雷飛行 かみなりひこう 演目

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今のところ二代目今輔しかやってない、奇妙奇天烈な珍品です。

【あらすじ】

ころは大正。

なじみの芸者を連れて日光へ遊びにきた男。

ふと好奇心がわいて、芸者を先に東京に帰すと、一人で山奥まで足を踏み入れた。

ところが、慣れない山奥で案の定道に迷い、日も暮れたので困っていると、遠くに人家の灯。

「これはありがたい、一晩泊めてもらおう」
と近づくと、なんと、りっぱなお屋敷。

「はて、こんな所に」
といぶかしがりながら案内を乞うと、取り次ぎに出てきた男
「きさま人間か」

よくよく見ると、素っ裸の虎の革の褌。

ここは日光屋雷右衛門という、雷の元締めの屋敷だったから、男は仰天。

とにかく、中に入れてもらうと、貫禄十分の雷が、座敷で酒をのんでいる。

横を見ると、天人のように美しい娘が一人。

雷右衛門の一人娘で、名前は稲妻とか。

一目惚れした男、娘に酌をしてもらい、あれこれお世辞を並べているうちに、娘もまんざらでなさそうで、いつしか二人は深い仲になった。

実は、例の芸者とも、もう夫婦約束をしてあるのだが、そんなことはきれいに忘れ、ずるずると娘といちゃついて二日、三日と過ぎるうち、とうに二人の仲を悟った雷親父
「オレも野暮なこたあ言わねえ。ただ、こうなったら、家の養子になってもらおう」

もとより惚れた仲、二つ返事で承知したが、先方にはまだ条件がある。

「養子になるんなら、やっぱり雷にならなくちゃあいけねえ」
「へえ、人間でも雷になれますか?」
「そりゃあ、修業しだいよ」

というわけで、雷学校に入って勉強する羽目になった。

東京から来たから、東雷と名を変えて、一心に修行に励むうち、まだ成績が足りないが、元締めの養子だから卒業させてやってよかろうということになり、いよいよ卒業飛行の日。

先生が、
「おい東雷。うっかりすると雲を踏み外して落っこちるから注意しろよ。太鼓のたたき方でスピードが変わるから、むやみにたたいたり低空飛行をするな。それから、てめえは助平だから、飛行中に下界の女なんぞ見ちゃあならねえ。必ず墜落するから」

こまごまと注意され、いよいよ雲に乗って出発。

針路を南に取って、ピカリピカリと稲妻を光らせながら進むうち、いつしか東京上空へ。

浅草あたりに来かかると、実によく下界が見える。

ひょいと見ると、前の婚約者の芸者が、やらずの雷というやつで、男としっかり抱きあっている。

「こら、あんまりそばへ寄るな。私は雷は虫が好かないんです、だって。ばかにしてやがる。一番脅かしてやろう」

焼き餅半分、ゴロゴロガラガラとあんまり電気を強くしたものだから、東雷、あえなく雲を踏み外して墜落。

「あー、恥ずかしい。落第(=落雷)だ」

底本:三代目古今亭今輔

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【しりたい】

大正後期の新作

大正10年(1921)3月の『文藝倶楽部』に掲載された三代目古今亭今輔(1924年没)の速記が、唯一の資料です。

もちろん、ネタ元と思われる笑話などもなく、第一次世界大戦前後の「飛行機ブーム」を当て込んだ新作と思われます。

今輔自身の創作かもしれませんが、これもはっきりしません。

同じ月の『文藝倶楽部』には、これもやがて文明の花形となる自動車を題材にした「自動車の蒲団」(二代目三遊亭金馬・演)の速記もあり、科学文明の時代に突入していく「大正新時代」の世相がしのばれます。

「際物」の宿命として、当然ながら今輔以来、今日まで手掛けた演者はありません。

雷の登場する噺

雷の噺としては「雷の子」「へその下(艶笑)」「雷夕立」などがありますが、いずれも小咄程度で、古典落語では長編は見当たりません。

雷学校

昇学校から宙学、雷学校と、もちろんすべてダジャレ。くすぐりもほとんどダジャレを並べただけです。

たとえば、雷学校で、東雷が教授に質問。

「あそこで勉強しないで遊んでいるのは?」
「フーライ(=風来坊)だ」
「頭を抑えていやな顔をしているのがいます」
「あれはキライ(=嫌い)じゃ」
「雲に乗って行ったり来たりしているのは?」
「オーライ(=往来)」

