ねぎまのとのさま【ねぎまの殿さま】演目

【RIZAP COOK】

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世間との乖離ぶりを笑う、「殿さま」もののひとつですね。

【あらすじ】

さるお大名が、庭の雪を眺め、急に向島の雪景色を見たくなった。

そこで、お忍びで、年寄りの側用人三太夫だけをお供に、本郷の屋敷を抜け出し、本郷切り通しから池之端仲町の、錦丹円という大きな薬屋の前に来て馬を止めると、うまそうな匂いが漂ってきた。

このあたりは煮売り屋が軒を並べていて、深川鍋や葱鮪を商っている。

ちょうど昼時で、殿さま、空腹に耐えられず、
「あれへ案内いたせ」

鶴の一声で、
「下郎の参る店でございます」
と三太夫が止めても聞かない。

縄のれんから入ると、殿さまにはなにもかも珍しく、「宮下」が大神宮さまの祭壇の下の席であると聞き、その場で拍手を打ったり、
「床几を持て」
と言いつけたりのトンチンカン。

床几の代わりに醤油樽に座らされ
「町人の食しているものはなんじゃ?」

若い衆が答えたのが、早口なものだから、殿さまには
「にゃっ」
と聞こえる。

「さようか。その『にゃー』を持て」
「へいッ、ねぎま一丁ッ」

ぐらぐらあぶった(煮た)のを見ると、煮売屋の安い葱鮪だから、鮪も骨と血合いがついたまま。

殿さま、葱を一口かむと、熱い芯が飛び出して丸呑みし、喉が焼けそうになったので、
「これは鉄砲仕掛けになっている」
と、びっくり。

酒を注文すると
「だりにいたしますか、三六にいたしますか?」

「だり」は一合四十文の灘の生一本、「三六」は三十六文の並み。

だりをお代わりして、殿さますっかりご機嫌になり、珍味であったとご満悦で、雪見をやめて屋敷へ帰る。

この味が忘れられず、何日かしてまた雪が降ると、ご膳番の留太夫に
「昼(食)の好みはニャーである」
とのお達し。

留太夫、なんのことかわからないが、ご機嫌を損ねればクビなので、聞き返せない。

首をひねった末、三太夫に聞いてやっと正体が判明したが、台所では、鮪の上等なところを蒸かし、葱もゆでて出したので、出てきたのは、だし殻同然。

殿さまは
「屋敷のニャーは鼠色であるな。さぞ珍味であろう」
と口をつけたが、あまりのまずさに
「これはニャーではない。チユーである。ミケのニャーを持て」

また、わけがわからない。

「ミケ」とは葱の白と青、血合いの垢の三色だと三太夫が「翻訳」したので、やっとその通りにこしらえると、殿さまは大満足。

熱い葱をわざわざかみつぶして
「うむ、やはり鉄砲仕掛けだ。ああ、だりを持て。三六はいかんぞ」

また三太夫に聞いて、瀬戸の徳利に猪口をつけ、灘の生一本を熱燗で持っていくと、殿さまは喜んでお代わり。

「だりと申し、ニャーと申し、余は満足に思うぞ」
「ありがたきしあわせ」
「だが留太夫、座っていてはうもうない。醤油樽を持て」

【RIZAP COOK】

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【しりたい】

だり

行商、駕籠、八百屋、魚屋の符丁で、4、40、400のこと。「だりがれん」だと45、450になります。

煮売り屋

一膳飯屋のことです。「煮売り」は上方から来た名称で、元は、長屋の住人などが、アルバイトに屋台のうどん、そばなどを商ったのが発祥です。江戸では、元禄年間(1688-1704)に浅草に奈良茶飯を食べさせる店ができたのが本格的な飲食店、つまり煮売屋のはしりとか。落語では「二人旅」にも登場します。

錦丹円

正しくは「錦袋円」、俗称を「金丹屋」ともいいました。元祖は了翁僧都という高僧で、承応4年(1655=明暦元)、夢告によって仁丹に似た錦丹円という霊薬の製法を授かり、これを売って得た三千両余で、現在の湯島聖堂の場所に寛文10年(1670)、「勧学寮」という学問所兼図書館を建設しました。大正年間まで残っていたその額は、徳川光圀(水戸黄門)の揮毫だったとか。錦丹円の娘が不忍池の主の大蛇に見初められ、池の中に消えたという伝説が残っていました。

池之端仲町

舞台になる池之端仲町は、現在の東京都台東区上野二丁目。このあたりは、古くは不忍池の堤でした。上野広小路と地続きで、将軍家の直轄領なので、お成りの際の警備の都合で本建築は許されず、バラック同様の煮売屋が並んでいました。店を、上野「袴腰の土手」と設定するやり方もあります。袴腰は、上野黒門の左右の石垣をさします。その形状が袴に似ていたから。今の上野公園のあたりです。

講談からの翻案

五代目立川談志(生没年不詳、明治初期-昭和初期)が、講談から落語に翻案したといわれます。講談では、殿さまは松江の雲州公(松平治郷、「目黒のさんま」参照)で、煮売り屋のおやじを召抱えて料理番にするという筋立てです。

今輔の十八番

昭和の新作落語のパイオニア的存在だった五代目古今亭今輔(1898-1976)が数少ない「古典落語」の持ちネタとして十八番にしていました。現在でもよく高座に掛けられますが、客がセコなときに演る「逃げ噺」の代名詞的存在です。

【語の読みと注】
葱鮪 ねぎま
床几 しょうぎ
錦袋円 きんたいえん

【RIZAP COOK】

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どうとり【胴取り】演目

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他人の不幸をせせら笑う、江戸っ子のあさはかでいやらしいところがよく出ています。

【あらすじ】

露天博打ですってんてんにされた職人。

寒さにふるえ、
「ついてねえ」
と、ぐちりながら
「土手は寒かろォォ」
と、やけで都々逸をうなって道を急いでいると、ふいに
「それへめえる町人、しばらく待て」
と呼び止められる。

驚いて、暗がりをすかして見ると、大柄な侍。

むかっ腹が立って
「なんの用だか知らなえが、江戸は火事早えんだ、とんとんやっつくれ」
と、まくしたてると
「身供は今日、国元より初めてまかり越した。麹町へはどうめえるか、教えろ」

男、田舎侍と侮って八つ当たり気味に
「この野郎、おおたばなことォぬかしゃあがって。どうでもめえれ。東ィ行ってわからなきゃあ西、西で知れなきゃ北、東西南北探せ。どっか出らあ。ぐずぐずしやがると、たんたんで鼻かむぞ」
「無礼を申すと手は見せんぞ。長いのが目に入らんか。……二本差しておるぞ」
「てやんでえ田子作め。見せねえ手ならしまっとけ。手妻使いじゃあるめえし、そんな長いもんが目に入るか。二本差しがどうしたんでえ。二本差しがこわくて田楽で飯が食えるか。気のきいた鰻なんぞァ四本も五本もさしてらァ。まごまごしゃあがると引っかくぞ」

男、侍にいきなり痰と唾をひっかけた。

これがご紋どころへ、べっとり。

侍、堪忍袋の緒が切れて
「おのれ無礼者ッ」
と、長いのをすっと抜く。

さすがに驚いて、ばたばたと逃げてかかると、追いかけた侍、
「えいっ」
と、掛け声もろとも居合いでスパッと斬り、あっという間に鞘に納めると、謡をうたって行ってしまった。

男、「つらァみやがれ」と、悪態をついているうちに、なんだか首筋がひんやり。

首がだんだん左回りに回ってずれてくる。

そのうち完全に真横を向き、息が漏ってきた。

「野郎、いったい何しゃあがったか」と、首筋をしごくと赤い血がベットリ。

「野郎、斬りゃあがった」
と、あわてて下を向くと、とたんに首は前に転げ、胴体だけが掛け出し、橋を渡ったところでバッタリ。

そこへ、威勢よく鼻唄をうなった男が来かかる。

酒が入って懐が温かいらしい。首だけで見上げると、友達の熊。

いきなり声をかけられたが、姿が見えないのでキョロキョロ。

「どこにいるんだ?」
「足もと」

見ると首だけがどぶ板に乗っかって、しゃべっている。

「どうしたんだよ。……おやおや、だから言わねえこっちゃねえ。くだらねえサンピンにかかわるなって。で、胴はどうした? 橋向こう? そりゃ、てえへんだ」

熊が
「今日は博打の目が出て、二、三十両もうかった」
と自慢すると、首が
「五両貸してくれ」
と、頼む。

「そらあ、友達だから貸さねえもんでもねえが、その金でどうしようってんだ?」
「へへっ、橋向こうに胴を取りに行く」

【しりたい】

クビが飛んでも動いてみせるわ

前半は「首提灯」と同じで、原話は安永3ねん(1774)刊の笑話本『軽口五色帋』中の「盗人の頓智」ほかの小咄です。「首提灯」をご参照ください。

江戸落語と思いきや、噺としては上方種で、長く大阪で活躍した三代目三遊亭円馬が東京に移植した「逆輸入噺」です。

戦後は、三代目三遊亭小円朝が持ちネタにしましたが、ポピュラーな「首提灯」と前半がほとんど同じなので、小円朝没(1973年)後はほとんど演じられません。

一つには、「館林」「首提灯」と同様に首を斬られてもしゃべるという奇想天外さを持ちながら、斬られてからのセリフが長すぎるため、せっかくの新鮮な印象が薄れてしまうということも、あるのでしょう。

おおたば

「この野郎、おおたばなことォぬかしゃァがってェ」
と、タンカの先陣を切りますが、おおたばは「大束」で、本来は「並々でないことを安易に安っぽく扱うこと」。ところが、どこかで意味の誤用が定着したのか、それと正反対の「大げさなこと」という意味に変わりました。さらにそこから、「傲慢」「尊大」「横柄」「大言壮語」という意味がついたのですから、ややっこしいかぎりです。

この場合は悪態ですから、当然第二の意味ですが、「もっとご丁寧に頼むのが礼儀なのに、町人と侮って、安易にぬかしゃあがって」という意味にも取れなくはありません。

蛇足ながら、ネイティブの発音では「おおたば」の「ば」は「ば」と「ぼ」の中間の破裂音です。

胴取り

バクチで親になることで、オチは、もちろんそれと掛けた洒落です。

浅黄裏

あさぎうら。「棒鱈」「首提灯」を聴いてもわかりますが、ご直参の旗本には一目置いていた江戸っ子も「浅黄裏」と蔑称する田舎侍は野暮の象徴です。江戸勤番ともいい、参勤交代で藩主について国許から出てきた藩士です。同じ藩中でも、江戸詰めの者は、中には江戸の藩邸で生まれ、勤務はずっと在府で、国許を知らないことさえあったのですから、その立ち居振る舞いや意識の乖離は相当のものでした。

江戸勤番でも、立ち返りといってそのまま引き返す者と、藩主の在府中、江戸に留まる者とに分かれていました。

しかし、やがてその浅黄裏どもに完膚なきままにやられ、江戸を占領蹂躙されてしまったのですから、ベランメエも口ほどにもありません。

露天博打

野天丁半ともいい、ほとんどイカサマでした。江戸では、浅草の大鳥神社境内が本場。円朝の「怪談牡丹燈籠」の伴蔵の啖呵、「二三の水出しやらずの最中、野天丁半ぶったくり」は有名で、水出しも最中も露天博打の種類です。

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尿瓶 しびん 演目

★auひかり★

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いまどきは「しびん」を知らない人もいるかも。

別題:しびんの花活け(上方)

【あらすじ】

田舎の侍が、道具屋をあさると、古いしびんを見つけた。

侍、これを花瓶と間違えて、
「明日国元に帰るが、土産物にしたいからぜひほしい」
という。

道具屋が
「それはしびんでございます」
と正直に言っても
「ああ、しびんという者が焼いたか」
と、いっこうに通じない。

そこで道具屋の安さん、このばかを一つ引っかけてやれと
「これは日本に二つとないものでございます。だんなさなのお目利きには感服いたします」
とおべんちゃらを並べ、
「五両」
と吹っ掛ける。

