かわりめ【かわり目】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席

【どんな?】

おかしさの中にも妻への思い。悪くはありませんねえ。志ん生が人情噺に改作。

別題:元帳 鬼のうどん屋(上方) 銚子の代わり目(上方)

【あらすじ】

ぐでんぐでんに酔っぱらって、夜中に帰ってきた亭主。

途中で車屋をからかい、家の門口で梶棒を上げさせたと思ったら、もう下りた。

出てきた女房はハラハラし、車屋に謝って帰ってもらうと、ご近所迷惑だからいいかげんにしとくれと文句を言う。

亭主、聞かばこそ、てめえは口の聞きようが悪い、寝酒を出さないから声が大きくなると、からむ。

しかたなく酒を注ぐと、今度は何かサカナを出せと、しつこい。

「なにもありません」
「コウコがあったろう」
「いただきました」
「佃煮」
「いただきました」
「納豆」
「いただきました」
「干物」
「いただきました」
「じゃあ……」
「いただきました」

うるさくてしかたがないので、夜明かしのおでん屋で何か見つくろってくるからと、女房は出かける。

その間に、ちょうどうどん屋の屋台が通ったから、酔っぱらいのかっこうの餌食に。

ずうずうしく燗を付けさせた挙げ句、てめえは物騒ヅラだ、夜遅くまで火を担いで歩きやがって、このへんにちょくちょくボヤがあるのはてめえの仕業だろうと、からむので、うどん屋はあきれて帰ってしまう。

その次は、新内流し。

むりやり都々逸を弾かせ、どうせ近所にびた一文借りがあるわけじゃねえと、夜更けにいい気になって
「恋にこがれーてー、鳴く蝉よりもォ……」
と、うなっているところへ女房が帰ってくる。

ようすを聞いてかみさん、顔から火が出た。

外聞が悪いので、うどん屋の荷を見つけると、
「もし、うどん屋さーん」
「……おい、あそこの家で、おかみさんが呼んでるよ」
「へえ、どの家で」
「あの、明かりがついてる家だ」
「あっ、あすこへは行かれません」
「なぜ」
「今ごろ、お銚子の代わり目時分ですから」

底本:初代柳家つばめ、五代目古今亭志ん生ほか

【しりたい】

原話は薬売りが受難

文化9年(1812)、江戸で刊行された笑話本『福三笑』中の小ばなし「枇杷葉湯びわようとう」が原話です。

これは、酔った亭主が枇杷葉湯(=暑気払いに効く甘い煎じ薬)売りに無理やり燗をつけさせるくだりが、現行の落語の後半に一致し、オチも同じです。

落語としては、上方で「銚子の代わり目」または「鬼のうどん屋」としてよく演じられたため、夜泣きうどん屋の登場するくだりは、当然その間に付け加えられたものでしょう。

枇杷葉湯

この噺の原話名は「枇杷葉湯」でした。

これは江戸期の一般的な薬名として知られています。

枇杷の葉、肉桂、甘茶などを細かく切ってまぜあわせたものを煎じた汁で、暑気払いや急性の下痢などに効果があったそうです。

初めは京都烏丸で売り出されたのですが、江戸に下ってからは、宣伝用に道端などで行き交う人々に無料でふるまっていたそうです。

そこで、多情、多淫を意味する隠語となりました。

この言葉が出てくると意味深長となり、要注意です。

志ん生が人情噺に「改作」

東京では大正期に四代目三升家勝次郎(本多吉之助、1868-1923)が、音曲噺として新内、都々逸をまじえて演じていました。

昭和に入って、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が十八番にしました。

志ん生は後半(うどん屋にからむ部分)をカットし、かみさんを買い物にやった亭主が、「なんだかんだっつっても、女房なりゃこそオレの用をしてくれるんだよ。ウン。あれだって女は悪かねえからね……近所の人が『お前さんとこのおかみさんは美人ですよ』って……オレもそうだと思うよ。『出てけ、お多福っ』なんてってるけど、陰じゃあすまない、すいませんってわびてるぐれえだからな本当に……お、まだ行かねえのかおう……立って聞いてやがる。さあ大変だ。元を見られちゃった」と、ほほえましい夫婦の機微を見せて結んでいました。

年輪がいる噺

この志ん生のやり方は、自ら「元帳」と改題したことからもうかがわれるように、優れた工夫でしたが、晩年はオチの「元を見られた」さえも省略していました。

今ではこのやり方がスタンダードになっています。うどん屋の部分がカットされるだけに、笑いは薄くなりますが、一種の人情味のある噺として定着し、独特の味わいを持つにいたっています。

