すもうのかや【相撲の蚊帳】落語演目

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

これまた、くだらないといえば実にくだらないネタですね。

別題:蚊帳相撲 こり相撲 妾の相撲

あらすじ

横町の米屋のだんな。

大の相撲好きで、町で会っても「関取」と呼ばないと、返事をしない。商売のことも、商談で出かけることを興行と呼ぶくらい。

十日の相撲なら、小屋を建てるところから壊すところまで、十二日間見ないと気が済まないほど。

今日も、贔屓の相撲が負けたのでご機嫌斜めで妾宅に帰ってくる。

あまりぐちるので、お妾さんがなんとか慰めようと、私と相撲を取って負かせば敵討ちをしたつもりになって気分が晴れるでしょうと、提案する。

それもいいだろうと、帯を締め込みに、蚊帳を四本柱に見立て、布団を土俵にハッケヨイ。

お妾さんは、裸にだんなのフンドシ一丁だけを腰に巻かれるというあられもない姿にされたが、恥ずかしがっても、自分が言いだしたことだからしかたがない。

だんなが立ち上がると、お妾さんは捕まれば投げられるから、蚊帳の中をぐるぐる逃げ回る。

それをだんなが追いかけて、まるで鬼ごっこ。

とうとう、だんなの上手がマワシに掛かり、エイとばかりに豪快な上手投げ。

弾みは怖いもので、ほうり投げられたお妾さんが、蚊帳にくるまったまま台所へ転がった。

だんな、仁王立ちになって土俵をにらみつけると、蚊帳がなくなったので、蚊の大群がここぞとばかり攻め寄せる。

「ブーン」
「ははあ、勝ったから、数万の蚊がうなってくれた」

底本:三代目柳家小さん

【RIZAP COOK】

うんちく

三語楼が改作 【RIZAP COOK】

原話は文政7年(1824)刊『噺土産』中の「夫婦」。

明治29年(1896)11月、三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)の速記が残り、このオリジナル版は「こり相撲」「妾の相撲」「蚊帳相撲」など、いろいろな別題があります。

大正末に、初代柳家三語楼(山口慶三、1875-1938)が「賽(妻)投げ」として改作しました。

三語楼は、異色のナンセンス落語で売り出した、英語のできる落語家。

三代目古今亭志ん朝(美濃部強次、1938-2001)の本名「強次」の名付け親でもありました。当時、志ん生が三語楼の弟子だったからなのですが、三語楼は「強次」を置き土産にして逝ってしまいました。

三語楼版では、投げるのをお妾さんでなく本妻とし、夫婦げんかで奥方が外へ放り出されると、巡査が通りかかって家に同道。だんなに賭博容疑で署まで来てもらうと言います。

なぜだと聞くと、「今、サイ(賽=妻)を投げたではないか」というダジャレオチ。

まあ、ここまではぎりぎりで普通のお色気噺、寄席で演じられるギリギリの限界は保っていたのですが、後がもういけません……。

弟子の改作 【RIZAP COOK】

三語楼門下で語ん平と言っていた二代目古今亭甚語楼(1903-71)が、戦後、師匠の「妻投げ」をまた改作。さらにきわどくし、お座敷などで演じました。

筋は変わらないものの、たとえば、だんなが細君をフンドシ一丁にする場面で「帯がアソコに食い込んでいるじゃないか」と言ったり、「わき毛が濃いねえ」などとからかった後、取り組んで「ここでおまえの前袋を取る」「私、殿方のように前に袋はございませんから、私がつかみましょう」。「これはいかん、いつもの気分になってきた」「まわし、じゃまですわね。はずしましょうか……」。

