます。

それはともかく、そこの旦那。ああた、あーたです。笑ってえる場合じゃあありません。このはなしを聞いて、たまには生死の深遠についてまじめにお考えになっちゃあいかがです。

美人黄土となる。明日ありと思う心の何とやら。死は思いも寄らず、あと数分後に迫っていまいものでもないのです。

東西の死神像

ギリシアやエジプトでは、生と死を司る運命もしくは死の神。

ヨーロッパの死神は、よく知られた白骨がフードをかぶり、大鎌を持った姿で、悪魔、悪霊と同一視されます。

日本では、この噺のようにぼろぼろの経帷子をまとった、やせた老人で、亡者の悪霊そのもの。

ところが、落語版のこの「死神」では、筋の上では、西洋の翻案物のためか、ギリシア風の死を司る神という、新しいイメージが加わっています。

芝居の死神

三代目尾上菊五郎以来の、音羽屋の家の芸で、明治19年(1886)3月、五代目菊五郎が千歳座の「加賀鳶」で演じた死神は、「頭に薄鼠色の白粉を塗り、下半身がボロボロになった薄い経帷子に葱の枯れ葉のような帯」という姿でした。不気味にヒヒヒヒと笑い、登場人物を入水自殺に誘います。

客席の円朝はこれを見て喝采したといいます。この噺の死神の姿と、ぴったり一致したのでしょう。

先代中村雁治郎がテレビで落語通りの死神を演じましたが、不気味さとユーモラスが渾然一体で、絶品でした。

ハッピーエンドの「誉れの幇間」

明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊は、「死神」を改作して「誉れの幇間(たいこ)」または「全快」と題し、ろうそくの灯を全部ともして引き上げるというハッピーエンドに変えています。

「死神」のやり方

円朝から高弟の初代三遊亭円左が継承、さらに戦後は六代目円生、五代目古今亭今輔が得意にしました。

円生は、死神の笑いを心から愉快そうにするよう工夫し、サゲも死神が「消える」と言った瞬間、男が前にバタリと倒れる仕種で落としました。

柳家小三治は、男がくしゃみをした瞬間にろうそくが消えるやり方です。

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【死神 柳家喬太郎】

だいぶつもち【大仏餠】演目

【RIZAP COOK】

八代目文楽のおはこでした。「神谷幸右衛門」の名が言えずに……。

あらすじ

ある雪の晩、上野の山下あたり。

目の不自由な子連れの物乞いが、ひざから血を流している。

ふびんに思った主人が、手当てをしてやった。

聞けば、新米の物乞い。山下で縄張りを荒らしたと、大勢の物乞いに袋だたきにあったとか。

子供は六歳の男児。この家では子供の袴着の祝いの日だった。

同情した主人は、客にもてなした八百善からの仕出しの残りを、やろうとした。

物乞いが手にした面桶を見ると、朝鮮さはりの水こぼし。

驚いた主人、
「おまえさんはお茶人だね」
と、家へあげて身の上を聞いてみると、芝片門前でお上のご用達をしていた神谷幸右衛門のなれの果て。

「あなたが神幸さん。あなたのお数寄屋のお席開きに招かれたこともある河内屋金兵衛です」
と、おうすを一服あげ、大仏餠を出す。

幸右衛門、感激のうちに大仏餠を口にしたため、のどにつかえて苦しんだ。

河内屋が背中をたたくと、幸右衛門の目が開いた。

ついでに、声が鼻に抜けてふがふがに。

「あれ、あなた目があきなすったね」
「は、はい。あきました」
「目があいて、鼻が変になんなすったね」
「はァ、いま食べたのが大仏餠、目から鼻ィ抜けました」

【RIZAP COOK】

うんちく

「三代目になっちゃった」 【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作で、三題噺をもとに作ったものです。出題は「大仏餅」「袴着の祝い」「新米の盲乞食」。円朝全集にも収録されていますが、昭和に入ってはなにをおいても八代目桂文楽の独壇場でした。文楽の噺としては「B級品」で、客がセコなときや体調の悪い場合にやる「安全パイ」のネタでしたが、晩年は気を入れて演じていたようです。にもかかわらず、この噺が文楽の「命取り」になったことはあまりに有名です。

この事件の経緯については、『落語無頼語録』(大西信行、芸術出版社、1974年)に、文楽の死の直後の関係者への取材をまじえて詳しく書かれ、またその後今日まで40年近く、折に触れて語られています。以下、簡単にあらましを。

昭和46年(1971)8月31日。この日、国立劇場の落語研究会で、文楽は幕切れ近くで、登場人物の「神谷幸右衛門」の名を忘れて絶句。「もう一度勉強しなおしてまいります」と、しおしおと高座を下りました。これが最後の高座となり、同年12月12日、肝硬変で大量吐血の末死去。享年79。

文楽はその前夜にも同じ「大仏餅」を東横落語会で演じ、無難にやりおおせたばかりでした。高座を下りたあと、楽屋で文楽は淡々とマネジャーに「三代目になっちゃったよ」と言ったそうです。

三代目とは三代目柳家小さん(1930年没)のこと。漱石も絶賛した明治大正の名人でしたが、晩年はアルツハイマーを患い、壊れたレコードのように噺の同じ箇所をぐるぐる何度も繰り返すという悲惨さだったとか。

文楽は、一字一句もゆるがせにしない完璧な芸を自負していただけに、いつも「三代目になる」ことを恐れて自分を追い詰め、いざたった一回でも絶句すると、もう自分の落語人生は終ったといっさいをあきらめてしまったのでしょう。

「三代目になった」ときに醜態をさらさないよう、弟子の証言では、それ以前から高座での「お詫びの稽古」を繰り返していたそうです。大西氏は文楽の死を「自殺だった」と断言しています。神谷幸右衛門は、噺の中でそのとき初めて出てくる名前ですから、忘れたら横目屋助平でも美濃部孝蔵でも、なんでもよかったのですがね。

無許可放送事件 【RIZAP COOK】

平成20年(2008)2月10日、NHKラジオ第一放送の「ラジオ名人寄席」で、パーソナリティーの玉置宏氏が、個人的に所蔵している八代目林家正蔵(彦六)の「大仏餅」を番組内で放送しました。ところが、これが以前にTBSで録音されたものだったため著作権、放映権の侵害で大騒動になり、すったもんだで玉置氏は降板するハメになりました。文楽のを流しておけば、あるいは無事ですんだかも知れませんね。やはり、自分の専売特許を侵害された(?)文楽のタタリでしょうか。「大仏餅」は文楽没後は前記正蔵が時々演じ、現在では柳家さん喬、大阪の桂文我などが持ちネタにしています。

大仏餅 【RIZAP COOK】

江戸時代、上方で流行した餅で、大仏の絵姿が焼印で押されていました。京都の方広寺大仏門前にあった店が本家といわれますが、奈良の大仏の鐘楼前ともいい、また、同じく京都の誓願寺前でも売られていたとか。支店だったのでしょうか。

この餅、安永9年(1780)刊の秋里籬島著「都名所図絵」にも絵入で紹介されるほどの名物で、同書の書き込みにも、「洛東大仏餅の濫觴は則ち方広寺大仏殿建立の時よりこの銘を蒙むり売弘めける。その味、美にして煎るに蕩けず、炙るに芳して、陸放翁が餅、東坡が湯餅にもおとらざる名品なり」と絶賛。滝沢馬琴が享和2年(1802)、京都に旅したおり、賞味して大いに気に入ったとか。この店、昭和17年(1942)まで営業していたそうです。

面桶 【RIZAP COOK】

めんつう。一人分の飯を盛る容器です。「つう」は唐音。禅僧が修行に使った携帯用のいれものでした。戦国時代には戦陣で飲食に使う便利なお椀に。江戸時代には主に乞食が使う容器となりました。

七五三の祝い 【RIZAP COOK】

噺に出てくる「袴着」は男児が初めて袴をはく儀式のこと。三歳、五歳、七歳など、時代や家風によって祝いをする年齢が変わりました。これは七五三の行事のひとつです。今は七五三としてなにか同じ儀式のように思われていますが、江戸時代にはそれぞれ別の行事でした。おとなへ踏み出す成長行事です。

髪置 かみおき 男女 三歳 11月15日に
袴着 はかまぎ 男児 三歳か五歳か七歳 正月15日か11月15日に
帯解 おびとき 女児 七歳 11月15日に

髪置は 乳母もとっちり 者になり   三21

袴着にや 鼻の下まで さつぱりし   初5

一つ飛ん だりと袴着 つるし上げ   十四22

袴着の どうだましても 脱がぬなり   七27

帯解は 濃いおしろひの 塗りはじめ   初6

肩車 店子などへは 下りぬなり   十四23

髪置ははじめて髪を蓄えること。帯解は付け紐のない着物を着ること、つまりは帯で着物を着ること。袴着もはじめて袴をはくことで、それぞれ、大人へのはじめの一歩の意味合いと、元気に成長してほしいという親の切なる願いのあらわれです。めでたい儀式ですから、乳母もお酒を飲んでお祝いして、その結果、とっちり者になってしまうわけです。「とっちり者」は泥酔者のこと。最後の句の「店子」は借家人のこと。この噺に出てくる子供は裕福な恵まれた環境で育ったわけで、長屋住まいの店子には肩車された上から挨拶するという、支配者と被支配者との関係性をすり込ませるような、すでにろくでもない人生の始まりを暗示しています。まあ、とまれ、江戸のたたずまいが見えてくるような風情です。

朝鮮さはりの水こぼし 【RIZAP COOK】

さはりは銅、錫、銀などを加えた合金。水こぼしは茶碗をすすいだ水を捨てる茶道具です。

【語の読みと注】
八百善 やおぜん
面桶 めんつう

【RIZAP COOK】

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こわかれ【子別れ】演目

通常、上、中、下の3部に分けて演じられます。

別題:強飯の女郎買い(上) 子は鎹(中と下で)

【あらすじ】

腕はいいが、大酒飲みで遊び人、大工の熊五郎。

ある日、山谷の隠居の弔いですっかりいい心持ちになり、このまま吉原へ繰り込んで精進落としだと怪気炎。

来合わせた大家が、そんな金があるなら女房子供に着物の一つも買ってやれと意見するのもどこ吹く風。

途中で会った紙屑屋の長さんが、三銭しか持っていないと渋るのを、今日はオレがおごるからと無理やり誘い、葬式で出された強飯の煮しめがフンドシに染み込んだと大騒ぎの挙げ句に三日も居続け。

四日目の朝。

神田堅大工町の長屋にご機嫌で帰ってくると、かみさんが黙って働いている。

さすがに決まりが悪く、あれこれ言い訳をしているうちに、かみさんが黙って聞いているものだからだんだん図に乗って、こともあろうに女郎の惚気話まで始める始末。

これでかみさんも堪忍袋の緒が切れ、夫婦げんかの末、もう愛想もこそも尽き果てたと、せがれの亀坊を連れて家を出てしまう。

うるさいのがいなくなって清々したとばかり、なじみのおいらんが年季が明けると家に引っ張り込むが、やはり野に置け蓮華草、前のかみさんとは大違いで、飯も炊かなければ仕事もせず。

挙げ句に、こんな貧乏臭いところはイヤだと、さっさと出ていってしまった。

一方、夫婦別れしたかみさん。

女の身とて決まった仕事もなく、炭屋の二階に間借りして、近所の仕立て物をしながら亀坊を育てている。

ある日、亀坊がいじめられて泣いていると、後ろから声を掛けた男がいる。

振り返ると、なんと父親。

身なりもすっかり立派になって、新しい半纏を着込んでいる。仕事の帰りらしい。

あれから一人になった熊五郎、つくづく以前の自分が情けなくなり、心機一転、好きな酒もすっかり絶って仕事に励み出したので、もともと腕はいい男、得意先も増え、すっかり左団扇になったが、思い出すは女房子供のことばかり。

偶然に親子涙の再会とあいなり、熊はせがれに五十銭の小遣いをやってようすを聞くと、女房はまだ自分のことを思い切っていないらしいとわかる。

内心喜ぶが、まだ面目なくて会えない。

その代わり、明日鰻を食わせてやると亀坊に約束し、その日は別れる。

一方、家に帰った亀坊、もらった五十銭を母親に見つかり、おやじに、おれに会ったことはまだおっかさんに言うなと口止めされているので、しどろもどろで、知らないおじさんにもらったとごまかすが、もの堅い母親は聞き入れない。

貧乏はしていても、おっかさんはおまえにひもじい思いはさせていない、人さまのお金をとるなんて、なんてさもしい料簡を起こしてくれたと泣いてしかるものだから、亀坊は隠しきれずに父親に会ったことを白状してしまう。

聞いた母親、ぐうたら亭主が真面目になり、女ともとうに手が切れたことを知り、こちらもうれしさを隠しきれないが、やはり、まだよりを戻すのははばかられる。

その代わり、翌日亀坊に精一杯の晴れ着を着せて送り出してやるが、自分もいても立ってもいられず、そっと後から鰻屋の店先へ……。

こうして、子供のおかげでめでたく夫婦が元の鞘に納まるという、「子は鎹(かすがい)」の一席。

【しりたい】

長い噺   【RIZAP COOK】

幕末の初代春風亭柳枝作。長い噺なので、上中下に分けられています。

普通は、中と下は通して演じられ、別題を「子は鎹(かすがい)」といいます。かすがいは大工が使う、大きな木材をつなぐためのカギ型の金具で、打ち込むのにゲンノウを用いるので、母親が「ゲンノウでぶつよ」と脅かす場面が、幕切れの「子はかすがい」という地のサゲとぴたりと付きます。

「かすがいを打つ」   【RIZAP COOK】

という慣用句もあり、人の縁をつなぎ止める意味です。

上は五代目古今亭志ん生が、「強飯の女郎買い」として独立させ、紙屑屋を吉原に誘う場面の掛け合いで客席を沸かせました。むろん、後半の「子別れ」は別にみっちりと演じています。

志ん生は母親の表現に優れ、六代目三遊亭円生は、上の通夜の場面から綿密に演じました。戦後では、やはりこの二人が双璧だったでしょう。

熊&紙長さんの「掛け合い漫才」   【RIZAP COOK】

熊「いくらあんだい? 一両もあんのかい一両も?」
長「一円? 一円なんぞあるもんか」
熊「八十銭かァ?」
長「八十銭ありゃしないよ」
熊「六十銭か」
長「六十銭…までありゃいいんだがね」
熊「五十銭だな」
長「五十銭にちょいと足りねえんだ」
熊「じゃ四十銭だ」
長「もうすこしってとこだ」
熊「三十五銭か」
長「もう、ちょいとだ」
熊「三十銭か」(このあたりで客席にジワ)
長「もうすこしだ」
熊「二十五銭だな」
長「うう、もうちょいと」
熊「二十銭かァ」
長「うう、くやしいとこだ」(爆笑)
熊「十五銭かァ?」
長「もうすこし」
熊「十銭か」
長「うう、もうちょいと」(高っ調子で)
熊「五銭だな?」
長「もうすこしィ」
熊「三銭か」
長「あ当たった」
熊「あこら三銭だよ」

最後の「三銭だよ」に絶妙の間で客の大爆笑がかぶさります。志ん生のライブならではの醍醐味。活字では、とうてい表現しきれません。

ゲンノウでぶつ   【RIZAP COOK】

母親が五十銭の出所を白状させようと、子供を脅す場面があります。

ゲンノウ(玄翁)は言うまでもなく、大工が使う大型の鉄の槌ですが、六代目三遊亭円生はカナヅチ(金槌)でやりました。

芸談によると、古今亭志ん生に注意され、なるほど、女が持つにはゲンノウは重くて大きすぎると気がついたそうです。

当の志ん生はというと、当然ながら「ここにお父っつァんの置いてったカナヅチがあるから、このカナヅチで頭ァ、たたき割るぞッ」と言っています。

もっとも、単なる脅かしですし、大きいから子供が怖がると考えれば、ゲンノウでもいいと思いますが、昔の落語家は、噺の中のちょっとした小道具にも常にリアリティを考え、気を使っていたことがわかりますね。

「女の子別れ」   【RIZAP COOK】

明治初期に三遊亭円朝が、柳枝の原作を脚色し、あべこべに、出て行くほうがかみさん(母親)で、亭主(父親)が子供と暮らすという「女の子別れ」として演じました。

やはりゲンノウの場面を気にして、ゲンノウで脅すなら父親の方が自然だろうというのが直接の動機だったようですが、なによりも、「男の子は父親につく」という夫婦別れのときの慣習や、亭主の方が家を出るのは(当時としては)不自然というのが円朝の頭にあったのでしょう。

この「女の子別れ」は、高弟の二代目円馬が大阪に伝え、明治期には月亭文都が得意にしていましたが、今は、東西ともこのやり方で演ずることはありません。

東京嫌いの宇井無愁(上方落語研究家)は、「子供をカセにお涙ちょうだいのあの手この手を使った、ウエットなヒネクレ落語で、ドライな笑いを好む大阪の水には合いにくい」と述べています。

下足番に習った「子別れ」   【RIZAP COOK】

五代目古今亭志ん生が生前、対談で回想していますが、志ん生がまだ二つ目で旅興行でさすらい歩いていたとき、流れ着いた甲府の稲積亭といううらぶれた席で、「子別れ」を一席やったところ、そこの下足番の爺さんに、「あすこんとこはまずい」と注意され、なに言ってやがると思ったそうです。

よく聞いてみると、この爺さん、昔は四代目三升家小勝の弟子で小常といったれっきとした噺家。旅興行のドサまわりをしているうちにここに落ち着き、とうとう下足番になり、年を取ってしまったとのこと。

昔はこういうケースはよくあったようで、志ん生は夏の暑いさ中、爺さんのボロ小屋で虫に食われながら「子別れ」をさらってもらったそうです。

なんだか哀れな、ものさびしい話ですが、志ん生の自伝『びんぼう自慢』では、小常から習ったのは「甚五郎の大黒」(→三井の大黒)ということになっていて、こうなるとどちらが本当なのかはわかりません。

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こがねもち【黄金餅】演目

円朝作。逝った西念を弔うため下谷から麻布、桐ヶ谷まで。異色の長屋噺。

あらすじ

下谷山崎町の裏長屋に住む、金山寺味噌売りの金兵衛。

このところ、隣の願人坊主西念の具合がよくないので、毎日、なにくれとなく世話を焼いている。

西念は身寄りもない老人だが、相当の小金をため込んでいるという噂だ。

だが、一文でも出すなら死んだ方がましというありさまで、医者にも行かず薬も買わない。

ある日、
「あんころ餠が食べたい」
と西念が言うので、買ってきてやると、
「一人で食べたいから帰ってくれ」
と言う。

代金を出したのは金兵衛なので、むかっ腹が立つのを抑えて、「どんなことをしやがるのか」と壁の穴から隣をこっそりのぞくと、西念、何と一つ一つ餡を取り、餠の中に汚い胴巻きから出した、小粒で合わせて六、七十両程の金をありたけ包むと、そいつを残らず食ってしまう。

そのうち、急に苦しみ出し、そのまま、あえなく昇天。

「こいつ、金に気が残って死に切れないので地獄まで持って行きやがった」
と舌打ちした金兵衛。

「待てよ、まだ金はこの世にある。腹ん中だ。何とか引っ張りだしてそっくり俺が」
と欲心を起こし、
「そうだ、焼き場でこんがり焼けたところをゴボウ抜きに取ろう」
とうまいことを考えつく。

