【汽車の白浪】きしゃのしらなみ 落語演目 あらすじ
【どんな?】
明治時代。
汽車が舞台の珍談。
白浪=盗賊。
それがらみの噺かもねむ。
【あらすじ】
時は明治の初め。
大阪は船場の商人の小林という男。
東京に支店を出そうというので、両国の宿屋に仮住まい中だが、ある日、商用で横浜へ行った帰り、ステンショから、終汽車に乗った。
相客は女が一人。
官員か誰かの細君らしく、なかなかオツな年増なので、小林君、すっかりうれしくなって、話しかけてみると、未亡人で年始の帰りだという。
自分もこれこれこういう者だと打ち明けると、ぜひお近づきになりたいと、思わせぶりなそぶり。
ところがそこへ、目つきの悪い男が入ってきて、女の方をじろじろ見ている。
きっと泥棒だから、汽車を降りたら気をつけなければいけないと、二人は品川駅に着くと、手に手を取って急いで人力車溜まりへ急ぐ。
相乗りで両国まで行こうと、車屋に声をかけようとすると、暗がりから、さきほどの男が
「ちょいと待ちなさい」
と婦人のたもとを押さえる。
「女に用があるから」
と連れていこうとするので、小林は、てっきり強盗か誘拐犯だと、止めようとするが突き倒され、女はそのまま連れ去られてしまう。
小林君、宿に帰って、腰をさすりながらふと懐中を見ると、紙幣で二百円入った財布がない。
「やはり、あいつは泥棒」
明日、警察に届けようとその夜は寝てしまう。
翌朝、これから警察に行こうとしている時、客だというので出てみると、なんと昨夜の男。
「あなたは小林礼蔵さんか、これに見覚えは」
男が出したのは、紛れもなく盗まれた財布。
男は、実は刑事で、あの女は、黒雲のお波という女賊だったと知らされて、二度びっくり。
「へー、あれが黒雲、道理で私の紙幣を巻き上げようとした」
底本:六代目桂文治
【しりたい】
明治後期の新作
明治32年(1899)の六代目桂文治(桂文治、1843-1911、→三代目桂楽翁)の新作で、翌年の正月発行の雑誌『百花園』に掲載されました。
文治は明治の落語界に独自の地位を占め、「下谷上野の山かつら、かつら文治は噺家で」と子供の尻取り歌にまで歌われた道具入り芝居噺の名人でした。
文治当人も冒頭で「愚作ではございますが」と断っていて、その通りあまり芳しい出来とはいえないのですが、人物の会話などはリアルでうまく、さすがと思わせるところはあります。
もちろんその時代のキワモノなので、文治以後の口演記録はまったくありません。
白浪
語源は『後漢書』の「白浪賊」。
三国志で名高い黄巾の乱の残党が、白浪谷に立て籠もって山賊を働いた故事から、盗賊の異称となりました。
歌舞伎の外題によく使われ、河竹黙阿弥作の「弁天娘女男白浪」(白浪五人男)はよく知られた泥棒狂言です。
文治は芝居噺を専門にしていたので、内容は明治新時代の盗賊であっても、この古風な呼称を使ったのでしょう。
賊も世につれ
この噺で、女が語っています。
「手前のつれあいは、先達っての日清の戦争で亡くなりました」と語っていることでもわかるのですが、日清戦争が終結してすでに五年目。
日清戦争は、明治維新以後初めての対外戦争です。
兵員や軍需物資輸送の必要から、日本の鉄道網はこれを契機に、飛躍的に整備・拡大されました。
新橋(汐留)-横浜(桜木町)間の鉄道開通から二十数年、明治22年(1889)7月の東海道本線の新橋-神戸間開通からも十年余。
旅客輸送量も、草創期とは比較にならないほど伸びましたが、まだ夜間は利用客は少なく、実際にもこのように、金のありそうな客を狙った「密室」を利用した色仕掛けの女スリが出没していたとみえます。
当時の横浜までの所要時間は53分。室内は暗く、終電で相客はほとんどないとあれば、この小林君、格好のカモだったでしょう。
「汽車の大賊」
この速記の翌々年、明治35年(1902)に、やはり汽車賊を扱った「汽車の大賊」という江見水蔭(江見忠功、1869-1934)のサスペンス小説が発表されました。
水蔭は、日本の探偵小説のパイオニア。そのバタくさい作風が受け、当時のベストセラー作家でした。
この作品中でも、女賊が東海道線の列車中で、九州の炭鉱主を色仕掛けで誘惑し、金品を奪うという場面があります。
筋や設定がそっくりなところを見ると、江見センセイ、ちょいと「いただいて」しまったのかも。
【語の読みと注】
ステンショ すてんしょ:駅
終汽車 しゅうきしゃ:終電
官員 公務員
弁天娘女男白浪 べんてんむすめめおのしらなみ