Categories: 古木優の小屋

【ぽんこつ古木の世迷い小屋】

ぽんこつふるきのよまいごや/ふるきゆう

【茶噺】

【2025年12月4日】御用繁多の北鎌倉でカンヅメにあっていました。やっと解放された朝、そこらのお寺に足を延ばしたのですが、そこがびっくり。光照寺は時宗の末寺だそうです。開祖の一遍上人が踊りながら鎌倉に入ろうとしたら、時の権門、北条時宗に入府を阻まれ、小袋谷に野宿したそうです。その場所がいまは光照寺となっているというゆかり。小さな山門はクルス門と呼ばれています。江戸時代、潜伏キリシタンを檀信徒としてかくまったと伝わります。踊念仏はどこか世俗から逸脱しているように見えましたが、フトコロ深いです。絶対禁制のキリシタンをかくまっちゃうのですから。「鈴ふり」の豪気ぶりは伊達ではありませんでした。朝、なにげなく立ち寄った光照寺で、この宗門への見方が変わりました。

【2025年11月30日】 仕事帰りに。荘厳で尊仰な円覚寺を詣でようとしましたら、拝観料が500円とあってやめときました。それだけあれば、北鎌倉駅前の中華「大陸」で一皿の餃子を頬張れます。ならばと、通りを越えてお向かいの東慶寺へ。明治以降は円覚寺の傘下となっておりますが、鎌倉尼五山の第二、駆け込み寺で名高かった古刹です。と、このことは以前にも触れました。◆こちらは拝観料は不要でした。すばらしい。こうでなくちゃ。石段を昇り簡素な茅葺き山門を抜けると、端整な庭が広がり、右手には素朴でこじんまりした法堂が。東京では拝めない風景です。円覚寺の山容も望めます。深遠なる遠景です。ふと近景はと見やれば、崩れかけた茅葺きの山門が目の端に映りました。ははあ。拝観料を取らないから修繕もままならないのか。にわかに仏心がよぎり、法堂の喜捨函にポケットの札を何枚か投じてしまいました。これが信心のはしくれなのでしょう。おのずと湧く慈悲の発露こそが救済の祈りへと導く。うまい手を使うなあ、東慶寺は。円覚寺より一枚うわてだ。ああ、それで札を何枚も出費してしまったのか。うーん。

【2025年11月28日】ものごとの価値は、煎じ詰めれば二者択一になります。日本の大学ならば、東大法学部とその他。クラシック音楽ならば、モーツァルトとその他。ならば、落語家はどうか。それはもう、志ん生とその他。これに尽きます。理由はさまざまあるでしょうが、私だったら、「寝床」と「百川」のオチをあげたいですね。これはもう、志ん生以外にできません。たとえ誰かがやったところで、どうにもならない。猿真似のあざけりが待っているだけでしょう。だから、志ん生とその他、なのです。これは極論? 迷妄? いやいや。そうでもなさそうだと思い込んでいるのですが。

【2025年11月19日】訃報です。三遊亭円輔師匠がお亡くなりになりました。2025年11月15日、心筋梗塞で、とのこと。落語芸術協会の重鎮。御年93歳は落語界の最高齢でした。告別式は近親者で営まれたそうです。喪主は長女、岡田恵子さん。円輔師匠は東京出身。昭和33年(1958)に三代目桂三木助に入門。ここがシブい。ところが、三木助師匠の具合が芳しくなく、翌34年(1959)に四代目三遊亭円馬門下に移りました。昭和49年(1974)に真打ちに。ちょっと遅い昇進でした。◆「三枚起請」「文違い」など、つやっぽい演目を得意としました。2025年6月まで寄席に出演していました。さびしいです。ご冥福をお祈りいたします。

【2025年11月17日】関西のテレビや新聞を見ていると、落語家がよく出てきます。これは、東京で落語家がテレビや新聞に露出される率よりもはるかに高いように思えるものです。東京の落語家は約600人。大阪の落語家は約250人。東京の人口は約1200万人。大阪市の人口は260万人。人口に対する落語家の比率は、明らかに大阪のほうが高いわけです。しかも、大阪にいる芸能人は東京ほど多くない。となると、落語家の需要は高くなります。露出度の高い落語家をめざすのなら、だんぜん大阪、あるいは上方のほうが有利に違いありません。そんな下心を抱いて上方で落語家になる人は意外に多いかもしれませんね。◆私、このテーマがよほど好きなようです。以前にも、ね。

【2025年11月16日】かつて山手線で通勤していた頃、浜松町駅から関西弁を操る人々がどっかと乗ってくるのに出くわしていました。よくもまあ、この人たちは、大きな声で関西弁を発するものだなあと、高萩出身の私は彼らのなりふりをいじましく思ったものです。関西弁も地域によってヘゲモニーがあることを知ったのはその後のこと。神戸のことばは品がないとか、道修町のことばは上品だとか。関西弁の世界もなかなか窮屈のようです。◆青砥や立石のことばと神田小川町のそれとはだいぶ異なるものだというのに似ているのでしょうか。人はどこにいても差異を見つけては、言上げするものなのですね。

【2025年11月10日】またも仕事で松が岡へ行っていました。ここには東慶寺(臨済宗円覚寺派)があります。今は男寺ですが、江戸時代には尼寺でした。関東では、この寺と上州(群馬県)の満徳寺(太田市、時宗)が駆け込み寺で名を上げています。夫がしでかす理不尽な不行跡にも妻から離縁を求められなかったのが江戸時代でしたが、この二寺のいずれかに駆け込めば離縁ができるというならわし。縁切寺とか駆け込み寺とか呼ばれていました。当時の慣習法ですね。日本の社会にはこういう抜け穴がいたるところにあったものでした。アジールというやつですね。そこで「雲州は会者相州は定離なり」という川柳が。雲州(島根県)は縁結びの神の出雲大社をさし、相州(神奈川県)は東慶寺を。会者定離(えじゃじょうり)は仏教が説く「四苦」のひとつで、会うは別れが定めという人生の苦しみをさします。当たり前のことをただ並べているだけの句ですが、並べて対比することでかすかな弛緩と笑いが醸し出されています。◆東慶寺に駆け込んで三年間じっとしていれば、ご破算となって晴れてしゃばに戻れるという世の定めがまかり通っていました。なんともまあ。やり直しのシステムが機能していたのですね。◆まるで『ザ・ロイヤルファミリー』。江戸時代はなんともまあ奇妙な時代でしたが、人々のかそけき救いの手だてだったのですね。今では、駅前の中華「大陸」で炒飯や餃子をがっつりたいらげてから寺社に乗り込むインバウンドの群れ。なんでこんな町中華がこの界隈にあるのか。なにゆえインバウンドが知るに及ぶのか。ともに違和感をはらんでおり、じつに奇妙で不思議です。北鎌倉の晴れやかな秋は馬のいななきが聴こえそう。

【2025年11月4日】寄席での数の数え方を。一(へい)、二(びき)、三(やま)、四(ささき)、五(かたこ)、六(さなだ)、七(たぬき)、八(やわた)、九(さわ)。おもしろいことに、数の数え方、符丁は、現代の理容店のそれと同じです。◆浮世床と寄席。かかわりがあるのでしょうか。

【2025年11月3日】以前、池袋演芸場を取材した折、あそこのえらいさんが自慢げに言ってました。「うちは一人につき15分の持ち時間だから、ほかよりもたっぷり聴けるよ」と。鈴本演芸場や新宿末広亭などは一人あたり10分なんだそうです。そうなれば、客の顔色うかがってマクラをやってからの噺は7分ほどになるのでしょうか。それでもできちゃうのですからすごいもんです。ストーリーというやつは伸縮自在なんですね。江戸時代、喜作という「噺を渡世」とした男は、七つ過ぎから暮れ六つまでの間に11の噺をやったと記録されているそうです。これを現代風に計算すると、一噺あたり13分かかったのだとか。鈴本や末広亭の10分、池袋の15分。その間をうまくとってます。てへへ。ビミョーな間合いですなあ。