長屋の連中をかり集めて、にわか弔いを仕立てた金兵衛。

「西念には身寄りがないので自分の寺に葬ってやるから」
と言いつくろい、その夜のうちに十人ほどで早桶に見立てた菜漬けの樽を担いで、麻布絶口釜無村のボロ寺・木蓮寺までやってくる。

そこの和尚は金兵衛と懇意だが、ぐうたらで、今夜もへべれけになっている。

百か日仕切りまで天保銭五枚で手を打って、和尚は怪しげなお経をあげる。

「金魚金魚、みィ金魚はァなの金魚いい金魚中の金魚セコ金魚あァとの金魚出目金魚。虎が泣く虎が泣く、虎が泣いては大変だ……犬の子がァ、チーン。なんじ元来ヒョットコのごとし君と別れて松原行けば松の露やら涙やら。アジャラカナトセノキュウライス、テケレッツノパ」

なにを言ってるんだか、わからない。

金兵衛は長屋の衆を体よく追い払い、寺の台所にあった鰺切り包丁の錆びたのを腰に差し、桐ケ谷の焼き場まで早桶を背負ってやってきた。

火葬人に
「ホトケの遺言だからナマ焼けにしてくれ」
と妙な注文。

朝方焼け終わると、用意の鰺切りで腹のあたりりをグサグサ。

案の定、山吹色のがバラバラと出たから、「しめた」とばかり、残らずたもとに入れ、さっさと逃げ出す。

「おい、コツはどうする」
「犬にやっちめえ」
「焼き賃置いてけ」
「焼き賃もクソもあるか。ドロボー!」

この金で目黒に所帯を持ち、餠屋を開き繁盛したという「悪銭身につく」お話。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

不思議な黄金餅  【RIZAP COOK】

下谷山崎町は江戸有数のスラム。当時は三大貧民窟のひとつでした。現在の台東区東上野4丁目、首都高速1号線直下のあたりです。そこは底辺の人々が闇にうごめくといわれた場所でした。どれほどのものかは、いまではよくわかりませんが。

金をのみ込んでもだえ死ぬ西念は願人坊主という職業の人。僧形なんですが、身分は物ごい。立川談志の演出では、長屋の月番は猫の皮むきに犬殺しのコンビ。

そんな連中が、深夜、西念の屍骸を担ぎ、富裕な支配階級の寝静まる大通りを堂々と押し通るわけ。目指すは、架空の荒れ寺・木蓮寺。港区南麻布2丁目辺でしょうか。

付近には麻布絶口の名の起こり、円覚禅師絶江が開いたといわれる曹渓寺があります。

しかし、一行を待つのは怪しげな経を読むのんだくれ和尚、隠亡(おんぼう)と呼ばれた死体焼却人。

加えて、死骸を生焼けにして小粒金を抉り出す凄惨なはずの描写。

それでいて薄情にも爆笑してしまうのは、彼らのしたたかな負のエネルギー、なまじの偽善的な差別批判など屁で吹っ飛ばす強靭さに、かえって奇怪な開放感を覚えるためではないでしょうか。

いやいや、志ん生の話し方が理屈なんかすっ飛ばしてただおかしいから、笑っちゃうのですね。金は天下の回り物だわえ、てか。

ついでに、志ん生の道行きの言い立てを。

わァわァわァわァいいながら、下谷の山崎町を出まして、あれから、上野の山下ィ出まして、三枚橋から広小路ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出まして、その頃、堀さまと鳥居さまというお屋敷の前をまっすぐに、筋かい御門から大通りィ出て、神田の須田町ィ出まして、須田町から新石町、鍛冶町から今川橋から本銀町、石町から本町ィ出まして室町から、日本橋をわたりまして、通四丁目、中橋から、南伝馬町ィ出まして京橋をわたってまっつぐに、新橋を、ェェ、右に切れまして、土橋から、あたらし橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出まして、天徳寺を抜けて神谷町から飯倉六丁目へ出た。坂を上がって飯倉片町、その頃おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番へ出て、大黒坂を上がって、麻布絶口釜無村の木蓮寺ィ来たときには、ずいぶんみんなくたびれた……。そういうわたしもくたびれた。

ああ、写したあたしもくたびれた。

【RIZAP COOK】

もっとしりたい】

円朝作といわれる原型ではこの噺にはオチがない。噺にはオチのあるものとないものとがある。オチのある噺を落語といって、オチのないものは人情噺や怪談噺などと呼んでいるが、これはどっちだろう。そんなことは評論家のお仕事。楽しむほうにはどっちでもいい。

五代目古今亭志ん生のが有名だ。二男の志ん朝もやった。志ん朝没後まもく、春風亭小朝が国立劇場で演じてみせた。多少の脚色はうかがえたが、志ん生をなぞる域を出なかった。とても聴いちゃいられなかった。しらけたもんだった。

志ん生は、四代目橘家円喬のを踏襲している。舞台は幕末を想定していたという。全編に漂うすさんだ空気と開き直りの風情は、たしかに幕末かもしれない。

三遊亭円朝が演じたという速記は残っているが、これだと長屋は芝金杉あたりだ。当時は、芝新網町、下谷山崎町、四谷鮫ヶ橋が、江戸の三大貧民窟だったらしい。芝金杉は芝新網町のあたり。円喬という人は落語は名人だったらしいが、人柄はよくなかったようだ。二代目円朝を継ぎたかったのは、円喬と円右だったそうだが、名跡を預かる藤浦家のお眼鏡にはかなわなかった。藤浦はよく見ていたようだ。だからか、円喬の「黄金餅」はその人柄をよくさらしていたように思える。凄惨で陰気で汚らしい。

金兵衛や西念の住む長屋がどれほどすさまじく貧乏であるかを、われわれに伝えているのだが、志ん生の手にかかると、そんなことはどうでもよくなってしまう。山崎町はみんな貧乏だったんだから。円朝のだと、ホトケを芝金杉から麻布まで運ぶので違和感はない。距離にして2キロ程度。志ん生系の「黄金餅」では、下谷から麻布までの道行きを言い立てるのがウリのひとつになっている。これは13kmほどあるから、ホントに運んだらくたびれるだろう。桐ヶ谷は、浅草の橋場、高田の落合と並ぶ火葬場。「麻布の桐ヶ谷」と呼ばれた。火葬場は今もある。

下谷山崎町とは、いまの上野駅と鶯谷駅の間あたり。上野の山(つまり寛永寺)の際にあるのでそんな地名になった。「山崎町=ビンボー」のイメージがあんまり強いので、明治5年(1872)に「万年町」に変わった。中身は変わらずじまいだったから、東京となってからは「万年町=ビンボー」にすりかわっただけ。明治・大正の新聞・雑誌には、万年町のすさんだありさまが描かれているものだ。

円朝は最晩年、病癒えることなくもう逝っちゃいそうな頃、万年町に住んだ。名を替えても貧乏の風景は変わらなかった。ここで死ぬにはいくらなんでも大円朝が、と、弟子や関係者が気を使って、近所の車坂町に引っ越させた。結局、円朝はそこで逝った。万年町とはそのようにはばかられるほどの町だったのだ。

西念の職業は噺では「坊主」となっている。文脈から、これが願人坊主であることは明白だ。願人坊主とは、流しの無資格僧。依頼に応じて代参、代待ち、代垢離するのが本来の職務なのだが、家々を回っては物乞いをした。奇抜な衣装、珍奇な歌や踊りで人の耳目を傾けた。ときに卑猥な所作をも強調した。カッポレや住吉踊りは願人の発明だったらしい。多くは、神田橋本町、芝金杉、下谷山崎町などに住んでいた。

木蓮寺の和尚があげたあやしげなお経は、願人が口ずさむセリフのイメージなのだろう。麻布は江戸の僻地だ。神田、日本橋あたりの人は行きたがらない場所。絶口釜無村とは架空の地名だが、「口が絶える」とか「釜が無い」と貧しさを強調している。たしかに、絶江坂なる地名が今もある。ここらへんにいたとかいう和尚の名前だという。

好事家はこれを鬼の首を取ったかのように重視するが、だからといって、それらの地名が噺とどうかかわるかといえば、どうということもない。「黄金餅」について評論家諸氏は「陰惨を笑わせる」などと言っているが、そんなことよりも「全編、貧乏を笑わせている」噺であることが重要なのだと思う。金兵衛の親切めかした小狡さ、西念の渋ちんぶり、菜漬けの樽を早桶に見立てるさま、木蓮寺の和尚の破戒僧のなりふり、というふうに、この噺は貧乏とでたらめのオンパレード。この噺、そんなすさまじき貧乏すらも忘れて、志ん生の仕掛けたくすぐりで笑っちゃうだけ。それだけでいいのだろう。

古木優

【RIZAP COOK】

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【黄金餅 古今亭志ん生】

やんまきゅうじ【やんま久次】演目

三遊亭円朝の弟子の三遊一朝から林家彦六へ。しばらくの空白期を経て、いまでは雲助が復活させました。

別題:大べらぼう

【あらすじ】

番町御廐谷の旗本の二男、青木久次郎。

兄貴がいるので家督は継げず、他家に養子にも行けずに無為の日々を送るうち、やけになって道楽に身を持ち崩し、家を飛び出して本所辺の博打場でトグロを巻いている。

背中一面に大やんまのトンボの刺青を彫ったので、人呼んで「やんま久次」。

今日も博打で負けてすってんてんになり、悪友の入れ知恵で女物の着物、尻をはしょって手拭いで頬かぶりというひどいなりで、番町の屋敷へ金をせびりにやってくる。

例によって用人の伴内に悪態をつき、凶状持ちになったので旅に出なくてはならないから、旅費をよこせと無理難題。

どっかと座敷に座り込み、酒を持ってこいとどなり散らす。

ちょうど来合わせたのが、兄弟に幼いころ剣術を教えた、浜町で道場を営む大竹大助という先生。

久次がお錠口でどなっているのを聞きつけ、家名に傷がつくから、今日という今日は、あ奴に切腹させるよう、兄の久之進に勧める。

老母が久次をかわいがっているので、自分の手に掛けることもできず、今まではつい金をやって追い払っていた兄貴も、もうこれまでと決心し、有無を言わせず弟の首をつかんで引きずり、一間にほうり込むと、そこには鬼のような顔の先生。

「これ久次郎。きさまのようなやくざ者を生けおいては、当家の名折れになる。きさまも武士の子、ここにおいて潔く腹を切れ」

さすがの久次も青くなり、泣いて詫びるが大助は許さない。

そこへ母親が現れ、
「今度だけは」
と命乞いをしたので、やっと
「老母の手前、今回はさし許すが、二度とゆすりに来るようなことがあれば、必ずその首打ち落とす」
と、大助に釘をさされて放免された。

いっしょに帰る道すがら。

大助は、
「実はさっきのはきさまを改心させるための芝居だった」
と明かし、三両手渡して、
「これで身支度を整え、どこになりと侍奉公して、必ず老母を安心させるように」と、さとす。

久次も泣いて、きっと真人間になると誓ったので、大助は安心して別れていく。

その後ろ姿に
「おめっちの道楽といやあ、金魚の子をふやかしたり、朝顔にどぶ泥をひっかけたり、三道楽煩悩のどれ一つ、てめえは楽しんだことはあるめえ。俺の屋敷に俺が行くのに、他人のてめえの世話にはならねえ。大べらぼうめェ」

【しりたい】

江戸の創作落語  【RIZAP COOK】

伝・初代古今亭志ん生(1809-56)作。元の題は「大べらぼう」。三遊亭円朝の人情噺「緑林門松竹」の原話となったものに、芝居噺「下谷五人盗賊」があります。その中の「またかのお関」のくだりに、やんま久次郎が端役で登場しています。五人という人数合わせのための作為で、筋との関連はなく、のちに削除されています。

円朝門下の三遊一朝老人から、八代目林家正蔵(彦六)に直伝され、戦後は正蔵の一手専売でした。彦六は昭和57年(1982)に逝きました。その後は手掛ける者がありませんでしたが、平成6年(1995)に五街道雲助が復活させました。

彦六懐古談  【RIZAP COOK】

この噺、前述のようにもとは長編人情噺でした。この続きがあったと思われますが、不明です。

「このはなしを一朝おじいさんがやって、円朝師匠にほめられたそうです。『私はおまえみたいに、ゆすりはうまくやれないよ』といって……(中略)最後は『おおべらぼうめー』といって、昔は寄席の花道へ引っ込んだものです。『湯屋番』でこの手を遣った人がいましたね。『おまえさんみたいな人はいらないから出ていっとくれ』『そうかい、おれもこんなおもしろくねえところにはいたかねえ』といって、花道を引き上げるんです」

(八代目林家正蔵談)

「やんま」は遊び人のしるし  【RIZAP COOK】

やんまは「馬大頭」と書きます。やんまには隠語で「女郎」の意味があり、女郎遊びを「やんまい」「んやまい」などとも称しました。久次郎のやんまの刺青は、それを踏まえた、自嘲の意味合いもあったのでしょう。

怪人「べらぼう」  【RIZAP COOK】

江戸っ子のタンカで連発される「ベラボーメ」。ベラボーは、「ばか野郎」と「無粋者(野暮天)」の両方を兼ねた言葉です。万治から寛文年間(1658-72)にかけて、江戸や大坂で、全身真っ黒けの怪人が見世物に出され、大評判になりましたが、それを「へらぼう」「べらぼう」と呼んだことが始まりとか。言い逃れ、インチキのことを「へらを遣う」と呼んだので、その意味も含んでいるのでしょう。

三道楽煩悩  【RIZAP COOK】

飲む、打つ、買うの三道楽。「さんどら」の「どら」は「のら」(怠け者)からの転訛です。「ドラ息子」の語源でもあります。

お錠口  【RIZAP COOK】

武家屋敷の表と奥を仕切る出入り口です。杉戸を立て、門限以後は錠を下ろすのが慣わしでした。

御厩谷  【RIZAP COOK】

東京都千代田区三番町、大妻学院前バス停付近の坂下をいいました。近接の靖国神社北側一帯が幕府の騎射馬場御用地であったことにちなみます。付近はすべて旗本屋敷でしたが、「青木」という家名はむろん架空です。

【語の読みと注】
御廐谷 おんまやだに
三道楽煩悩 さんどらぼんのう
緑林門松竹 みどりのはやしかどのまつたけ

【RIZAP COOK】

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もといぬ【元犬】演目

江戸時代からのスタンダードな噺。前座がよくやりますが、やりようによっては臨場感たっぷりと、腕を見せる噺でもあります。

別題:戌の歳 白犬

【あらすじ】

浅草蔵前の八幡さまの境内に、珍しい純白の犬が迷い込んだ。

近所の人が珍しがって、白犬は人間に近いというから、きっとおまえは来世で人間に生まれ変われるというので、犬もその気になって、人間になれますようにと八幡さまに三七、二十一日の願掛け。

祈りが通じたのか、満願の日の朝、一陣の風が吹くと、毛皮が飛んで、気がつくと人間に。うれしいのはいいが、裸ではしょうがないと、奉納手拭いを腰に巻いた。

人間になったからはどこかに奉公しないと飯が食えないと困っているところへ、向こうから、犬の時分にかわいがってくれた口入れ屋の上総屋吉兵衛。

奉公したいので世話してくれと頼むと、誰だかわからないが、裸でいるのは気の毒だと、家に連れていってくれる。

ところが、なかなか犬の癖が抜けない。

すぐ這って歩こうとするし、足を拭いた雑巾の水は呑んでしまうわ、尻尾があるつもりで尻は振るわ、干物を食わせれば頭からかじるわ。着物も帯の着け方も知らない。

「どこの国の人だい」
と首をかしげた旦那、
「おまえさんはかなり変わっているから、変わった人が好きな変わった人を紹介しよう」
と言って、近所の隠居のところに連れていくことにした。

隠居は色白の若い衆なので気に入り、引き取ることにしたが、やたらに横っ倒しになるので閉口。

ウチは古くからのお元という女中がいるから、仲よくしとくれと念を押すと、根掘り葉掘り、身元調査。

「生まれはどこだ」
と尋ねると、
「乾物屋の裏の掃き溜めで」
という。

「お父っつぁんは酒屋のブチで、お袋は毛並みのいいのについて逃げた。兄弟は三匹で、片方は大八車にひかれ、もう片方は子供に川に放り込まれてあえない最期」

なにか変だと思って、名前はと聞くと
「ただのシロです」

隠居、勘違いして
「ああ、只四郎か。いい名だ。今茶を入れよう。鉄瓶がチンチンいってないか、見ておくれ」
「あたしは、チンチンはやりません」
「いや、チンチンだよ」
「やるんですか」

シロがいきなりチンチンを始めたので、さすがの隠居も驚いた。

「えー、茶でも煎じて入れるから、焙炉をとんな。そこのほいろ、ホイロ」
「うー、ワン」
「気味が悪いな。おーい、お元や、もとはいぬ(=いない)か」
「へえ、今朝ほど人間になりました」

しりたい

志ん生得意のナンセンス噺   【RIZAP COOK】

「ホイロ」の部分の原話は、文化12年(1815)刊『滑稽福笑』中の「焙炉」で、その中では、主人とまぬけな下男の珍問答の形になっています。

大阪でも同じ筋で演じられますが、焙炉のくだりはなく、主人が「椀を持ってこい」と言いつけると「ワン」と吠えるという、単純なダジャレの問答になります。

明治期では三遊亭円朝が「戌の歳」、二代目(禽語楼)柳家小さんが「白狗」と題して速記を残しています。心学から発想された噺なのだそうです。心学の考え方は落語のすみずみに影響を与えていますね。

戦後では八代目春風亭柳枝が得意で、よく高座に掛けました。柳枝では、上総屋の旦那だけ、シロが犬から変身したことを知っている設定でした。

五代目古今亭志ん生も、噺の発想自体の古めかしさや、オチの会話体としての不自然さを補ってあまりある、ナンセンスなくすぐり横溢で十八番に。志ん生没後はあまり演じ手がありませんでしたが、最近、荒唐無稽な発想がかえって新鮮に映るのか、やや復活のきざしがあるようです。

人か獣か、獣か人か  【RIZAP COOK】

オチは陳腐ですが、この噺のユニークさは、「人が犬に」ではなく、逆に、「犬が人に」転生するという、発想の裏をついている点でしょう。その人間に生まれ変わった犬の立場に立って、その心理・行動から噺を組み立てています。こういう視点は、よくある輪廻や因縁ばなしの盲点をつくもので、ありそうであまりありません。

考えてみれば、「ジャータカ物語」で、釈迦は人から獣へ、獣から人へと、無数の転生を繰り返し、ネイテブ・アメリカンはコヨーテやバッファローや馬や犬と人間は渾然一体、いつでも精神的、肉体的に動物に変身できると信じていました。したがって、転生は「可逆的」でなければおかしいのに、なぜか、仏教的な輪廻説話では、人が前世の悪業で畜生に転生させられるという、一方的なものばかりです。

「アラビアン・ナイト」では、魔法でよく人が獣に変身させられますが、一時的に姿が変わっても、主人公はあくまで「人間」です。これは、人間があくまで「万物の霊長」で、それが畜生道に堕ちてロバやオウムになることはあっても、その逆は受け入れられないという意識の表れでしょうか。

