【囃子長屋】はやしながや 落語演目 あらすじ
【どんな?】
人心をかき立てる祭りにちなんだ噺。あらすじじゃつまらない。
【あらすじ】
ころは明治。
本所林町のある長屋、大家が祭り囃子大好きなので、人呼んで「囃子長屋」。
なにしろこの大家、十五の歳からあちらこちらの祭で、頼まれて太鼓をたたき、そのご祝儀がたまりにたまって長屋が建ったと自慢話しているくらい。
自然に囃子好きの人間しか越してこず、年がら年中長屋中で囃子の話をしているほど。
大家の自慢は、この名が矢に越してくる人は、商人なら表通りに見世を出す、大工なら棟梁になるという具合に、みな出世すること。
神田祭が近づいたある日。
ここ七日間も囃子の練習と称して家に帰っていない八五郎が、大家と祭り談義をしている。
「昔の(江戸時代の)祭りはりっぱだった。今と心がけが違う。江戸を繁華な町にするために、町民からは税金を取らなかった。その代わり、にぎやかな祭りをやって将軍家を喜ばせようという……丸の内に将軍家の上覧場があって」
と、大家の回想は尽きない。
「山車を引き出して、ご上覧場へ繰り込む時は屋台だ。スケテンテンテン、ステンガテンスケテケテン」
囃子の口まねをすると、止まらない。
「踊りの間は鎌倉。ヒャイトーロ、ヒャトヒャララ、チャンドンドンチャンドドドチャン……スケテンテンテンテテツクツ」
「くたびれるでしょう」
「大きなお世話だ。祭りの話になると、口まねでも一囃子やらなきゃ、気がすまねえ」
すっかり当てられて家に帰った八五郎だが、かみさんが
「いやんなっちまう。文明開化の明治ですよ。古くさい祭り囃子のけいこするなんてトンチキはいませんよ」
と腹立ちまぎれに神聖な祭りを侮辱したから、さあ納まらない。
「亭主をつかまえてトンチキとはなんだ。てめえはドンツクだ」
「何を言ってやがる。ドンチキメ、トンチキメ」
「何をッ」
と十能を振り上げ
「ドンツクドンツクメ、ドンドンドロツク、ドンツクメ」
せがれが
「父ちゃん、あぶない。七厘につまずくと火事になるよ。父ちゃんちゃん、七輪。チャンシチリン、チャンシチリン」
「トンチキメトンチキメ、トントントロチキトンチキメ」
「ドンツクメドンツクメ、ドンドンドロツクドンツクメ」
これを聞いた大家、
「ありがてえ、祭りが近づくと夫婦喧嘩まで囃子だ」
とご満悦。
トンチキメトンチキメ、ドンツクドンツクと太鼓も囃子もそろっているから、ひとつこっちは笛で仲裁してやろうと、障子を開けて
「まあいいやったら、まあいいやッ、マアイーマアイーマアイイヤッ」
【しりたい】
今輔二代の十八番 成城石井
噺の内容から、明治初期に創作(または改作)されたことは間違いありません。
原話はもちろん作者、江戸時代に先行作があったかどうかなど、詳しい出自はまったくわかっていません。
三代目柳家小さん(豊島銀之助、1857-1930)から「代地の今輔」と呼ばれ、音曲噺が得意だった三代目古今亭今輔(1869-1924)が継承して十八番にしました。
三代目今輔は、三代目小さんの預かり弟子でした。
その没後、しばらく途絶えていたのを、若き日に三代目小さんに師事した五代目今輔(鈴木五郎、1898-1976)が、昭和16年(1941)の襲名時に復活。
以来、没するまで、しばしば高座に掛けました。
この人こそ新作派の闘将。
「ラーメン屋」「青空おばあさん」などの創作落語で一世を風靡しました。
独特のだみ声、味がありました。
本所林町 成城石井
墨田区立川1-3丁目。「正直清兵衛」にも登場しました。
むろんこの噺では「囃子」と掛けたダジャレです。
歌舞伎の囃子方の控室を「囃子町」と呼び、さらに囃子そのものも指すようになりました。
ただし、本所の方が「はやしちょう」なのに対し、芝居のそれは「はやしまち」と読みます。