【2025年11月2日】北鎌倉まで仕事に行ってきました。少しお休みしてしまいました。その作業の最中にふと思いついたことがあります。いつごろから「落語家」と言われ出したのか、ということです。たとえば、読売新聞での初出は、明治8年(1975)1月28日付の記事。三遊亭円朝が収集した幽霊画を見せながら柳橋の柳屋で「幽霊ばなしの会」を催すという告知記事が載っています。「落語家」と記してルビに「はなしか」とありました。読売新聞の創刊は明治7年(1874)ですから、これが世間の濫觴とは言えません。ただ、この記事から、当時は「らくごか」とは呼ばず「はなしか」と呼んでいたのがわかります。よく言われるのは、安藤鶴夫(花島鶴夫、1908-69、小説、評論)が「らくごか」ということばをつくったという説です。ホントかどうかは知りませんが、ここらへんが始まりかなとも思います。1960年代のことでしょうか。『笑点』とかかわっているのかもしれません。あの番組が日本中に落語という形態を誰もが知るものとしたからです。逆に、大喜利などという、寄席芸でも珍しいスタイルを落語の一般芸であるように、日本国民に勘違いさせてしまったわけでもあります。それまでは落語なんて、あまり知られていませんでしたし。ただの都市芸能に過ぎませんでした。私の認識では、落語は1960年代に誰もが知る芸能に確立された、ということです。「らくご」も普通に知られるように。江戸から明治にかけての書き物には、「らくご」とは呼ばず「はなし」または「むかしばなし」と呼んでいました。噺家(落語家)はいまも、なるべく漢語を使わず和語(やまとことば)を使うよう気をつけているもの。「らくご」という漢語じみたことばづかいはこの世界にはなじまなかったのではないかな、と思っています。

【2025年10月27日】 映画やラジオの登場、テレビの台頭で、落語の愛好者に変容が出てきたのはたやすく想像できます。それまでは「町内の芸能」として栄えていたものが下町などをまったく解しない遠くの日本人も知るようになって、笑いを共有するようになりました。人によっては、「ははあ、こういうところで下町の人は笑うものなのだな」という理解もあったでしょうし、「こういう言い方は妙におもしろい」といった発見もあったのでしょう。◆それでも、噺家たちの夜の顔、バレ噺やお座敷芸の類はいつまでたっても公共の電波には乗りません。だから、落語とは噺家とはこういうものだという上滑りの理解は日本全国で共有されはしましたが、それは一面に過ぎず、電波に乗らない部分は永遠にわからずじまいに。◆ところが、ネットが普及して、この手の危なっかしい芸能も、手を尽くせばは知ることもできるようになりました。となると、この町内の芸能の本質が見えてくる人もちらほら。落語が百年隠してきた顔です。これを新奇と叫ぶべきか、復古と評するべきか。近頃のクマの出現に似ているようにも見えます。落語の魅力はまだまだ続きます。

【2025年10月26日】むかしの寄席の話題をちょいと。◆天保の改革(1840-43)で寄席の数は15軒に減ってしまいました。文政8年(1825)には125軒あったのですから、改革での軒数制限は過酷でした。水野忠邦が失脚した弘化元年(1844)には66軒に、その翌年には700軒余と一気に増えたそうですから、改革というのもあてにはなりません。少しがまんしていればよいわけで。◆下って、安政年間(1854-60)には寄席は172軒、座料は48文(現在の2300円ほど)だったそうです。700軒から減っているのは安政地震(1855年10月2日)の影響です。それでも172軒とは、いくら安普請でも、コンビニが建つようなイメージでしょうか。これで芸人が懸命にまわっても172軒はまわりきれっこありません。「そんなら、いっそ」と、なんだかわからない人が上がって滑稽な話やしぐさで居合わせた人々を笑わせる。そんな風景が各所で見られていたはずです。高座に上がる者がいるならばまだよくて、日がな一日、板敷きでごろごろしていても、結局、芸人がきょうも来なかった、」なんていう寄席がいくらもありました。こうなると、寄席は町内の寄合所のようなものです。そこらの連中と下世話を語らって、ひょうきん誰かがまわりをげらげら笑わせている風景。床屋談義の延長線です。やるほうも聴くほうも、まだ方法論がつかめきれていなかったのでしょう。◆こういうふうに見ていけばすぐにわかりますが、噺家は講釈師よりも地位が低かったということです。講釈はたいてい合戦を読む(話す)ので「軍書」と呼ばれていました。噺家は「むかしばなし」といわれていました。講釈の世界では『太平記』を読むという役割がまずは確立されていたし、そこからの派生でさまざまな新作も生まれました。雑多なむかしばなしをどうブラッシュアップしていくかがいまだ定まらない噺家とは、えらい違いだったのです。◆昔の落語を考えるときには、こういうところからおしはかっていかないとよくわからなくなりますね。

【2025年10月25日】江戸では、19世紀になると、複雑で、やり過ぎで、度外れた笑いがはやってきました。興津要(1924.4.21-99.10.20、江戸文学、早大)は「どぶにけつまずいた奴を後ろからげたで殴るような悪ふざけに変容した」と言っていました。18世紀後半の江戸を描いた大河の『べらぼう』では、そのの笑いは単純で、素直で、誰もがわかるものでした。時代が過ぎると、笑いも変容するのですね。

【2025年10月24日】日本人は名字でことば遊びを楽しみます。「寿限無」は奇妙な名の噺ですが、本日の話題は奇妙な姓についての話。◆「小鳥遊」は「たかなし」と読みます。鷹がいないと小鳥は遊べる、というところから。ふざけてるようですが、名字由来netによれば、小鳥遊さんは全国に30人ほどいらっしゃるそうです。米倉涼子が主演したドラマ『リーガルV』(テレビ朝日系、2018年秋)では、米倉自身が元弁護士の小鳥遊翔子という名前で登場していました。珍しい登場例かもしれません。遊んでます。◆「九十九」は「つくも」。九十九は百(もも)の一つ手前なので「つぎもも」。これがなまって「つくも」となったのだそうです。全国に810人ほど。九十九一はもう忘却の人でしょうか。これも遊んでる。「四月一日」は「わたぬき」。旧暦の四月一日には冬用の綿入れから綿を抜いて袷(あわせ)にするところからだそうです。これが名字になって、全国に10人ほどいるそうです。遊んでる、かな。「小鳥遊」「四月一日」「九十九」は、パソコンで打つとどれも変換されます。不思議です。名字にかぎらず、ことばそのものに需要があるのでしょうかね。◆ならば、「ほずみ」と打って「八月一日」となるか。私のパソコンでは「八月朔日」に。微妙です。旧暦の八月一日(新暦だと9月10日頃)は台風のシーズン。稲穂が倒されてしまうので、前もって稲の穂をつみ神さまに備えて豊穣を祈ったのだとか。ほをつむ→ほずみ。遊んでますね。全国に70人ほど。けっこういますね。感覚が麻痺してきました。「四十九院」は「つるしいん」で、全国に50人ほど。読みの理由は不明なんだとか。難読の極みです。「一尺八寸」は「かまつか」で、全国に20人ほど。鎌の柄(つか)は一尺八寸(約55cm)なので。かまのつか→かまつか。しっかり遊んでるな。「四十八願」は「よいなら」で、全国に190人ほど。なんと、パソコンでは変換されました。遊んでるのかどうか、私にはよくわかりません。「七五三」は「しめ」で、全国650人ほど。注連縄(しめなわ)と関係しているのだそうです。こちらも変換できました。遊んでるかな。◆ところで。私の母方の名字は「菜花」といいます。「なばな」とか「なはな」とか名乗り、全国に560人ほど。福島県の浜通り地方に点在しています。「なのはな」と呼ばないのがいささか残念です。濁音が入ると清らかさや優しさがかき消されてしまいますから。「菜花」と書く「なのはな」さんはいらっしゃいませんかね。お会いしたいものです。◆日本人のことば遊び、というか、レア名字いじりはなかなか奥行きがあることがわかりました。

【2025年10月23日】2015年10月に50年連れそった荊妻に先立たれた際、柳家小三治は私の顔をじっと見て、「なんにも言えない」と言ってくれた。なんにも言えない――これ以上の悔やむ言葉を私は知らない。◆筆者は矢野誠一(1935.3.18-2025.7.23)。ぐっとくる一文ですね。十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)の人柄がうかがえます。ともに東京やなぎ句会のお仲間でした。こんな短いエピソードで、その人のほとんどすべてを語ってしまえる矢野は慧眼を隠していました。そこにも感じ入りました。◆この一文は『文藝春秋』2025年1月号に載っていたのですが、矢野は名文の脱稿後、八か月ほどでみまかったことになります。本日は祥月命日。こんどはわれわれが残されました。ぽんこつばかり。嗚呼。

【2025年10月22日】日本初の女性首相が生まれました。歴史的な瞬間。21日の株価は、首相が決まるまでは5万円に迫る勢いで高値を出していましたが、決まったとたんに、今度は下落が止まりませんでした。なんてこったい。いやがらせでもあるのでしょうか。危なっかしい船出です。◆連立相手の日本維新の会は社会保険料の減額を主張しています。減額と言われればよいなと思ってしまいますが、これって、健康保険の縮小化のことなんだそうです。これまで保険適用で処方されていた薬、たとえばロキソニン錠、これからは市販薬を買うことになるのだそうです。そりゃ高くつきます。痛み抑える薬を痛み伴って購入する。痛みが二倍。さらに高額に。うーん、笑えません。

