【蔦屋重三郎】つたやじゅうざぶろう 知る 落語 あらすじ
お江戸をプロデュース!
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彼は何者か?
蔦屋重三郎は、江戸の出版人として天明期の文化史に大きな足跡を残した人物です。
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何を残した?
①洒落本、黄表紙、浮世絵などを出版
吉原細見(ガイド)、狂歌集、洒落本、黄表紙、浮世絵などの、やわらかめの本(草双紙)を企画し出版して、店頭で売りました。
具体的には。
四方赤良らの狂歌集、朋誠堂喜三二、山東京伝らの洒落本、恋川春町らの黄表紙、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの浮世絵。
これらを世に送り出しました。
これらの出版物(地本=草双紙)は、当時のお江戸の人々に大きな影響を与え、天明年間の文化に貢献しました。
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②新しい才能の発掘
蔦屋重三郎は、平賀源内や太田南畝との人脈交流をうまく使って、才能ある若い作家や絵師を積極的に発掘しました。
彼らが自由に活躍できる場(出版)を提供したのでした。
日本橋通油町の蔦屋耕書堂では、曲亭馬琴や十返舎一九が働いていました。
さまざまな面から、若い才能を囲い込んでいたのです。
喜多川歌麿や東洲斎写楽に、前例のない絵を描かせたのは、もう一方の好例です。
彼らが生み出した作品は、今もなお高い評価を受けています。
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③お江戸の文化を牽引
蔦屋重三郎は単なる出版人にとどまらず、百万都市お江戸の文化を牽引する存在でもありました。
天明のプロデューサーといえます。
彼の活動は、当時の庶民の生活に彩りを与え、多様な江戸文化のポテンシャルをめいっぱい引き出しました。
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④現代の出版業界への影響
蔦屋重三郎の動向は、現代の出版業界にも大きな影響を与えています。
彼は、読者のニーズを的確に捉え、ヒット商品を生み出すことに長けていました。
人はなにを欲しているのか。
この目は、現代の出版業界においても求められる重要なスキルです。
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⑤文化の爛熟を推進
蔦屋重三郎は、18世紀後半の江戸文化の爛熟を推進した人物です。
彼の足跡は、当時の社会風俗や人々の考え方を知る上で貴重な資料となっています。
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⑥TSUTAYAの由来
現代の「TSUTAYA」の名称は、蔦屋重三郎の屋号に由来しています。
彼の名前は、現代においても広く知られており、その業績は後世に語り継がれています。
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田沼時代(1767-86) 積極財政=いいよ! ※高市的=財務省いやがる
定信時代(1787-93) 緊縮財政=だめよ! ※石破的=財務省よろこぶ
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江戸時代の書店には大きく2系統がありました。
書物問屋 仏典・漢籍・史書など ⇒インテリ本
地本問屋 草双紙・浮世絵・狂歌集など ⇒大衆本
江戸時代の書店業界には小売り業というものがまだありません。そこで、書物問屋と地本問屋が卸売りと小売りを兼ねていました。書物問屋と地本問屋を兼ねる店もありました。
須原屋茂兵衛 千鐘房(堂) 書物問屋 日本橋通一丁目西側
鱗形屋孫兵衛 鶴林堂 地本問屋 大伝馬町三丁目→田所町
鶴屋喜右衛門 仙鶴堂・丹頂堂 書物問屋兼地本問屋 大伝馬町三丁目→日本橋通油町
西村屋与八 永寿堂 書物問屋兼地本問屋 馬喰町二丁目
蔦屋重三郎 耕書堂 地本問屋 吉原大門→日本橋通油町
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■蔦屋重三郎の年譜
年(西暦) | 蔦屋重三郎自身 | 関連 |
寛延2年(1749) | 太田南畝生まれる | |
寛延3年(1750) | 蔦屋重三郎生まれる | |
宝暦3年(1753) | 喜多川歌麿生まれる | |
宝暦6年(1756) | 母が家を出る | |
宝暦7年(1757) | 喜多川家の養子になる | |
宝暦10年(1760) | 葛飾北斎生まれる。徳川家治が十代将軍に | |
宝暦11年(1761) | 山東京伝生まれる | |
明和2年(1765) | 錦絵が開発される | |
明和7年(1770) | 北川勇助(歌麿)、鳥山石燕の弟子として石要を名乗る→北川豊章 | |
