ひとめあがり【一目上がり】落語演目

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【どんな?】

讃、詩、語……。無知な男の厚顔ぶりを笑う噺。寄席では前座がやってます。

あらすじ

隠居の家に年始に来た熊五郎。

床の間の掛け軸に目を止め、もうちょっときれいなのを掛けたらどうですと文句をつけると
「この古いところに価値がある。汚いところに味わいと渋みがある。こうして眺めるのが楽しみなものだ」
とたしなめられる。

「へえ、道理で端の方がはげてて変だと思った。子供に壁土を食うのがいるが、それは虫のせいだね」
「なにが?」
「なめるって」
「なめるんじゃない。眺めるんだ」

笹っ葉の塩漬けのような絵が描いてあって、上に能書きが書いてある。

これは狩野探幽の絵で雪折り笹、下のは能書きではなく
「しなはるる だけは堪(こら)へよ 雪の竹」
という句を付けた芭蕉の讃だと教えられる。

掛け軸のほめ方ぐらい知らなくては人に笑われるから、こういうものを見たときは
「けっこうなな讃です」
とほめるよう教えられた熊、
「大家がしょっちゅう、ものを知らないとばかにしてしゃくだから、これから行ってひとつほめてくる」
と出かける。

「大家さんはしみったれだから掛け物なんぞないだろう」
とくさすと、
「ばか野郎。貧乏町内を預かっていても、これでも家守やもりだ。掛け物の一つや二つねえことがあるものか」
と大家。

大家が見せたのが根岸鵬斎ねぎしほうさいの詩の掛け軸。

近江きんこうの うぐいすは見がたし 遠樹えんじゅからすは見やすし」
とある。

金公きんこうが酒に当たって、源次のカカアが産をした」
「誰がそんなことを言うものか」

シだと言われて、サンしか知らない熊公、旗色が悪くなって退散。

「なるほど、絵と字の両方書いてあればサンシと言えばいいんだ」
と、今度は手習いの師匠の家へ。

「掛け軸を見せてくれ」
と頼むと、師匠が出したのが一休宗純いっきゅうそうじゅん

「仏は法を売り、末世まっせの僧は祖師そしを売る。なんじ五尺の身体を売って、一切衆生いっさいしゅじょう煩悩ぼんのうを安んず、柳は緑花は紅のいろいろか、池の面に夜な夜な月は通えども、水も濁さず、影も宿らず」
という長ったらしいもの。

「南無阿弥陀仏」
「まぜっ返しちゃいけない」
「こいつはどうもけっこうなシだ」
「いや、これは一休の語だ」

また新手が現れ、
「サイナラッ」
と逃げ出す。

「ばかばかしい。ひとつずつ上がっていきやがる。三から四、五だから今度は六だな」
と検討をつけ、半公の家へ。

ここのは、なにか大きな船に大勢乗っている絵。

「この上のは能書きか」
「能書きってやつがあるか。これは初春にはなくてはならねえものだ。上から読んでも下から読んでも読み声が同じだ。『なかきよの とおのねむりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな』。めでてえ歌だ」
「わかった。こいつは六だな」
「ばかいえ。七福神の宝船だ」

しりたい

センスあふれる前座噺

全編ダジャレ。

といえば、それまでですが、讃、詩、語という掛け軸の書画に付き物の文辞ぶんじを、同音の数字と対応させ、今度はどうにもしゃれようがない「六」でどうするのかと、冷やかし半分に聞いている見物をさっとすかして同じ掛け軸の「七福神」とあざやかに落とすあたり、非凡な知性とセンスがうかがえます。

この噺の作者は、ただ者ではありません。

前座の口慣らしの噺とされながらも、五代目古今亭志ん生、五代目柳家小さんのような名だたる大真打ちが好んで手掛けていました。なるほど、うなずけます。

加えて、書画骨董や詩文の知識が、庶民の間でも不可欠な教養、たしなみとされていた時代の、文化レベルの高さ。つくづくため息が漏れます。

入れごとは自由自在

軽快なテンポと洒落のセンスだけで聞かせる噺で、伸縮自在なので、いろいろな入れごとやくすぐりも自由に作れます。

たとえば、七福神から、「八」を抜かして「芭蕉の句(=九)だ」と落とすこともあります。

この噺の原話の一つ、安永4年(1775)刊の『聞童子きくどうじカナ』(小松屋百亀こまつやひゃっき著)中の小ばなし「掛物かけもの」では、「七」は「質(札)でござる」とサゲ(オチ)ています。