とすれば、その意識の壁を破ったこの噺、実は落語史上に残る傑作、なのかも知れません。

蔵前八幡  【RIZAP COOK】

東京都台東区蔵前三丁目。元禄7年(1694)、石清水八幡を勧請したので、石清水正八幡宮の正式名があります。

白犬は人間に近いのか  【RIZAP COOK】

ことわざで、心学の教義、または仏教の転生説話が根拠と思われますが、なぜ特に白犬なのかははっきりしません。

焙炉  【RIZAP COOK】

ほいろ。茶葉を火にかけて乾かす道具です。木枠や籠の底に、和紙を張って作ります。現在ではほとんど姿を消し、骨董屋をあさらないと拝めません。

志ん生のくすぐり  【RIZAP COOK】

(上総屋):「おい、食いついちゃいけないよ。人間が猫に食いつくんじゃありません。おいッ、なんだってそう片足持ちゃげて小便するんだよ。……あとをにおいなんぞ嗅ぐんじゃねえってんだ」

「元人」を信じた詩人  【RIZAP COOK】

プロバンスの桂冠詩人にしてノーベル文学賞受賞作家・フレデリック・ミストラル(1830-1914)は、カトリック信仰の強固な南仏には珍しく、輪廻転生を信じていました。

ある日、ミストラルは突然迷い込んだ犬の目を見たとたん「これは人間の目だ(笑)」。以来、この19世紀最高の知性の一人は、終生、この「パン・ペルデュ」と名付けられた犬が死んだ知人か先祖の生まれ変わりと信じ、文字通りの人間としての「待遇」で養ったとか。別に「人面犬」の都市伝説ではないのでしょうが。

以上は「元犬」ならぬ「元人」の例ですが、人と犬の、古代からの霊的(?)結びつきを象徴する、なかなか不気味な逸話です。ミストラル先生の直感が本当なら、「犬の目」の医者は名医中の名医ということになります。

【語の読みと注】
焙炉 ほいろ:炉にかざして茶などを焙じる道具

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ほっけながや【法華長屋】演目

ここでいう法華とは日蓮宗のこと。江戸の町では、浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴらなので、結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となったので、これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬を始め、初代三遊亭円右、初代柳家小せん、四代目春風亭柳枝、八代目桂文治と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、戦後は六代目円生がたまに演じたのを最後に、まったく継承者がいません。一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。戦前はもちろんそうでしたが、戦後でも昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の宗教家がなにやかやと寄稿していました。それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華の噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。明治29年(1896)、妻の勧めもあって円朝は日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りましたが、汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。オリジナルはインドの神です。バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神・ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。それが他宗派と大きく異なるところです。きわめて日本的なのかもしれません。摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。「下谷摩利支天」というのは寺の俗称です。正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。かつては下総の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。この寺のすごいことは上野の戦争でも震災でも空襲でも焼失しなかったこと。よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。厄除けの寺として信仰を集めています。つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているのです。江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越(だんのつ、信者)が多かったということですね。

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ふだんのはかま【ふだんの袴】演目

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「おうむ」というジャンルの噺。付け焼き刃が次第にばれて。噺家の技の見せどころ。

【あらすじ】

上野広小路の、御成街道に面した小さな骨董屋。

ある日、主人が店で探し物をしていると、顔見知りの身分の高そうな侍がぶらりと尋ねてきた。

この侍、年は五十がらみ、黒羽二重に仙台平の袴、雪駄履きに細身の大小を差し、なかなかの貫禄。

谷中へ墓参の帰りだという。

出された煙草盆でまずは悠然と一服するが、煙草入れは銀革、煙管も延打で銀無垢という、たいそうりっぱなもの。

そのうち、ふと店先の掛け軸に目を止めた。

「そこに掛けてある鶴は、見事なものだのう」
「相変わらずお目が高くていらっしゃいます。あたくしの考えでは文晁と心得ますが」
「なるほどのう、さすが名人じゃ」

惚れ惚れと見入っているうち、思わず煙管に息が入り、掃除が行き届いているから、火玉がすっと抜けて、広げた袴の上に落っこちた。

「殿さま、火玉が」
と骨董屋が慌てるのを、少しも騒がず払い落とし
「うん、身供の粗相か。許せよ」
「どういたしまして。お召物にきずは?」
「いや、案じるな。これは、いささかふだんの袴だ」

これを聞いていたのが、頭のおめでたい長屋の八五郎。

侍の悠然としたセリフにすっかり感心し、自分もそっくりやってみたくなったが、職人のことで袴がない。

そこで大家に談判、ようやくすり切れたのを一丁借りだし、上は印半纏、下は袴という珍妙ななりで骨董屋へとやってくる。

さっそく得意気に一服やりだしたはいいが、煙管は安物のナタマメ煙管、煙草は粉になっている。

それでもどうにか火をつけて
「あの隅にぶる下がってる鶴ァいい鶴だなあ」
「これはどうも、お見それしました。文晁と心得ますが」
「冗談言うねえ。文鳥ってなあ、もうちっと小さい鳥だろ。鶴じゃねえか」

これで完全に正体を見破られる。

本人、お里が知れたのを気づかずに、さかんに、いい鶴だいい鶴だとうなりながら煙草をふかすが、煙管の掃除をしていないから火玉が飛び出さない。

悔しがってぷっと吹いた拍子に、火玉が舞い上がって、袴に落ちないで頭のてっぺんへ。

「親方、頭ィ火玉が」
「なあに心配すんねえ。こいつはふだんの頭だ」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

発掘は彦六   【RIZAP COOK】

原話は不詳で、古い速記はありませんが、八代目林家正蔵(彦六)が、二つ目時代に二代目蜃気楼龍玉(1867-1945)門下の龍志から教わり、その型が五代目柳家小さんに継承されました。

八代目春風亭柳枝も持ちネタにし、柳枝の最後の弟子だった、三遊亭円窓が復活して手掛けています。

御成街道  【RIZAP COOK】

おなりかいどう。神田の筋違御門(万世橋)から上野広小路にかけての道筋で、現在の中央通りです。将軍家が上野寛永寺に参詣するルートにあたり、この名が付きました。上野広小路寄りの沿道には、刀剣や鎧兜などを扱う武具商が軒を並べていました。

仙台平  【RIZAP COOK】

せんだいひら。主に袴地に使われます。仙台平の袴は武家の正装用で絹地の最高級品。「平」とは、たていと(経)とよこいと(緯)を交互に織り込む手法で「平織り」を略した言い方です。武家以外にも、富裕層の町人も使いました。一般には、5月5日(端午)から8月末日まで一重袴として使いました。9月1日から5月4日までは裏地付きの袷袴でした。五つのひだの筋が崩れずに美しさを保ち、派手でもないので、気品と落ち着きが漂う装いです。

八五郎が借りたのは、小倉木綿です。結城木綿とともに実用使いでした。剣術の稽古袴での小倉木綿は「駄小倉」と呼ばれていました。「三軒長屋」の楠運平が履くのが駄小倉です。

江戸詰め藩士などは、社交上、装飾を施した細身の刀を身につけました。

延打  【RIZAP COOK】

のべ。雁首と吸口が同じ材料でできた煙管です。落語や歌舞伎では、演じる人物の階級で煙管の持ち方が異なります。殿さまは中ほどを握って水平に構え、武士や町人はやや雁首近くを握って下向き。百姓は雁首そのものをつかむ、など。

文晁  【RIZAP COOK】

ぶんちょう。江戸後期の文人画家・谷文晁(1763-1840)のこと。洋画の技法を取り入れた独自の画風で知られ、渡辺崋山の師匠でもありました。三遊亭円朝の後期の作に「谷文晁の伝」があります。

五代目小さんのくすぐりより  【RIZAP COOK】

大家が、店賃を持ってきたかと勘違いすると八「そこが欲の間違えだ」

大家が、一昨年貸した鳴海絞りの浴衣をまだ返さないといやみを言うと、八「留んとこで子供が生まれたんで、『こんなボロでよけりゃ』ってやっちゃった。あの子が大きくなりゃあ、オシメはいらなくなるから、そんとき返しに…」

八五郎が骨董屋で、「今日は墓参りで、供の者にはぐれて…」とやりはじめると、親父が「この方がお供みてえだ」

【語の読みと注】
御成街道 おなりかいどう
仙台平 せんだいひら
袷袴 あわせばかま
煙草入れ たばこいれ
煙管 きせる
延打 のべ
文晁 ぶんちょう
筋違御門 すじかいごもん

【RIZAP COOK】

なりたこぞう【成田小僧】演目

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今は廃れてしまった明治の噺。その頃はマセガキを「成田小僧」といったそうです。

あらすじ

本郷春木町の塗り物屋、十一屋の丁稚長松は、口から先に生まれたようなおしゃべり小僧。

父の代参で深川不動に参詣する若だんな江崎清三郎のお供。途中、深川の茶屋松本楼で昼食に。

それも、清三郎が長松の口車に乗ったためだ。

座敷で食事をしていると、芸者が厠に来たのを長松が見つけ大騒ぎ。店の女に聞けば、山谷堀大和屋の小千代。幇間の正孝と花洲といっしょに来ているとのこと。

長松は、幇間ともども呼んでしまう。しめて五十両。

清三郎は
「茶屋へ来たことさえおとっつぁんに知れたらどうしようかと思っているところだのに。私は勘当だ」
とビビるのを、長松は
「長男除きはできやしません。親子の縁の切れなくなったのは、王政ご一新のお上のありがたいところでゲス」
と平気のへいざ。

これが縁で、小千代と清三郎はいい仲に。

後日、吉原の幇間花洲の家に大和屋の女将が訪れた。

小千代が清三郎にばか惚れなのに、近頃、清三郎の姿を見なくなった。

これが続いて、小千代がブラブラ病(恋わずらい)を患う始末。

ついては、花洲に見舞いに来てほしい。

そんな話を、女将は花洲に語って聞かせた。

花洲は、幇間仲間の船八と連れ立ち、山谷堀の大和屋へ。

清三郎との思い出話に花が咲き、小千代の気も紛れる。

ところが、船八は
「若だんなは芸者を連れて逃げたそうです」
と無神経にしゃべくった。

これを聞いた小千代は顔色を変えて、いきなり外の人力車に乗ってどこかへ走り去った。

花洲、船八、下働きのお梅、大和屋の女将が、次々と車に乗って小千代を追いかける。

話変わって、午後十時過ぎの吾妻橋辺。

清三郎が失踪した日を命日に定め、大だんなが菩提寺の深川浄心寺に長松を連れてお参りに行った帰り道。

清三郎には双子の妹がいた話などを大だんなが長松に語って聞かせているところに、女の身投げを長松が見つけて思い止まらせる。

女は、なんと小千代だった。

話しているうち、小千代こそが大だんなの娘、つまりは清三郎の双子の妹だということが明らかに。

小千代は
「それを聞きましては、なおさら生きてはいられません」
と、ふたたび飛び込みにかかるところ、店の番頭善兵衛が駆けつけた。

若だんなが外務省の役人とサンフランシスコにいる、という手紙が届いたとの知らせ。

一同はほっと安堵、胸をなでおろした。

大だんなが小千代に
「なぜにおまえは貞女の鑑を立てる」
と言えば、小千代が
「元が塗り物屋の鏡台(=兄弟)」

底本:初代三遊亭円遊

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しりたい

深川不動

深川不動は江東区富岡一丁目。成田山新勝寺の東京出張所です。江戸時代には、日本橋坂本町や蔵前八幡境内に置かれていましたが、明治3年(1870)、現在地の永代寺境内の吉祥院内に移されました。独立の不動堂が建ったのは明治14年(1881)です。演題の由来はここからです。

成田小僧

当時、ませた子供を「成田小僧」と呼んでいましたが、それがこの噺からきたものかどうかは、よくわかりません。長松のませぶりを成田小僧に見立てて物語の狂言回しにしようとしたのでしょう。本郷の人を深川不動に参詣させて「成田」を取り込んでいるわけです。物語の重要な転換点では長松が活躍するわけで、狂言回しどころかやはり主人公なのかもしれません。

円遊の改作

幕末から明治初期にかけて二代目春風亭柳枝(1822-74)が得意にしていたそうです。初代三遊亭円遊(鼻の円遊)が、明治22年(1889)5月、23年(1890)11月と、二回に分けて速記を『百花園』に残しています。陰気な因果噺だったのを、円遊が陽気なこっけい噺に改作したようです。今ではすたれた噺です。

『落語大会』(松陽堂書店、明治33年12月刊)という落語集に「成田小僧」が「円朝口演」として載っているそうです(筆者未見)。これを受けてか、角川書店版『三遊亭円朝全集』には「成田小僧」が円朝口演として載っているのですが、『落語大会』の本文は『百花園』1号(明治22年5月10日)のそれと一致するため、円遊の口演速記を円朝名義で収録したものではないか、というのが佐藤至子氏の見解です。この見解のいきさつは岩波書店版『円朝全集』第13巻に載っています。円遊は円朝の弟子です。

浄心寺

江東区深川平野町二丁目。旧霊厳寺表門前町。日蓮宗身延山派の名刹で、山号は法苑山。万治元年(1658)開山で、四代将軍家綱の乳母三沢局(浄心院)の菩提を弔うため創建されたものです。浄心寺門前は『南総里見八犬伝』の作者滝沢(曲亭)馬琴の出生の地でもあります。

山谷堀

隅田川から今戸橋を経て、山谷にいたる掘割。江戸情緒の象徴のような名勝でした。一般には、吉原の入り口付近を指します。

松本楼

富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに、二軒茶屋と称された名店でした。深川で江戸以来の老舗は、ほかに平清、小池がありました。

本郷春木町

文京区本郷三丁目の内。元禄9年(1696)から町地となりました。町名のは、元和年間(1615-24)にこの地に滞在した、伊勢の御師春木太夫に由来します。明治6年(1873)、同町内に「奥田座」が開場。明治9年(1776)に春木座、35年(1902)に本郷座と改称。小芝居ながら、明治の名優団菊も出演した由緒ある劇場でしたが、昭和5年(1930)に廃場となりました。

【語の読みと注】
御師 おんし 伊勢神宮では「おんし」。一般には「おし」

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しゃしんのあだうち【写真の仇討ち】演目

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こんなかたき討ちならのんきです。袖にされた怨念は底知れぬもの。

別題:一枚起請 恨みの写真 写真の指傷 指切り

【あらすじ】

信次郎には恋仲の芸者小照がいた。

多額の金を貢いでいたが、裏切られた。

思いつめた信次郎、
「あたしも士族の子。面目にかけても生かしちゃ置けないから、これから女を一突きにし、自分も死ぬから」
と、いとま乞いにやってきたので、伯父さんが意見をする。

「昔、晋国の智伯という人が趙襄子に殺され、その家来の予譲は主人の仇を討とうとして捕らえられた。趙襄子は大度量の人だから、そのまま許してくれたが、あきらめずに今度は顔に漆を塗って炭を飲み、人相を変え、物乞いに化けて橋の下で趙襄子を狙った。ところが敵の乗った馬がピタリと動かなくなり気づかれた。『この前、命を助けてやったのに、なぜ何度もわしを狙う。もともとおまえの主人は范氏で、それが智伯に滅ぼされた時に捕虜になって随身したもの。とすれば、わしはおまえの元主人の仇を討ってやったも同じではないか』と責めると『ごもっともだが、智伯には私を引き立ててくれた恩があります。士はおのれを知る者のために死すと申します』と悪びれずに言ったので、趙襄子は感心して『おまえの志にめでて討たれてやりたいが、今わしが死んでは世の中が乱れる。これをわしと思って、ぞんぶんにうらみを晴らせ』と自分の着物の片袖を与えたので、予譲が剣でそれを貫く。突いたところから血がタラタラ。結局、予譲は自害したが、ああ、人の執念は恐ろしいものと趙襄子は衝撃を受け、3年もたたないうちにそれが元で死んだ、という。おまえも相手は商売人で、だまされたのはおまえに軍配が上がるのだから、大切な命をそんな女のためにむだにせず、その女からもらったものを突くなり、切るなりしてうっぷんを晴らすがいい」
と、長い。

そう言われて、信次郎もなるほどと思い、貸してもらった鎧通しで、持っていた女の写真を
「思い知れ」
とばかり、ズブリ。

とたんに写真から血がダラダラ。

「ああ、執念は恐ろしい。写真から血が」
「いえ、あたくしが指ィ切ったんで」

底本:八代目林家正蔵(彦六)

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【うんちく】

写真事始

写真の日本伝来は天保12年(1841)、長崎の上野俊之丞常定が、オランダ船で輸入されたダゲレオタイプ・カメラ(水銀蒸気を用いたもの。1837年にフランスのダゲールが発明)を薩摩藩主島津斉興に献上したのが始まりとされますが、確証はありません。

川本幸民(1809-70)が安政元年(1854)に日本最初の写真に関する翻訳書『遠西記述』を刊行。その後、下岡蓮杖(1823-1914)、上野彦馬(1838-1904)の2人が最新のアメリカ式の写真術を会得し、ともに写真館を開業。下岡は風景写真に、上野は肖像写真にと、それぞれの草分けとなりました。

上野彦馬は、「坂本龍馬の写真」を代表作とする伴野朗の連作歴史推理小説集の主人公で探偵役にされています。伴野朗は朝日新聞勤務のかたわらミステリーを執筆するセミプロ作家でしたが、先のない朝日を辞めて映画監督を経験しています。戦前の華北を舞台にした『落陽』(1992年、日活配給)という大作でしたが、おおこけで配給会社の日活は倒産してしまいました。伴野もこれが原因か、朝日からいきなり落葉へと相成りました。伴野をそそのかしたのは藤浦敦。読売新聞記者から日活監督に転職したこの人は、父に富太郎、祖父に周吉(三周)を持つ「大根河岸のだんな」の一族です。「三遊亭円朝」の名跡を握っている家ですね。敦が放談本『日活不良監督伝 だんびら一代 藤浦敦』(藤木TDC構成、洋泉社、2016年)で語っています。まあ、遺言のようなものとして読めば腹も立ちません。観客不在の映画興行を知った気分にもなれますし。

三大おおこけ大作

おおこけ大作というのは、庶民の目から眺めればきわどく痛快なものです。映画館でのヘンなもの見ちゃった気恥ずかしさとシラケた心持ちが交錯していって「なにやってやがる」「ざまあみろ」「ひでえな」「金返せ」「このボケが」といったふうに憤りが増長していくものです。管見(古木)ではありますが、『天国の門』(マイケル・チミノ監督、こけたのはユナイト映画)、『幻の湖』(橋本忍監督、こけたのは橋本)、『落陽』(伴野朗監督、こけたのは日活と伴野)を「三大おおこけ大作」と認定しています。

彦六が復活

昭和初期の八代目桂文楽の速記が残っていますが、戦後は八代目林家正蔵(彦六)が「指切り」の演題でレパートリーとしました。本あらすじは、その正蔵の速記をテキストにしています。正蔵は、二代目三遊亭小円朝門下で、やはりこの噺を得意としていた三遊亭円流の口演を聴いて覚えたと語っていました。「私の若いころ『写真を突くときは下へ置け。下へ置かなきゃ指までじゃ来ない』と教えてくれた先輩がありました」とは彦六の弁。二代目三遊亭円歌も演じました。

長編人情噺を落語化

別題は「恨みの写真」「指切り」「写真の指傷」「一枚起請」とさまざまです。明治17年(1884)に刊行された二代目五明楼玉輔の口演本『開化奇談写真の仇討』を落語化したものです。

原作は、アメリカから帰朝した医学士の青年が父親を毒殺した男に復讐しようと狙ったものの明治政府の仇討禁止令で果たせず、写真を刺して孝道を貫くという筋立ての長編人情噺です。この趣向を、古くからあった「一枚起請」という噺と結びつけたものと見られます。