知らぬほど怖いものはなく、侍は
「安い」
と喜び、即金で買っていった。

花瓶と勘違いして、侍が宿で花をいけていると、知り合いの本屋があいさつに来て、
「それは小便をするしびんでございます」
と教えたから、さあ怒ったのなんの。

道具屋にどなり込み、
「手討ちに致すから首を出せ」
と刀の柄に手を掛けたから、安さんは真っ青になって震えた。

「病気の老母に、朝鮮人参という五両もする高い薬をのまさなければなりません。その金欲しさ、悪いこととは知りながら、ただのしびんを五両でお売りしました。母の喜ぶ顔を見ますれば、もうこの世に思い置くことはございませんから、その時まで命を預けてください」

もちろん、その場からドロンするつもりでのウソ八百。

侍は
「孝行のためとあらばさし許す」
と帰っていった。

おふくろなんぞ、もう三年前に死んでいる。

隣の吉つぁんが騒ぎを聞きつけてやって来て
「おい、首ゃあついているかい。それにしてもさすがはお侍、よく代金を返せと言わなかったな」
「それもそのはず。小便(売買契約破棄)はできねえ。しびんは向こうにある」

★auひかり★

【うんちく】

朝鮮人参

時代劇に登場する、高価な薬といえばこれ。享保年間(1716-36)に種子が朝鮮から渡来しました。根を乾燥したものが、漢方薬に用いられます。肝心の薬効は、強壮・健胃などで、疲労や虚脱、胃腸虚弱などに効果があるとされますが、むろん万能薬ではありません。

「仮名手本忠臣蔵」七段目の大星由良之助に、「人参のんで首くくるようなもの」というセリフがあります。これは、高価な人参を無理して手に入れて病人が回復しても、べらぼうな薬代の借金で結局は首をくくらなければならない、という皮肉で、ムダな骨折りという意味のことわざになっています。

この程度の薬でも町人にとっては「高嶺の花」で、江戸時代では事実上、無医、無薬同然、病気になればほとんどが「はいそれまでよ」だったわけです。

しびん

「しゅびん」ともいい、昔は陶製でした。

八代目桂文楽(黒門町の)も、マクラで説明しているのですが、江戸時代は瀬戸物屋で、たかだか20-25文が相場。

日用品なので、いくら侍でも知らないのはおかしいと言えなくはありませんが、現代同様、元来病人、老人の使うものなので、どこの家にもあるという品ではありませんでした。

文楽の隠れた十八番

三代目三遊亭円馬が、大阪在住中に仕込んだ上方落語「しびんの花活け」を東京風に直しました。円馬に芸を仕込まれた八代目桂文楽が直伝で継承、十八番の一つに仕立てたものです。文楽在世中は、東京ではほかにやり手はありませんでした。

本家の大阪では、橘ノ圓都(1883-1972)が持ちネタとし、道具屋は大坂の日本橋筋の露店、武士は鳥取藩士で演じました。

演題は、「こいがめ」と同様に汚いので、「花瓶」で演じられることもあります。

「小便」はご法度

というわけで、買わずに逃げる意味の「小便」は、もともと江戸ことばですが、現在でも業界では普通に使われているようです。

道義的には、商取引上は一種の詐欺行為と見なされるので、「引っ掛ける」から「小便」としゃれたものでしょう。もとは、露天商などの符丁でした。「左少弁」は、どうも怪しいものです。

「小便」の由来

原話は、宝暦3年(1753)刊の『軽口福徳利』中の「しゆびん」、続いて同13年(1763)刊『軽口太平楽』中の「しゅびんの花生」があげられます。いずれも大坂ルーツですが、もっとも古い原型は、元禄7年(1694)、江戸で刊行の『正直咄大鑑』赤之巻四「買て少弁」中の「商人の物売にねをつけてまけたるとき、かわぬを江戸ことばにしやうべんのするといふ由来」という、長ったらしい題の小咄もみられます。

これは、左少弁道明卿という公家の家人が主命で江戸に下り、日本橋の骨董屋で散々値切ったあげく買わなかったことから、常識をわきまえないのを「少弁」→「しょうべん」と呼んだ由来話です。これが「小便=買わずに行く」と転化したわけでしょうが、ともかく現行のオチの部分の元となっています。

宝暦年間の二つの原話は田舎者と無筆の者をからかう内容です。

前者は、田舎者がしびんを十個も買うのでわけを尋ねると、「故郷でそばを打つので、つゆを入れる猪口にする」という笑話。

後者は、逆に客がしびんと気付いて詰問するので、花瓶だとだまそうとした亭主がしどろもどろになり「いえ、そんな名のあるものではありません」とごまかすもの。

どちらも「小便」のくだりはありませんが、後者の方が現行により近い内容です。

【語の読みと注】
日本橋筋 にっぽんばしすじ

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首屋 くびや 演目

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自分の首を売るという商売の男。実にどうも、ばかばかしいお笑いです。

【あらすじ】

鳥羽伏見の戦い、上野の戦いなどで、江戸が騒然となっていたご一新のころ。

旗本の二、三男なども、今までのように安閑とはしていられなくなり、いざという時には大いに働かなければならないというので、自然と刀などは、良いものを求めるようになった。

買うには買っても、切れ味がわからなくては安心できない。

刀を試すにはまず胴試し、つまり、生体実験が一番手っ取り早いというわけで、江戸市中のあちらこちらで辻斬りや試し斬りが横行し、標的になる町人は、外もおちおち歩けない。

そんな折も折、番町あたりで、首のところに風呂敷を巻き付け、大声で
「首屋、くびいーやッ」
と売り歩く男が出現した。

さる旗本の殿さま、この声を聞きつけて、御用人の藤太夫を呼び、
「あの首屋を屋敷の中に連れて参れ」
と言いつける。

藤太夫、ばかばかしくなり、おそらく栗屋とでも聞き間違えたのだろうと思ったが、主命には逆らえないので、外に出てみると、確かにクビヤクビヤとがなっている男がいる。

「こりゃ町人、少し待て。その方、何を売っておる」
「私は首を売っております」

大変な奴だと思いながら、
「買ってやるからこちらに参れ」
と勝手口で待たせた後、庭先に通す。

庭には荒むしろが敷かれて、手桶に清めの水。

殿さまが縁側から声をかけ、
「首屋は、その方か」
「へい、さようで」
「なぜそのようなつまらん考えを起こした」

男が言うには、人間わずか五十年、二十五年は寝て暮らし、病気で五年居眠りを五年、昼寝を十年と差し引くとなくなってしまう。

ばかばかしくなったので、いっそひと思いに、というわけ。

殿さまは機嫌がよくなった。

「思い切りのよい奴。買ってやるが、いくらだ」
「掛け値なく七両二分で」

「金は家族に届けてやる」
と言うと、
「死んでも肌に付けておきたい」
となかなかの欲張り。

風呂敷を取り、その場に直ると、殿さま、白鞘の柄を払ってぎらりと氷の刃を抜き放ち、庭に下りて、ひしゃくの水を鍔元から掛けさせた。

「首屋、覚悟はよいな」
「へい」

イヤッと斬り下ろしてくる刃をひらりとかわし、後ろへ飛びのいてふところから張り子の首を放り出すと一目散。

「ややっ、これは張り子。そっちのだ」
「これは看板でございます」

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【しりたい】

値上げされた首代

原話は明和9年(1772)刊の笑話本『楽牽頭』中の「首売」。

オチも含めて、大筋は現行とほとんど同じですが、原話は本所割下水のあたりが舞台で、首代は一両となっています。

現行の七両二分は、間男の示談金と同じで(「お釣りの間男」参照)、これを「首代」と呼んだため、噺の中の首代も、この値段にしたのでしょう。

三遊派伝統の噺

三遊亭円朝から四代目橘家円喬、昭和の六代目円生へと継承された正当派の三遊伝統の噺です。

明治29年(1896)の四代目円喬の速記が残りますが、円朝が明治になって、時代を幕末維新期に設定したと思われ、それが噺に一種の緊迫感とすごみを与えました。

円朝は、オチに関して、「首という言葉を何度も繰り返すようなムダはするな」という芸談を残しています。

明治から昭和にかけて、大看板の多くが手掛けていますが、戦後では、六代目円生と並び、八代目正蔵(彦六)の風格も忘れがたいものがあります。

類話「試し斬り」

短い噺なので、この前に「試し斬り」という小咄を付けることがあります。

刀の試し斬りをしたがっている侍が、朋輩が物乞いを真っ二つにしたという自慢話を聞き、さっそく出かけていって、同じようにバッサリ。

とたんに物乞いがムシロをはねのけて「誰だ、毎晩オレをなぐるのは」とオチる、シュールなオチです。

類話「首医者」

上方に「首医者」という噺があります。

洋行帰りの医者の所に、頭のおめでたい喜六がやってきて、女にもてそうな首と取り換えてほしいと頼みます。

見本をいろいろ見ますが、色男の首は高いので、結局、落語家某の首とすげ替えることにします。

手術が終わって、「これ、首代を置いていかんかい」と医者が言うと、喜六、「前へ回って見てみ。頼んだ奴と首が代わっとる」

張り子

木型に紙を重ねて張り、乾いたあと、型を取り去ったものです。現在でも、芝居の切り首などに用いられます。

【語の読みと注】
本所割下水 ほんじょわりげすい

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柳田格之進 やなぎだかくのしん 演目

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善人ばかりで演じられる、橋田ドラマのようなはなしです。

 別題:碁盤割 柳田の堪忍袋

【あらすじ】

もと藤堂家の家臣・柳田格之進。

ゆえあって浪人し、今は浅草東仲町の、越前屋作左衛門地借りの裏長屋に、妻と娘・花の三人暮らし。

地主の作左衛門とは碁仇で、毎日のように越前屋を訪れては、奥座敷で盤を囲んでいる。

ある日、いつものように二人が対局していると、番頭の久兵衛が百両の掛金を革財布ごと届けにきた。

作左衛門、碁に夢中で生返事ばかり。

久兵衛はしかたなく、財布を主人の膝の上に乗せて部屋を出る。

格之進が帰った後、作左衛門ふと金のことを思い出し、久兵衛に尋ねると、
「確かにだんなさまのおひざに置きました」
と言うばかり。

覚えがないので、座敷の隅々まで探したが、金は出てこない。

番頭、「疑わしいのは柳田さまだけ」
と言い出し、
「いくらふだんは正直でも、魔がさすことはある」
と作左衛門が止めるのも聞かず、格之進の長屋に乗り込む。

疑われた格之進、浪人はしてもいやしくも武士、金子などに手を付けることはないと強く否定するが、久兵衛は、
「どうしても覚えがないというなら、お上に訴え出て白黒をつけるよりないから、そのつもりでいてほしい」
と脅す。

お家に帰参が決まっているので、
「そんなことになれば差し障りが出るから、自分の名は出さないでくれ」
と頼むが、久兵衛は聞き入れない。

しばし考えて
「まことに申し訳ない。貧に迫られた出来心で百両盗んだ」
と、打ち明けた格之進、
「金は返すから明後日まで待ってくれ」
と頼み、代わりに武士の魂の大小を預けた。

