【三方一両損】さんぽういちりょうぞん 落語演目 あらすじ
【どんな?】
柳原土手で拾った金が、なんと三両。
ホントの意味はこういうことなのね。
別題:一両損 三方目出度い
【あらすじ】
神田白壁町の長屋に住む左官の金太郎。
ある日、柳原の土手で、同じく神田竪大工町の大工・熊五郎名義の書きつけと印形、三両入った財布を拾ったので、さっそく家を訪ねて届ける。
ところが、偏屈で宵越しの金を持たない主義の熊五郎、
「印形と書きつけはもらっておくが、オレを嫌って勝手におさらばした金なんぞ、もうオレのものじゃねえから受け取るわけにはいかねえ、そのまま持って帰れ」
と言い張って聞かない。
「人が静かに言っているうちに持っていかないとためにならねえぞ」
と、親切心で届けてやったのを逆にすごむ始末なので、金太郎もカチンときて、大げんかになる。
騒ぎを聞きつけた熊五郎の大家が止めに入るが、かえってけんかが飛び火する。
熊が
「この逆蛍、店賃はちゃんと入れてるんだから、てめえなんぞにとやかく言われる筋合いはねえ」
と毒づいたから、大家はカンカン。
「こんな野郎はあたしが召し連れ訴えするから、今日のところはひとまず帰ってくれ」
と言うので、腹の虫が納まらないまま金太郎は長屋に引き上げ、これも大家に報告すると、こちらの大家も、
「向こうに先に訴えられたんじゃあ、てめえの顔は立ってもオレの顔が立たない」
と、急いで願書を書き、金太郎を連れてお恐れながらと奉行所へ。
これより名奉行、大岡越前守様のお裁きとあいなる。
お白州で、それぞれの言い分を聞いいたお奉行さま。
問題の金三両に一両を足し、金太郎には正直さへの、熊五郎には潔癖さへのそれぞれ褒美として、各々に二両下しおかれる。
金は、拾った金をそのまま取れば三両だから、都合一両の損。
熊も、届けられた金を受け取れば三両で、これも一両の損。
奉行も褒美に一両出したから一両の損。
したがって三方一両損で、これにて丸く収まるという、どちらも傷つかない名裁き。
二人はめでたく仲直りし、この後奉行の計らいで御膳が出る。
「これ、両人とも、いかに空腹でも、腹も身のうち。たんと食すなよ」
「へへっ、多かあ(大岡)食わねえ」
「たった一膳(=越前)」
【しりたい】
講談の落語化
文化年間(1804-18)から口演されていた古い噺です。
講談の「大岡政談もの」の一部が落語に脚色されたもので、さらにさかのぼると、江戸初期に父子で名奉行とうたわれた板倉勝重(1545-1624)、重宗(1586-1656)の事績を集めた『板倉政要』中の「聖人公事の捌」が原典です。
大岡政談
落語のお奉行さまは、たいてい大岡越前守と決まっていて、主な噺だけでも「大工調べ」「帯久」「五貫裁き」「小間物屋政談」と、その出演作品はかなりの数です。
実際には、大岡忠相(1677-1751)が江戸町奉行職にあった享保2年-元文元年(1717-36)に、自身で担当したおもな事件は白子屋事件くらいです。
有名な天一坊事件ほか、講談などで語られる事件はほとんど、本人とはかかわりありません。
伝説だけが独り歩きし、講釈師や戯作者の手になった『大岡政談実録』などの写本から、百編近い虚構の逸話が流布。
それがまた「大岡政談」となって講談や落語、歌舞伎に脚色されたわけです。➡町奉行
古いやり方
明治の三代目春風亭柳枝(鈴木文吉、1852-1900)は、このあとに「文七元結」を続ける連作速記で、全体を「江戸っ子」の題で演じています。
柳枝のでは、二人の当事者の名が、八丁堀岡崎町の畳屋・三郎兵衛と、神田江川町の建具屋・長八となっていて、時代も大岡政談に近づけて享保のころ、としています。
長八が金を落としてがっかりするくだりも入れてオチの部分を省くなど、現行とは少し異なります。
昭和に入って八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)が得意とし、その型が現在も踏襲されています。
召し連れ訴え
「大家といえば親も同然」と、落語の中でよく語られる通り、大家(家主)は、店子に対して絶対権力を持っていました。
町役として両御番所(南北江戸町奉行所)、大番屋などに顔が利いた大家が、店子の不正を上書を添えて「お恐れ乍ら」とお上に訴え出るのが「召し連れ訴え」です。
もちろん、この噺のように店子の代理人として、ともども訴え出ることもありました。
十中八九はお取り上げになるし、そうなれば判決もクロと出たも同然ですから、芝居の髪結新三のようなしたたかな悪党でも、これには震え上がったものです。