ねぎまのとのさま【ねぎまの殿さま】演目

【RIZAP COOK】

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

世間との乖離ぶりを笑う、「殿さま」もののひとつですね。

【あらすじ】

さるお大名が、庭の雪を眺め、急に向島の雪景色を見たくなった。

そこで、お忍びで、年寄りの側用人三太夫だけをお供に、本郷の屋敷を抜け出し、本郷切り通しから池之端仲町の、錦丹円という大きな薬屋の前に来て馬を止めると、うまそうな匂いが漂ってきた。

このあたりは煮売り屋が軒を並べていて、深川鍋や葱鮪を商っている。

ちょうど昼時で、殿さま、空腹に耐えられず、
「あれへ案内いたせ」

鶴の一声で、
「下郎の参る店でございます」
と三太夫が止めても聞かない。

縄のれんから入ると、殿さまにはなにもかも珍しく、「宮下」が大神宮さまの祭壇の下の席であると聞き、その場で拍手を打ったり、
「床几を持て」
と言いつけたりのトンチンカン。

床几の代わりに醤油樽に座らされ
「町人の食しているものはなんじゃ?」

若い衆が答えたのが、早口なものだから、殿さまには
「にゃっ」
と聞こえる。

「さようか。その『にゃー』を持て」
「へいッ、ねぎま一丁ッ」

ぐらぐらあぶった(煮た)のを見ると、煮売屋の安い葱鮪だから、鮪も骨と血合いがついたまま。

殿さま、葱を一口かむと、熱い芯が飛び出して丸呑みし、喉が焼けそうになったので、
「これは鉄砲仕掛けになっている」
と、びっくり。

酒を注文すると
「だりにいたしますか、三六にいたしますか?」

「だり」は一合四十文の灘の生一本、「三六」は三十六文の並み。

だりをお代わりして、殿さますっかりご機嫌になり、珍味であったとご満悦で、雪見をやめて屋敷へ帰る。

この味が忘れられず、何日かしてまた雪が降ると、ご膳番の留太夫に
「昼(食)の好みはニャーである」
とのお達し。

留太夫、なんのことかわからないが、ご機嫌を損ねればクビなので、聞き返せない。

首をひねった末、三太夫に聞いてやっと正体が判明したが、台所では、鮪の上等なところを蒸かし、葱もゆでて出したので、出てきたのは、だし殻同然。

殿さまは
「屋敷のニャーは鼠色であるな。さぞ珍味であろう」
と口をつけたが、あまりのまずさに
「これはニャーではない。チユーである。ミケのニャーを持て」

また、わけがわからない。

「ミケ」とは葱の白と青、血合いの垢の三色だと三太夫が「翻訳」したので、やっとその通りにこしらえると、殿さまは大満足。

熱い葱をわざわざかみつぶして
「うむ、やはり鉄砲仕掛けだ。ああ、だりを持て。三六はいかんぞ」

また三太夫に聞いて、瀬戸の徳利に猪口をつけ、灘の生一本を熱燗で持っていくと、殿さまは喜んでお代わり。

「だりと申し、ニャーと申し、余は満足に思うぞ」
「ありがたきしあわせ」
「だが留太夫、座っていてはうもうない。醤油樽を持て」

【RIZAP COOK】

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【しりたい】

だり

行商、駕籠、八百屋、魚屋の符丁で、4、40、400のこと。「だりがれん」だと45、450になります。

煮売り屋

一膳飯屋のことです。「煮売り」は上方から来た名称で、元は、長屋の住人などが、アルバイトに屋台のうどん、そばなどを商ったのが発祥です。江戸では、元禄年間(1688-1704)に浅草に奈良茶飯を食べさせる店ができたのが本格的な飲食店、つまり煮売屋のはしりとか。落語では「二人旅」にも登場します。

錦丹円

正しくは「錦袋円」、俗称を「金丹屋」ともいいました。元祖は了翁僧都という高僧で、承応4年(1655=明暦元)、夢告によって仁丹に似た錦丹円という霊薬の製法を授かり、これを売って得た三千両余で、現在の湯島聖堂の場所に寛文10年(1670)、「勧学寮」という学問所兼図書館を建設しました。大正年間まで残っていたその額は、徳川光圀(水戸黄門)の揮毫だったとか。錦丹円の娘が不忍池の主の大蛇に見初められ、池の中に消えたという伝説が残っていました。

池之端仲町

舞台になる池之端仲町は、現在の東京都台東区上野二丁目。このあたりは、古くは不忍池の堤でした。上野広小路と地続きで、将軍家の直轄領なので、お成りの際の警備の都合で本建築は許されず、バラック同様の煮売屋が並んでいました。店を、上野「袴腰の土手」と設定するやり方もあります。袴腰は、上野黒門の左右の石垣をさします。その形状が袴に似ていたから。今の上野公園のあたりです。

講談からの翻案

五代目立川談志(生没年不詳、明治初期-昭和初期)が、講談から落語に翻案したといわれます。講談では、殿さまは松江の雲州公(松平治郷、「目黒のさんま」参照)で、煮売り屋のおやじを召抱えて料理番にするという筋立てです。