二日後に久兵衛が行ってみると、格之進は一分銀まじりで百両を手渡し、
「財布はないので勘弁してくれ」
と言う。

帰ろうとすると、格之進
「勘違いということがある。もしその百両が現れた場合、その方と、主人作左衛門殿の首を申し受けるが、よいか」

久兵衛、
「私も男、どんなご処分でも受けます」
と安請け合い。

大晦日、煤掃きの最中に、作左衛門が欄間の額の後ろを掃除しようとのぞくと、例の金包みが挟まっている。

自分が小用に立ったとき、無意識に膝の包みをそこに挟んだと思い出したときは、もう手遅れ。

久兵衛が
「実は、金が出たらだんなの首がころげる手はず」
と打ち明けると、作左衛門は仰天。

すぐ格之進の家に行き、金を返して、
「あれは町人風情の冗談でございます、と謝ってこい」
と言いつける。

あたふたと久兵衛が、今はお家に帰参した格之進を藤堂家上屋敷に訪ね、平謝りすると、格之進、
「金は世話になった礼だ」
と改めて返し
「あの金は娘花が吉原松葉家に身を売って作ったもの。娘に別れるとき、もし金が出たら、憎い久兵衛と作左衛門の首を私にお見せください、と頼まれた。勘弁しては娘に済まん」

仰天した久兵衛が店に逃げ帰ると、後を追って格之進が乗り込んできた。
「申し訳ございません。この上はご存分に」
「かねてから約定の品、申し受ける」

格之進、側の碁盤を取り、見事にまっ二つ。

「この品がなかったら、間違いは起こらなかったろう。以後は慎みましょう」

世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍……格之進碁盤割りの一席。

底本:三代目春風亭柳枝

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【しりたい】

講談から脚色か

別題は「柳田の堪忍袋」「碁盤割」。講談から人情噺に脚色されたようですが、はっきりしません。明治25年(1892)、「碁盤割」で「百花園」に掲載された三代目春風亭柳枝の速記が、唯一の古い記録で、このマクラで、柳枝は「このお話は随筆にもあります」と断っているので、なんらかのネタ本があると思われます。未詳です。

志ん生好みの人情噺

明治期にはよく演じられていたようですが、昭和初期から戦後は、五代目古今亭志ん生の独壇場でした。

「井戸の茶碗」と同系統の、一徹な浪人が登場する人情噺ですが、前述の三代目柳枝の速記のほかは古い口演記録がなく、例によって志ん生が、いつどこで仕入れたのか不明です。講釈師時代に聞き覚えたのかもしれません。

人情噺なので本来、オチはあだいだんえんりませんが、志ん生が「親が囲碁の争いをしたから、娘が娼妓(=将棋)になった」という地口のオチをつけたことがあります。ただし、これはめったに使わず、ほとんどは従来どおりオチなしで演じていました。

志ん生没後は十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝がしていましたが、志ん朝のものは音源もあり、ちくま文庫版に収載された速記によれば、ほぼ父親通りの演出です。

大団円の円楽版

三遊亭円楽が好んで演じました。円楽は、この後、越前屋がお花を身請けし、久兵衛とめあわせた上、産まれた長男が越前屋を、次男が柳田家を継ぐというハッピーエンドで終わらせています。

碁盤

裏側の丸いくぼみは、待ったした者の首を載せるところという俗説があります。

浅草東仲町

台東区雷門一、二丁目にあたります。浅草寺門前で、今も昔も飲食店が多い繁華街です。

【語の読みと注】
娼妓 しょうぎ

【柳田格之進 古今亭志ん朝】

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たがや 演目

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川開き。魔封じの花火。ごったがえす両国橋で職人と武士の諍い。江戸前の噺。

【あらすじ】

安永年間、五月二十八日は両国の川開き。

両国橋の上は見物人でごったがえす。

花火をめでると「玉屋」の声しきり。

本所方向から旗本の一行。

前には二人の供侍、中間は槍を持っている。

「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。

反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。

「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。もっと早く気がつきゃァよかったなあ。といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。しかたがねえ。通してもらおう。すみません」

もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。

恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り、
「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」

たがやはあやまるが、侍は容赦しない。

開き直ったたがや、
「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」

必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。

最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。

突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。

まわりにいた見物人が
「上がった上がったィ。たァがやァい」

底本:三代目桂三木助

【しりたい】

夏休み限定落語

生粋の江戸前落語。詳しい起源や原話は不明です。両国の川開きで、花火が年中行事化したのは享保2年(1717)ですから、少なくともそれ以後の作でしょう。

かつては三代目三遊亭金馬、三代目桂三木助などが威勢のよさを競いましたが、現在でも、花火をあてこんで、夏になるとやたらと高座にかかる納涼ばなしです。

底本に使ったのは三木助の速記です。時代を、江戸中期の安永年間(1772-81)、十代将軍家治の治世としています。

元はたがやの首が飛び

立川談志は、逆にたがやの首を飛ばすオチでした。これがオリジナルのやり方。そうでなければ、「上がった上がった、たァがやァい」という最後の掛け声の意味がなくなります。

この改変に関するどの解説は判で押したように、以下の通り。

侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、首ならぬ職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった彼らが寄席に大勢来るようになったので、職人仲間のたがやをヒーローにしてハッピーエンドに変え、ニワカ客のごきげんをうかがったため。

本当でしょうか。いくら幕府の権勢が地に落ちたとはいえ、あの恐怖政治の井伊大老が、こんな武士への冒涜を許しておくとも考えにくいもの。案外、季節違いとはいえ、その井伊直弼の首が飛んだこと(1860)がきっかけなのではないか、と勘ぐってしまうのですが。

たがや

大道で桶を修理したり、たがを交換したりする職人です。たがとは、桶や樽などの周りを巻いて、外れないように締める竹の輪。極限までばか力でギリギリと締めてある上、竹ですから一度外れた場合の反発力はすさまじいものでしょう。

というわけで、この噺の笠を跳ね飛ばす場面はたいへんにリアルで、無理がありません。

玉屋

両国にあった花火屋で、日本橋横山町の老舗、鍵屋の番頭がのれん分けしたものです。

以来、業界の勢力を主家筋の鍵屋と二分し、川開きでも「鍵屋」「玉屋」と平等に声が掛かるまでになりましたが、天保14年(1843)、自火を出したとしてお上のおとがめを受け、廃業処分になりました。どうも、鍵屋の陰謀のにおいがプンプンしますが。

ところが、それ以来判官びいきの江戸っ子の同情を一身に集め、店はなくなったのに、掛け声だけは「玉屋」「玉屋」の一点張りで、「鍵屋」のカの字もなくなったのは皮肉です。これも本当かどうかはあやしい話。

柱暦

はしらごよみ。たがやのタンカの中に登場しますが、縦長の暦で、柱に張っておくものです。暦のたぐいは、表向き町人や百姓は所持を禁じられていましたが、ないと生活に不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。

千段巻き

槍の柄を籐で巻いて、漆を塗った部分です。

手は見せんぞ

侍の言う「手は見せんぞ」というのは、時代劇では昔から常套句です。刀を抜く手さばきも見えないほど、素早く斬ってしまう、という脅しです。

【語の読み】
三一 さんぴん
生粋 きっすい
籐 とう

紀州 きしゅう 演目

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据え膳はいただくにかぎる、というご教訓なんでしょうかね? 

別題:槌の音

【あらすじ】

七代将軍家継が幼くして急死し、急遽、次代の将軍を決めなければならなくなった。

候補は尾州侯と紀州侯。

どちらを推す勢力も譲らず、幕閣の評定は紛糾。

ある朝、尾州侯が駕籠で登城する途中、遠くから鍛冶屋が
「トンテンカン、トンテンカン」
と槌を打つ音。

それが尾州侯の耳には
「テンカトル、テンカトル」
と聞こえた。

これは瑞兆であるとすっかりうれしくなったが、最後の大評定の席では、大人物であることをアピールしようと、
「余は徳薄く、将軍の任ではない」
と辞退してみせる。

むろん、二度目に乞われれば、
「しかしながらァ、かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万民のため……」
ともったいぶって受ける算段。

ところがライバルの紀州侯、やはり同じように
「余は徳薄くして……」
と断ったまではよかったが、その後すぐに
「しかしながらァ」
ときたので、尾州侯は仰天。

「かほどまでに乞われて固持するのは、御三家の身として責任上心苦しい。しからば天下万人のため」
と、自分が言うつもりのセリフを最初から言われてしまい、あえなくその場で次期将軍は紀州侯に決まってしまった。

野望がついえてがっかりした尾州侯、帰りに同じ所を通りかかると、また鍛冶屋が
「テンカトル、テンカトル」

ところが親方が焼けた鉄に水をさして、
「キシュー」

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

『甲子夜話』の逸話

『甲子夜話』(文政4=1821年刊)・第十七巻にある逸話です。作者は、平戸藩主で、文人大名として名高かった松浦静山(まつら・せいざん、壱岐守。1760-1841)。

六代目円生が受け継ぐ

明治から大正にかけて、五明楼国輔が得意にしていたのを、六代目三遊亭円生が直伝で受け継いだ噺です。

七代将軍家継

没は享保元年(1716)旧暦4月30日。数え八歳。法号は有章院。その「治世」は側用人・間部詮房と新井白石の補佐によったもので、「正徳の治」と呼ばれます。

尾州侯

尾張藩第六代・徳川継友。名前からして「ツギテエ」で、権力欲の権化のような感じですが、八代将軍吉宗となった紀州侯への怨念はせがれの代まで尾を引きます。

継友が享保15年(1730)に憤死した後、嗣子の宗春は吉宗の享保改革による倹約令を無視して、藩内に遊郭の設置、芝居小屋の常時上演許可など、やりたい放題やったため、ついに逆鱗に触れて、元文4年(1739)、隠居謹慎を命じられました。

御三家でなければ、とうにお家は断絶、その身は切腹だったでしょう。

英国では成功例

権力を奪取する際、すぐ飛びついてはあまりに露骨なので、一度辞退してみせ、周りの者に無理やり薦められる形で「いやいやながら」という姑息な「手続き」を踏むのは洋の東西を問わないようです。

シェイクスピアの「リチャード三世」でも、主人公が王位を簒奪するとき、腰巾着のバッキンガム公と「余は予定通り、女の子のようにいやだいやだと言うから、あとはそちたちが無理やり頼み込んでくれ」と、陰謀をめぐらします。

尾州侯と違って、こちらは対抗馬をみんな片付けた後ですから、この作戦は大成功でした。

井戸の茶碗 いどのちゃわん 演目

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善人、正直者同士の意地の張り合い。いい噺です。

別題:茶碗屋敷

【あらすじ】

麻布谷町に住む、くず屋の清兵衛。

古道具を扱うと、自分はもうかるが、他人に損をさせるので、それが嫌だと言って、本当の紙くずしか買わないという正直一途な男で、人呼んで「正直清兵衛」。

ある日、とある裏長屋に入っていくと、十八、九の、大変に器量はいいが、身なりが粗末な娘に呼び止められ、家に入ると、待っていたのはその父親で、千代田卜斎(ちよだ・ぼくさい)と名乗る。

うらぶれてはいるが、人品卑しからぬ浪人。

もとはしかるべきところに仕官していたが、今では、昼間は子供に手習いを教え、夜は街に出て売卜(ばいぼく=易者)をして、娘のお市と二人で、細々と暮らしを立てているという。

その卜斎が、家に古くから伝わるという、すすけた仏像を出し、
「これを二百文で買ってもらいたい」
と頼む。

清兵衛は、本当なら品物は買わないが、親子の貧に迫られたようすに同情し、これを売ってもうけがあれば、いくらかでもこちらに持ってくると、約束して買い取る。

この仏像を御膳かごという竹かごに入れ、白金あたりを流して歩くと、細川さまの屋敷の高窓から、まだ二十三、四の侍が声を掛け、仏像を見て気に入ったのか、三百文で買ってくれた。

その侍、名を高木佐太夫(たかぎ・さだゆう)といい、まだ独り身で、従僕の良造と二人暮らし。

さっそく、すすけた仏像を磨いていると、中で音がするので、これは腹籠りの仏で、中にもう一つ小さな仏像が入っていると見て取った佐太夫、中を開けてみると、なんと小判で五十両入っていた。