同じく文化5年(1808)刊『玉尽一九噺たまづくしいっくばなし』(十南斎一九となんさいいっく著)中の「品玉しなだま」では、質=七の字を分解し、「十一」(十一屋=といちや=質屋の別称)まで飛んで終わっています。

こんなふうに、調子よくとんとんと落とすオチの型を「とんとん落ち」と呼んでいます。

讃、詩、語

讃は書画に添える短いことばで、この噺のように俳句などが多く用いられます。

詩はもちろん漢詩。これも掛け軸や襖の装飾の定番です。

語は格言や、高僧の金言など。一休の語にある「柳は緑花は紅」は禅語で、『禅林類聚ぜんりんるいじゅう』(道泰どうたい著、1631年刊が有名)などにある成句です。万物をありのままにとらえる哲学で、夏目漱石も座右の銘としました。

クレージーキャッツの「学生節」の歌詞にもありました。

回文歌と宝船

長き夜の 遠の睡りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな

前から読んでも後ろから読んでも同じ音になって、なおかつ意味が通じる文を「回文かいぶん」といいます。

歌の形をとっているものを「回文歌」と呼びます。

正月の宝船の絵に添える紋切り型でした。

少し詳しく説明しましょう。

正月2日夜、または3日夜のおもしろい風習です。

「宝船」というのがありました。

紙に回文歌と七福神が乗た帆掛け船が刷られた一枚の紙っぺらのことです。

この「宝船」を枕の下に差し込み回文歌を三度詠んで寝ると吉夢を見られる、という風習があります。

歌を詠じながら千代紙や折り紙などに歌を記し、その紙を帆掛け船の形に折って(「宝船」と同じ効果が期待されます)、枕の下に差し込むと吉夢が見られる、ともいわれていました。

悪い夢を見た場合には、枕の下の「宝船」を川に流すことで邪気を払って縁起直しをしたそうです。

江戸では、暮れになると「お宝、お宝」と声を掛けて「宝船」を売り歩く「宝船売り」がいました。

専業ではなく、このときだけやる、にわかの商売です。

回文歌については、ほかにもいくつかの例をあげておきましょう。

いずれも室町時代にできたものです。

村草に くさの名はもし 具はらは なそしも花の 咲くに咲くらむ

惜しめとも ついにいつもと 行く春は 悔ゆともついに いつもとめしを

それにしても、「かな」というものは、漢字の補助的な文字ということがよくわかります。

狩野探幽

狩野探幽かのうたんゆう(1602-74)は江戸前期の絵師で、鍛冶橋かじばし狩野派の祖。幕府御用絵師で、江戸城紅葉山天井の龍、芝増上寺安国殿、金剛峯寺金堂の壁画などで知られます。

熱心な法華(日蓮宗)信徒だったことでも有名です。

根岸鵬斎

根岸鵬斎とは、儒学者・漢詩人の亀田鵬斎かめだほうさい(1752-1826)のこと。根岸に住んだので、この別称があります。

その書は名高く、永井荷風が敬愛した、江戸文人のシンボルのような粋人でもありました。



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たにぶんちょうのでん【谷文晁の伝】落語演目

  成城石井.com  ことば 演目  千字寄席 円朝作品

【どんな?】

江戸後期の南画(文人画)家、谷文晁たにぶんちょうのはなし。

円朝噺。名をなした頃からの逸話で構成した、お得意の「名人もの」です。

【あらすじ】

谷文晁は、伊予いよ大洲おおず藩の大名、加藤文麗に師事してきた。

文麗の死後は師匠につかず、狩野探幽だけを崇拝してひとえに精進する。

ある日。

札差の伊勢屋が酒井抱一ほういつと文晁に筑波山と富士山の屏風絵を依頼。抱一は飲酒三昧で筆をとらず。文晁はすぐに描いた。

伊勢屋からの謝礼全額で、文晁は金粉を買いりっぱな屏風に仕上げた。

町奉行の根岸鎮衛やすもりの注文では、蛭子大黒えびすだいこくの双幅を納めた。

その折、根岸から蛭子講の由来を教えられた。文晁は蛭子を祀り蛭子講を催したくなった。それが昂じて、呉服屋恵比寿屋の暖簾のれんがほしくなった。根岸に胸の内を明かすと、根岸は「盗め」と言う。

