ほっけながや【法華長屋】演目

ここでいう法華とは日蓮宗のこと。江戸の町では、浄土宗と並ぶ庶民の生活を支えていました。

【あらすじ】

宗論は どちらが負けても 釈迦の恥

下谷摩利支天、近くの長屋。

ここは大家の萩原某が法華宗の熱心な信者なので、他宗の者は絶対に店は貸さない。

路地の入り口に「他宗の者一人も入るべからず」という札が張ってあるほどで、法華宗以外は猫の子一匹は入れないという徹底ぶりだ。

今日は店子の金兵衛が大家に、長屋の厠がいっぱいになったので汲み取りを頼みたいと言ってくる。

大家はもちろん、店子全員が、法華以外の宗旨の肥汲みをなりわいとする掃除屋を長屋に入れるのはまっぴらなので、結局、入り口で宗旨を聞いてみて、もし他宗だったらお清めに塩をぶっかけて追い出してしまおうということになった。

こうして、法華長屋を通る掃除屋は十中八九、塩を見舞われる羽目となったので、これが同業者中の評判となり、しまいにはだれも寄りつかなくなってしまった。

ところが物好きな奴はいるもので、
「おらァ、法華じゃねえが、しゃくにさわるからうそォついてくんできてやんべえ」
と、ある男、長屋に入っていく。

酒屋の前に来て
「おらァ、自慢じゃねえが、法華以外の人間から肥を汲んでやったことはねえ。もし法華だなんてうそォついて汲ましゃあがったら、座敷ン中に肥をぶんまける」
と、まくしたてた。

感激した酒屋の亭主、さっそく中に入れて、
「仕事の前に飯を食っていけ」
と言うので、掃除屋、すっかりいい気になって、
「芋の煮っころがしじゃよくねえから、お祖師さまに買ってあげると思えばよかんべえ」
と、うまいことを言って鰻をごちそうさせた上、酒もたらふくのんで、いい機嫌。

「そろそろ、肥を汲んでおくれ」
「もう肥はダミだ」
「どうして」
「マナコがぐらぐらしてきた。あんた汲んでくれろ。お祖師さまのお頼みだと思えば腹も立つめえ」
「冗談言っちゃいけねえ」

不承不承、よろよろしながら立ち上がって肥桶を担いだが、腰がふらついて石にけっつまづいた。

「おっとォ、ナムアミダブツ」
「てめえ法華じゃねえな」
「なーに、法華だ」
「うそォつきやァがれ。いま肥をこぼしたとき念仏を唱えやがったな」
「きたねえから念仏へ片づけた」

【しりたい】

浄土宗対日蓮宗  【RIZAP COOK】

絶えたことのない宗教、宗旨のいがみあいという、普遍的テーマを持った噺です。

それだけに、現代の視点で改作すれば、十分に受ける噺としてよみがえると思うのですが、すたれたままなのは惜しいことです。

速記は、明治27年(1894)7月の四代目橘家円喬を始め、初代三遊亭円右、初代柳家小せん、四代目春風亭柳枝、八代目桂文治と、落語界各派閥を問わずまんべんなく、各時代の大看板のものが残されています。

それも昭和初期までで、戦後は六代目円生がたまに演じたのを最後に、まったく継承者がいません。一般新聞に宗教欄が消えた頃と時期を一致させています。戦前はもちろんそうでしたが、戦後でも昭和30年代までは、一般紙には必ず宗教欄が用意されてあって、各宗派の宗教家がなにやかやと寄稿していました。それがいまの日本では、公の場で宗教を語ることがどこかタブーとなってしまっているのはいびつです。

だんだんよく鳴る法華の太鼓  【RIZAP COOK】

原話は不詳で、池上本門寺派の勢力が強く、日蓮=法華衆徒の多かった江戸で、古くから口演されてきました。

日蓮宗は「天文法華の乱」や安土宗論で織田信長を悩ませたように、排他的・戦闘的な宗派で知られています。そういう点では浄土宗や浄土真宗と変わりません。浄土宗と日蓮宗(法華宗)がつねに対立宗派として、江戸のさまざまな場面で登場するすることは、江戸を知る上で重要なポイントです。

法華の噺は、ほかにも「堀の内」「甲府い」「清正公酒屋」「鰍沢」「おせつ徳三郎」など、多数あります。

晩年の三遊亭円朝は自作「火中の蓮華」の中に「法華長屋」を挿入しています。明治29年(1896)、妻の勧めもあって円朝は日蓮宗に改宗していたのです。

お祖師さま  【RIZAP COOK】

「堀の内のお祖っさま」で、落語マニアにはおなじみ。本来は、一宗一派の開祖を意味しますが、一般には、日蓮宗(法華)の開祖・日蓮上人を指します。

汲み取り  【RIZAP COOK】

別称「汲み取り屋」で、東京でも昭和50年代前半まで存在しました。水洗が普及する以前、便所の糞尿を汲み取る商売で、多くは農家の副業。汲んだ肥は言うまでもなく農作の肥料になりました。

葛西(江戸川区)の半農半漁の百姓が下町一帯を回りましたが、汲み取りにストライキを起こされるとお手上げなので、「葛西肥汲み」は江戸時代には、相当に大きな勢力と特権を持っていました。

摩利支天  【RIZAP COOK】

まりしてん。オリジナルはインドの神です。バラモン教の聖典「ヴェーダ」に登場する暁の女神・ウシャスが仏教に取り込まれたといわれています。太陽や月光などを神格化したもので、形を見せることなく難を除き、利益を与えるとされ、日本では、中世から武士の守護神となりました。楠木正成が信仰したことはよく知られています。

この噺に摩利支天が登場するわけは、そんな薄っぺらな知識で理解できるものではありません。「髭曼荼羅」を見てもわかるように、日蓮宗は仏教以外の神々をも守護神として奉じています。それが他宗派と大きく異なるところです。きわめて日本的なのかもしれません。摩利支天もその一つで、日蓮を守護する神とされています。「下谷摩利支天」というのは寺の俗称です。正しくは「妙宣山徳大寺」という日蓮宗の寺院。摩利支天をウリにした日蓮宗の寺という意味です。かつては下総の中山法華経寺の末寺でしたが、いまは普通の日蓮宗の寺院です。台東区上野四丁目、アメヤ横丁近くの密集地にあって、山手線からも眺められます。この寺のすごいことは上野の戦争でも震災でも空襲でも焼失しなかったこと。よほど霊験あらたかなのだと篤信されているのです。厄除けの寺として信仰を集めています。つまり、この寺の近所の長屋が舞台だということが、「法華」をテーマにした噺であることを、はじまりから暗喩しているのです。江戸にはそんなものをテーマにしても笑ってくれるだけの、法華の壇越(だんのつ、信者)が多かったということですね。

【RIZAP COOK】 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席


だんだんよくなるほっけのたいこ【だんだんよく鳴る法華の太鼓】むだぐち ことば

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現代でも知られたむだぐちです。情勢がだんだん好転してくるというのを、「なる」→「鳴る」から太鼓の音に引っ掛けたもの。「だんだん」は「どんどん」のダジャレです。

江戸では法華宗(日蓮宗)信者が数多かったので、お題目を唱えながら集団で太鼓を打ち鳴らし、町中を練り歩く姿は頻繁に見られたもの。

「だんだん」には、「ドンツクドンドン」と遠くから法華大鼓の音が聞こえてきて、近づくにつれ徐々に大きく響くさまも含んでいるでしょう。

スヴェンソンの増毛ネット

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おそれいりやのきしぼじん【恐れ入谷の鬼子母神】むだぐち ことば

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現代でも辛うじて生き残っていて、もっとも有名なむだぐちでしょう。「恐れ入りました」と地名の「入谷」を掛け、そこから現地の鬼子母神を出したもの。

ここでは雑司が谷のそれではなく、台東区入谷町の喜宝院の鬼子母神堂。それでなければダジャレが成り立ちません。「恐れ入り」のしゃれはこのほかにも数多く、「入相」「煎り酒」「入谷の七合神」「入山」「入山形」「入山三了」「恐れ久松」「恐れ山猫」「恐れちゃんちき茶の袴」と、あげたらきりがありません。

最後に極めつけは、安政4年(1857)初編刊、梅亭金鵞の滑稽本『七偏人』から。「大酩酊に及んで、恐れ入谷の霜のもみぢば真赤にならの八重桜、池田いたみのお酒の香りが、京九重に匂ひぬるかなッ」。なんともはや。

私が子供の頃にはやったアメリカのテレビドラマ『0011 ナポレオン・ソロ』に相方で活躍するイリヤ・クリヤキン役のデビッド・マッカラムが女性にすごい人気でした。「恐れいりやのクリヤキン」などと地口ってました。

むちゃくちゃかっこいい

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すねかじり【脛かじり】演目

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怪談、はたかた食人譚かと思いきや、ありゃ、なーんだ、落語かよ。

別題:いろ屋の花嫁(上方) かいな食い(上方)

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あらすじ

勘当された若だんな。

今は居候の身だが、いっこうに改心するようすがない。

預かり先の亭主、このままではためにならないと、若だんなを目黒鬼子母神の近藤作右衛門方の婿養子に世話する。

実は、若だんなはもうとっくに偵察してあるが、そこの娘は婚期を逸してもう二十五、六になるものの、大変な美人。

おまけに資産もある。

ところが、亭主の言うには、縁がつかなかったにはわけがあり、原因は不明だが、今まで何度か婿を取ったものの、三日と居ついたことがない、という。

若だんなは、そんな話には耳を貸さず、色と欲との二人連れで、さっそく飛びついた。

順調に話がまとまり、さて、婚礼の晩。

仲人は宵の口と客が帰った後、いよいよ待ちに待った床入りという時になって、娘は
「これからちょっと用事がありますから、少しの間お暇を」
と、妙なことを言うと、部屋から出て行ってしまう。

スカタンを食わされた若だんな、こんな夜中にどこへ行くのかと跡をつけると、なんと新妻は鬼子母神の墓場へ。

見ていると、新仏の石塔をのけ、土饅頭の中に手を入れて、死人の手をむしゃむしゃ食らう。

「ははあ、さてはこれが婿の居つかなかった原因か」
と、若だんな、

部屋に逃げ戻ってガタガタ震えていると、女が戻ってきた。

「あたしはもう寝ないで神田に帰ります。命ばかりはお助けを」
「さては、私が墓場でやっていたことを」
「へえ、なにかおいしそうにお召し上がりで」

女は、
「見られたのならしかたがありません。私は子供のころから、どういうわけか人の肉が好きで、母親に、代わりにザクロを食べさせられていたのですが、両親が鬼子母神に願掛けをして授かった子なので、その因果か人肉の味を思い切れません。それさえがまんしてくれれば、どんなことをしてでもあなたに尽くします」
と誓ったので、若だんなも承知して、めでたく夫婦になる。