こんな調子です。東雷先生の本名は中山行夫。本職は会社員としてありますが、これだけはダジャレではなさそうです。

【語の読みと注】
褌 ふんどし

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按摩の炬燵 あんまのこたつ 演目

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生炬燵とは驚き。按摩さんが炬燵代わりに。実に奇妙な炬燵のおはなしです。

【あらすじ】

冬の寒い晩、出入りの按摩に腰を揉ませている、ある大店の番頭。

「年を取ると寒さが身にこたえる」
とこぼすので、按摩が
「近ごろは電気炬燵という、けっこうな物が出てきたのに、おたくではお使いではないんですかい」
と聞くと
「若い者はとかく火の用心が悪いから、店を預かる者として、万一を考えて使わない」
という。

番頭は下戸なので、酒で体を暖めることもできない。

按摩は同情して
「昔から生炬燵といって、金持ちのご隠居が、十代の女の子を二人寝かしておいて、その間に入って寝たという話があるが、自分は酒は底なしの方で、酔っていい心持ちになると、からだが火のようにほてって、十分その生炬燵になるから、ひとつ私で温まってください」
と申し出た。

「いくらなんでも、それは」
と遠慮しても
「ぜひに」
と言うので、番頭も好意に甘えることにし、按摩にしこたま飲ませて、背中に足を乗せて行火代わり。

おかげで、番頭は気持ちよさそうに寝入ってしまう。

ところが、ようすを聞いた店の若い連中が、我も我もと押し寄せたから、さあ大変。

ぎゅうぎゅう詰めで、我先にむしゃぶりついたから、そのうるさいこと。

歯ぎしりする奴やら寝言を言う奴やらで、さすがの「生炬燵」もすっかり閉口。

そのうち、十一になる丁稚の定吉が、活版屋の小僧とけんかしている夢でも見たか、大声で寝言を言ったので
「ああ、かわいいもんだ」
と、思わず
「しっかりやれ」
とハッパをかけたのが間違いのもと。

定吉、夢の中で
「なにを言ってやがる。まごまごしやがると小便をひっかけるぞ」
と叫ぶが早いか、本当にやってしまった。

おかげで「炬燵」の周りは大洪水。

番頭も目を覚まし、布団を替えたり寝巻きを着替えたりで大騒ぎ。

「せっかく温まったところを、定吉のためにまた冷えてしまった。気の毒だが、もういっぺん炬燵になっとくれ」
「もういけません。今の小便で火が消えました」

底本:三代目柳家小さん

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【しりたい】

なんでもコタツに

原話は古く、寛文12年(1672)刊の笑話本『つれづれ御伽草』中の「船中の火焼」です。これは、大坂の豪商、鴻池が仕立てた、江戸へ伊丹の酒を運ぶ、二百石積の大型廻船の船中でのできごととなっています。乗船している鴻池の手代が、冬の海上であまり寒いので、大酒のみの水夫を頼んでぐでんぐでんに酔わせ、、その男に抱きついて寝ることになります。

その後、元禄11年(1698)刊の『露新軽口ばなし』中の「上戸の火焼」、明和5年(1768)刊の『軽口春の山』中の「旅の火焼」、安永8年(1779)刊の『鯛味噌津』中の「乞食」と、改作されながら現行の落語に近づきました。「乞食」では、なんと犬を炬燵代わりにしますが、このやり方は落語には伝わらず、やはり酔っ払いの「人間ストーブ」に落ち着きました。

三代目小さんが上方から

上方落語を、三代目柳家小さんが東京に移植したものです。今回のあらすじは、小さんの円熟期・大正11年(1922)の速記をもとにしました。

大阪では、初代桂春団治の十八番の一つで、音源も残されていますが、東京では、戦後は五代目古今亭今輔から移された八代目桂文楽が得意にしていました。現在では、あまり演じられなくなっています。文楽演出は小さんのものと少し変わっていて、番頭の方から按摩に頼む形を取っていました。

「炬燵」事始め

櫓式の電気炬燵が発売されたのは戦後です。速記(大正11年)にある電気炬燵は「電気行火」を言っているのでしょう。炬燵は昭和の初期に至るまで、やぐらの底に板を張って、移動可能の土製の火いれを置いたもので、行火と同じく炭火を用いたものでした。