これも志ん生なればこそで、凡百の演者ではクサくなったり、わざとらしくなったりするのは、もう聴いちゃいられません。

こうしたやり方は、若い噺家ではとうてい無理でしょう。

芸はもちろん、実生活の年輪を経てコケが生えたような年齢になってようやく、さまになってくるものなのではないでしょうか。

志ん生、映画で一席

志ん生ファンにはよく知られていますが、映画『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)で、引退した噺家・桜亭新笑に扮した五代目志ん生(当時59歳)が、ラストで甥夫婦(灰田勝彦・高峰秀子)の新婚の前途を祝うため、「かわり目」を演じてみせます。

ちょうどかみさんを追い出すくだりで、汽車の時間があるから早く立て、と目と仕種で二人を促し、客だけになったあと、いい間で亭主の独白に入るあたりは、後年の志ん生のイメージとはまた違った、たたき上げた正統派の芸を感じさせました。

志ん生は、その後も、4作品に特別出演しています。都合5作品ということになります。

●志ん生出演の映画作品一覧

『銀座カンカン娘』(新東宝、昭和24)
『ひばりの子守唄』(大映、昭和26)
『息子の花嫁』(東宝、昭和27)
『クイズ狂時代』(東映、昭和27)
『大日本スリ集団』(東宝、昭和44)

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ろくしゃくぼう【六尺棒】落語演目



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【どんな?】

ほとんど二人だけ。

おやじと息子のやりとりのみで展開する対話噺です。

【あらすじ】


道楽息子の孝太郎が吉原からご帰還。

店が閉め切ってあるので、戸口をどんどんたたく。

番頭と思いのほか、中からうるさいおやじの声。

「ええ、夜半おそくどなたですな。お買い物なら明朝願いましょう。はい、毎度あり」
「いえ、買い物じゃないんですよ……。あなたのせがれの孝太郎で」

さすがにまずいと思っても、もう手遅れ。

「……ああ、孝太郎のお友達ですか。手前どもにも孝太郎という一人のせがれがおりますが、こいつがやくざ野郎で、夜遊びに火遊び。あんな者を家に置いとくってえと、しまいにゃ、この身上をめちゃめちゃにします。世間へ済みませんから、親類協議の上、あれは勘当しましたと、どうか孝太郎に会いましたなら、そうお伝えを願います」

あしたっからもう家にいます、と謝ろうが、跡取りを勘当しちまって家はどうなる、と脅そうが、いっこうに効き目なし。

自殺すると最後の奥の手を出しても……。

「止めんなら、今のうちですよ……ううう、止めないんですか。じゃあ、もう死ぬのはやめます」
「ざまァ見やがれ……と言っていた、とお伝えを願います」

孝太郎、とうとう開き直って、できが悪いのは製造元が悪いので、悪ければ捨てるというのは身勝手だと抗議するが……。

「やかましい。他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、よそさまのせがれさんは、おやじの身になって『肩をたたきましょう』『腰をさすりましょう』、おやじが風邪をひけば『お薬を買ってまいりましょう』と、はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のせがれを見習え」

親父が小言にかかると、孝太郎、
「養子をとってまでどうでも勘当すると言うなら、他人に家を取られるのはまっぴらなので、火をつけて燃やしてしまいましょう」
と脅迫する。

言葉だけでは効果がないと、マッチに火をつけてみせたから、戸のすきまからようすをうかがっていたおやじ、さすがにあわてだす。

六尺棒を持って、表に飛び出し
「この野郎、さァ、こんとちくしょう!」

幸太郎、追いかけられて、これではたまらんと逃げだした。

抜け裏に入って、ぐるりと回ると家の前に戻った。

いい具合に、おやじが開けた戸がそのままだったので、これはありがたいと中に入るとピシャッと閉め込み、錠まで下ろしてしまった。

そこへおやじが、腰をさすりながら戻ってくる。

「おい、開けろ」
「ええ、どなたでございましょうか」
「野郎、もう入ってやがる。おまえのおやじの孝右衛門だ」
「ああ、孝右衛門のお友達ですか。手前どもにも孝右衛門という一人のおやじがありますが、あれがまあ、朝から晩まで働いて、ああいうのをうっちゃっとくってえと、しまいにゃ、いくら金を残すかしれませんから、親類協議の上、あれは勘当いたしました」