ところが、まだこれでは終わりません。改作三度目、とうとうポルノに。作者、演者は不明。

ある男、毎夜毎夜、細君を喜ばそうと苦心中。折も折、悪友から、女の門口を大金玉でピタンピタンたたくと喜ぶと聞き、さっそく夏みかんの特大を買い込む。これが大当たりで、かみさんは連日連夜「死ぬ、死ぬ」と大狂乱。真夜中なので、巡邏中のおまわりがこれを聞きつけ、戸を蹴破って踏み込んでくる。すったもんだでようやく事情をのみこんだおまわり、「あー、以後再びにせ金を使うこと、まかりならん」。

四度目は……、もうありません。

超特急、大相撲史 【RIZAP COOK】

宝暦から明和年間(1751-72)には、相撲の中心は上方から江戸に移り、初めて江戸独自の一枚刷り番付が発行されたのは宝暦7年(1757)でした。

相撲場は、蔵前八幡境内から深川八幡、芝神明社、神田明神、市ヶ谷八幡、芝西久保八幡などを転々とし、天保4年(1833)に本所回向院境内が常打ち場に。

以来、両国国技館開館の明治42年(1909)まで72年間、「回向院の相撲」が江戸の風物詩として定着。

当初は小屋がけで晴天八日間興行だったのが、安永7年(1778)からは十日間になりました。

天明から寛政年間(1789-1801)に入ると東西の大関に谷風、小野川が並立。

雷電為右衛門の出現もあって、史上空前の寛政相撲黄金時代が到来します。

時代が下って、この速記の明治29年(1906)ごろは、明治中期の梅(梅ヶ谷)常陸(常陸山)時代の直前。

当時、初代高砂浦五郎(1838-1900)の相撲組織改革により、明治22年(1889)1月、江戸以来の相撲会所が廃止され、大日本相撲協会(実際は東京のみ)が発足しました。

翌年2月、初めて番付に横綱(初代西ノ海嘉治郎)が表記されるなど、幕末以来、一時すたれていた相撲人気が再び盛り返してきていました。

四本柱が廃止されたのは、はるかのちの先の大戦後、昭和27年(1952)秋場所からです。

【語の読みと注】
贔屓 ひいき
妾宅 しょうたく:愛人の家

【RIZAP COOK】

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おうのまつ【阿武松】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

これは珍しい、相撲取りが主人公の噺です。いやあ、これがまたよく食う。

別題:出世力士

あらすじ

京橋観世新道に住む武隈文右衛門という幕内関取のところに、名主の紹介状を持って入門してきた若者がある。

能登国鳳至(ふげし)郡鵜川村字七海の在で、百姓仁兵衛のせがれ長吉、年は二十五。

なかなか骨格がいいので、小車というしこ名を与えたが、この男、酒も博打も女もやらない堅物なのはいいが、人間離れした大食い。

朝、赤ん坊の頭ほどの握り飯を十七、八個ペロリとやった後、それから本番。

おかみさんが三十八杯まで勘定したが、あとはなにがなんだかわからなくなり、寒けがしてやめたほど。

「こんなやつを飼っていた日には食いつぶされてしまうから追い出しておくれ」
と、おかみさんに迫られ、武隈も
「わりゃあ相撲取りにはなれねえから、あきらめて国に帰れ」
と、一分やって追い出してしまった。

小車、とぼとぼ板橋の先の戸田川の堤までやってくると、面目なくて郷里には帰れないから、この一分で好きな飯を思い切り食った後、明日身を投げて死のうと心決める。

それから板橋平尾宿の橘家善兵衛という旅籠に泊まり、一期の思い出に食うわ食うわ。

おひつを三度取り換え、六升飯を食ってもまだ終わらない。

おもしろい客だというので、主人の善兵衛が応対し、事情を聞いてみるとこれこれこういうわけと知れる。

善兵衛は同情し、
「家は自作農も営んでいるので、どんな不作な年でも二百俵からの米は入るから、おまえさんにこれから月に五斗俵二俵仕送りする」
と約束、ひいきの根津七軒町、錣山(しころやま)喜平次という関取に紹介する。