今輔の十八番

昭和の新作落語のパイオニア的存在だった五代目古今亭今輔(1898-1976)が数少ない「古典落語」の持ちネタとして十八番にしていました。現在でもよく高座に掛けられますが、客がセコなときに演る「逃げ噺」の代名詞的存在です。

【語の読みと注】
葱鮪 ねぎま
床几 しょうぎ
錦袋円 きんたいえん

【RIZAP COOK】

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竹の水仙 たけのすいせん 演目

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講談の名匠ものを借用した一席。だから、オチはありません。

【あらすじ】

天下の名工として名高い、左甚五郎。

江戸へ下る途中、名前を隠して、三島宿の大松屋佐平という旅籠に宿をとった。

ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。

たまりかねた主人に追い立てを食らう。

甚五郎、平然としたもので、ある日、中庭から手頃な大きさの竹を一本切ってくると、それから数日、自分の部屋にこもる。

心配した佐平がようすを見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。

たまげた佐平に、甚五郎、
「この水仙は昼三度夜三度、昼夜六たび水を替えると翌朝不思議があらわれるが、その噂を聞いて買い求めたいと言う者が現れたら、町人なら五十両、侍なら百両、びた一文負けてはならないぞ」
と言い渡す。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開いたと思うと、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。

そこへ、たまたま長州公がご到着になり、このことをお聞きになると、ぜひ見たいとのご所望。

見るなり、長州公
「このような見事なものを作れるのは、天下に左甚五郎しかおるまい」

ただちに、百両でお買い上げになった。

甚五郎、また平然と
「毛利公か。あと百両ふっかけてもよかったな」

いよいよ出発という時、甚五郎は半金の五十両を宿に渡したので、今まで追い立てを食らわしていた佐平、ゲンキンなもので
「もう少しご逗留になったら」

江戸に上がった甚五郎は、上野寛永寺の昇り龍という後世に残る名作を残すなど、いよいよ名人の名をほしいままにしたという、「甚五郎伝説」の一説。

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【うんちく】

小さんの人情噺

五代目柳家小さんの十八番で、小さんのオチのない人情噺は珍しいものです。古い速記は残されていません。

オムニバスとして、この後、江戸でのエピソードを題材にした「三井の大黒」につなげる場合もあります。

桂歌丸がやっていました。柳家喬太郎なども演じ、若手でも手掛ける者が増えています。あまり受ける噺とも思われませんが。

講釈ダネの名工譚

世話講談(講釈)「左甚五郎」シリーズの一説を落語化したものとみられます。

「三井の大黒」「ねずみ」など、落語の「甚五郎」ものはいずれも講釈ダネです。左甚五郎については「三井の大黒」をお読みください。

噺の中で甚五郎が作る「竹の水仙」は、実際は京で彫り、朝廷に献上してお褒めを賜ったという説があって、三代目桂三木助は「ねずみ」の中でそう説明していました。

【語の読みと注】
旅籠 はたご

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五目講釈 ごもくこうしゃく 演目

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「若だんな勘当もの」の一つです。

【あらすじ】

お決まりで、道楽の末に勘当となった若だんな。

今は、親父に昔世話になった義理で、さる長屋の大家が預かって居候の身。

ところがずうずうしく寝て食ってばかりいるので、かみさんが文句たらたら。

板挟みになった大家、
「ひとつなにか商売でもおやんなすったらどうか」
と水を向けると、若だんな、
「講釈師になりたい」
と、のたまう。

「それでは、あたしに知り合いの先生がいますから、弟子入りなすったら」
大家がと言うと
「私は名人だから弟子入りなんかすることはない、すぐ独演会を開くから長屋中呼び集めろ」
と、大変な鼻息。

若だんな、五十銭出して、
「これで菓子でも買ってくれ」
と気前がいいので、
「まあそんなら」
とその夜、いよいよ腕前を披露することにあいなった。

若だんな、一人前に張り扇を持ってピタリと座り、赤穂義士の討ち入りを一席語り出す。

「ころは元禄十五年極月中の四日軒場に深く降りしきる雪の明かりは見方のたいまつ」
と出だしはよかったが、そのうち雲行きが怪しくなってくる。

大石内蔵助が吉良邸門外に立つと
「われは諸国修行の勧進なり。関門開いてお通しあれと弁慶が」
といつの間にか、安宅の関に。

「それを見ていた山伏にあらずして天一坊よな、と、首かき斬らんとお顔をよく見奉れば、年はいざようわが子の年輩」
と熊谷陣屋。

そこへ政岡が出てくるわ、白井権八が出るわ、果ては切られ与三郎まで登場して、もう支離滅裂のシッチャカメッチャ。

「なんだいあれは。講釈師かい」
「横町の薬屋のせがれだ」
「道理で、講釈がみんな調合してある」

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【しりたい】

またも懲りない若だんな

原話は、安永5年(1776)刊『蝶夫婦』中の「時代違いの長物語」です。

これは、後半のデタラメ講釈のくだりの原型で、歌舞伎の登場人物を、それこそ時代もの、世話ものの区別なく、支離滅裂に並べ立てた噴飯モノ。いずれにしても、客が芝居を熟知していなければなにがなにやら、さっぱりわからないでしょう。

