【五人廻し】ごにんまわし 落語演目 あらすじ
【どんな?】
明治の噺。
安い遊びをする客のありさまが。
別題:小夜千鳥
【あらすじ】
上方ではやらないが、吉原始め江戸の遊廓では、一人の花魁が一晩に複数の客をとり、順番に部屋を廻るのが普通で、それを「廻し」といった。
これは明治初めの吉原の話。
売れっ子の喜瀬川花魁。
今夜は四人もの客が待ちぼうけを食ってイライラし通しだが、待てど暮らせど誰の部屋にもいっこうに現れない。
宵にちらりと見たばかりの三日月女郎などはまだかわいいほうで、これでは新月女郎の月食女郎。
若い者、といっても当年四十六になる牛太郎の喜助は、客の苦情に言い訳するのに青息吐息。
最初にクレームを付けたのは、職人風のお兄さん。
おいらんに、空っケツになるまでのみ放題食い放題された挙げ句、思わせぶりに「すぐ来るから待っててね」と言われて夜通し、バターンバターンと草履の音がするたびに今度こそはと身を乗り出しても、あわれ、すべて通過。
頭にくるのも無理はない。
男が喜助に
「おい、こら、玉代返せ」
「これも吉原の法でございますから」
その一言に、男が気色ばんだ。
「なにをー。勘弁ならねえことを、ぬかしやがったな。吉原の法でござい、といわれて、はいそうですか、と引っ込む、おあにいさんじゃねえんだ。おぎゃあと生まれた時から大門くぐってるんだ。吉原のことについちゃ、なんでも知らねえことはねえぞ。なあ、そもそも吉原というところはな、元和三年に庄司甚右衛門てえおせっかい野郎がな、繁華な土地に廓は具合が悪いてんで、ご公儀に願ってできたんだ。もとは日本橋の葺屋町にあったんだが、配置替えを命じられてここに移ってきたんだ。ここはもともと葭、茅の茂った原だった。だから葭原といったのを、縁起商売だから、キチゲンと書いて吉原。日本橋の方を元吉原、こっちを新吉原といったてぇんだ。わかったか。土手から見返り柳、五十間を通って大門をくぐれば、仲之町だ。まず左手に伏見町だ。その先は江戸町一丁目、二丁目、それから揚屋町に角町、奥が京町一丁目、二丁目。これが五丁町ってえんだ。いいか、この吉原に茶屋が何軒あって、女郎屋が何軒、大見世が何軒、中見世が何軒、小見世が何軒あって、どこの見世は女郎が何人で、どこの誰が間夫にとらわれているのか、どこの見世のなんという者がいつどこから住み替えてきたのか、源氏名から本名からどこの出身かまで、ちゃーんとこっちはわかってるんでえ。横丁の芸者が何人いてよ、どういうきっかけで芸者になってどういう芸が得意で、幇間が何人いて、どういう客を持っているか、こっちはなんでも知ってるんだ。台屋の数が何十軒あって、おでん屋はどことどことどこにあって、どこのおでん屋のツユが甘いか辛いかだの、どこのおでん屋のハンペンはうめえが、チクワがうまくねえとか、ちゃーんとこっちは心得てんだ。雨がふらあ、雨が。この吉原のどこに水たまりができるなんて、てめえなんぞドジだから知るめえ。どこんところにどんな形でどんな大きさの水たまりがあるのか、ちゃーんと知ってるからな。目えつぶったって、そういう中に足を入れねえで歩いていかれるんだ。水道尻にある犬の糞だってな、クロがしたのか、ブチがしたのか、チャがしたのか、端からニオイをかぎ分けようっておあにいさんだ。モモンガァ、チンケートー、脚気衝心、肺結核、発疹チフス、ペスト、コレラ、スカラベッチョー。まごまごしゃあがると頭から塩ォかけて食らうから、そう思え。コンチクショウ」
喜助、ほうほうの体で逃げ出すと、次は役人らしい野暮天男。
四隣沈沈、空空寂寂、閨中寂寞とやたら漢語を並べ立てて脅し、閨房中の相手をせんというのは民法にでも出ておるのか、ただちに玉代を返さないとダイナマイトで……と物騒。
平謝りで退散すると今度は通人らしいにやけた男。
黄色い声で、
「このお女郎買いなるものはでゲスな、そばに姫が待っている方が愉快とおぼし召すか、はたまた何人も花魁方が愉快か、尊公のお胸に聞いてみたいねえ、おほほほ」
と、ネチネチいや味を言う。
その次は、最初の客に輪を掛けた乱暴さで、てめえはなんぞギュウ(牛太郎)じゃあもったいねえ、牛クズだから切り出し(細切れ)でたくさんだ、とまくしたてられた。
やっとの思いで喜瀬川花魁を捜し当てると、なんと田舎大尽の杢兵衛旦那の部屋に居続け。
少しは他の客の所へも廻ってくれ、と文句を言うと
「いやだよ、あたしゃあ」
お大尽、
「喜瀬川はオラにおっ惚れていて、どうせ年季が明ければヒイフ(夫婦)になるだからっちゅうて、オラのそばを離れるのはいやだっちゅうだ」
と、いい気にノロケて、
「玉代をけえせ(返せ)っちゅうんならオラが出してやるから、帰ってもらってくれ」