小車を一目見るなり惚れ込んでうなるばかりの綴山、
「武隈関は考え違いをしている、相撲取りが飯を食わないではどうにもならない、一日一俵ずつでも食わせる」
と善兵衛の仕送りを断り、改めて、自分の前相撲時代の小緑というしこ名を与えた。

奮起した小緑、百日たたないうちに番付を六十枚以上飛び越すスピード出世。

文政五年、蔵前八幡の大相撲で小柳長吉と改め入幕を果たし、その四日目、おマンマの仇、武隈と顔が合う。

その相撲が長州公の目にとまって召し抱えとなり、のちに第六代横綱、阿武松緑之助と出世を遂げるという一席。

底本:六代目三遊亭円生

【RIZAP COOK】

しりたい

阿武松緑之助  【RIZAP COOK】

おうのまつみどりのすけ。寛政3年(1791)-嘉永4年(1851)。第六代横綱。長州藩抱え。実際は武隈部屋。文政5年(1822)10月入幕、同9年(1826)10月大関、同11年(1828)2月横綱免許。天保6年(1835)10月、満44歳で引退。

しこ名の由来は、お抱え先の長州・萩の阿武の松原から。 

板橋宿  【RIZAP COOK】

地名の由来は、石神井川に架かる板橋から。日本橋から二里八丁(11.2km)。

中仙道の親宿(起点)で、四宿(非公認の遊郭。品川、新宿、千住、板橋)の一つ。上宿、中宿、平尾宿(下宿)に分かれていました。宿泊専用の平旅籠以外に、飯盛り女(宿場女郎)を置く飯盛り旅籠があり、そっちの方でもにぎわいました。

縁切り榎で有名です。十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮に目障りとされ、薦巻きにされたといいます。のちの新選組を組織する近藤勇や土方歳三らも中山道を京に向かいました。

戸田川は荒川のこと。隅田川の上流で、板橋宿の外れ、志村の在には戸田の渡し場がありました。

観世新道  【RIZAP COOK】

かんぜじんみち。中央区銀座一丁目。

講談から脚色  【RIZAP COOK】

講釈をもとにできた噺。講談(講釈)には、「谷風情け相撲」など、相撲取りの出世譚は多いのですが、落語化されたものは珍しいです。

大阪の五代目金原亭馬生(おもちゃ屋の馬生)に教わって、六代目三遊亭円生が得意にしていた人情噺。先代三遊亭円楽に継承されました。

「阿武松じゃあるめえし」  【RIZAP COOK】

文政13年(1830)3月、横綱阿武松は、江戸城での将軍家上覧相撲結びの一番でライバルの稲妻雷五郎(1795-1877、第七代横綱)と顔を合わせ、勝ちはしたものの、マッタしたというのが江戸っ子の顰蹙を買い、それ以後、人気はガタ落ちに。

借金を待ってくれというのを「阿武松じゃあるめえし」というのが流行語になったとか。平戸藩主だった松浦静山の『甲子夜話』にある逸話です。

実録の阿武松は、柳橋のこんにゃく屋に奉公しているところをスカウトされたということです。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

はんぶんあか【半分垢】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

お相撲さんが出てくる噺は、けっこう珍しいんですね。

あらすじ】 

巡業から久しぶりに帰ってきた関取。

疲れからぐっすり眠っているところへひいきの客が訪ねてくる。

かみさんに、寝ているなら起こさないでいいと言い、相撲取りは巡業に出ると太るというから、さぞ大きくなったろうと尋ねる。

かみさん、ここぞとばかり、戸口から入れないので格子を外さなければならなかったとホラを吹く。

それを奥で聞いていた関取、客が帰った後、かみさんに
「三島の宿しゅくで茶屋から富士を見て、大きなものだと感心していたら、そこの婆さんが『大きく見えても、あれは半分雪です』と、普通なら日本一の山をお国自慢するところを、逆に謙虚に言った。その奥ゆかしさに、かえって富士が大きく見えた」
と語り、人間は謙虚であれば、他人は実際より自分を大きく見てくれるのだから、自慢はするなと説教した。