前半の発端は「湯屋番」「素人車」「船徳」などと共通の、典型的な「若だんな勘当もの」のパターンです。

江戸人好みパロディー落語

明治31年(1898)の四代目春風亭柳枝(1868-1927)の速記が残ります。柳枝は、「子別す」「お祭佐七」「宮戸川」などを得意とした、当時の本格派でした。 

寄席の草創期から高座に掛けられていた、古い噺ですが、柳枝がマクラで、「お耳あたらしい、イヤ……お目あたらしいところをいろいろとさし代えまして」と断っているので、明治も中期になったこの当時にはすでにあまり口演されなくなっていたのでしょう。

講談や歌舞伎が庶民生活に浸透していればこそ、こうしたパロディー落語も成り立つわけで、講釈(講談)の衰退とともに、現在ではほとんど演じられなくなった噺です。CD音源は五代目三遊亭円楽のものが出ています。

興津要(早大教授、1999年没)はこの噺について「連想によってナンセンス的世界を展開できる楽しさや、ことば遊び的要素があるところから江戸時代の庶民の趣味に合致したもの」と述べています。

五目

もともとは、上方語で「ゴミ」。転じて、いろいろなものがごちゃごちゃと並んでいること。現在は「五目寿司」など料理にのみその名を残します。

遊芸で「五目の師匠」といえば、専門はなにと決まらず、片っ端から教える人間で、江戸でも大坂でも町内に必ず一人はいたものです。

【語の読みと注】
蝶夫婦 ちょうつがい

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本膳 ほんぜん 演目

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【RIZAP COOK】

今も悩ますテーブルマナー。フレンチばかりか和食にだって昔から。

【あらすじ】

ある村のむらおさ(庄屋)の家で嫁取りをした。

村の衆が婚礼の際に祝物を贈った返礼に、今夜、村のおもだった者三十六人が招待され、ごちそうになることになったが、誰も本膳の作法や礼式を知らない。

恥をかきたくないので、江戸者の手習いのお師匠さんに頼んで、泥縄で教えてもらうことにした。

相談された師匠、
「今夜ではとても一人ずつ稽古する時間はないから、上中下どこの席についても、自分のすることをまねするように」
と言い、
「羽織りだけは着ていくように」
と注意する。

「それなら間違えがねえ」
と一同安心して、いよいよ宴席。

主人があいさつし、盃が回された後、いよいよ本膳。

師匠が汁碗の蓋を取ると、一同同じように蓋を取る。

師匠が一口吸うと、隣の男が次席の者に
「これ、二口吸うでねえぞ。礼式に外れるだ。一口だぞ。一口一口」

これを順番に同じ文句で隣の人間に伝えていくのだから、末席まで伝わるのにえらく時間がかかる。

今度はご飯を一口食うと、同じように
「たんと食ってはダミだぞ」
と伝達が回る。

師匠、おかしくなってクスリと笑うと、とたんに鼻先に飯粒が二粒くっついた。

一同、さあ、食うだけでは礼式を違えると、一斉に飯粒を鼻へ。

間違って五粒くっつけてしまった男が、あわてて三粒食ってしまう騒ぎ。

平碗が出て、中身は悪いことに里芋の煮っころがし。しかも箸が塗り箸だから、ヌルヌルしてはさめない。

師匠、不覚にもつるっと箸がすべって、膳の上に芋が転がり出た。

仕方なく箸で突っ付いていると、さっそくあちらでもこちらでも芋をコロコロコロ。箸でコツンコツンやるから、膳は傷だらけ。

先生、
「今のは違う違う」
といくら注意しても聞こえないから、隣の脇腹を拳固で突いた。

「あいてッ、今度の礼式はいてえぞ」
とまた、その隣をドン。それがまた隣をドン。

「いてえ、あにするだ」
「本膳の礼式だ。受け取ったら次へまわせ」
「さあ、この野郎」
「そっとやれ」
「そっとはやれねえ。覚悟スろ。ひのふのみ」
「いててッ」

最後の三十六人目が思いきり突いてやろうと隣を見ても誰もいない。

「先生さまぁ、この礼式はどこへやるだ?」

底本:八代目林家正蔵(彦六) 三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

【しりたい】

大昔から変わりなく

後漢(25-220)の笑話集『笑林』中の「-人欲相共只喪」が最古の原話とされます。

これは、葬列で足を踏まれた人が怒って「バカ」と罵ったのを後ろの者が追悼の儀礼と勘違いし、一同まねして「バカ」と叫んだというお話。 

日本の笑話では、元和年間(1615-24)刊の『戯言養気集』中の無題の小咄で、信濃国深志の連中が伊勢参宮して御師(=伊勢神宮の神職)に膳をふるまわれ、先達の坊さんが山椒にむせて顔をしかめ、水をのんだのを全員まねする、というお笑い。万治2年(1659)刊の『百物語』にも、にゅう麺の薬味の山椒にむせてクシャミをし、四つんばいで退出するのをまた一同まねする小咄があります。