驚いて、
「仏像を売るようではよほど貧乏しているに違いないから、これは返してやらなければ」
と思ったものの、あの、くず屋のほかに手掛かりはない。

そこで、良造に命じて毎日見張らせ、屑屋が通る度に顔を改めたので、これが業界の評判になり、多分仇でも探しているんだろう、という噂になる。

清兵衛もこの話を聞きつけ、甘酒屋のふりをして細川邸の前を通り過ぎようとしたが、見つかって、佐太夫の前に連れていかれた。

佐太夫は金のことを話し、
「即刻届けてまいれ」
と言いつけた。

清兵衛は驚いて卜斎の家に行き、金を渡すが、律儀一徹の卜斎、
「売ったからにはもうこの金は自分のものではないから受け取るわけにはいかない」
と突っぱねる。

しつこくすすめると、手討ちにすると、怒り出したから、清兵衛はあわてて長屋に逃げ帰った。

相談された大家が中に入り、五十両を三つに分け、佐太夫と卜斎に二十両ずつ、残りの十両は正直な清兵衛にやってくれと、提案。

佐太夫は承知したが、卜斎はまだ拒絶する。

「それなら、金と引き換えになにか品物を佐太夫さまにお贈りになれば、あなたもお気が済むでしょう」
と、大家が口をきき、
「それでは」
と祖父の代からの古い茶碗を渡すことで、金の件は落着。

ところが、この茶碗が細川侯のお目に止まり、これは「井戸の茶碗」といって世に二つとない名器だからと、佐太夫から三百両でお買い上げになる。

この半分の百五十両を卜斎に届けさせたが、卜斎は佐太夫の誠実さに打たれ、娘をもらってくれるよう、清兵衛を介して申し入れ、佐太夫も承知。

清兵衛が佐太夫に、
「あの娘をご新造にして磨いてごらんなさい。たいした美人になります」
「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」

底本:五代目古今亭志ん生、三代目春風亭柳枝

【しりたい】

原話は

もとは講談で、「細川茶碗屋敷由来」を人情噺にしたものです。

「茶碗屋敷」と題した、三代目春風亭柳枝の古い速記(明治24年)が残っていますが、戦後は、古今亭志ん生・志ん朝親子の系統ですね。

志ん朝のは絶品

志ん朝の「井戸の茶碗」は、はっきり言ってすばらしいです。絶品です。涙が出ちゃいます。落語には、オチのある落とし噺とオチのない人情噺、怪談噺があります。これは人情噺といわれていますから、本来はオチなどなかったのですが、志ん生はこんなふうにオチをつけています。オチがあったほうが、聴いているほうも「終わった」という安心感があるものです。

井戸の茶碗

「井戸の茶碗」とは、室町時代に朝鮮半島から渡ってきた高麗茶碗の中でもすこぶる有名なもの。奈良の興福寺の井戸氏が所有していたので、こう呼ばれていました。細川氏は骨董好きな大名で有名なので、不自然な設定ではありません。

高木佐太夫が顔を出して、清兵衛を呼び止める「高窓」というものが登場しますが、これは、「曰窓(いわく)」ともいい、横桟一本だけがはめられた、武家屋敷の窓です。 

「論語」でおなじみの「子、曰く……」の「曰」の字の形に似ているので、そう呼ばれていました。

江戸詰め

佐太夫のような江戸詰めの勤番侍の住居は、藩邸内の「長屋」で、二階建てが普通でした。

下は中間(ちゅうげん)・小者、上に主人が住んでいます。行商人からものを買うときには、表通りに面した高窓から声をかけ、そこからざるを下ろして品物を引き上げます。これは、「石返し」という噺にも登場します。

売卜

ところで、この噺では、易者のことを「売卜(ばいぼく)」と呼んでいます。

「卜」とは、骨片などを加熱してその割れ方から占うことをいいます。古代の人は、こんなことで不可視なものを見ようとしていたんですね。まあ、今では「占」と同じように使っています。「占卜」とか「卜占」とかいった言葉もありますが、どっちも「占い」の意味です。しかるに、「売卜」とは、占いを売る。言葉の遊びとはいえ、ちょっとおもしろくありませんか。

「千代田卜斎」とは、「千代田(=江戸)城の堀端で営業中の易者」というだけの意味で、世をしのぶ仮の名前。本名ではないのでしょうね、きっと。

卜斎先生のような大道の易者は、筋違(すじかい)御門から新橋にいたるまでの大通りに、最も多く出たといいます。麹町や赤坂、四谷、愛宕下、上野の山下などの繁華街にも出没していたそうです。山の手が多いのは、易者には卜斎同様に、浪人くずれが多かったためでしょうか。中には名人もいたでしょうが、卜斎先生の腕のほどは、さあ、わかりません。

麻布谷町

清兵衛がいた麻布谷町は、正式には今井谷町(いまいだにまち)といい、現在の港区六本木二丁目。アメリカ大使館宿舎の一部になっています。今はともかく、当時はあまり豊かでない人たちが住んでいました。東京もずいぶんさま変わりしたものです。

正直清兵衛

この清兵衛さん、「もう半分」にちょこっと紹介しています。「もう半分」に似た因業・悲惨な噺「正直清兵衛」の主人公です。こっちでは殺されちゃったりして、悲劇のおじさんでしたが、今回は、なかなかの老け役ですね。こんなふうに、落語のキャラクターは、さまざまな噺に手を変え品を変えて登場するもの。これも、落語のお楽しみのひとつといえますね。

【もっと知りたい コラム】

三代目春風亭柳枝が「茶碗屋敷」として明治24年(1891)にやった速記では、浪人が高木佐太夫、細川藩士が吉田清十郎とある。ところが、大正期の三代目柳家小さんの「井戸の茶碗」では今の形だ。

鶯亭金升の由来譚では、巣鴨の中屋敷が舞台で仏像を買ったのはそこの門番、売ったのは神田裏長屋の夫婦だとか。今の形に至るまでには若干の異同があったようである。

五代目古今亭志ん生が得意とした。次男・志ん朝の「井戸の茶碗」も絶品だった。聴くにつけ、なんだか涙腺が緩んでしまていた。

井戸の茶碗とは、興福寺の井戸家が有した高麗渡来の茶碗なのだという。この説明は噺には出てこない。聴者は最後まで「井戸の茶碗」の正体を知らずじまい。それでも別段不満は残らない。おかしな噺である。

登場する者すべてが善人である。小悪党が憎めない「業の肯定」をよしとする落語には珍しい。もとは「細川茶碗屋敷の由来」という講談だから、無理もないのか。

ここまでの善意を見せつけられると現代人には奇異にしか思えないものだが、この手の噺は冗長な運びだと目も当てられない。善意に臭みが漂ってきて聴いていられなくなるのだ。

志ん朝はそこをすいすいと流れるように運んでいた。善意の臭さに気づく余裕もなく、千代田卜斎、高木佐太夫、正直清兵衛、三者の一途な猪突が平衡を揺るがす。

(古木優)

【井戸の茶碗 古今亭志ん朝】

佐々木政談 ささきせいだん 演目

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南町奉行がさかしいガキを検分。その頓智の妙。期待される人間像ですかね。

別題:池田大助 佐々木裁き(上方)

【あらすじ】

嘉永年間のこと。

名奉行で知られた南町奉行・佐々木信濃守が、非番なので下々のようすを見ようと、田舎侍に身をやつして市中見回りをしていると、新橋の竹川町で子供らがお白州ごっこをして遊んでいる。

おもしろいので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さっそうと奉行役が登場。

これも年は同じぐらいで、こともあろうに佐々木信濃守と名乗る。

色は真っ黒けで髪ぼうぼう、水っぱなをすすりながらのお裁き。

なんでも、勝ちゃんというのが
「一から十まで、つがそろっているか」
ともう一人に聞き、答えられないので殴った、という。

贋信濃守はすまして、
「さような些細なことをもって、上に手数をわずらわすは不届きである」

セリフも堂にいったもので、二人を解き放つ。

つのことを改めて聞かれると、
「一から十まで、つはみなそろっておる」
「だって、十つとは申しません」
「だまれ。奉行の申すことにいつわりはない。中で一つ、つを盗んでいる者がある。いつつのつを取って十に付けると、みなそろう」

その頓智に、本物はいたく舌を巻き、その子を親、町役人同道の上、奉行所に出頭させるよう、供の与力に申しつける。

さて、子供は桶屋の綱五郎のせがれ、当年十三歳になる四郎吉。

奉行ごっこばかりしていてこのごろ帰りが遅いので、おやじがしかっていると、突然奉行所から呼び出しが来たから、
「それみろ、とんでもねえ遊びをするから、とうとうお上のおとがめだ」
と、おやじも町役一同も真っ青。

その上、奉行ごっこの最中に、お忍びの本物のお奉行さまを、子供らが竹の棒で追い払ったらしいと聞いて、一同生きた心地もしないまま、お白州に出る。

ところが、出てきたお奉行さま、至って上機嫌で、四郎吉に向かい、
「奉行のこれから尋ねること、答えることができるか。どうじゃ」

四郎吉、
「こんな砂利の上では位負けがして答えられないから、そこに並んで座れば、なんでも答える」
と言って、遠慮なくピョコピョコと上に上がってしまったので、おやじは気でも違ったかとぶるぶる震えているばかり。

奉行、少しもかまわず、
「まず星の数を言ってみろ」
と尋ねると、四郎吉少しもあわてず、
「それではお奉行さま、お白州の砂利の数は?」

これでまず一本。

父と母のいずれが好きかと聞かれると、出された饅頭を二つに割り、どっちがうまいと思うかと、聞き返す。

饅頭が三宝に乗っているので、
「四角の形をなしたるものに、三宝とはいかに」
「ここらの侍は一人でも与力といいます」
「では、与力の身分を存じておるか?」
「へへ、この通り」

懐から出したのが玩具の達磨(だるま)で、起き上がり小法師。

錘が付いているので、ぴょこっと立つところから、身分は軽いのに、お上のご威勢を傘に着て、ぴんしゃんぴんしゃんしているというわけ。

「ではその心は」
と問うと、天保銭を借りて達磨に結び付け
「銭のある方へ転ぶ」

最後に、
「衝立に描かれた仙人の絵がなにを話しているか聞いてこい」
と言われて
「へい、佐々木信濃守はばかだと言ってます。絵に描いてあるものがものを言うはずがないって」

ばかと子供に面と向かって言われ、腹を立てかけた信濃守、これには大笑い。

四郎吉が十五になると近習に取り立てたという「佐々木政談」の一席。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

江戸町奉行

江戸町奉行は、三千石以上の旗本から抜擢され、老中・若年寄・寺社奉行に次ぐ要職でした。

天保年間までは大坂町奉行、奈良奉行などを経て就任した経験豊かな者も多く、在職期間も「大岡裁き」で有名な大岡越前守の二十年間(1717-36)を筆頭に、十年以上勤めた人も珍しくありませんでしたが、幕末になって人材が払底し、文久3年(1863)から翌元治元年にかけ、一年間で8人も交代するありさまとなりました。

佐々木信濃守

佐々木信濃守顕発は、嘉永5年(1852)から安政4年(1857)まで大坂東町奉行を勤め、江戸に戻って文久3年(1863)、北町奉行に就任。数か月で退いた後、再び年内に南町奉行として返り咲き、翌年退職しました。

オチがある上方演出

民話の「児(ちご)裁判」の筋を借りて、幕末に大坂の三代目笑福亭松鶴が創作したものです。

そのオチは

「あんたが佐々木さんでお父さんが綱五郎、あたくしが四郎吉、これで佐々木四郎高綱」
「それは余の先祖じゃ。そちも源氏か」
「いいえ、平気(=平家)でおます」

わけのわからないダジャレオチとなりますが、子供が出世したかどうかについてはふつう触れられずに終わります。

東京では円生十八番

大阪で長く活躍し、八代目文楽の芸の師でもある三代目三遊亭円馬(橋本の円馬、1882-1945)が、おそらく大正初期に東京に紹介・移植しました。

円馬は、史実通り、佐々木を江戸南町奉行として演じました。円馬の演出を踏襲した六代目三遊亭円生が十八番とし、今回のあらすじも円生のものを底本にしましたが、時代が嘉永年間というのは誤りで、「落語のウソ」です。