そこへまた別のひいきの客が来たので、かみさん、今度は
「関取は細くなって、格子こうし隙間すきまから入れるぐらいです」

関取がびっくりして顔を出すと、客は
「とてもそうは見えない。大きくなった」
「いえ、これで半分は垢です」

【しりたい】 

二つの小ばなしから

富士山を謙遜するくだりが、寛政元年(1789)刊の笑話本『室の梅』中の「駿河客」、「半分は垢です」のオチの部分が元禄14年(1701)刊『百成瓢箪ひゃくなりびょうたん』中の「肥満男」と、以上二つの小ばなしから構成されています。

相撲取りが登場する噺

このほかに、たった3尺2寸(97cm)の鍬潟くわがたが6尺5寸・45貫(197cm、170kg)の雷電為右衛門らいでんためえもんを転がす「鍬潟」、第六代横綱の出世譚しゅっせたん阿武松おうのまつ」、大関にそっくりなばっかりに……の「花筏はないかだ」、バレ噺の「大男の毛」などがあります。

見て楽しむ

この噺にでもわかりますが、昔の相撲は、体の大きいことをことさら気にし、大きいと言われることを極端にいやがる傾向があったようです。一般人との体格差があまりにも激しかったからです。190cmを超える若者や100kgを超える少年は、相撲が弱くても見世物扱いで土俵入りをさせられたり、ただでさえ好奇の目で見られることが多かったからでしょう。

この噺をよく演じた五代目古今亭志ん生の速記でも、「二階の屋根の上に関取の顔があった」、「十枚も布団をたして掛けた」、「顔は四斗樽よんとだる、目はタドン」「道中で牛を二、三頭踏み殺した」と、言いたい放題です。

二階の屋根から顔

身長で歴代第三位(227cm)の記録を持ち、巨人の代名詞としてしばしば引き合いに出される大関、釈迦ヶ嶽雲右衛門しゃかがたけくもえもん(1749-75)の逸話です。



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

おおおとこのけ【大男の毛】落語演目



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

図抜けたお相撲さんが吉原に行ったらどうなる? きてれつなバレ噺です。

【あらすじ】

ヌッと立つと、乳から上は雲に隠れて見えないというくらいの、大男の関取を連れて、ひいきの石町のだんなが吉原へ。

なにしろ、とてつもなく巨大な代物なので、お茶屋は大騒動。

座敷に通して酒を出すのに、普通の杯では飲み込んでしまうというので、酒樽を猪口代わりに、水瓶であおるというすさまじさ。

その関取、これでも
「ワシは酒が弱い」
と言って、こくりこくりと居眠りを始めた。

部屋の中に山ができたようなもので、じゃまでしようがないので、どこかへ片づけてしまえと、襖をぶち抜いて一六五畳敷きの広間をこしらえ、そこに寝かせることにしたが、それがまた一大事。