「私もずいぶん人を食っていると言われるが、いったい、体のうちじゃあ、どこが一番おいしいんでしょう」
「そうですね、まず腕が一番です」
「それは無理もない。あたしも親父の脛をかじった」

うんちく

上方落語を改作 【RIZAP COOK】

オチの部分の「親のすねをかじる」の原話は、安永3年(1774)刊『茶のこもち』中の「子息」。

別の原話として、宇井無愁(上方落語研究家)は、安永同5年(1776)刊『売言葉』中の「猫また」を挙げています。これは、遊女と同衾中の男が、夜中に、女が行灯の陰で人の腕をむさぼり食っているのを目撃、これは猫またかと恐れおののきますが、翌朝見ると、それはトウモロコシの殻だった、というオチで、「脛かじり」との関連性は薄いようです。

上方落語「かいな食い」「いろ屋の花嫁」が、明治中期に東京に移植されたもので、初代三遊亭円遊(爆笑王、鼻の)が鬼子母神伝説を加味して改作しました。明治23年(1890)の円遊の速記が残り、移植者も同人と思われますが、はっきりしません。

上方の「かいな食い」は伝説とは無関係で、勘当された若だんなが養子に行く設定は同じですが、女は単に人間の生血、死血を吸いたい病で、赤子の死骸を棺桶(または墓地)から引きずり出して食らうなど、よりリアルで、猟奇性が強いものとなっています。

現在、演じ手は東西ともに絶えています。

鬼子母神伝説 【RIZAP COOK】

鬼子母神とは、インドの仏教説話中の鬼女です。サンスクリット語でハーリーティといい、「歓喜母」「愛子母」とも記されています。

インド、王舎城の夜叉(=鬼神)の娘で、絶世の美女でしたが、鬼神の王、般闍迦の妻になり、千人(一説に一万人)の子を産みました。人の子(一説に自分の子)を殺して食べるのを常としていたので、人々はおそれおののき、仏陀にすがると、仏陀は、鬼子母神がかわいがっていた末子の嬪迦羅を隠します。鬼母は狂乱し、仏陀を訪ねて助けを乞うと、仏陀は「千(万)の子がいてさえ、たった一人の子を失ってそなたは悲しんでいるが、多くて五、六人しかいない子の一人を殺された母親の悲しみを考えねばならない」と諭しました。鬼母は、今後決して子供を食うことはせず、すべての子供の守護神となることを誓ったので、仏陀は嬪迦羅を返してやりました。

仏陀が、また病気が出ぬようにと、味と色が人肉に似たザクロの実を与えたことから、鬼子母神像は、常に右手に吉祥果を持ち、左手に子供の嬪迦羅を抱いています。鬼女像もありますが、多くはギリシアのアフロディテを思わせる豊満な美女像とされます。

「清正公酒屋」で、せがれがおやじに鬼子母神伝説を説明し、「あたしは千人どころか一粒種だから、勘当なんぞはできません」と開き直る場面がありますが、日本でも鬼子母神は子授け、安産、幼児養育の守り神として各地で信仰されています。

鬼子母神を祀るのは神社ではありません。仏教説話由来ですから、とうぜんお寺です。しかも、日蓮宗が率先して鬼子母神をまつります。鬼子母神の名称が落語などに出てくれば、日蓮宗の教えやお寺を想起すると噺の理解が早いでしょう。

死体嗜好 【RIZAP COOK】

バーバリズム(人肉食)は、死体嗜好症(ネクロフィリア)と結びついてヨーロッパ各地にも多く、しばしば猟奇的な殺人事件が報告されますが、一種の精神障害といわれます。

【語の読みと注】
嬪迦羅 ビャンガラ
腕 かいな
般闍迦 ハンジャカ
吉祥果 きっしょうか:ザクロ

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こうふい【甲府い】演目

【RIZAP COOK】

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奇妙なタイトルです。日蓮宗がらみの噺ですね。

【あらすじ】

甲府育ちの善吉。

早くから両親をなくし、伯父夫婦に育てられたが、今年二十になったので、江戸に出てひとかどの人間になり、育ての親に恩を返したいと、身延山に断ち物をして願を掛け、上京してきた。

生き馬の目を抜く江戸のこと、浅草寺の境内で巾着をすられ、無一文に。

腹を減らして市中をさまよったが、これではいけないと葭町 よしちょう)の千束屋 ちづかや)という口入れ屋を目指すうち、つい、とある豆腐屋の店先でオカラを盗みぐい。

若い衆が袋だたきにしようというのを、主人が止め、事情をきいてみると、善吉はこれこれこういうわけと涙ながらに語ったので、主人が気の毒に思い、ちょうど家も代々法華宗、
「これもお祖師さまの引き合わせだ」
と善吉を家に奉公させることにした。

仕事は、豆腐の行商。

給金は出ないが、商高の応じて歩合が取れるので励みになる。

こうして足掛け三年、影日向なく懸命に
「豆腐ィ、胡麻入り、がんもどき」
と売って歩いた。

愛想がよく、売り声もなかなか美声だから客もつき、主人夫婦も喜んでいる。

ある日、娘のお孝も年ごろになったので、一人娘のこと、放っておくと虫がつくから、早く婿を取らさなければならないと夫婦で相談し、宗旨も合うし、真面目な働き者ということで、善吉に決めた。

幸い、お孝も善吉に気があるようす。

問題は本人だとおかみさんが言うと、気が短い主人、まだ当人に話もしていないのに、善吉が断ったと思い違いして怒り出し
「なにっ、あいつが否やを言える義理か。半死半生でオカラを盗んだのをあわれに思い、拾ってやった恩も忘れて増長しやがったな。薪ざっぽ持ってこい」
と大騒ぎ。

目を白黒させた善吉だが、自分風情がと遠慮しながらも、結局、承知し、めでたく豆腐屋の養子におさまった。

それから夫婦で家業に励んだから、店は繁盛。

土地を二か所も買って、居付き地主。

そのうち、年寄り夫婦は隠居。

ある日、善吉が隠居所へ来て、もう江戸へ出て十年になるが、まだ甲府の在所へは一度も帰っていないので、
「両親の十三回忌と身延さまへのお礼を兼ね、里帰りさせてほしい」
と申し出る。

お孝もついて行くというので、喜んで旅支度してやり、翌朝出発。

「ちょいと、ごらんな。縁日にも行かない豆腐屋の若夫婦が、今日はそろって、もし若だんな、どちらへお出かけで?」
と聞かれて善吉が振り向き
「甲府 豆腐)ィ」
と言えば、お孝が
「お参り(=胡麻入り)、願ほどき(=がんもどき)」

【RIZAP COOK】

【しりたい】

古い江戸前人情噺

古くから口演されている、江戸前人情噺ですが、原話はまったくわかっていません。

「出世の島台」と題した、明治33年(1900)の六代目桂文治の速記が残ります。大筋は現行とほとんど変わりません。

明治以来、人情噺の大ネタとして、多くの名人連が手掛けましたが、戦後は、八代目春風亭柳枝、八代目三笑亭可楽がとくによく高座に掛けました。意外なのは、五代目古今亭志ん生がやったこと。珍しくくすぐりも入れず、ごくまじめに演じています。

CDでは、この三者のほか、古今亭志ん朝も手掛けました。今どきウケる噺ではなさそうではありますが、それでも芸の力技か、三遊亭歌武蔵(若森正英)もたまに泣かせます。こちらもCDがあります。

身延山

「鰍沢」にも登場しますが、寺号は久遠寺。日蓮宗の総本山です。流罪を許されて身延に隠棲した日蓮(1222-82)が、この地域の豪族、波木井(はきい)氏から寄進を受けて開基したものです。日蓮の没後、中興の祖と称される第十一世日朝(1422-1500)が現在の山梨県南巨摩郡身延町に移してますます発展させました。日蓮宗の本拠としては、江戸の池上本門寺があるので、江戸の門徒は通常、ここに参詣すればよいとされました。日蓮の終焉の地です。

江戸の豆腐屋

江戸市中に豆腐屋が急増し始めたのは、宝永年間(1704-11)とか。宝永3年(1706)5月、市中の豆腐屋7人が大豆相場の下落にもかかわらず高値売りをして処罰されたという記録があります。

居付き地主

自分の土地や家屋に住んでいる者、すなわち地主のことです。土地家屋を人に貸し、自分は他の町に住んでいる者を「他町地主」といいました。

落語に頻繁に登場する「大家」は差配ともいい、地主に雇われ、長屋の管理を委託されている人間です。

大商店主を兼ねた居付き地主のうちには、大家を介さず、自分で直接、家作を管理する者も多く、その場合、地主と大家を兼ねていることになります。こうした居付き地主が貸すのは、長屋でも表長屋で、通りに面し、多くは二階建てです。

大工の棟梁や鳶頭など、町人でも比較的地位のある者が住みました。「三軒長屋」のイセカンが、典型的な居付地主です。

改作「お福牛」

野村無名庵(1888-1945)は『落語通談』に記しています。「斯界の古老扇橋は、この噺を今様にでっち直して、お福牛と題するものを作った」と。

この「古老扇橋」は声色(声帯模写)の名人としても知られた八代目入船亭扇橋(1865-1944)でしょう。改作といっても速記も残らず、作った年代もわかりませんが、同書によれば、筋は大同小異。

豆腐屋を牛乳屋に代え、主人公は苦学生となっています。主人公は牛乳屋に婿入りし、牧場経営もして大成功。終わりに故郷の伯父が亡くなり、遺産を受け取るため帰郷することに。

オチは、舅夫婦が留守を心配して、牧場の牛は大丈夫かと聞くと「お案じなさいますな。ウシ(=ウチ)は女房に任せてあります」という、くだらないダジャレオチです。

紙芝居になった「模範落語」

『落語通談』によると、オリジナルの「甲府い」は「鰍沢」とつなげて、戦時中、報国紙芝居になったとか。いかにこの噺の主人公が、当時の軍部や当局にとって「期待される人間像」の典型であったかわかろうというものです。でも、泣かせます。

無名庵は当時の政府の片棒をかついで昭和15年(1940)、「不道徳」な噺53種を「禁演落語」に設定した中心人物です。忖度の人。「何にしても納まりの目出度い勧善の落語で、禁演五十三種を悪い方として西へ廻して見立番附の出来たとき、善い方すなわち東の方の、大関へあげられたのはこの甲府ィであった」。つまりは、そういう噺です。