後輩の円生から移してもらい、これも得意にしていた三代目三遊亭金馬は「池田大助」の題で演じ、四郎吉が後に大岡越前守の懐刀・池田大助となるという設定でした。これだと当然、時代は百五十年近く遡ることになります。

この噺は子供の描写が命で、へたくそが演じるとまるで与太郎と区別がつかなくなるため、やはり相当の年季と修練が必要な大真打の噺でしょうね。

竹川町

東京都中央区銀座七丁目、ちょうど中央通りをはさんでガスホールやヤマハビルの真向かいになります。地名は、その昔、このあたりが竹林だったことに由来します。

松曳き まつひき 演目

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粗忽噺。殿さまと三太夫さらには八五郎も入って、粗忽者同士の珍妙やりとり。

別題:粗忽大名(上方)

【あらすじ】

ある大名の江戸屋敷。

殿さまがそそっかしく、家老の田中三太夫がこれに輪をかけて粗忽者。

同気相求めるで、これが殿さまの大のお気に入り。

ある日、殿さまが、
「庭の築山の脇にある赤松の大木が月見のじゃまになるので、泉水の脇にひきたいが、どうであるか」
と三太夫にご下問。

三太夫が
「あれはご先代さまご秘蔵の松でございますので、もし枯らすようなことがありますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」
と諌めるが、殿さまは、
「枯れるか枯れないかわからないから、今屋敷に入っている植木屋に直接聞いてみたい」
と言い張る。

そこで呼ばれたのが、代表者の八五郎。

「さっそく御前へまかりはじけろ」
と言うからまかりはじけたら、三太夫が側でうるさい。

「あー、もっとはじけろ。頭が高い。これ、じかに申し上げることはならん。手前が取り次いで申し上げる」
「それには及ばん。直接申せ」
「はっ、これ、八五郎。ていねいに申し上げろ」

頭に「お」、終わりに「たてまつる」をつければよいと言われた八五郎、
「えー、お申し上げたてまつります。お築山のお松さまを、手前どもでお太いところへは、おするめさまをお巻き申したてまつりまして、おひきたてまつれば、お枯れたてまつりません。恐惶謹言、お稲荷さんでござんす」

よくわからないが、枯れないらしいと知って、殿さまは大喜び。

植木屋に無礼講で酒をふるまっていると、三太夫に家から急な迎え。

国元から書状が来ているというので、見ると字が書いていない。

「だんなさま、そりゃ裏で」
「道理でわからんと思った。なになに、国表において、殿さま姉上さまご死去あそばし……」

これは容易ならぬと、あわてて御前へ。

殿さま、
「なに? 姉上ご死去? 知らぬこととは言いながら、酒宴など催して済まぬことをいたした。して、ご死去はいつ、なんどきであった?」
「ははっ……とり急ぎまして」
「そそっかしいやつ。すぐ見てまいれ」

アワを食って、家にトンボ返り。

動転して、書状が自分の懐に入っているのも気がつかない。

やっと落ち着いて読みなおすと
「……お国表において、ご貴殿姉上さま……?」

自分の姉が死んだのを殿と読み間違えた。

いまさら申し訳が立たないので、いさぎよく切腹してお詫びしようとすると、家来が、殿に正直に申し上げれば、百日の蟄居(ちっきょ)ぐらいですむかもしれないのに、あわてて切腹しては犬死にになると止めたので、それもそうだと三太夫、しおしお御前へまかり出た。

これこれでと報告すると、殿さまは
「ナンジャ? 間違いじゃ? けしからんやつ。いかに粗忽とは申せ、武士がそのようなことを取り違えて、相済むと思うか」
「うへえ、恐れ入りました。この上はお手討ちなり、切腹なり、存分に仰せつけられましょう」
「手討ちにはいたさん。切腹申しつけたぞ」
「へへー、ありがたき幸せ」
「余の面前で切腹いたせ」

三太夫が腹を切ろうとすると、しばらく考えていた殿さま、
「これ、切腹には及ばん。考えたら、余に姉はなかった」

底本:初代三遊亭金馬=二代目三遊亭小円朝

【しりたい】

使いまわしのくすぐりでも

「粗忽の使者」とよく似た、侍の粗忽噺です。特に、職人がていねいな言葉遣いを強要され、「おったてまつる」を連発するくすぐりは「粗忽の使者」のほか、「妾馬」でも登場します。

ただ、基本形は同じでも、それぞれの噺で状況も八五郎(「粗忽の使者」では留五郎)の職業もまったく違うわけです。

この「松曳き」では殿さまの前でひたすらかしこまるおかしみ、「粗忽の使者」では後で地が出て態度がなれなれしくなる対照のおかしさと、それぞれ細部は違い、演者の工夫もあって、同じくすぐりを用いても、まったく陳腐さを感じさせないところが、落語のすぐれた点だと思います。

殿さまの正体

御前に出た八五郎に、三太夫が叱咤して「まかりはじけろ」と言います。「もっと前に出ろ」という意味ですが、実はこれは仙台地方の方言だそうです。

とすれば、このマヌケな殿さまは、恐れ多くも仙台59万5千石の太守・伊達宰相にあらせられる、ということになりますが。

小里ん語り、小さんの芸談

この噺は、小さん、十代目馬生、談志あたりがやっていました。その流れで、柳家喜多八(2016年没、小三治の弟子)や桃月庵白酒(雲助の弟子)も。あまり聴かない噺ですが、以下は小さんが弟子の小里んに語った芸談です。芸の奥行きをしみじみ感じさせます。

語りの芸は演じきっちゃいけないだなァ。
それと師匠は「昔は大名が職人と酒盛りなんかするわけがない。それは噺のウソだってことは腹に入れとかなくちゃいけない」と言ってました。ありえないことだけれど、それを愉しく演じなきゃいけない。かといって、無理に拵えた理屈をつけてはいけない。「ウソだと分かって演るなら、ウソでいいんだ」と言ってたのは、「噺のウソを、ウソのまま取っておく大らかさが落語にはあった方がいい」という教えですね。無理に辻褄合わせで理屈をつけると解説になって理屈っぽくなっちゃうでしょ。

五代目小さん芸語録 柳家小里ん、石井徹也(聞き手)著、中央公論新社、2012年

岸柳島 がんりゅうじま 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

渡し舟に乗り合わせた町人と侍。武士の間抜けな横暴ぶりを笑います。

【あらすじ】

浅草の御廐河岸から渡し船に乗り込んだ、年のころは三十二、三の色の浅黒い侍。

船縁で一服つけようとして、煙管をポンとたたくと、罹宇(らお)が緩んでいたと見え、雁首が取れて、川の中に落ちてしまった。

日ごろよほど大切にしていたものと見え、たちまち顔色が変わる。

船頭に聞くと、ここは深くてもう取ることはできないと言われ、無念そうにブツブツ言っている。

そこへ、よせばいいのに乗り合わせた紙屑屋が、不要になった吸い口を買い上げたいと持ちかけたので
「黙れっ、武士を愚弄いたすか。今拙者が落とした雁首と、きさまの雁首を引き換えにいたしてくれるから、そこへ直れっ」
ときたから紙屑屋は仰天。

いくら這いつくばって謝っても、若侍は聞かばこそ。

下手に仲裁をすれば、今度はこっちにお鉢がまわりそうだから、誰もとりなす者はいない。

あわれ、首と胴とが泣き別れと思ったその時、中間に槍を持たせた七十過ぎの侍が
「お腹立ちでもござろうが、取るに足らぬ町人をお手討ちになったところで貴公の恥。ことに御主名が出ること、乗り合いいたししたる一同も迷惑いたしますから、どうぞご勘弁を」
と詫びたが、かえって火に油。

「しからば貴殿が相手。いざ尋常に勝負をさっしゃい」

けんかが別の所に飛び火した。

「それではやむを得ずお相手するが、ここは船中、たってとあれば広き場所で」
「これはおもしろい。船頭、船を向こう岸にやれ」

さあ、船の中は大騒ぎ。

若侍は袴の股立を取り、襷を掛けて、この爺、ただ一撃ちと勇んで支度する。

老人の方はゆっくりと槍の鞘を払い、りゅうりゅうとしごく。

対岸近くなると、若侍は勢いこんで飛び上がり、桟橋にヒラリと下り立った。

とたんに老人が槍の石突きでトーンと杭を突くと、反動で船が後戻り。

「あ、こら、卑怯者。船頭、返せ、戻せ」
「これ、あんなばかにかまわず、船を出してしまえ」
「へいっ。ざまあみやがれ、居残り野郎め。満潮になって、魚にでもかじられちまえ」

真っ赤になって怒った若侍、なにを思ったか、裸になると、大小を背負い、海にざんぶと飛び込んだ。

こりゃあ、離されて悔しいから、腹いせに船底に穴を開けて沈めちまおうてえ料簡らしいと、一同あわてるが、老侍は少しも騒がず、船縁でじっと待っていると、若侍がブクブクと浮き上がってきた。

「これ、その方はそれがしにたばかられたのを遺恨に思い、船底に穴を開けに参ったか」
「なーに、落ちた雁首を探しにきた」

【しりたい】

原典は中国の古典

『呂氏春秋』の「察今編」という逸話集にこんな話があります。

其の剣、舟中より水中におつ。にわかにその舟にきざみていわく、「これわが剣のよりておちし所なり」と。

これが「岸柳島」の原典と見られています。

この一文はひところ、高校の漢文の教科書や受験参考書などによく登場していましたから、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。

巌流島か、岸流島か

安永2年(1773)刊の『坐笑産』中の小ばなし「むだ」を始め、さまざまな笑話本に脚色されていますが、その後、上方落語「桑名舟」として口演されたものを東京に移す際、佐々木小次郎の逸話をもとにした講談の「佐々木巌流」の一節が加味され、この名がついたものです。

そのせいか、もとは若侍を岸に揚げた後、老人が、昔佐々木巌流(小次郎)がしつこく立ち会いを挑む相手を小島に揚げて舟を返し勝負をしなかった、という伝説を物語る場面がありました。

この説明がなければ、「巌流」といってもなんのことかわからず、むしろ「岸流島」の演題が正しいと三遊亭円朝が述べています。

こちらも志ん生の十八番

古くは三遊亭円朝、四代目三遊亭円生が演じ、大正の初代柳家小せん(「五人回し」参照)を経て、戦後は五代目古今亭志ん生が抱腹絶倒のくすぐり満載で大ヒットさせました。

志ん生が昭和31年(1956)に演じた「巌流島」は、同師の数少ない貴重な映像の一つとして残っています。

六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵、三代目三遊亭小円朝などの大看板も手掛けました。

上方では、東海道・桑名の渡し場を舞台にしています。

志ん生のくすぐり

●若侍が舟中に飛び込んできて

「あー、これッ。もっとそっちィ寄れッ。じゃまだッ。町人の分際でなんだその方たちは。あー? うー、人間の形をしてやがる。生意気にィ……あー、目ばたきをしてはならん。……息をするなッ」

●果たし合いが決まって舟中の連中

「あのじいさんは斬られる。するってえと、返す刀であの屑屋を斬る。そいからこんだ、てめえを斬る。斬らなきゃオレが頼む。『えー、そっちが済みましたらついでに……』」
「床屋じゃねえや」