各地の民話に類話があるようで、現代の結婚式風景などを見ても、テーブルマナーなるものが古今東西、いかに人を悩ませてきたかが伺われます。

本膳

日本料理の正式の膳立てで、ふつうは三の膳まであります。最初に出る一の膳を本来「本膳」と呼びますが、三の膳までひっくるめてそう呼ぶ場合もあります。

正式なマナーとしては、和え物と煮物に続けて箸をつけない、菜と汁をいっしょに食べない、迷い箸をしない、おかわりの時は飯碗を受け取ったら必ず一度膳に置く、などがあります。いやはや、うるさいことです。本膳では、一の膳に飯がつくのがふつうです。

彦六、小さんが得意に

三代目柳家小さんから四代目を経て、五代目小さんに受け継がれていたほか、三代目小さんの養子だった二代目柳家つばめに教わって、八代目林家正蔵(彦六)もよく演じました。地味で笑いも少なく、ウケにくい噺なので、現在は若手ではほとんど手掛ける者がなく、CDも出ているのは五代目小さんのもののみです。

正蔵のものは、小さん系のやり方とほとんど変わりありませんが、招待されるきっかけが違っています。三代目小さんの大正3年(1914)の速記では名主の家へ江戸者の婿が来る披露で、庄屋以下が出かける設定です。江戸の人間に村の恥を見せたくないという見栄が、師匠に作法を習いに行く動機になっているわけです。

正蔵ではこの要素を省き、村長の招待で村民一同が出かけることにしてあります。これで、名主と庄屋は同じであるのに、同じ地方の一つの村に同時にいるのはおかしいという矛盾を解消しています。

オチは、五代目小さんは「この拳はどこへやるだ?」としていました。

村長

むらおさ。庄屋、名主に同じです。藩主(天領の場合は幕府→代官)の任命で、地頭(代官)の下で年貢そのほか、村の事務を司りました。関東以北で名主、関西で庄屋と呼びました。

講談にも類話

講談「荒茶の湯」では、福島正則以下の無骨な侍が、茶の席で上座の加藤清正を逐一まねして失敗します。

【RIZAP COOK】

唐茄子屋政談 とうなすやせいだん 演目

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若だんな。放蕩の行き着く果てはかぼちゃ売り。人生のお楽しみはこれからです。

別題:性和善 唐茄子屋 なんきん政談

【あらすじ】

若だんなの徳三郎。

吉原の花魁に入れ揚げて家の金を湯水のように使うので、おやじも放っておけず、親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

徳三郎は蛙のツラになんとやら。

「勘当けっこう。お天道(てんと)さまと米の飯は、どこィ行ってもついて回りますから。さよならッ」

威勢よく家を飛び出したはいいが、花魁に相談すると、もうこいつは金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、おばさんの家に顔を出すと「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。まごまごしてると水ぶっかけるよッ」と、ケンもほろろ。

もう土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。

おまけに夕立でずぶ濡れ。

吾妻橋に来かかると、向こうに吉原の灯。

つくづく生きているのが嫌になり、橋から身を投げようとすると、通りかかったのが、本所の達磨(だるま)横丁で大家をしているおじさん。

止めようとして顔を見ると甥の徳。

「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな」
「アワワ、助けてください」
「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
「ざまあみやがれ」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺して、その晩は寝かせる。

翌朝。

おじさん、唐茄子を山のように仕入れてきた。

「今日からこれを売るんだ」

格好悪いとごねる徳を
「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」
としかりつけ、天秤棒(てんびんぼう)を担がせると、弁当は商いをした家の台所を借りて食えと、教えて送りだす。

徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。

浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ、動けない。

見かねた近所の長屋の衆が、事情を聞いて同情し、相長屋の者に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。

礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。

吉原田んぼに来かかると、つい花魁との濡れ場を思い出しながら、行き着いたのが誓願寺店。

裏長屋で、赤ん坊をおぶったやつれた女に残りの唐茄子を四文で売り、ついでに弁当を遣っていると、五つばかりの男の子が指をくわえ、
「おまんまが食べたい」

事情を聞くと、亭主は元侍で今は旅商人だが、仕送りが途絶えて子供に飯も食わされないと、いう。

同情した徳、売り上げを全部やってしまい、意気揚々とおじさんの長屋へ。

聞いたおじさん、半信半疑で、徳を連れて夜道を誓願寺店にやってくると、長屋では一騒動。

あれから女が、このようなものはもらえないと、徳を追いかけて飛び出したとたん、因業大家に出くわし、金を店賃に取られてしまったという。

八百屋さんに申し訳ないと、女はとうとう首くくり。

聞いてかっとした徳三郎、大家の家に飛び込み、いきなりヤカン頭をポカポカポカ。

長屋の連中も加勢して大家をのした後、医者を呼び手当てをすると、幸い女は息を吹き返した。

おじさんが母子三人を長屋に引き取って世話をし、徳三郎には人助けで、奉行から青ざし五貫文のほうび。

めでたく勘当が許されるという人情美談の一席。

底本:五代目古今亭志ん生

【しりたい】

原話は講釈ダネ

講談(講釈)の大岡政談ものを元にした噺です。落語のほうにはお奉行さまは登場しません。

「唐茄子屋」の別題で演じられることもありますが、与太郎が唐茄子を売りに行く「かぼちゃ屋」も同じく「唐茄子屋」と呼ばれるので、この題だとどちらなのか紛らわしくなります。もちろん、まったくの別話です。