電気炬燵が普及する前は掘り炬燵が一般的でした。毎年旧暦10月の初の亥の日を玄猪と呼び、「お厳重」とも表記します。この日から火の用心を厳重にするということです。各戸ではこの日を「炬燵開き」とし、火鉢も出しました。これを「亥の子の祝い」といい、客に亥の子餅(ぼた餅)を配る習慣がありました。節約を旨とする商家では、炬燵開きを遅らせて、中亥の日(二度目の亥の日)としていました。

【語の読みと注】
按摩 あんま
大店 おおだな
電気炬燵 でんきごたつ
生炬燵 いきごたつ
行火 あんか
玄猪 げんちょ

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江島屋騒動 えじまやそうどう 演目

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円朝の怪談噺。舞台は江戸、下総、さらに江戸。イカモノの因縁が恐怖と化す。

別題:鏡ヶ池操松影 老婆の呪い

【あらすじ】

【上】

深川佐賀町の倉岡元庵という医者がポックリ亡くなり、残された女房お松は、娘お里と共に自分の郷里、下総の大貫村に帰った。

ある日、村の権右衛門がやってきて、名主の源右衛門のせがれ、源太郎が、檀那寺の幸福寺の夜踊りでお里を見初め、嫁にもらってくれなければ死ぬという騒ぎだという。

自分が仲人役を言いつかったので、どうしても承知してくれなければ困ると権右衛門に乞われ、お松に不服のあるはずがない。

支度金五十両を先方からもらうという条件で婚約が整う。

その金で婚礼衣装を整えるために江戸へ母娘で出て、芝日陰町の江島屋という大きな古着屋で、四十五両二分という大金をはたき、すべて新品同様にそろえた。

いよいよ婚礼の当日、天保二年(1832)は旧暦十月三日。

お里は年は十七、絶世の美人。

権右衛門が日暮れに迎えに来て、馬に乗って三町離れた名主宅まで行く途中、降り出した雨でずぶ濡れになってしまう。

お里が客の給仕をしているうち、実は婚礼衣装は糊付けしただけのイカモノだったため、雨に濡れて持たなくなり、ふいに腰から下が破れて落っこちてしまった。

お里は泣き崩れ、源右衛門は恥をかかされたとカンカン。

婚約は破棄になる。

世をはかなんだお里は、花嫁衣装の半袖をちぎって木に結んだ上、神崎川の土手から身を投げ、死骸も上がらない。

【下】

ある日、江島屋の番頭、金兵衛が商用で下総に行き、夜になって道に迷い、そのうえ雪までちらつきだす。

ふと見ると、田んぼの真ん中に灯が見えたので、地獄に仏と宿を頼むと「お入りなさい」と声を掛けたのは六十七、八の、白髪まじりの髪をおどろに振り乱した老婆。

目が不自由のようだ。

寒空にボロボロの袷一枚しか着ていないから、あばら骨の一枚一枚まで数えられる。

ぞっとする。

老婆は金兵衛に、ここは藤ヶ谷新田だと教え、疲れているだろうから次の間でお休み、という。

うとうとしているうちに、なんだかきな臭い匂いが漂ってきた。

障子の穴からのぞくと、婆さんが友禅の切れ端を裂いて囲炉裏にくべ、土間に向かって、五寸釘をガチーン、ガチーン。

あっけに取られている金兵衛に気づき、老婆が語ったところでは、まさしく老婆はお松。

江島屋のイカモノのため娘が自害し、自分も目が不自由にされた恨みで、娘の形見の片袖をちぎり、囲炉裏にくべて、中に「目」の字を書き、それを突いた上、受取証に五寸釘を打って、江島屋を呪いつぶすとすさまじい形相でにらむ。