●置いてけぼりの若侍をののしって

「ざまあみやがれ、宵越しの天ぷらァ」
「なんだい、そりゃ?」
「揚げっぱなしィ」

夢金 ゆめきん 演目

 落語ことば 落語演目 落語あらすじ事典 web千字寄席

船宿に駆け込んできた男と女。金銭欲丸出しの船頭との取り合わせで。

【あらすじ】

山谷堀の吉田屋という船宿。

そこの船頭・熊五郎は、このところ毎晩のように超現実的な寝言をうなっている。

「金が欲しいな。二十両欲しい。だれかくれぇ」

ある夜、いつものように熊の
「金くれえ」
が始まったころ合いに、門口で大声で案内を乞う者がある。

亭主が出てみると、年のころは三十ばかり、赤羽二重の黒紋の羽織、献上博多の帯のぼろぼろになったのを着た侍が、お召し縮緬の小袖に蝦夷錦の帯を締め、小紋の羽織、文金高島田しとやかにお高祖頭巾をかぶった十六、七の娘を連れて、雪の中を素足で立っている。

話を聞くと、今日妹を連れて芝居見物に行ったが、遅くなり、この雪の中を難渋しているので、大橋まで屋根舟を一艘仕立ててもらいたいという。

今、船頭は相変わらず
「二十両くれえ」
とやっている熊五郎しかいない。

「大変に欲張りなやつですから、酒手の無心でもするとお気の毒ですので」
と断っても
「かまわない」
と言うので、急いで熊を起こして支度をさせる。

舟はまもなく大川の中へ。

酒手の約束につられてしぶしぶ起き出した熊五郎、出がけにグイっとあおってきたものの、雪の中。寒さにブルブル震えながら漕いでいる。

娘の顔をちらちら見て
「こいつら兄妹じゃねえな」
と踏んだが、まあなんにしろ
「早くゼニをくれればいい、酒手をくれ、早く一分くれ」
と独り言を言っていると、侍が舟の障子をガラリと開け
「おい、船頭。ちょっともやえ(止めろ)。きさまに話がある」

女は寝入っている。

「この娘は実は妹ではなく、今日、吉原土手のところで犬に取り巻かれて難儀していたのを助けてやったもの。介抱しながら懐に手を入れると、大枚二百両を持っていたから、これからこの女をさんざんなぐさんだ上、金をとってぶち殺すので手伝え」
という。

熊が仰天して断ると、侍は
「大事を明かした上は命はもらう」
とすごむ。

「それじゃあ、いくらおくんなさいます」
「さすがは欲深いその方。震えながらも値を決めるのは感心だ。二両でどうだ」
「冗談言っちゃいけねえ。二両ばかりの目くされ金で、大事な首がかけられるけえ。山分け、百両でどうでやす。イヤなら舟を引っくり返してやる」

とにかく話がまとまった。

舟中でやるのは証拠が残るからと言って中洲まで漕ぎつけ、侍が先に上がったところをいっぱいに棹を突っ張り、舟を出す。

「ざまあみろ。土左衛門になりゃあがれ」

これから娘を親元である本町三丁目の糸屋林蔵に届け、二十両の礼金をせしめる。

思わず金を握りしめた瞬間
「あちいッ」

夢から覚めると熊、おのれの熱いキンを握っていた。

【しりたい】

六代目円生の芸談

戦後、稠密な人物描写の妙で、この噺には定評のあった六代目三遊亭円生は、「これは初めから終わりまで夢……まことにたあいのない噺ですが、出てくる人物の表現、言葉のやりとり、そういったものを形から何からととのえてやれば面白く聞けるというのが、むずかしいところでもあるわけです。(中略)とりわけこの『夢金』なぞは、まずくやったら聞いちゃいられないという噺でございます」と語り残しています。

「芝浜」などと同じく、最後まで夢であると客に悟らせず、緊密な構成と描写力で噺を運ぶ力量が必要とされる、大真打の出し物でしょう。

我欲の浅ましさ

古くは別題を「欲の熊蔵」ともいいましたが、その通り、熊に代表される人間の金銭欲のすさまじさ、浅ましさが中心になります。

ただ、その場合も落語のよいところで、その欲望を誰もが持っている業として、苦笑とともに認めることで、この熊五郎も実に愛すべき、今でもどこにでもいそうな人間に思えてきます。

円生は、金銭欲の深さを説明するのに、マクラで「百万円やるからおまえさんをぶち殺させろ」と持ちかけられた男が、「半分の五十万円でいいから、半殺しにしてくれ」という小ばなしを振っています。

オチの改訂

昔からそのものずばり、夢うつつで金玉を握り、その痛さで目覚めるというのが本当で、これでこそ「カネ」と「キン」の洒落でオチが成立するのですが、やはり下品だというので、そのあたりをぼやかす演者も少なくありません。

たとえば、「錦嚢」と題した明治23年(1890)の二代目古今亭今輔の速記では、熱いと思ったらきんたま火鉢(火鉢を股間に挟んで温まる)をして寝ていた、と苦肉の改訂をしていますし、立川談志は、金玉の部分をまったくカットして、「静にしろッ、熊公ッ」と初めの寝言の場面に戻り、親方にどなられて目覚める幕切れにしていました。

明治の珍演出

安藤鶴夫・述『四代目小さん・聞書』によると、明治の初代・三遊亭円右は、「夢金」を演ずるとき、始めから終わりまで、人物のセリフも地の語りもすべて、人気役者や故人の落語家、講釈師の声色(声帯模写)で通したということです。

これは「夢金」だけに限られたといいますから、それだけこの噺は、芝居がかったセリフが目立つということなのでしょう。

お召し縮緬と蝦夷錦

お召し縮緬(ちりめん)は、横に強い撚りをかけた糸を織り込み、織ったあと、ぬるま湯に入れてしぼり立てた絹織物です。

縞、無地、紋、錦紗などの種類があります。

「お召し」とは貴人が着用したことから付いた名称です。

蝦夷錦(えぞにしき)は、繻子地に金糸、銀糸と染め糸で雲竜の紋を織り出した錦。

満洲(中国東北部)でつくられたものが、樺太、蝦夷(北海道)経由で入ってきたため、この名があります。

文金高島田

日本髪で、島田髷(まげ)の根を高く上げ、油で固めて結ったものです。

高尚、優美な髪型で、江戸時代には御殿女中、明治維新後は花嫁の正装となりました。

これに似せた「文金風」は男の髪型で、髷の根を上げて前に出し、月代(さかやき)に向かって急傾斜させた形です。

お高祖頭巾

おこそずきん。四角な切地に紐を付けた頭巾で、頭、面、耳を隠し、目だけを出します。

婦人の防寒用で、袖頭巾ともいいます。

時代劇で、ワケありの女がお忍びで夜出歩くときに、よく紫地のものをかぶっていますね。

そばの殿さま そばのとのさま 演目

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お仕えの噺。そばにまつわる噺は数あれどかほど過酷な噺はなかりしや。

【あらすじ】

あるお大名。

ご親類にお呼ばれで、山海の珍味を山とごちそうになり、大満足で屋敷に帰ろうというところで、
「お帰り際をお止め申して恐れ入るが、家来のうちにそばの打ち方に妙を得ている者がおりますので、ほんの御座興にその者を呼び、御目前にて打たせて差し上げたいと存ずるゆえ、しばらくお待ちを」
と。

言われて殿さま、そばなんぞはただ長いものと聞いているだけで、見たことも聞いたこともなかったので、興味津々。

実際に木鉢の粉をすりつぶし、こねて切ってゆでて……という名人芸を目のあたりにして、すっかり感心。

根が単純なので、自分もやってみたくてたまらなくなってしまう。

帰ると、早速家来どもを集め、鶴の一声で「実演」に取りかかる。

山のようにそば粉を運ばせる。

小さな入れ物ではダメというので、馬の行水用のたらいを用意させ、殿さま、さっそうとたすきを十字にかけ、はかまの股立ちを高々と取る。

まるで果たし合いにでも行こうという出立ち。

「……これ、水を入れよ。……うん、これはちと柔らかい。粉を足せ。……ありゃ、今度は固すぎる。水じゃ。あコレコレ、柔らかい。粉じゃ。固いぞ。水。柔らかい。粉。水、粉、水、粉、粉水水粉粉水水粉……」

というわけで、馬だらいの中はヘドロのようなものが山盛り。

その上、殿さまが興奮して、鼻水は垂らしっぱなし。

汗はダラダラ。

おまけにヨダレまで、ことごとく馬だらいの「そば」の中に練りこまれるから、家来一同、あれを強制的に食わされるかと思うと、生きた心地もない。

いよいよ、恐怖の試食会。

宮仕えの悲しさ、イヤと言うわけにもいかないから、グチャグチャドロドロのやつを、脂汗を流しながら一同口に入れる。

「あー、どうじゃ、美味であろう」
「ははー、まことにけっこうな……」
「しからば、代わりを取らせる」

汗と唾とよだれと鼻水で調味してあるそばを、腹いっぱい詰め込まされたものだから、翌日は家来全員真っ青な顔で登城する。

みんな、その夜一晩中ひどい下痢でかわやへ通い詰め。

そこへまたしても殿のお召し。

「あー、コレ、一同の者がそば好きじゃによって、本日もそばを打っておいたゆえ、遠慮なく食せ。明日も打ってとらせる」
「殿、恐れながら申し上げます」
「なんじゃ」
「おそばを下しおかれますなら、一思いに切腹を仰せつけ願わしゅう存じまする」

【しりたい】

すまじきものは宮仕え

「将棋の殿さま」と並んで、ご家来衆受難の一席。この種の噺に、今はもう演じ手がありませんが、三遊亭円朝の作といわれる「華族の医者」があります。

維新後のはなしで、医術に凝った元殿さまが、怪しげな薬で家来を虫の息にしてしまい、「それは幸い。今度は解剖じゃ」。

サディスティックさの度合い、精神の病根の深さは「そば殿」や「将棋殿」など、メじゃあありませんな。

ぜひどなたかに復活していただきたいものです。ああこれこれ、「実演」するでないぞ。してよいのは余だけじゃ。

そばと殿さま

松江藩七代藩主で、茶人としても知られた松平治郷(まつだいら・はるさと、不昧公。目黒のさんま)が飢饉対策のため、藩内に信州から蕎麦を移植したいきさつは、出雲系そば屋の由来書の紋切り型です。

不昧公は名君として知られ、いやしくもこの噺のそば殿のモデルになったとは思えませんが、殿さまがズルズルとそばをたぐっている姿を想像すると、漱石ではありませんが、なんとなく「俳味」があります。

そばと茶道

不昧公が茶人だったということで、もう一つ付け加えますが、実はこの噺の発端で、殿様が茶坊主に命じて、そば粉を調達させるくだりが、あらすじで参考にした、明治の二代目柳家小さんの速記にはあります。

このことから、上層階級では、そばきりは茶懐石の添え物として供されたことがうかがわれます。

そばは、決していやしき町人のやからのみが食したのではないのです。

幻の後日談?