元は悲しき結末

明治期では初代三遊亭円右、三代目柳家小さんという三遊派、柳派を代表する名人が得意にしました。

大正13年(1924)刊行の、晩年の小さんの速記が残っていますが、滑稽噺の名手らしく、後半をカットし、若だんなの唐茄子を売りさばいてやる長屋の連中の笑いと人情を中心に仕立てています。

五代目小さんは手掛けず、現在は柳家系統には三代目のやり方は伝わっていません。

古くは、女はそのまま死ぬ設定でしたが、後味が悪いというので、現行はハッピーエンドになっています。

志ん生と円生、その違い

五代目古今亭志ん生が、滑稽噺と人情噺の両面を取り入れてもっとも得意にしたほか、六代目三遊亭円生、三代目三遊亭金馬、八代目林家正蔵(彦六)もしばしば演じていました。

志ん生と円生のやり方を比べると、二人の資質の違いがはっきりわかります。

叔父さんが、「てめえは親の金を遣い散らすからいけねえ、オレはてめえのおやじのように野暮じゃねえから、もしまじめに稼いで、余った金で、叔父さん今夜吉原に付き合ってくださいと言うなら、喜んでいっしょに行く」というくだりは同じですが、そのあと志ん生は「へへ、今夜」「今夜じゃねえッ」とシャープ。

円生は饒舌で、徳がおやじの愚痴をひとくさりし、そのあと花魁のノロケになり、「叔父さんに引き会わせたい」と、しだいに図に乗って、やっと、「今晩いらっしゃいます?」「(あきれて)唐茄子を売るんだよ」となります。

キレよく飛躍的に笑わせる志ん生と、じわりとおかしさを醸し出す円生の、持ち味の差ですね。どちらも捨てがたいもの。

志ん生の江戸ことば

ここでのあらすじは、五代目志ん生の速記・音源を元にしました。

若だんなが勘当になり、金の切れ目が縁の切れ目と花魁にも見放される前半のくだりで、志ん生は「おはきもん」という表現を使っています。この古い江戸ことばは、語源が「お履物」で、遊女が情夫に愛想尽かしをすることです。

履物では座敷には上がれないことから、家の敷居をまたがせない意味が、女郎屋の慣習に持ち込まれたわけです。なかなか、味のある言葉ですね。

吾妻橋

あづまばし。架橋は安永3年(1774)。元は大川橋と呼び、身投げの「名所」で知られました。

達磨横丁

だるまよこちょう。叔父さんが大家をしているところで、現在の墨田区東駒形一-三丁目、吾妻橋一丁目、本所三丁目にあたり、もと北本所表町の駒形橋寄り。地名の由来は、ここに名物の達磨屋があったからとか。

誓願寺店

せいがんじだな。後半の舞台になる誓願寺店は、現在の台東区元浅草四丁目にあたり、旧東本願寺裏の誓願寺門前町に実在した裏長屋です。

誓願寺は、浄土宗江戸四か寺の一で、寺域一万坪余、十五の塔頭を持つ大寺院でしたが、現在は府中市の多磨霊園正門前に移転しています。

小間物屋政談 こまものやせいだん 演目

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もとは世話講談。志ん生もまねていました。

別題:小間物屋小四郎 万両婿(講談)

【あらすじ】

京橋五郎兵衛町の長屋に住む、背負い(行商)の小間物屋、相生屋小四郎。

今度上方へ行って一もうけしてきたいというので、その間、留守に残る女房のお時のことを家主の源兵衛にくれぐれも頼んで旅立つ。

東海道を一路西に向かって、ちょうど箱根の山中に差しかかった時、小便がしたくなり、雑木林の中に分け入ると、不意に
「もし……お願いでございます」
と、弱々しい男の声。

見回すと、裸同然で松の根方に縛りつけられている者がある。

急いで縄を切って助けると、男は礼を言って、自分は芝露月町の小間物屋、若狭屋の主人で甚兵衛という者だが、病身で箱根に湯治に行く途中、賊に襲われて身ぐるみ剥がれ、松の木に縛られて身動きもならなかった、と語る。

若狭屋といえば、同業ながら行商の小四郎とは大違いで、江戸で一、二と聞こえた大店。

その主人が裸道中も気の毒だと同情した小四郎、金一両と自分の藍弁慶縞の着物に帯まで与えた。

甚兵衛は江戸へ帰り次第、小四郎の留守宅に借りたものを返しに行くというので、住所名前を紙に書いて渡し、二人は互いに道中の無事を祈って別れる。

さて、甚兵衛はその晩、小田原宿の布袋屋という旅籠に宿をとる。

ところが夜中、病身に山中で冷えたのがこたえてか、にわかに苦しみだし、敢えなく最期をとげてしまった。

宿役人が身元調べに来て、身の回り品を調べた。

着物から江戸京橋五郎兵衛町という住所の書きつけが出てきたので、てっきりこの男は小四郎という小間物屋に違いない、と。

すぐに家主の源兵衛と女房お時のところに、死骸を引き取りに来るよう、知らせが届いた。

泣きじゃくるお時をなだめて、源兵衛が小田原まで死骸の面通しに行ってみると、小四郎が江戸を出る時着ていた藍弁慶の袷を身につけているし、甚兵衛そのものの面差しが小四郎に似ていたこともあり、本人に間違いないと早合点、そのまま骨にして江戸へ持ち帰る。

