【蜆売り】しじみうり 落語演目 あらすじ

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【どんな?】

白浪物(盗賊の物語)。
鼠小僧がふとしたことでの一件。
かつての因果がわかった。
その侠気から自首する噺。

【あらすじ】

ご存じ、義賊ぎぞく鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち

表向きの顔は、茅場町かやばちょうの和泉屋次郎吉という魚屋。

ある年の暮れ、芝白金の大名屋敷の中間部屋ちゅうげんべやで三日間博奕三昧ばくちざんまいの末、スッテンテンにむしられて、外に出ると大雪。

藍微塵あいみじん結城ゆうきあわせの下に、弁慶縞べんけいじま浴衣ゆかたを重ね、古渡こわたりの半纏はんてんをひっかけ、素足に銀杏歯いちょうば下駄げた、尻をはしょって、濃い浅黄あさぎ手拭たぬぐいでほおっかぶりし、番傘ばんがさをさして新橋の汐留しおどめまでやってきた。

なじみの伊豆屋という船宿で、一杯やって冷えた体を温めていると、船頭の竹蔵がやはり博奕で負けてくさっているというので、なけなしの一両をくれてやるなどしているうち、雪の中を、年のころはやっと十ばかりの男の子が、汚い手拭いの頬かぶり、ボロボロの印半纏しるしばんてん、素足に草鞋わらじばきで、赤ぎれで真っ赤になった小さな手にざるを持ち、「しじみィー、えー、しじみよォー」

渡る世間は雪よりも冷たく、誰も買ってやらず、あちこちでじゃまにされているので、次郎吉が全部買ってやり、しじみを川に放してやれと言う。

喜んで戻ってきた子供にそれとなく身の上を聞くと、名は与吉といい、おっかァと二十三になる姉さんが両方患っていて、自分が稼がなければならないと言う。

その姉さんというのが新橋は金春の板新道じんみちで全盛を誇った、紀伊国屋の小春という芸者だった。

三田の松本屋という質屋の若だんなといい仲になったが、おかげで若だんなは勘当。

二人して江戸を去る。

姉さんは旅芸者に、若だんなの庄之助は碁が強かったから、碁打ちになって、箱根の湯治場とうじばまではるばると流れてきた。

亀屋という家で若だんなが悪質なイカサマ碁に引っ掛かり、借金の形にあわや姉さんが自由にされかかるところを、年のころは二十五、六、苦み走った男前のだんながぽんと百両出して助けてくれた上、あべこべにチョボイチで一味の金をすっかり巻き上げて追っ払い、その上、五十両恵んでくれて、この金で伊勢詣りでもして江戸へ帰り、両親に詫びをするよう言い聞かせて、そのまま消えてしまったのだという。

ところが、この金が刻印を打った不浄金(盗まれた金)であったことで、若だんなは入牢、姉さんは江戸に帰されて家主預けとなったが、若だんなを心配するあまり、気の病になったとのこと。

話を聞いて、次郎吉は愕然がくぜんとなる。

たしかに覚えがあるのも当然、その金を恵んだ男は自分で、幼い子供が雪の中、しじみを売って歩かなければならないのも、もとはといえばすべて自分のせい。

親切心が仇となり、人を不幸に陥れたと聞いては、うっちゃってはおかれねえと、それからすぐに、兇状持きょうじょうもちの素走すばしりの熊を身代わりに、おおそれながらと名乗って出て、若だんなを自由の身にしたという、鼠小僧侠気きょうきの一席。

【しりたい】

白浪講談を脚色

幕末から明治にかけての世話講談の名手で、盗賊ものが得意なところから、異名を泥棒伯円といった二代目松林伯円しょうりんはくえん(手島達弥→若林義行→若林駒次郎、1834-1905、新聞伯円、泥棒伯円)が、鼠小僧次郎吉の伝説をもとに創作した長編白浪(=盗賊)講談の一部を落語化したものです。

戦後は、五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)が得意にしました。

ほかに上方演出で、大阪から東京に移住した二代目桂小文治(稲田裕次郎、1893-1967)が音曲入りで演じました。

大阪のオチは、

「親のシジメ(しじみ=死に目)に会いたい」

と地口(=ダジャレ)で落とします。また、二代目桂小南(谷田金次郎、1920-96)は主人公を鼠小僧でなく、市村三五郎という大坂の侠客で演じていました。

実録・鼠小僧次郎吉

天保3年(1832)旧暦5月8日、浜町の松平宮内少輔まつだいらくないしょうゆうさま(松平忠恵ただしげ)の上野小幡藩こうずけおばた藩中屋敷で「仕事」中、持病の喘息ぜんそくの発作が起きてついに悪運尽き、北町奉行・榊原主計頭さかきばらかずえのかみさま(榊原忠之)のお手下に御用となりました。

その生涯の記録は、出撃回数122回うち、大名屋敷95か所、奪った金額3,085両3分(判明分のみ)、という不滅の金字塔です。おそらく、被害総額は実際には4,000両近くにのぼるでしょう。

お上のお取り調べでは、そのうち3,121両2分をきれいに使い果たし、窮民になどに一文も施していません。

鼠小僧次郎吉の最期

お縄(逮捕)になったときは、深川富岡門前山本町ふかがわとみおかもんぜんやまもとちょう(江東区門前仲町、俗称で表櫓おもてやぐら裏櫓うらやぐら裾継すそつぎに区分け)の水茶屋主人、半次郎方に居候いそうろうしていました。

同年天保3年旧暦8月7日、市中引き回しの上、鈴が森で磔刑たっけい(はりつけ)。享年35、離婚暦3回でした。墓は本所回向院えこういんにあります。

歌舞伎の鼠小僧

黙阿弥が、ほぼ講談の筋通りに脚色、安政4年(1857)正月の市村座に「鼠小紋春君新形ねずみこもんはるのしんかた」として書き下ろし、上演しました。

芝居では、お上をはばかり、鼠小僧は稲葉幸蔵。

四代目市川小団次(栄太また栄次郎、1812-1866、高島屋)が扮しました。末の世話狂言の名人です。

蜆売りの少年は芝居では三吉。演じたのは五代目尾上菊五郎(寺島清、1844-1903、音羽屋)で、当時満12歳。のちの明治の名優です。

後見人の中村鴻蔵と浅草蛤河岸まで出かけ、実際の蜆売りの少年をスカウトして、家に呼んで実演してもらったという逸話があります。

その子の六代目尾上菊五郎(寺島幸三、1885-1949、音羽屋)も、やはり子役の三吉役のとき、雪の冷たさを思い知らせるため、父親に裸足で雪の庭に突き落とされてしごかれたそうです。今なら完全にドメスティックバイオレンスですが。

ちなみに、本所回向院の鼠小僧の墓はむろん本物ではなく、供養墓です。

明治9年(1876)6月、市川団升なる小芝居の役者が、鼠小僧の狂言が当った御礼に、永代供養料十円を添え、「次郎太夫墳墓」の碑銘で建立したものです。

磔の重罪人は屍骸取り捨てが当たり前で、まともな墓など建てられなかったのです。



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