【語の読みと注】
巾着 きんちゃく
葭町 よしちょう
千束屋 ちづかや
口入れ屋 くちいれや
居付き地主 いつきじぬし

【RIZAP COOK】

からぢゃや【唐茶屋】演目

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ガリバーのような稀有壮大な作り話です。

【あらすじ】

お調子者の総兵衛が隠居の家で「朝比奈島巡り」という絵草子を見せられる。

小人国、大人国、一つ目の国など、珍しい国が数ある中で、女島というのは、女ばかり産まれて男は一人もいないというので、総兵衛にわかに身を乗り出し
「でも、男と女が蒸さなけりゃ、子ができないでしょう」
「それができる。女島の女は朝、浜辺に立って『日本の男風日本の男風』と三べん招くと東風が吹いてきて、それが女の前に入って子ができる。子供は風の子といって」

からかわれているようだが、総兵衛、それでも女島に行ってみたくてたまらなくなり、つてを頼って外国船に乗せてもらい、密航同然に航海に出発。

途中、小人国で殿さまをつまみ上げてからかったり、大人国では逆につまみ上げられて宿屋に着くとそこの子供にキーホルダーにされかかったりしながら、着いたところが、唐人の国。

向こうから髭を生やした人が来るので、聞いてみると、日本人だという。

十年前、嵐でここに漂流してきて、今では商人となっているとやら。

同国人は懐かしいと大歓迎し、なんと吉原に連れていってくれた。

大門から仲の町から全部あって、案内されたのが碧妙館という引手茶屋。

芸者を呼ぶが、中国語なので言葉が通じない。

男に通訳してもらいながら、いよいよお陽気に騒ごうということになり、お座付きに端唄に三下がり、幇間が
「チューチューペイウンホンチョイベー」
と踊る。

そのうち芸者が酔っぱらいだし、総兵衛が河東節をうなりだすと、女はみんな逃げた。

「それもそのはすだ。トラは河東(=加藤清正)が天敵だから」

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【しりたい】

長編冒険活劇の後半

後半の唐人国の部分が、本来の「唐茶屋」で、上方落語の長編スペクタクル「万国島めぐり」の後半です。「世界一周」参照。

あらすじは、六代目桂文治の明治30年(1897)9月の速記を基にしていますが、大人(巨人)国までは「島めぐり」そのものです。

「島めぐり」をひっくるめての原話は、小人国と大人国の部分が延宝8年(1680)刊『噺物語』中の「大風に逢し舟の咄し」で安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「島」も類話です。

それ以前にも、室町時代の『お伽草子』に「御曹司島わたり」のような島めぐりものが広く存在しました。

このテーマで、平賀源内(=風来山人)が辻講釈師が女護が島へ渡る「風流志道軒伝」(宝暦13年=1763)を執筆。

これも原話の一つと見られます。

実録・朝比奈

ここにいう朝比奈は、朝比奈義秀(生没年不詳)がモデルです。

義秀は鎌倉期の武将で、和田義盛の四男。豪遊をもって知られ、建暦3年(1213)、父にしたがって反乱(和田合戦)に従軍。

獅子奮迅の働きを見せたあと、行方知れずになりました。一説には朝鮮に渡ったともいいます。

豪傑の典型として、狂言「朝比奈」のほか、歌舞伎(「寿曽我対面」ほか)や浄瑠璃などにその架空の冒険が描かれました。

トラと加藤

加藤清正の虎退治伝説をオチにしたものです。清正は神(清正公=セイショウコウ)に祀られ、江戸時代には最も親しまれた英雄でした。「清正公酒屋」参照。

清正は豊臣恩顧の武将で、徳川幕府にとっては目の上のタンコブだったはず。事実、その死後、嫡男忠広の代、寛永9年(1632)に加藤家は肥後五十二万石からなんと出羽庄内一万石に飛ばされ、事実上のお取りつぶしです。清正自身は最後まで表面上は家康に忠実で、関が原役にも東軍として参戦の事実がありますから、幕府もその神格化を黙認するほかなかったのでしょう。

清正公信仰

清正は母親の影響で日蓮宗の熱心な信者でした。高輪の清正公さま=禅林寺も日蓮宗の寺院です。日蓮宗の寺院で加藤清正を祀っていたりしていました。祀るということは、加藤清正を神さまにして祈ることです。明治の神仏分離令で、日蓮宗の宗旨と加藤清正を神さまにあがめることとは分けなくてはならなくなりました。寺院と加藤神社に分けたのです。

そうはいっても、日蓮宗寺院でも清正公信仰は連綿と生きています。

浜町の清正公寺。ここも日蓮宗の寺です。ここは、熊本細川藩の下屋敷跡で、熊本本妙寺の別院です。文久元年(1861)に、細川藩主細川斎護が熊本本妙寺に安置する加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建、清正公を祀っていましたが、維新後には一時加藤神社と称したとのことです。明治18年(1885)には仏式に戻して清正公堂と改称、管理を熊本本妙寺(日蓮宗)に委託して本妙寺別院となりました。

トージン

江戸時代にはヨーロッパ人も中国人も韓人も日本人以外はひっくるめてすべて唐人。これは当時、「唐、天竺」が外国のすべてを象徴していたのと同じ理屈です。唐人のケツで「空っケツ」という下らない洒落も残っています。

映画『幕末太陽伝』(日活、1957年)で、品川遊郭へエロ本のセールスに来た貸本屋の金蔵(小沢昭一)が「今度は唐人のアレをね」と、いやらしそうな笑みを浮かべていたのが印象的です。

東西の演者

東京の「唐茶屋」は昭和初期に八代目桂文治と三代目三遊亭金馬が演じ、それぞれSPレコードに吹き込んでいます。上方の方は、「島巡り」と題した桂文紅が唯一CD化されました。艶笑落語のオムニバスの一編として、小咄的に女護島のくだりを演じた程度です。

朝比奈島めぐり

「実録・朝比奈」と前後してしまいましたが、総兵衛の憧れをかきたてる「朝比奈島巡り」とは、滝沢(曲亭)馬琴(1767-1848)作の読本「朝夷奈巡島記」のことです。

文化12年(1815)から文政10年(1827)まで、12年かけて刊行されました。未完に終わったのを、のちに松亭金水が書き継いで完成させましたが、結局題名とは裏腹に島めぐりの場面まで書かれずに終わっています。

これの種本は古浄瑠璃の「あさいなしまめぐり」。島めぐりのくだりがないのに、この噺で女護島や航海の場面があるのは変ですが、ナニ、落語なんぞ元からいい加減なものです。

あるいは、隠居はこの種本を含め、そういう場面がある浄瑠璃本を見せたのかも知れません。

まさか、「ガリバー」を読んだわけではないでしょうが。

【語の読みと注】
朝夷奈巡島記 あさいなしまめぐりのき

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おうぶみいちがでん【応文一雅伝】円朝

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あらすじ

1878年(明治11)春のこと。

旧幕時代に細工所御用達だった芝片門前の花房利一は、妻と死別、26歳になる一人娘のお重と二人暮らしである。

出遊びがちな父。お重は自分の結婚のことを考えてくれない父に常日頃不満を抱いている。

出入りの行商である、せり呉服屋の槙木巳之助が大店の子息で男振りもよいところから、お重は妻にしてもらおうかと誘惑する。

「人のいない所で話がしたい」と巳之助に持ちかけたところ、巳之助は知人で油絵師、応文一雅の下宿を借りることとなった。

愛宕下の木造三階。一雅の下宿で逢い引きする手はずとなった。

早めに行ったお重は、部屋にあった葡萄酒でほろ酔い気分となり、その勢いで、まだ見ぬ一雅あての謝辞を墨で壁に落書きして帰った。

二度目の逢い引き。

またも先に来てしまったお重は、一雅の机の中をのぞき見し、一雅あての許婚者からの手紙を読んだり、机にあった女性ものの指輪をはめたり。

一雅という人物の人となりに想像をめぐらす。一雅への興味以上の思いをいっそう募らせていった。

遅れてやってきた巳之助に「もう逢わないことにしましょう」と言って翻弄する。

帰宅して後、自分の指輪を一雅の部屋に置き忘れたのに気づいたお重は、はめたまま帰ってしまった指輪と自分のものとを取り換えてくれるよう、巳之助に頼み込む。

一雅に会いたい思いが募ったお重は、神谷縫に「一雅に肖像を描いてもらいなさい」と説得する。

お縫は、お重の土地を借りる借地人であり、お重の学校朋輩でもある。今年20歳になる。

お縫は叔父の神谷幸治と頼みに行き、一雅の下宿に数回通うことになった。

その後、お重は、「絵を頼みたい友人がいる」との手紙を書いて、お縫に出させる。真に受けた一雅はお重の家を訪れた。お重の指輪を見るや、巳之助の相手と知って腹を立てたまま帰る。

お重は策を練った。お縫に指輪を貸す約束をし、一雅を招くことに。

一雅の面前で、お重はお縫に指輪を返すお芝居をするが、それを見た一雅は、巳之助の相手がお縫だったかと驚く。

東京の人気の悪さに愛想の尽きた一雅。郷里の土浦に帰った。一雅から、巳之助との関係を記した謂れなき誹謗の手紙がお縫に届く。

お重の策略に引っかかったと知ったお縫は、叔父の神谷幸治に返信を書いてもらう。許嫁者が亡くなった一雅は上京し、再度同じ下宿を借りた。

お縫と幸治といっしょに花房家を訪れた一雅は、お重を責めたてた。

居合わせた花房利一は幸治とは昔からの知り合い。

幸治は「おまえが娘の聟を見つけようともせずに遊び歩っているからだ」と意見する。巳之助の父親で金貸しの四郎兵衛が、じつはもとの高木金作と知った幸治は、かつて金三千両を貸したことを語り、後日、四郎兵衛を訪ねる。

槙木四郎兵衛のもとを訪ねていった「神幸」こと神谷幸治は「貸した、借りていない」「訴える、訴えよ」とのやり取りの後、判証文もなく、たとえあったとしても昔貸した金はあきらめるが、その代わり、どこで逢っても拳骨一個うたれても苦情は言わないとの証文を「洒落だ」と言いつつもらうことになった。

その後、幸治は、銀座でも、横浜でも、四郎兵衛を見かけるたびに頭を殴るのだった。

一雅は、いったん故郷に戻ったが油絵の依頼人もなく、再度上京するが、困窮していた。

すると、一雅のもとに、使いを介して油絵の注文が続く。ある時、池上まで参詣するので「先生も図取りかたがたお出でください」との注文。

一雅が池上に向かうと、お高祖頭巾の女がいた。合乗の車で家まで送られ、金を渡された。翌日、その女から恋文が届いた。女の正体はお重だった。一雅はそこで初めて気づいた。