【2025年10月21日】ロシアがソ連だった頃。赤の広場で「フルシチョフはバカだ」と叫んだ男が当局にスパイ罪で逮捕されました。フルシチョフとの会見で特派員たちは「なぜあんなことをしたのか」と問いただしました。叫んだだけで逮捕なんてひどいじゃないか、ということで。フルシチョフは「国家最高の秘密を漏洩したからだ」。◆プーチンならどうでしょう。逮捕なんかまどろっこしいことしないでさっさと処分、でしょうかね。◆きょうから。あの笑みに視線走らせつつ食卓を囲みます。おなかいっぱいです。

【2025年10月20日】 あの人は人間が欠点だらけで、その芸も完璧なものじゃなく、人間描写もいい加減なところがあったんですが、それが小さくかたまらなかったから、いつかその芸がなんとも言えない独特の芸風にふくらんでいったんですね。◆古今亭志ん生を評した三遊亭円生のことば(『浮世に言い忘れたこと』小学館、2017年)。昭和20年(1945)5月、新京(長春市)に渡った二人の珍道中は落語ファンの語り草です。志ん生は「あっちに行けば酒がたっぷり飲めるから」と言っていたそうですが、これは箔付けで、激しくなった本土空襲が怖くて妻子をおっぽり逃げ出した、というのがホントのところ。◆生活能力のまったくない志ん生とのままならない日々を、円生はのろいうらみました。上の評言は、円生のホンネが見え隠れしています。さりながら、誰もまねできない志ん生の芸風を認めていたのもしっかり伝わります。芸人のさがでしょうか。うならせてくれます。

長春の旧市街

【2025年10月19日】前回は宇能鴻一郎の「姫君を喰う話」を紹介しました。「食」を描いた日本文学の例外的作品として。知り合いからはこんなことを言われました。「宇能鴻一郎はポルノ作家なんだから、性欲や食欲を描くのは当たり前だろう」。たしかにね。◆宇能鴻一郎(鵜野廣澄、1934-2024)は東大の博士課程で日本文学を学んでいる時分、「鯨神」で芥川賞を受賞しました。昭和37年(1962)のこと。三島由紀夫や石原慎太郎に迫る気鋭の登場でした。彼が「アタシ、〇〇しちゃったんです」の独白調を連打し続けるちょっと前に、場末のもつ焼き屋でさまざまな臓物を網で焼いては食い続ける「姫君を喰う話」を発表しています。こちらが宇能の本領なのでしょう。本人は古代文学を専攻していたせいか、文体が硬くて古風であることを編集者から再三指摘され、「これじゃヒットしませんぜ」と迫られていたそうです。あらゆる試行錯誤の果てのやけのやんぱち、読者の脳みそが溶解しそうなモノローグ文体が完成したのでした。◆「姫君を喰う話」は一人称小説ではありますが、「むちむちぷりん」とは異質の文体です。焼いた肉片が口を通って胃袋にいたるまでの過程を気味悪いほどに描いています。さまざまな部位を焼いては口に放り込むその行為を繰り返す。読まされていると、なんだか他人の性行為を間近で凝視している心持ちに変わります。とんでもない凄味と興奮が噴き出ているのがわかります。◆落語にとりあげるとどうなるのか。聴いてみたいところです。食も性も飛び越えたところにたどり着くのではないか、と思ったりもします。これを話芸の極みにいたらしめるには、四代目橘家円喬、現代なら五街道雲助や柳家さん喬こそがやれるのかなあ、なんて思いをめぐらします。落語で人間を徹底的に描こうとした三遊亭円朝という存在はつくづくものすごいものなのだなあとも感じる私大、いや次第ですね。

【2025年10月18日】AV系での食事のシーンはえてして貧弱なものです。夫婦、それに息子(こいつが母親とデキちゃったりしてるもんです)の食卓には、マグカップとお皿。お皿にはポテトサラダとサンドイッチなんかが。素っ気ない。最近では、その風潮にあらがうかのように、これでもかと食卓てんこ盛りの作品もあったりはしますが。例外でしょう。食欲と性欲は体内で妙に連動しているものですから、食べるシーンはていねいにつくってほしいものですがね。◆『紅楼夢』は食べてばかりいる小説で有名です。日本文学では、谷崎潤一郎が食欲と性欲を旺盛に描いています。宇能鴻一郎の「姫君を喰う話」なんかもすごい。例外でしょう。グルメはいまやブームを超えて常態化してしまっていますが、それでも、グルメを文学にまでうまく昇華できた日本の作家はあまりいません。◆「鰻の幇間」では、鰻を食べる前と食べた後はみごとな調子なのですが、鰻そのものの味わいについては、歴々の名人芸を聴いてもあまりたいしたことはありません。聴き終えついでに「ちょいと鰻丼を」という心持ちには盛り上がらないものです。◆昔々亭桃太郎が「成金家族」で、あり余ったゴールドを入れた味噌汁を味わう描写。もう少し洗練されてもとは思いますが、それでも主人公がたっぷり賞味しているのはしっかり伝わります。例外でしょう。柳家喬太郎の「ハンバーグができるまで」は。食べてないか。映画『の・ようなもの』では、外国人の落語会で聴いたマクドナルドのハンバーガーの描写に感得した出船亭扇橋(九代目入船亭扇橋)が、栃木産の志ん魚(伊藤克信)に新作落語をすすめるシーンがありました。落語の可能性を示唆していましたね。はてさて。達意の話芸でわれわれの胃袋を刺激してくれる噺家は、どこかにいないものでしょうか。

【2025年10月17日】 前回は、磯田道史さんが語る「世上の人」を俎上にあげました。企業で言うならば、社外に広い人脈があり、交流も密接で、むやみに業界の噂などに詳しいタイプの人。つまり、事情通。この手の人を世上の人と呼ぶのだということで、ナットクでした。彼らはホームグラウンドを軽々と飛び越えて各地を行き来するのですね。スパイなんかが思い浮かぶ職業です。もう少し身近な職業ならば、新聞記者も世上の人かもしれません。磯田さんの記事が載っていた『文藝春秋』(2025年11月号)には、清武英利さんが登場。有働由美子さんが聞き役を務める連載に、です。ナベツネの「横暴」にあらがって読売新聞を辞めた「清武の乱」から10年以上もたっているのに、まるで新聞記者の風情です。鋭く斬れる野武士の古太刀のよう。彼の新刊『記者は天国に行けない』(文藝春秋)を読んでみようかと書店に出向いたら、品切れでした。売れているようです。彼の文章は手垢のついた表現が多くてあまり感心はしません。それでも、あやとなったことばの群れが読者の心のいいあたりに突き刺さります。稀有な人です。◆お二人の対談では、8月27日付の朝刊一面で読売がやらかした誤報問題にも。東京地検特捜部が日本維新の会の池下卓議員を捜査中と報じたのに、実際の捜査対象は石井章議員だったという、アレです。これには驚きが。いましがた、二議員の姓名を打鍵してわかったのは、両者とも「い」で始まり、名が「卓」と「章」と、似た文字だったこと。取り違えそうな条件がそろっています。清武さんは「おそらく取材したのはデキる記者だったはずです。あの手の取材は、ライバル紙も動くからどうしても焦りが出る」と言います。これにもビックリ。こんなぼけ記事は、社内最低のトンマ記者が出してきたもらい事故に過ぎないと勝手に思っていましたが、清武さんはそうではない、と断言しているのです。手練れの説。傾聴に値します。トーシロに言えるものではありません。この手の特ダネ取材はホームランか三振か、というたぐいのナマモノなのですね。振り逃げとか盗塁とか、そんなセコではないようです。◆となると、後日、読売の一面に載ったお詫びと訂正の囲み記事を読んで、「読売はアホだあ」なんてバカ笑いしていた我が身が恥ずかしくなりました。デキる記者は崖っぷちで真剣勝負の真っ最中だったわけで、読者はそこのところを読み取るべきだったのででょう。そこが読み取れれば、購読料は十分モト取れたかもしれません。うーん、奥が深い。◆そこで志ん生。昭和36年(1961)に倒れてからしばらくののち、、なにを言っているのかもわからない滑舌の悪さで、「粟田口」とか「寝床」とかをやっていました。いま、これらの噺をCDで聴いても「ボケ、わかんね」とほざくのではなく、志ん生の声に乗らない鬼気を感じとるべきなのかもしれません。死の淵の志ん生はわれわれになにかを送っていたはず。そう思いをめぐらせていたら。もう一度しっかり聴いてみたくなりました、志ん生。この人も、正真正銘、世上の人だったのですね。

