【王子の幇間】おうじのたいこ
ツイてない男
【どんな?】
踏んだり蹴ったりの狐。
ではなく、野幇間が登場。
こいつのうんちくも。
別題:太鼓の平助
【あらすじ】
野幇間の平助。
だんなを取り巻いて東京中をウロつき、神田からとうとう王子にまで来てしまった。
結局、なにもくわせてもらえずに、空腹で目を回したという「武勇伝」を売り物にしているところから、「王子の幇間」と異名までついた。
平助、相当にしたたかな男で、花柳界はもちろん、芝居や寄席の楽屋にまで、呼ばれもしないのに出入りして、かなり顔が売れている。
特に例のだんなの家には、三日にあげず物欲しそうにやってくる。
そればかりか、使用人すべての出自やスキャンダルをしっかり押さえていて、本人の前でそれをネチネチと言うので、鼻つまみになっている。
おかみさんも腹を立て、
「平助入るべからず」
という魔除けの札を門口に張ったが、いっこうに効果がない。
今日も懲りずに現れた平助。
さっそく、鳶の頭に乙にからんで二、三回ポカポカ。
飯炊きの権助には、悪魔野郎、終身懲役ヅラめとののしられて、またポカポカ。
出てきたおかみさんには、
「今日は陽気に、店先でポカポカいい音がしたね」
と、逆に嫌味を言われる始末。
実は、さきほど夫婦で示し合わせ、だんなは留守だと言ってこの悪魔野郎を油断させ、悪口を言わせてから、当人がぬっと現れて、こっぴどく痛めつけようという趣向。
平助が出入りして以来、この家で次から次へとものがなくなるので、だんなもそろそろ追っ払い時だと考えている。
そうとは知らない平助。
敵が不在だと聞くと、調子に乗って言いたい放題。
実はだんな、外神田の芸者に入れ揚げてておかみさんを追い出す算段中だの、はては強盗だのとまくし立てた上、例の王子の話を持ち出し、
「あたしはだんなに殺されそこなった」
とおかみさんの気を引く算段。
だまされたふりで
「そうかい。そんな不実な人とは知らなかった。もう愛想が尽きたから、おまえ、私と逃げておくれでないか」
と誘うと、瓢箪から駒、平助は大喜び。
その上
「このツヅラの中にはダイヤモンドに株券、珊瑚珠の五分珠、金ののべ棒が入っているから背負っとくれ」
とでたらめを並べると、色と欲との二人連れ。
「金目の物は残らずお乗せなさい」
と、ヤカンや火鉢まで担ぎ、手がふさがったところで頭をポカリ。
それを合図に、奥からだんながノッソリ。
「この野郎、オレが家にいねえと思って、飛んでもねえことを言やがった。やい、このツヅラにはな、七輪が四つだ。ざまあ見やがれ欲張り野郎。ヤカンと七輪を背負ってどこへ行こうてんだ」
「へえ、ご近所が火事で手伝いに」
「ばか野郎。火事なんざどこにある」
「今度あるまで背負ってます」
底本:初代三遊亭円遊、1889年12月5日「百花園」
【しりたい】
野幇間
のだいこ。特定の遊里に所属しないフリーの幇間を指します。
その意味で、セミプロともいえるでしょう。落語に出てくる幇間は「つるつる」や「愛宕山」を除いて、ほとんどがこれ。
芸や、客を取り巻く技術にかけては、それ相応に道楽をした末に幇間になった連中であるため、正統の「プロ」に負けない自負があったようです。
式亭三馬(菊地泰輔、1776-1822)の滑稽本『浮世風呂』に登場する野だいこは「野幇間などと申すけれど、野幇間でも勤めぬけることは難うごぜへます」と胸を張っています。
落語には「九州吹きもどし」「山号寺号」「ちきり伊勢屋」などで、こんな川柳が引き合いにされています。
たいこもち揚げての末の幇間もち
このパターンで、野幇間と化した連中が無数に現れます。
落語家で野幇間に転身、また落語界に復帰した例も、三代目三遊亭円遊(伊藤金三、1878-1945)、四代目三遊亭円遊(加藤勇、1902-1984)、七代目橘家円蔵(市川虎之助、1902-80、明舟町の)など、けっこうあります。
お幇間医者
変わり種に「お幇間医者」というのがあります。
医者とは名ばかり、旗本屋敷に始終出入りしてはご機嫌を取り持っていた手合いのこと。事実上の野幇間です。