「一枚起請」は、現行の「写真の仇討ち」と筋はほとんど同じですが、男が突くものがお女郎の起請文であるところが異なります。

予譲と趙襄子の故事

出典は『史記』「刺客伝」によるもの。司馬遷です。

【語の読みと注】
晋 しん
智伯 ちはく
趙襄子 ちょうじょうし
予譲 よじょう
范氏 はんし
随身 ずいじん
鎧通し よろいどおし:日本刀の一種。鎧の隙間から刺す短刀

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にかい【二階】ことば

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お女郎屋の二階のこと。

吉原や岡場所などの遊郭で、普通は二階が客と女郎の対面、逢い引きに使われたのでこう呼ばれました。「二階の間男」「二階ぞめき」などは、これを当て込んでいます。

「二階をまわす」というのはやり手や若い衆の仕事のことで、二階に案内した客を取り持ち、世話をすることです。

「まわす」は運営する、取り仕切ること。

ついでに、古い東京言葉の「こどりまわし(小取り廻し)が悪い」というのは、仕事のやり方が下手で気が利かないという悪口で、遊郭の用語でした。

「おや、嫌ですよ。私は二階をまわす者で」
「なに、二階をまわす? この二階を?」

                        敵討札所霊験(三遊亭円朝)

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ちりからたっぽう【ちりからたっぽう】ことば

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ちりからは鼓、たっぽうは大鼓の擬音語。そこから、芸者を揚げてにぎやかで陽気なお座敷をこう言いました。「だいようき(大陽気)」も同義。

正岡容は『明治大正風俗語事典』で、鳴り物入りの座敷は吉原に限るので、新宿などの「岡場所」の遊郭にはない、という説を紹介しています。

本所の達磨横丁を出て、全盛の吉原へやってきたが、ちりからたっぽう大陽気、両側はもう万燈のようで……。 

                                 文七元結

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そくらをかう【嘱賂を飼う、惣鞍を支う】ことば

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そそのかす、けしかけるの意味。「そくら(嘱賂)」はけしかける、煽動する、悪知恵を授けること。

訛って「そこら」「そくろ」とも発音しました。語源はよくわかりません。単独に使われることはなく、「かう」は「飼う」で、古い用例で毒を盛ること。そこから転じて、耳によからぬ悪知恵などを吹き込むことを言いました。

おおかた誰か、そくらをかった奴があるのでございますが、私は少しも覚えがない。

       蝦夷錦古郷之家土産(三遊亭円朝)

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さるまるだゆう【猿丸太夫】演目

★auひかり★

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典型的な滑稽噺です。

【あらすじ】

昔の旅は命がけ。

友達と泣きの涙で水杯を交わし、東海道を西に向かった男、原宿の手前で雇った馬子が、俳句に凝っているというので、江戸っ子ぶりを見せびらかしてやろうと、
「オレは『今芭蕉』という俳句の宗匠だ」
とホラを吹く。

そこで馬子が、
「この間、立場の運座で『鉢たたき』という題が出て閉口したので、ひとつやって見せてくれ」
と言い出す。

先生、出まかせに
「鉢たたきカッポレ一座の大陽気」
とやってケムに巻いたが、今度は「くちなし」では、と、しつこい。

「くちなしや鼻から下がすぐにあご」

だんだん怪しくなる。

すると、また馬子が今度は難題。

「『春雨』という題だが、中仙道から板橋という結びで、板か橋の字を詠み込まなくてはならない」
と言うと、やっこさん、すまし顔で
「船板へ くらいつきけり 春の鮫」

「それはいかねえ。雨のことだ」
「雨が降ると鮫がよく出てくる」

。そうこうしているうちに、馬子の被っている汚い手拭いがプンプンにおってくるのに閉口した今芭蕉先生、新しいのを祝儀代わりにやると、馬子は喜んで
「もうそろそろ馬を止めるだから、最後に紅葉で一句詠んでおくんなせえ」
と頼む。

しかたがないので
「奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は来にけり」
と聞いたような歌でごまかす。

そこへ向こうから朋輩の馬子が空馬を引いてきて
「作、どうした。新しい手拭いおっ被って。アマっ子にでももらったのか?」
「なに、馬の上にいる猿丸太夫にもらった」

★auひかり★

【しりたい】

田舎者と侮ると

原話は、宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。

これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。

帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。

江戸や京大坂の者が、旅先で、在所の百姓などを無知と侮り、手痛い目にあう実話は結構あったのでしょう。

オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけですが、別に、知ったかぶりの江戸っ子を逆に「猿」と嘲る、痛烈な風刺もあると思われます。

円朝も演じた噺

この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。

小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。

古くは三遊亭円朝が「道中の馬子」の題で速記を残し、大正13年(1924)の、三代目柳家小さんの速記も残りますが、今はすたれた噺です。

猿丸太夫

正体不明の歌人です。生没年、伝記は一切不明。

「猿丸太夫集」なる歌集がありますが、そこに採られている歌は、当人の作と確認されたものは一首もありません。

「小倉百人一首」に「奥山に」が撰ばれていますが、これが実はすべて「古今和歌集」の詠み人しらずの歌であることから、平安時代の歌人といわれます。別に、柿本人麻呂説もあります。

運座

うんざ。各人各題、あるいは一つの題について俳句を作り、互選しあう会です。座には宗匠、執筆(=記録係)、連衆(句の作り手)で成り立ちます。

18世紀末の安永・天明期以後、俳諧(俳句)人口は全国的に広がり、同時に高尚さが薄れて遊芸化しました。

したがって、この噺のような馬子が俳句に凝ることも、十分考えられたのです。

江戸後期の日本人の教養レベルは、現在想像されるより、ずっと高かったわけです。

馬子などの肉体労働者は、そのころは多く非識字者であるはずでした。それが字を知っているばかりか、江戸っ子よりはるかに博識であるという、落語的な逆転の発想がみられます。

★auひかり★

こまちょう【駒長】演目

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志ん生もやっている噺。人情噺めいてはいるのですが……。

【あらすじ】

借金で首が回らなくなった夫婦。

なかでも難物は、五十両という大金を借りている深川の丈八という男だ。

この男、実は昔、この家の女房、お駒が深川から女郎に出ていた時分、惚れて通いつめたが振られて、今の亭主の長八にお駒をさらわれたという因縁がある。

「ははあ、野郎、いまだに女房に未練があるので、掛け取りに名を借りて、始終通って来やがるんだ」
と長八は頭にきて、
「それなら見てやがれ」
と渋るお駒を無理やりに説き伏せ、一芝居たくらむ。

お駒に丈八へ恋文を書かせ、それが発覚したことにして、丈八が来る時を見計らってなれ合いの夫婦げんかをする。

あわてる丈八に、どさくさに二、三発食らわして、
「こんな女は欲しいならてめえにくれてやる」
とわざと家を飛び出す。

その間に、今度は本当にお駒を丈八に口説かせ、でれでれになった頃合いを見計らって踏み込む。

「不義の現場押さえた」
とばかり出刃包丁で脅しつけ、逆に五十両をふんだくった上に裸にむいてたたき出すという、なかなか手の込んだもの。

序幕はまったく予定通り。

「こんな女ァてめえにくれてやるが、仲へ入った親分がいるんだから、このままじゃあ義理が立たねえ。これから相談してくるから、帰るまでそこ動くな」

尻をまくって威勢よく飛び出した長八だが、筋書きがうまくいって安心したか、まぬけな奴もあるもの、親分宅で酒を飲みながら時間をつぶすうち、ぐっすりと夜明けまで寝込んでしまった。

第二幕。

こちらは長八の家。

丈八は上方者で名うての女たらし。差し向かいでじわじわ迫る。

「わいと逃げてくれれば、この着物も、これもあんたのもん」
とやられると、お駒も昔取った杵柄。

「つくづく貧乏暮らしが嫌になり、あんな亭主といては一生うだつが上がらない。この上は」
と急きょ狂言を書き直し、長八が帰らないのを幸い、丈八といつしか一つ床に。

挙げ句の果てに、夜が明けぬうち、家財道具一切合切かき集め、手に手を取ってはいさようなら。瓢箪から駒。

翌朝。

長八があわてふためいて家に駆け込んでみると、時すでに遅く、モヌケのカラ。

火鉢の上に書き置き一通。

「遂には、うそがまことと相なりそろう。おまえと一緒に暮らすなら、明くればみその百文買い、暮るれば油の五勺買い。朝から晩まで釜の前。そのくせヤキモチ焼きのキザ野郎。意気地なりの助平野郎」

さらには
「丈八さんと手に手を取り、二世も三世も変わらぬ夫婦の楽しみを……」

「あのあまァ、どうするか見てやがれッ」
と出刃を持って飛びだすと、カラスが上で
「アホウ、アホウ」

底本:五代目古今亭志ん生、四代目橘家円喬

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【しりたい】

円朝作の不倫噺

原話は、明和5年(1768)刊の笑話本『軽口はるの山』巻四の「筒もたせ」とみられます。

この小咄はかなり短く、金に困った男が友達に、うまくすれば銀三百匁にはなるから「美人局」をやってみろとけしかけられます。

そこで、かみさんに因果を含めて近所の若い者を誘惑させ、いよいよ「間男見つけた」と戸棚から飛び出したものの、あわてて「筒もたせ、見つけた」と言ってしまうというおマヌケなお笑いです。

これをもとに、明治初年に三遊亭円朝が一席の落とし噺に仕立てたとみられますが、円朝自身の速記は残っていません。

代わりに、春陽堂版「円朝全集」(昭和2年刊)には、円朝の口演をもっとも忠実にコピーしたとされる門下の三遊一朝(昭和5=1930年没)の速記が掲載されました。

この噺の登場人物名は、すべて講談の大岡政談や浄瑠璃中の、白子屋お駒の情話から取ったものです。

お駒の実録などについては、「城木屋」をご覧ください。

「教訓」としての円朝演出

一朝の速記を見ると、マクラで、うぬぼれが強く人間をばかにするカラスの性癖を引き合いに、「まして人間はうぬぼれが強うございまして、おれの女房はおれよりほかに男は知らない、どんなことをしてもおれのことは忘れまい、なぞと思っていると大違いでございます」と語っています。

男の思い上がりを、円朝がこの噺を教訓として戒めているのがうかがわれます。

なるほど、これがあって初めて、オチのカラスの「アホウ、アホウ」が皮肉として効いてくるわけです。

古い速記では「美人局」と題した四代目橘家円喬のもの(明治28年=1895年)も残っています。

円喬は上方ことばを自在に操れた人なので、活字だけを追っても、大阪弁の丈八の口説きに、いかにもねっとりとした色気が感じられます。

つつもたせ

「美人局」と書きます。博打から出た言葉といわれます。筒持たせ、つまり博打の胴を取るように情夫がしっかり状況をコントロールしている意味でしょう。それとも、もう少しエロチックな意味があるのかもしれません。「美人局」の表記は、中国で元代のころに遡るといいます。井原西鶴なども使っているので、上方ではかなり古くから使われた言葉なのでしょう。

明くれば味噌の百文買い

芝居がかった、女房の置手紙の文句ですが、食うや食わずの貧乏暮らしを象徴する言い回しです。

黙阿弥の芝居「御所五郎蔵」でも、敵役星影土右衛門の子分が主人公を辱めて「こなたと一生連れ添えば(中略)米は百買い酒は一合」と、似たような表現で罵倒します。

「味噌こし下げて歩く」も同意です。

志ん生の独壇場

戦後は、五代目古今亭志ん生が一手専売で、ほかに演じ手はありませんでした。おそらく、敬愛する四代目円喬の速記などから独力で覚えたものでしょう。次男の志ん朝が継承していました。

志ん生は、この噺の欠点である構成の不備や不自然さを卓抜なくすぐりで補い、不倫噺を、荒唐無稽の爆笑編に転化することで、後味の悪さを消す工夫をしています。

当サイトのあらすじは、主に志ん生の速記・音源を参考にしましたが、オチ近くの女房の置き手紙などは、円喬のをそっくり取り入れています。

【語の読みと注】
美人局 つつもたせ

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つるかめつるかめ【鶴亀鶴亀】ことば

スヴェンソンの増毛ネット

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江戸の町人特有の、縁起直しの呪文。

相手に不吉なこと、不浄なことを言われた後、必ず間を置かずに「つるかめつるかめ」と重ねて唱えます。鶴と亀はともに長寿のシンボル。縁起のいいものとされていたからで、いうなら精神的な口直しでしょう。

芝居では黙阿弥の代表的な世話狂言「髪結新三」で、大家に「オレに逆らったらてめえの首は胴についちゃあいねえんだ」と脅かされた小悪党の新三が、すかさず大げさに唱えて震える喜劇的なシーンが印象的です。

昭和初期までは老人の間では普通に使われていたと思います。恐怖の度合いが強い場合は、さらに「万万年」を付けて呪力を強化します。

後家安「それじゃあちょっとおらあ行ってくるから」
お藤「また竹の子かえ」
後家安「縁起でもねえ、鶴亀鶴亀」

        鶴殺疾刃包丁(後家安とその妹)

「竹の子」は博打のこと。剥かれるところから。

『明治東京風俗語事典』(正岡容)には「つるかめつるかめ」の項目が立っていて、「ツルもカメもめでたい動物なので、縁起の悪いときにこうとなえる」とあります。この本は、典拠をすべて円朝作品から採取しているので、出元は同じでしょう。

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ちんちんかもかも【ちんちん鴨鴨】ことば

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「ちんちん鴨」と縮めた形もありますが、きれい事で言えば、男女の仲がむつまじいことで、悪く言えばいちゃついて見ていられないさまです。

そこからさらにエスカレートして、文字通りの濡れ場、くんずほぐれつのセックスそのものの隠語ともなりました。

「かもかも(鴨鴨) 」 は単なる語呂合わせですが、一説には、鴨肉は薬食いとして、江戸では美味で貴重品だったことから連想して、女の肉体そのものの象徴としてくっついたともいわれます。

うがってみれば、ドン・ジョバンニやカサノバのような女たらしには、すべての女はまさしく鴨(獲物)、「ヘイ、カモン」だったこともあるでしょう。

置炬燵で、ちんちん鴨だか家鴨だか。

                                                  三遊亭円朝「敵討札所の霊験」

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あだじけない【あだじけない】ことば

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けちん坊、吝嗇である、の意味です。

「ケチくさい」のニュアンスから「貧弱な」「取るに足りない」という意味も派生しました。語源は、「大言海」によると、「あた(あだ)」は蔑みの意味を表す接頭語、「しけない」は「しわけなし(い)」が縮まった言葉で、「しわい=ケチ」の古い形です。

江戸っ子風の洒落言葉として「あたじけなすび(茄子)」という表現もあります。これは文字通り「ケチん坊」のことで、感謝の意味の「かたじけなすび」とまったく同型です。

ふだんあだじけない嘉藤太が平松なぞへ連れて参ってあれを喰え是をたべろと馳走致しますのは不思議な事だと。

                        三遊亭円朝「敵討霞初島」

【語の読みと注】
平松 ひらまつ:料亭の名

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くびや【首屋】演目

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自分の首を売るという商売の男。実にどうも、ばかばかしいお笑いです。

【あらすじ】

鳥羽伏見の戦い、上野の戦いなどで、江戸が騒然となっていたご一新のころ。

旗本の二、三男なども、今までのように安閑とはしていられなくなり、いざという時には大いに働かなければならないというので、自然と刀などは、良いものを求めるようになった。

買うには買っても、切れ味がわからなくては安心できない。

刀を試すにはまず胴試し、つまり、生体実験が一番手っ取り早いというわけで、江戸市中のあちらこちらで辻斬りや試し斬りが横行し、標的になる町人は、外もおちおち歩けない。

そんな折も折、番町あたりで、首のところに風呂敷を巻き付け、大声で
「首屋、くびいーやッ」
と売り歩く男が出現した。

さる旗本の殿さま、この声を聞きつけて、御用人の藤太夫を呼び、
「あの首屋を屋敷の中に連れて参れ」
と言いつける。

藤太夫、ばかばかしくなり、おそらく栗屋とでも聞き間違えたのだろうと思ったが、主命には逆らえないので、外に出てみると、確かにクビヤクビヤとがなっている男がいる。

「こりゃ町人、少し待て。その方、何を売っておる」
「私は首を売っております」

大変な奴だと思いながら、
「買ってやるからこちらに参れ」
と勝手口で待たせた後、庭先に通す。

庭には荒むしろが敷かれて、手桶に清めの水。

殿さまが縁側から声をかけ、
「首屋は、その方か」
「へい、さようで」
「なぜそのようなつまらん考えを起こした」

男が言うには、人間わずか五十年、二十五年は寝て暮らし、病気で五年居眠りを五年、昼寝を十年と差し引くとなくなってしまう。

ばかばかしくなったので、いっそひと思いに、というわけ。

殿さまは機嫌がよくなった。

「思い切りのよい奴。買ってやるが、いくらだ」
「掛け値なく七両二分で」

「金は家族に届けてやる」
と言うと、
「死んでも肌に付けておきたい」
となかなかの欲張り。

風呂敷を取り、その場に直ると、殿さま、白鞘の柄を払ってぎらりと氷の刃を抜き放ち、庭に下りて、ひしゃくの水を鍔元から掛けさせた。

「首屋、覚悟はよいな」
「へい」

イヤッと斬り下ろしてくる刃をひらりとかわし、後ろへ飛びのいてふところから張り子の首を放り出すと一目散。

「ややっ、これは張り子。そっちのだ」
「これは看板でございます」

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【しりたい】

値上げされた首代

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『楽牽頭』中の「首売」。

オチも含めて、大筋は現行とほとんど同じですが、原話は本所割下水のあたりが舞台で、首代は一両となっています。

現行の七両二分は、間男の示談金と同じで(「お釣りの間男」参照)、これを「首代」と呼んだため、噺の中の首代も、この値段にしたのでしょう。

三遊派伝統の噺

三遊亭円朝から四代目橘家円喬、昭和の六代目円生へと継承された正当派の三遊伝統の噺です。

明治29年(1896)の四代目円喬の速記が残りますが、円朝が明治になって、時代を幕末維新期に設定したと思われ、それが噺に一種の緊迫感とすごみを与えました。

円朝は、オチに関して、「首という言葉を何度も繰り返すようなムダはするな」という芸談を残しています。

明治から昭和にかけて、大看板の多くが手掛けていますが、戦後では、六代目円生と並び、八代目正蔵(彦六)の風格も忘れがたいものがあります。

類話「試し斬り」

短い噺なので、この前に「試し斬り」という小咄を付けることがあります。

刀の試し斬りをしたがっている侍が、朋輩が物乞いを真っ二つにしたという自慢話を聞き、さっそく出かけていって、同じようにバッサリ。

とたんに物乞いがムシロをはねのけて「誰だ、毎晩オレをなぐるのは」とオチる、シュールなオチです。

類話「首医者」

上方に「首医者」という噺があります。

洋行帰りの医者の所に、頭のおめでたい喜六がやってきて、女にもてそうな首と取り換えてほしいと頼みます。

見本をいろいろ見ますが、色男の首は高いので、結局、落語家某の首とすげ替えることにします。

手術が終わって、「これ、首代を置いていかんかい」と医者が言うと、喜六、「前へ回って見てみ。頼んだ奴と首が代わっとる」

張り子

木型に紙を重ねて張り、乾いたあと、型を取り去ったものです。現在でも、芝居の切り首などに用いられます。

【語の読みと注】
本所割下水 ほんじょわりげすい

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【おおあくび 001.2019/08/03】 古木優

中世といいますか、戦国時代といいますか、そこらへんがおもしろくて。

たとえば、斎藤道三。

この人は、僧侶から油売りを経て美濃を奪った梟雄であるかのように語られてきました。司馬遼太郎の『国盗り物語』でもそんなふうに描かれています。

最近の研究では、僧侶から油売りを経て美濃の守護、土岐家の家臣になったところまでは道三の父親で、土岐家を追い出して一国一城の主にのし上がったのが息子の道三だった、とのこと。二世代にわたる異業績だったわけなんですね。