三十五日も過ぎ、源兵衛はお時に、このまま女一人ではどんな間違いがあるかもしれないから、身を固めた方がいいと、せめて一周忌まではと渋るのをむりやり説き伏せ、小四郎の従兄弟にあたる、やはり同業の三五郎という男と再婚させた。

三五郎にとって、お時はもとより惚れていた女。

甲斐甲斐しくお時のめんどうを見るので、いつしかお時の心もほぐれ、小四郎のことをようよう思い切るようになった。

そんなある夜。

「おい、お時、……お時」

表の戸をせわしなくたたく者がある。

不審に思ってお時が出てみると、なんと死んだはずのもとの亭主、小四郎の姿。

てっきり幽霊と思い、
「ぎゃっ」
と叫んで大家の家に駆け込む。

事情を聞いた源兵衛が、半信半疑でそっとのぞいてみると、まさしく本物。

本人は上方の用事が長引いて、やっと江戸へ帰り着いてみると自分がすでに死人にされているのでびっくり仰天。

小田原の死体が実は若狭屋甚兵衛で、着物は小四郎が貸した物とわかっても、葬式まで済んでしまっているから、もう手遅れ。

お時も、いまさら生き返られてももとには戻れない、とつれない返事。

完全に宙に浮き、半狂乱の小四郎がおそれながらと奉行所へ訴え、名奉行大岡越前守さまのお裁きとあいなる。

結局、奉行のはからいで、小四郎は若狭屋甚兵衛の後家でお時とは比較にならないいい女のおよしと夫婦となり、若狭屋の入り婿として資産三万両をせしめ、めでたくこの世に「復活」。

「このご恩はわたくし、生涯背負いきれません」
「これこれ。その方は今日から若狭屋甚兵衛。もう背負うには及ばん」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

講談からの翻案

講談「万両婿」を人情噺に翻案したものか、またはその逆ともいわれます。

六代目三遊亭円生は、幕末から明治初期の五代目翁家さん馬の速記に、この噺が人情噺として載っていると語っていますが、現行の演出は、円生が、酔いどれ名人といわれた四代目小金井蘆洲の世話講談「万両婿」を新たに仕立て直し、オチもつけたものです。

ほかに、講釈師時代に蘆洲の弟子だった五代目古今亭志ん生も、聞き覚えで演じていました。

背負い小間物屋

白粉、紅、櫛、笄(こうがい)その他、婦人用品を小箪笥の引き出しに分けて入れ、得意先を回ります。

その中には性具の「張り形」もあり、「小間物屋 にょきにょきにょきと 出してみせ」という怪しげな雑俳もあります。もちろん、出したのは商売物だけでは……なかったでしょうが。

箱根の湯治場

江戸から片道三日ないし四日の行程で、箱根七湯といい、それぞれ本陣がありました。

湯治は七日間を単位に、一回り、二周りといい、最低三回りしなければ湯の効き目は出ないものとされました。

料金は、文政(1818-30)初年で三回りして三両といいますから、湯治も下層町人には行けて一生一度、多くは縁がないものでした。

五郎兵衛町

ごろべえちょう。京橋辺。鍜治橋の東。狩野屋敷の南にあり、東西に続く両側町。南は紺屋町、東は畳町、西は外堀端の通りで、鍜治橋御門外にあたります。中央区八重洲二丁目。

草創名主の中野五郎兵衛の住居があったことに由来するとのこと(東京府志料)。子孫は代々名主を世襲していました。

南裏を古着新道(ふるぎじんみち)と俗称したとか(御府内備考)。大正元年(1911)頃にはまだ十二軒の古着商店があったそうです(京橋繁昌記)。小四郎の住所とするには説得力があります。

明治二年(1869)に南隣の狩野探原屋敷を合併しています。

露月町

ろうげつちょう。芝辺。源助町の南、東海道沿いに位置する両側町の町屋です。「ろげつ」とも。港区東新橋二丁目、新橋四-五丁目。

東は陸奥会津藩松平中屋敷、南は柴井町、西は日蔭町通を境に御目付遠山家屋敷と旗本植村家屋敷。遠山家とは名奉行で知られる遠山景元の屋敷です。この町名を出すことで、名奉行や政談を想起させる仕掛けだったのかもしれません。