一雅は部屋の壁の落書を見るたびに、お重をいとう気持ちが強くなってきた。一雅は土浦に帰る。母が亡くなり葬儀を済ます。その後、上京したのは明治十二年九月十三日であった。

神谷幸治は墓参で、小石川全生庵を訪れた。

住職と話をしていると、出家志望の女がやってきた。幸治は隣の間に移される。住職は「あなたのような美しい人には道心は通じません」と言って、了然尼の故事を聴かせる。女はあきらめて立ち去った。

帰り際、幸治が寺の井戸に飛び込もうとしていた女を助けた。出家志望の女で、お重だった。

お重は、お縫と一雅、廃嫡となった巳之助への詫び言を述べた。

巳之助と添う気があるならと、神谷幸治は一計を案じ、お重に書き置きをしたためさせた。四郎兵衛を訪ねた幸治は、書き置きを見せた。

四郎兵衛が巳之助の廃嫡を許してお重と結ばせるなら、先の証文は返し、お縫と一雅とを夫婦にしてやりたい、と言う。

得心する四郎兵衛。幸治に金を返して仲人を頼んだ。

巳之助とお重、一雅とお縫、二組が婚礼を挙げた。

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しりたい

了然尼

りょうねんに。そういう名前の尼さんが、江戸時代にいたそうです。有名な故事が伝わっています。以下の通り。

 了然尼は正保3年(1646)に葛山長次郎の娘として生まれ、名をふさといった。父は武田信玄の孫にあたり、富士の大宮司葛山十郎義久の子という由緒ある家の出身、京都下京の泉涌寺前に住み、茶事を好み、古画の鑑定をしていたという。成長して美人で詩歌、書に優れたふさは宮中の東福門院に仕え、宿木と称した。やがてふさは宮仕えを退き、人の薦めがあって医師松田晩翆と結婚、一男二女を生んだ。しかし、何故か二十七歳で離婚して剃髪、名を了然元総尼と改め、一心に仏道を修行した。その後江戸に下り、白翁和尚に入門を懇請したが、美貌のゆえに許されなかった。そこで意を決した了然は火のしを焼き、これを顔面に当てて傷痕を作り、敢えて醜い顔にした。そして面皮の偈(漢詩)を賦し、和歌「いける世に すててやく身や うからまし 終の薪と おもはざりせば」と詠んだ。決意の固いのを知った白翁和尚は入門を許し、惜しみなく仏道を教えた。やがて師白翁和尚は病に臥すようになり、天和2年(1682)7月3日、死期を悟ると床に身を起こし、座したまま入寂した。4年後、47歳で上落合村に泰雲寺を創建。正徳元年(1711)7月3日、白翁道泰和尚の墓を境内に建て、積年の念願を果して安心した了然尼は2か月後の9月18日66歳で没した。寺には五代将軍綱吉の位牌が安置され、寺宝として朱塗の牡丹模様のある飯櫃、葵の紋が画かれた杓子、葵と五七の桐の紋のある黒塗の長持があった。そして、宝暦12年(1762)3月、十代将軍家治のこのあたりへの鷹狩りに御膳所となり、以後しばしば御膳所になったという。明治末年には無住になって荒れ果て、港区白金台3丁目の瑞聖寺に併合廃寺になり、現在了然尼の墓は同寺に移されている。寺の門および額「泰 雲」は現在目黒区下目黒3丁目の海福寺にあり、特に四脚門は目黒区文化財に指定されている。これによっても泰雲寺がりっぱな寺であったことがわかる。
 では泰雲寺は上落合のどのあたりにあったのか。所在を示す正確な地図は見つかっていない。そこで『明治四十三年地籍図』(寺域は分譲)を頼りに推定した。戦後、下水処理場が設けられたために八幡通り(下落合駅から早稲田通りへの道))が大幅に西側に寄せられ、旧地形をとどめていないが、上落合1、竜海寺あたりを西北角とし、南は野球場に通じる高架道、東は落合中央公園高台西端にあたり、境内2700坪の3分の2以上が八幡通りと下水処理場になっている。(新宿区教育委員会から引用)

平安時代までの仏教では、仏が救いの対象にしていたのは男でした。しかも、身分のある。どうも、これはヘンだと気づいたのが、鎌倉時代の革新的な立宗者たち。法華経には女性の救済が記されているそうで、男女差別もないといわれています。法華経を唯一の経典としたのが日蓮。日蓮宗は早い時期から女性の救済をうたってました。了然尼も日蓮宗に赴けばよかったのかもしれません。スタートの選択を誤るととんでもないことになる、という教訓でしょうか。

この話は、本人の強い決意を表現しているわけでして、そうなると、落語家を志した青年が何度断られてもめざす師匠の楽屋入り口にかそけくたたずむ風情に似ています。仏門ではよくある話です。身体を傷つけることに軸足があるのではなく、二度と戻らないぞ、という強くて激しい本人の志に軸足があるのです。

となると、慧可が出てきます。 インド僧の達磨を知って尋ねたのですが、すぐに入門は許されず、一晩雪中で過ごして、自身のひじを切断してその強い思いを示しました。達磨は入門を許可。これはのちに水墨画での「慧可断臂」という画題となりました。座禅している達磨におのれの切り取った左ひじを見せる絵をどこかで見かけたことはありませんか。それです。 了然尼の故事もこれに似ています。故事は繰り返されます。物語はそんなところから醸成されるのでしょう。

雪舟  慧可断臂 図

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にちれんだいしどうとくばなし【日蓮大士道徳話】円朝

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 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

あらすじ

日蓮の直接の先祖である貫名家の系譜と日蓮の誕生までを描く。

全七回中、最初の二回分は本題には入らない。円朝が自身の身辺を語る。麻布鬼子母神堂の行者、磯村松太郎の手引きで日蓮宗に入信したことを語る。

円朝自身が日蓮宗に改宗した事実を披露するのは、現在残っている作品中、これを見るだけである。

ついで、在家が守るべき「五戒」(殺生戒、偸盗戒、邪淫戒、妄語戒、飲酒戒)を話題に、仏教の基本の考えを述べる。

立宗して後、「念仏無間」と鎌倉で流行していた念仏の宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)をそしるようす、念仏系がたたく鉦は陰気で法華(日蓮宗系)がたたく太鼓は陽気だ、といった落語でよく聞くたとえ話をまぜて語る。

第三回からは本題「大士系譜及び誕生話」に入る。日蓮の遠祖は藤原鎌足に始まり、鎌足から十二代の藤原共資の代に一族は遠江に移った。

子が次々と夭逝し継嗣がいないことを苦にして、井谷明神に月に三度の願掛けを続けた1010年(寛弘7)、地元の井谷明神境内の橘の木の根方に白い綾のきれに包んで捨てられていた赤子を拾った。

これが日蓮の直接の先祖となる人で、井伊家の祖、共保となる。井桁のそばの橘の大樹に捨てられてあったことから、紋所は「井桁に橘」が定紋となった。日蓮宗の紋所でもある。

共資から五代目の四男が四郎政直が山名郡貫名に移り住んだので貫名姓となる。その後、貫名次郎重忠は岡本次郎の娘花鳥と結婚して一子をもうけたが、まもなく三浦泰村合戦に巻き込まれた。

重忠は安房へ流されて、在地の大野吉清の娘梅菊と結婚した。妙の浦に蓮華が生じ泉が湧出する奇瑞、老翁が手の上に抱いた玉のような子を授ける霊夢などを経て、日蓮が誕生した。

しりたい

入信後に

日蓮宗では「8」のつく日をよしとするそうです。円朝が麻布鬼子母神堂の磯村松太郎行者の導きで入信したのは、明治29年(1896)7月28日のことです。その後、10月28日から、日蓮宗の週刊新聞「日宗新報」に連載されたのが、この噺です。一般向けではなく、日蓮宗の信者に向けて円朝がふるってかたった噺ですが、7回で終わってしまいました。日蓮が生まれるところで終わりです。なんとも、いやはや。

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おせつとくさぶろう【おせつ徳三郎】演目

法華の信者ならすぐわかる、オチは「鰍沢」と同じフレーズです。

別題:刀屋(下のみ) 隅田の馴染め(改作) 花見小僧(上のみ)

あらすじ

日本橋横山町の大店の娘おせつ。

評判の器量よしなので、今まで星の数ほどの縁談があったのだが、色白の男だといやらしいと言い、逆に色が黒いと顔の表裏がわからないのはイヤ、やせたのは鳥ガラで、太ったのはおマンマ粒が水瓶へ落っこちたようだと嫌がり、全部断ってしまう。

だんなは頭を抱えていたが、そのおせつが手代の徳三郎とできているという噂を聞いて、びっくり仰天。

これは一大事と、この間、徳三郎といっしょにおせつの供をして向島まで花見に行った丁稚の定吉を脅した。

案の定、そこで二人がばあやを抱き込んでしっぽり濡れていたことを白状させた。

そこで、すぐに徳三郎は暇を出され、一時、叔父さんの家に預けられる。

なんとかスキを見つけて、お嬢さんを連れだしてやろうと考えている矢先、そのおせつが婿を取るという情報が流れ、徳三郎はカッときた。

しかも、蔵前辺のお大家の若だんなに夢中になり、一緒になれなければ死ぬと騒いだので、だんながしかたなく婿にもらうことにしたという。

「そんなはずはない、ついこないだオレに同じことを言い、おまえ以外に夫は持たないと手紙までよこしたのに、かわいさ余って憎さが百倍、いっそ手にかけて」
と、村松町の刀屋に飛び込む。

老夫婦二人だけの店だが、親父はさすがに年の功。

徳三郎が、店先の刀をやたら振り回したり、二人前斬れるのをくれだのと、刺身をこしらえるように言うので、こりゃあ心中だと当たりをつけ、それとなく事情を聞くと、徳三郎は隠しきれず、苦し紛れに友達のこととして話す。

親父は察した上で
「聞いたかい、ばあさん。今時の娘は利口になったもんだ。あたしたちの若い頃は、すぐ死ぬの生きるのと騒いだが……それに引きかえ、その野郎は飛んだばか野郎だ。お友達に会ったら、そんなばかな考えは止めてまじめに働いていい嫁さんをもらい、女を見返してやれとお言いなさい。それが本当の仇討ちだ」
と、それとなくさとしたので、徳三郎も思い止まったが、ちょうどその時、
「迷子やあい」
と、外で声がする。