布団は蔵からあるだけ運んで、座敷中、片っ端から並べ、枕は長持ちを三つ分くくり付けた代用品。

寝間に担ぎ込むのに十人がかりで
「頭はどこだ」
「巽の方角だ」
「磁石を持ってこい」
と大騒ぎ。

掛け蒲団も山のように盛り上げて、まるで熊野浦に鯨が揚がったよう。

ようやく作業が完了したところで、今度は花魁の出番。

年増ではダメだから、せいぜい若いのをというだんなの指示で、年は十七だが、そこはプロ。

泰然自若として、心臓に毛が生えている。

ところが、この大山にはさすがに仰天。

無理もない。関取がいびきをかくごとに、魔術のように火鉢が中空へ。

下りると、また噴き上げられる。

寝返りを打つと家鳴りがして、まるで地震か噴火。

「驚いたねえ。ちょいと、関取の懐はどこだい」
「へえ、向こうが五重の塔になりますから、三の輪見当でしょう」

それでも花魁、関取の腹にヒョイとまたがった。

「おそろしく高いねえ。江戸中が見渡せるよ。わちきの家があそこに見える。おや、段々坂になった。ここは穴蔵かしらん」
「これ、ワシのへその穴をくすぐるな」

そのうちに、段々坂から花魁がすべり落ちて、コロコロ転がる拍子に、薪ざっぽうのようなものにぶつかった。

妙な勘違いをして
「不思議なこと。大男に大きな○○はないというけど、関取、おまはんのは、体に似合わず小粒だねえ」
「ばかァ言え。そりゃ毛だ」

底本:四代目橘家円喬

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

【しりたい】

円喬の艶笑落語

原話は天明6年(1786)刊の絵入笑話本『腹受想』中の「大物」。

この噺のようなバレ噺(艶笑落語)で、実名で速記や上演記録が残ることはまずありません。

今回、あらすじの参考にしたのは明治28年(1895)4月の「百花園」に掲載された、四代目橘家円喬の速記です。

名前入りで、しかも当時の大看板の口演記録が残るのは、きわめて珍しい例です。

艶笑がかっているのは、オチの部分だけで、前半はただ、関取の巨人ぶりの極端な誇張による笑いと、右往左往する宿の連中の滑稽だけです。

これと対照的なのが、「小粒」「鍬潟」といった小物力士の噺です。

どちらも艶笑噺の要素はありません。

この噺の前半と似て、力士の巨体を誇張する噺に「半分垢」があります。

巨人ランキング

相撲取りで歴代随一の巨人は、土俵入り専門の看板力士だった生月鯨太左衛門(1827-50)にとどめをさすでしょう。

記録によると、二十歳で身長233cmといわれます。

一説には243cmあったとも。

それに次ぐのが、大関、釈迦ケ獄雲右衛門(1749-75、227cm)、文政期の看板力士、龍門好五郎(1807-33、226cm)、同じく大空武右衛門(1796-1832、228cm)という面々。

明治以後では、関脇、不動岩三男(1924-64、212cm)が現在に至るまでの記録保持者です。

外国人力士も多くなり、身長、体重の平均値は昔とは比較にならないほどの現在の相撲界でも、210cmを超えるとなると、そうザラには出ないということでしょう。

大男に大きな……というのはまったく当てにならないらしく、相撲界に巨根伝説は数多いのですが、その反対の話はついぞ聞きません。

これは普通人のやっかみ、負け惜しみと思った方がいいでしょう。

【語の読みと注】
猪口 ちょこ
襖 ふすま
巽 たつみ:東南の方角
花魁 おいらん
年増 としま
腹受想 ふくじゅそう
生月鯨太左衛門 いけづきげいたざえもん



  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

はないかだ【花筏】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

相撲を描いた珍しい落語です。しかも、舞台が上総の銚子とは。

別題:提灯屋相撲(上方)

【あらすじ】

提灯屋の七兵衛の家を、知り合いの相撲の親方が訪ねてきた。

聞けば、患っている部屋の看板力士・大関花筏が、明日をも知れない容体だという。

実は親方、銚子で相撲の興行を請け負ったが、向こうは花筏一人が目当てで、顔を見せるだけでも連れていかないわけにいかず、かといって延期もできないしと、頭を抱えていた時思い出したのが提灯屋で、太っていてかっぷくがよく、顔は花筏に瓜二つ。

