【三井の大黒】みついのだいこく 落語演目 あらすじ
【どんな?】
名人噺。
能たる鷹は爪を隠す。
ときたまさらす甚五郎の爪。
別題:左小刀 出世大黒 左甚五郎
【あらすじ】
名人の噺。飛騨の名工・左甚五郎の。
伏見に滞在中に、江戸の三井(越後屋)の使いが来て、運慶作の恵比寿と一対にする大黒を彫ってほしいと依頼される。
手付けに三十両もらったので、甚五郎、借金を済ました残りで江戸に出てきた。
関東の大工仕事を研究しようと、日本橋を渡り、藍染川に架かる橋に来かかると、板囲いの普請場(工事現場)で、数人の大工が仕事をしている。
のぞいてみると、あまり仕事がまずいので
「手切り釘こぼし……皆半人前やな。一人前は飯だけやろ」
これを聞きつけて怒ったのが、血の気の多い大工連中、寄ってたかって袋だたき。
棟梁の政五郎が止めに入り、上方の番匠(大工)と聞くと、同業を悪く言ったおまえさんもよくないと、たしなめる。
まだ居場所が定まらないなら、何かの縁だからあっしの家においでなさいと、勧められ、甚五郎、その日から日本橋橘町の政五郎宅に居候。
とにかく口が悪いので、政五郎夫婦は面くらうが、当人は平気な顔。名前を聞かれ、まさか、日本一の名人でございとは名乗れないから、箱根山に名前を置き忘れたとごまかすので、間が抜けた感じから「ぬうぼう」とあだ名で呼ばれることになった。
翌朝、甚五郎はさっそく、昨日の藍染川の仕事場に出向いたが、若い衆、
「名前を忘れるような、あんにゃもんにゃには、下見板を削らしておけ」
ということになった。
これは小僧上がりの仕事なので、大工の作法を知らないと、むっとしたが、棟梁への義理から腹に納め、削り板に板を乗せると、粗鉋で二枚削り。
これを合わせて水に浸け、はがして、またぴたりと合わせると、さっさと帰ってしまう。
後でその板をみると、二枚が吸いつくように離れない。
話を聞いた政五郎、若い者の無作法をしかり、「離れないのは板にムラがないからで、これは相当な名人に違いない」と悟る。
その年の暮れ。
政五郎は居候を呼んで、
「江戸は急ぎ仕事が求められるから、おまえさんの仕事には苦情がくると、打ち明け、上方に帰る前に、歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないか」
と勧めるので、甚五郎、ぽんと手を打ち
「やらしてもらいたい」
それから細工場に二階を借り、備州檜のいいのを選ぶと、さっそくこもって仕事にかかる。
何日かたち、甚五郎が風呂へ行っている間に政五郎が覗くと、二十組ぐらいはできたかと思っていたのが一つもない。
隅を見ると、風呂敷をかけたものがある。
取ると、二尺はある大きな大黒。
これが、陽に当たってぱっちり目を開けた。
そのとき、下から呼ぶ声。
出てみると、駿河町の三井の使い。
手紙で、大黒ができたと知らせを受けたという。
政五郎、やっと腑に落ち、
「なるほど、大智は愚者に似るというが」
と感心しているところへ、当人が帰ってくる。
甚五郎、代金の百両から、お礼にと、政五郎に五十両渡した。
「恵比寿さまになにか歌があったと聞いたが」
「『商いは濡れ手で粟のひとつかみ』というのがございますが」
そこで、さらさらと「守らせたまえ二つ神たち」と書き添えると、いっしょに三井に贈ったという、甚五郎伝の一節。
底本:六代目三遊亭円生
【しりたい】
左甚五郎
甚五郎(1594-1641)は江戸前期の彫刻・建築の名匠です。
異名を左小刀といい、京都の御所大工でしたが、元和6年(1620)、江戸へ出て、将軍家御用の大工として活躍する一方、彫刻家としても、日光東照宮の眠り猫、京都知恩院の鶯張りなど、歴史に残る名作を生み出し、晩年は高松藩の客分となりました。
落語や講談では「飛騨の甚五郎」が通り相場です。
姓の「左」は「飛騨」が正しいとする説もありますが、実際は播磨国・明石の出身ともいわれ、詳しい出自ははっきりしません。
甚五郎という名工は実在したのでしょうが、現在伝わる甚語楼像はスーパーマンで、かなりの潤色ぶりで、伝説化されてしまっています。
実在と伝説は分けてとらえるしかありません。
落語では「竹の水仙」「鼠」に登場するほか、娘が甚五郎作の張形(女性用の淫具)を使ったため「処女懐胎」してしまうバレ噺「甚五郎作」があります。
要するに、江戸時代には、国宝級の名作はすべて「甚五郎作」にされてしまうぐらい、左甚五郎は「名人の代名詞」だったわけです。
三木助最後の高座
講談から落語化されたものです。
戦後では六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79、柏木の)と三代目桂三木助(小林七郎、1902-61)が、ともに十八番としました。
とりわけ三木助は、同じ甚五郎伝の「鼠」も事実上の創作に近い脚色をするなど、甚五郎にはことのほか愛着を持っていたようです。
この噺もたびたび高座に掛けました。
三木助最後の高座となった、昭和35年(1961)11月の東横落語会の演目も「三井の大黒」でした。
三木助没後は弟子の入船亭扇橋(橋本光永、1931-2015)に、さらにその弟子の扇遊へと継承されていきました。
藍染川 今川橋
藍染川は神田鍛冶町から紺屋町を通り、神田川に合流した掘割です。
紺屋町の染物屋が、布をさらしたことから、こう呼ばれました。
明治18年(1885)に埋め立てられています。
六代目円生は「今川橋」の出来事として演じましたが、実際の今川橋は、藍染川南東の八丁堀に架かっていた橋で、日本橋本白銀町二丁目と三丁目を渡していました。
下見板
噺の中で甚五郎がくっつけてしまう「下見板」は、家の外壁をおおうための横板で、大工の見習いが練習に、まず削らされるものでした。
甚五郎が怒ったのも、無理はありません。
駿河町の三井
初代・三井八郎右衛門高利が延宝元年(1673)、日本橋本町一丁目に呉服屋を開業。天和2年(1682)の大火で、翌年、駿河町(東京都中央区日本橋室町一、二丁目)に移転、「現金掛け値なし」を看板にぼろもうけしました。