金兵衛はほうほうの体で逃げ去った。

江戸へ帰ってみると、おかみさんが卒中で急死、その上小僧が二階から落ちて死に、いっぺんに二度の弔いを出す、という不運続き。

ある夜、金兵衛が主人に呼ばれて蔵に入ると、島田に結った娘がスーッと立っている。

ぐっしょりと濡れ、腰から下がない。

「うわーッ」
と叫んで、主人に老婆のことをぶちまけた。

「つまり、目を書きまして、こっちにある片袖を裂いて、おのれッ、江島屋ッ」

ガッと目の字を突くと、主人が目を押さえてうずくまる。

見ると、植え込みの間から、あの婆さんが縁側へヒョイッ。

これがもとで江島屋がつぶれるという、因縁噺の抜き読み。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

円朝の怪談噺

本名題は「鏡ヶ池操松影」といいます。全十五席の長講です。

明治2年(1869)、三遊亭円朝30歳のとき、「真景累ヶ淵」に続いて創作したものです。

戦後、五代目古今亭志ん生がよくやりました。並んで、この噺を得意にしたのが四代目古今亭今輔と六代目三遊亭円生。円生は、マクラでこの噺のネタを実在した江島屋の元番頭から仕入れたと語っていますが、この情報の出自は不明です。

明治中期には、円朝の高弟、四代目三遊亭円生が得意にしていました。

原題の「鏡ヶ池」は、古く浅草の浅茅原にあったとされる池で、入水伝説があったところから、この噺のお里の入水に引っ掛けたと思われます。

倉岡元庵

円朝の最初の妻をお里といいました。その父親は倉岡元庵といいました。御徒町に住むお同朋だったそうです。お同朋、同朋衆はいろいろの職種がありましたが、倉岡は茶坊主だったようです。とうぜん、江戸城出入りの、です。権力をかさに着た人々の一人だったようです。円朝はお里との間に、朝太郎という一子をもうけましたが、円朝は後年、朝太郎のために苦しめられていました。

五代目志ん生が復活

長らく途絶えていたものを、戦後、五代目古今亭志ん生、ついで五代目古今亭今輔があいついで復活させ、ともに夏の十八番としました。

志ん生は円朝の速記で覚えたのでしょうが、因縁噺の陰惨さをできるだけ和らげるため、特に前半、ところどころ脱線して、「色の真っ黒いところへ白粉を塗って、ゴボウの白あえ」と言ったり、お里に「身を投げるからよろしく」と言われた村の者が「ンじゃあ、気をつけて行ってくんなさい」と、ボケをかましたりと、さまざまな苦心をしています。

志ん生の長男、十代目金原亭馬生も父親譲りで、「もう半分」とともに怪談のレパートリーにしていました。残念ながら音源はありません。

芝日陰町

しばひかげちょう。港区新橋二-六丁目にあたります。日当たりが悪かったことから、この名が付いたとか。江戸時代から古着屋が多く、この噺の江島屋のように田舎者相手のイカサマ商売も多かったといいます。

黙阿弥の歌舞伎世話狂言「加賀鳶」で、悪党・道玄をやりこめる加賀鳶・松蔵がここに住んでいました。

イカモノ

イカモノは、見てくれだけの偽物のこと。語源は「いかにもりっぱそうに見える」からとも、武士で、将軍に拝謁できないお目見え以下の安御家人を「以下者」と呼んだことから、ともいわれています。

江島屋の「その後」

大正末期ごろまで、江島屋の末裔が木挽町(中央区銀座2-8丁目)で質屋をしていたとのこと。歌舞伎座近くのため、芝居関係者の「ごひいき」が多く、界隈では知らぬ者のない、けっこう大きな店だったとか。怨霊につぶされたというのは、どうもヨタくさいです。

【語の読み】
深川佐賀町 ふかがわさがちょう
倉岡元庵 くらおかげんあん
下総 しもふさ
大貫村 おおぬきむら
檀那寺 だんなでら
幸福寺 こうふくじ
芝日陰町 しばひかげちょう
神崎川 こうさきがわ
袷 あわせ
囲炉裏 いろり
藤ヶ谷新田 ふじがやしんでん
鏡ヶ池操松影 かがみがいけみさおのまつかげ
真景累ヶ淵 しんけいかさねがふち
因縁噺 いんねんばなし

小言幸兵衛 こごとこうべえ 演目

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ブンブンうるさいおじさん。こういうの、どこかに必ずいそうですね。

別題:搗屋幸兵衛 道行幸兵衛 借家借り(上方)