おせつが婚礼の石から逃げだしたので、探しているところだと聞いて、徳三郎は脱兎のごとく飛び出して、両国橋へ。

お嬢さんに申し訳ないと飛び込もうとしたちょうどそこへ、おせつが、同じように死のうとして駆けてくる。

追手が追っていて、せっぱつまった二人。

深川の木場まで逃げ、橋にかかると、どうでこの世で添えない体と、
「南無阿弥陀仏」
といきたいところだが、おせつの宗旨が法華だから
「覚悟はよいか」
「ナムミョウホウレンゲッキョ」
とまぬけな蛙のように唱え、サンブと川に。

ところが、木場だから下は筏が一面にもやってある。

その上に落っこちて、
「おや、なぜ死ねないんだろう?」
「今のお材木(題目)で助かった」

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なりたちと演者など  【RIZAP COOK】

もともとは、幕末に活躍した初代春風亭柳枝(?-1868)作の人情噺です。

長い噺なので、古くから上下または上中下に分けて演じられることが多く、小僧の定吉(長松とも)が白状し、徳三郎がクビになるくだりまでが「上」で、別題を「花見小僧」。この部分を明治の「鼻の円遊」こと初代三遊亭円遊が「隅田の馴染め」として、くすぐりを付け加えて改作しました。

その場合、小僧が調子に乗って花見人形の真似をして怒られ、「道理でダシ(=山車)に使われた」という、ダジャレ落ちになります。それに続いて、徳三郎が伯父の家に預けられ、おせつの婚礼を聞くくだりが「中」とされますが、普通は「下」と続けて演じられるか、簡単な説明のみで省略されます。後半の刀屋の部分以後が「下」で、これは人情噺風に「刀屋」と題してしばしば独立して演じられています。

明治期の古い速記としては、原作にもっとも忠実な三代目柳枝のもの(「お節徳三郎連理の梅枝」、明治26年)ほか、「上」のみでは二代目(禽語楼)柳家小さん(「恋の仮名文」、明治23年)、初代三遊亭円遊(「隅田の馴染め」、明治22年)、「下」のみでは三遊亭新朝(明治23年)、初代三遊亭円右(不明)のものが残されています。

オチは、初代柳枝の原作では、おせつの父親と番頭が駆けつけ、最後の「お材木」は父親のセリフになっていますが、六代目三遊亭円生も「刀屋」でこれを踏襲しました。

「刀屋」で、おやじが、自分の放蕩息子のことを引き合いにしんみりとさとすのが古い型ですが、現行では省略して、むしろこの人物を、洒脱で酸いも甘いもかみ分けた老人として描くことが多くなっています。

戦後は六代目円生のほか、五代目古今亭志ん生、六代目春風亭柳橋、五代目柳家小さんも得意にし、円生と志ん生は「下」のみを演じました。

その次の世代では、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝、三遊亭円楽のものなどが傑出していました。現在では、「おせつ徳三郎」といえば「下」の「刀屋」のくだりを指すことが多く、「上」の「花見小僧」は、ホール落語の通し以外では、最近はあまり単独口演されません。

村松町の刀屋  【RIZAP COOK】

この噺のとおり、日本橋村松町と、向かいの久松町(中央区東日本橋一丁目)には刀剣商が軒を並べていました。江戸末期の商人喜多川守貞(1810-?)の『守貞漫稿』に「久松町刀屋、刀脇差商也。新製をもっぱらとし、又賤価の物を専らとす。武家の奴僕に用ふる大小の形したる木刀等、みなもっぱら当町にて売る」とあります。徳三郎が買おうとしたのは、二分と二百文の脇差です。

深川・木場の川並  【RIZAP COOK】

木場の材木寄場は、元禄10年(1697)に秋田利右衛門らが願い出て、ゴミ捨て場用地として埋め立てを始めたのが始まりです。その面積約十五万坪といい、江戸の材木の集積場として発展。大小の材木問屋が軒を並べたました。掘割に貯材所として常時木材を貯え、それを「川並」と呼ばれる威勢のいい労働者が引き上げて筏に組んで運んだものです。

法華の信者  【RIZAP COOK】

「お材木で助かった」という地口(=ダジャレ)オチは「鰍沢」のそれと同じですが、もちろん、この噺が本家本元です。

こうしたオチが作られるくらい、江戸には法華信者が多かったわけです。江戸時代は「日蓮宗」と呼ばず「法華」という呼び名の方が一般的でした。日蓮宗は「法華経」のみを唯一最高の経典と尊重したからです。現在のように「日蓮宗」という宗派名が使われるようになるのは明治に入ってからです。江戸時代には浄土宗とは因縁の対立が続いていました。題目(法華系)と念仏(浄土系)との対立は、落語や川柳での約束事のひとつです。

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せいしょうこうさかや【清正公酒屋】演目

落語版「ロミオとジュリエット」。だから、やっぱり陽気なんです。

別題:縁結び浮き名の恋風

あらすじ

酒屋の肥後屋の若だんなで一人息子の清七と、向かいの菓子屋・虎屋の娘お仲は恋仲だが、両家は昔から仲が悪く、二人は許されない恋。

それというのも、もともと宗旨が一向宗と日蓮宗、商売が酒と饅頭で、上戸と下戸。

すべての利害が対立している上、肥後屋は清正公崇拝で、その加藤清正は毒饅頭で暗殺されたという俗説があるから、なおさらのこと。

もう一つ、虎屋だけに、虎退治の清正とは仇同士。

というわけで、とんだロミオとジュリエットだが、この若だんな、おやじの清兵衛に、お仲を思い切らないと勘当だと、脅かされてもいっこうに動じない。

勘当はおやじの口癖で聞き飽きているし、こっちは跡取りで、代わりがいないというバーゲニングパワーもある。

思い切れませんから勘当結構、さっそく取りかかりましょうと開き直られると、案の定おやじの旗色が悪い。

結局、お決まりで番頭が中に入り、清七の処分は保留、「未決」のまま、お仲から隔離するため、親類預けということになった。

そうなると虎屋の方も放ってはおけず、お仲も同じく親類預け。

二人は哀れ、離れ離れで幽閉の身に。

ところが抜け道はあるもので、饅頭屋のお手伝いと、酒屋の小僧の長松が、こっそり二人の手紙を取り次ぐ手はずができた。

ある日、お仲から、夜中にそっと忍んで来てくれという手紙。

若だんなは勇気百倍、脱走して深夜、お仲を連れ出す。

結局駆け落ちしかないというので、二人は手に手を取って夜霧に消えていく。

しかし、しょせん添われぬ二人の仲。

心中しようと決まり、ここで梅川忠兵衛よろしく、
「覚悟はよいか」
「南無阿弥陀仏」
とくればはまるのだが、あいにく男の宗旨は法華(日蓮宗)。

「覚悟はよいか」
「南無妙法蓮華経」
……いやに陽気な心中となった。

ナムミョウホウレンゲッキョウナムミョウホウレンゲッキョと蛙の交配期のようにデュエットし、にぎやかに水中へドボン……その時突如、ドロドロと怪しの煙。

ここで芝居がかりになり、
「やあ待て両人、早まるな」
「こはいずこの御方なるか」
「おお、我こそはそちが日ごろ信心なす、清正公大神祗なるぞ」
「ちぇー、かたじけない。この上は改宗なしたる女房お仲の命を助けてくださりませ」
「イヤ、たとい改宗なしたりとも、お仲の命は助けられぬわ」
「そりゃまた、なぜに」
と聞くと清正、ニヤっと笑って
「なあに、オレの敵の饅頭屋だから」

底本:六代目桂文治

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宗派対立  【RIZAP COOK】

江戸時代の基本的な知識として、法華系(日蓮宗など)と念仏系(浄土宗、浄土真宗、時宗など)との宗派同士の対立がつねにあった、ということです。江戸の町内でもことあるごとに諍いが絶えませんでした。これは、念仏系では穢土と浄土との二元的な救われ方に比べて、法華では法華経以外では絶対救われないという一元的な見方が原因です。お互い、相容れられない考え方なのです。

清正公さま  【RIZAP COOK】

せいしょうこうさま。縮めて「セイショコさま」とも呼んでます。戦国時代の英傑・加藤清正の霊を神として祀ったものです。武運・金運をつかさどりますが、清正が法華宗の信徒だったところから法華(日蓮宗)信者の信仰を集めました。江戸はほかの地方に比べて法華の宗旨が多く、「法華長屋」「甲府い」「鰍沢」「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」など、落語にも法華の登場する噺はたくさんあります。

江戸の清正公(清正公神祇、清正公大神祇)は2か所あります。

一つは浜町の清正公で、現在の中央区日本橋・浜町公園内。寺の名前は「清正公寺」といいます。意外に新しく、文久元年(1861)の創建です。この地には熊本藩細川家の下屋敷がありました。藩主細川斎護が熊本の本妙寺に安置する「加藤清正公」を勧請(神仏霊のおすそわけ)して分霊とし、下屋敷内に清正公として祀りました。明治になってからは「加藤神社」と称した時期もありましたが、明治18年(1885)に「清正公堂」と改められて、管理を本妙寺に委託しました。関東大震災で焼失し、震災後につくられた浜町公園内に移されました。戦災でもまたも焼失して、戦後、新たに再建されました。この噺に登場するのはこちらです。「浜町の清正公さま」のほうです。おまちがいのなきよう。

もう一つは港区白金の覚林寺境内に祀られる「白金の清正公」で、こちらが本家とされます。清正の画像、ゆかりの品を所蔵していますが、こちらも細川家の白金の中屋敷がすぐ近くで、同家は清正の加藤家が国替え(のちお取りつぶし)後、後釜に肥後熊本に封じられたため、清正の霊を慰める意味もあり、清正公神祇を手厚く庇護したといいます。

中世に形成された神仏習合の流れに、「法華神道」といわれる信仰がありました。日蓮宗の教えと神道が結びついた信仰形態です。崇める対象に日本の神さまや人物が入ってきますが、その中に清正公神祇がありました。寺院の境内の中に祠をこさえ、柏手を打って祈るのです。江戸時代の平和な時間の中で「清正公さま」はこのような形に収まっていきました。慶応4年(1868)3月、明治政府は神道国教化の一環として、神仏判然令を出し、神仏分離を急速に推し進めました。それまでの日本国内にはたしかに、神仏が融合したよくわからない神社仏閣がたくさんあったのですが、政府の方針は短兵急でした。この流れの中で、浜町の清正公さまは神社になったり寺院になったりと、揺れ動いたのですね。

暗殺伝説に由来する噺  【RIZAP COOK】

豊臣家の支柱であった加藤清正が慶長16年(1611)、徳川家康の手により、毒饅頭(毒酒説も)で暗殺されたという俗説に基づいて作られた噺です。オチは文字通りダジャレで、アン殺されたから饅頭が天敵、というわけ。このフレーズ、ドラマ「タイガー&ドラゴン」でも使われてました。

