【崇徳院】すとくいん 落語演目 あらすじ
成城石井.com ことば 噺家 演目 志ん生 円朝迷宮 千字寄席
【どんな?】
若者が恋わずらいで寝込む。
昔は多かったようです。
朝ドラ「わろてんか」にも。
別題:皿屋 花見扇
【あらすじ】
若だんながこのところ患いつき、飯も喉に通らないありさまで衰弱するばかり。
医者が
「これはなにか心に思い詰めていることが原因で、それをかなえてやれば病気は治る」
と言うので、しつこく問いただしても、いっこうに口を割らない。
ようやく、
「出入りの熊さんになら話してもいい」
と若だんなが言うので、大だんなは大急ぎで呼びにやる。
熊さんが部屋に入ってみると、若だんなは息も絶え絶え、葬儀屋にいったほうが早道というようす。
話を聞いても笑わないことを条件に、熊さんがやっと聞き出した病気のもとというのが、恋煩い。
二十日ばかり前に上野の清水さまに参詣に行った時、清水堂の茶店に若だんなが腰を掛けて景色を眺めていると、目の前にお供の女を三人つれたお嬢さんが腰を掛けた。
それがまた、水のしたたるようないい女で、若だんなが思わず見とれていると、娘もじっとこちらを見る。
しばらくすると、茶袱紗を落としたのも気がつかず立ち上がるので、追いかけて手渡したちょうどその時、桜の枝から短冊が、糸が切れてはらりと落ちてきた。
見ると
「瀬を早み岩にせかるる滝川の」
と書いてある。
これは下の句が
「われても末に逢はむとぞ思ふ」
という崇徳院の歌。
娘はそれを読むと、なにを思ったか、若だんなの傍に短冊を置き軽く会釈して、行ってしまった。
この歌は、別れても末には添い遂げようという心なので、それ以来、なにを見てもあのお嬢さんの顔に見える、というわけ。
熊さん、
「なんだ、そんなことなら心配ねえ、わっちが大だんなに掛け合いましょう」
と安請け合いして、短冊を借りると、さっそく報告。
大だんな、
「いつまでも子供だ子供だと思っていたが」
とため息をつき、
「その娘をなんとしても捜し出してくれ」
と、熊に頼む。
「もし捜し出せなければ、せがれは五日以内に間違いなく死ぬから、おまえはせがれの仇、必ず名乗って出てやる」
と、脅かされたから、熊はもう大変。
熊は帰って、かみさんに相談。
かみさんは
「もし見つければあの大だんなのこと、おまえさんを大家にしてくれるかもしれない」
と、尻をたたく。
「とにかく手掛かりはこの歌しかないから、湯屋だろうが、床屋だろうが、往来だろうが、人の大勢いるところを狙って歌をがなってお歩き。今日中に見つけないと家に入れないよ」
と追い出される。
さあ、それから湯屋に十八軒、床屋に三十六軒。
「セヲハヤミセヲハヤミー」
とがなって歩いて、夕方にはフラフラ。
「ことによると、若だんなよりこちとらの方が先ィ行っちまいかねねえ」
と嘆いていると、三十六軒目の床屋で、突然飛び込んできた男が、
「出入り先のお嬢さんが恋煩いで寝込んでいて、日本中探しても相手の男を探してこいというだんなの命令で、これから四国へ飛ぶところだ」
と話すのが、耳に入った。
さあ、
「もう逃がさねえ」
と熊五郎、男の胸ぐらに武者振りついた。
「なんだ。じゃ、てめえん所の若だんなか。てめえを家のお店に」
「てめえこそ、家のお店に」
ともみ合っているうち、床屋の鏡を壊した。
「おい、話をすりゃあわかるんだ。家の鏡を割っちまってどうするんだ」
「親方、心配するねえ。割れても末に買わんとぞ思う」
底本:三代目桂三木助
【しりたい】
類話「花見扇」 【RIZAP COOK】
初代桂文治(1773-1815)作の上方落語を東京に移植したものです。文治の作としてはほかに「洒落小町」「たらちね」があります。
ただし、江戸にもほとんど筋が同じの「花見扇」(皿屋)という噺があり、どちらも種本は同じと思われますが、はっきりしません。
オチの部分が異なっていて、「花見扇」では、だんなに頼まれた本屋の金兵衛が、床屋で鳶頭の胸ぐらを夢中でつかんだため、「苦しい。放せ」「いや、放さねえ。合わせ(結婚させ)る」というオチでした。
先方が皿屋の娘という設定のこの噺は、今はすたれましたが、人情噺「三年目」の発端だったともいわれます。
「瀬を早み……」 【RIZAP COOK】
百人一首第七十七歌です。もとは『詞花和歌集』に収められています。
崇徳院(1119-64)は、鳥羽天皇(1103-56)第一皇子で、即位して崇徳天皇。父・鳥羽上皇の横車から異母弟・近衛天皇に譲位させられ、その没後も、今度は同母弟が後白河天皇として即位したので、腹心・藤原頼長とはかって保元の乱(1156)を起こしましたが、事破れて讃岐に流され、憤死しました。
歌意は「川の流れが急なので、水が滝になって岩に当たり、二つに割れる。しかし、貴女との仲は割れることなく、添い遂げよう」です。
鳶頭 【RIZAP COOK】
かしら。「とびがしら」と読みがちですが、この二字で「かしら」と呼びならわしています。町火消の組頭で、頭取の下。各町内に一人はいました。町の雑用に任じ、ドブさらいからもめごとの仲裁まで一切合財引き受けていました。特に、地主や出入りの商家の主人には、手当てや盆暮れの祝儀をもらっている手前、何か事があると、すぐ駆けつけてしゃしゃり出ます。落語にはいやというほど登場しますが、あまりりっぱなのはいません。
三木助の十八番 【RIZAP COOK】
戦後は、三代目桂三木助の十八番で、清水寺で短冊が舞い落ちてくるくだりは、三木助の工夫です。
上方では、高津(こうづ)神社絵馬堂前の設定で、桂米朝は、茶屋の料紙に娘が書き付けるやり方でした。
上野の清水さま 【RIZAP COOK】
寛永寺境内に現存する、清水観音堂のことです。
寛永8年(1631)、寛永寺寺域内の摺鉢山に建立されたもので、同11年、寿昌院焼失後、現在地であるその跡地に移りました。
京の清水寺を模した舞台造りで有名で、桜の名所。本尊の千手観音像は恵心僧都の作です。