【まんが学校の談志】
まんががっこうのだんし
NHKテレビドラマ『あんぱん』は、やなせ・たかし(劇中ではやないたかし、北村匠海)の奥さん、のぶ(今田美桜)の半生を描いています。
進行や展開に起伏を施すために、ドラマの多分にフィクションが鏤められているようです。
8月20日放送では、NHKテレビ番組「まんが教室」に出演する、やないたかしが描かれています。その横には、着物をはおった落語家が。
あれれ。
これは、昭和39年(1964)4月6日から42年(67)3月22日まで放送されていた、「まんが学校」がもとになっているんじゃないですか。すーっと、あの頃がよみがえります。
街はまだ汲み取りばかりで、外を闊歩しても体臭と糞便の匂いが立ち込めていた頃。中共(当時の中国の呼び名)の原爆実験で、雨が降ると「禿げるから傘を差しな」と厳しく言われていた、あの頃。
あの番組はたしか、毎週月曜日、18時から18時25分の時間帯で放送されていた、子供向けの番組でした。スタジオに、小学生が数人いて、クイズに答え、めがねのおじさんが絵を描いて答えを説明する、というもの。都会の子どもはなんてお行儀がよいのか、驚きました。ことば遣いもおとなみたいだし。

この年は、東海道新幹線(10月1日)が開通したり、東京オリンピック(10月10日)が開催されたり、にぎやかではれやかな時代でした。ずーっと続くように思えまましたが。
小学2年生だった私は、この番組の第1回放送を見ています。その印象は今でも鮮明です。
やなせ・たかし? まんが家? 聞いたことないなあ。
こんなかんじでした。
答えを絵で説明するのは、よくしゃべる、気安いおじさん。なんでもすらすら描けちゃう。
私が愛読していた、『週刊少年サンデー』(小学館)や『週刊少年マガジン』(講談社)では見かけない名前だったからです。手塚治虫、横山光輝、ちばてつや、赤塚不二夫、藤子不二雄なんかとは違うまんが家だなあ、という。
当時、番組を見ていると、やなせは子どもたちにまんがの描き方を教えるのですが、その手さばきがあざやかだったこと。これこそが強烈な印象でした。
その隣には着物姿の人。これは、親たちがよく話している「落語家」なんだなあ、という見当はついていました。でも、それだけ。
ドラマでは立川談楽という名前で、立川談慶師が演じていました。この人こそ、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)その人です。
やなせ・たかし。スタジオのまんが家が私の知らない人であったことだけが、印象に残る番組でした。隣の落語家は何を言っていたのかは、あまり記憶に残りません。
ところが。
その着物の人が、東京五輪が終わったあたりから、テレビでちらほら見るようになってきました。あ、落語家なんだ、と。いまにして思えば、「弥次郎」や「湯屋番」など、万人の視聴者向けにできるだけわかりやすい噺を選んでいたのでしょう。ずいぶんおもしろくて、スピーディーで。
「弥次郎」での「おーい、山本、かじろうじゃねえか」なんていうギャグ。山本嘉次郎を知らなくても、音とリズムで、子供でもしっかり笑えました。
その後の「笑点」では。司会をやってる人は、あ、「まんが学校」の、あの人だ。
その頃には、テレビでしょっちゅう。
「ホンコンやきそば」のテレビCMなんか、「ほんこんやきそば、ほんこんにうまいよ」と清朝の長衫姿で。いまにして思えば、あれは、志ん朝への当てつけだったのでしょうか。志ん朝=清朝をはおる、という。
このテレビCMがさかんに流れていたのは、私の記憶では昭和39年(1964)、40年(1965)あたりだったかと。柳家小ゑんではなく、立川談志になってからのCMでしょうね。ホンコンやきそばは、昭和39年(1964)から発売されたそうですし。
ちなみに、ホンコンやきそば。ヱスビー食品の味付け油揚げ麺です。いまも、宮城県、大分県の一部、北海道で売られているそうです。なんで、地域がとびとびなのか、私にはさっぱりですが、この地域の人々はじつにうらやましい。ほんこんにうまいよ、なんですから。
さて。
「まんが学校」では、談志は番組の進行役ながら、よくしゃべる隣の落語家の印象。でも、左とん平ほどはおもしろくなかった。そんな記憶です。
この人が、その後、「金曜夜席」や「笑点」で異能を見せつけるとは。でも、ああ、やっぱり、というかんじもありましたね。やっぱり出てきた、というかんじ。
談志は、勢いのままに『現代落語論』(三一書房、1965年)を刊行し、落語界に迫撃弾をぶっ放したりもしました。その流れから、やなせとの共著で『まんが学校』も三一書房から出したのでしょう。
この頃の三一書房は、五味川順平や樺美智子などでヒットを飛ばす出版社でした。談志も主力作家の一人に数えられたのでしょう。たしかに、『現代落語論』は類を見ない傑作です。これを機に落語評論家に転進していれば、日本の戦後文化もだいぶ変わったのではと思います。惜しい。
やなせという人も、人柄なのか、筋のよい人たちとの交流が多くあったのですね。

ところで。
昭和39年(1964)の落語界は、どんなだったのでしょうか。
たとえば、6月19日の東京落語会は、こんな噺家が出演していました。
第60回東京落語会
昭和39年(1964)6月19日18時、ヤマハホールで開演されました。その内容は、以下の通り。
粗忽長屋 金原亭馬太郎
猿後家 蝶花楼馬楽
湯屋番 三遊亭円遊
更衣(龍紋寺晋・作) 二代目三遊亭円歌
大山詣り 春風亭柳橋
インスタント時代(松井翠声・作) 柳亭痴楽
藁人形 五代目古今亭志ん生
「更衣」は衣替えのこと。龍紋寺晋は鴨下長治の筆名です。府中市在住の27歳。養護学校教諭のかたわら、新作落語をつくっていました。佳作には、大野桂の名前もありました。新進気鋭だったのですね。
この会で注目すべきは、志ん生の「藁人形」です。復帰後の志ん生です。陰々滅々とした、すさまじい風情が醸し出されていたのではないでしょうか。
これらに、文楽、円生、小さんも加えれば、落語の黄金時代だったようにも思えます。でも、じつは、そうでもなかったようです。落語界は危機を迎えていたのでした。危機回避の一策として、古今亭志ん朝の早すぎる真打ち昇進がありました。昭和23年(1962)のことです。談志がやたらとテレビに出ていたのは、そんな落語界の事情と無縁ではありませんでした。
2025年8月30日 古木優
■東京落語会とは?
昭和34年(1959)7月30日から始まった、NHK、NHKサービスセンター、落語協会、落語芸術協会が主催したホール落語です。初期は、形式上、NHKから独立した「東京落語会」(会長は久保田万太郎)が主催という形をとっっていました。会場は、イイノホール、サンケイホール、銀座ヤマハホール、ニッショーホールなど。東日本大震災や新型コロナなどの理由で9回中止になっています。月1回の開催は令和3年(2021)年3月19日で終了。結局、コロナ禍がこの会をぶっ壊したことになります。