「目黒のさんま」の項でもふれましたが、明治期に、武士や殿さまの噺を得意としたのが実際に士族出身だった二代目柳家(禽語楼)小さんです。

「そばの殿さま」の最古の速記が、明治27年(1894)、「百花園」所載の二代目小さんのものですが、現在のやり方とあまり大きくは違っていません。戦後では六代目三遊亭円生がよく演じました。

「円生全集」第二巻(青蛙房)所収の速記では、円生はオチは使わず、殿さまが謝った後、「今度は精進料理で失敗するという……」と「続編」をにおわせてサゲていましたが、これについてはまったく不明です。

「そばの殿さま」のくすぐり

●家来がイヤイヤそばを食う場で

「中から粉が出ますな」
「貴殿のは粉だからよろしい。拙者のはワラが出ます」
「壁土じゃござらん」

 …………………………………………

「いやしくも侍一人、戦場で捨てる命は惜しまねど、そばごときと刺し違えて相果てるは遺憾至極」
「遺憾もキンカンもくねんぼもダイダイもない。このそばをもって一命を捨てるのも、やはり忠死のひとり」
「宅を出るとき、家内と水杯をいたしてくればよかった」

首提灯 くびぢょうちん 演目

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酔っ払い、田舎侍を侮ったら首ちょん切られ。滑稽噺。ざらにない傑作。

【あらすじ】

芝山内に追い剥ぎや辻斬りが毎日のように出没していた幕末の頃。

これから品川遊廓に繰り込もうという町人一人。

すでに相当きこしめしていると見え、千鳥足でここを通りかかった。

かなり金回りがいいようで、
「これからお大尽遊びだ」
と言いかけて口を押さえ
「……おい、ここはどこだい。おっそろしく寂しいところだ。……おや、芝の山内だ。物騒な噂のある場所で、大金を持ってるのはまずかったかな……」

さすがに少し酔いが醒めて、それでも空元気を出し、なんでも逆を言えば反対になるというので
「さあ、辻斬り出やがれ。追い剥ぎ出ろい。出たら塩つけてかじっちまうぞ」
と、でかい声を張り上げる。

増上寺の四ツ(午後十時ごろ)の鐘がゴーン。

あたりは人っ子一人通らない。

「……おい、待て、おい……」

いきなり声をかけられて、
「ぶるっ、もう出たよ。何も頼んだからって、こうすみやかに出なくても……」

こわごわ提灯の灯をかざして顔を見上げると、背の高い侍。

「おじさん、何か用か?」
「武士をとらえておじさんとはなにを申すか。……これより麻布の方へはどうめえるか、町人」

なまっていやがる……。

ただの道聞きだという安心で、田舎侍だからたいしたことはねえという侮り、脅かされたむかっ腹、それに半分残っていた酒の勢いも手伝って、
「どこィでも勝手にめえっちまえ、この丸太ん棒め。ぼこすり野郎、かんちょうれえ。なにィ? 教えられねえから、教えねえってんだ。変なツラするねえ。このモクゾー蟹。なんだ? 大小が目に入らぬかって? 二本差しが怖くて焼き豆腐は食えねえ。気のきいた鰻は五本も六本も刺してらあ。うぬァ試し斬りか。さあ斬りゃあがれ。斬って赤え血が出なかったら取りけえてやる。このスイカ野郎」

カッと痰をひっかけたから、侍の紋服にベチャッ。

刀の柄に手が掛かると見る間に
「えいやあっ」

……侍、刀を拭うと、謡をうたって遠ざかる。

男、
「サンピンめ、つらァ見やがれ」
と言いかけたが、声がおかしい。

歩くと首が横にずれてくる。

手をやると血糊がベッタリ。

「あッ、斬りゃあがった。ニカワでつけたらもつかな。えれえことになっちゃった」

慌てて走っていくと、突き当たりが火事で大混雑。

鳶の者に突き当たられて、男、自分の首をひょいと差し上げ、
「はいごめんよ、はいごめんよ」

【しりたい】

原話と演者

安永3年(1774)刊の『軽口五色帋(かみ)』中の「盗人の頓智」ですが、これは、忍び込んだ泥棒が首を斬られたのに気付かず、逃げて外へ出ると暗闇で、思わず首を提灯の代わりにかざします。

もともと小ばなしだったのを、明治期に四代目橘家円蔵が一席にまとめたものです。その円蔵直伝の六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵(彦六)が得意としました。

現在でもよく演じられますが、オチで、男が火事見舞いに駆けつけ、店先に、「ヘイ、八五郎でございます」と、自分の首を差し出すやり方もあります。

上方の「上燗屋」

のみ屋で細かいのがなく、近くの古道具屋で仕込み杖を買って金をくずした男が、その夜入った泥棒を仕込み杖でためし斬り。泥棒の首がコロコロ……という筋立てで、オチは同じです。

首なしで口を利くという、やや似たパターンの噺に「館林」「胴取り」があります。

芝山内

品川遊郭からの帰り道だったため、幕末には辻斬り、追い剥ぎなどがひんぱんに出没しました。

『武江年表』の文久3年(1863)の項にも、「此頃、浪士徘徊して辻斬り止まず。両国橋畔に其の輩の内、犯律のよしにて、二人の首級をかけて勇威を示せり。所々闘諍(とうじょう)ありて穏ならず」とあります。

「蔵前駕籠」の舞台となった蔵前通りあたりはまだ人通りがありましたが、こちらは当時は荒野も同然。こんなぶっそうな場所はなかったでしょう。

江戸っ子の悪態解説

「ぼこすり野郎」の「ぼこすり」は蒲鉾用のすりこぎ。「デクノボー」「大道臼(おおどううす)」などと同じく、体の大きい者をののしった言葉です。

「かんちょうれえ(らい)」は弱虫の意味ですが、語源は不明です。この男もわかっていません。

「モクゾー蟹」は、藻屑蟹ともいい、ハサミに藻屑のような毛が生えている川蟹で、ジストマを媒介します。要するに「生きていても役に立たねえ木ッ葉野郎」くらいの意味でしょう。

サンピン

元は渡り中間(ちゅうげん)や若党をののしる言葉でしたが、のちにはもっぱら下級武士に対して使われました。

中間の一年の収入が三両一分だからとも、三両と一人扶持(日割計算で五合の玄米を支給)だったからともいわれます。

浅黄裏

田舎侍のことを別に「浅黄裏(着物の浅黄木綿の裏地から)」「武左(ぶざ)」「新五左(しんござ)」などとも呼びました。とりわけ、「浅黄裏」は野暮の代名詞です。

蔵前駕籠 くらまえかご 演目

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維新間際、駕籠客狙う追い剥ぎの一党が。荒んだ世情も落語にかかれば、ほら。

【あらすじ】

ご維新の騒ぎで世情混乱を極めているさなか。

神田・日本橋方面と吉原を結ぶ蔵前通りに、夜な夜な追い剥ぎが出没した。

それも十何人という徒党を組み、吉原通いの、金を持っていそうな駕籠客を襲って、氷のような刃を突きつけ
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるので、その方に所望いたす。命が惜しくば、身ぐるみ脱いで置いてゆけ」
と相手を素っ裸にむくと
「武士の情け。ふんどしだけは勘弁してやる」
「へえ、ありがとうございます」

こんなわけで、茅町の江戸勘のような名のある駕籠屋は、評判にかかわるので暮れ六ツの鐘を合図に、それ以後は一切営業停止。

ある商家のだんな。

吉原の花魁から、ぜひ今夜来てほしいとの手紙を受け取ったため、意地づくでも行かねばならない。

そこで、渋る駕籠屋に掛け合って、
「追いはぎが出たらおっぽり出してその場で逃げてくれていい、まさか駕籠ぐるみぶら下げてさらっていくことはないだろうから、翌朝入れ物だけ取りに来ればいい」
と、そば屋にあつらえるようなことを言い、駕籠賃は倍増し、酒手は一人一分ずつという条件もつけてようやく承知させる。

こっちも支度があるからと、何を思ったかだんな、くるくるとふんどし一つを残して着物を全部脱いでしまった。

それをたたむと、煙草入れや紙入れを間に突っ込み、駕籠の座ぶとんの下に敷いてどっかと座り、
「さあ、やれ」

駕籠屋が
「だんな、これから風ェ切って行きますから寒いでしょう」
とからかうと、
「向こうに着きゃ暖め手がある」
と変なノロケを言いながら、いよいよ問題の蔵前通りに差しかかる。

天王橋を渡り、前方に榧寺門前の空地を臨むと、なにやら怪しい影。

「だんな、もう出やがったあ。お約束ですから、駕籠をおっぽりますよっ」
と言い終わるか終わらないかのうちに、ばらばらっと取り囲む十二、三人の黒覆面。

駕籠屋はとっくに逃げている。

ぎらりと氷の刃を抜くと、
「我々は徳川家にお味方する浪士の一隊。軍用金に事欠いておるのでその方に所望いたす。命が惜しくば……これ、中におるのは武家か町人か」

刀の切っ先で駕籠のすだれをぐいと上げると、素っ裸の男が腕組み。

「うーん、もう済んだか」

【しりたい】

江戸の駕籠屋

蔵前茅町の江戸勘、日本橋本町の赤岩、芝神明の初音屋を、江戸三駕籠屋と称しました。

江戸勘と赤岩は吉原通い、初音屋は品川通いの客が多く利用したものです。

これを宿駕籠といい、個人営業の辻駕籠とは駕籠そのものも駕籠かきも、むろん料金も格段に違いました。

駕籠にもランクがあり、宝仙寺、あんぽつ、四ツ手と分かれていましたが、もっとも安い四ツ手は垂れ駕籠(むしろのすだれを下ろす)、あんぽつになると引き戸でした。

ルーツは『今昔物語』に

いかにも八代目正蔵(彦六)が得意にしていた噺らしい、地味で小味な一編ですが、原話は古く、平安末期成立の説話集『今昔物語』巻二十八中の「阿蘇の史、盗人にあひて謀りて逃げし語」です。

時代がくだって安永4年(1775)刊の笑話集『浮世はなし鳥』中の「追剥」では、駕籠屋の方が気を利かせてあらかじめ客を裸にし、大男の追い剥ぎが出るや「アイ、これはもふ済みました」と、すでに「蔵前駕籠」と同じオチになっています。

榧寺門前

榧寺は現在の東京都台東区蔵前三丁目、池中山正覚寺のことです。浄土宗で芝の増上寺に属します。

昔、境内に榧の大木があったので、この名が付いたといわれますが、その榧の木は、秋葉山の天狗が住職と賭け碁をして勝ち、そのかたに実を全部持って行ったために枯れ、その枯れ木で天狗の木像を刻んで本尊としたという伝説があります。

江戸時代は水戸街道に面し、表門から本堂までかなり長かったといいます。

禁酒番屋 きんしゅばんや 演目

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酒の噺。禁令破りのいつわりの果てに、ついには酒を小便と。尾籠に落ちます。

【あらすじ】

ある藩で、酒の上の刃傷沙汰が起きたというので、藩士一同に禁酒令が出された。

しかし、なかなか禁令が行き届かず、隠れてチビリチビリやる者が続出。

それではと、城門のところに番屋を設け、出入りの商人が持ち込むものまで厳しくチェックされることになり、いつしかそこは、人呼んで「禁酒番屋」。

家中第一ののんべえの近藤という侍、屋敷内ではダメなので、町の酒屋でグイッと一気に三升。

「禁酒令糞くらえ」
で、すっかりいい心持ちになった。

まだのみ足らず、酒屋の亭主に、
「なんとか工夫して番屋をかいくぐり、拙者の小屋まで一升届けてくれ」
と頼む始末。

もとより上得意のことでもあり、亭主も無下には断れないが、見つかれば営業停止を食らうし、第一、番屋を突破する方法が思いつかない。

困っていると、番頭がうまい知恵を出す。

「五合徳利を二本菓子折りに詰め、カステラの進物だと言って通ればよい」
という。

まあやってみようというので、早速店の者が番屋の前に行ってみるが……。

番人もさるもの。

家中屈指のウワバミにカステラの進物とは怪しいと、抗議の声も聞かばこそ、折りを改められて、
「これ、この徳利はなんじゃ」
「えー、それはその、水カステラてえ、新製品で」
「水カステラァ? たわけたことを申すな。そこに控えおれ。中身を改める」

一升すっかりのまれてしまった。

「これっ、町人。けしからん奴。かようなけっこうな……いや、けしからんカステラがあるか。あの、ここな、いつわり者めがっ」

カステラで失敗したので、今度は油だとごまかそうとしたが、これも失敗。

都合二升もただでのまれ、腹の虫が治まらないのが、酒屋の亭主。

そこで若い衆が、
「今度は小便だと言って持ち込み、仇討ちをしてやろう」
と言いだす。

正直に初めから小便だと言うのだから、こちらに弱みはない。

「……ご同役、実にどうもけしからんもので。初めはカステラといつわり、次は油、またまた小便とは……これ、控えておれ。ただ今中身を取り調べる。……今度は熱燗をして参ったと見える。けしからん奴。小便などといつわりおって。かようにけっこう……いやふらちなものを……手前がこうして、この湯のみへついで……ずいぶん泡立っておるな。……ややっ、これは小便。けしからん。かようなものを持参なし……」
「ですから、初めに小便と申し上げました」
「うーん、あの、ここな、正直者めが」