この際、こいつを替え玉にと、頼みにやって来た次第。

相撲は取らなくてもいいし、手間賃は一日二分出すという。

提灯張りの手間賃の倍だから、七兵衛もその気になった。

その上、のみ放題食い放題、どっかとあぐらをかき、相撲を見ていればいいというのだからおいしい話。

早速、承知して、銚子へ乗り込むことになった。

相撲の盛んな土地で、飛び入りで土地の者も大勢とっかかる中、際立って強いのが、千鳥ケ浜大五郎と名乗る網元のせがれ。

プロを相手に六日間負けなしで、いよいよ明日が千秋楽。

こうなると勧進元が、どうしても大関花筏と取らせろと、きかない。

病人だと断っても「宿で聞いてみたら、酒は一日二升、大飯は食らうし、色艶はいい、あんな病人はない」と言われれば、親方も返す言葉がなく、しぶしぶ承知してしまった。

驚いたのは提灯屋。

あんなものすごいのとやったら、投げ殺される。

約束が違うから帰ると怒るのを、親方がなだめすかす。

当人もよくないので、大酒大飯だけならともかく、宿の女中に夜這いに行ったのを見られてはどうにもならない。

「立ち会いに前へ手をパッと出し、相手の体に触れたと思ったら後ろへひっくり返れ。そうすれば、客も病気のせいだと納得して大関の名に傷もつかず、五体満足で江戸へ帰れる」と親方に言い含められ、七兵衛も泣く泣く承知。

一方、千鳥ケ浜のおやじは、せがれが明日大関と取り組むと知って、愕然。

向こうは今までわざと負けて花を持たせてくれたのがわからないかと、しかる。

明日は千秋楽だから、後は野となれで、腕の一本どころか、投げ殺されかねない。

どうしても取るなら勘当だと、言い渡す。

翌朝、千鳥ケ浜は辞退しようとしたがもう遅く、名前を呼び上げられ、いつの間にか土俵に押し上げられてしまった。

提灯屋、相手を見ると恐いから、目をつぶって仕切っていたが、これでは呼吸が合わず、行司がいつまでたっても「まだまだッ」

しびれを切らして目を開けると、千鳥ケ浜の両目がギラリと光ったから、驚いた。

これは間違いなく命はないと悲しくなり、思わず涙がポロポロ。

脇の下から、冷や汗がたらたらと流れる。

土俵に吸い込まれるように錯覚して、思わず「南無阿弥陀仏」

これを見て驚いたのが千鳥ケ浜で、土俵で念仏とは、さてはオレを投げ殺す気だと、こちらも涙がポロリ、

冷や汗タラリで「南無阿弥陀仏」

両方で泣きながらナムアミダブツ、ナムアミダブツとやっているから、まるでお通夜。

行司、しかたなくいい加減に「ハッケヨイ」と立ち上がらせると、提灯屋は目をつぶって両手を突き出し、「わァッ」と後ろへひっくり返ったが、片方は恐怖のあまり立ち遅れて、目と鼻の間に提灯屋の指が入り、先に尻餠。

客が「どうだい。さすがは花筏。あの人の張り手は大したもんだ」

張り(=貼り)手がいいわけで、提灯屋だから。

底本:六代目三遊亭円生

【しりたい】

上方落語を東京に移植

もともと講釈(講談)ダネで、古くからある上方落語「提灯屋相撲」を、三代目三遊亭円馬(橋本卯三郎、1882-1945)が東京に移植したものです。

東京では、昭和20-30年代に八代目三笑亭可楽(麹池元吉、1898-1964)、八代目春風亭柳枝(島田勝巳、1905-59)、五代目三遊亭円楽(吉河寛海、1932-2009)が得意としたほか、現在でも結構高座にかかっています。

三代目桂米朝(中川清、1925-2015)は「花筏」で演じ、場所を播州高砂(兵庫県高砂市)のできごとととしていますが、大阪では古くは、江州長浜(滋賀県長浜市)に設定することが多かったようです。