【2025年10月16日】磯田道史さんは日本で一番知られた日本史研究者でしょう。たくさんの引き出しを持っていて小気味よいものです。彼の「秀吉と秀長 豊臣兄弟の類まれな経済センス」(月刊文藝春秋2025年11月号)という一文を読んでいましたら、「世上の人」ということばが飛び込んできました。小世界の集合体で完結していた、前近代の人々の暮らし。ここから飛び出していく人を世上の人と呼んでいたようで、特殊技能の持ち主だったとか。私の理解では、商人、御師、芸能者、諜報者などをさしているのでしょうか。磯田さんはおもしろい例を出して、われわれに理解を求めています。以下、引用です。◆実はこれは現代社会にもみられることです。サラリーマン社会を観察しても、取引先など業務上のやり取りはあるものの、基本的には活動が自分の会社内で完結していて、他社の人との積極的な交流は少ないタイプと、その逆に、社外に広い人脈があり、交流も密接で、むやみに業界の噂などに詳しいタイプがいるでしょう。いまでも後者のほうが少数派ではないでしょうか。この後者の「事情通」タイプが、かつてなら「世上をする」「世間をする」人と呼ばれたわけです。秀吉は、この「世上をする」ことに非常に長けていました。◆サラリーマンね。ふむふむ。秀吉=世上の人。ナットクです。わかりやすい話でした。さて。落語の世界ではどうでしょうか。まあ、落語家そのものが世上の人とはいえるでしょう。ただ、現代のように、団体で守られながら出世や名声を身上とする集団では、せいぜい落語界という小世界で完結している人たちがおおよそでしょう。それでも外に飛び出して、テレビ、映画、舞台などで活躍する人もいます。とびきりの世上の人なのでしょうか。たとえば、林家正蔵。大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』では、小島藩の藩主・松平信義を演じていました。落語家のイメージとは少々離れた役回り。演技の巧拙はよくわかりませんが、お茶の間で見ているかぎり、懐の広い、練れた、さすがは恋川春町を生んだ御家中の殿さまぶりが立ち上っていました。落語家が役を演じきっている風景。正蔵師匠の演技に世上の人を強く感じたものです。このような珠玉の体験の積み重ねがいずれ結果につながっていくのではないかと、心ひそかに期待してしまいました。

【2025年10月15日】大陸から入ってきた漢字のおかげで日本はゆたかな文化をはぐくんだ、とか、仏教が伝来したことで日本人はなにか超越なものに手を合わせるようになった、とか、ペリーが浦賀に来たことで日本の近代化(=西洋化)が始まった、とか、日本はアメリカにガン負けしたことで平和を唱えるようになった、とか。日本だけではなにもできないのに、外からの圧力や影響で社会が大きく変わるとは、なさけない国でありカッコ悪い民族だ、と私はつねづね思っていました。落語だって、しょせんは渡来もののごちゃまぜでできあがったにすぎませんし。日本ってさえない島なんだなあ、とつくづく嘆いていた昨今。先日、NHKテレビが19世紀フランスで起こったジャポニスムを特集していました。これがおもしろい。要は、ヨーロッパの価値観、伝統、歴史にがんじがらめとなっていたフランス人はなんとか変えなきゃと思ってはいてもなにもできずにもがいていたところ、幕末維新期の日本から浮世絵、団扇、扇子、衝立、着物などが大量に入り込んできた結果、ヨーロッパ的な価値観とはまったく異なる美観を見せつけられたフランス人は、これをてこにしてヨーロッパの伝統をぶち壊す端緒にしていったのだということ。ジャポニスムは珍奇の寄せ集めではなかったこと、むしろ大きな思潮であったこと。これには驚きました。だって、社会を変えるのに外の力がなくては成し得ないのは日本だけかと思っていたら、なあんだフランスも同じなのか、ということがわかったからです。どこもそうなのかもしれませんね。嘆くこともないようです。安堵しました、ぼんやりと。

【2025年10月14日】『新版大東京案内』(今和次郎、中央公論社、1929年)中の「寄席」の項目を。全六回中の第六回。最終回です。現代仮名遣い済み。以下の通り。◆なんといっても寄席の収容人数は、映画常設館と比べるとまるで比較にならないほど少ないし、それに睦派といい協会派といったところで、要するにその主だったものは五六に止まって、それがまたついには以前聞いた話を繰り返して、客はむしろ自分の知っている話にぶつかることを得意とする傾向があるので、落語家も客も、自然保守的にならざるを得ないのである。で、寄席に入ってみたいような気持ちの動いた時、なにかの新聞の演芸欄で、いま上にあげたような席にはほとんど顔を見せぬような、たとえば講釈師の神田山陽とか浪花節の木村重松とかいう特殊のもののかかっている席亭を探し出して、わざわざその時刻をねらって聞きに行くのはなんということもなく通らしくいい気持ちになれて、そしてまた実際あまりにそれらの読み物が物語的なので、かえって今度はその超現実的な魅力に引きずられて、日本製の映画を見るよりは時にズッと楽しむことができるのである。◆古典も新作も不分明だった頃。昭和4年(1929)の演芸界はゆらいでいたようですね。初代神田山陽(石村利兵衛、1897-1948)、木村重松(荻村勘太郎、1877-1938、阿部川町の師匠)が健在だったのですね。新聞にはしっかり寄席の情報が行き届いていて、その日の出演者を見定めてから行くか行かぬか決める風潮。まあ、もっとも、そんなことは新聞の手を借りずともいまではスマホでわかってしまいますね。それこそ、行き届いた時代にはなっているのですが、足を運ぶのはごく一部の、ですね。これは読書をする人としない人の違いと同じ面でつながっているのでしょう。

【2025年10月13日】 本日も『新版大東京案内』(今和次郎、中央公論社、1929年)中の「寄席」の項目をご紹介します。全六回中の第五回です。現代仮名遣い済み。以下の通り。◆浅草の金車は、神田の小柳といっしょに東都随一の講釈場であった。しかし今では講釈の衰微の犠牲となっていろもの席と変わっているが、どうも、それでも思わしくないようである。公園にある橘館は、昔の萬盛館や江戸館のように土足のままである。したがって主に若手が家にかけかまわりたく公園の客を喜ばしている。上野の鈴本や神楽坂の演芸場は、地の利を得ているのでいつも繁昌しているようである。牛込亭は、それに引きかえ人気がないせいか、協会がかかったりする合間に娘義太夫とか、あやしげな新派劇がよくかかる。木戸銭が安いのに、入りが薄いのだから、これはよくよくの因果であろう。しかし姿を改めた区画整理の市内においては、ここの席の構造は一番古風である。十番倶楽部は、殷賑な麻布のすぐ近くにあるので、よく入っている。特等席であろうか、たしか古風なわくのついたボックスがあって、席が二階なだけに初めての人々にはちょっと奇異にな感を与える。根津の歌音本は、震災後盛ったものらしい。それとあべこべに、芝の恵智十は、震災後めっきり客が落ちてきた。◆震災前後の寄席が見て取れます。浅草の金車、神田の小柳、公園の橘館、上野の鈴本、神楽坂の演芸場、牛込亭、十番倶楽部、歌音本、恵智十。いまはなき寄席の数々が紹介されていますね。震災の発生とラジオの普及がほぼ同じ時期のため、寄席は震災前と震災後に分けて考えることができそうです。寄席の衰微はさびしいものですが、それにはしっかりとした理由があったということなのですね。

【2025年10月12日】今和次郎『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)中の「寄席」の項目をご紹介。全六回中の第四回です。現代仮名遣い済み。以下。◆このうち今一番客の来るのは、人形町の末広と、四谷の喜よしくらいのものである。喜よしは、震災でなくなった本郷の若竹と並んで山の手随一の席亭で、いつもいい顔がここにそろうので、郡部から省線で来る人さえあり、なかなかよく入っている。木戸銭は七、八十銭である。末広も、客がよく入る。木づくりもよく、いかにも下町らしくて、客席のファンの心もこういう席のかまえにはさぞなごむことであろう。神田の立花亭は、唯一の古風な、本格な、いろもの席である。研究会とか、真味会とか、じっくりとあぢを主としたものばかりをかけて、月に一ぺんだが「馬楽の会」をやって、馬楽を引き立てようとする競演会のごときものが開かれる。花月は、大阪の吉本がやっているのだが、いつも七彩繚乱で、一回それだけに見世物というかんじがあにでもない。神田では、なんといってもやっぱり立花亭に指を屈するであろう。しかし、ここにも時代の影響はあらわれ、最近では事務服を着た少女が入場券売り場という札をブラ下げたボックスのテケツから木戸札代わりに切符を売る。◆省線は今のJR。テケツは入場券。馬楽とは八代目林家正蔵(岡本義、1895.5.16-1982.1.29、→彦六)のこと。この人は昭和2年(1927)に兄弟子四代目蝶花楼馬楽の内輪弟子になりました。その時点では三代目三遊亭円楽を名乗っていました。昭和3年(1928)4月、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)が引退することで、四代目馬楽が四代目柳家小さん(大野菊松、1888-1947)を襲名しました。それを受けて、円楽は馬楽の名を譲られて、五代目蝶花楼馬楽を襲名したのでした。◆ふむふむ。昭和4年(1929)頃の人気寄席は、人形町末広と四谷喜よしが双璧だったのですね。それに次ぐのが神田立花亭だったのですね。ここらへんをおさえておくと、なにかと役に立ちますね。今さん、ありがとう。◆それにしても馬楽。考現学者は寄席を馬楽の定点観測を通して見つめていたのでしょうか。これほど馬楽について記しているなんて。そうとしか思えませんね。意外です。