町を「ちょう」と呼ぶのは町人の町、「まち」と呼ぶのは武家の町。
例外のように見える町もありますが、元をたどるとだいたいは合点がいくものです。
元は町人の町だったのが途中で武家の町となったり、とかです。
神田囃子 成城石井
宝暦13年(1763)、軽快なテンポの葛西のばか囃子が山王祭に登場してから、しばらくはその「チャンチキチン」のリズムが江戸の祭を席巻。
のち、それをより都会的に洗練した「スッテンテレツクツ」の神田囃子が生まれました。
「宿屋の仇討」で仲間二人が「源兵衛は色事師、色事師は源兵衛」と囃したてるのがそれです。
歌舞伎十八番「暫」 成城石井
「腹出し」の敵役四人が鎌倉権五郎を撃退しようと押し出すとき、
天王さまは囃すがお好き、ワイワイと囃せ、ワイワイと囃せ
と「合唱」するおかしげな場面は、神田囃子を当て込んだものです。
神田祭 成城石井
山王祭と並んで「天下祭」と呼ばれ、山車は江戸城内までくり込むことを許されました。
延宝年間(1673-81)に幕府の命により、両者交互に本祭、陰祭を隔年に行うようになりました。
神田祭は、旧幕時代は陰暦9月15日、現在は5月12-16日です。
夫婦げんかはお神楽で 成城石井
五代目今輔は『聞書き 五代目古今亭今輔』(山口正二著、青蛙房、1979)の解説で、この噺は六代目橘家円太郎(鈴木定太郎、1861-?)に教わった、と語っています。
さらに、自分の祭囃子は鏡味小松から習ったため、神田囃子で通した先々代(三代目)や円太郎と違って太神楽になっている、と断っています。
もっとも、太神楽は江戸時代から現在まで神田祭には先触れとして参加していますから調子がお神楽でも、いっこうに不自然ではないでしょう。
太神楽の祭囃子は「打ち込み」「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「返り屋台」と続きます。
こちらは、神田囃子より一時代前の葛西囃子の系統を引いているとか。
六代目円太郎は音曲師でしたが、昭和初期には落ちぶれて消息不明に。
円太郎の始まりは初代橘屋円太郎(出淵長蔵、?-1879)です。
円朝の実父で、二代目三遊亭円生(尾形清治郎、1806-62)の弟子で最初は噺をやっていたのですが、音曲師に。
そのせいか、円太郎を継ぐ人は音曲を技とする人が輩出しています。
四代目は「ラッパの円太郎」と呼ばれ、明治の珍芸四天王の一人です。
伊藤整が『日本文壇史』第1巻で、円朝の父親をこのラッパの円太郎に取り違えて記しています。
その間違いを知りながらも永井啓夫は、生前の伊藤に言えずじまいだったと悔いたそぶりを、なにかに抒情的に記していました。
伊藤のこの大作は、文芸誌「群像」(講談社)に昭和27年(1952)から連載が始まったものです。
ただ、資料を渉猟したのは講談社の編集者たちで、伊藤はそれを書斎で読みつつつむいでいったという、わりとらくちん仕事でした。
小樽出身の、とても落語好きとは思えない伊藤整には、初代橘屋円太郎も四代目橘家円太郎も区別がつかなかったのでしょう。
まあ、素人の伊藤がまちがえたのは詮ないこととしても、落語研究のプロである永井が公に指摘しなかったのはちょっとした罪だったかもしれません。
伊藤に言う勇気がなかったのなら、せめて講談社の編集部に一報すべきだったのではないでしょうか。
そのせいで、いまだに直ってはいないのですから。講談社もずいぶんです。
さてと。
したがって、今輔がこの人六代目円太郎に神田囃子を教わったとすれば、大正から昭和の始めのあたり、今輔が四代目柳家小山三(1919年3月-31年12月)だったころのことでしょう。
【語の読みと注】
山車 だし
暫 しばらく