【あらすじ】

麻布古川町、大家の幸兵衛。

のべつまくなしに長屋を回って小言を言い歩いているので、あだ名が「小言幸兵衛」。

しまいには猫にまで、寝てばかりいないで鼠でもとれと説教しだす始末。

そこへ店を借りにきた男。商売は豆腐屋。

子供はいるかと聞いてみると、餓鬼なんてものは汚いから、おかげさまでそんなのは一匹もいないと、胸を張って言うので、さあ幸兵衛は納まらない。

「とんでもねえ野郎だ、子は子宝というぐらいで、そんなことをじまんする奴に店は貸せない。子供ができないのはかみさんの畑が悪いんだろうから、そんな女とはすっぱり別れて、独り身になって引っ越してこい。オレがもっといいのを世話してやる」
と、余計なことを言ったものだから、豆腐屋はカンカンに怒り、毒づいて帰ってしまう。

次に来たのは仕立て屋。

物腰も低く、堅そうで申し分ないと見えたが、二十歳になるせがれがいると聞いて、にわかに雲行きが怪しくなる。

町内の人に鳶が鷹を生んだと言われるほどのいい男だと聞いて、幸兵衛、
「店は貸せねえ」

「なぜといいねえ、この筋向こうに古着屋があって、そこの一人娘がお花。今年十九で、麻布小町と評判の器量良し。おまえのせがれはずうずうしい野郎だから、すぐ目をつけて、古着屋夫婦の留守に上がり込んで、いつしかいい仲になる。すると女は受け身、たちまち腹がポンポコリンのボテレンになる。隠してはおけないから涙ながらに白状するが、一人息子に一人娘。婿にもやれなければ嫁にもやれない。親の板挟みで、極楽の蓮の台で添いましょうと、雨蛙のようなことを言って心中になる」

(ここで芝居がかりになり)「本舞台七三でにやけた白塗りのおまえのせがれが『……七つの金を六つ聞いて、残る一つは未来に土産。覚悟はよいか』『うれしゅうござんす』『南無阿弥陀仏』……おい、おまえの宗旨は? 法華だ? 古着屋は真言だから、『ナムミョウホウレンゲッキョ』『オンガボキャベエロシャノ』。これじゃ、心中にならない。てえそうな騒動を巻き起こしゃあがって、店は貸せないから帰っとくれっ」

入れ替わって飛び込んできたのは、えらく威勢のいい男。

「やい、家主の幸兵衛ってのはてめえか。あの先のうすぎたねえ家を借りるからそう思え。店賃なんぞ高えことォ抜かしゃがるとただおかねえぞ」
「いや、乱暴な人だ。おまえさんの商売は?」
「鉄砲鍛冶よ」
「なるほど、それでポンポンいい通しだ」

底本:二代目古今亭今輔、六代目三遊亭円生

【しりたい】

切り離された前半

これももともと上方落語ですが、本来は、豆腐屋の前に搗米(つきごめ)屋が長屋を借りにきて、「仏壇の先妻の位牌が毎日後ろ向きになっているので、後妻が、亡霊に祟られているのではないかと気にしてやがて病気になり、死んでしまった。跡でその原因が、搗米屋が夜明けにドンドンと米をつくためだとわかった。してみりゃあ同業のてめえも仇の片割れだ。覚悟しゃあがれ」と、幸兵衛に因果話で脅かされて、ほうほうの体で逃げ出すくだりがあり、そこから「搗屋幸兵衛」の別題があります。

ただし、現在では、この前半は別話として切り離して演じられるのが普通です。

搗米屋または搗屋は、今で言う精米業者のこと。精白されていない米を力を込めて杵で搗きつぶすので、その振動で位牌が裏向きになったというわけです。

原話に近い上方演出

正徳2年(1712)に江戸で刊行された『新話笑眉』中の「こまったあいさつ」が原話ですが、上方落語「借家借り」の古いやり方はこれに近く、最初に搗米屋、次に井戸掘りが借りに来て、それぞれ騒音と振動の原因になりやすいので断られることになります。

ここでは因果話がなく、「出来合いの井戸を(長屋の庭に)掘るのかと思った」というオチも今ではわかりにくく、おもしろさにも欠けるためか、現在では東西とも仕立て屋、鉄砲鍛冶を出すことが多くなっています。

麻布古川町

あざぶふるかわちょう。芝あたり。新堀川(古川、金杉川)北岸低地の年貢町屋。江戸時代の当初は麻布本村(ほんむら)の中に属していたのですが、元禄11年(1698)に白金(しろかね)御殿御用地になり、代地として三田村(古川右岸)の古川あたりを与えられました。これがその名の由来です。港区南麻布1丁目。