と言う。
一人一円だから都合四円出して喜助を追い払うと、花魁が
「もう一円はずみなさいよ」
あたしにも一円くれ、というので、出してやると、喜瀬川が
「もらったからにはあたしのものだね。……それじゃあ、改めてこれをおまえさんにあげる」
「オラがもらってどうするんだ」
「これ持って、おまはんも帰っとくれ」
【しりたい】
みどころ 【RIZAP COOK】
明治初期の吉原遊郭のようすを今に伝える、貴重な噺です。
「五人廻し」と題されていますが、普通、登場する客は四人です。
やたらに漢語を連発する明治政府の官人、江戸以来(?)のいやみな半可通など、当時いたであろう人々の肉声、時代の風俗が、廓の雰囲気とともに伝わってきます。
とりわけ、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)のような名手にかかると、それぞれの人物の描き分けが鮮やかです。
それにしても、当時籠の鳥と言われた女郎も、売れっ子(お職)ともなると、客の選り好みなど、結構わがままも通り、勝手放題にふるまっていたことがわかります。
廓噺と初代小せん 【RIZAP COOK】
吉原遊郭の情緒と、客と女郎の人間模様を濃厚に描く廓噺は、江戸の洒落本の流れを汲み、かつては数多く作られ演じられました。
現在では一部の噺を除いてすたれました。
洒落本は、遊郭を舞台にして「通人」についておもしろおかしく描いた読み物です。
18世紀後半に流行しました。
「五人廻し」始め、「居残り佐平次」「三枚起請」など、今に残るほとんどの廓噺の原型を作り、集大成したのが、初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919)です。
歌人の吉井勇(1886-1960)にも愛された小せん。薄幸の天才落語家です。
若い頃から将来を期待されましたが、あまりの吉原通いで不幸にも梅毒のため盲目となり、足も立たなくなって、おぶわれて楽屋入りするほどに衰え果てました。
それでも、最後まで高座に執念を燃やし、大正8年(1919)5月26日、36歳の若さで亡くなるまで、後の五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目円生ら「若手」に古き良き時代の廓噺を伝え残しました。
「五人廻し」の演出 【RIZAP COOK】
現行のものは、初代小せんが残したものがひな型です。
登場人物は六代目円生では、江戸っ子官員、半可通、田舎大尽(金持ち)で、幻のもう一人は、喜瀬川の情夫ということでしょう。古くはもう一人、しまいに花魁を探してくれと畳を裏返す男を出すこともありました。
「web千字寄席」のあらすじでは古い速記を参照して、その客を四人目に入れておきました。
ギャグでは、三人目の半可通が、「ここに火箸が真っ赤に焼けてます……これを君の背中にじゅう……ッとひとつ、押してみたい」と喜助を脅すのが小せんのもので、今も生きています。
円生は、最初の江戸っ子が怒りのあまり、「そも吉原てえものの始まりは、元和三年の三月に庄司甚右衛門……明治五年、十月の幾日に解放(=娼妓解放令)、貸座敷と名が変って……」と、えんえんと吉原二百五十年史を講義してしまいます。
そのほか、「半人前てえ人間はねえ。坐って半分でいいなら、ステンショで切符を坐って買う」というこれも小せん以来の、いかにも明治初期らしいギャグ、また、「てめえのへそに煙管を突っ込む」(三代目三遊亭円馬)などがあります。
オチは各自で工夫していて、小せんは、杢兵衛大尽の代わりに相撲取りを出し、「マワシを取られて振られた」とやっています。
二代目禽語楼小さん(大藤楽三郎、1848-98)の古い速記では「ワチキは一人で寝る」、六代目円生では、大尽がフラレた最後の一人で、オチをつけずに終わっていますし、五代目志ん生は大尽が二人目、最後に情夫を出して、これも「帰っとくれ」と振られる皮肉な幕切れです。
新吉原の図
新吉原の俯瞰図です。真ん中の仲之町通りを中心に整然と区画されています。店や建物は変わっても、区画そのものは現在もさほど変わっていません。
甚助
甚助じみていけねえ。
この噺には、そんなフレーズが登場します。
吉原ならではの言葉です。
「甚助」とは、①すけべえ、②やきもちやき。吉原で「甚助」と言われたら、まずは①ととらえるべきでしょう。
①の使い方は、「腎張り」の擬人化用法です。
「腎張り」とは、腎が強すぎる→性欲の強い人→多淫な人→好色家→すけべえ、といった意味になります。
②とは少々異なります。
「甚助」はほかの噺にも出てきます。