【錦の袈裟】にしきのけさ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
町内の若い衆が錦の褌締めて吉原に。
質流れの錦で仕立てた褌は一着足りず。
あぶれた与太は寺から錦の袈裟を。
蓋を開けたら与太ばかりがもてる。
異形の廓噺。上方から。
別題:金襴の袈裟 ちん輪 袈裟茶屋(上方)
【あらすじ】
町内の若い衆が
「久しぶりに今夜吉原に繰り込もうじゃねえか」
と相談がまとまった。
それにつけてもしゃくにさわるのは、去年の祭り以来、けんか腰になっている隣町の連中。
やつらが、近頃、吉原で芸者を総揚げして大騒ぎをしたあげく、緋縮緬の長襦袢一丁になってカッポレの総踊りをやらかして、
「隣町のやつらはこんな派手なまねはできめえ」
とさんざんにばかにしたという、うわさ。
そこで、ひとつこっちも、意地づくでもいい趣向を考えて見返してやろうということに。
相談の末、向こうが緋縮緬ならこちらはもっと豪華な錦の褌をそろいであつらえ、相撲甚句に合わせて裸踊りとしゃれこもう、と。
幸い、質屋に質流れの錦があるので、それを借りてきて褌に仕立てる。
ただ、あいにく一人分足りず、少し足りない与太郎があぶれそうになった。
与太郎は、女郎買いに行きたい一心。
鬼よりこわい女房におそるおそるおうかがいを立て、仲間のつき合いだというので、やっと許してもらったはいいが、肝心の錦の算段がつかない。
そこで、かみさんの入れ知恵を。
与太郎、寺の和尚に
「親類に狐がついたが、錦の袈裟を掛けてやると落ちるというから、一晩だけぜひ貸してくれ」
と頼み込むという作戦に。
なんとか、これで全員そろった。
一同、その晩は、予定通りにどんちゃん騒ぎ。
お引け前になって、一斉に褌一つになり、裸踊りを始めた。
驚いたのは、廓の連中一同。
特に与太郎のは、もとが袈裟だけに、前の方に袈裟輪という白い輪がぶーらぶら。
そこで
「あれは、実はお大名で、あの輪は小便なさる時、お手が汚れるといけないから、おせがれをくぐらせて固定するちん輪だ」
ということになってしまった。
そんなわけで、与太郎はお殿さま、他の連中は家来だというので、その晩は与太郎一人が大もて。
残りは、全部きれいに振られた。
こうなると、おもしろくないのが「家来」連中。
翌朝。
ぶつくさ言いながら、殿さまを起こしに行く。
当人は花魁としっぽり濡れて、
「起きたいけど花魁が起こしてくれない」
と、のろけまで言われて、踏んだり蹴ったり。
「おい花魁、冗談じゃねえやな。早く起こしねえな」
「ふん、うるさいよ家来ども。お下がり。ふふん、この輪なし野郎」
どうにもならなくて、「家来」は与太郎を寝床から引きずり出そうとする。
与太郎が
「花魁、起こしておくれよ」
「どうしても、おまえさんは、今朝ァ、帰さないよ」
「いけないッ、けさ(袈裟=今朝)返さねえとお寺でおこごとだッ」
底本:初代柳家小せん
【しりたい】
上方版の主人公は幇間
上方落語の「袈裟茶屋」を東京に移したものとみられますが、移植者や時期は不明です。
「袈裟茶屋」は、錦の袈裟を借りるところは同じですが、登場するのはだんな二人に幇間(たいこもち)で、細かい筋は東京の噺とかなり違います。
東京のでは、いちばんのお荷物の与太郎が最後は一人もてて、残りは全部振られるという、「明烏」と同じ判官びいき(弱者に味方)のパターンです。
上方では、袈裟を芸妓(芸者)に取られそうになって、幇間が便所に逃げ出すというふうに、逆にワリを食います。
東京では、この噺もふくめて、長屋一同が集団で繰り出すという設定が多いですが、上方はそれがあまりなく、「袈裟茶屋」でも主従3人です。
このように、一つ一つの噺を比較しただけでも、なにか東西の気質(気風)の違いがうかがわれますね。
基礎づくりは初代小せん
四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)の速記を見ると、振られるのは色男の若だんな二人、主人公は熊五郎となっています。
東京移植後間もなくの頃で、大阪の設定に近いことがわかります。
円蔵のでは、オチは「そんなら、けさは帰しませんよ」「おっと、いけねえ。和尚へすまねえから」となっています。
これを現行の形に改造したのは、大正期の初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)とみられます。