【2025年10月11日】本日も今和次郎の『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)の中の「寄席」の項目をご紹介します。全六回のうちの第三回です。現代仮名遣いに直してあります。以下の通り。◆演芸場は市内に百三十九軒あるが(昭和三年末現在)、しかしその目ぬきの席亭はまず、神田の立花亭、花月、人形町の末廣亭、浅草の金車→橘館、と上野の鈴本、四谷の喜よし、神楽坂の演芸場、牛込亭、麻布の十番倶楽部、根津の歌音本、深川の常盤亭、芝の恵智十と三光亭である。そしてこれだけの席を交代で睦派(左楽、柳枝、文楽、柳橋、小文治等)と協会派(小さん、小勝、貞山、文治、金馬、馬楽等)と三語楼派と、ときたま研成社(これは場末の端席が多い)とが十日ずつ打っているのである。◆驚きです。東京中には139軒の寄席があったこと。人気寄席は11軒だったこと。そられを4つの団体が交互に出演していたこと。この3点が記されていますね。映画やラジオの登場でかなりの危機感を抱いていた寄席も、恐竜絶滅の直前のよう盛況ぶりだったようです。いくらどうしようもない端席(場末の寄席)がごろごろあったとしても、139軒という数は壮観ですね。こんな時代を一度見てみたかったものです。いやあ、うらやましい。

【2025年10月10日】『新版大東京案内』(今和次郎編、中央公論社、1929年)所収の「寄席」。全六回のうちの第二回。現代仮名遣いに直してあります。以下の通り。◆ある時ジャパニーズ・ジャズというものを見てみると、笛や三味線や太鼓を、一人の落語家をオーケストラの指揮者に見立てて、後ろ向きに指揮棒を手に持たせ一二三の掛け声で一斉にかき鳴らしたのであるが、その趣向は大いに認めるとしても、しかしせっかく後ろ向きに直立してタクトを振っている落語家の手先が、ただ左から右へ時計の振り子のように動いているだけでなんの感興も起こらない。その後、ある人から、オーケストラの指揮者のように、曲につれて身体を動かし緩く速く棒を振った方がかえって滑稽的な効果があるだろうと注意されると、どうかして少しでも寄席の頽勢挽回を計ろうとしているその落語家は、翌晩早速その建策を採用し、大いに受けたという話があるが、最近の落語家のその意味の努力にはまことに涙ぐましきものさえあるのである。◆昭和4年(1929)当時の演芸界は衰退していたのですね。こんな涙ぐましいあがきをせずとも、落語をしっかりやってほしいところですが、それだけじゃ受けなかった時代なのですね。そういえば、近頃の落語家はプロレスのまねごとなんか見ません。これはこれでちょっとさびしいもんですが。

【2025年10月9日】考現学の今和次郎(1888-1973)は『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)で、寄席についても語っています。長いので六回に分けて紹介していきます。現代仮名遣いに直しました。以下の通り。◆江戸時代から唯一の民衆娯楽場として、深い、そして、自然な理由を持っている席亭が、映画を好む今の若い人たちにとって、なんの執着もなんの感激もないということは、両国の立花家に蒸気の笛を聞いた寄席のファンには、ひどくさびしいことに違いない。保守主義の老人が映画を見に行かぬように、進取的な今の若い人たちは、いっこう寄席などを聞きに行こうと思わぬのである。おそらく寄席とか演芸場というものを、まだいっぺんも見たことのない青年子女さえたくさんあるだろう。すでにそこになじみを持たぬ彼らのことであるから、もちろん寄席が日ごとに薄らぎいくのを見たところで、そこになんらの愛惜を感じようとするものではない。試みに映画常設館を出た足で、いちばん繁昌する席亭の木戸をくぐって、そこの畳の上に思い思いだるそうな身体をくの字なりに支えて高座に聴き耳を立てている客の姿を一見したならば、人々はあまりにかけ離れた階級と服装をそこに発見して、高座がその間にあって新たに権威を持つためには、思いきり時代の空気をつかんで全活動力を用いねばなかなか追いつかぬことを先見するに違いなかろう。そこで若手の落語家は、さすがに悲しむべきこの事実に早くも眼をつけて、衰微しかけている寄席の挽回策をいろいろと計って、安来千軒をかける代わりにジャズのまねごとをやったり、手踊りの代わりにレビューのまねごとをやったりして、わずかに彼らは、そこに努力する気休めを感じているのである。◆今和次郎が語る寄席概論ですね。正岡容(1904-58)の『随筆 寄席風俗』には「両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた」とあります。川蒸気とは隅田川を航行する蒸気船ですね。外は文明開化、内は江戸情緒。立花家の客はこれを味わったのでした。「安来千軒」は安来節の「安来千軒名のでたところ」の一節。寄席での定番のだしものです。安来節とジャズを対比しているわけですね。◆昭和4年(1929)の寄席風景です。今和次郎は寄席を危機的状況として記しています。ひるがえって、現代のほうが伝統芸能をまだ咀嚼しているかもしれませんね。われわれは、ラジオや映画が登場しながらも、寄席の大切さも理解しつつ、味わってきたのですね。町内に一軒はあったと言われた寄席も、結局は淘汰されました。まずくて高い鰻屋は消えていきます。嘆いても詮ないこと。それと同じですね。

両国橋とエメラルダス号

【2025年10月8日】今和次郎(1888-1973)の『新版大東京案内』(中央公論社、1929年)という書があります。編者は考現学の今和次郎。昭和4年(1929)当時の東京のあらゆる世界が見渡せる便利な一冊です。この中に「お妾横丁」なる一章がありました。こんなかんじです。以下の通り。現代仮名遣いに直しました。◆「何々寓」と苗字ばかりを書いた住宅は、近年ほとんど見られなくなった。そのいわゆる「何々寓」は多く妾宅だったことも事実であった。ところが昭和の今日、その筋の干渉は「寓」なぞという曖昧模糊たる名札を許さなくなった。それというのも、大正七年の国勢調査の時、「職業」と書いて「妾」ははたして正業なりや否やが問題になり、ひいては「寓」なる名札までが論ぜられた結果舟板塀に見越しの松としゃれた粋づくりの門口に、「××うめ」とか「△△トラ子」とかいうような本名札を見るようになった。だから今日では、お妾町として有名な日暮里渡辺町、上野桜木町、蒲田などの町々を歩いても、どこが妾宅なのか、ついウッカリ見過ごしてしまう。それほど妾稼業も近代性を帯び一般社会性の中に溶解してきたことがわかる。神明町線道灌山下で電車を捨てて日暮里へ抜ける大通りを一直線、あかぢ橋を越えてだらだら坂を上ると、やがて左にひらけた横丁がある。ちょうど渡辺町富士見台の足の下あたりから右に左に切れ込んだ露地。昔は一か所に集合していたものだが、近頃ではおおよそ三筋の川の字型に流れている。表に女名前の表札をかけたのはたいていそれだといううわさ。いったいここのお妾さんの素性は玄人上がりが大半で、仲居、芸妓、遊芸師匠などが過半数だということである。だんな筋には伝統的に日本橋堀留あたりの大木綿問屋の隠居といったところが、寮式に隠居所兼妾宅と乙に構えているそうだ。そのほか谷中の延命院日当式の亜流も案外サバサバと五分刈り頭を夜更けてこの通りに現すという。上野桜木町では美術学校裏から浜田病院神易家の上山五黄本宅へかけての一帯、吉原「角海老」や「大文字」の別宅からそれに連なる裏手の小ジンマリした小宅はおおかたそれである。ここは震災でも別段の被害は見なかったゆえ、外観ではもっともお妾横丁の名にふさわしいかもしれない。静かな通りに昼間でも粋な三味線のつまびきが漏れ聞こえる。坂下町にもお妾町があったが今日では少ないらしい。四谷坂町もこの方面で人に知られている。映画女優の徘徊する蒲田のある通り、西郊高円寺のそこここにも、うわさには上っている。しかし高円寺は新宿のカフェの女給などが、多く住んでいることは事実だ。◆長い引用ですみません。でも、今和次郎らしい文体で、すがすがしいものですね。ここに日本橋浜町が漏れているので浜町フリークの私としては気にはなりますが。それはともかく。もう何十年も昔のこと。一橋学院の国語講師が「蒲田なんかを歩いていると、なんとか寓、なんていう表札がかかってるもんだ。この寓という文字はだな、誰かさんがちょこっと住んでますよ、という意味なんだな」と解説していたことを、いま思い出しました。おっさん先生はあの時、たしかに唇の端がにやついていましたが、要は「寓とは妾宅なんだぜ」とお上りさんたちに東京の掟のさわりを教えてくれていたのですね。なるへそ。

