【立花隆が傾けた「カク」二つ】

たちばなたかしがかたむけたかくふたつ

成城石井

立花隆の本名は橘隆志です。レスラーではありません。N党とも関係なし。

立花隆は、日本のジャーナリストの到達点です。

20歳のとき、初めて渡欧しました。

昭和35年(1960)4月6日から10月12日まで。約半年。長旅でした。

長崎医科大病院で生まれたからか、その頃の彼は「核」に強い関心がありました。広島で開かれた原水爆禁止大会では外国人に片っ端から名刺を配ってまわりました。

ある日、ロンドンで開かれる「第1回学生青年核軍縮国際会議」の招待状が彼の元に。うれしい知らせでした。

でも、東大2年の彼には渡航費がありません。その頃の東大生は、いまと違ってビンボーだったようです。

同窓の駒井洋(後に筑波大教授、社会学)といっしょに、東大の茅誠司総長(当時)に掛け合いました。茅は核の平和利用指導者です。二人の熱意を察した茅は、その場で読売新聞の正力松太郎社長(当時)に電話。正力は原発の推進者ですが、渡航費は全額、読売がもつことに。太っ腹です。

核の推進者が核の反対者を援助する。うるわしくもおおらかな日本でした。

現地のルポを逐一送ること。それが条件でした。

こうして両君は、まだ見ぬ欧州の地に飛び立っていったのです。

ところが、結果はさんざん。

西欧各国では、被爆の悲劇などに誰も理解してくれませんでした。

「原爆を落とされたから日本は降伏したんだろう。大戦終結に原爆は役立ったじゃないか」

西洋人の日本認識はそんなものでした。一瞬に20万人が逝ってしまったことなど、彼らにはどうでもよいのです。

2人は、持参した4本の映画を51回にわたって各地で上映し、原水爆の恐ろしさとその禁止を訴えたのですが、芳しい結果は得られませんでした。

なんとも消化不良のまま、オランダの貨物船ジッセンカーク号で名古屋港に帰ってきたのです。秋でした。

そんな顛末が、1960年10月12日付読売新聞夕刊のコラム「話の港」に載っています。

ということは、この2人、東大生ながらも、1960年6月15日に起こった安保の悲劇には遭遇しなかったことになります。

よかったのか悪かったのか。

田中角栄、テルアビブ、宇宙体験、脳死、臨死、サル学、東大、香月泰男、武満徹……。

立花の登場で、日本のジャーナリズムの可能性は変わりました。

ダイナミックなスケールで、緻密かつ周到な仕上げわざ。これまでにないジャーナリズムの可能性が、「立花砲」にはありました。

そんな仕事ができたのは、ひょっとして、あの事件に寸毫かかわらなかったことが幸いしたのかもしれません。

それと、晩年は。

フクイチの事故が起こっても核について言及することはありませんでした。本人は勉強不足を理由にして固辞していましたが、彼が書かない理由はたんに関心がそれていたからなのでしょう。も、彼にはもう、どうでもよかったのかもしれません。

宿題だった「武満徹」の本を出せたことで、もう安堵してあっちへ行けると踏んだのだと思います。うっかり「あっちへ行ける」と書きましたが、彼はいちおう無神論者ですから、「消えてなくなる」が適当かもしれません。

今では、立花隆といえば「知の巨人」と称されています。

こんなこっぱずかしいかんむりを、誰が言い出したのでしょう。

平成8年(1996)の頃には、彼自身、自分の職業は「勉強屋だ」と言っていました。

そんなところじゃないでしょうか。知りたいことをとことん知る。勉強屋のいわれはそんなところにあったはずです。

「知の巨人」とは、およそベクトルが違います。

私が彼を評価するとしたら、立花隆は最高のメディア(媒介)だった、ということです。

専門家の功績を、とりわけ理系の話題を普通の言葉に言い換えて、われわれにわかりやすく説明してくれる人、それが立花隆だったのです。

まさに勉強屋の所業、ジャーナリストの本分です。

彼を超える媒介者(メディア)は日本中どこにも見当たらなかったでしょうし、今も見つからないように見えます。まともなジャーナリスト、垂涎の的です。

さて。

その後の立花隆と読売新聞のかかわりは、といえば、恥ずかしいくらいさんざんでした。プロになった彼は、読売に一度も寄稿していません。異常です。

ならば、落語とのかかわりはどうか。「橘」「立花」を冠する噺家は何人かいるのですが。「立花家たかし」なんていうのはいるわけありませんね。

立花隆と落語。うーん、こっちもさんざんでした。都立上野高校に通っていたというのに、鈴本演芸場や本牧亭に一度も足を運ばなかったのでしょうか。こちらはこちらで、ちょっとした異常です。

2021年7月8日 古木優

成城石井

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