立場がまるっきり逆転。

「やかましい、他人事に言って聞かせりゃいい気になりやがって、世間のおやじは、せがれさんが風邪でもひいたってえと『一杯のんだらどうだ。小遣いをやるから、女のとこへ遊びにでも行け』。はたで見ていても涙が出らァ。少しは世間のおやじを見習え」

それを聞いて、おやじ、
「なにを言いやがんでェ。そんなに俺のまねをしたかったら、六尺棒を持って追いかけてこい」

底本:初代三遊亭遊三

【しりたい】

三遊亭遊三

文化4年(1807)の口演記録が残る、古い噺です。

明治末期には、御家人上がりで元彰義隊士という異色の落語家、初代三遊亭遊三(小島長重、1839-1914)が得意にしていました。

とはいえ、この遊三はヘナヘナ侍の典型で、幕府賄方役人でありながら、のむ打つ買うの三道楽だけが一人前。

お城勤めよりも、寄席で一席うかがうのがむしろ本業で、彰義隊に駆り出されて立てこもった上野の山からも、さっさと逃走。

維新後、裁判官になりましたが、被告の女に色目を使われてフラフラ。

カラスをサギ、有罪を無理やり無罪にして、あっさりクビに。

これでせいせいしたと喜んで落語家に「戻った」という、あっぱれな御仁です。

十朱幸代さん(俳優)の曽祖父にあたる人です。十朱久雄(俳優)の祖父ですね。あたりまえですが。

遊三から志ん生へ

遊三は、美濃部戌行と初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、自称三代目)と三人、御家人仲間で、若き日の遊び友達だったそうです。

美濃部戌行は五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)の父親、初代円遊は明治の爆笑王です。

その関係からか、遊三は孝蔵少年(志ん生)をかわいがりました。

志ん生は「火焔太鼓」「疝気の虫」「六尺棒」などを遊三から会得しています。

遊三の明治41年(1908)の速記を見ると、このおやじ、ガンコを装っていても、一皮むけば実に大甘で、セガレになめられっ放し、ということがよくわかります。

本当に勘当する気などさらさらなく、むしろ心配で心配でならないのです。

志ん生の方は、遊三のギャグなどは十分残しながら、親子して「勘当ごっこ」で遊びたわむれてるような爆笑編に仕上げています。

なかでも、おやじがいちいち、返事に「明日ッから明日ッからてえのは、もう聞き飽きた……とお言伝てを願います」「どうしようと大きなお世話だ……とお言伝てを願います」というぐあいに、いちいち「お言伝て」をつけるところは抱腹絶倒です。

十代のころ、巡査だったおやじの金キセルを勝手に質入れしてしまい、おやじに槍で追いかけられそれっきり家に帰らなかった、というほろ苦い思い出が、この噺には生きているのでしょう。

六尺棒

樫材などで作る、泥棒退治用の棍棒です。

警察署の前には門番みたいに屈強な巡査が六尺棒を持って立っていますね。アレです。

六尺(約180cm)ですから、人の身長ほどの長さでしょうか。

これを使った棒術や杖術といった武芸もあるようですから、武器になる代物です。

志ん生のおやじは、維新後は「棒」と呼ばれた草創期の巡査で、巡邏(巡回)のときは、いつも長い木の棒を持ち歩いていたとか。

高座でこの噺を演じながら、志ん生は、遊三と同年の大正3年(1914)に亡くなった、遠い日の父親を思い出していたのかもしれません。

数少ない「対話劇」

落語は、講談と違って、複数の登場人物の会話を中心に進めていく芸です。

例外的に「地ばなし」といって、説明が中心になるものもありますが、大半は演者は「ワキ」でしかありません。

「六尺棒」は、その中でも登場人物が二人しかいない、おやじと息子のやりとりのみで展開する「対話劇」とでもいえるものです。

「対話劇」などと言っても、どだい、落語という話芸は対話が中心となるわけで、とりわけこの噺に対話の特徴が強い、という程度の話です。

それだけに、イキ、テンポ、間の取り方が命で、芸の巧拙が、これほどはっきりわかる噺はないかもしれません。

この種のものは、落語にはそう多くありません。

隠居と八五郎しか登場しない「浮世根問」はじめ、「穴子でからぬけ」「今戸焼」「犬の目」なども登場人物二人の噺ですが、どちらかというと小咄程度の軽い噺ばかりです。

「六尺棒」のように本格的な劇的構成を持ち、背景としての人物も登場しない噺はかなりまれです。



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