上方版では、花筏は大阪相撲の大関という設定です。

昭和2年(1927)1月、大日本大角力(相撲)協会が発足するまで、東京のほか大阪、京都にも協会があり、独自に興行して、横綱免許もそれぞれ勝手に出していました。

強さは大阪は東京の敵でなく、京都はさらに落ちました。

大阪横綱で、レベルは東京の小結・関脇クラスだったようです。

提灯屋

江戸時代は、傘屋を兼業している場合がほとんどでした。

番傘と提灯は、製造技術、材料などに共通点が多かったためでしょう。

提灯づくりは、菊座という型に丸く輪にした竹ひごをはめ、その上から和紙を貼っていきます。

提灯の起源は室町時代といわれますが、江戸時代に入ると、ほおずき提灯、馬上提灯、弓張り提灯、ぶら提灯など、用途に応じてさまざまな種類が考案されました。

なお、提灯屋が登場する落語としては、新装開店した提灯屋に、皆であの手この手でタダで紋を描かせるという、そのものずばり「提灯屋」があります。

実在した花筏

江戸のころ、本当に「花筏」という関取が実在したかどうかはかなり怪しいものですが、明治以後、記録に残っているかぎりでは、ただ一人だけ「花筏」も名乗った力士がいます。

昭和41年(1966)春場所に、一場所かぎり西十両十七枚目に顔を出した「花筏健」がその人。

このしこ名は、幕下時分落語好きだった彼が、寄席で聞いたこの「花筏」にあやかって、三度目の改名をしたものです。

落語家に知友が多く、贔屓もされたようですが、不幸にしてケガのため、花を咲かせぬまま廃業しました。

「総理大臣になりたきゃ、落語をお聞きなさい」というのは、九代目桂文治(1892-1978、高安留吉、留さん)の決まり文句でしたが、残念ながら相撲界では「横綱になりたきゃ……」とはいかないようです。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

しろうとずもう【素人相撲】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

東京での草相撲。相撲好きが大集まって自慢話には花が咲くけど……。

勧工場というのは、今のデパートのことですね。

別題:大丸相撲(上方)

あらすじ

明治の初め、東京でも素人相撲がはやったことがある。

その頃の話。

ある男が相撲に出てみないかと勧められて、オレは大関だと豪語している。

こういうのに強い奴はいたためしがなく、この間、若い衆とけんかをしてぶん投げたと言うから
「病人じゃなかったのか」
「ばかにするねえ」
「血気の若えもんだ」
「いくつくらいの?」
「七つが頭ぐれえで」

こういう手合いばかりだから、いざ本番で少しでも大きくて強そうな奴が相手だと、尻込みして逃げてしまう。

「向こうはばかに大きいからイヤだ」
「本場所は小さい者が大きい者と取るじゃねえか」
「おやじの遺言で、けがするのは親不孝だから、大きい奴と取ったら草葉の陰から勘当だと言われてる」
「てめえのおやじはあそこで見てるじゃねえか」
「なに、ゆくゆくは死ぬからそのつもりだ」

与太郎も土俵に上がれとけしかけられるが、
「おばさんから、相撲を取ってけがしたら小遣いをあげないと言われてるんで、いいか悪いか横浜まで電報を打って」
とひどいもの。

そこに、やけに小さいのが来て、
「私が取る」
と言うので
「おい、子供はだめだ」
「あたしは二十三です」

どうしても、と言うから、しかたなくマワシを付けさせて土俵に上げると、その男、大男の前袋にぶら下がったりしてチョロチョロ動いて翻弄し、引き落としで転がしてしまう。

「それ見ろ。小さいのが勝った。煙草入れをやれ、紙入れも投げろ。羽織も放っちまえ」
「おい、人のを放っちゃいけねえ。てめえのをやれ」
「しみったれめ」
「おまえがしみったれだ、しかし強いねえ。あれは誰が知っているかい?」
「あれは勧工場かんこうばの商人だ」
「道理で負けないわけだ」

ライザップなら2ヵ月で理想のカラダへ

うんちく

お江戸の素人相撲 【RIZAP COOK】

辻相撲、草相撲とも呼ばれる素人相撲。

地方では、草相撲の盛んな地域はよくありますが、江戸では、相撲は見るもので、本来はするものではありませんでした。

それでも、祭りの奉納相撲としては、地域によって行われたようです。

三田村鳶魚の『江戸年中行事』には、「貞享度(1684-88)において、七月十五日の浅草蔵祭、同十六日の雑司ヶ谷の法明寺、享保度(1716-36)には五月五日の大鳥大明神祭」など、主に郊外を中心に行われたとあります。