明和8年(1771) | 3月4日、千住で女囚解剖。5日、杉田玄白らが『ターヘルアナトミア』の翻訳始める。10月17日、長谷川平蔵が火盗改方に。笠森稲荷の茶屋鍵屋のおせんが人気。生け花の諸流が江戸に下る。浅草田甫で酉の市(酉のまち)が人気。川柳で「江戸っ子のわらんじをはくらんがしさ」 ※江戸っ子初登場 | |
安永元年(1772) | 吉原大門五十間道に地本問屋を開く。洒落本『当世風俗通』(朋誠堂喜三二) | 1月15日、田沼意次が側用人と老中を兼任。2月29日、明和の大火(目黒行人坂火事→熊谷無宿の真秀の放火)。本郷丸山菊坂でも出火 |
安永2年(1773) | 川柳、洒落本、黄表紙が絶頂 | |
安永3年(1774) | 鱗形屋が刊行する吉原細見本の改版『細見嗚呼御江戸』(序文は平賀源内)の編集にかかわる。蔦屋の名義で見立て評判記『一目千本』 | 鱗形屋の手代徳兵衛が重板が発覚して江戸から追放。鱗形屋が吉原細見を刊行できず。『解体新書』(須原屋市兵衛)刊 |
安永4年(1775) | 『青楼花色寄』。蔦屋名義で初の吉原細見『籬の花』 | 正月に鱗形屋が黄表紙『金々先生栄華夢』(恋川春町・絵と文)刊。京伝、北尾重政に浮世絵を学ぶ(画剛・北尾政演)。吉原の祭「俄」が再開 |
安永5年(1776) | 多色摺絵本『青楼美人合姿鏡』 | 平賀源内、エレキテル(静電気発生器)を修理・復元 |
安永6年(1777) | 『明月余情』。『手毎の清水』。洒落本『娼妃地理記』。富本節の正本・稽古本 | 恋川春町作品(鱗形屋)がはやる |
安永8年(1779) | 洒落本、黄表紙がはやる。11月20日、平賀源内が門人の米屋久五郎を殺害、逮捕される。12月18日、平賀源内が獄中で病死(52) | |
安永9年(1780) | 朋誠堂気喜三二の黄表紙を刊行。黄表紙『虚言八百万八伝』(四方屋本太郎=四方赤良、鳥居清経絵)。往来物(教科書)も扱う | |
安永10年/天明元年(1781) | 蔦重、南畝宅を訪問。黄表紙『身貌大通神縁起』(志水燕十、喜多川歌麿絵) | |
天明2年(1782) | 京伝、蔦屋方で南畝、恋川春町、唐来参和らと吉原で遊ぶ。この年から山東京伝と称する | |
天明3年(1783) | 33歳。吉原細見の独占出版の権利獲得。日本橋通油町に移り耕書堂を開店。『燈籠番付』 | 浅間山が大噴火。天明の大飢饉。死者数万人 |
天明4年(1784) | 『吉原傾城新美人合自筆鏡』(北尾政演=山東京伝絵)。『通詩選』(四方赤良選) | 田沼意知、佐野政言に殺される |
天明5年(1785) | 黄表紙『江戸生艶気蒲焼』(山東京伝)。洒落本『息子部屋』(山東京伝)。『故混百鬼夜狂』。『夷歌連中双六』 | |
天明6年(1786) | 洒落本『客衆肝照子』(山東京伝)。狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛編、北尾政演絵)。『絵本江戸爵』(喜多川歌麿絵) | 田沼意次、失脚 |
天明7年(1787) | 洒落本『通言総籬』(山東京伝)。絵入狂歌本『絵本詞の花』(喜多川歌麿絵)。狂歌集『狂歌才蔵集』(四方赤良編)。『古今狂歌袋』(宿屋飯盛編、北尾政演絵) | 徳川家斉が十一代将軍に。松平定信が老中筆頭、寛政の改革はじまる |
天明8年(1788) | 洒落本『傾城觿』(山東京伝)。絵入狂歌本『画本虫撰』(喜多川歌麿絵)。春画『歌まくら』(喜多川歌麿) | 朋誠堂喜三二が寛政の改革を風刺した黄表紙『文武二道万石通』で秋田藩より止筆を命じられる。田沼意次死去 |
寛政元年(1789) | 『潮干のつと』(喜多川歌麿絵)。京伝、黄表紙『黒白水鏡』(北尾政演絵)で罰金刑を科される。恋川春町が黄表紙『鸚鵡返文武二道』(蔦屋)で松平定信に召喚、3月14日、春町は応じず自死 ※『鸚鵡返』は絶版に | 奢侈禁止令。棄捐令 |
寛政2年(1790) | 意匠図案のパロディー『小紋雅話』(山東京伝)。洒落本『傾城買四十八手』(文も絵も山東京伝) ※『四十八手』は京伝の最高傑作 | 寛政異学の禁。曲亭馬琴が山東京伝に弟子入り。洒落本の刊行禁止。出版統制令 |
寛政3年(1791) | 黄表紙『箱入娘面屋人魚』(山東京伝)を蔦屋の口上を添えて刊行。洒落本『娼妓絹籭』(山東京伝)『仕懸文庫』(山東京伝)『青楼昼之世界錦之裏』(山東京伝)が摘発される。蔦重は身上半減、京伝は手鎖五十日の刑。京伝、洒落本の筆を折る | |
寛政4年(1792) | 曲亭馬琴が蔦重方の番頭に | |
寛政5年(1793) | 『婦女人相十品』『婦人相学十躰』(ともに喜多川歌麿)など美人大首絵を出す | 松平定信、失脚 |
寛政6年(1794) | 東洲斎写楽が役者絵。十返舎一九が蔦重方に寄宿。黄表紙『心学時計草』 | |
寛政9年(1797) | 蔦屋重三郎亡くなる。脚気で | |
文久元年(1861) | 蔦屋耕書堂が廃業 |
写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」