「ろ月町」と記したのが、宝永(1704-11)年間から「露月町」と改めたとのこと(文政町方書上)。寛永九年(1633)の寛永江戸図には「ろう月丁」と。

もとは日比谷御門内にあり、「老月村」と称していながら、徳川家康の関東入部で江戸城洲地区にともない、芝辺に移して「露月町」と改めたとも(新撰東京名所図会)。

このように、古町ながら、町起立、町名由来、草創人などは不明。

文政町方書上によれば、文政十年(1827)の統計は以下の通りです。

総家数は160あって、その内訳は
家持1
家主23
地借36
店借100
町内の家主、忠七の地内に出世稲荷
とのこと。

文政七年(1824)の『江戸買物独案内』には、鰻蒲焼き屋で尾張町(銀座辺)に出店した大和田兼吉がいるとのこと。

慶応三年(1867)には、中川喜兵衛が町内に江戸で最初の牛鍋屋を始めたそうです(芝区誌)。

一見平凡のようでありながら、少々進取の気性があって出世者も輩出しており、この噺にふさわしい町のように見えます。

【小間物屋政談 六代目三遊亭円生】

阿武松 おうのまつ 演目

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これは珍しい、相撲取りが主人公の噺です。いやあ、これがまたよく食う。

別題:出世力士

【あらすじ】

京橋観世新道に住む武隈文右衛門という幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至(ふげし)郡鵜川村字七海の在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車というしこ名を与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分やって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠に泊まり、一期の思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみるとこれこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山(しころやま)喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている、相撲取りが飯を食わないではどうにもならない、一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑というしこ名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助と出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

阿武松緑之助

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

しこ名の由来は、お抱え先の長州・萩の阿武の松原から。 

板橋宿

中仙道の親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。上宿、中宿、平尾宿(下宿)に分かれていました。

戸田川は荒川のこと。隅田川の上流で、板橋宿の外れ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

観世新道

かんぜじんみち。中央区銀座一丁目。

講談から脚色

講釈をもとにできた噺。講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(おもちゃ屋の馬生)に教わって、六代目三遊亭円生が得意にしていた人情噺。先代三遊亭円楽に継承されました。

「阿武松じゃあるめえし」

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙を買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。

五貫裁き ごかんさばき 演目

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別題「一文惜しみ」。生業めざす熊を応援する大家と質屋との泥仕合。ケチ噺。

【あらすじ】

四文使いという、博打場の下働きをしている熊。

神田三河町の貧乏長屋に住むが、方々に迷惑をかけたので、一念発起して堅気の八百屋になりたいと、大家の太郎兵衛に元手を借りに来た。

ケチな大家は奉賀帳を作り、
「まず誰か金持ちの知り合いに、多めに金をもらってこい」
と突き放す。

ところが、戻ってきた熊は額が割れて血だらけ。

昔、祖父さんが恩を売ったことのある質屋・徳力屋万右衛門方へ行ったが、なんとたった一文しか出さないので
「子供が飴買いにきたんじゃねえッ」
と銭を投げつけると、逆に煙管でしたたかぶたれ、たたき出されたというお粗末。

野郎を殺すと息まくのを、大家は
「待て。ことによったらおもしれえことになる」

なにを言い出すのかと思ったら
「事の次第を町奉行・大岡さまに駆け込み直訴しろ」
と知恵をつけた。さすがは因業な大家、お得意だ。

ところが奉行、最初に銭を投げつけ、天下の通用金を粗略にした罪軽からずと、熊に科料五貫文、徳力屋はおとがめなし。

まだ後があり、
「貧しいその方ゆえ、日に一文ずつの日掛けを許す」

科料を毎日一文ずつ徳力屋に持参し、徳力屋には中継ぎで奉行所に届けるよう申し渡す。

夜が明けると大家は、
「一文はオレが出すから銭を届けてこい、ただし、必ず半紙に受け取りを書かせ、印鑑ももらえ」
と、念を押す。

徳力屋はせせら笑って、店の者を奉行所にやったが、
「代人は、天下の裁きをなんと心得おる。主人自ら町役人、五人組付き添いの上、持って参れッ」
と、しかりつけられたから大変。

たった一文のために毎日、膨大な費用を払って奉行所へ日参しなければならない。

奉行の腹がようやく読めて、万右衛門は真っ青。

その上、逆に自分が科料五貫文を申しつけれられてしまった。

それから大家の徳力屋いじめはいやまし、明日の分だといって、夜中に届けさせる。

店の者が怒って、
「奉行もへちまもあるか」
と口走ったのを、熊が町方定回り同心に言いつけたので、さんざん油を絞られる羽目に。

大家は
「また行ってこい。明後日の分だと言え。徳力屋を寝かすな」

こうなると熊もカラクリがわかり、欲が出て毎晩毎晩ドンドンドン。

徳力屋、一日一文で五貫文では十三年もかかる上、町役人の費用、半紙五千枚……、これでは店がつぶれる、と降参。

十両で示談に来るが、大家が
「この大ばか野郎め。昔生きるか死ぬかを助けてもらった恩を忘れて、十両ぱかりのはした金を持ってきやがって。くそォ食らって西へ飛べッ」
と啖呵を切ったから、ぐうの音も出ない。