「まむし」とあだ名された人物のイメージもちょっと変わります。乗っ取りの英才教育を授かったお坊ちゃん、というところでしょうか。

もひとつ、鉄砲伝来も。

1543年(天文12)に種子島に漂着したポルトガル人が持ってきて、領主の種子島時堯に2丁売った。これが鉄砲伝来だ。なんていうような話に納得していました。

でも、鉄砲は、その前すでに倭寇なんかが九州地方に持ち込んでいたことが最新の研究でわかっているそうです。

南蛮船と呼ばれていたポルトガル人の船(じつはマラッカやルソンの人たちのほうが多かった)も、当時の日本は別に鎖国していたわけでもないし中央のコントロールが機能していなかったので、日本のどこに寄港しても不思議ではありませんでした。関東や奥州の国人・地侍などが鉄砲を手にすることだってありだったのです。

鉄砲が軍制に組み込まれたのは、関東以北では1570年(元亀元)以降とされているのですが、いずれ新事実が明らかとなって、この通説も覆されるかもしれません。いやいや、もうすでに。

さらに、落ち武者の流亡。

西国の某城で忠勤に励みながらも戦いに敗れて、命からがら逃れた果てが東国、またはみちのく。

この地方は元来穏やかで、いろんな面で遅れていました。だから、落ち武者たちはなにかと有用だったのです。鉄砲の扱い方を伝えたのはこの手の人たちでした。

と、この人たちが東国やみちのくで増えていくと、いくさはまるで西国落ち武者同士の傭兵戦争となって、次第に激しさを増していくのです。これまで見たこともない戦法なんか使ったりして。あるいは、西国では見果てぬ夢だった思いが東国で実現できたりしたわけ。東漸です。

日本国内には「〇〇千軒」という古地名がいくつか残されています。

広島県福山市の「草戸千軒」がもっとも有名でしょうか。ここでいう「千軒」とは「栄えた町」くらいの意味なのでしょう。今はさびれてしまったけれど、昔は栄えていたのだ、というようなニュアンスが込められているようです。滅びてしまった理由はたいてい洪水や津波など天変地異によるもの。今となってはふるさと自慢の素材のひとつというのが物悲しさを漂わせます。

ただ、「〇〇千軒」に共通するものがいくつかあります。

鉱山と港。近くの山で採れた金銀を海上交通を使ってどこかに運んだ、ということなのでしょうか。買い手がいたのですね。どこの誰にでしょうか。モノばかりか、ヒトも運ばれていったのかもしれません。毎日必ずどこかで殺し合いがあった戦国時代も、ちょっと見方を変えると別な世界がみえてくるかもしれません。夢はふくらみますね。千軒と千字寄席。これはただの偶然ですが。

こんなふうに、これまで戦国時代の常識とされてきたことが少しずつ剥がされていきなんでもありなのが戦国時代だ、という認識が今日広まりつつあるようです。

ひるがえって、落語。これはどうでしょうか。

落語史は戦国史と違って、ごく一部の真摯で優れた方々を除けば、いまだにまともな研究者や評論家がいません。戦国史は多くの大学で学べても、落語史を学べる大学はあまりありません。あったとしても、なにかの片手間か気まぐれです。

落語評論なる文章も、先学諸兄の孫引きが目立って、当人は元が間違っていることにも気づかずにさらしたりしているようで。それを誰もなにも言わずに放置の状態、なんていうことを見かけます。われわれもその過ちを犯してきたのかもしれません。

どうにも曖昧模糊、なんだかなあ、いまだ霧の中にたたずんでいるのが落語史の研究。千鳥足の風情です。

いずれ誰かが全体を明らかにしてくれるのだろうと心待ちにしていましたが、いつまで待ってもあまり変わり映えしそうもありません。

そんなこんなで、こちらの持ち時間もじわじわとさびしくなってきた昨今、ここはもう知りたいことは自分でやるしかないかとばかり、心を入れ替え気合を込めてじわじわがつがつと落語について読み込んでいこうと覚悟を決めたというところです。落語も戦国時代のような状態なのかもしれません。

われわれは、落語というものを、芸能史の流れ、つまり、口承、唱導、説教、話芸といった一連のたゆたい、舌耕芸態として見つめていきたいのです。

落語は聴いて笑うもので調べるものではない、などと言っている人がいます。たしかに、落語研究などとは野暮の骨頂なのかもしれません。ある種の人たちには「笑い」を肩ひじ張って「研究」するなんてこっぱずかしいなりわいなのでしょう。

それでも、たとえば、三遊亭円朝が晩年、臨済宗から日蓮宗に改宗したことの意味を、われわれはやはりもう少し深く知りたいものです。そうすれば、いま残された42の作品の位置づけや意味づけも少し変わってくるかもしれませんし。

世間もわれわれも、なんであんなに「円朝」なるものを仰ぎ見ているのか。その不思議のわけを知りたいものです。

もひとつ。明治時代の寄席のありさま。

「寄席改良案」といったものが当時、しょっちゅう新聞ダネになっています。

「町内ごとに寄席はあったもんだ」なんて、まるで見てきたようなことを言っている人がいますが、どうなんでしょうか。

あるにはあったようですが、場末の端席と一流どころの定席では同じ「寄席」でくくるにはあまりにも不釣り合いなほどに異空間だったように思えます。それはもちろん、今日、私たちが知る鈴本演芸場や新宿末広亭のようなあしらいの寄席とはおそろしく異なるイメージの空間でもあったようなのです。

寄席で終日待ってても落語家が一人も来なかった、なんていう端席は普通にあったようです。同席する客は褌一丁で上ははだけたかっこうの酒臭い車引きやひげもじゃ博労の連中がごろごろにょろにょろ。床にひっくるかえっては時間をつぶし、あたら品ない世間話に花が咲く町内の集会所のようなものだったのでしょう。

これでは、良家の子女は近づきません。まともな東京人は来ないわけです。

歌舞伎に客を取られてはならじと、寄席や落語家の幹部連中はなんとかせねばとうずうずしていたのが、明治中期頃までの寄席の実態だったようです。

だからなんだ、と言われればそれまでなんですが。

うーん、それでも、やっぱり、どうしてもそういうところを深く知りたい。

たとえば「藪入り」。なんであんなヘンな噺が残っているのだろう。そこには、当時の寄席の雰囲気を知ると見えてくるものがあるんじゃないだろうか、なんて思うわけです。

見たり聴いたり、五感を刺激される体験をしてみると、それをまた違った形でもいちど味わってみたいという欲求にかられるのも人のさが。そんな人種もたまにはいるのです。

これを機会に、おぼろげでかそけき落語研究の世界について、テキストをしっかり読み込むことで、くっきり視界をさだめていこうと思っています。

いまとなっては、われわれには仰ぐべき師匠も依るべとなる先達もいません。だから時間がかかります。それでも、手探りながらも地道に少しずつ前に進んでいきたいと思います。ご叱正、ご助言あれば、すこぶる幸い。お暇な方は、どうぞおつきあいください。

おうぶみいちがでん【応文一雅伝】円朝

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あらすじ

1878年(明治11)春のこと。

旧幕時代に細工所御用達だった芝片門前の花房利一は、妻と死別、26歳になる一人娘のお重と二人暮らしである。

出遊びがちな父。お重は自分の結婚のことを考えてくれない父に常日頃不満を抱いている。

出入りの行商である、せり呉服屋の槙木巳之助が大店の子息で男振りもよいところから、お重は妻にしてもらおうかと誘惑する。

「人のいない所で話がしたい」と巳之助に持ちかけたところ、巳之助は知人で油絵師、応文一雅の下宿を借りることとなった。

愛宕下の木造三階。一雅の下宿で逢い引きする手はずとなった。

早めに行ったお重は、部屋にあった葡萄酒でほろ酔い気分となり、その勢いで、まだ見ぬ一雅あての謝辞を墨で壁に落書きして帰った。

二度目の逢い引き。

またも先に来てしまったお重は、一雅の机の中をのぞき見し、一雅あての許婚者からの手紙を読んだり、机にあった女性ものの指輪をはめたり。

一雅という人物の人となりに想像をめぐらす。一雅への興味以上の思いをいっそう募らせていった。

遅れてやってきた巳之助に「もう逢わないことにしましょう」と言って翻弄する。

帰宅して後、自分の指輪を一雅の部屋に置き忘れたのに気づいたお重は、はめたまま帰ってしまった指輪と自分のものとを取り換えてくれるよう、巳之助に頼み込む。

一雅に会いたい思いが募ったお重は、神谷縫に「一雅に肖像を描いてもらいなさい」と説得する。

お縫は、お重の土地を借りる借地人であり、お重の学校朋輩でもある。今年20歳になる。

お縫は叔父の神谷幸治と頼みに行き、一雅の下宿に数回通うことになった。

その後、お重は、「絵を頼みたい友人がいる」との手紙を書いて、お縫に出させる。真に受けた一雅はお重の家を訪れた。お重の指輪を見るや、巳之助の相手と知って腹を立てたまま帰る。

お重は策を練った。お縫に指輪を貸す約束をし、一雅を招くことに。

一雅の面前で、お重はお縫に指輪を返すお芝居をするが、それを見た一雅は、巳之助の相手がお縫だったかと驚く。

東京の人気の悪さに愛想の尽きた一雅。郷里の土浦に帰った。一雅から、巳之助との関係を記した謂れなき誹謗の手紙がお縫に届く。

お重の策略に引っかかったと知ったお縫は、叔父の神谷幸治に返信を書いてもらう。許嫁者が亡くなった一雅は上京し、再度同じ下宿を借りた。

お縫と幸治といっしょに花房家を訪れた一雅は、お重を責めたてた。

居合わせた花房利一は幸治とは昔からの知り合い。

幸治は「おまえが娘の聟を見つけようともせずに遊び歩っているからだ」と意見する。巳之助の父親で金貸しの四郎兵衛が、じつはもとの高木金作と知った幸治は、かつて金三千両を貸したことを語り、後日、四郎兵衛を訪ねる。

槙木四郎兵衛のもとを訪ねていった「神幸」こと神谷幸治は「貸した、借りていない」「訴える、訴えよ」とのやり取りの後、判証文もなく、たとえあったとしても昔貸した金はあきらめるが、その代わり、どこで逢っても拳骨一個うたれても苦情は言わないとの証文を「洒落だ」と言いつつもらうことになった。

その後、幸治は、銀座でも、横浜でも、四郎兵衛を見かけるたびに頭を殴るのだった。

一雅は、いったん故郷に戻ったが油絵の依頼人もなく、再度上京するが、困窮していた。

すると、一雅のもとに、使いを介して油絵の注文が続く。ある時、池上まで参詣するので「先生も図取りかたがたお出でください」との注文。

一雅が池上に向かうと、お高祖頭巾の女がいた。合乗の車で家まで送られ、金を渡された。翌日、その女から恋文が届いた。女の正体はお重だった。一雅はそこで初めて気づいた。

一雅は部屋の壁の落書を見るたびに、お重をいとう気持ちが強くなってきた。一雅は土浦に帰る。母が亡くなり葬儀を済ます。その後、上京したのは明治十二年九月十三日であった。

神谷幸治は墓参で、小石川全生庵を訪れた。

住職と話をしていると、出家志望の女がやってきた。幸治は隣の間に移される。住職は「あなたのような美しい人には道心は通じません」と言って、了然尼の故事を聴かせる。女はあきらめて立ち去った。

帰り際、幸治が寺の井戸に飛び込もうとしていた女を助けた。出家志望の女で、お重だった。

お重は、お縫と一雅、廃嫡となった巳之助への詫び言を述べた。

巳之助と添う気があるならと、神谷幸治は一計を案じ、お重に書き置きをしたためさせた。四郎兵衛を訪ねた幸治は、書き置きを見せた。

四郎兵衛が巳之助の廃嫡を許してお重と結ばせるなら、先の証文は返し、お縫と一雅とを夫婦にしてやりたい、と言う。

得心する四郎兵衛。幸治に金を返して仲人を頼んだ。

巳之助とお重、一雅とお縫、二組が婚礼を挙げた。

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しりたい

了然尼

りょうねんに。そういう名前の尼さんが、江戸時代にいたそうです。有名な故事が伝わっています。以下の通り。

 了然尼は正保3年(1646)に葛山長次郎の娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京の泉涌寺前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌、書に優れたふさは宮中の東福門院に仕え、宿木と称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆と結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪、名を了然元総尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁和尚に入門を懇請したが、美貌のゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮の偈(漢詩)を賦し、和歌「いける世に すててやく身や うからまし 終の薪と おもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病に臥すようになり、天和2年(1682)7月3日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま入寂した。4年後、47歳で上落合村に泰雲寺を創建。正徳元年(1711)7月3日、白翁道泰和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は2か月後の9月18日66歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌が安置され、寺宝として朱塗の牡丹模様のある飯櫃、葵の紋が画かれた杓子、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持があった。そして、宝暦12年(1762)3月、十代将軍家治のこのあたりへの鷹狩りに御膳所となり、以後しばしば御膳所になったという。明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台3丁目の瑞聖寺に併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。寺の門および額「泰 雲」は現在目黒区下目黒3丁目の海福寺にあり、特に四脚門は目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺がりっぱな寺であったことがわかる。
 では泰雲寺は上落合のどのあたりにあったのか。所在を示す正確な地図は見つかっていない。そこで『明治四十三年地籍図』(寺域は分譲)を頼りに推定した。戦後、下水処理場が設けられたために八幡通り(下落合駅から早稲田通りへの道))が大幅に西側に寄せられ、旧地形をとどめていないが、上落合1、竜海寺あたりを西北角とし、南は野球場に通じる高架道、東は落合中央公園高台西端にあたり、境内2700坪の3分の2以上が八幡通りと下水処理場になっている。(新宿区教育委員会から引用)

平安時代までの仏教では、仏が救いの対象にしていたのは男でした。しかも、身分のある。どうも、これはヘンだと気づいたのが、鎌倉時代の革新的な立宗者たち。法華経には女性の救済が記されているそうで、男女差別もないといわれています。法華経を唯一の経典としたのが日蓮。日蓮宗は早い時期から女性の救済をうたってました。了然尼も日蓮宗に赴けばよかったのかもしれません。スタートの選択を誤るととんでもないことになる、という教訓でしょうか。

この話は、本人の強い決意を表現しているわけでして、そうなると、落語家を志した青年が何度断られてもめざす師匠の楽屋入り口にかそけくたたずむ風情に似ています。仏門ではよくある話です。身体を傷つけることに軸足があるのではなく、二度と戻らないぞ、という強くて激しい本人の志に軸足があるのです。

となると、慧可が出てきます。 インド僧の達磨を知って尋ねたのですが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、自身のひじを切断してその強い思いを示しました。達磨は入門を許可。これはのちに水墨画での「慧可断臂」という画題となりました。座禅している達磨におのれの切り取った左ひじを見せる絵をどこかで見かけたことはありませんか。それです。 了然尼の故事もこれに似ています。故事は繰り返されます。物語はそんなところから醸成されるのでしょう。

雪舟  慧可断臂 図

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にちれんだいしどうとくばなし【日蓮大士道徳話】円朝

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あらすじ

日蓮の直接の先祖である貫名家の系譜と日蓮の誕生までを描く。

全七回中、最初の二回分は本題には入らない。円朝が自身の身辺を語る。麻布鬼子母神堂の行者、磯村松太郎の手引きで日蓮宗に入信したことを語る。

円朝自身が日蓮宗に改宗した事実を披露するのは、現在残っている作品中、これを見るだけである。

ついで、在家が守るべき「五戒」(殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、妄語戒、飲酒戒)を話題に、仏教の基本の考えを述べる。

立宗して後、「念仏無間」と鎌倉で流行していた念仏の宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)をそしるようす、念仏系がたたく鉦は陰気で法華(日蓮宗系)がたたく太鼓は陽気だ、といった落語でよく聞くたとえ話をまぜて語る。

第三回からは本題「大士系譜及び誕生話」に入る。日蓮の遠祖は藤原鎌足に始まり、鎌足から十二代の藤原共資の代に一族は遠江に移った。

子が次々と夭逝し継嗣がいないことを苦にして、井谷明神に月に三度の願掛けを続けた1010年(寛弘7)、地元の井谷明神境内の橘の木の根方に白い綾のきれに包んで捨てられていた赤子を拾った。

これが日蓮の直接の先祖となる人で、井伊家の祖、共保となる。井桁のそばの橘の大樹に捨てられてあったことから、紋所は「井桁に橘」が定紋となった。日蓮宗の紋所でもある。

共資から五代目の四男が四郎政直が山名郡貫名に移り住んだので貫名姓となる。その後、貫名次郎重忠は岡本次郎の娘花鳥と結婚して一子をもうけたが、まもなく三浦泰村合戦に巻き込まれた。

重忠は安房へ流されて、在地の大野吉清の娘梅菊と結婚した。妙の浦に蓮華が生じ泉が湧出する奇瑞、老翁が手の上に抱いた玉のような子を授ける霊夢などを経て、日蓮が誕生した。

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入信後に

日蓮宗では「8」のつく日をよしとするそうです。円朝が麻布鬼子母神堂の磯村松太郎行者の導きで入信したのは、明治29年(1896)7月28日のことです。その後、10月28日から、日蓮宗の週刊新聞「日宗新報」に連載されたのが、この噺です。一般向けではなく、日蓮宗の信者に向けて円朝がふるってかたった噺ですが、7回で終わってしまいました。日蓮が生まれるところで終わりです。なんとも、いやはや。

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おわかいのすけ【お若伊之助】演目

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円朝全集に載っている、円朝晩年の作品らしいのです。因果な噺です。

別題:一名因果塚の由来 離魂病

あらすじ

日本橋横山町三丁目に、栄屋という生薬屋があった。

だんなはもう亡くなって、お内儀さん一人で店を切り盛りしているが、そこの娘はお若といって、年は十八、近所でも評判の美人。

この娘がある日、一中節を稽古したいと、母親にねだる。

習わせてやりたいが、年ごろの娘だから問題があってはならないとお内儀さんは思案して、に組の初五郎という、店に出入りの鳶頭に相談する。

ちょうど、初五郎が弟同様に世話している、元侍の菅野伊之助というのが、年は若いが人間も堅くて、芸もしっかりしているということなので、それならと鳶頭の世話で、伊之助が毎日稽古に通ってくることになった。