延命院の日当は花和尚

【2025年10月7日】またまた『弊風一斑 蓄妾の実例』を。今回は熟女のお妾さんです。◆(二四七)色川誠一 芝公園第十七号、富士製紙会社支配人色川は日本橋区吉川町八番地産婆業古谷かま(五十)と通じ、時々相携えて鎌倉扇ヶ浦なる古谷の別荘に行くことあり。かまはもと柳橋の芸妓なりしが現住所の茶商古谷兵四郎に落籍されて妾となりいるうち、兵四郎は商業に失敗しついに死去しかばその遺産とともに古谷の姓をつぎしものなるが非常の若造りにて二十七、八に見ゆるところより浜町一丁目吉松病院長吉松駒造はこれを手に入れ一時情夫となりいたるも今は色川一方となりいたるも今は色川一方となれり。ただし色川の方がかえって男妾たるなり。◆かまは、古谷→吉松→色川と変遷し、まるで美福門院のよう。熟女版ファムファタールといったところでしょうか。◆色川誠一の息子は軍人の武夫、その息子が作家の武大。富士製紙は昭和8年(1933)に王子製紙と合併した、当時最大手の製紙会社でした。色川家は常陸(茨城県)土浦の醤油業。豪商です。とまあ、そんな周辺情報はどうでもよくて。なにゆえ、熟々のそれ者上がりが男を次から次へと渡り歩いていったのか。こっちを知りたいところです。

【2025年10月6日】またも『弊風一斑 畜妾の実例』(黒岩涙香、1898年)を。もとは萬朝報の連載記事だったのですが、明治31年(1898)7月22日付の記事でおもしろい一文が載っていましたので、紹介します。この日は連載16回目。151番から160番の名士諸賢の下ネタ武勇伝がさらされています。160番目の標的は三宮義胤なる紳士。以下の通り。◆式部長男爵三宮義胤 芝高輪北町二十七番地、三宮の女房がドイツ人なることは誰も知るところなるが、その西洋人にして本邦の事情に暗きを幸いとし、これまで我が妹なりなどと称して婦人を邸へひきいるることもしばしばなりしが、ことに驚くべきはかれが故子爵吉田清成の未亡人貞子(四十二)と密通の一条なりとす。◆三宮なる男は近江(滋賀県)の浄土真宗の寺の息子で、幕末には三上兵部と名のっていたごろつき=尊王志士でした。維新のどさくさで、岩倉具視にくっついて外務官僚や宮内官僚に変じて、小松宮彰仁親王の渡英にも随行しました。その折、下宿屋の娘アレシアなる女性を見初めて結婚。記事のドイツ人の妻とは、じつは英国人だったのでした。アレシアは三宮とともに日本へ。彼女の役割は日本の貴婦人方に西洋のマナーを教えることでした。下宿屋の娘では具合が悪いので生地商人の令嬢という触れ込みで。来日は明治13年(1880)でしたから、明治初期の日本は、どんな外国人の浅知恵でも欲しがったのですね。お雇い外国人というやつです。◆三宮義胤などともっともらしい名のりを得た好色紳士は、妻に「妹が来た」と言っては、とっかえひっかえ女を自宅に連れ込んで遊んでいたようです。アレシアは「あなたにはずいぶん妹さんが多いのね」などとほほえみながら手製のクッキーや紅茶でおもてなし。そんな光景を想像するのはたやすいですね。あきれたもんだよ屋根屋の好胤、いや義胤さん。◆さて。この回の連載の末尾には、以下の一文が補足されています。◆警告 近頃この記事を種に金銭をゆすりまわる者あるとの噂あり。もしかくのごときものあらばすみやかに警官の手に引き渡されよ。◆今だったらネットで炎上して、連載そのものが中断されることでしょう。でも、さすがはまむしの周六。強気の一言です。さらす者もさらされる者も、あきれかえった時勢だったのですなあ。

【2025年10月5日】吉原で「月」と言えば、八月十五日夜、九月十三日夜のこと。紋日です。この日は多くの客を呼び寄せるのがおいらんの腕の見せどころでした。◆月の夜は明るいというのが当時の通り相場。「月夜に釜」ということわざは「月夜に釜を抜かれる」ということで、油断大敵、間抜けめ、といった意味合い。「月夜に提灯」は明るい夜に提灯とはむだなことというよりも、見栄を張るイメージが強く漂います。中洲は大川(隅田川)と箱崎川が合流する埋め立て地。位置の関係からからか月見の名所でした。◆こうしてみると、月は天体としてのそれから始まって、生活にまつわるさまざまなイメージがふくらんで飛び移って、ほんのちょっと安心で、ほんちょっと役に立つといったイメージがただよいます。ことばの持つイメージをつかんでおくと、辞書を引かなくてもわかってくるのかもしれませんね。「付き馬」「搗屋無間」はつき違いですか。

【2025年10月4日】引き続き『弊風一斑 畜妾の実例』(黒岩涙香、1898年)を。この書には計510人の名士諸賢がどんな女性をお妾さんに囲っているのかが記されてあります。よく、浜町は妾宅の街だったなどと言われていますが、ホントのところはどんなものだったのでしょうか。さっそくひもといてみると。ほほお。なるへそ。しょっぱなの諸賢を例に引いてみましょう。以下の通り。◆(一)医師原田貞吉 日本橋区蛎殻町二丁目十四番地の同人は、藤井ひさ(二十七)という妾を浜町一丁目十一番地原田潮方に置く。この潮は、ひさの腹に出来たる子にて明治廿七年に生る。又ひさの素性はよくわからざれども、和泉国日根郡孝子村百廿一番地、藤井寂勝の長女なりといえば、あるいは坊主の娘ならんか。◆浜町は妾宅街だったようですね。蛎殻町の医師が浜町に妾宅を。歩いて通えますね。しかも、ひさとの間の婚外子を戸主として家を買ってあげて母子で住まわせているという図。いやあ、よくもここまで。◆こんな調子で510人の名士諸賢の下半身事情が報告されているわけです。初出は黒岩涙香が編集する日刊紙の「万朝報」。連日7人程度の煩欲進行形がさらされる連載でした。さぞや諸賢は戦々恐々だったでしょうね。まるで死刑宣告のような。「あしたはおれの挽歌(=番か)」なんてね。

【2025年10月3日】黒岩涙香(黒岩周六、1862-1920)の『弊風一斑 蓄妾の実例』(1898年)なる書。名士諸賢がそれぞれかかえるお妾さんの実態をルポしています。森鷗外や佐野常民など、教科書にも出てきた有名人も登場します。誰が誰を囲っていたのか。それはもう、露骨丸出しです。明治31年(1898)当時の、東京在住の510人を取り上げています。◆落語家はいないものかと探しましたが、見当たりません。講談では初代松林伯知(柘植正一郎、1856-1932、猫遊軒伯知とも)が出ていました。ビックリです。講談だから抽選で、たまたまこの人になったのかもしれませんね。

【2025年10月2日】引き続き、矢野誠一の『古典落語』(駸々堂、1979年)から。四代目橘家円喬(柴田清五郎、1865-1912)を紹介する矢野の筆を紹介します。以下の通り。◆とにかく、圓喬をきいたひとは、口をそろえてそのうまさを絶賛する。それほどのひとでありながら、「あんないやな奴はいない」という声もきこえ、性向のほうも定まらず、しばしば色恋沙汰をひきおこし、師三遊亭圓朝危篤の折、その枕頭にかけつけながら、臨終に立ちあわず、通夜にも姿を見せなかった。そのため、圓朝の名跡を継ぐ最適任の芸の持ち主でありながら実現することなく終った。◆円朝が亡くなったのは明治33年(1900)8月11日でした。円喬も法華の信徒。彼らが気を許す8月8日、わくらばの円朝を見舞っています。数年間のご無沙汰でした。お互いにこれが最後の対面と知った上でのことだったのでしょう。二人は何を話したのか。よくはわかりません。円喬は、死の床にある円朝に向かって「二代目を継がせてほしい」と申し出たはず。いきなりです。円喬にはそんな唐突なところがありました。またか。歯噛みする円朝。円喬の態度や言い草が気に入らなかったのでしょう。円朝は円喬の申し出を断ります。おまえさんにはあげねえよ。数日後の葬式。円喬が立ちあわなかったのはそこにわけがありました。性急で酷薄な性格だったようですね。あれから125年。円喬は円朝よりもうすぼやけています。気が残るとはこのことでしょうか。そんなこととは無関係に噺のほうはとびきりだったのでした、円喬。