明治期に六代目桂文治が「縁結び浮き名の恋風」の題で得意にしました。この題名は、芝居噺が得意だった文治が、後半の道行きの部分を芝居噺仕立てにしたためです。その後八代目文治、四代目柳家つばめ、戦後も六代目三升家小勝が手掛けましたが、其の後は立川談志が手掛けたぐらいで、残念ながら忘れられかけた噺といっていいでしょう。なんせこの噺、かつての「東京かわら版」発行の『寄席演芸年鑑』索引にも「せ」でなく、「き」の部で載っていたくらいですから。

お題目のデュエット  【RIZAP COOK】

心中場面のこのくすぐりは、「おせつ徳三郎」「小言幸兵衛」にも取り入れられています。どれが「本家」かはわかりませんが。

【語の読み】
清正公 せいしょうこう
本妙寺 ほんみょうじ
覚林寺 かくりんじ

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なかむらなかぞう【中村仲蔵】演目

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役者が主人公の噺。法華信仰が見える噺でもあります。芝居と信仰の濃い関係。

別題:蛇の目傘

あらすじ

明和3年(1766)のこと。

苦労の末、名題に昇進にした中村仲蔵は、「忠臣蔵」五段目の斧定九郎役をふられた。

あまりいい役ではない。

五万三千石の家老職、斧九太夫のせがれ定九郎が、縞の平袖、丸ぐけの帯を締め、山刀を差し、ひもつきの股引をはいて五枚草鞋。山岡頭巾をかぶって出てくるので、どう見たって山賊の風体。

これでは、だれも見てくれない。

そこで仲蔵、
「こしらえに工夫ができますように」
と、柳島の妙見さまに日参した。

満願の日。

参詣後、雨に降られて法恩寺橋あたりのそば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできた。

年のころは三十二、三。月代が森のように生えており、黒羽二重の袷の裏をとったもの、これに茶献上(献上博多)の帯。

艶消し大小を落とし差しに尻はしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰にはさみ、破れた蛇の目をポーンとそこへほうりだす。

月代をぐっと手で押さえると、たらたらとしずくが流れるさま。

この姿に案を得た仲蔵は、拝領の着物が古くなった感じを出すべく、黒羽二重を羊羹色にし、帯は茶ではなく白献上、大小は艶消しではなく舞台映えするように朱鞘、山崎街道に出る泥棒が雪駄ではおかしいので福草履に変えて、こしらえが完成。

初日は、出番になる直前に手桶で水を頭からかけ、水のたれるなりで見得を切った。

初日の客は、あまりの出来にわれを忘れ、ただ息をのむばかり。

場内は水を打ったような静けさ。

これを悪落ちしたと勘違いした仲蔵は葭町の家に戻り、「もう江戸にはいられない。上方に行くぜ」と女房のおきしに旅支度をととのえさせる始末。

そこへ、師匠の中村伝九郎から呼ばれる。

行ってみると、師匠は仲蔵の工夫をほめたばかりか、仲蔵の定九郎の評判で客をさばくのに表方がてんてこまいしたとのこと。

これをきっかけに芸道精進した中村仲蔵は、名優として後世に名を残したという話。めでたし、めでたし。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

初代中村仲蔵   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

1736-90年。江戸中期の名優です。屋号は栄屋、俳号は秀鶴。長唄の太夫、中山小十郎の女房に認められて養子に。器量がよかったので、役者の中村伝九郎の弟子になり、三味線弾きの六代目杵屋喜三郎の娘おきしと結婚。努力の末、四代目市川団十郎に認められ、厳しい梨園の身分制度、門閥の壁を乗り越えて名題となりました。実録では、立作者の金井三笑に憎まれたのが定九郎役を振られた原因とか。

初代中村仲蔵

定九郎の扮装   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

定九郎の、扮装を含む演出は、仲蔵の刷新によって一変したわけではありません。仲蔵以後、かなりの期間、旧来のものが並行して演じられていたようです。特に、定九郎の出で、与一兵衛の後ろのかけ藁に隠れていて白刃を突き出し、無言で惨殺するやり方は、明らかにずっと後世のもので、それまでは後ろから「オーイオーイ」と呼びながら現れる従来の演出がずっと残っていたわけです。その切り替わりの時期、誰が工夫したのか、仲蔵の工夫は本当に噺通りだったのかは諸説あります。

タネ本   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

国立劇場編『名優芸談集』所収の「東の花勝見」(文化12=1815年11月刊、永下堂波静編)に、ほとんど同じ逸話が、仲蔵本人から西川鈍通(伝未詳)への直話として書かれています。つまり、仲蔵が鈍通に語った話をそのまま、予(=永下堂)が直接聞いた通りに記した、とあります。

参詣した場所に関しては王子稲荷、浪人を見た場所は、その帰りの道灌山下通り稲荷森(とうかもり)とあります。仲蔵本人の直話とあれば、記憶違いや伝聞に伴う誤記でなければ、こちらが正しいのでしょう。

衣装の工夫については、今日の演者が誰でも説明する通り、大縞の木綿広袖に丸ぐけ帯、狩人のかぶる麻苧の山岡頭巾に脚絆草鞋の従来の形から、「今は誰にても黒小袖に傘となりしは、此時より始る」とあるので、少なくともこの出で立ちに関しては文化年間にはもう定着していたようです。

仲蔵のこの逸話については、落語以外にもさまざまにあることないこと脚色され、まことしやかに書かれています。

戸板康二の短編小説「夕立と浪人」は、小説の形を取りながら、当時の劇壇の事情やヒエラルキー、仲蔵の出自や幼時の虐待の回想、初代菊五郎や五世團十郎との人間関係などを織り交ぜ、ただの芸道苦心譚には終わらない優れた人間ドラマとなっています。

この中では、定九郎役を仲蔵に振るように、親友の団十郎がボスの菊五郎に使嗾する設定で、浪人への遭遇はやはり柳島妙見願掛け満願の帰り、地内のそば屋のできごととしてあります。

芝居者のいじめ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

以下は、前掲「夕立と浪人」の中で、初代中村仲蔵が後輩に語る、自らが幼時に受けたすさまじいいじめの実状です。もちろんフィクションの形ですが、なかなか真に迫っています。以下、引用です。

子役の時によくやられたのは、長持を背負わされる折檻だ。小道具の刀だの鏡だのがらくたをみんなが面白そうに入れて、うんと重くなったやつを、連尺で背負わされ、ここから向うに飛べと、板の間の板を、あいだ八枚はずして、いうのだ。

(飛べなければ)あいだに長持を背負ったまま、落っこちるのだ。(中略)義経の八艘飛びというのだ。

十五の声がわりになってからのでは、編笠責めというのがある。三階の連中の草履をからげて、頭にかぶらせるのだ。それから撞木責めというのがある。梁に吊り下げられて、みず(ぞ)おちを小づかれるんだ。こっちが釣鐘になっているんだ。

人間、いつの時代もトラウマと恨みつらみを背負って、駆け上がっていくのでしょうか。

手前味噌   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

この噺は、江戸末期-明治初期の名脇役だった三世仲蔵(1809-85)の自伝的随筆『手前味噌』の中に初代の苦労を描いた、ほとんど同内容の逸話があるので、それをもとにした講談が作られ、さらに落語に仕立てたものでしょう。

悟道軒円玉の「名人中村仲蔵」と」題する速記も残っていて、落語と同内容ですが、仲蔵の伝記がさらに詳しくなっています。円玉は明治の講釈師で速記講談のパイオニアでもある人物です。

近年では、松井今朝子の伝記小説『仲蔵狂乱』(講談社刊)が、仲蔵の苦悩の半生を描くとともに、当時の歌舞伎社会のいじめや差別、被差別のすさまじさ、役者の売色の生々しい実態などをリアルに活写した好著です。

役者の身分   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

当時の役者は、下立役(稲荷町=いなりちょうと通称)、中通り、相中(あいちゅう)、相中上分(あいちゅうかみぶん)、名題下、名題と、かなり細かく身分が分かれ、家柄のない者は、才能や実力にかかわらず、相中に上がれれば御の字。名題はおろか、並び大名役がせいぜいの名題下にすらまず一生なれないのが普通でした。

五段目   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

「仮名手本忠臣蔵」五段目、通称「鉄砲渡し」の場の後半で、元塩冶判官(浅野内匠頭)家来で今は駆け落ちした妻・お軽の在所・山崎で猟師をしている早野勘平が、山崎街道で猪と間違え、斧定九郎を射殺する有名な場面です。

定九郎の懐には、前の場でお軽の父・与市兵衛を殺して奪った五十両が入っており、それは、婿の勘平に主君の仇討ち本懐を遂げさせるためお軽が祇園に身を売って作った金。何も知らない勘平はその金を死骸から奪い……。

というわけで、次幕・六段目、勘平切腹の悲劇の伏線になりますが、噺の中で説明される通り、かってはダレ場で、客は芝居を見ずに昼食をとるところから「弁当幕」と呼ばれていたほど軽い幕でした。

柳島の妙見さま   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

日蓮宗の寺院、法性寺の別称。墨田区業平にあります。役者・芸者など、芸能者や浮き草稼業の者の信仰が厚いことで知られました。妙見は北極星の化身とされます。

正蔵と円生   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

戦後では、八代目林家正蔵(彦六)、六代目三遊亭円生という江戸人情噺の二大巨匠がともに得意としました。

円生は、役者の身分制度などをマクラで細かく、緻密に説明し、芝居噺の「家元」でもあった正蔵は、滋味溢れる語り口で、芝居場面を忠実に再現しました。

最近では、五街道雲助のが光ります。

正蔵のオチ   古今亭志ん朝 大須演芸場CDブック

もともと、この噺は人情噺なのでオチはありません。ただ、正蔵の付けたものがあります。

師匠からたばこ入れをもらって帰宅した仲蔵に女房おきしが、「なんだね、おまえさん。いやですねえ。あたしを拝んだりして。けむに巻かれるよう」と言うと仲蔵が「けむに巻かれる? ……ああ、もらったのァ、たばこ入れだった」

【語の読み】
名題 なだい
定九郎 さだくろう
釜九太夫 おのくだゆう
縞の平袖 しまのどてら
丸ぐけの帯
山刀 やまがたな
股引 ももひき
草鞋 わらじ
山岡頭巾 やまおかずきん
風体 ふうてい
法恩寺橋 ほうおんじばし
月代 さかやき
黒羽二重 くろはぶたえ
袷 あわせ
茶献上 ちゃけんじょう
雪駄 せった
蛇の目 じゃのめ
拝領 はいりょう
羊羹色 ようかんいろ
朱鞘 しゅざや
山崎街道 やまざきかいどう
福草履 ふくぞうり
手桶 ておけ
見得 みえ
悪落ち あくおち
葭町 よしちょう
中村伝九郎 なかむらでんくろう
稲荷森 とうかもり