上の浮世絵は歌川国芳によるものですが、右端の男がお幇間医者です。坊主頭に黄八丈の古着を尻端折り。いまの医者のイメージとはおよそズレています。どこか滑稽な風情ですね。
「牡丹灯籠」の山本志丈、「紺屋高尾」の竹内蘭石などもお幇間医者です。
物語の道化役というところでしょう。この人たちがいなくては、話はまわりません。重要な役回りです。
「野だ」も
初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)は野幇間の表現にすぐれていました。
円遊のファンだった夏目漱石がそれを「坊っちゃん」の「野だ」(野幇間)に写した、というのが『漱石と落語』の水川隆夫説。
この説は複数の研究者に支持されており、間違いないようです。
ただ、落語の野幇間が、どことなく憎めない役どころなのに対し、漱石の野だは、「全く唾棄すべき人物として描かれ」、「自尊心が強く、阿諛追従を極度に嫌った漱石にとっては、落語の野幇間は、全く軽蔑すべき人物に過ぎなかったのであろうか」と水川は述べています。
文楽の十八番
先の大戦後は、八代目桂文楽(並河益義、1892-1971、黒門町、実は六代目)の十八番でした。
文楽のは、初代円遊の演出に比べ、くすぐりやくすぐりを抑え、どんなに嫌がられようが、ただのべつまくなしにヨイショを並べ立てるしかない幇間の業を色濃く出していて、その分、平助の悪党ぶりは弱まっています。
これは、「つるつる」「鰻の幇間」など、幇間の登場する噺を得意とした文楽演出に共通しています。
オチもだんなを出さず、平助が「こんないいおかみさんを出して、だんなが花魁を後妻に直そうとは神も仏もない」と泣いてみせると、お内儀さんが「泣いてくれるのはうれしいけど、目んとこィお茶殻がついてるよ」。「あたしは悲しくなるとお茶殻が出るン」という、「お茶汲み」を思わせる問答で切り、「おなじみの『王子の幇間』でございます」と、地で締めくくっていました。
八代目文楽は、先の大戦前には「太鼓の平助」という題でも演じていました。
王子の名所
東京都北区は、滝野川区と王子区が統合された地域。滝野川の由来はほんとうに滝があったことからなのですね。
滝野川は上流では石神井川と呼ばれました。王子に来ると、音無川とも呼ばれ、東側に流れる隅田川にそそがれました。
江戸時代にはこのような風景だったようです。那智の滝のような。八代将軍徳川吉宗が王子の地をさかんにさせたとのこと。
紀州から江戸に来た吉宗のこと、紀州に由来するこの地を愛用したようです。
製紙工場でブームに
この噺は、初代三遊亭円遊(竹内金太郎、1850-1907、鼻の、実は三代目)の創作とみられます。
あらすじの参考にした円遊の速記は明治22年(1889)のものなので、その頃の作なのでしょう。
明治20年(1887)、王子製紙が当地に第二工場を建てたところから、新名所ということで「王子ブーム」が起こりました。
タイトルに「王子の…」と付けたのは、そのブームを当て込んでのことかもしれません。
平助は王子の幇間ではありません。神田の幇間なのです。王子まで歩いてきたので、そう呼ばれたのでしょうかね。
とほかみ
円遊は、マクラで「このだんなは声がかれているから法華のかたまりだろうと思うと、とほかみの信仰家でしくじっちまいますようなことがいくらでもあるんでげす」と語っています。
明治22年ごろの、仏教と神道の活気ある流派を取り上げているのでしょう。法華=日蓮宗⇒仏教、とほかみ=禊教⇒神道。
「とほかみ」というのは、亀卜を行うときに亀甲の裏に刻んだ線の名をさします。
「と・ほ・かみ・ゑみ・ため」の五つの線を焼いて表に表れる亀裂の形で吉凶を判断しました。
それが転じて、禊教の祈禱で唱えることばともなりました。つまり、「とおかみえみため」は神道の祈りのことば。祓詞です。
「とほかみえみため」は「遠つ神、笑みたまえ」の意。「遠くの神様、微笑んでくださいね」と祈るのでしょう。
禊教は、幕末から明治期に誕生した教派神道(神道十三派)の一。井上正鉄(1790-1849)が教祖となった新しい神道の流派です。
【王子の幇間 八代目桂文楽】