改めて熊に五十両払い、八百屋の店を持たせることで話がついた。

これが近所の評判になり、かえって徳力屋の株が上がった。

万右衛門、人助けに目覚め、無利子で貧乏人に金を貸すなど、善を施したから店は繁盛……と思ったら、施しすぎて店はつぶれた。

熊も持ちつけない金に浮かれ、元の木阿弥で、やがては行方知れず。

【しりたい】

これも講釈ダネ

大岡政談ものの、同題の講談を脚色したもの。講談としては、四代目小金井蘆洲の速記があります。

六代目三遊亭円生は「一文惜しみ」の題で演じましたが、立川談志のは、先代・一龍斎貞丈直伝で、設定、演題とも講談通りの「五貫裁き」です。

円生のやり方、談志のやり方

長講で登場人物も多く、筋も入り組んでいるので、並みの力量の演者ではこなせません。そのためか、現役では談志のほかはあまり手掛ける人はいません。

「一文惜しみ」としては、六代目円生以前の速記が見当たらず、落語への改作者や古い演者は不明です。

円生はマクラにケチ噺の「しわいや」を入れ、「強欲は無欲に似たり。 一文惜しみの百両損というお噺でございます」と終わりを地の語りで結ぶなど、吝嗇(りんしょく=けち)噺の要素を強くし、結末もハッピーエンドです。

談志は、講談の骨格をそのまま踏襲しながら、人間の業を率直にとらえる視点から逆に大家と熊の強欲ぶりを強調し、結末もドンデン返しを創作しています。

四文使い

博打場で客に金がなくなったとき、着物などを預かって換金してくる使い走りで、駄賃に四文銭一枚もらうところから、この名があります。

銭五貫の価値

時代によってレートは変わりますが、銭一貫文=千文で、一朱(一両の1/16)が三百文余りですから、五貫はおよそ五両一両あまりに相当します。

三方一両損 さんぽういちりょうぞん 演目

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柳原土手で金が拾った三両。ホントの意味はこういうことなんですね。

【あらすじ】

神田白壁町の長屋に住む左官の金太郎。

ある日、柳原の土手で、同じく神田堅大工町の大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、さっそく家を訪ねて届ける。

ところが、偏屈で宵越しの金を持たない主義の熊五郎、
「印形と書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレの物じゃねえから受けとるわけにはいかねえ、そのまま持って帰れ」
と言い張って聞かない。

「人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞ」
と、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大げんかになる。

騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家が止めに入るが、かえってけんかが飛び火する。

熊が
「この逆蛍、店賃はちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」
と毒づいたから、大家はカンカン。

「こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれ」
と言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、
「向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない」
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。

これより名奉行、大岡越前守様のお裁きとあいなる。

お白州でそれぞれの言い分を聞いいたお奉行さま。

問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。

金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。

熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。

奉行も褒美に一両出したから一両の損。

したがって三方一両損で、これにて丸く納まるという、どちらも傷つかない名裁き。

二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。

「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(=越前)」

【しりたい】

講談の落語化

文化年間(1804-18)から口演されていた古い噺です。講談の「大岡政談もの」の一部が落語に脚色されたもので、さらにさかのぼると、江戸初期に父子で名奉行とうたわれた板倉勝重(1545-1624)・重宗(1586-1656)の事蹟を集めた『板倉政要』中の「聖人公事の捌(さばき)」が原典です。

大岡政談

落語のお奉行さまは、たいてい大岡越前守と決まっていて、主な噺だけでも「大工調べ」「帯久」「五貫裁き」「小間物屋政談」「唐茄子屋政談」と、その出演作品はかなりの数です。

実際には、大岡忠相(おおおか・ただすけ、1677-1751)が江戸町奉行職にあった享保2年-元文元年(1717-36)に、自身で担当したおもな事件は白子屋事件くらいで、有名な天一坊事件ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とはかかわりありません。

伝説だけが独り歩きし、講釈師や戯作者の手になった「大岡政談実録」などの写本から、百編近い虚構の逸話が流布。それがまた「大岡政談」となって講談や落語、歌舞伎に脚色されたわけです。

古い演出

明治の三代目春風亭柳枝は、このあとに「文七元結」を続ける連作速記で、全体を「江戸っ子」の題で演じています。

柳枝では、二人の当事者の名が、八丁堀岡崎町の畳屋・三郎兵衛と、神田江川町の建具屋・長八となっていて、時代も大岡政談に近づけて享保のころとしています。

また、長八が金を落としてがっかりするくだりを入れ、オチの部分を省くなど、現行とは少し異なります。

昭和に入って八代目三笑亭可楽が得意とし、その型が現在も踏襲されています。

召し連れ訴え

「大家といえば親も同然」と、落語の中でよく語られる通り、大家(家主)は、店子に対して絶対権力を持っていました。

町役として両御番所(南北江戸町奉行所)、大番屋などに顔が利いた大家が、店子の不正をお上に上書を添えて「お恐れながら」と訴え出るのが「召し連れ訴え」です。もちろん、この噺のように店子の代理人として、共々訴え出ることもありました。

十中八九はお取り上げになるし、そうなれば判決もクロと出たも同然ですから、芝居の髪結新三のようなしたたかな悪党でも、これには震え上ったものです。