【長崎の赤飯】ながさきのこわめし 落語演目 あらすじ
【どんな?】
上方の人情噺。
突拍子もないこと。
「長崎の赤飯」といいます。
別題:上方芝居(上方)
【あらすじ】
日本橋金吹町の質両替商、金田屋金左衛門。
勘当した一人息子の金次郎はどこでどうしていることかともらすと、女房の許には季節の変わり目に手紙が届いている、という。
女房の言うことには、金左衛門が勘当するや、伊勢の弥左衛門の家に預けたとか。
弥左衛門が商用で長崎に赴いた折に同行した金次郎、回船問屋・長者屋の娘お園に見初められ身を固めたとのこと。
それをきいた金左衛門、番頭の久兵衛に「おとっつぁん、一生の大病」と、手紙を書かせる。
開封した金次郎は身重のお園を気にしながらも急ぎ長崎をたった。
わが家に戻った金次郎の姿を見て、金左衛門夫婦は大喜びだが、またも長崎に行かれては寂しいので、久兵衛と画策。
八丁堀岡崎町の町方取締与力、渡辺喜平次の娘おいちと添わせるべく手はずを整えた。婚礼が近づいた日、身重のお園が物乞いの姿に身をやつして現れる。
これは女一人で江戸までの旅路も物乞い姿なら遂げやすかろうということから。
金左衛門も久兵衛もヒキガエルの化け物のようななりのお園に驚き、金次郎は死んだ、と告げる。
落胆するお園。
そこへ金次郎が帰ってきた。
金左衛門らの不実にまたも落胆するお園だが、身繕いをし、支度を整えれば元の美しい姿に。金左衛門もこの娘なら嫁に許そうという気にころりと変わった。
そこへ喜平次が訪ね、お園を連れ去ってしまう。
金左衛門は、
「おいちさまをひとまずもらいなさい。その間に手を回してお園さんを返してもらい、家風が合わないといっておいちさまを出せばいい」
婚礼の晩。
現れた花嫁はおいちではなく、お園だった。
金左衛門は
「こりゃどうも。お料理が粗末でいけないからすぐ取り換えて」
関所破りを改めようとしたが、お園の思いが強いことを知った喜平次のはからいで、このような具合に。
おいちはかねて望みの尼になる。
お園は男子を産み、金太郎と名付けた。
この子に長者屋を継がせ、金次郎は金田屋を相続。
金太郎の初節句に、十軒店から人形を買って長崎に送ると、長崎から赤飯が返礼に届いた。
底本:六代目三遊亭円生
【しりたい】
二つの系統
原話は井原西鶴の作品といわれますが、未確認です。
上方落語として文化年間(1804-18)から口演された古い噺で、明治期に五代目金原亭馬生(1864-1946)が東京に移植したものです。
馬生は大阪出身で、副業に玩具屋をやっていたため「おもちゃ屋の馬生」とあだ名されました。
この噺は系統が二つあります。一つの系統はこの「長崎の赤飯」。
五代目馬生直伝で、六代目三遊亭円生が一手専売で演じ、円生在世中は当人も言っていますが、ほかには誰も演じ手はありませんでした。
その円生没後、弟子の円窓に継承されたものの、ほとんどすたれていました。
その後、鈴々舎馬桜ほかが高座に掛け、若手も手掛けるようになって、ようやく復活をみています。
別の系統は、八代目林家正蔵(彦六)が演じた「上方芝居」です。
これは、前半、女が老けづくりをし、物乞いに変装して若だんなに会いに来るところが「長崎の赤飯」と共通しています。
ルーツは同じと思われますが、いつ枝分かれし、誰が脚色して改作したかは不明です。
大阪で演じられた形跡はなく、明治期では、四代目橘家円喬、初代三遊亭円右と、円朝門の名人が得意にしました。
二人と同門の三遊一朝老人から、八代目正蔵(彦六)が若き日に教わり、晩年、時々高座に掛けました。
もっとも、こちらは、発端とオチはまったく違っていて、女は若だんなが上方見物に行ったとき、芝居小屋でけんかした相手との手打ちの座敷に出た、春吉という芸妓という設定です。
二人は親に無断で夫婦約束をしますが、若だんなが江戸へ帰ってから音沙汰がないので、春吉はしびれを切らして出てきます。
ところが、若だんなは奥州へ行って留守なので、仕方なく死んだことにし、麻布絶口木蓮寺に墓があると偽って、小春を連れて行きます。
オチは「お見立て」と同じで、「どれでも好きなの(墓石)を選んでください」となっています。
初代円右はこれをさらに怪談仕立てに変え、春吉がニセの墓前で自害、のちに化けて出ることにしたので、「長崎の強飯」とはますます違った噺になりました。
長崎のこわめし
オチは、江戸の古い慣用表現で、突拍子もないことを言うと「長崎から赤飯が来る」などと言いました。
同じ意味で「天竺から古ふんどしが来る」とも。
ありえない話の意味から転じて、「気長な」「間延びしたこと」のたとえにも使われました。
この噺のオチのニュアンスでは、後者の方を効かせているのでしょう。
「こわめし」は今の「おこわ」の語源で、もち米で炊いた冠婚葬祭用の飯のことです。
日本橋金吹町
にほんばしかなぶきちょう。中央区本石町三丁目の内。日銀本店の真向かいあたりです。
元禄(1688-1704)以前に、この地に金座が置かれていたことから、起こった町名といわれます。
当時は文字通り「かねふきちょう」と読んだとか。
元禄年間、金座はすぐ南の今の日銀の位置に移り、明治維新に至りました。