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【六代目三遊亭円生 中村仲蔵】

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ほりのうち【堀の内】演目

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粗忽噺。日蓮宗がらみの。ここまで粗忽だと物事がいっこうに進みません。

【あらすじ】

粗忽者の亭主。

片方草履で、片方駒げたを履いておいて「足が片っぽ短くなっちまった。薬を呼べ。医者をのむ」と騒いだ挙げ句に、「片方脱げばいい」と教えられ、草履の方を脱ぐ始末。

なんとか粗忽を治したいと女房に相談すると、信心している堀の内のお祖師さまに願掛けをすればよいと勧められる。

出掛けに子供の着物を着ようとしたり、おひつの蓋で顔を洗ったり、手拭いと間違えて猫で顔を拭き、ひっかかれたりの大騒ぎの末、ようやく家を出る。

途中で行き先を忘れ、通りがかりの人にいきなり
「あたしは、どこへ行くんで?」

なんとかたどり着いたはいいが、賽銭をあげるとき、財布ごと投げ込んでしまった。

「泥棒ッ」
と叫んでも、もう遅い。

しかたなく弁当をつかおうと背負った包みを開けると、風呂敷だと思ったのがかみさんの腰巻き、弁当のつもりが枕。

帰って戸を開けるなり
「てめえの方がよっぽどそそっかしいんだ。枕を背負わせやがって。なにを笑ってやんでえ」
とどなると
「おまえさんの家は隣だよ」

「こりゃいけねえ」
と家に戻って
「どうも相すみません」

かみさん、あきれて
「お弁当はこっちにあるって言ったのに、おまえさんが間違えたんじゃないか。腰巻きと枕は?」
「あ、忘れてきた」

かみさんに頼まれ、湯に子供を連れて行こうとすると
「いやだい、おとっつぁんと行くと逆さに入れるから」
「今日は真っ直ぐに入れてやる。おとっつぁんがおぶってやるから。おや、大きな尻だ」
「そりゃ、あたしだよ」

湯屋に着くと、番台に下駄を上げようとしたり、もう上がっているよその子をまた裸にしようとして怒られたり、ここでも本領発揮。

平謝りして子供を見つけ、
「なんだ、こんちくしょうめ。ほら、裸になれ」
「もうなってるよ」
「なったらへえるんだ」
「おとっつぁんがまだ脱いでない」

子供を洗ってやろうと背中に回ると
「あれ、いつの間にこんな彫り物なんぞしやがった。おっそろしく大きなケツだね。子供の癖にこんなに毛が生えて」
と尻の毛を抜くと
「痛え、何しやがるんだ」

鳶頭と子供を間違えていた。

「冗談じゃねえやな。おまえの子供は向こうにいらあ」
「こりゃ、どうもすみませんで……おい、だめだよ。おめえがこっちィ来ねえから。……ほら見ねえ。こんなに垢が出らあ。おやおや、ずいぶん肩幅が広くなったな」
「おとっつぁん、羽目板洗ってらあ」

【しりたい】

小ばなしの寄せ集め

粗忽(あわて者)の小ばなしをいくつかつなげて一席噺にしたものです。

隣家に飛び込むくだりは、宝暦2年(1752)刊の笑話本『軽口福徳利』中の「粗忽な年礼」、湯屋の部分は寛政10年(1798)刊『無事志有意』中の「そゝか」がそれぞれ原話です。

くすぐりを変えて、古くから多くの演者によって高座にかけられてきました。

たとえば、湯に行く途中に間違えて八百屋に入り、着物を脱いでしまうギャグを入れることも。

伸縮自在なので、時間がないときにはサゲまでいかず、途中で切ることもよくあります。

上方版「いらちの愛宕詣り」

落語としては上方ダネです。「いらち」とは、大阪であわて者のこと。

前半は東京と少し違っていて、いらちの喜六が京の愛宕山へ参詣に行くのに、正反対の北野天満宮に着いてしまったりのドタバタの後、賽銭は三文だけあげるようにと女房に言い含められたのに、間違えて三文残してあと全部やってしまう、というように細かくなっています。

最後は女房に「不調法いたしました」と謝るところで終わらせます。

堀の内のお祖師さま

東京都杉並区堀の内3丁目の日円山妙法寺。日蓮宗の名刹です。

「お祖師さま」とは日蓮をさします。江戸ことばで「おそっさま」と読みます。

もとは真言宗の尼寺で、目黒・円融寺の末寺でしたが、元和年間(1615-24)に日円上人が開基して日蓮宗に改宗。

明和年間(1764-72)に中野の桃園が行楽地として開かれて以来、厄除けの祖師まいりとして繁盛しました。

こちらの「お祖師さま」は日蓮上人42歳の木像、通称「厄除け大師」にちなみます。

かじかざわ【鰍沢】演目

 

身延参詣の帰り、宿を借りたら命狙われ雪中の逃避行。続編は「晦の月の輪」。

別題:鰍沢雪の夜噺 鰍沢雪の酒宴 月の輪お熊

あらすじ

おやじの骨を身延山に納めるため、参詣かたがたはるばる江戸からやってきた新助。

帰り道に山中で大雪となり、日も暮れてきたので道に迷って、こんな場所で凍え死ぬのは真っ平だから、どんな所でもいいから一夜を貸してくれる家はないものかと、お題目を唱えながらさまよううち、遠くに人家の灯、生き返った心地で宿を乞う。

出てきたのは、田舎にまれな美しい女。年は二十八、九か。

ところが、どうしたことか、のどから襟元にかけ、月の輪型の傷跡がある。

家の中は十間ほどの土間。

その向こうの壁に獣の皮が掛かっていて、欄間には火縄の鉄砲。

猟師の家とみえる。

こんな所だから食べる物もないが、寝るだけなら、と家に入れてくれ、囲炉裏の火にあたって人心地つくうち、ふとした会話から女が江戸者だとわかる。

それも浅草の観音さまの裏あたりに住んでいたという……。

「あの、違ったらお詫びしますが、あなた、吉原は熊蔵丸屋の月の戸花魁(おいらん)じゃあ、ありませんか」
「えっ? おまえさん、だれ?」

男にとっては昔、初会惚れした忘れられない女。

ところが、裏を返そうと二度目に行ってみると、花魁が心中したというので、あんなに親切にしてくれた人がと、すっかり世の無常を感じて、それっきり遊びもやめてしまったと、しみじみ語ると、花魁の方も打ち明け話。

心中をし損ない、喉の傷もその時のものだという。

廓の掟でさらされた後、品川の岡場所に売られ、ようやく脱走してこんな草深い田舎に逃れてきたが、今の亭主は熊撃ちをして、その肝を生薬屋に売って細々と生計を立てている身。

「おまえはん、後生だから江戸へ帰っても会ったことは内密にしてください」
としんみりと言うので、新助は情にほだされ、ほんの少しですがと金包みを差し出す。

「困るじゃあありませんか」
と言いつつ受け取った女の視線が、ちらりとその胴巻きをかすめたことに、新助は気づかない。

もと花魁、今は本名お熊が、体が温まるからと作ってくれた卵酒に酔いしれ、すっかりいい気持ちになった新助は、にわかに眠気を催し、別間に床を取ってもらうと、そのまま白川夜船。

お熊はそれを見届け、どこかへ出かけていく。

入れ違いに戻ってきたのが、亭主の伝三郎。

戸口が開けっ放しで、女房がいないのに腹を立て、ぶつくさ言いながら囲炉裏を見ると、誰かが飲んだらしい卵酒の残り。

体が冷えているので一気にのみ干すと、そこへお熊が帰ってくる。

亭主の酒を買いに行ったのだったが、伝三郎が卵酒をのんだことを知ると真っ青。

「あれには毒が……」
と言う暇もなく伝三郎の舌はもつれ、血を吐いてその場で人事不省になる。

客が胴巻きに大金を忍ばせていると見て取り、毒殺して金を奪おうともくろんだのが、なんと亭主を殺す羽目に。

一方、別間の新助。

目が覚めると、にわかに体がしびれ、七転八倒の苦しみ。

それでもなんとか陰からようすを聞き、事情を悟ると、このままでは殺されると、動かぬ体をひきずるように裏口から外へ。

幸い、毒酒をのんだ量が少なかったか、こけつまろびつ、お題目を唱えながら土手をよじ登り、下を見ると東海道は岩淵に落ちる鰍沢の流れ。

急流は渦巻いてドウドウというすさまじい水勢。

後ろを振り向くと、チラチラと火縄の火。

亭主の仇とばかり、お熊が鉄砲を手に追いかけてくる。

雪明りで、下に山いかだがあるのを見ると、新助はその上にずるずると滑り落ちる。

いかだは流され、岩にぶつかった拍子にバラバラ。

たった一本の丸太にすがり、震えてお題目を唱えていると、上からお熊が狙いを定めてズドン。

弾丸はマゲをかすって向こうの岩に命中した。

「ああ、大難を逃れたも、お祖師さまのご利益。たった一本のお材木(=題目)で助かった」

底本:四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬

しりたい

三題噺から創作  【RIZAP COOK】

三遊亭円朝の作。幕末には、お座敷や特別の会の余興に、客が三つの題を出し、落語家が短時間にそれらを全部取り入れて一席の噺をまとめるという三題ばなしが流行しましたが、円朝がその席で「鉄砲」「毒消しの護符」「玉子酒」の三つのキーワード(一説には「小室山の護符」「熊の膏薬」「玉子酒」とも)から即座にまとめたものです。三題噺からできた落語では円朝がつくったといわれる「芝浜」があります。原話は道具入り芝居噺として作られ、その幕切れは、「名も月の輪のお熊とは、食い詰め者と白浪の、深きたくみに当たりしは、のちの話の種子島危ないことで(ドンドンと水音)あったよなあ。まず今晩はこれぎり」となっています。

と、これまではいわれてきましたが、最近の研究ではちょっと違っています。

文久年間に「粋狂連」のお仲間、河竹黙阿弥がつくったものを円朝が譲り受けた、というのが、最近のおおかたの説です。歌舞伎の世界では日蓮宗の篤信家が多かったこと、幕末期の江戸では浄土宗と日蓮宗の話題を出せばウケがよいため、信心がなくても日蓮宗を取り上げていました。黙阿弥の河竹家は浄土真宗で、菩提寺は浅草北島町の源通寺です。興行で提携していた四代目小団次こそが日蓮宗の篤信家だったのです。黙阿弥は作者に徹していたわけですね。