ただし、「これらが草相撲なのか否かはにわかに断ぜられない」とのこと。

円喬は速記のマクラで、素人相撲を次のように、流行の一つとして説明しています。

「……よくこの、はやりすたりと申します。しかし此のはやりものも、あんまりパッとはやりますものは、すたるところへ行くとたいそう早いもので」

それに続き、茶番狂言、女義太夫、寄席くじなど、一時的に流行してすたれた物を列挙しています。

いずれ素人相撲も、明治30年代かぎりで、あまり長続きしなかったと見えます。

『武江年表』に、幕末の文久3年(1863)、下谷常在寺や本郷真光寺その他の境内で、子供相撲が盛んに催されたという記事があります。

この連中が壮年になるのが、明治20-30年代。昔取った杵柄か、と思えないでもありません。

類話「大安売り」 【RIZAP COOK】

よく似た噺に「大安売り」があります。

こちらは反対に、コロコロよく負ける力士が出て、それが安売り店の主人。

「なるほど、道理でよくまける」と、オチが反対になります。

東京では、相撲取り出身という異色の経歴と巨体が売り物の、三遊亭歌武蔵の持ちネタとして知られます。

大阪では、先代桂文枝が高座にかけていました。

「素人相撲」(大丸相撲)の方は、今はあまり演じ手がないようです。

原話について 【RIZAP COOK】

原話は二種類あり、古い方が、正徳6年(=享保元、1716)に京都で刊行の『軽口福蔵主』巻一中の「現金掛値なし」、次に、安永年(1778)江戸板の『落話花之家抄』中の「角力」です。

後者はオチもそっくりで、完全な原型とみられます。

志ん生も演じた噺 【RIZAP COOK】

戦後では、終生、四代目橘家円喬に私淑していた五代目古今亭志ん生が、独自のオチを工夫して、たまに演じていました。

志ん生のは、「よく押しがきくねえ」「きくわけだ。漬け物屋のセガレだから」というものでした。

オリジナルは上方落語 【RIZAP COOK】

明治30年代に、四代目橘家円喬が上方落語「大丸相撲」を東京に移したらしく、明治34年(1901)7月の『文藝倶楽部』に、同人の速記が載っています。

上方の方は、背景が村相撲で、商人風の男が飛び入りしてどんどん勝ち抜いていくので、「強いやっちゃなあ。どこの誰や?」「大丸呉服店の手代や}「道理でまけん」というオチです。

大阪では、大丸は掛け値しないことで有名だったので、こういうオチになったのを、円喬はそれを、明治の東京新風俗の「勧工場」に模したわけです。

勧工場の没落 【RIZAP COOK】

その後、商品の質が落ちたことで評判も落ち、明治40年代になると、新興の三越、高島屋、白木屋ほかの百貨店に客を奪われて衰退。

大正に入ると、ほとんどが姿を消しました。

勧工場の特徴は掛け値せず定価で売ったことで、これは当時としては新鮮でした。この噺のオチ「まけない」は、そこから来ています。

現在、新橋橋詰にある「博品館」の前身は勧工場で、場所もこの位置です。

勧工場 【RIZAP COOK】

家庭用品、文房具、衣類などをそろえた、今でいうデパートやスーパーのはしりです。

明治10年(1877)に開かれた、第一回内国勧業博覧会の残品を売りさばくために設けられたものです。

大阪では「勧商場かんしょうば」と呼びました。

明治11年(1878)1月創設の、東京府立第一勧工場を手始めに、明治25年ごろまでに、京橋、銀座、神田神保町、日本橋、上野広小路など、東京中の盛り場に雨後の筍のように建てられました。

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席