【しりたい】

これも大阪ダネ

お食事前にはちょっと、という噺。大阪の「禁酒関所」を、三代目柳家小さんが東京に移し、翻案したものです。

今までアップした噺の中でも、小さんが東京に持ってきたものは相当数あります。単に明治・大正の名人というにとどまらず、三代目小さんという人が、いかに東京の落語に豊かな遺産を残したかがわかります。

大阪の「禁酒関所」は、大筋は同じですが、女に小便をさせる場面があったり、オチには大…まで登場し、「裏門へ回れ」「糞(ばば)食わされる」といった、あざとく汚いものになっています。

小さん代々のやり方

五代目柳家小さんの独壇場でした。

三代目、四代目小さんや、「三代目の影法師」と呼ばれた七代目三笑亭可楽から継承した型に、五代目がさまざまな工夫を加えています。

たとえば、最初に関所を通るとき、五代目は、手代が思わず「ドッコイショ」と言ってしまい、菓子折りがそんなに思いはずがないと怪しまれる演出です。

三代目は、禁酒令が出たのを「小石川新坂の安藤という旗本屋敷」とし、殿さま自ら酒乱で、自分が禁酒する代わりに家来にも禁酒を強いる設定でしたが、五代目はこれを某藩の城下町の出来事としていました。

カステラ

16世紀末にポルトガルから長崎に渡来しました。

語源はスペインの地名「カスティーリャ」から。表記は「粕底羅」「家主貞良」などさまざま。上菓子で、町人の口にはまず入りませんでした。

【禁酒番屋 五代目柳家小さん】

粗忽の使者 そこつのししゃ 演目

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「そこつ」って、言ったことない人。使ってみると意外によい語感かも。

【あらすじ】

杉平柾目正(まさめのしょう)という大名の家臣・地武太治部右衛門という間抜けな名の侍。

驚異的な粗忽者だが、そこが面白いというので殿さまのお気に入り。

ある日、大切な使者を仰せつかり、殿さまのご親類の赤井御門守の屋敷に赴かねばならない。

家を出る時がまた大変。

慌てるあまり猫と馬を間違えたり、馬に後ろ向きで乗ってしまい、
「かまわぬから、馬の首を斬って後ろに付けろ」
と言ってみたりで大騒ぎ。

先方に着くと、きれいに口上を忘れてしまう。

腹や膝をつねって必死に思い出そうとするが、どうしてもダメ。

「かくなる上は……その、あれをいたす。それ、あれ……プクをいたす」
「ははあ、腹に手をやられるところを見るとセッップクでござるか」
「そう、そのプク」

応対の田中三太夫、気の毒になって、
「何か思い出せる手だてはござらぬか」
と聞くと、治部ザムライ、幼少のころから、物忘れをした時には、尻をつねられると思い出す、ということをようやく思い出したので、三太夫が早速試したが、今まであまりつねられ過ぎてタコになっているため、いっこうに効かない。

「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらんか」
と尋ねても、みな腹を抱えて笑うだけで助けてくれない。

これを耳にはさんだのが、屋敷で普請中の大工の留っこ。

そんなに固い尻なら、一つ釘抜きでひねってやろうと作事場に申し出た。

三太夫はわらにもすがる思いでやらせることにしたが、大工を使ったとあっては当家の名にかかわるので、留っこを臨時に武士に仕立て、中田留五郎ということにし、治部右衛門の前に連れていく。

あいさつは丁寧に、頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留、初めは
「えー、おわたくしが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」
などとシャッチョコばっていた。

治部右衛門と二人になると途端に地を出し、
「さあ、早くケツを出せ。……汚ねえ尻だね。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」

えいとばかりに、釘抜きで尻をねじり上げる。

「ウーン、痛たたた、思い出してござる」
「して、使者の口上は?」
「聞くのを忘れた」

【しりたい】

この続き

今では演じられませんが、この後、治部右衛門が使者に失敗した申し訳に腹を切ろうとし、九寸五分の腹切刀と扇子を間違えているところに殿さまが現れ、「ゆるせ。御門守殿には何も用がなかった」と、ハッピーエンドで終わります。

使者にも格がある

治部右衛門は直参ではなく、大名の家来の陪臣、それも下級藩士ですから、直接門内に馬を乗り入れることは許されません。必ず門前で下馬し、くぐり戸から入ります。

作事場とは?

大名屋敷に出入りする職人、特に大工の仕事場です。

「作事小屋」「普請小屋」ともいい、庭内に小屋を建てることもありました。

大大名では、作事奉行、作事役人が指揮することもあります。

おなじみの「太閤記」では、木下藤吉郎が作事奉行で実績をあげ、出世の糸口としています。

赤井御門守

赤井御門守(あかいごもんのかみ)とは、ふざけた名前です。

もちろん架空の殿さまです。

あるいは「赤門」で加賀百万石・前田家をきかせたのかもしれませんが、どう見てもそんな大大名ではありません。

妾馬」での円生によると、ご先祖は公卿・算盤数得卿玉成で、任官して「八三九九守」となった人とか。石高は123,456石7斗8升9合半と伝わっています。

火焔太鼓」では太鼓、「妾馬」では女と、やたらと物を欲しがるのも特徴です。

落語の殿さまにはこのほかに、根引駿河守吝(やぶ)坂慾之守治部右衛門の主君、杉平柾目正などがいます。

でも、赤井の殿さまほど有名じゃありませんね。

【粗忽の使者 柳亭市馬】

 

めぐろのさんま【目黒の秋刀魚】演目

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おなじみのお噺ですが、ここでは少々古い型を紹介します。

【あらすじ】

雲州松江十八万石の第八代城主、松平出羽守斉恒(なりつね)は、月潭(げったん)公とも呼ばれ、文武両道に秀でた名君だけあり、在府中は馬の遠乗りを欠かさない。

ある日、早朝から、目黒不動尊参詣を名目に、二十騎ほどを供に従え、赤坂御門内の上屋敷から目黒まで早駆けした。

参詣を終えたが、昼時には間があるので、あちらこちらと散歩。

いつしか目黒不動の地内を出て、上目黒辺の景色のいい田舎道にかかった時、殿さま、戦場の訓練に息の続くまで駆け、自分を追い抜いた者は褒美を取らすと宣言。

自分から走り出したので、家来どもも慌てて後を追いかける。

ところが、腰に大小と馬杓を差したままだから、なかなかスピードが上がらない。

結局、ついて来れたのは三人だけ。

雲州公、松の切り株に腰を下ろして一息つき、遅れて着いた者に小言を言ううち、にわかに腹がグウと鳴った。

陽射しを見ると、もう八ツ(午後二時)過ぎらしい。

その時、近くの農家で焼いているサンマの匂いがプーンと漂ってきた。

殿さまのこと、下魚のサンマなどは見たこともない。

家来に、「あれは何の匂いじゃ」とご下問になる。

「おそれながら、下様でさんまと申し、丈は一尺ほどで、細く光る魚でございます。近所の農家で焼いておると存じます」
「うむ、しからば、それを求めてまいれ」
「それは相かないません。下様の下人どもが食します魚、俗に下魚と称しますもの。高位の君の召し上がるものでは」
「そのほうは、治にいて乱を忘れずの心がけがない。もし戦場で敗走し、何も食うものがないとき、下様のものとて食わずに餓死するか。大名も下々も同じ人。下々が食するものを大名が食せんということはない。求めてまいれ」

家来はしかたなく、匂いを頼りに探しに行くと、あばら家で農民の爺さんが五、六本串に刺して焼いている。

これこれで、高貴なお方が食したいとの仰せだから、譲ってくれと頼むと、爺さん、たちまち機嫌が悪くなり、「人にものを頼むのに笠をかぶったまま突っ立っているのは、礼儀を知らないニセ侍だから、そんな者に意地でもやれねえ」と突っぱねる。

殿さまが名君だけに分別のわかった侍だから、改めて無礼を詫び、やっと譲ってもらって御前へ。

松江公、空腹だからうまいのうまくないの。

これ以来病み付きになり、屋敷内に四六時中もうもうと煙が立ち込めるありさま。

しまいには江戸中のさんまを買い上げた。

それでは飽き足らず、朋輩の諸大名に、事あるごとにさんまの講釈を並べ立てるから、面白くないのは黒田候。

負けじと各地の網元に手をまわして買いあさったが、重臣どもが「このように脂の多いものを差し上げては」と余計な気をまわし、塩気と脂を残らず抜いて調理させたから、パサパサでまずいことこの上ない。

怒った黒田候、江戸城で雲州公をつかまえ、あんなまずいものはないと文句を言う。

「して貴殿、いずれからお取り寄せになりました」
「家来に申しつけ、房州の網元から」
「ああ、房州だからまずい。さんまは目黒に限る」

【しりたい】

元サムライの殿さまばなし

古くからよく知られた噺です。

「サンマは目黒に限る」というオチは、落語をご存知ない方でも、一度は耳にされたことがおありでは?もちろん、現在でも前座から大看板まで、頻繁に口演されます。

今回は、明治中期まで活躍した二代目柳家(禽語楼)小さん(1850-98)の、明治24年(1891)の速記を元にあらすじを構成しました。

小さんは延岡の内藤藩士という、れっきとしたサムライでした。

それだけに、「目黒の秋刀魚」を始め、「将棋の殿様」「そばの殿様」など殿様ばなしなら、右に出る者はいなかったとか。

この噺も、小さんが原型を作ったと言ってよく、大筋の演出は現行とそうは違いません。

ただ、オチで小さんが「房州の網元から」としているのを、現在では「日本橋の魚河岸」となるなど、細部はかなり変わっています。

殿さまの正体は?

演者によってもっとも大きく分かれるのが、殿様のモデルです。

二代目小さんのように雲州公とする場合と、三代将軍・家光公とする場合があります。

たとえば、八代目林家正蔵(彦六)は家光公で演じ、六代目三遊亭円生や、門下の現円楽は殿様を特定していません。

目黒一帯は将軍家のお狩場だったところで、家光公が鷹狩りの途中、偶然立ち寄ってサンマを食し、たいへん気に入ったという伝説があります。

雲州公で演ずる場合、二代目小さんは第八代松江藩主・松平斉恒としていますが、以後は現在まで、その父で茶人・食通として名高く、出雲にそばを移植したので有名な、不昧公・治郷(はるさと、1751-1818)とされています。

演出によっては、家来が爺さんともめているところへ、殿さまがニコニコして現れ、「許せよ」と丁重に頼むので、爺さんが機嫌を直すやり方もあります。

もっとも、これは「ただの殿さま」の雲州公だからよいので、将軍家が来てこんなにゴネればハリツケものでしょう。

目黒不動とサンマのこと

「目黒のお不動さま」は、現在の東京都目黒区下目黒三丁目の瀧泉寺境内にあります。江戸の五色不動の一つで、境内では富くじの抽選が催され、湯島天神、谷中天満宮とともに江戸三大突き富といわれました。

この噺の爺さんがいた「爺が茶屋」がどこにあったのかは、諸説あって不明です。

サンマはその短刀に似た形から、通称九寸五分。

江戸に入荷するのは、九十九里沖で獲れたものがほとんどでした。

輸送の関係で生のものはなかなか出回らず、干物で売られることが多かったのです。

この噺でも、重臣たちが心配するように脂が多いものなので、労働量の多い農民や、町人でも、馬喰などの肉体労働者に好まれました。

【目黒の秋刀魚 金原亭馬生】