このころの円朝は、義兄(玄昌)の住持する南泉寺(臨済宗妙心寺派)などで 座禅の修行をしていましたから、日蓮宗とは無縁だったはず(晩年は日蓮宗に改宗)。ですから、当時の円朝はお題目とは無縁だったのですが、江戸の町では、浄土宗(念仏系)と日蓮宗(題目系)との対立が日常茶飯事で、なにかといえば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」が人の口の端について出る日々。円朝も「臨済禅だから無関係」といっているわけにはいかなかったようですね。人々が信じる宗派をはなしに取り込まなくては芸の商売になりませんし。黙阿弥と同じ立場です。

江戸期にはおおざっぱに、上方落語には念仏もの(浄土宗、浄土真宗、時宗など)が多く登場し、江戸落語には題目もの(日蓮宗、法華宗など)が多く取り上げられる、といわれています。このはなしもご多分に漏れなかったようです。

「鰍沢」と名人たち  【RIZAP COOK】

円朝は維新後の明治5年(1873)、派手な道具入り芝居噺を捨て、素ばなし一本で名人に上り詰めましたが、「鰍沢」もその関係で、サスペンスがかった人情噺として演じられることが多くなりました。

円朝門下の数々の名人連に磨かれ、三遊派の大ネタとして、戦後から現在にいたるまで受け継がれてきました。

明治の四代目橘家円喬の迫真の名演は、今も伝説的です。

近年では八代目正蔵に正統が伝わり、五代目志ん生も晩年好んで演じました。

元の形態の芝居噺としては、正蔵が特別な会で復活したものが門弟の正雀に継承されたほかは、やり手はいないようです。

志ん生の「鰍沢」  【RIZAP COOK】

五代目志ん生は、自らが円朝、円喬の系統を継ぐ正統の噺家であるという自負からか、晩年、円朝全集を熟読し、「塩原多助」「名人長二」「鰍沢」など、円朝がらみの長編人情噺を好んで手がけました。

志ん生の「鰍沢」は、全集の速記を見ると、名前を出しているのはお熊だけで、旅人も亭主も無人称なのが特色ですが、残念ながら成功したとは言いがたいできです。リアルで緻密な描写を必要とする噺の構造自体が、志ん生の芸風とは水と油なのです。

音源は、病後の最晩年ということもあり、口が回らず、無残の一語です。五十代の志ん生が語る「鰍沢」を一度聞いてみたかったと思います。

続編は「晦の月の輪」  【RIZAP COOK】

歌舞伎作者の黙阿弥作で、やはり円朝が芝居噺として演じたとされる、この噺の続編が「鰍沢二席目」です。正式には「晦(みそか)の月の輪」といい、やはり三題噺(「花火」「後家」「峠茶屋」)から作られたものといわれます。

毒から蘇生した伝三郎が、お熊と信濃・明神峠で追い剥ぎを働いているところへ、偶然新助が通りかかり、争ううちに夫婦が谷底へ転落するという筋立てですが、明治以後、演じられた形跡もなく、芝居としての台本もありません。岩波版「円朝全集」には別巻2に収められています。

鰍沢  【RIZAP COOK】

現在の山梨県南巨摩郡鰍沢町。東海道から甲府に至る交通の要衝で、古くから、富士川添いの川港として物資の集積点となり、栄えました。「鰍沢の流れ」は富士川の上流で、東海道岩淵在は現在の静岡県庵原郡富士川町にあたります。

「鰍沢」は人情噺には珍しく、新助が急流に転落したあと「今のお材木(=お題目)で助かった」というオチがついていますが、「おせつ徳三郎」のオチと同じなので、これを拝借したものでしょう。

晒し刑  【RIZAP COOK】

男女が心中を図って亡くなった場合は死骸取り捨てで三ノ輪の浄閑寺や亀有の善応寺などの投げ込み寺に葬られました。どちらかが生き残った場合は下手人の刑として処刑されました。両方とも生き残った場合は、日本橋南詰め東側に三日間、晒し刑にされました。これは悲惨です。縄や竹などで張られた空き地に、萱や棕櫚などで葺いた三方開きに覆いの中に筵を敷いて、その上に座らせられて、罪状が記された捨て札、横には刺す股、突く棒、袖搦みといった捕り方道具を据えられて、往来でさんざんに晒されます。物見高い江戸っ子の娯楽でもありました。江戸っ子は無責任で残酷です。四日後、男女は別々に非人に落とされていきます。

日本橋馬鹿をつくした差し向かい
江戸のまん中でわかれる情けなさ
死すべき時死なざれば日本橋
日本に死にそこないが二人なり
日本橋おしわけてみる買った奴
四日目は乞食で通る日本橋
吉原の咄をさせる小屋頭

「江戸のまん中」「日本」は日本橋のこと。吉原で「買った奴」がまざまざと眺める光景は世間の非情と滑稽を点描しています。「乞食」とは非人のことでしょう。江戸っ子には乞食も非人も同類の認識だったのがわかります。「小屋頭」とは非人頭のこと。浅草では車善七、品川では松右衛門と決まっていました。吉原で遊女をしていた頃の話を聞こうとする非人頭もずいぶんといやらしい了見です。そんなこんなの非道体験を経た後、伝三郎とお熊は鰍沢に人知れず消えていったわけです。彼らの心境も多少は推しはかれるかもしれません。

【語の読みと注】
浄閑寺 じょうかんじ:荒川区南千住二丁目の浄土宗寺院。投げ込み寺だった
善応寺 ぜんのうじ:足立区中川三丁目の真言宗寺院。投げ込み寺だった

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かげきよ【景清】演目

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開眼噺。目があくようにと願掛けを日朝さまから景清さまに。だから、あくと。

【あらすじ】

もとは腕のいい木彫師だが、酒と女に溺れた挙げ句、中年から目が不自由になった定次郎。

杖を頼りに按摩をして歩いているが、まだ勘がつかめず、あちらこちらで難渋している。

その時、声を掛けたのが、知り合いの石田のだんな。

家に上げてもらってごちそうになるうち、定さんは不思議な体験を語る。

医者にも見放された定さんが、それでもなんとか目が開くようにとすがったのが、赤坂の日朝さま。

昔の身延山の高僧で、願掛けをして二十一日の間、日参すれば、霊験で願いがかなえられると人に勧められたからだ。

心配をかけ続けの老母のためにもと、ひたすら祈って祈って、明日は満願という二十日の朝、気のせいか目の底で黒い影が捉えられた。

喜びいさんでお題目を繰り返していると、自分の声に、誰か女の声が重なって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」とお題目の掛け合いになったので、驚いて声の主に話しかけてみた。

女はやはり目が見えず、老いた母親が生きているうちに、片方でもいいから見えるようになりたいと願掛けしているという。

うれしくなって、並んでお題目を唱えるうち、定さんが女をひじでトーンと突くと、どういう案配か向こうもトーン。

トーン、トーンとやっているうちにいつしか手と手がぴったり重なった。

とたんに、かすかに見えかけていた目の前が、また真っ暗になった。

「日朝坊主め、ヤキモチを焼いていやがらせをしやがって」
と腹を立て、
「もうこんなとこに願掛けをするのは真っ平だ」
と、たんかを切って帰ってきてしまった、というわけ。

聞いただんな、
「おまえさんは右に出る者がいないほどの木彫師だったんだから、年取ったおっかさんのためにも短気を起こさず、目が開くように祈らなくてはいけない」
とさとし、
「日朝さまが嫌なら、昔、平景清という豪傑が目玉をくり抜いて納めたという上野清水の観音さまへ願えば、きっとご利益がある」
と勧める。

だんなの親切に勇気づけられた定さん、さっそく清水に百日の日参をしてみたが、満願の日になっても、いっこうに目は明かない。

絶望し、また短気を起こして、
「やい観公、よくも賽銭を百日の間タダ取りしやがったな、この泥棒っ」

定さんが境内でわめき散らしていると、そこへ石田のだんながようすを見にくる。

興奮する定さんをしかり、よく観音さまにおわびして、また一心に願を掛け直すように言い聞かせ、二人で池の端の弁天さまにお参りして帰ろうとすると、一天にわかにかき曇り、豪雨とともに雷がゴロゴロ。

急いで掛け出し、足が土橋に掛かったと思うと、そこにピシッと落雷。

だんなは逃げ出し、定さんはその場で気を失ってしまう。

気がついて、ふと目に手をかざすと……

「あっ! 眼……眼……眼があいたっ」

次の日、母親といっしょにお礼参りをしたという、観音の霊験を物語る一席。

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【しりたい】

景清

一般には平家の遺臣ということになっています。豪傑として名高く、「悪七兵衛景清」(生没年不詳)と呼ばれます。姓はまちまちで、平、藤原、伊藤とも。藤原秀郷の子孫、伊勢藤原氏(伊藤氏)の出身といわれているからです。

「悪」は剛勇無双の意味で、悪者の意味ではありません。古くから伝説的な英雄として、浄瑠璃や歌舞伎、謡曲の題材になっています。

目玉をくり抜くくだりは、東大寺大仏供養に乗じて頼朝暗殺を企てて失敗し、捕らえられた景清が、助命されて頼朝の高恩に感じ、自らの両眼をくり抜いて清水寺に奉納するという浄瑠璃「嬢景清八島日記」の筋を元にしたものです。

お古いお噂で恐縮ですが、往年のNHK大河ドラマ「源義経」(1966年)では、加藤武が錣曳(しころびき)の景清に扮していました。

日朝さまに願掛け

日朝上人は、江戸中期の日蓮宗の高僧で、身延山三十六世です。赤坂寺町の円通寺を開基しました。願掛けは、神社仏閣に願い事のため日参する行で、期日は五十日、百日、一年などさまざまです。

浄瑠璃「壺坂霊験記」では、按摩の沢市が女房・お里に連れられ、壺坂の観音に日参して開眼しています。

清水の観音

上野の新清水寺で、しばしば歌舞伎狂言の舞台になっています。寛永8年(1631)、寛永寺と同じ、天海の開基。桜の名所としても知られます。

上方のやり方

東京では、三代目三遊亭円馬の直伝で八代目桂文楽が人情噺として十八番にしていましたが、上方では、はるかにくすぐりが多く、後半がかなり異なります。

東京と違い、昔は鳴り物入りで観音さまが出てきて景清の目玉を定次郎に授けます。今度は景清の精が定次郎にのりうつって大名行列に暴れ込んだりする、というもの。

(殿)「そちゃ気が違うたか」
(定)「いえ、目が違いました」
とオチになります。

軽快な噺となっていますが、人情噺の部分と対比して荒唐無稽に傾くので、現在は上方でもほとんど演じられません。同じ上方落語の「瘤弁慶」と似た、荒唐無稽の奇天烈噺です。

【景清 八代目桂文楽】