話は決めたものの、そこは母親の本能。

だんだん心配になってくる。

なにしろ堅いといっても芸人で、しかも年は二十六、男っぷりはよし、それが十八の娘と毎日さし向かいでは、猫に鰹節。

ある日、お若の部屋でぷっつり三味線の音が途切れたものだから、お内儀さん、胸騒ぎがしてそっとのぞくと、案の定。

これは放っておけないと、今のうちに仲を割くことにして、すぐに鳶頭を迎えにやり、三十両の手切れ金で伊之助はお払い箱。

それでもまだ心配で、結局、お若は根岸で町道場を開いている、伯父の長尾一角という侍の家に預けられる身となった。

さあ、お若は生木を割かれて、伊之助への思い詰め、とうとう恋煩いになってしまった。

ある日、
「伊之さんにこれきり会えないくらいなら、いっそ死んで……」
と庭に出ようとすると、垣根の向こうに男の影。

ひょっとしたら、と駆け寄ると、まごうことなき恋しい伊之助。

再び、狂恋の火は燃えて、それから毎晩、監視の目を盗んで二人は忍び会う。

そのうち、お若の腹がボテレンになったので、これでは、いやでもバレる。

一角は、ある夜、現場を見つけ、いっそこの場でたたっ斬って、と思ったが、間に鳶頭が入っていることもあり、一応話をと、翌日、初五郎を呼びつける。

話を聞いて初五郎は仰天。

「手切れ金を渡してある以上、二人が忍び会っては妹に義理が立たん、伊之助の素っ首を引っこ抜いて参れ」
とねじこまれ、おっとり刀で家に戻る。

「野郎、さあ、首を出せっ。てめえ、昨夜も行ってたってえじゃねえか。え、はらましちまって、いってえどうするんだ」
「なに言ってるんです。昨夜は鳶頭と吉原じゃないですか」

言われてみれば、確かに覚えがある。

道場に戻って、
「昨夜はどこにいたかはわかってる。なにかの間違いでしょう」
と言ったが、一角、
「おまえを酔いつぶさせておけば、密会するのはわけもない」
と受け付けない。

結局、二人で張り込んでラチを開けることになった。

その夜更け、東叡山寛永寺で打ち出す四ツの鐘がゴーンと響くと、お若の部屋で、なにやら怪しい影が浮かぶ。

いつの間にか、お若がきれいに化粧し、うれしそうに男に寄り添っている。

一角、やにわに種子島に弾丸をこめると、伊之助の胸元めがけてズドーン。

男はその場へ音を立てて倒れる。

お若は気絶した。

駆け寄ってみると、なんとそこには、針のようにびっしりと毛の生えた大狸の死骸。

さてはこいつがお若をたぶらかしていた、と知れたが、気になるのはお若の腹。

月満ちて産んだのが狸の双子で、これを殺して根岸のお行の松の根方に葬ったという、因果塚由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

しりたい

円朝作なのか

別題を「一名因果塚の由来」といい、「円朝全集」(春陽堂)に速記が掲載されていることから、三遊亭円朝作の長編人情噺の発端とみなされてきました。

でも、結末が作品として荒唐無稽すぎて不出来なことと、円朝作と断定できるほかの速記がないことで、誰かが円朝の名を語った偽作ではないかという疑いが、昔からもたれています。六代目三遊亭円生も、「円生全集」の解題で、「私ァどうかと思いますね」と述べています。

しかし、そんなこと言ったら、「円朝作」と伝えられるものには、たとえば「鰍沢」のように、じつは河竹黙阿弥がつくったものとか、条野採菊がこっそりつくった噺を「円朝作」として条野自身が経営する「やまと新聞」に連載した作品とか、いくつもあります。明治期とはいえ、今の時代と違って、作家としての個人がまだ確立していない頃の話です。岩波版の「円朝全集」第11巻には「離魂病」の名で「お若伊之助」が収載されています。白といえなくても、黒ともいえない、なにがしか円朝の脳裏を通過した作品という判断で載っているのでしょう。灰色です。いまのところは、そんなところで肯ずるしかありますまい。

それはともかく、この噺には、このあと続編があって、お若と伊之助が神奈川宿に駆け落ちし、生まれた岩松という男児と、お若が狸に犯されて生んだ男女の双子(原作では殺さず、養子に出したことになっている)のからむ因果噺となります。

ただ、この続編は筋立てとしては残るものの、実際は口演記録は明治以来、まったくありません。

前半は名人連が競演

実際に高座で演じられる前半は、サスペンスに富んで演者の力量しだいで、結構おもしろく聴かせることができるので、円朝の口演記録こそないものの、三代目春風亭柳枝、八代目桂文治、五代目三遊亭円生、六代目三遊亭円生、五代目古今亭志ん生と、明治から昭和、戦後の大看板が手掛けています。

なかでも、五代目円生はこの噺を十八番にし、戦後は六代目円生が継承して磨きをかけ、第一人者でした。

いろいろなやり方

前半の噺のディテール、人名、筋の設定は演者によってかなり異なります。

例えば、古く三代目春風亭柳枝のものは、男嫌いのお若が縁談を苦にしてうつ病になり、それを紛らすために伊之助が雇われることになっています。

お若が預けられた先は実の伯父であるところも、現在演じられる円生のやり方と異なっています。

円朝の速記では、二人が引き離されたくだりから始めています。

六代目円生は、お若の腰がほっそりしているという描写に「幽霊尻の幻尻、ああいうお尻から出るおならはどんな匂いがするか、かいでみようと一週間後をつけた男がいたな」などのくすぐりを用いて、因果噺の古色蒼然とした印象を弱めるよう工夫していました。

根岸、お行の松

根岸、時雨が岡(しぐれがおか=現・台東区根岸四丁目)にあった名松で、そのため別称を「しぐれの松」ともいいます。

「お行(おぎょう)」の名の由来は、上野寛永寺の僧が、この松の下で行(=勤行)をしたことによるようです。

全盛期には周囲が4m、高さが13m余というお化け松で、大正15年(1926)に東京市の天然記念物に指定されましたが、惜しくも二年後の昭和3年(1928)に枯死。戦後の昭和31年(1956)に新たに植樹されました。

現在も健在で、現存は三代目といいます。文化3年(1820)に建立された福生院不動堂の境内にあり、松の隣には、正岡子規(1867-1902)の「薄緑 お行の松は 霞みけり」の句碑があります。

【お若伊之助 古今亭志ん朝

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およぎのいしゃ【泳ぎの医者】演目

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藪医者の処方で娘が死んでしまい。うらまれた医者はなにを思ったか。

別題:畳水練

【あらすじ】

ある村の大農、作右衛門が留守の間に、娘の具合が悪くなったので、作男の太助が、隣に越してきたばかりの山井養仙という医者を呼んできた。

ところがこの先生、腕の方は怪しげだというので、女房は気が進まない。

太助が名人だからと勧めるので、それでは取りあえず診てもらうことにし、病間を通すと、養仙先生、おもむろに脈をとり、薬籠から煎じ薬を取り出して調合すると、
「また翌朝来る」
と言って帰っていく。

さっそく、薬を病人に飲ませると、一服目は気のせいか、効いたように思ったが、二服目でたちまち舌がつり、唇の色が変わって、ブルブルっと震えたのが、この世の名残り。

哀れ、はかなく息は絶えにけり。

あの医者に殺されたと大騒ぎの最中に、ちょうど江戸から主人の作右衛門が戻ってきた。

太助と女房からいきさつを聞いて、さあ怒るまいことか。

見ると、熱のあるところへ劇薬を飲ませたとみえて、娘の体は焼けただれて斑になっている。

「あの医者が娘を焼き殺したんだから、水責めにしてくれべえ」
といきり立ち、太助に娘は全快しましたので、主人から一言お礼を申したい、とだまして連れてくるように言いつける。

なにも知らずに、礼金の勘定をホクホク顔で現れた養仙。

変わり果てた死体を見せられて、びっくり仰天。

そこを作右衛門が胸ぐらつかんで締め上げ、
「こら、よくもハァ、おらの娘おっ殺したな。太助、ぶっぱたけ」

主人の仇とばかり、太助がポカポカポカ。

「荒縄でグルグル巻きにして、川ん中ぶっぽり込めェ」

氷が張った川の中に放り込まれた。

もがいているうち、ブツリと縄が切れたが、あいにく、先生泳ぎを知らない。

溺れながらようやく向こう岸にたどりつくと、先回りした二十人ほどに、またポカポカポカ。

自業自得とはいえ、コブだらけ泥まみれでようやく、ほうほうのていで家にたどりつく。

「こ、これ、せがれ」
「どうなさいました」
「なんでもよろしい。所帯道具を持って早く逃げろ。コレ、なにをしておる」
「はい、名医になりたいと思って、医学を学んでおります」
「なに、医者になるには、泳ぎを先に習え」

底本:初代三遊亭円左

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【しりたい】

元ネタは中国笑話

原話は、中国明代の笑話集『笑府』巻四、方術部の「学游水」です。

「方術部」は、藪医者やエセ易者などを徹底的にやっつけた小咄を集めたもので、毒が効いていて、なかなか笑えるものが多いのですが、「学游水」は、文字通り「泳ぎのけいこ」の意味。

短い小咄ですが、落語の後半とほぼ一致していて、患者を「医療過誤」で殺した藪医者が、怒った遺族に縛られますが、夜中にそっと脱出、川を泳ぎ渡って逃げ帰ります。帰ると、息子が「脈訣」という医書を読んでいたので、「これ、せがれ、医者は読書より、泳ぎの稽古だ」。

読み比べておわかりのとおり、落語は、これにくすぐりを入れ、肉付けしただけです。

円朝「畳水練」

落語への翻案時期などはいっさい不明ですが、「畳水練」の題で、三遊亭円朝が速記を残していて、春陽堂版「円朝全集」(1928年刊)にも掲載されています。もちろん、岩波書店版にも。

演題の「畳水練」は、実際にはまったく役立たない、ムダな練習や勉学の意。

この場合、医者にとって必須のはずの医書の勉強はヤブにとってはむしろまったくの「畳水練」で、医者の見過ぎ世過ぎのためには、非常脱出用の水泳の練習の方がよっぽど実利的だ、という、なんとも逆説的で、痛烈な皮肉を含んでいるわけです。

なにやら、現代の医者にも当てはまりそうなので、シャレになりません。

円朝「雨夜の引窓」

円朝は、この「畳水練」を、「雨夜の引窓」という噺とともに師匠の二代目三遊亭円生(1806-62)から伝えられたと書き残しているので、この噺は創作をよくした、二代目円生の手になる可能性があります。

今回のあらすじは、円朝から直伝で継承した初代三遊亭円左の、「泅(およぎ)の医師」と改題した明治33年(1900)の速記を参照しましたが、両者にほとんど違いはありません。明治33年は円朝の没年でもあります。円左も、その後ほとんど演じたことはなかったようです。

それきり消えると思いきや、大正初期に初代柳家小せんが発掘して演じ、以来、再び埋もれていたものを円窓が「再」復活しました。

山井養仙

やまいようせん。「甘井羊羹」とともに、典型的な落語世界の藪医者名です。むろんダジャレで、「病よう治せん」なので、上方からきたものでしょう。「甘井羊羹」の方は、藪医者のさじ加減が羊羹のように甘いこととあまりにお呼びがかからないので、往診用の黒の羽織が、タンス焼けして羊羹色に変色している、という嘲笑を掛けたものです。

江戸時代は、事実上、インチキ医者は野放し状態。もちろん、免許や資格などはなく、当人が医者を名乗れば、それで通ってしまう、ものすごさでした。医師が数年の猶予期間の後、免許制になったのはやっと明治9年(1876)1月のことです。

ヤブの反対に、明治を代表する名医には、初代陸軍軍医総監に任命された松本順を始め、近代日本の衛生学の草分け、長與専斎、大隈重信の右足切断手術で知られる佐藤進、多くの政府高官や、明治の両名優、団菊の侍医を務めた橋本綱常(1909年没)などが挙げられます。円左の速記中には佐藤、橋本の名があり、いかにも時代を感じさせます。

円左のくすぐり

●冒頭で、お百姓が寄ってたかって「江戸の名医」の噂

「先だってほかいが難産で、こう赤子が手エ出した。すると肩がつかえて、どうしても出ねえ。その医者どんが、袂から銭ィ出して、赤子に握らしたア…すると、赤子が手エ引っ込まして、子返り(=逆子)して産まれただ。出てくると、先生の前に手をついてお辞儀ィしただ」

江戸の小咄でも医者を風刺したものはそれこそ掃いて捨てるほどあります。医者は信用ならない職業だったようです。

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あんざん【安産】演目

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ここでは熊五郎、とんでもない粗忽者が登場する、短いおはなしです。

【あらすじ】

粗忽者の熊五郎。

湯に行ったら尻がかゆいのでかこうとして、隣の金さんの尻をつねってけんかになり、金さんがとっくに出てしまっているのに、まだあやまっていたというほど。

それが、かみさんの臨月ともなると、ふだんにも増してソワソワ落ちつかない。

いよいよ産気づき、八十歳の産婆を頼んだが、産婆は潮時を心得ていて、なかなかやってこないのにじれて、湯を沸かすのに薪の代わりにゴボウをくべてしまった。

やっと婆さんが到着。

ご利益があるからと、塩釜さまの安産のお札、梅の宮さまのお砂、水天宮さまの戌の日戌の月戌の日のお札から、どういうわけか寄席の半札まで、やたらと札ばかり並べる。

当人も、ふだんは神さまに手のひとつも合わせたことがないのに、この時ばかりは
「南無天照皇太神宮さま、南無塩釜大明神、水天宮さま、粂野平内濡仏、地蔵菩薩観音さま、カカアが安産しましたら、お礼に金無垢の鳥居一本ずつ納めます」

これを聞いて、うなっているはずのかみさんが驚いた。

「この貧乏所帯で額一つ上げられないのに」
と文句を言うと
「心配するねえ。神さまだって金無垢の鳥居と聞きゃあ、面食らってご利益を授けらあ。出るものが出ちまえば、後は尻食らえ観音だ」

その甲斐あってか、赤ん坊が無事誕生。

「お喜びなさい。男の子ですよ」
「そいつは豪儀だ。ひとつ歩かしてみせてくれ」

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【しりたい】

塩釜大明神

宮城県塩釜市の塩竃神社。航海安全・安産の神です。

梅の宮さま

京都市右京区の梅宮神社。安産の神。お砂はお土砂のことで、加持祈祷で清めた砂。生命を蘇らせる力があるとされます。

久米平内濡れ仏

三代将軍家光の頃、首斬り役人を務めていた(一説には辻斬り)久米(粂野)平内(?-1683)は、のち出家して万傘一擲居士と称し、浅草の金剛院に入りましたが、鈴木正三に師事して仏道に入りました。罪業障滅のため、往来に石像を立て、諸人に踏みつけてもらいたいと遺言したので、始めは浅草駒形堂前、のちに浅草寺境内に像を立て、平内堂としました。踏みつけと文(恋文)付けを掛け、文を奉納して縁結びを祈願する男女が後を絶たなかったとか。濡れ仏は、そのそばにある雨ざらしの観音、勢至両菩薩像です。

久米平内は兵藤長守という名の武道者で、肥後(熊本県)の生まれながら、三河挙母藩で武道師範をつとめ、そのとに、赤坂の道場をもち、どうしたことか、千人斬りの願掛けで辻斬りに及んだ輩でした。明治大正期に大阪から発信された立川文庫に登場して人気を博しました。その前には、曲亭馬琴が『巷談坡堤庵』という敵討ちの小説に登場させています。大正昭和の戦前期には9本の映画にもなり、三代目小金井蘆洲も講談『粂平内』(大正9年=1918、博文館)を残しています。三代目蘆洲は志ん生が5か月ほど蘆風の名で門下にいたことでも知られています。

尻食らえ観音

困った時は観音を頼み、窮地を脱すると「尻食らえ」と恩を仇で返す意味の俗語。ふつう「尻を食らえ!」と言う場合は、「糞食らえ」と同義で、痛烈な罵言、捨てゼリフです。司馬遼太郎が「週刊読売」に小説『尻啖え孫市』を連載すると、このスラングがいっときはやったことがありました。昭和38年(1963)7月-39年(1964)7月の頃のことです。一音違って「しりくらい観音」となると、陰間の尻、もしくはお女郎の尻の意味となります。

日蓮大士道徳話

三遊亭円朝の晩年の作品に「日蓮大士道徳話」というのがあります。明治29年(1896)10月、日蓮宗の週刊新聞に7回で連載したもの。

9月には麻布鬼子母神(日蓮宗の道場でした)の磯村松太郎行者の導きでで日蓮宗の信者となったことから、日蓮宗側が宣伝の意味も込めて、円朝による日蓮上人の一代記を語ってもらおう、という企画だったようです。当然、長尺の大作の予定だったのでしょうが、結局は7回で終わってしまいました。なんとも消化不良です。岩波版「円朝全集」第11巻に初めて収録されてました。

話は日蓮の遠祖、中臣鎌足に始まって、浜松井伊谷の貫名氏となり、鎌倉期には安房に移り住み、貫名次郎重忠が土地の大野氏の娘梅菊との間には子を成し、それが長じて日蓮となった、という流れですが、第7回では誕生で、その後は残念ながら紙資料がありません。

その誕生場面には、「安産」に似た描写があります。円朝は落語的な滑稽な描写にしていました。

【語の読みと注】
粗忽者 そこつもの
久米平内 くめのへいない
巷談坡堤庵 こうだんつつみのいほ
挙母藩 ころもはん

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ぶんしちもっとい【文七元結】演目

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円朝がこしらえた名作ではありますが、演者によってだいぶ違いますね。

別題:恩愛五十両

【あらすじ】

本所達磨横町に住む、左官の長兵衛。

腕はいいが博打に凝り、仕事もろくにしないので家計は火の車。

博打の借金が五十両にもなり、年も越せないありさまだ。

今日も細川屋敷の開帳ですってんてん、法被一枚で帰ってみると、今年十七になる娘のお久がいなくなったと、後添いの女房お兼が騒いでいる。

成さぬ仲だが、
「あんな気立ての優しい子はない、おまえさんが博打で負けた腹いせにあたしをぶつのを見るのが辛いと、身でも投げたら、あたしも生きていない」
と、泣くのを持て余ましていると、出入り先の吉原、佐野槌から使いの者。

お久を昨夜から預かっているから、すぐ来るようにと女将さんが呼んでいると、いう。

あわてて駆けつけてみると、女将さんの傍らでお久が泣いている。

「親方、おまえ、この子に小言なんか言うと罰が当たるよ」

実はお久、自分が身を売って金をこしらえ、おやじの博打狂いを止めさせたいと、涙ながらに頼んだという。

「こんないい子を持ちながら、なんでおまえ、博打などするんだ」
と、女将さんにきつく意見され、長兵衛、つくづく迷いから覚めた。

お久の孝心に対してだと、女将さんは五十両貸してくれ、来年の大晦日までに返すように言う。

それまでお久を預り、客を取らせずに、自分の身の回りを手伝ってもらうが、一日でも期限が過ぎたら
「あたしも鬼になるよ」

「勤めをさせたら悪い病気をもらって死んでしまうかもしれない、娘がかわいいなら、一生懸命稼いで請け出しにおいで」
と言い渡されて長兵衛、必ず迎えに来るとお久に詫びる。

五十両を懐に吾妻橋に来かかった時、若い男が今しも身投げしようとするのを見た長兵衛、抱きとめて事情を聞くと、男は日本橋横山町三丁目の鼈甲問屋近江屋卯兵衛の手代、文七。

橋を渡った小梅の水戸さまで掛け取りに行き、受け取った五十両をすられ、申し訳なさの身投げだと、いう。

「どうしても金がなければ死ぬよりない」
と聞かないので、長兵衛は迷いに迷った挙げ句、これこれで娘が身売りした大事の金だが、命には変えられないと、断る文七に金包みをたたきつけてしまう。