翌日。

文晁は恵比寿屋に赴き、正直に恵比寿の暖簾を盗みに来た旨を伝える。不思議なことに、支配人からは来訪を感謝され、料理を供され、暖簾をもらい受けて帰宅した。

その暖簾を、文晁は表装して、根岸や恵比寿屋主人を招いて祝った。

その後、文晁は絵所改役となり、天保十二年、七十八歳で逝去した。

石山寺縁起絵巻第六巻部分 谷文晁筆

【しりたい】

円朝の「名人もの」

もちろん、谷文晁(谷文五郎、1763-1841)の全生涯を語ったものではありません。

三遊亭円朝(出淵次郎吉、1839-1900)が関心を持った逸話でつないでいるだけの噺です。

明治31年(1898)1月3日から中外商業新報(日本経済新聞の前身)に「小説」として9回にわたり連載されました。

「名人もの」とは、一芸に精通した人物が一途に生きる姿を描く、円朝作品群の一ジャンルです。

このジャンルには、「怪談乳房榎」に始まり、「荻の若葉」「名人競」「名人長二」などがあげられます。

「谷文晁の伝」もその流れの一角を構成します。

加藤文麗は大名ではない

円朝の噺には、加藤文麗(加藤泰都、1706-82、南画)は大名だったとあるのですが、これは事実とは異なります。

文麗は、伊予大洲藩第三代藩主、加藤泰恒の六男として生まれました。

同系統の旗本、加藤泰茂の養子となって家督を相続しました。

旗本としては3000石ですからそうとうな高禄でした。

旗本寄合席(大名と対等に話せる立場)となったのですから、まあ、大名クラスといってよいかもしれません。

西城御小姓組番頭→従五位下・伊予守に叙せられ、宝暦3年(1753)には職を辞しました。

文麗は若い頃から木挽町狩野家こびきちょうかのうけの狩野常信(周信)に学び、略筆墨画(省略して描く筆墨の絵)を得意としました。

谷文晁の父親、谷麓谷たにろっこくは加藤文麗と友達だったので、文晁は文麗に師事したのです。

文晁という雅号は、文麗からの偏諱へんき(一字を授かる)だったのでしょう。

文麗の弟子には高田円乗(?-1809)がいて、円乗の弟子には菊池容斎きくちようさい(1788-1878)がいました。

加藤文麗

わが身を文晁に重ねた円朝

全9回の語りものですので、全体に物足りなさは残ります。

この作品で円朝は、文晁の生き方を自分自身になぞらえているふしがうかがえます。

文麗没後の文晁は、江戸初期に活躍した狩野探幽に私淑しました。

円朝も二代目円生に師事しました。

こんな逸話が残っています。

初代古今亭志ん生(清吉、1809-1856、八丁荒らしの)が、円朝(当時は小円太)は二代目円生(尾形清治郎、1806-62、よつもくの)には過ぎたる弟子だと察し、古今亭に移るよう誘ったのですが、円朝は固辞したそうです。

円朝という人は、律儀で心やさしい人だったのですね。

幕末維新期の各派

ちなみに、この時代(幕末維新期)には、三遊派は人情噺、柳派は滑稽噺、林屋(四代目から林家)は怪談と、はなす領域が棲み分けられていました。おおざっぱですが。

古今亭、橘家、金原亭、司馬などは三遊派の系統。

麗々亭、春風亭などは柳派の系統。

筋目も明快でした。

桂派は上方ですが、江戸桂派というのもありました。

江戸桂派は「文治」が総帥の止め名で通っていますが、その歴史的な実態はよくわかっていないようです。

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