【2025年10月1日】きのうの続きを。矢野誠一といえば、先頃(7月23日)亡くなった評論家です。すばらしい仕事をしていました。しっかり見ている人でした。彼の一冊に『古典落語』(駸々堂、1979年)があります。きのう紹介した本です。落語の入門書ですが、類書とは趣がやや異なっています。見方が深い。たとえば、以下の一文を。五代目古今亭志ん生を紹介するくだりです。◆天衣無縫とか、自由闊達といった言葉で、このひとの芸を語るのがつねで、それはそれで間違った表現ではないのだが、本質はそんなところにあるわけじゃない。いささかなまはんかな技術が、必要以上に高く評価されすぎて、芸人そのものの持つ存在感の重さや、本当にすぐれた個性というものがなかなか認められなかった時代の風潮に、まるで無関心であるかのごとく、気のむくままにおのれの落語をつくりあげたところが尊いのである。伝えられる、他人の思惑などおかまいなしの、無手勝流をつらぬき通した、若き日の一種破滅型の生き方も、暗い冬の谷間から戦争、敗戦といった現代史のなかでとりあげることに、格別の意味がある。◆なかなか書けるものではありません。視点に独創があります。いちばん大切なところを見て、それをわかりやすい日本語で伝えています。こんな人、あまりいません。コピペして自論のように語る人はいくらでもいますがね。

【2025年9月30日】志ん生のやることなすことは落語界の来し方や落語家の行く末を支配してきたようです。以下は長男の言。◆個人芸なんだから。やっぱり何らかの努力をしなきゃ。ただ、一生懸命務めただけじゃだめ。高座でパッとひらめかないといけない。普段の生活ってものは高座にでますよ。これはね、お金を定期にして子供のために、なんてことじゃだめなんですよ。うちの親父さんなんか八方破れでね、結局それが無類の魅力になっていた。あれはこしらえようと思ってもこしられられてなるもんじゃない。うちが全員飢え死にしようがそんなことお構いなしなんだから(笑)。金ができたらワーッと女郎買いにいっちゃう。うちには飢えた妻子がいるのに(笑)。まあ、あそこまで行っちゃって抜けられればね、上へスポッとね。◆なんだか、素人目にはよいかんじですねえ。◆『古典落語』(矢野誠一、駸々堂、1979年)所収の104頁、矢野誠一(1935-2025)と十代目金原亭馬生(美濃部清、1928.1.5-82.9.13)の対談から。この本の魅力は全編、矢野誠一がつむいでいるところ。いや、もう、すばらしい。たまりません。

【2025年9月29日】初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は、小石川小日向の紺屋の息子だそうですが、高座では、一席の後に尻を端折って滑稽な踊りを踊ったそうです。男がズボンの下に履く半股引きをステテコと呼ぶようになったのは、この芸が喝采を受けて以来のことだそうです。ステテコの円遊。「船徳」「野ざらし」を今日の形に整えたのも、この人の足跡でした。◆130年前の紺屋、いや今夜、伊勢本で「味噌蔵」をやったそうです。ほお。

【2025年9月28日】陳舜臣(1924-2015)は神戸在住の華僑でした。台湾人です。のちに日本国籍を得るのですが、それはどうでもよいこと。彼は日本語で書いた小説で直木賞を受賞しました。彼の作品は何文学というのでしょうか。李恢成は? 邱永漢は? カズオ・イシグロは? 一般的には、その言語で表現された作品は著者が何人であろうと、その言語の文学だとされるのが通例です。◆小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はどうでしょう? 父はアイルランド人の英軍医。母はシチリア島出身のギリシャ人。八雲はギリシャのラフカディオ島(レフカス島)で生まれました。アメリカで新聞記者となった彼は生涯、英語で作品を書き、ニューヨークの版元から発信しました。ならば、アメリカ文学なのでしょうか。耳なし芳一が? 雪女が? うーん。どうもしっくりしませんなあ。どんなものでしょう。筑摩書房の明治文学全集には、『小泉八雲集』として一巻をなしてはいるのですがね。

【2025年9月27日】NHKの朝ドラ『あんぱん』が終わったのでアンパンを買えるかと思いましたが、そうでもありません。いまだ品切れ。人々の記憶からアンパンが遠のいてくれる日が来ればよいのですが。来週からは『ばけばけ』です。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850-1904)の妻せつがヒロインとのこと。これからは渡辺京二などが脚光を浴びるのでしょうか。八雲には「宿世の恋」という小品があります。作中、冒頭から「牡丹燈籠」が話題にのぼっています。◆円朝と八雲は怪談つながりか。はてさてどうでしょう。円朝は八雲よりも11歳上でした。八雲が松江から上京したのは明治29年(1896)です。円朝はその4年後に没します。29年の円朝は日蓮宗に改宗したりして、不安定な晩年のさなかです。二人は怪談つながりのお仲間と思いきや。互いの怪談観には隔たりができてしまっていました。◆明治の日本人が捨て去ろうとする「故き世のこと」を八雲は拾い集めようとしますが、円朝は客受けのため、自作の怪談を改竄していきます。えらい違いですね。『ばけばけ』ではどのように描かれるのでしょうか。新しいわくわくです。ぼけぼけの政治よりははるかに。

【2025年9月26日】政治の話題は遠巻きにしておきたいのですが。おもしろいネタもありまして。書かずにはおれないので記しておきます。日本保守党の竹上裕子代議士が離党したい由。記者会見がありました。いまどき、こんなマイナーなケースでもネットで見られる時代なのですね。ふむふむ。ほーお。なるへそ。政治家としての竹上氏の資質はどうかなあ、というかんじではありましたが、以前からささやかれていた党内二分のうわさはホントだったようです。それがわかっただけでも、この会見には意味がありました。トクヴィルでしたか。保守は内ゲバで分裂していくという説。なるほどなあ。当のご本人たちは真剣なのでしょうが、真剣であればあるほど、われわれには落語的な風景にしか見えません。滑稽です。善いのか悪いのか。政治の一片が身近なものになりましたが。

【2025年9月25日】九鬼周造は「粋」を西洋哲学的にとらえようと試みました。『「いき」の構造』です。周造が構造とは。二元性とかなんとか書いていますが、私にはよくわかりません。直感的にわかるのは、着物のタテ縞が粋である、ということ。痩せて見えます。痩せは粋です。浮世絵の雨。垂直ではなく斜めに降ります。これも粋。背中合わせの男女。実はぞっこん。粋です。みんなタテ縞ですね。きわめつけは『富嶽三十六景』の「本所立川」。題名もタテ川。材木の立ち姿が粋なのですね。やるなァ、葛飾北斎。みんな、ちょっとだけはずしている。謎がぼんやりと解けていきそうです。

北斎「本所立川」。みごとな左右の対比。右側が粋を満たしている

【2025年9月23日】新聞をていねいに読んでいると気づくことがあります。落語家の登場する率は、東京版ではかなり限定的です。関西版ではさまざまな場面に登場しています。お手頃なタレントがいないからなのでしょうか。媒体としては使い勝手のよい人たちなのかもしれません。どうであれ、関西の落語家のほうが地元なじみ率が高そうです。

【2025年9月18日】「ちりとてちん」と「幾代餅」の項目をつくりました。これまでは、「酢豆腐」の項目に「ちりとてちん」を付記し、「紺屋高尾」の項目に「幾代餅」を付記していました。しかし、どうも、そうもいかなくなりました。一般の落語事典では「幾代餅」や「ちりとてちん」は項目が立たないものでしたが、話の筋は少々異なります。同根ではあっても、筋が違っているのなら、項目を新たに立てたほうが読者には使いやすいのではないか、と判断したからです。

【2025年9月10日】読売の報道は誤報ではなかった、と言える結果になってしまいましたね。石破首相の辞任発表(7日夜)で。石破さんもカルバン派のキリスト教徒ならもう少し気概を見せてほしかったなあ。胆力があるかと思っていたのですが、そうでもなかった。7日夜放送のNHKスペシャルは、この現象を見越してのものだったのでしょうか。これでは、読売の勝ちぃ、ではありませんか。高笑いやせせら笑いが聞こえてきます。やはり、現代政治を語るのはこのコーナーには向きません。やめときます。

【2025年9月4日】社報でも「訂正とおわび」を載せていました。理由は「確認が不十分でした」。相手二人ののコメントを再掲載してました。驚きです。3日付の検証記事でも取材相手がうそを言っているという結論でした。しかも「周辺」からの取材で載せてるわけで。取材元がうそをついたと非難してどうするんでしょうか。政治家や容疑者にうそは付きものです。生き残りたいのだから当たり前でしょう。A氏が「私はやってません」と言ったのを真に受けて「A氏は無実」と打ったあと、A氏が逮捕・起訴されたら「A氏はうそつき」と打つのでしょうか。子どもじゃあるまいし。そんなむだな文章を誰が読むのでしょうか。ネットならまあ、地団太踏むだけですが。なんだかなあ。全体が劣化しているように思えてなりません。