一方、近江屋では、文七がいつまでも帰らないので大騒ぎ。

実は、碁好きの文七が殿さまの相手をするうち、うっかり金を碁盤の下に忘れていったと、さきほど屋敷から届けられたばかり。

夢うつつでやっと帰った文七が五十両をさし出したので、この金はどこから持ってきたと番頭が問い詰めると、文七は仰天して、吾妻橋の一件を残らず話した。

だんなは
「世の中には親切な方もいるものだ」
と感心、長兵衛が文七に話した吉原佐野槌という屋号を頼りに、さっそくお久を請け出し、翌日、文七を連れて達磨横町の長兵衛宅を訪ねると、昨日からずっと夫婦げんかのしっ放し。

割って入っただんなが事情を話して厚く礼をのべ、五十両を返したところに、駕籠に乗せられたお久が帰ってくる。

夢かと喜ぶ親子三人に、近江屋は、文七は身寄り頼りのない身、ぜひ親方のように心の直ぐな方に親代わりになっていただきたいと、これから文七とお久をめあわせ、二人して麹町貝坂に元結屋の店を開いたという、「文七元結」由来の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

円朝の新聞連載

中国の文献(詳細不明)をもとに、三遊亭円朝が作ったとされます。

実際には、それ以前に同題の噺が存在し、円朝が寄席でその噺を聴いて、自分の工夫を入れて人情噺に仕立て直したのでは、というのが、八代目林家正蔵(彦六)の説です。

初演の時期は不明ですが、明治22年(1899)4月30日から5月9日まで10回に分けて円朝の口演速記が「やまと新聞」に連載され、翌年6月、速記本が金桜堂から出版されています。

高弟の四代目円生が継承して得意にし、その他、明治40年(1907)の速記が残る初代三遊亭円右、四代目橘家円喬、五代目円生など、円朝門につながる明治、大正、昭和初期の名人連が競って演じました。

巨匠が競演

四代目円生から弟弟子の三遊一朝(1930年没)が教わり、それを、戦後の落語界を担った八代目林家正蔵(彦六)、六代目円生に伝えました。この二人が戦後のこの噺の双璧でしたが、五代目古今亭志ん生もよく演じ、志ん生は前半の部分を省略していきなり吾妻橋の出会いから始めています。次の世代の円楽、談志、志ん朝ももちろん得意にしていました。

身売りする遊女屋、文七の奉公先は、演者によって異なり、オリジナルの円朝の速記では、それぞれ吉原・江戸町一丁目の角海老、白銀町の近江屋卯兵衛ですが、五代目円生以来、六代目円生、八代目正蔵を経て、現在では、佐野槌、横山町三丁目が普通です。

五代目古今亭志ん生だけは奉公先の鼈甲問屋を、石町二丁目の近惣としていました。

五代目円生(1940年没)が、全体の眼目とされる吾妻橋での長兵衛の心理描写を細かくし、何度も「本当にだめかい?」と繰り返しながら、紙包みを出したり引っ込めたりするしぐさを工夫しました。

家元の見解

いくら義侠心に富んでいても、娘を売った金までくれてやるのは非現実的だという意見について、立川談志は、「つまり長兵衛は身投げにかかわりあったことの始末に困って、五十両の金を若者にやっちまっただけのことなのだ。だから本人にとっては美談でもなんでもない、さして善いことをしたという気もない。どうにもならなくなってその場しのぎの方法でやった、ともいえる。いや、きっとそうだ」(『新釈落語咄』より)と述べています。

文七元結

水引元結ともいいました。元結は、マゲのもとどりを結ぶ紙紐で、紙こよりを糊や胡粉などで練りかためて作ります。江戸時代には、公家は紫、将軍は赤、町人は白と、身分によって厳格に色が区別されていて、万一、町人風情が赤い元結など結んでいようものなら、その元結ごと首が飛んだわけです。

文七元結は、白く艶のある和紙で作ったもので、名の由来は、文七という者が発明したからとも、大坂の侠客、雁金文七に因むともいわれますが、はっきりしません。

麹町貝坂

千代田区平河町一丁目から二丁目に登る坂です。元結屋の所在は、現在では六代目円生にならってほとんどの演者が貝坂にしますが、古くは、円朝では麹町六丁目、初代円右では麹町隼町と、かなり異同がありました。

歌舞伎でも上演

歌舞伎にも脚色され、初演は明治24年(1891)2月、大阪・中座(勝歌女助作)ですが、長兵衛役は明治35年(1902)9月、五代目尾上菊五郎の歌舞伎座初演以来、六代目菊五郎、さらに二代目尾上松緑、十七代目中村勘三郎、現七代目菊五郎、中村勘九郎(十八代目勘三郎)と受け継がれ、「人情噺文七元結」として代表的な人気世話狂言になっています。六代目菊五郎は、左官はふだんの仕事のくせで、狭い塀の上を歩くように平均を取りながらつま先で歩く、という口伝を残しました。

映画化7回

舞台(歌舞伎)化に触れましたので、ついでに映画も。この噺は、妙に日本人の琴線をくすぐるようです。大正9年(1920)帝キネ製作を振り出しに、サイレント時代を含め、過去なんと映画化7回も。落語の単独演目の映画化回数としては、たぶん最多でしょう。ただし、戦後は昭和31年(1956)の松竹ただ1回です。そのうち、6本目の昭和11年(1936)、松竹製作版では、主演が市川右太衛門。戦後の同じく松竹版では、文七が大谷友右衛門。今や女形の最高峰にして現役最長老、四代目中村雀右衛門の若き日ですね。長兵衛役は、なんと花菱アチャコ。しかし、大阪弁の長兵衛というのも、なんだかねえ。

【語の読みと注】
本所達磨横町 ほんじょだるまよこちょう
法被 はっぴ
佐野槌 さのづち
女将 おかみ
吾妻橋 あづまばし
鼈甲 べっこう
駕籠 かご
麹町貝坂 こうじまちかいざか
元結 もっとい
雁金文七 かりがねぶんしち

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ひとりさかもり【一人酒盛】演目

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上方噺。酒好きにはこたえられません。

別題:一人酒

【あらすじ】

これから仕事に出かけようという時に、急用だからとのみ友達の熊五郎に呼び出された留公。

無理して来てみると、たった今、上方に行っていた知人から、土産に酒をもらったから、二人でのみたいと、誘ったという。

造り酒屋から直接、一升だけ分けてもらった酒の元(原酒)で、めったに手に入らない、いい酒とか。

本当なら全部あげたいが、ほかに一軒世話になった家があって、そこへ半分持っていかなければならないから、五合で勘弁してくれと、置いていったという。

「のみ友達は大勢いるが、留さんは一番気が合うから呼んだ」
とお世辞を言われ、酒に目がなく、お人よしの留公はニコニコ。

いい酒がのめると聞いて、仕事などどうでもよくなった。

熊が、炭火を起こして燗をつけてくれの、魚屋に行って刺し身を見つくろってこいのと、自分をアゴで使い始めたのもいっこうに気にせず、台所の板をひっぺがして漬け物を出し、また燗をつけ、のみたい一心でかいがいしく動きまわる。

今か今かと、「のめ」と言ってくれるのを待っているのだが、熊は一人でガブガブのみ、勝手なご託ばかり並べ立てるだけ。

ついにがまんしかねて、留が
「うまいかい?」
とせいいっぱいのカマをかけても、グイグイ一息にのみ干してから
「のんでるときに、なにか言っちゃいけねえ」
と、熊の耳にも入らない。

「いい酒だね、うまくって、酔い心地がよくって、醒めぎわがいい。七十五日どころか、三年ぐらい生き延びちゃった。おい、もう一度燗をつけてくれ」

「いっしょにのみてえのは留さんだけだ」
と繰り返すので、ついまたつけてやってしまう。

そのうち刺し身をムシャムシャ食い出し、これも独り占め。

そろそろ完全にベロベロになってきて、なにかうたえと、からむからぶつくさ言うと、
「なに、もそもそ言ってるんだよォ。酒のんだら、のんだ心持ちになんなきゃいけないよォ」

留、カッカしてきて燗番を忘れ、酒が沸騰。

熊、
「どじ助のまぬけ、こんなに煮っくりかえしちまって」
と毒づきながら、酒をフウフウ吹きながらのむ。

そこで五合はおつもり。

「無冠の太夫おつもり」
などと一人駄洒落で悦に入り
「一人でのんじゃもったいないから、おめえを呼んでやったんだ。ありがたく思え。どうだ、うめえだろう」
などと言うに及び、留の怒りが爆発。

「なにォ言いやがんでえ、ベラボウめ。うめえもまずいもあるかい。忙しいのに呼びに来やがって、てめえ一人で食らいやがって。てめえなんぞとは、もう生涯付き合わねえや。つらあ見やがればか野郎ッ」

畳をけり立てて、帰ってしまう。

隣のかみさんがのぞいて
「ちょいと熊さん、どうしたんだよ。けんかでもしたのかい」
「うっちゃっときなよ。あいつは酒癖が悪いんだ」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

六代目松鶴の酒乱噺

上方の噺で、酒のみの地を生かした六代目松鶴の十八番でした。

東京でこの噺を得意にした六代目三遊亭円生がどちらかといえば、根は好人物という人物造形だったのに対し、松鶴の主人公は酒乱そのものでした。

大阪では、もともと、紙切りや記憶術などの珍芸を売り物にしていた桂南天(1972年、83歳で没)が得意にし、そのやり方は桂米朝が直伝で継承していました。

南天や米朝のでは、主人公は引っ越してきたばかりの独り者で、訪ねてきた友達に荷物の後片付けまですっかりやらせ、その後「一人酒盛」のくだりに入ります。

円朝の名人芸

『明治世相百話』には、明治28年(1895)秋、すでに引退していた三遊亭円朝が、浜町の日本橋倶楽部で催された「円朝会」に出席、トリにこの「一人酒盛」を演じたことが記されています。

著者は山本笑月(1873-1936)。明治を代表するジャーナリストの一人。浅草花やしきの創設者、山本金蔵の長男で、長谷川如是閑や大野静方は実弟です。条野採菊が経営するやまと新聞から朝日新聞に移り、文芸部長、社会部長などをつとめました。病を得て退社した後は、療養生活と江戸明治文化の研究に励みました。『明治世相百話』は昭和58年(1983)に中公文庫から復刊されました。今では絶版ですが、古本でまだ入手できます。この本には円朝の意外な面が活写されてあります。

山本笑月によると、円朝は、「被害者」の男を、後半まったく無言とし、顔つきや態度だけで高まる怒りを表現、円朝の顔色が青くなって、真実怒っているように見えた、ということです。名人芸のきわみでしょうか。

東京では円朝の高弟、二代目三遊亭円橘が最も得意にしました。六代目円生は、子供のころ円橘の高座を聴いた記憶と、三代目蝶花楼馬楽の短い速記をもとに構成したそうです。

七十五日どころか

七十五日は「ほんのわずかな期間」という意味。「人のうわさも七十五日」「初物を食えば七十五日生き延びる」などと、江戸ではよく「七十五日」を使いますが、この数字の根拠は不明です。六代目円生も「よくわかりません」と言っています。

この噺に関しては、酒はすぐ醒めるから、命が延びてもほんのわずか、と逆説的な意味を含むのかもしれません。

おつもり

正確には「積もりっこ」で、杯を納めることです。酒席で、その酌を最後に終わりにするときに「おつもりで」と使います。ここではさらに、『平家物語』の登場人物、無官太夫の平敦盛を掛けたダジャレでもあります。

【語の読みと注】
留公 とめこう
ご託 ごたく:ご託宣の略。くどくど。「ごた」とも
平敦盛 たいらのあつもり

円朝作品の索引

【RIZAP COOK】

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

三遊亭円朝の全作品を解説します。

あ行

あくび指南 →欠指南

欠指南(商法のいろいろ十)

朝顔

朝顔買い

朝顔屋(商法のいろいろ四)

浅草ひしや引札

浅草氷月庵引札

朝寐坊

熱海土産温泉利書

穴どろ

甘酒屋(何も商法二)

雨宿り →三題噺 雨宿り・韓信股潜・近江八景

雨夜の引窓

有馬土産千代の若松

粟田口霑笛竹

安中草三伝 後開榛名の梅が香

一対の子供(和洋小噺)

井戸掘(商法のいろいろ二)

田舎娘

田舎者

田舎者の観音参り

委任状

戌の歳

井上馨・円朝寄せ書き

猪の夫婦

入れ髪 →落語〔星野屋〕

因果塚の由来 →離魂病

植木屋芝居

植木屋曽我

上野空也堂引札

浮かれの屑選り →紙屑のよりこ

雨後の残月

牛車

謡好き →三題噺 謡好き・しやくり・剣菱

自惚

乳母の女郎買 →三題ばなし 盲人の洋行・地獄の飛脚・乳母の女郎買

梅 →三題ばなし 梅・寒中の雨・狸の腹

梅若七兵衛

売そめ

雲中観音の図(円朝筆)

英国孝子ジョージスミス之伝

英国女王イリザベス伝

蝦夷訛

蝦夷錦古郷の家土産

閲・校閲

円花風(三遊春の風俗)

円橘風(三遊春の風俗)

円喬風(三遊春の風俗)

円玉風(三遊春の風俗)

縁きり榎

演劇雑話

円好風(三遊春の風俗)

円三郎風(三遊春の風俗)

円雀風(三遊春の風俗)

円生風(三遊春の風俗)

円太郎(父)と寿照尼(母すみ)の影絵と辞世

円太郎風(三遊春の風俗)

円朝憲法

円朝自筆の領収書

円朝手記〔塩原太助伝・真景累ケ淵・西洋人情咄生人埋ポルリードエライフ〕

円朝の得意ばなし →三題噺 達摩の脚気・桜に鶯・円朝の得意ばなし

円朝筆・雲中観音の図

円朝筆・踊塚の題字

円朝筆・達磨

円朝筆・達磨(見性成仏)

円朝筆・花

円朝筆・払子

円朝筆幽霊画

円朝風(三遊春の風俗)

円朝落語集

縁日の駝槖師(商法のいろいろ八)

円遊風(三遊春の風俗)

扇拍子

欧洲小説 黄薔薇

応文一雅伝 おうぶみいちがでん

近江八景 →三題噺 雨宿り・韓信股潜・近江八景

大磯虎の閏衣 →三題噺 釈迦如来の袈裟・道鏡の褌・大磯虎の閨衣

大岡政談 さぐり札

荻江の伝 →月に謡荻江の一節

荻江露友の伝(点取り) →元祖荻江露友の伝(点取り)

荻の若葉

後開榛名の梅が香

お駒丈八 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

阿三の森(怪談阿三の森)

唖の釣

落語(おとしばなし)暦・腎張りの下女・交情の睦い御夫婦

落語(おとしばなし)三月のお節句・外妾・佃島

お初徳兵衛 →堀の青柳

親子酒 →親子の生酔ひ

親子の情

親子の聾

親子の生酔ひ

泳の医者

音楽風呂

温故知新 →温故知新(またあうはる)

女子の梅見 →三題ばなし 貴紳の漫歩・壮士の洋行・女子の梅見

女の子別れ →親子の情

か行

開化一口ばなし

怪談阿三の森

怪談乳房榎

怪談牡丹燈籠

怪談牡丹燈籠(点取り)

開店

鏡ケ池操松影

書付

垣の山吹 →三題噺 達摩の遠足・垣の山吹・茶席の放屁

掛取万歳

外妾(かこいもの) →落語(おとしはなし) 三月のお節句・外妾・佃島

累が淵(真景累が淵)

鍬沢

鰍沢二席目

火事息子

華族のお医者(何も商法八)

六敵討霞初嶋

敵討義侠の惣七

敵討札所の霊験

刀剣商(商法のいろいろ七)

火中の連華

かつぎ屋(何も商法五)

金の働定を仕ずに来た(和洋小噺(洋))

紙屑のよりこ(何も商法十)

かり枕

漢学先生 →即席三題噺 漢学先生・宵暗・なまけもの

寒食 →三題噺 寒食・書生・芳野山

韓信股潜 →三題噺 雨宿り・韓信股潜・近江八景

元祖荻江露友之伝(点取り)

寒中の雨 →三題ばなし 梅・寒中の雨・狸の腹

義侠仇討残る月影

菊模様皿山奇談

菊文様皿山奇談(草双紙)

〔紀行〕

貴紳の漫歩 →三題ばなし 貴紳の漫歩・壮士の洋行・女子の梅見

記念のいしぶみ

狂歌

狂言の買冠

侠骨今に馨く賊胆猶ほ暒し松の操美人の生埋

清元の出語り洋服の道行 →三題ばなしランプから幽霊・やまと新聞大当り・清元の出語り洋服の道行

霧隠伊香保湯煙

金魚の芸妓           

金朝風(三遊春の風俗)

首ったけ

首屋(商法のいろいろ一)

首屋にチヨツキ屋(和洋小噺)

熊の皮 →八百屋

芸人談叢 三遊亭円朝

今朝春三ツ組盞

下女の心意気

剣菱 →三題噺 謡好き・しやくり・剣菱源兵衛玉 →捩金屋捩兵衛

恋病 →三題噺 春雨・恋病・山椒の摺古木

〔口演による文芸〕

孝行酒屋

黄薔薇

〔上野下野道の記〕沼田の道の記・塩原多助別

高麗の茶碗

故円朝の遺言状と本葬

黄金餅(何も商法十二)

心の眼 →心眼

乞食 →大仏餅

越路太夫 →三題ばなし 越路太夫・比丘尼・蕃椒

小雀長吉

御前汁粉 →士族の商法

小僧の心意気

小鼓

古道具商(商法のいろいろ十四)

子は鎹 →親子の情

こび茶

駒長

暦 →落語(おとしばなし)暦・腎張りの下女・交情のの睦い御夫婦

暦ずき

五料残し →落語〔星野屋〕

子別れ →親子の情

権助の心意気

さ行

魚の話

桜に鶯 →三題噺 達摩の脚気・桜に鶯・円朝の得意ばなし

さぐり札

〔雑纂〕

廓雀小稲出来秋・序文

猿丸、猿丸大夫 →道中の馬子

三月のお節句 →落語(おとしばなし)三月のお節句・外妾・佃島

山椒の摺古木 →三題噺 春雨・恋病・山椒の摺古木

三題噺 雨宿り・韓信股潜・近江八景

三題噺 謡好き・しやくり・剣菱

三題ばなし 梅・寒中の雨・狸の腹

三題噺 漢学先生・宵暗・なまけもの

三題噺 寒食・書生・芳野山

三題ばなし 貴紳の漫歩・壮士の洋行・女子の梅見

三題ばなし 越路太夫・比丘尼・蕃椒

三題噺 釈迦如来の袈裟・道鏡の褌・大磯虎の閨衣

三題噺 白木屋お駒・駿河細工。東海道五十三次

三題咄新作双六

三題噺 大仏餅・袴着の祝・乞食 →大仏餅

三題噺 達摩の遠足・垣の山吹・茶席の放屁

三題噺 達摩の脚気・桜に鷺・円朝の得意ばなし

三題噺 春雨・恋病・山椒の摺古木

三題ばなし 盲人の洋行・地獄の飛脚・乳母の女郎買

三題ばなし 八百屋お七・東方朔・ソコラでゲセウ

三題話 遊女の無心・大黒天・彫物師

三題ばなし ランプから幽霊・やまと新聞大当り・清元の出語り洋服の道行

三人起請

三百植木 →縁日の駝槖師

三遊亭円朝(談話)