正徳3年(1698)に町方支配となりましたが、町奉行と代官の両者の支配を受けていました。江戸の内とはいえなかったようです。鷹場があったため、年貢やその他の諸役を勤める町でした。

家数2
地主9
店借7

これだけ。小さかった。この噺の設定にはもってこいだったようです。

古川右岸は三田古川町といいました。だから、古川町は麻布と三田にあったことになります。

古川(新堀川、金杉川)という、芝の将監橋から引かれた掘割の左岸(のち河川改修のため右岸)に広がった町なのでこの名があります。将監橋については、項目を立てさらに記しました。お読みください。

麻布十番もこの付近で、十番の由来は、前記の将監橋から麻布一の橋まで古川沿岸の工事区を十区に分けた終点、十番目にあたるところから、という説もあるのですが、こちらも諸説ごろごろ。

総じて、江戸時代を通して、麻布あたりはほとんどが武家屋敷と寺社地で、町屋はその合間を縫って細々と点在していたに過ぎません。現在の繁栄ぶりが信じられないような、狸やむじなが出没する寂しい土地だったようです。

家主

いえぬし。大坂では「家主」、江戸では「大家」または「差配」。普通は地主に雇われた家作(長屋を含む借家)の管理人ですが、町役を兼ねていたので、絶大な権限を持っていました。

万一の場合、店子の連帯責任を負わされますから、その選択に神経質になるのは当たり前で、幸兵衛の猜疑心は、異常でもなんでもなかったわけです。

幸兵衛が、最初の賃貸希望者の豆腐屋に「近所にはないからちょうどいい」と言うくだりもあり、町内の職業分布にも気を配って「合格者」を決定していたことがよくわかります。

江戸では実際、トラブルを避ける意味もあって、小売商は一町内に一職種しか認められませんでした。ラーメン屋の隣がラーメン屋、またその向かいがラーメン屋などという、商道徳が地に堕ちた現代とはえらい違いです。

将監橋

江戸には、「将監橋」という名の橋が二つありました。

芝の将監橋   金杉川に架かっていました。
日本橋の将監橋 紅葉川に架かっていました。

芝の将監橋は、川さらいを受け持つ、幕府の川浚奉行だった岡田将監の功労を後世に伝える主旨で名づけられたのだそうです (続江戸砂子) 。

岡田将監という人は、治水、土木工事の達人だったのですね。

日本橋の将監橋は、海賊衆といわれ、水主同心を担当し幕府御用船の保管と運航を担当していた、船手頭の向井将監の屋敷が隣接していたことにちなんでいます。向井正綱が仇敵徳川家康の家臣となり、幕府の水軍と水運の親玉となって、十一代にわたり「将監」を世襲しました。

そこらへんのところは隆慶一郎の『見知らぬ海へ』に描かれています。この当時の「海賊」ということばは、海の専門家、くらいの意味です。

将監というのは、近衛府(天皇の警護にあたる役所)の三番目の役職名です。かみ、すけ、じょう、さかん。これが四等官ですから、「じょう」にあたる職名が将監ということです。

あんまり偉くないですが、江戸時代にはもう、そんなことはどうでもよくなっていました。そのあらましは以下の通りです。

官職について

官職とは、公的な役所で働く人が与えられる役職名です。平安時代まではまともで、朝廷がそれなりの人に与えていました。ところが、鎌倉時代になると、儀式や法会の資金欲しさに、朝廷は官職名を売り出すようになりました。

天皇に直結する朝廷は日本の最高ブランド。これを利用して人々の名誉欲を金で釣ったわけです。欲しがって釣られた人々は武士です。御家人を任官させたり、名国司(実体のない国司の名称)に補任させたり。武士の間では官名を称するのが普通になってきました。

これに拍車をかけたのが、朝廷を丸ごとのみこむ争乱、南北朝時代(1338-1392)の争いです。日本全国の武士が北朝か南朝かに別れて争った時代。彼らは戦うための支柱となる朝廷の後ろ盾を必要としました。

そこで、北朝方の足利尊氏や南朝方の北畠顕信らが、配下となった主なる武士に「官途書出」といって叙位任官を朝廷に取り次いで与えるという慣習を乱発しました。朝廷が二つあったわけですから、官位官職の数も二倍以上。大安売りです。