【2025年9月2日】世の中、おかしなことが起こります。今日は、サントリーの会長、新浪剛史氏(66)が辞任しました。8月21日に福岡県警による家宅捜査を受けてのこと。大企業の会長が警察の捜査を受けたら、結果がシロでもクロでも辞めるべきだ、という発想はいかにも日本人じみています。ただ、サントリーはサプリを生産して世界に売り出している手前、違法サプリ(成分のテトラヒドロカンテドール)を所持している疑いがかけられたことは、企業として大きなマイナスだという判断も、かたや残ります。どんな展開になるのでしょう。

【2025年9月1日】日本の米=ジャポニカ種の世界シェアは2%だといいます。でも、これは勝機あるかもしれません。炒飯やパエリアには向きませんが、鰻丼はこれでないと。だから、輸出すればきっと有力商品になるでしょうね。

【2025年8月29日】政治がらみのことはめったに口にしませんが、気になったのでちょこっと記します。ここのところ、読売新聞が2回も誤報をやらかしました。どっちも重い。世間の反応は知りませんが、私はこう思います。誤報の発端は社内ですね。政治部と社会部との暗闘です。きっかけは主筆の死去から。ようすがおかしくなってます。50年間も冷飯を食わされてきた社会部がこれを好機と反旗を翻しました。敵は朝日でも日経でもない。またしても身内でした。石破政権と読売政治部帝国。どっちが先に倒れるのか。ホント、どっちなんでしょう。

【2025年8月11日】本日は円朝忌。三遊亭円朝が逝ったのは明治33年(1900)ですから、ゆうに世紀をまたいでいます。お墓は谷中の全生庵にあります。臨済宗国泰寺派の末寺です。国泰寺は富山県高岡市の古刹です。全生庵は明治の寺です。山岡鉄舟が尽力しました。臨済僧となった異父兄の影響もあり、円朝は若年から臨済禅で鍛錬されました。その流れの中で、伊達千広(陸奥宗光の父)や山岡鉄舟といった参禅家(こういうのが明治期にはいた)に導かれて、臨済禅で話芸を鍛えていきました。でも、人生はままならず。臨済禅のように道筋立った生き方はできませんでした。円朝本人は道筋を立てたつもりでしたが、その周囲には難問が山積していたのです。外見には順風満帆のように見えても、円朝本人は地獄を這っているような心持ち。最後まで思うにまかせません。結局、最後は臨済禅を捨てて日蓮宗に走るのでした。それでも、円朝の墓は臨済宗下の全生庵に。ここが人間の不可解なところでしょうか。円朝が世紀をまたいでも口舌にのぼるのは理路整然といかない人間なる生きものをみごとにえがいたところにあるのでしょう。南無。

【2025年8月8日】このサイトが開かなくなってから5か月がたっていました。早いもので。こういうとき、私立文系はなすすべを知りません。無力。やっとこさ、「魔法の手」におすがりして復活を遂げられました。ありがたいことです。明日からは初心にかえって出直します。そういえば、岩本和子さんもあれから6年がたち、出直していたようです。集英社オンラインのインタビュー記事、ほのかに感動しました。こちらは「神の手」で勝負している由。私は事情あって自宅で仮眠の日々。

【2025年3月2日】このサイトの基本文献である『口演速記 明治大正落語集成』(暉峻康隆ほか編、講談社、1980-81年)全7巻が、ウェブで公開されるようになったそうです。立花家蛇足氏の2025年1月15日付のブログで知りました。以下のように記されてあります。「国立国会図書館デジタルコレクションに無料会員登録(本登録)していればいつでも閲覧可能です。書籍は所有していますが、WEBの全文検索機能が嬉しい」。「書籍は所有していますが」と「WEBの全文検索機能が嬉しい」はつながりが悪い。「書籍は所有していますが」は余計でしょう。筆者がこの本を持っていようが持っていまいが、読者にはどうでもよいこと。デジタルコレクションで読めるようになり、全文検索できることが目玉の情報のはず。蛇足です。それにしても、喜ばしい知らせ。使い方の夢は広がります。

【2025年2月14日】『落語を聴かなくても人生は生きられる』(松本尚久編、ちくま文庫、2012年)。たしかにその通り。これをぱらぱらめくっていたら、長井好弘氏の一文が目についたので、まずはこれを。「志ん朝『最後』の十日間」。なるほど。しみじみ。うなります。さすがです。ただ、冒頭が気になりました。「二〇〇一年から二〇〇七年までの七年間で、末広亭のネタ帳に『古今亭志ん朝』という名前が記されているのは、わずか十日間である」と。これ、わざわざ記す意味があるのかな。だって、志ん朝は2001年10月1日に亡くなっているわけですからね。02年以降はネタ帳に記されるはずもない。当たり前だろうと。それでも、大家がこうやって記しているので、なにか深意が潜んでいるのかなとかんぐったりもして。深掘りして、思いは巡るのですが。うーん、わかりません。

【2025年2月13日】『八代目正蔵戦中日記』(八代目林家正蔵著、中公文庫、2022年)なる本。林家彦六が敗戦を迎えた頃は五代目蝶花楼馬楽でした。昭和20年8月15日の項の後段には「西新井へ往くに、堤の上を並んで朗かに七八人の青年が談笑してゐる。近づきみればみな半島の青少年にて郷土の言葉で話し合ってゐたるには意外なりき。」とあって、敗戦のようすをこんなふうにぼんやりとにじませています。うまい演出だなと思います。毎日せわしなくいろんなところを行き交う中での光景でした。そのまじめぶりは予想通り。

【2025年2月9日】訪米した石破茂首相がトランプ米大統領と仲良くなって帰ってきました。トランプ氏は長老派(カルバン派)、石破氏は日本キリスト教会(新日キ、カルバン派)で、同じ宗派の信者なのです。仲よしの裏はこれですね。なによりの固い絆。「次回の会談は教会ミサの後に」となるのでしょう。石破氏は母方の曽祖父が熊本バンドの出身だそうですから、筋金入りです。長老派はネオコンの宗派です。これは驚き。石破政権は長期にわたるかもしれません。安倍氏とは違うような。

【2025年2月6日】Youtubeで鮫島タイムスを見ていたら、何の手違いか、快楽亭ブラック師の毒演会がなだれこんできました。四段目、オマン公社、文七ぶっとい、女女指南、イメクラ五人廻し、SM幇間腹、道具屋松竹編……。政局から性局へ。ついつい気を許して見てしまいました。朗々と。毒だらけ。なぞっていない口跡にニヤリ。ほどよいめりはりも小気味よくて。自らこさえた言葉を脳内に何度も循環させて自家薬籠中のものに醸成していったかんじです。見ず知らず、人の心に突いてきます。うなりました。これぞ話芸。昔の寄席では客はこんな毒もりもりの噺でげらげら笑っていたのでしょう。木戸前にともされるほのかな灯を見た思い。

不定期連載  日本史のあらすじ  2021年11月13日~

不定期編集  落語の年表  2023年12月1日~

成城石井

■古木優プロフィル
1956年高萩市出身。高田裕史と執筆編集した「千字寄席」の原稿を版元に持ち込み、1995年に「立川志の輔監修」付きで刊行してもらいました。これがどうも不本意で。サイト運営で完全版をめざそうと思い立ち、2004年10月16日からココログで始めました。これも使い勝手がいまいち。さらに一念発起するや、2019年7月31日からは独自ドメイン(https://senjiyose.com)を取得して「落語のあらすじ事典 web千字寄席」として再始動しました。雑誌編集者として露命をつなぎつつ、噺に潜む「物語の底力」を渉猟中。すべては物語です。

成城石井

主な著書など
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 A5判 1995年
『千字寄席 噺の筋がわかる落語事典 下巻』(PHP研究所)高田裕史と共編著  A5判 1996年
『千字寄席 噺がわかる落語笑事典』(PHP研究所)高田裕史と共編著 文庫判 2000年
『図解 落語のおはなし』(PHP研究所)高田裕史と共編著 B5判 2006年
『粋と野暮 おけら的人生』(廣済堂出版)畠山健二著 全書判 2019年 ※編集協力

成城石井

■主な執筆稿
数知れず。ゴーストライターもあまた。売文の限りを尽くしました。家は建ちません。

成城石井

バックナンバー

【慶長の津波】2025年8月28日 

【なぜ東北大学は世界的なのか?】2025年8月22日

【落語家のどこを見ているのだろう】2024年3月11日

【別格だった東宝名人会】2024年3月10日

【志ん生のひとこと 003】2023年9月27日

志ん生と忍者】2023年9月26日

【白戸若狭守】2022年11月17日

【志ん生のひとこと 002】2020年2月2日

【志ん生のひとこと 001】2020年1月2日

【草戸千軒】2019年8月3日

成城石井

落語あらすじ事典 千字寄席編集部

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