【馬の田楽】うまのでんがく 落語 あらすじ

民話が元。のんびりしたとりとめもない噺です。

明治のある年の春。

馬方が峠を二つ越し、たいへんな思いで、味噌樽を運んできた。

届け先の三州屋に着いた。

馬方は、馬の手綱を松の木に縛った。

近くでメンコして遊んでいたガキ二人に、馬に悪さしないように言い置いて、店に入っていった。

「こんちはー」

店は開けっ放しだ。

馬は鼻の穴を膨らまして、足を踏みならし、長い面をふくれっ面している。中から見える。

「こら、前掻き(前肢を地面に叩きつけるように掻くしぐさ)するでねえって」

馬は甘えているのだ。

馬方はそんな馬を見たくないからと、障子を閉めてしまった。外が見えない。

「だれか、いねーかー。おんじい」

いくら呼んでも、店主は出てこない。

「はあー、くたびれたねー」

馬方は、峠越えもあってか、うっかりしていたら眠ってしまった。

時計の長い針が一周。小一時間たっちまった。

目の前には、店のおんじいがいるではないか。

「あれまッ」

おんじいは、裏の畑で大根の種まきしていたが、種は黒いし土は黒いし、途中でやめるわけにはいかないので、馬方が北から、店番を頼んだつもりで安心して、種まいて、いま戻ったのだ、という。

「味噌は先月取ったばっかりだから、間違うだんべ」
「そんなことはねえ。請け判の判取り帳に、ちゃんと書いてある」
「ああ、これはぁ、うら町の三河屋だな。あそこは丸に三だから。うちは四角に三だから違うべ。あすこの番頭がいけねえ、話しながら書くから、縦棒の後が丸くなっちまうんだ」
「ありゃま、本当だ。丸三だ。すぐに三河屋に行かねば」
「まあまあ、お茶でも飲んでいきなせえ」、三河屋に行ってくるべよ。帰り道に寄るべ」

出てみると馬がいない。

「はばかりにでも行ってるかな」
「ばかこけ。馬がはばかりに行くか」
「味噌樽二丁も積んで、駆け出したら背骨痛めちまう。早く見つけて、荷物下ろしてやれ」

そこで遊んでいる子供に聞いた。

「かろやんがいけねえんだ。『馬の股ぐらくぐらないか』と言うから、『こわいからいやだと言ったら』、向こう側にくぐって『来れねえだろ』と言うので、目をつぶってくぐった。向こうに行ったり、こっちに来たりしていたら、鬼ごっこになった」
「そんなところで鬼ごっこするでねえ」
「かろやんは、うまく向こう側にくぐり抜けた。馬の使わねえ足が、真ん中にあるだんべ。その足は上がったり下がったりしていてな、上がったときにくぐれと言ったが、下がったときに顔を殴られたんだ。怒ったが、通れねえところをくぐったんだから、しょうがねえと。しっぽの毛を抜くことにしたんだ。おらもほしいので抜いてもらったが、おとなしかった。馬方さんに見つかると怒られっから、たくさん抜いて逃げっぺと、かろやんがいっぺんに抜いたら、馬が駆け出していっちまった」
「そんな悪さをするんでねえ。で、どっちに行った」
「おらぁ、目をつぶっていたからわからねえ」

早く見つけなければと、探しに行った。

土手の上に人が居るので聞いてみた。

「朝の四時から草むしりをしていたが。作男の倍やったので明日の釣りの準備をと、天気を見にここに来たが、最近の天気は良く当たる。新聞の天気だけれども、一日遅れで届くので予報にならない。自分で判断するより無いので、今土手に上がってそれを見ていたら、お前さんが『馬を見なかったか』というが、おら今来たばっかりだから分かんない」
「わからないならわからないと言えばよいのに。馬は遠くまで行ってしまっただろうな」。

立場(宿場と宿場の間)の茶屋の婆さんに聞けばわかるだろうと思って聞いたが、耳が遠いので要領をえない。

「おらんとこの馬ぁ知らねえか」
「ウマいものと言っても、何もねえな。トコロテンは売り切れてしまったし、芋なら有るから串に刺して味噌でも付けるかぁ」
「芋の田楽の話じゃねえ。おらんとこの馬だよ、馬ッ」
「そうかぁ。からだも丈夫で、耳もよく聞こえる」

酔っ払った寅十がやってきた。

「われ、馬ぁ知っているか」
「ん、おめえ知らねえのか。馬ってのはなあ、四つの足で、顔が長えけだものでよ、ヒヒヒ~ンと鳴くんだ」
「おらんとこの馬だッ」
「おめえんとこの馬だって、変わりなかんべさ。丸にイの字の腹掛けして、峠を越えている」
「馬の形を聞いてんんじゃねぇ。背中に味噌ぉ付けた馬を知らねえか、と聞いてんだッ」
「味噌つけた馬だってぇ、ハハハハ、おらぁ、この歳になるまで、馬の田楽は食ったこたぁねえ」

出典:十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)

国内に散見する民話が元ネタで、上方で醸成された噺です。明治期に東京に移ってきました。

持ってきたのは、おそらく三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)だったのかもしれません。

それで、この噺は柳家の系統で主にやってます。

五代目柳家小さん(小林盛夫、1915.1.2-2002.5.16)、十代目柳家小三治(郡山剛蔵、1939.12.17-2021.10.7)、七代目立川談志(松岡克由、1935-2011)など。

柳亭の現役では、柳亭市馬柳家さん喬など。柳家以外では、桂文生桂文治桃月庵白酒など。

辞書的には、3つの意味があります。

① 田植えで田の神をまつるために歌い舞った芸能。田楽能。

② 田楽焼きの略。ナス、サトイモ、魚などを串に刺し、味噌を塗って焼いた料理。

③ 田楽豆腐の略。豆腐を串に刺し、練り味噌を塗って焼いた料理。

②と③は出元は同じです。ここでは、とうぜん、②か③ですね。酒飲みが好む料理です。

おでんは女房言葉で、明治期に上方ではやった、煮込み田楽豆腐のことでした。東京では、関東煮とか関東炊きとか言ってました。

京都や大阪に「蛸〇〇」という名称のおでん専門店がよくあります。

これは、日露戦争前後、関東炊き(おでんのこと)に蛸を入れたものが東京から入ってきて、人気となったからだそうです。

東京では、関東大震災(1923年)を機に、親切めかした関西料理店の東京進出により、関東炊き(関東煮)がおでんに取って変わられました。

東京の日本料理がほとんどが関西料理となってしまった、始まりです。

平安期の田楽能では、白装束の男が一本の竿に乗っかって飛び跳ねる芸を見せていたため。

その形状と色合いが、田楽焼きや田楽豆腐に似ていたことから由来する、とされています。

そうは言っても、田楽能の絵巻などで高竿に乗っかった白装束の僧侶といった光景は見ません。

近世になってからの、つまり、田楽能が完全に芸能化したところでのものかもしれません。

下の画像は、静岡県浜松市天竜区水窪みさくぼ地区に1300年にわたって伝わる、西浦にしうれ田楽での高足たかあしです。

この高足が、串に身を刺して味噌を塗った形状に似ていたため、田楽豆腐や田楽焼きと呼ばれるようになったそうです。

西浦田楽より借用

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