南北朝の争乱は、六十余年に及びましたから、その後も由々しき慣習は消えず、武家政権が続く間、つまり明治にいたるまで横行していったわけです。

とりわけ、戦国時代という無政府状態にあっては、守護大名が家臣などに官途状を出して国司名(受領名)を与えていました。

それどころか、その官名のを勝手に名乗ること(私称)を許すケースが多く登場してきました。これは朝廷のあずかり知らない僭称です。公式の場では官名を略したり、違う表現に置き換えたりしていたようです。

太郎、次郎などの輩行名と左衛門、兵衛などの官職名を組み合わせた名を与える、「仮名書出」という慣習も登場して、とどまるところを知りませんでした。

先祖が補任された官職や主家から与えられた受領名を子孫がそのまま用いるケースも現れました。向井将監は代々「将監」を名乗っていました。だからこそ、向井といえば将監、将監橋が命名される由縁となるのです。

こうなると、朝廷はまったく関知せず、武士が官名を勝手につける「自官」という慣習が定着していきました。ブランド壟断。むちゃくちゃです。

百官名

ひゃっかんな。家系や親の持つ官職を名乗ることをいいます。

百官名が受領名と違うのは、受領名が正式な官職名を私称として用いることを指すのに対して、百官名は必ずしも正式な官名を指すものではなくなっていった点です。てきとうなんですね。

戦国時代からは、武士の間で官名を略して、「大膳」「修理」など役所の名だけを名乗る人や、「将監」「将曹」など官職の等級だけを名乗る人などの風習が広がりました。

そうなると、百官名というのはもう、官位官職ではなく、ただの名前でしかありませんね。

百官名を名乗る場合は、官職と同じく、
名字+百官名+諱(名前)
という方式が、一般的です。

向井将監忠勝、吉良上野介義央、といったかんじです。ただ、われわれは、「吉良上野介」と呼んでいて、「義央(よしなか)」という本当の名前はすでに忘れていますね。まあ、向井将監も同じです。正綱だろうが、忠勝だろうが、向井の家は将監。向井将監は海賊衆だ、という認識です。

ちなみに、上野介。

これは、「親王任国」といって、上野国、常陸国、上総国だけは、国司の長官(かみ、守)は親王が任命されるので、臣下の最高位は次官(すけ、介)となる慣習でした。だって、親王自身は京都にいるわけで、実際に任地に赴くのは「介」以下、ということになるのです。9世紀、平安時代の初めの頃からの慣習です。奈良時代には臣下の上野守が代々出ています。

そんなわけで、実質的には、他国の「守」と同じ位置にあるのが「上野介」「常陸介」「上総介」となります。ややこしいですが。

話はここから。

吉良上野介は赤穂浪士に討ち取られました。その前には、本多正純。この人も、上野介を名乗っていましたが、宇都宮釣り天井事件であえない最期。

江戸時代には、百官名で「上野介」をいただくのを、みなさん避けていました。不幸な死に方したくないから。

もう一人。小栗上野介忠順(ただまさ)。

幕末の能吏は、最初は豊後守だったのですが、阿部正外(まさとう)が豊後守だったため、はばかって百官名を変えようとしたようでして、とうぜん、空きのあった上野介を名乗ったとのこと。阿部は後に老中となり人で、小栗とは格が違っていました。小栗はそういうことには無頓着の人だったようです。その結果が斬首に。悲劇です。ま、そんなことが、佐藤雅美の『覚悟の人 ―小栗上野介忠順伝―』(岩波書店、2007年)にたしか載っていましたっけ。

三つの先例があるのなら、上野介は忌み名と呼ばれてもおかしくはありませんね。

東百官

あずまひゃっかん。これはなにか。関東地方、東国で行われていた慣習です。京都から遠く離れていたため、お侍のみなさんはけっこう好き勝手にやっていたわけなんですね。百官名もどきです。

「頼母(たのも)」「平馬(へいま)」「一学」「左膳」「久米(くめ)」「求馬(もとめ)」「靱負(ゆきえ)」「右門(うもん)」といった、官職に似せた名、つまり、擬似官名とでもいうものが東国では広く流布していました。

もう、ここまでくれば、お武家の勝手し放題、なんでもあり、ですね。

東百官は「相馬百官」とも呼んでいたそうですから、これは、平将門が新皇に就いたときに始まったものなのでしょう、きっと。それを思うと、関東独自のお家芸のようで、後世も大切にはぐくんでいきたいものです。