先の大戦後、この噺の双璧だった五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)、六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、ともに若手のころ、小せんに直接教わっています。
それが現在も、現役の噺家に受け継がれているわけです。
かっぽれ
幕末の頃、上方で流行した俗曲です。「活惚れ」と書きます。
江戸初期、江戸にみかんを運んだ大坂の豪商・紀伊国屋文左衛門をたたえるために作られたものが、はじまりなんだそうです。
かっぽれかっぽれ
甘茶でかっぽれ
塩茶でかっぽれ
沖の暗いのに白帆が見える
ヨイトコリャサ
あれは紀の国
みかん船
こんな歌詞に乗って珍妙なしぐさで踊るもので、通称「住吉踊り」。
明治初期に東京で豊年斎梅坊主(松本梅吉、1854-1927、初代かっぽれ梅坊主)が、願人坊主の大道芸だったかっぽれ芸をより洗練された踊りに仕上げて大流行しました。
新富座では九代目市川団十郎(堀越秀、1838-1903)も踊りました。
尾崎紅葉(尾崎徳太郎、1868-1903)も、じつは若い頃には梅坊主に入門していたんだとか。
尾崎紅葉は、「金色夜叉」で一世を風靡した明治の小説家です。
この作品、じつはアメリカの小説に元ネタがあったことがすでにわかっていますが、それは別の機会に記しましょう。
紅葉は、若気のいたりだったのでしょうか。
袈裟
サンスクリット語(梵語)の「カサーヤ(kasaya)」からきています。もとの意味は煩悩ですが、そこから不正雑色の意味となります。「懐色」と訳しています。
なんだか、わかったようなわからないような。
インドやチベットでは、お坊さんの服のことです。
中国や日本では、左肩から右腋の下にかけて衣の上をおおう長方形の布をさします。
これは、青、黄、赤、白、黒の五色を使わずに、布を継ぎ合わせます。
大小によって、五条、七条、九~二十五条の三種類があります。三番目の九~二十五条のタイプが錦の袈裟といわれるものです。
こんな具合ですから、国や宗派によってさまざまな種類が生まれました。
与太郎が借りたのは上方題の「ちん輪」ですから、輪袈裟わげさという種類のものです。
これは、天台宗、真言宗、浄土真宗で使われています。禅宗で使われるような、威儀細、掛絡といった略式のものもあります。
貪欲・瞋恚(怒り)・痴愚の三毒を捨て去ったしるしにまといます。
僧侶の修行が進み、徳を積んで悟りを開くにしたがって、まとう袈裟の色も変わります。
緑→紫→緋といった具合に。
甚句
甚句郎の略で、幕末に流行した俗謡です。
七七七五調で四句形式が普通ですが、相撲甚句は七五調の変則で長く「ドスコイドスコイ」の囃しことばがつきます。
これを洗練したものが、三味線の合い方(伴奏)でお座敷で唄われました。
【蛇足】
ついでに生きてる与太郎が女にもててしまう。珍しい噺だ。
もてるはずもない男が遊び場に行ったら仲間よりもててしまったというプロットは、どこか「明烏」にも似ている。
若い衆が派手に息張る雰囲気は、いまも下町あたりでは飽かず繰り広げられている。下町風土記なのだ。
ばかばかしいが、当人たちには男気を張る勢いなのだろう。
落語の格好の題材となる。
海賀変哲は『落語の落』で、「褌のくだりであまり突っ込んで話すと野卑に陥る点もあるから、そのへんはサラサラと話している」と書いている。
たしかに、褌やら吉原やらが出てくるのだから、そこにこだわると善男善女の集う寄席では聞けたものでなくなる。
「ちん輪」という野卑な別題もある。
この噺は初代柳家小せん(鈴木万次郎、1883-1919、盲小せん)が絶妙だったという。
大正8年(1919)の小せんの速記を読んでも、いまのスタイルと変わらない。
会話の応酬と洒落の連発で、スピーディーなのだ。
五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵、1890-1973)や六代目三遊亭円生(山﨑松尾、1900-79)は、小せんから習った。
円生の師匠は四代目橘家円蔵(松本栄吉、1864-1922、品川の師匠)で、当時100人以上の弟子を擁する巨大派閥の領袖だった。
円蔵もこの噺が得意だったのに、円生は人気の小せんから習っている。
この噺は、上方でも「袈裟茶屋」として演じられる。上方から東京に流れた説と、東京から上方に流れた説があるらしいが、どうだろう。
どちらでもかまわない。笑うにはおかまいなしだし。いいかげんなものなんだなあ。
古木優