三遊屋引札

三両残し →落語(星野屋〕

塩原多助(紀行) →〔上野下野道の記〕沼田の道の記・塩原多助

塩原多助一代記

三塩原多助後日譚

塩原多助旅日記

塩原太助伝(点取り) →円朝手記

塩原の怨霊

地獄の飛脚 →三題ばなし 盲人の洋行・地獄の飛脚・乳母の女郎買

地獄廻り

詩好の王様と棒縛の旅人(和洋小噺)

士族の商法(何も商法九)

七福神詣

七福神参り

死なゝけりや癒ら無い(和洋小噺(和))

死神(名づけ親)

しの字嫌い →かつぎ屋

芝浜の革財布

渋酒

治部太夫(和洋小噺(和))

始末の極意

釈迦如来の袈裟 →三題噺 釈迦如来の袈裟・道鏡の褌・大磯虎の関衣

しやくり →三題噺 謡好き・しやくり・剣菱

正月丁稚 →かつぎ屋

上州沼田 下新田日記

樟脳玉 →捩金屋捩兵衛

商法のいろいろ

情話名人(三遊亭円朝と語る)

書簡

書生 →三題噺寒食・書生・芳野山

序文

汁粉屋 →士族の商法

素人汁粉 →士族の商法

白木屋 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

城木屋 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

白木屋お駒 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

しわいや

吝薔家(しわんぼう)

心眼

真景累が淵

真景累ケ淵(覚書) →円朝手記

心中時雨傘

新朝風(三遊春の風俗)

新富町塩瀬引札

腎張りの下女 →落語(おとしばなし)暦・腎張りの下女・交情の睦い御夫婦

新聞錦絵

信用借金(和洋小噺(洋))

粋狂連興笑連・一恵斎芳幾画 三題咄新作双六

杉酒屋(何も商法一)

駿河細工 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

政談月の鏡

西洋人情噺(点取り)

西洋人情咄 生人埋ボルリードエライフ(覚書) →円朝手記

西洋人情話 英国孝子ジヨージスミス之伝

西洋の丁稚(和洋小噺)

〔西洋落語〕

性和善 →初商法

世辞屋

世辞屋(商法のいろいろ十二)

雪月花

雪月花一題ばなし

雪月花一題ばなし・冒頭文

雪月花三遊新話

千人講の久蔵

壮士の洋行 →三題ばなし 貴紳の漫歩・壮士の洋行・女子の梅見

曽我桜

即席三題噺 漢学先生・宵暗・なまけもの

ソコラでゲセウ →三題ばなし 八百屋お七・東方朔・ソコラでゲセウ

その他(雑纂)

た行

大黒天 →三題話 遊女の無心・大黒天・彫物師

大国の用

大の懶惰者

大仏の目

大仏餅

大仏餅

大仏餅(商法のいろいろ六)

大名の月見 →昔の大名の心意気

畳水練

谷文晁の伝

狸の腹 →三題ばなし 梅・寒中の雨・狸の腹

達磨(円朝筆)

達磨(見性成仏)(円朝筆)

達摩の遠足 →三題噺 達摩の遠足・垣の山吹・茶席の放屁

達摩の脚気 →三題噺 達摩の脚気・桜に鶯・円朝の得意ばなし

〔談話〕

蓄音機 →世辞屋

乳房榎(怪談乳房榎)

茶器の鑑定

茶席の放屁 →三題噺 達摩の遠足・垣の山吹・茶席の放屁

茶道具商(商法のいろいろ十一)

月に謡荻江の一節 一名荻江の伝

月の殿様 →昔の大名の心意気

佃島 →落語(おとしばなし)三月のお節句・外妾・佃島

釣指南(商法のいろいろ九)

鶴殺疾匁庖刀

〔点取り・草稿・覚書〕

東海道五十三次 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

蕃椒(とうがらし) →三題ばなし 越路太夫・比丘尼・蕃椒

道鏡の褌 →三題噺 釈迦如来の袈裟・道鏡の褌・大磯虎の閏衣

道具屋 →ほし店の道具屋

骨董商(どうぐや)(何も商法十一)

道中の馬子(何も商法六)

唐茄子屋、唐茄子屋政談 →初商法

東方朔 →三題ばなし 八百屋お七・東方朔・ソコラでゲセウ

都々逸

富子の影絵と辞世

吃の道具屋

な行

菜刀(ながたん)息子

交情(なか)の睦い御夫婦 →落語(おとしばなし)暦・腎張りの下女・交情の睦い御夫婦

名づけ親〔死神〕

何も商法

浪花座演芸番組

なまけもの →即席三題噺 漢学先生・宵暗・なまけもの

成田小僧 

業平文治漂流奇談

錦絵

日蓮大士道徳話 にちれんだいしどうとくばなし

二人吃

日本の小僧(和洋小噺)

日本橋布袋屋引札

にゆう

人情の松茸

沼田の道の記 →〔上野下野道の記〕沼田の道の記・塩原多助

根岸お行の松因果塚の由来 →離魂病

捩金屋捩兵衛

捩兵衛 →捩金屋捩兵衛

年始まはり

年譜

残る月影 

熨斗袋

後の業平文治

は行

俳諧

〔俳譜・狂歌・都々逸・端唄〕

端唄

羽織の蕎麦

袴着

袴着の祝 →大仏餅

八景隅田川

初商法

初音の鼓 →骨董商(どうぐや)

初春の速記

花(円朝筆)

〔花咲爺の行列〕

話之種

花菖蒲沢の紫

春雨 →三題噺 春雨・恋病・山椒の摺古木

春の夜話

番組

火打鎌売(商法のいろいろ五)

引札

比丘尼 →三題ばなし 越路太夫・比丘尼・蕃椒

日千両大江戸賑

一口話 朝寐坊

一口話 田舎娘

一口話 田舎者の観音参り

一口話し 自惚

一口話 親子の聾

一口話 親子の生酔ひ

一口話 下女の心意気

一口話 小僧の心意気

一口話し 小鼓

一口話 権助の心意気

一口話 渋酒

一口話 吝薔家

一口話し 大の懶惰者

一口話 人情の松茸

一口話 又一題

一口話 昔の大名の心意気

一口話 無筆の田舎の名主

ひねりや(何も商法七)

百物語

福禄寿

藤浦周助の影絵と辞世

船徳 →堀の青柳

文七元結

米商

弁天おふぢ

〔補遺〕

星とり竿

星野屋

ほし店の道具屋(何も商法四)

牡丹燈籠(怪談牡丹燈籠)

払子(円朝筆)

堀の青柳

彫物師 →三題話 遊女の無心・大黒天・彫物師

ぽんこん →骨董商(どうぐや)

本堂建立

ま行

温故知新(またあうはる)

又一題

松と藤芸妓の替紋

松の操美人の生埋

万橘風(三遊春の風俗)

操女学校

三遊(みつあそび)春の風俗

緑林門松竹

茗荷(和洋小噺(和))

茗荷屋 →茗荷

昔の大名の心意気

虫屋(商法のいろいろ三)

無筆の田舎の名主

明治の地獄

名人競

名人長二

盲人の洋行 →三題ばなし・盲人の洋行・地獄の飛脚・乳母の女郎買

元犬 →戌の歳

や行

八百屋(何も商法三)

八百屋お七 →三題ばなし 八百屋お七・東方朔・ソコラでゲセウ

奴勝山

山崎屋

やまと新聞大当り →三題ばなし ランブから幽霊・やまと新聞大当り・清元の出語り洋服の道行

闇夜の梅

遺言状

遊女の無心 →三題話 遊女の無心・大黒天・彫物師

郵便報知新聞の錦絵

幽霊画(円朝筆)

行倒の商売(商法のいろいろ十三)

雪夜の乳貰

湯屋番

宵暗 →即席三題噺 漢学先生・宵暗・なまけもの

芳野山 →三題噺 寒食・書生・芳野山

ら行

落語 お駒丈八 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

落語 白木屋 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

落語 城木屋 →三題噺 白木屋お駒・駿河細工・東海道五十三次

落語 道具屋 →ほし店の道具屋

落語のはじめ

落語の濫觴

落語〔星野屋〕

ランプから幽霊 →三題ばなし ランプから幽霊・やまと新聞大当り・清元の出語り洋服の道行

離魂病 一名因果塚の由来

柳光亭引札

両手に花 →縁きり榎

良薬(和洋小噺(洋))

烈婦お不二

わ行

和洋小噺

  落語ことば 落語演目 千字寄席 落語あらすじ事典

しんがん【心眼】演目

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円朝の名作。気の利いた短編小説を読む心地よさです。

別題:心の眼

【あらすじ】

浅草馬道に住む、目が不自由な按摩の梅喜。

今日ははるばる横浜まで流しに行ったが、ろくに仕事がなかったと、しょんぼりと帰ってくる。

顔色が真っ青なので、恋女房のお竹が、なにかあったと勘づき、聞いてみると、梅喜はこらえ切れずに泣き出した。

両親を早く亡くした梅喜が、幼いころから育てた弟の金公に、大恩ある兄の自分が藁にもすがる思いで金を無心に行くと、こともあろうに目の不自由なのをあざけられ、
「『また食いつぶしに来やがった』と抜かしやがった。もう悔しくて口惜しくて、いっそあのちくしょうの喉笛に食らいついて……と思ったが、こんな不自由な体だから負けてしまうし、いっそ面当てに軒ででも首をくくって死んでしまおうと本気で考えたものの、親身になって心配してくれるおまえがさぞ力を落とすと思い、人間は一心になったらどんなことでもできるのだから、茅場町の薬師さまを信心して、たとえ片方だけでも目を開けていただこうと気を取り直し、横浜から歩いて帰ってきた」
という。

お竹は懸命に慰めて、
「あたしも自分の寿命を縮めても、おまえさんの目が開くようにお願いするから」
となだめ、その夜は寝かせる。

翌日から、さっそく薬師如来に三七、二十一日の日参。

ちょうどその満願の日、目が開かないので梅喜が絶望して、
「いっそあたしを殺してくれ」
と叫んでいるところへ、得意先の上総屋のだんなが声をかける。

「おまえ、目が開いているじゃないか」
と言われてはっと気がつくと、なるほど、見える見える、なにもかもはっきりと目に映る。

さては夫婦の一念が通じたかと狂喜し、いちいち
「へえ、あれが人力車……あれが……」
と確かめながら、だんなについて浅草仲見世まで行く途中で、自分が男前であること、女房のお竹は人三化七の醜女だが、気だてのよい貞女であることをだんなから聞かされた梅喜、わが女房ながらそんなにひでえご面相かとがっかり。

そこでぱったり出くわしたのが、これもお得意の芸者、小春。

誘われるままに富士横丁の「釣堀」という待合に入り、杯をさしつさされつしているうち、小春が
「実は、ずっとおまえさんを思っていた」
と告白し、誘惑する。

すっかり有頂天になった梅喜、
「化け物面のお竹なんぞはすっぱり離縁して、おまえさんと一緒になる」
と怪気炎。

二人はしっぽり濡れ、いつしか一つ床に……。

そこへ、二人が待合に入ったという上総屋の知らせで、お竹が血相を変えて飛び込んでくる。

いきなり梅喜の胸ぐらをつかんで、
「こんちくしょう、この薄情野郎っ」
「しまった、勘弁してくれっ、おい、お竹、苦しいっ」

とたんに、はっと目が覚める。

「うなされてたけど、悪い夢でも見たのかい」
という優しいお竹の言葉に、梅喜我に返って、
「あああ、夢か。……おい、お竹、おらあもう信心はやめるぜ」
「なぜさ」
「目が見えねえてえなあ、妙なものだ。寝ているうちだけ、よォく見える……」

底本:八代目桂文楽

【しりたい】

円朝晩年の作

三遊亭円朝が、盲目の音曲師だった円丸の、横浜での体験談をもとにまとめあげたといわれます。一説には円丸は門人で、三代目円生から円朝門に移り、のち右多丸と改名した人ともいいますが、はっきりしません。

円朝の原作は、現行とは少し異なり、亭主の目が開くなら自分の目がつぶれてもいいと、密かに薬師に願掛けしていた女房、お竹の願いが聞き届けられ、梅喜は開眼するものの、お竹の目はつぶれます。梅喜と小春が富士下(浅草馬道の富士浅間神社の坂下)の「釣堀」という料亭にしけこんだと聞いて、お竹が女按摩に化けて乗り込み、さんざん恨みごとを並べたあげく、堀に身を投げ……、というところで梅喜の目が覚めます。オチは「目が覚めたら何も見えない」という、後年の八代目桂文楽のものとは正反対で、陳腐なものとなっています。

文楽の十八番

戦後は、八代目桂文楽の、文字通りの独壇場でした。文楽は、二代目談洲楼燕枝から習ったこの噺を盲人のせつない心情をみごとに描ききった独自の人情ものとして磨き、その存命中はほかに誰も演じ手がないほどの極め付けでした。

現在出ている速記、音源とも、文楽のものばかりで、唯一古いものでは、円朝の原作をほぼ踏襲した初代三遊亭金馬(のち二代目小円朝)の「心の眼」と題した明治三十二年(1899)の速記が残っていますが、これは円朝在世中のものです。

心眼

物事の真実を見抜く心の働きをいいます。これはオチの「寝ているうちだけ……」に通じ、この場合は梅喜が、夢の中で眼の開いた自分が女の色香にうつつをぬかす姿の浅ましさを、目覚めてはっきり悟り、改めて妻の愛情の深さをかみしめたことを意味するのでしょう。浄瑠璃や歌舞伎の「壺坂霊験記」に一脈通ずるものがあります。

茅場町の薬師

現在の中央区日本橋茅場町一丁目。

薬師如来は、別名、大医王仏、医王善逝とも呼ばれます。病を癒して悟りに導くとされ、江戸では多田の薬師(墨田区東駒形一丁目の今の東江寺)とともに信仰を集めました。眼病のほか、歯痛にも霊験あらたかということで、歯守薬師というのもあります。人々は目に紅絹の布をあてて参詣し、文銭という、裏に文の字を鋳出した穴開き銭をめの字型に並べた額や、めの字を書いた絵馬を奉納して祈願しました。

【もっとしりたい】

 三遊亭円朝の作といわれている。盲人の弟子円丸の体験に材を取ったのだそうだ。この噺を得意とした八代目桂文楽は、マクラにそんないわれを語っていた。話を広げていった果てに「なんだ夢か」で終わる。この手の構成は、小説の新人賞ではもっとも嫌われる。創作の禁じ手である。明治三十二年(1899)にやった初代三遊亭金馬の速記を見ても、さほどのできでもない。文楽の「心眼」が秀逸なのは、梅喜とお竹との細やかな交情を前半で随所にたっぷり演じているからだ。それが十分でなければ、鼻白む人情噺に終わる。つまり、構成そのものができそこないではあっても、演じ方次第で客をうならせられるのが落語の魅力だ。先日、落語研究会で入船亭扇辰がこの噺をやっていた。盲人の所作がこなれていなかった。演技過多。按摩をあまり見なくなったからだろうか。日本の社会には盲人を支えるシステムが存在した。室町時代には「当道座」という幕府公認の職能特権集団があった。もとは「平家物語」を語る(平曲)琵琶法師が主体だったが、江戸期には箏曲、三絃、針灸、按摩なども加わった。元締めとして、京都の公家である久我家が当たり、全国の盲人を支配した。検校、別当、勾当、座頭、衆分という五階級の盲僧官の認定や管理をつかさどっていた。ところが、針灸にたけていた杉山和一という検校が五代将軍綱吉の病気を治してしまってから信を得て、元禄五年(1692)、本所一ツ目の屋敷に関東総録を置けるようになった。これは、関東八か国においてのみ、久我家ではなく杉山検校が盲人を統括するというもの。しかし、これも享保年間までのことだった。以降はまたも久我家に戻った。名目だけは残り、本所一ツ目弁天堂の琵琶会という催しは、明治期まで2月と6月に開かれていたという。座頭金というのがある。盲人は公に貸し金業が許可されていた。これも盲人の生活を支えるシステムだった。小口現金の短期貸付だから、いまの消費者金融のイメージだろう。盲人同士は横の連帯が強かったらしく、集団で旗本など借り手の玄関に立って、外聞外見をはばからずに強催促したとか。座頭にはどこか因業なイメージがついて回った。按摩は導引とも言った。盲人の按摩は杉山流、それ以外の按摩は吉田流とすみ分けされていた。体全体を揉んで四十八文が相場。骨折や脱臼の治療なども行っていたそうだが、明治四十四年(1911)の施行法によって完全に禁止された。これ以降、按摩の需要が変わったようである。 寒空に響く、物悲しい心持ちを誘い出すような按摩の笛の音。按摩が笛を吹いて歩いていたのは、吉原界隈だけでだった。吉原以外でも行われるようになったのは寛政年間(1789-1800)からだという。こういう流しの按摩を「振り按摩」と呼んだ。「振り」とは、常連やなじみの客がいないこと。近ごろのフーゾクでは、指名をせずに店に入ることを「フリー」と呼んでいる。「振り」のつもりなのだろうが、いまや「フリー」という言葉のほうが通じてしまう。和魂洋才である。(古木優)

【語の読み】
浅草馬道 あさくさうまみち
按摩 あんま
梅喜 ばいき
富士下 ふじした
日本橋茅場町 にほんばしかやばちょう
当道座 とうどうざ
久我家 こがけ
検校 けんぎょう
別当 べっとう
勾当 こうとう
座頭 ざとう
衆分 しゅうぶん
杉山和一 すぎやまわいち
杉山検校 すぎやまけんぎょう
座頭金 ざとうがね
三絃 さんげん
針灸 しんきゅう
導引 どういん
杉山流 すぎやまりゅう
吉田流 よしだりゅう
振り按摩 ふりあんま

えじまやそうどう【江島屋騒動】演目

円朝の怪談噺。舞台は江戸、下総、さらに江戸。イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

あらすじ

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

しりたい

円朝の怪談噺  【RIZAP COOK】

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

戦後、五代目古今亭志ん生がよくやりました。並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔と六代目三遊亭円生。円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵  【RIZAP COOK】

円朝の最初の妻はお里といいます。その父親は倉岡元庵といいました。御徒町に住むお同朋だったそうです。お同朋、同朋衆にはいろいろの職種がありましたが、倉岡自身は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。権力をかさに着た人々の一人だったでですね。円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は晩年、朝太郎のために苦しめられました。

五代目志ん生が復活  【RIZAP COOK】

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記か「円朝全集」(春陽堂、1926年)で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町  【RIZAP COOK】

しばひかげちょう。港区新橋二-六丁目にあたります。日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の身分の低い御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

値段をごまかす隠語で「げそる」というのがあります。烏賊の足は「げそ」。「いか」と「げそ」。値段や品物をごまかすことに、烏賊がなにかかかわりあるのでしょうか。

江島屋の「その後」  【RIZAP COOK】

大正末期頃まで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座2-8丁目)で質屋をしていたとのこと。歌舞伎座近くのため、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

【語の読み】
深川佐賀町 ふかがわさがちょう
倉岡元庵 くらおかげんあん
下総 しもふさ
大貫村 おおぬきむら
檀那寺 だんなでら
幸福寺 こうふくじ
芝日陰町 しばひかげちょう
神崎川 こうさきがわ
袷 あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田 ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影 かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

【RIZAP COOK】

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