【谷文晁の伝】たにぶんちょうのでん 落語演目 あらすじ
【どんな?】
江戸後期の南画(文人画)家、谷文晁のはなし。
円朝噺。名をなした頃からの逸話で構成した、お得意の「名人もの」です。
【あらすじ】
谷文晁は、伊予大洲藩の大名、加藤文麗に師事してきた。
文麗の死後は師匠につかず、狩野探幽だけを崇拝してひとえに精進する。
ある日。
札差の伊勢屋が酒井抱一と文晁に筑波山と富士山の屏風絵を依頼。抱一は飲酒三昧で筆をとらず。文晁はすぐに描いた。
伊勢屋からの謝礼全額で、文晁は金粉を買いりっぱな屏風に仕上げた。
町奉行の根岸鎮衛の注文では、蛭子大黒の双幅を納めた。
その折、根岸から蛭子講の由来を教えられた。文晁は蛭子を祀り蛭子講を催したくなった。それが昂じて、呉服屋恵比寿屋の暖簾がほしくなった。根岸に胸の内を明かすと、根岸は「盗め」と言う。
翌日。
文晁は恵比寿屋に赴き、正直に恵比寿の暖簾を盗みに来た旨を伝える。不思議なことに、支配人からは来訪を感謝され、料理を供され、暖簾をもらい受けて帰宅した。
その暖簾を、文晁は表装して、根岸や恵比寿屋主人を招いて祝った。
その後、文晁は絵所改役となり、天保十二年、七十八歳で逝去した。
【しりたい】
円朝の「名人もの」
もちろん、谷文晁(谷文五郎、1763-1841)の全生涯を語ったものではありません。
三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が関心を持った逸話でつないでいるだけの噺です。
明治31年(1898)1月3日から中外商業新報(日本経済新聞の前身)に「小説」として9回にわたり連載されました。
「名人もの」とは、一芸に精通した人物が一途に生きる姿を描く、円朝作品群の一ジャンルです。
このジャンルには、「怪談乳房榎」に始まり、「荻の若葉」「名人競」「名人長二」などがあげられます。
「谷文晁の伝」もその流れの一角を構成します。
加藤文麗は大名ではない
円朝の噺には、加藤文麗(加藤泰都、1706-82、南画)は大名だったとあるのですが、これは事実とは異なります。
文麗は、伊予大洲藩第三代藩主、加藤泰恒の六男として生まれました。
同系統の旗本、加藤泰茂の養子となって家督を相続しました。
旗本としては3000石ですからそうとうな高禄でした。
旗本寄合席(大名と対等に話せる立場)となったのですから、まあ、大名クラスといってよいかもしれません。
西城御小姓組番頭→従五位下・伊予守に叙せられ、宝暦3年(1753)には職を辞しました。
文麗は若い頃から木挽町狩野家の狩野常信(周信)に学び、略筆墨画(省略して描く筆墨の絵)を得意としました。
谷文晁の父親、谷麓谷は加藤文麗と友達だったので、文晁は文麗に師事したのです。
文晁という雅号は、文麗からの偏諱(一字を授かる)だったのでしょう。
文麗の弟子には高田円乗(?-1809)がいて、円乗の弟子には菊池容斎(1788-1878)がいました。
わが身を文晁に重ねた円朝
全9回の語りものですので、全体に物足りなさは残ります。
この作品で円朝は、文晁の生き方を自分自身になぞらえているふしがうかがえます。
文麗没後の文晁は、江戸初期に活躍した狩野探幽に私淑しました。
円朝も二代目円生に師事しました。
こんな逸話が残っています。
初代古今亭志ん生(清吉、1809-1856、八丁荒らしの)が、円朝(当時は小円太)は二代目円生(尾形清治郎、1806-62、よつもくの)には過ぎたる弟子だと察し、古今亭に移るよう誘ったのですが、円朝は固辞したそうです。
円朝という人は、律儀で心やさしい人だったのですね。
幕末維新期の各派
ちなみに、この時代(幕末維新期)には、三遊派は人情噺、柳派は滑稽噺、林屋(四代目から林家)は怪談と、はなす領域が棲み分けられていました。おおざっぱですが。
古今亭、橘家、金原亭、司馬などは三遊派の系統。
麗々亭、春風亭などは柳派の系統。
筋目も明快でした。
桂派は上方ですが、江戸桂派というのもありました。
江戸桂派は「文治」が総帥の止め名で通っていますが、その歴史的な実態はよくわかっていないようです。